影ばかりだに 逢ひ見てし哉

 ぱたぱたと、足音がした。
 身軽で、可愛らしい音だ。軽快に廊下を駆けて、忙しくしているのが窺えた。
「僕も、行かないと、だけど」
 音のする方向に顔を向け、筆を置いた。朝から掛かりきりだった報告書を完成させて、歌仙兼定はぐーっと背筋を伸ばした。
 腕を頭上にやれば、ボキッと肩の骨が鳴った。長く同じ姿勢で机に向かっていた所為で、ただでさえ疲労が抜けきらない身体が悲鳴を上げていた。
 慶長熊本での任務を終えて、無事に帰還したのが昨日の夜遅く。もう日付が変わろうか、という時間帯だった。
 二度目の呼び出しを受け、ひと振り残って事後処理に当たっていた古今伝授の太刀と合流、これを回収した。彼はそのままこの本丸預かりとなり、今は古くから在る刀たちに、敷地内を案内されていることだろう。
 一足先に来ていた地蔵行平とも、再会を喜び合っていた。
 朝餉の前に、通路でばったり顔を合わせたらしい。互いの手を取り、静かに頭を垂れていたのが印象的だった。
 そんな新参者のふた振りを主賓にして、今宵は宴が催される。その準備で、屋敷内は大わらわだった。
 この五年の間に、所属する刀剣男士の数は大きく増えた。審神者によって歌仙兼定が顕現した直後は、他には小夜左文字しか居なかったというのに。
「この先、まだ増えるんだろうか。そうなると、また、座敷を広くしなければいけないな」
 日増しに賑やかさを増していく本丸は、幾度となく増改築を繰り返した結果、原形を全く留めていなかった。
 ここから更に面積を増やすとなると、中庭を潰さないといけなくなる。
 畑も、最初はふた振りだけでなんとか回せていたものが、このところは十振りでも足りないくらいだった。
 収穫される野菜の種類は多岐に亘り、料理に慣れた刀も多くなってきた。一時期は歌仙兼定と、燭台切光忠に、堀川国広辺りが交代で食事当番を回していたが、ここ最近は彼らが台所に立つ機会も減っていた。
 お蔭で安心して、調査任務に専心出来たのだけれど。
「……春も、終わってしまったなあ」
 気がつけば、暦が進んでいた。
 あれほど見事に咲き誇っていた庭の桜は、綺麗に散った。今は瑞々しい青葉が茂り、目に眩しかった。
 桜花を愛でながらの酒宴は、今年も数回、開かれた。
 そのいくつかに参加したし、一度だけだが主催もしたが、その記憶はすっかり遠くなっていた。
 慶長熊本――それはキリシタン大名が勝利した世界線。
 細川忠興が愛した女が、居るはずのない場所に存在する、時間軸。
 時間遡行軍が跋扈する、時の政府から廃棄処分が下された世界。
「はあ」
 報告書の墨が乾くのを待つ間、己が書き記した文面を読みながら、考える。
 無自覚にため息を吐いて、歌仙兼定は水分を吸って皺の寄った紙をなぞった。
 指で中空に文字を書き、記しきれなかった文面をそこに追加する。審神者は気付くだろうか。そんなことを、頭の片隅で想像した。
「いや、きっと。古今伝授の太刀が報告しているさ」
 地蔵行平の行いは、見逃せるものではない。しかし結果として、彼はガラシャに害された。そこに情状酌量の余地が生まれたのは、疑いようがない。
 彼はガラシャを姉と呼び、守ったつもりでいて、実際に守られていたのは、彼の方だった。
 どうしてそうなったかは、歌仙兼定の知るところではない。推測なら可能だけれど、彼の主観が混じる以上、後に残る書類に書き込むのは、公平性に欠けていた。
 ならば仔細を知る側に、全てを委ねてしまおう。
 無責任な発想だけれど、それくらいのことはして欲しい。和歌を詠むばかりで、会話にならないと訴える一部の刀たちの苦情を脇に捨てて、彼は四肢の力を抜き、仰向けに寝転がった。
 畳の上に横になれば、藺草の爽やかな香りが、鼻腔を擽った。
「この匂いも、久しぶりな気がするな」
 特命調査の任務中にも、本丸には何度か、定期報告も兼ねて戻って来ていた。しかしなにかと慌ただしくて、ゆっくり休んでいられなかった。
 精神的な余裕もなくて、こんな風にのんびり、脱力して過ごせるのは久々だ。
 目を瞑り、風の音に耳を澄ませた。誰かの笑い声が遠くから響いて、小鳥の囀りが心地よかった。
