たとえば、ある朝食後の出来事として

 隣のテーブルで、小さなサイコロが天を舞った。くるくる回転しながら落ちたそれは、幾度か跳ねて、とある数字を上にして停止した。
 余程良い目が出たのだろう、頬を紅潮させた男が舌なめずりして手を伸ばした。掴んだ駒を意気揚々と六つも進めて、到達したマスを覗き込んだ。
 そこには指示が書かれている。特定のマスに駒を進めたプレイヤーは、何か特別なことをしなければならない。それが彼らの興じている、ボードゲームのルールだった。
「すまない、フジマル。これは、どういう意味なんだろう?」
「えーっと、どれどれ?」
 ただ記されている文章が、上手く理解出来なかったようだ。
 短い文面を繰り返し読んでも分からないと、キリシュタリア・ヴォーダイムはお手上げとばかりに両手を挙げた。
 白旗を振られて、彼の斜め向かいにいた青年が腰を浮かせた。椅子を僅かに後ろに引いて、身を乗り出して盤面を覗き込んだ。
「なになに。あー、キリシュ、残念。ふたマス戻る、だよ」
「戻らないといけないのか? どうして?」
 両手をテーブルに衝き立て、居並ぶ駒を倒さないよう注意しつつ、藤丸立香が肩を竦める。途端に納得がいかないと、キリシュタリアが食いついた。
 折角いの一番にゴールを目指せる場所に陣取ったのに、これでは先にサイコロを振ったペペロンチーノに追い抜かれてしまう。
 そんなオレンジ色の駒を自軍として使用する男は、悔しげに拳を作ったキリシュタリアと、苦笑する藤丸とを見比べ、堪えきれないのかクスクス笑みを漏らした。
「こんなところで揉めないの。キリシュタリア、それがこのゲームのルールなんだから」
 左手をひらひら揺らしながら諭して、勝手に黄色の、キリシュタリアの駒を動かしてしまう。
 容赦なく二マス戻された男は口惜しげに唇を噛んだ後、諦めたのか椅子に深く座り直した。
 怒りを抑え、飲み込んだ彼に安堵して、藤丸も席に戻った。背凭れを掴んで引き寄せて、今度は自分の番だと、サイコロを抓んだ。
 そして。
「カドックもやる?」
 不意にこちらを見て、急に声を高くした。
 背筋を伸ばし、朗らかな笑顔を浮かべていた。サイコロを掌で遊ばせながらも、返事を待っているのか、一向に転がそうとしない。
「は?」
 水を向けられた当人は唖然として、目を点にした。頬杖突いていた顎を僅かに浮かせて、惚けたまま瞬きを二度、三度と繰り返した。
 双六を取り囲んでいた男たちも、彼の言葉に触発され、一斉にカドックを見た。ペペロンチーノはちょっと意外そうに藤丸にも視線をやって、キリシュタリアは嗚呼、と鷹揚に頷いた。
「そうだね。人数は、多い方が良い」
「まあ、さっきからずーっと、こっち見てたし。興味あるんなら、良いんじゃない?」
「じゃあ、カドックの駒は、どれにしようかな。赤にする? それとも緑?」
「待て。勝手に参加者に加えるんじゃない」
 気がつけば、ゲームに参加する前提で話が進められていた。まだ何も言っていないのに、決めつけられて、藤丸などはゲームに使う小道具を入れた小箱をガサゴソ漁っていた。
 出てきたプラスチック製の駒は、頭でっかちな人間の形を模していた。他にも特定のマスで使えるようになるらしい、車や、飛行機といった乗り物を模したものもあった。
 それらは藤丸が、倉庫の片隅で見付けて来たという代物だった。
 既に退職した職員が残していったものらしい。外箱はかなり傷んでいたが、中身は無事だったと、彼は朝食の席で興奮しながら喋っていた。
 その流れで、キリシュタリアやペペロンチーノと、一戦交えることになったようだ。
 カドックは一連のやり取りを、彼らとは別のテーブルで、のそのそ食事をしながら聞いていた。
 それだけだ。混じりたいとは一度も思っていない。変なことをしているなと、感想を求められたら間違いなくそう答えた。
 今も飲み終えたコーヒーを片付け、部屋に帰ろうか、どうしようか悩んでいたところだ。隣のテーブルを眺めていたのは、単に騒がしかったからだ。
 実際、彼らを遠巻きに見ていた人間は、それなりの数になる。ここは食堂だ。食事を済ませても雑談に興じて、なかなか席を譲らない連中は山ほどいた。
 その中で自分だけが彼らに選ばれ、声を掛けられた、という驕りは一切持たない。むしろ迷惑だ。またこいつらに巻き込まれるのは御免だと、頭の片隅で警報が鳴り響いていた。
「僕はやらないぞ、そんなもの」
「ええー、良いじゃない。暇潰しには最適よ」
「僕は暇じゃない」
「そうか。では昨日の課題に取り組むんだね。さすがはカドック、熱心だ」
