明らけく 照らさむこの世 後の世も

 目覚めて最初に見たのは、真っ白い天井だった。
 特にこれといった特徴がある訳ではないけれど、目にした瞬間、自分がどこにいるか分かった。
 それくらい見慣れてしまったと、そういうことだろう。あまり褒められた事ではなくて、自虐的な笑みを浮かべていたら、どこからともなく衣擦れの音が聞こえた。
「起きたか」
「ごめん。迷惑かけた」
 それ以外にも何か、歌声らしきものもある。ただメディカルルームらしからぬリズムであり、立香は無意識に、その音色を思考から除外した。
 若干呆れ混じりの低い声に応じ、起き上がろうと被せられていた厚手の布を退かす。しかし頭の中で展開させた行動と、実際に肉体が起こしたアクションは、随分と乖離していた。
 関節が軋んで、熱を帯びて痛い。吐き出そうとした息は喉の手前で突如爆発し、周辺一帯を焼き焦がした。
「うう」
 堪らず呻き、立香はベッドに戻った。僅かに浮かせた頭を枕に沈め、汗ばんだシーツを指先で引っ掻いた。
 無数の皺を一度に握り締め、荒い息を吐き、瞳に馴染んでしまった天井を仰ぐ。
 生理的な涙で潤んだ眼差しを傍らに投げれば、腕組みをしたアスクレピオスがため息を吐いた。
「倒れた時の状況は、覚えているか」
「え、と……あんまり」
「愚患者めが」
 小首を傾げながら訊ねられ、どこかぼんやりしている記憶を漁るけれど、此処に運ばれる前はどこに居たかすら、思い出せなかった。
 ダ・ヴィンチやホームズを交えて今後の方針を話し合い、意見を求められた。上手く言葉に出来ず、悩んでいるうちに当初予定していた時間が過ぎて、新所長に愚痴を言われながら、場は一旦解散となった。
 それから気晴らしを兼ねてトレーニングルームに行って、自室に戻る前に飲み物を確保しようと食堂に向かって。
「ごめん。心配かけた」
 暗転した視界を掌で覆い、声を絞り出す。
 反省と謝罪を受け入れた医神は小さく肩を竦め、ベッドに寝転がる立香の頭を軽く撫でた。
 案外大きな掌はそのまま黒髪を押し潰し、後頭部を抱き込んだ。彼の意図を察して、立香も膝を軽く曲げ、腹に力を込めた。
 補助を受けて起き上がり、膝を抱えるようにして座った。即座に差し出されたのは、コップに入った水と、白い錠剤だった。
「謝るべきは、僕にじゃないからな」
「うん。分かってる」
 渡されたものを口に含み、疑いもせずに飲み込んだ。一度噎せかけたが我慢して、喉の痛みを冷やすべく、コップの中身を飲み干した。
 身体は思ったほど餓えていない。渇きもさほど酷く無かった。
 眠っている間、アスクレピオスがなんらかの処置を施してくれたのだろう。そう思うことにして、立香は幾分楽になった体躯を揺らした。
 きっとマシュや、カルデアのスタッフ、サーヴァントの皆々も、心配しているだろう。早く元気な姿を見せて安心させてやりたくて、ベッドから降りようとしたのだけれど。
「まだ動くんじゃない」
 頭を上下に振った途端、くらっと来た。
 そのまま前のめりに倒れそうになって、すんでの所でアスクレピオスが支えてくれた。
 彼の腕がなかったら、床に落ちていた。一瞬気が遠くなり、魂が身体から抜け出す錯覚を抱かされた。
「ごめん」
 促されてベッドに戻り、再び横になった。アスクレピオスは空になったコップを片付けるべく場を離れ、ひとりになったところで、立香は先ほどから断続的に聞こえる音楽に眉を顰めた。
 軽快なメロディが、乾いた鼓膜をすり抜けて行く。あまりにも場に似つかわしくない歌声は、確かにメディカルルームの中から響いていた。
 不快にならない程度の音量で、密やかに。しかし意識すればするほど、激しく脳みそを揺さぶられた。
 時に静かで、時に荒々しいリズムは、女性の時もあれば、男性の時もあった。ソロ、デュエット、コーラス、色々な音楽が次々に、間断なく続いた。
「アスクレピオス、これ」
「ああ。直流だか、交流だか騒がしい連中が置いていった。ここは静か過ぎて、逆に病気になりそうだと言ってな」
 視界を巡らせれば、確かにそれらしき機器が追加されていた。立香の枕元、腕を伸ばせばぎりぎり届きそうな棚の上に、それはあった。
 横に長く、ちょっとしたスポーツバッグくらいの大きさだ。方形で、左右に細かな穴が開けられた丸いプレートが取り付けられている。どうやらそれが、スピーカーの役目を果たしているようだ。
 中央部にはやはり横長のパネルが取り付けられ、操作に使うボタンの類は上部に。ただ立香には、機器のほぼ真ん中に陣取る四角いパネルがどんな意味を持つのか、分からなかった。
「変な形」
 音楽を聴くには、あまりに大きすぎる。持ち運びに使うハンドルが取り付けられているけれど、これを抱えて歩き回るのは大変そうだ。
「獅子頭の男は、自信作だと言っていたが」
「そう? あ、思ったよりも薄いんだ。これは……モニターになってるのかな」