 あの場所には、花など咲いていなかった。
 どこまで行っても暗く、湿っぽく、かび臭い世界だった。
 それに比べて、この本丸は、生き物の宝庫だ。生命が満ち溢れ、どれもこれも瑞々しい。共同生活を送る刀剣男士たちも、生き生きとしていた。
 ぐっすり眠って、美味しいものを食べて、文化的に豊かな生活を、また送れるようになる。
 充実した時間を思い浮かべて、歌仙兼定はにんまり頬を緩めた。
 戦いの日々も、決して悪くはない。けれどそればかりでは、心が荒んでいく。あのような閉ざされた世界の、先行きが見えない環境に長く触れていたら、特に。
「はー……」
 深呼吸して、天井を仰いだ。見慣れた筈の景色が不思議と新鮮に思えて、彼は首を横向きに倒した。
 坪庭に面した障子は開け放っており、風がよく通る。簡素ながら手入れが行き届いた空間では、年中緑が美しい松の木が、優雅に枝を伸ばしていた。
 歓迎会の準備が続いているのか、忙しなく屋敷を行き交う足音は今も止まない。
 背中越しに感じる微かな振動も、悪くなかった。仲間と定めた存在が元気にやっている証拠であり、歌仙兼定の決断が正しかった証だからだ。
 真横に伸ばしていた片腕を引き寄せ、腹に置いた。呼吸の度に上下するのを面白がり、着物の皺をそっと撫でて伸ばして、臍の辺りに掌を転がした。
「僕は、あれで……良かったんだろう。ねえ、忠興……?」
 かつての主に語りかけ、返答を待たずに目を閉じた。このまま眠りたい欲に駆られたけれど、残念ながら意識は冴えたままで、暗がりに沈んでいくのを拒んでいた。
 投げ出したままの指をぴくり、ぴくりと痙攣させて、鼻から吸った息を口から吐いた。瞼越しに感じる光に頬を緩め、また聞こえて来た足音に注意を寄せた。
「そういえば、……お小夜に……まだ……」
 繰り返される足音は、短刀のものが圧倒的に多かった。
 話し声までは聞こえてこない。賑やかな喋り声は、部屋が近い打刀仲間のものが殆どだった。
 ずっと一緒に居て、別れて、この本丸で思いがけず再会した短刀は、朝餉の席でちらりと姿を見かけただけだった。
 彼は兄弟刀と共に、離れた場所に座っていた。
 距離があったけれど、目が合ったと信じている。
 信じているけれど、やはり声が聞きたかった。
「お小夜」
 名前を呼び、顔を思い浮かべれば、会いたい気持ちが急激に膨らんだ。
 たかが数日、立て続けに出陣していただけなのに。地下通路で迷い、出口が分からず手間取らされて、帰れない日もあるにはあったけれど。
 恋しさが募り、留めきれない。
 いっそ探しに行こうか。ようやく落ちて来た睡魔に抗いながら、目の前にぶら下がる選択肢を掴むかどうかで悩んだ。
 うんうん唸り、渋面を作って、胸の上にあった手で額を覆った。前髪を掻き上げ、迷う必要がどこにあるのかと、決心してカッと目を見開いた。
「歌仙?」
「うわあ!」
 そうやって取り戻した視界に、夢想し続けた顔がどん、と現れて。
 あまつさえ怪訝に名前を呼ばれて、歌仙兼定は天地がひっくり返った気分になった。
 不意を衝かれ、悲鳴を上げた。畳を思い切り打って、反動で上半身を浮かせ、その場から飛び退いた。
 これは現実か、夢か、咄嗟に判断がつかなかった。
 驚き、腰が抜けた。身体を支えていた肘が片方、カクン、と折れて、再び畳に横倒しになるまで、数秒とかからなかった。
 唖然としながら瞬きを繰り返し、荒い呼吸と共に小夜左文字を凝視する。
 穴が空きそうな程に見詰められて、短刀は気まずそうに出した手を引っ込めた。
「ごめん。起こすつもりは、なかったんだけど」
「え?」
 中途半端なところにあった右手を背中に隠し、膝をもじもじさせながら謝られた。それできょとんとなって、歌仙兼定は重い体躯を引き摺り、どうにか起き上がった。
 膝を集めてあぐらを掻いて、恐縮して小さくなっている少年に首を捻る。
「寝てた? 僕が?」
「はい」
 自分自身を指差しながら訊ねれば、彼は間髪入れずに首肯した。
 俄には信じられなくて、愕然となった。しかし障子の向こう側を見れば、記憶にあるよりも影の長さや、濃さが違っていた。