「あれは、ヴォーダイム。お前がさっさと論理演算を終わらせて、ひと通り仮説が出そろってるだろうが。嫌味か」
 胸の前で横薙ぎに腕を払い、拒否を表明するが、諦めて貰えない。
 話しているうちに段々苛々してきて、いっそ問答無用で立ち去ってやろうかと思い始めた矢先だ。
 手元に集中していた藤丸が、唐突に顔を上げ、笑った。
「うーん、やっぱりカドックは、白かな」
「そこ! 僕の髪は白髪じゃないぞ、藤丸!」
 両手に掲げ持った人形は、白色。ただし手垢が付いて、ほんの少し黒ずんでいた。
 彼がどうしてそれを手に取ったのか、理由がつぶさに読み取れた。思わず椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、噛みついたカドックに、食堂は一瞬騒然となった。
 それなりに広い空間全体に響き渡る怒号をぶつけられ、藤丸はぽかんとしていた。カドック自身もまさかここまで大きな声が出るとは思っていなくて、吼え終えてからハッとなり、気まずさから顔を逸らした。
 出した手を引っ込めることも出来ず、自然と赤くなる頬を隠して俯いていたら。
「煤けているのは可哀相だから、拭いてあげようか。貸してごらん、藤丸」
「おい、待て。どういう意味だ、ヴォーダイム」
 弁解を探している男を捨て置き、話は一方的に進んでいった。
 胸ポケットからハンカチを取り出したキリシュタリアに、藤丸は素直に応じて白色の駒を引き渡した。それがまるで、自分自身が哀れみを受けた気分になって、カドックはつい反発心を抱いた。
 そういう気遣いは嬉しくなくて、妨害すべく隣のテーブルに足を向けた。背後から駒の首を掴んで奪い取れば、椅子の上で仰け反った男が嬉しそうに破顔一笑した。
「じゃあ、カドックは藤丸の次に、サイコロを振ってくれ」
「くそっ」
 自分から歩み寄ってしまった所為で、必然的に参加者にカウントされた。
 良い具合に踊らされた気分で悪態をついたが、左手はごく自然と、無人の椅子の背凭れを掴んでいた。
 床を削りながら引き摺り、隙間を作って、どっかり座って駒を掌に転がす。
 盤上に視線を巡らせれば、スタートらしき大きめのマスに、青色の人形がひとつ、置かれていた。
 どうやらこれが、藤丸の分身らしかった。
「青、なのか」
「ふふっ」
 よく晴れた空と同じ色に目を留めていたら、ペペロンチーノが不意に笑った。頬杖をつき、唇に小指の先を引っかけて、意味ありげな眼差しを投げて来た。
「……なんだよ」
 青色の駒を軽く押し退け、空間を広げて、そこに白い駒を置く。
 隣から刺さるような視線を感じたが無視していたら、ペペロンチーノが再度、斜向かいからいやらしい目線を送り付けて来た。
「誰の影響かしらねえ」
 そうしていきなり言われて、目が点になった。
「なんだって?」
「以前のカドックなら、なにも言わずに帰っちゃいそうなのに」
「そうした方が良かったんなら、そうしてやるよ」
 呆気にとられていたら、数ヶ月前の自身を引き合いに出された。
 確かにその通りかもしれないと認めつつ、椅子に尻が貼り付いたように動けないでいる自分を、否応なしに意識させられた。
「ええ、カドックも一緒にやろうよ。やるよね?」
「そうだとも、カドック。どちらが早くゴールに辿り着けるか、勝負といこうじゃないか」
「……ヴォーダイム。お前、そういう事言うキャラだったか?」
「あらあら。そっちも、誰かさんの影響が出ちゃってるみたい。良い事だわ」
 向かい側からは懇願に近い訴えが投げかけられ、横からは急にライバル心を剥き出しにした発言が聞かれた。
 思えばカルデアに招聘された直後は、チームでの活動が義務づけられている時以外、ほとんどひとりで過ごしていた。
 その頃と比べたら、まさかBチームの最底辺の男も交え、こんな風にボードゲームを囲う日が来るなど、夢にも思わなかった。
 誰の影響かと言われたら、ひとりしか思いつかない。
「なに?」
 元凶たる男をちらりと窺えば、目が合った。
 力みのない、隙だらけの顔で首を傾げられて、カドックは反射的に舌打ちした。
「いいから、さっさと賽を投げろよ。ゲームが進まない」
「そうだった。よーし、やるぞー」
 本音を言えば肯定したくないけれど、ペペロンチーノの仮説には、首を縦に振らざるを得ない。
 騒々しい環境に腹を立てつつ、どこか安らいだものを感じている自分にため息を吐いて、カドックは分身である白い駒ごと、青色の駒を小突いた。

2020/05/31 脱稿