 大人しくしているよう命じられたが、気になって、立香は半身を起こした。寝返りを打ち、ミュージックプレイヤーを引き寄せれば、見た目ほど重くなかった。
 黒と銀色で統一されて、角張ったデザインは古めかしい。ただ使われているパーツは最新鋭のものばかりで、正体不明の四角いフレームは、液晶モニターとして機能した。
 試しに指で触れてみれば、収録されている曲名や、歌手名が、ずらっと一覧で表示された。
「知らない歌手ばっかりだ」
 狭い画面を埋めるアルファベットを順に眺めるけれど、残念ながら知っている曲名はひとつも見当たらない。ただ遠い昔にテレビか、親の会話で聞いた気がする名前を発見し、押してみれば、ポップ調だった曲が突如終わり、別の曲に切り替わった。
「そっか、こうするんだ」
 操作方法の説明はなかったけれど、概ね理解した。少し楽しくなって、鼻息を荒くしてベッドに座り込んでいたら、二度目の溜め息と共に、アスクレピオスに水を差し出された。
 叱られはしなかった。呆れた顔をしているけれど、立香の調子が戻って来ていると知って、口出しは控えたらしい。
「音楽療法か。考えもしなかったが、確かに、精神を安定させる一助にはなるかもしれない」
 初めての機械に興奮しているだけなのに、彼の思考は相変わらず、医療に大きく傾いている。
 今度は立香が苦笑して、流れて来た優しい歌声に耳を傾けた。
 英語だけれど、歌詞は聴き取りやすい。男性の声にギター、ピアノの音色が重なり、そこに複数のコーラスが深みを与えていた。同性でも聞き惚れてしまう甘い声は丁寧に言葉を紡ぎ、聞く者達に優しく語りかけているようだった。
「Milky White Way……エルビス・プレスリー……オレが生まれる前の人だ」
 画面を次々タッチしていけば、歌詞や、歌手についての情報まで次々に出てきた。データに記録されていた画像はモノクロで、時代がかった衣装を身に着けた男性は、すらっとしてハンサムだった。
 歌声は神に捧げられ、曲自体はそれほど長くない。ただ翻訳された歌詞は、立香にとってピンと来ないものだった。
「そちらの神は、人間に寄り添えるだけの分別を有しているらしいな」
「ん?」
 一読しただけでは理解出来ず、調べている間はずっと同じ曲がリピートされる。
 だからだろうか、アスクレピオスは不意に言った。
 ギリシャ神話に由来する、人と神の合いの子。自由奔放なアポロン神に誕生前から振り回され、大神ゼウスの雷霆によって生涯を終えた男。
 その境涯からすれば、真摯で、一途に神への愛情を表現するこの歌は、立香とは別の意味で理解し難いはずだ。
「ゼウスも、ハデスも、死んだ人間から苦しみを訴えられたところで、困るだけだろうからな」
「あははは」
 大仰に肩を竦めながら吐き捨てられて、立香は思わず笑った。肩を小刻みに震わせて、美しいけれどどこか哀しいメロディに耳を傾けた。
 モニターに表示されていた文章を消し、俯いて、目を閉じる。
 渡されたコップを両手で抱いて、静かに、ただ呼吸だけを繰り返していたら、急に硬いベッドが撓み、軋んだ。
「うわ」
 薄いマットレットが波打って、強引なやり方で瞑想を邪魔された。振り向けばアスクレピオスが、腕を組み、右を上に脚まで組んで、簡素なベッドに腰かけていた。
「どうしたの」
「死んでから神にあれこれ言ったところで、とうに死んでいるんだ。どうにかなる筈がないだろうに」
 それは立香の問いに対する返答であり、彼の独り言だった。
 何故かは分からないが、憤っている。果たして怒りの矛先は、エジソンがチョイスした曲に対してか、それとも別の誰かに対してか。
 眉を顰めて考えても、結論は導き出せなかった。
「人間は、生きてこそだろう。でなければ、語る口は閉ざされる」
 医者として、人として、彼はずっと人類史に寄り添って来た。
 神という存在は、彼にとって受け入れがたいものかもしれない。ただ時に、人がそれを必要とするのには、理解を示している。
 その上で、彼は怒りを隠さなかった。
「……アスクレピオスらしいなあ」
 ひとり勝手に煙を噴いている彼に目を細め、立香はグラスに付着した水滴を拭った。指先を湿らせ、ガラスに貼り付く感触を楽しんだ。
 再び瞼を伏して、ミーティングでのやり取りを振り返る。
 あの時飲み込んだ言葉や、思いや、願いや、後悔は。
 死後に懺悔する為に、この胸に貯め込んでいるわけではない。
「ねえ、アスクレピオス。聞いてもらっても良いかな」
 幾分温くなった水を煽り、立香は背筋を伸ばした。新しい曲が始まったミュージックプレイヤーを傍らに置いて、ベッドの上で座り直した。
「言ってみろ。時間なら、いくらでもある」
 頼まれたアスクレピオスは不遜に言って、立ち上がった。真正面から向き合えるように椅子を用意して、神ではなく、英霊でもなく、立香と同じ『人』の顔をして、相談を持ちかけて来た患者に目尻を下げた。

明らけく照らさむこの世後の世も 光を見する露や消えなん
風葉和歌集 451