 自覚していなかっただけで、実際は少しの間、眠っていた。意識は滞りなく繋がっていたつもりでいたが、知らない間に途切れていた。
 いったいどの時点で、眠ってしまったのだろう。
 まるで身に覚えがない事実に打ち拉がれていたら、沈黙を怪しんだ小夜左文字が僅かに身を乗り出した。
「大丈夫ですか?」
「なにがだい?」
「疲れてるんじゃないですか」
 膝の前に右手を添えて、ほんの少し声を高くする。
 心に響く声色に、打刀は堪らず、頬を緩めた。
「歌仙」
 笑っていたら、咎められた。ほんの少しだけれど、拗ねた顔で詰め寄られて、歌仙兼定は左手を顔の前で振った。
「すまない。心配は要らないさ、お小夜。でも、ありがとう」
 折角案じてくれたのに、失礼な態度を取ってしまった。
 詫びて、礼も述べて、軽く頭を下げた。その上で改めて笑顔を作れば、小夜左文字は溜飲を下げて居住まいを正した。
 彼の膝元には、少し前まで部屋になかったものが置かれていた。
 即ち、湯気を立てる湯飲みと、茶菓子と。
 羊羹は丁度良い大きさに切り分けられ、そのうちの一本に爪楊枝が刺さっていた。
「僕に?」
 それらを見ながら問えば、短刀はこくりと、一度だけ頷いた。
 部屋から出て来ない打刀を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。小腹が空いている可能性も考慮して、心憎い限りだった。
 これほど有り難い事は無い。嬉しくてならず、それだけで胸が一杯だった。
「折角だし、お小夜も、どうかな。一緒に」
「え、でも。歌仙の分しか」
「構わないさ。ひとりで食べるより、お小夜と分け合う方が、楽しいしね」
 湯飲みも一個で、短刀が己の分を考慮していなかったのは、明白だ。
 それを押し切り、甘える声を出せば、小夜左文字は目を逸らして俯いた後、仕方がない、とばかりに肩を竦めた。
「話を、聞かせて欲しくて」
 そうして盆を歌仙兼定の方へ押し出し、彼自身も座ったまま移動した。腕の力だけで身体を僅かに浮かせ、滑るようにして前に出て、手を伸ばせば届く位置に陣取った。
 青臭い風が吹き、松の枝を軽く揺らした。鳥の歌声が止んで、間を置かずに羽ばたく音が聞こえて来た。
 つられてそちらに目をやって、打刀は落ち着かない様子の小夜左文字に相好を崩した。
「古今とは、話せたのかい?」
「少し、ですけど。元気そうでなによりと、頭を撫でてくれました」
「そう。……他には?」
 古今伝授の太刀は、歌仙兼定の元の主と縁がある刀だ。それは元々、小夜左文字と同じ場所にあって、短刀だけが親から子へと受け継がれた。
 だから打刀は、実のところ、あの太刀のことを直接には知らない。知らないけれど、話は聞き及んでいた。
 主に、目の前にいる少年の姿をした付喪神の口を経て。
 この拭いようがない事実に、少なからず嫉妬した。懐かしそうに語る少年の目元がほんのり朱を帯び、口元が和らぐのを、黙って見ているしかなかったのが、悔しかった。
 急に言葉数が減った歌仙兼定を仰いで、短刀はふっ、と目を眇めた。
「紫の 色濃き時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける」
 そうして滔々と口ずさんで、羊羹に突き刺さった爪楊枝を取った。
 ひとくちで頬張れる大きさに刻まれたそれを持ち上げ、差し出す。
 鼻先に突きつけられた男は面食らったが、すぐに気を取り直し、口を開いた。
「古今が、そう?」
「はい。この本丸は、歌仙が最初に柱となった本丸ですから。そこに根を下ろす多くの刀剣男士たちも、全てが、愛おしいと」
 あの太刀はなにかにつけて、和歌で心情を伝えようとする。時には説明を省略し、少ない情報から状況を推察するよう仕向けてくるので、なかなかに面倒だった。
 戦場でずっとあの調子だったから、本丸でもきっと、同じはずだ。
「加州清光さんたちは、ぽかんとしてましたが」
「なるほど。目に浮かぶようだ」
 歌仙兼定や小夜左文字ならすぐに理解出来るけれど、それ以外の刀は、どうだろう。平安期の刀ならまだしも、新刀と分類される刀たちでは、なかなか難しいかもしれなかった。
 様子を想像したら、自然と笑みがこぼれた。羊羹の程よい甘みも相俟って、幸せな気分が胸に広がった。
「美味しいですか?」
「ああ。お小夜も食べると良い」
 空になった爪楊枝を戻し、短刀が小首を傾げる。
 頷き、彼にも促せば、小夜左文字は迷う事なく大きめのものを選び取った。
 躊躇せず、遠慮もしない。きっと他の刀相手では、こうはいかないだろう。
「これは、万屋で?」
「いいえ。甘いものは疲れを取ると聞いたので、小豆長光さんに教わって……あむ」
「お小夜が作ったのかい?」
 甘過ぎず、かといって味がぼやけることもなく。
 存外自分好みの味付けだと思って訊ねた打刀は、思いがけない返答を得て、反射的に身を乗り出した。
 膝で畳を打ち、前のめりになって距離を詰めた。大きな塊を頬張った少年は一瞬ビクッとなって、爪楊枝を咥えたまま顔を背けた。
「……いけませんか」
 やがてもごもごと、口の中に羊羹を含んだまま、小声で言った。
 不満そうな表情が、なんともいじらしく、愛らしい。
 慶長熊本へ出陣したのは、隊長である歌仙兼定を中心として、脇差と打刀を主体にした編成だった。小夜左文字は彼らと共に戦わせて欲しいと、審神者に直訴したけれど、決定は覆らなかった。
 彼も密かに、悔しい思いをしていたのだろう。
 それと同時に、戦場を駆け巡る打刀の事を愁い、思いやってくれていた。
「そう。これは、お小夜が。どうりで」
「別に、歌仙の為だけじゃないです。それに、退屈だったので。暇潰し、です」
 羊羹とひとくちに言っても、色々だ。
 これまでにも沢山の種類を、本丸で味わってきた。その中でもこれは格別だと感慨深く呟けば、照れたのか、小夜左文字が素っ気なく言い放った。
 ぷいっと明後日の方向を向くけれど、露わになっている耳は茹でられたかのように真っ赤だ。
「ふふ」
 実に愛くるしくて、笑みを隠しきれない。
 左手で口元を覆うが、それで間に合うものではない。直後にキッと睨み付けられたが、まるで怖くなかった。
「そうか。僕は、果報者だな」
 心の底からの感想を述べて、空になった自分の唇をちょいちょい、と小突く。
 早くここに、次の羊羹を運んでくれるよう、頼んだつもりだったのだけれど。
「……ありぬやと」
「お小夜?」
「こころみがてら あひみねば」
 ぼそぼそと小声で歌を口ずさまれて、歌仙兼定は眉を顰めた。
 勿論知っている和歌だ。他ならぬ古今和歌集に収蔵されている、数多ある歌の中の一首であり。
 その語るところは。
「お小夜」
「台所の手伝いがありますから、行きます」
「そんなことを言わないで」
「動けるのなら、歌仙も手伝ってください」
 上の句だけを残し、立ち上がろうとした短刀に手を伸ばして、細く華奢な腕を取った。折らないよう慎重に力を込めて、動きを制し、訴えるが、小夜左文字はつれなかった。
 早口に怒鳴られて、唾まで飛ばされて、彼の心情が上手く理解出来ない。
 熱烈な愛の歌を贈られたのに、素っ気なくされて、困惑していたら。
 首の裏側まで赤く染めた短刀が、奥歯を噛み締めた後、手首に絡まる打刀の指に反対の手を重ねた。
 表面を二度、三度と撫でて、弱い力で束縛を解いた。
「早く、準備して。早く、始められたら。……その分、早く。終わるでしょう……?」
 今宵は、古今伝授の太刀並びに地蔵行平の歓迎会が催される。大量の料理が並べられ、酒が振る舞われ、どんちゃん騒ぎは夜通し続いた。
 参加はこの本丸に所属している以上、半ば強制だ。しかし最初の挨拶と、乾杯が終われば、いつ抜けだそうが自由だった。
 その事を暗に告げられて、歌仙兼定は息を呑んだ。
 思わず庭の方を見て、現在時刻を推測した。ぐりん、と首を回して短刀を見れば、少年は目を逸らさずに頷いた。
「分かった。お小夜のたっての願いだしね」
「うるさいです」
 熱心で、情熱的な眼差しに、ごくりと喉を鳴らした。握り拳を作り、曲げた肘の内側をとん、と叩けば、下世話な言い方を叱られた。
 背中を思い切り打たれたが、あまり痛くない。呵々と笑えば、小夜左文字は益々赤くなり、頭の天辺から湯気を噴いた。

2020/05/16 脱稿

雨雲のわりなき暇を洩る月の 影ばかりだに逢ひ見てし哉
山家集 650