白詰草

 今日は朝から、災難続きだった。
 まずは、寝坊した。絶対に遅刻をしないと決めて寝床に入ったのに、いつもより早めに鳴った目覚まし時計は、寝ぼけたランボによって止められていた。綱吉はその事実に気付くことなく、ぬくぬくと布団に包まれて、惰眠を貪り続けたのだった。
 結局八時を回っても起きてこない息子を案じ、奈々が呼びに来てくれたが、時既に遅し。大慌てで身支度を調え、家を飛び出したものの、結果として鞄の中身は前日の時間割のままだった。
 挙げ句、料理上手の母手製の弁当を、忘れた。
 取りに戻る時間が惜しく、イーピン辺りが届けてくれるのを密かに期待し、そのまま学校へ。けれど正門に辿り着く前に、チャイムは無情にも鳴り響いた。
 だが簡単には諦めない。全力で走っていた綱吉は、直後、風紀委員が見張っている正面玄関ではなく、警戒が手薄な裏口からの侵入を試みた。
 余所の家のゴミ箱を足場にして、コンクリート塀を乗り越え、どうにか無事に着地を決めた。
 ここまでは、良い。最高だった。誰にも見つからず、事を成し遂げられたわけだから、本来なら拳を突き上げ万歳三唱と行きたいところだ。
 しかしコンクリートブロックを跨ぐ際、鋭く尖った出っ張りに、シャツの裾が引っかかっていた。
 怪我がなかったところだけは、幸運だったと言えるかもしれない。しかしシャツが派手に破れた。ちょっと布が解れるどころではなく、それこそ盛大に、脇から袖の付け根に到達する程だった。
 更に悪い事に、下に着込んでいたシャツが、派手な柄物だった。
 動く度に破れたシャツがはためき、隙間からピンク色のキノコという、趣味を疑いたくなる図柄が現れるのだから、赤面ものだ。これでは教室に着いたところで、自由に動き回るなど不可能だった。
 トイレにさえ、気軽に行けない。
 二時間目が始まる前に教室に入り、後は目立たないよう、大人しく過ごすのが理想の一日だった。
 だというのに、そういう日に限って、獄寺が山本と張り合い、トラブルを起こしてくれるのは、どうしてだろう。
 いや、そもそも昼休みに起きた騒動の発端は、綱吉にあったのかもしれない。
 弁当は結局、届かなかった。急いでいたので朝食も碌に食べておらず、空腹に喘ぐ彼に同情した山本が、見かねてパンを一個分けてくれたまでは良かった。獄寺が対抗意識を燃やし、自分の方がもっと上等な物を用意出来る、と息巻くまでは。
 携帯電話を使って彼はどこかに電話をし、昼休みも残り僅かになったところで、教室を出て行った。正門まで走って、戻って来た彼は、どうやらデリバリーで何かを注文したらしかった。
 獄寺が得意げに見せてくれたのは、彼がお気に入りの店の弁当だという。美味いんですよ、と言いながら差し出され、綱吉も深く考えないまま箸を取った。
 蓋を開ければ、確かに見た目は悪くなかった。ただ少し、変な臭いがした。
 嫌な予感を覚えたけれど、周りの目もあるし、なにより獄寺がわくわくしながら感想を待っている。
 大丈夫だと信じて、ひとくち食べた瞬間。
 綱吉は危うく、天国の扉を潜るところだった。
 獄寺が運んで来たのは、彼の電話を盗聴したビアンキが作った弁当だったのだ。
 泡を吹いて倒れて、慌てた友人たちによって、綱吉は保健室へ運ばれた。しかしそこを根城にしているシャマルは、男の面倒など見たくないと言って、ベッドを貸してもくれなかった。
 大量の水を飲み、胃を洗浄して毒を吐き出して、へろへろのまま午後の授業へ。勿論先生の話す内容など全く耳に入って来ず、何をしに学校に行ったのか、分からないくらいだった。
 こんな目に遭うくらいなら、家に引き籠もっていれば良かった。
「なんなんだよ、もう……」
 沢田家に住み込みの家庭教師がやって来てからというもの、騒動が騒動を呼ぶ日々の連続だ。
 命がいくつあっても足りない。悪態を吐きながらひとり歩いていた綱吉は、道端に見付けた手頃な石を蹴り飛ばそうとして、思い切り空振りした。
 爪先に引っかかりもしなかった。六角形に似た小石は変わらずそこにあり、人間をバカにするでもなく、静かだった。
「ちぇ」
 悔しくて、腹立たしいが、もう一度右足を振り上げる気は起きない。
 代わりに思い切り靴底で踏み潰してやれば、思った以上の力で抵抗された。
 薄いゴム底にめり込んで、ぐりぐり攻撃された。土踏まずを容赦なく刺激されて、何故か内臓が痛んだ。
 心の中で舌打ちして、反対の足を前に繰り出した。奇妙な敗北感に猫背を酷くして、昨日とほぼ同じ重さの鞄を肩に担ぎ直した。
 すっかりボロボロになったシャツの裂け目をなんとか隠し、泥汚れが目立つ靴から視線を前方に向ける。
 太陽は西に傾いているものの、日暮れまではまだ時間があった。
 真冬であれば、もう夕暮れも終わりに近かっただろう。しかし足元に伸びる影は、あの頃より短かった。
「今年も、暑いのかな」
 寒いのは嫌だが、暑いのも苦手だ。クーラーが効いた部屋でぐうたら過ごすのは好きだが、最近はリボーンがそれを許してくれない。
 熱中症で倒れたら、どうしてくれる。
 しばらく先の話を持ち出し、恨み言を呟いて、彼は首筋から背中に向かって駆け抜けた、ザワッとした気配に総毛立った。
 不穏な空気を感じて、反射的に背筋を伸ばした。
「なに?」
 風が吹き、河川敷の雑草が一斉にざわめく。ざああ、と川面が軽く波立ち、綱吉の不安を増幅させた。
 時同じくして、アスファルトで舗装された細い道に、黒い影がスッと駆け抜けた――ボトッと、綱吉の頭の上に何かを落として。
「ひええ?」
 ハトか、カラスかは分からない。しかし確実に、嫌な想像しか出来ない僅かな重みに半泣きになって、咄嗟に左手で髪を叩いた。
 ほんのり濡れて、微かに温かい。
 はね除けられて地面に落ちたものを睨み付け、綱吉は激しく肩を上下させた。
 一瞬で心拍数が跳ね上がり、呼吸が荒くなった。ぜいぜいと、全力疾走した後のように息を吸っては吐いて、こみ上げて来る怒りとも、哀しみともつかない感情に、奥歯をカタカタ鳴らした。
「なんなんだよ、もう!」
 雄叫びを上げ、乱暴に地面を蹴りつける。
 ただでさえ不運続きだったのに、最後の最後で、これはあり得ない。
 いったいどういう星の巡り合わせなのか。人生最悪の日がこうも量産されると、元気に明日を迎えよう、という思いも薄れてしまう。
「……泣きたい……」
 ツイてない、というひと言では済まされない。
 まだ頭に、滓が残っている気がしてならなかった。急ぎ鞄を開き、中を探ったけれど、汚れを拭き取れるタオルや、ハンカチといった類のものは、ついに見つからなかった。
 そもそも持ち歩く習慣がなかった。毎朝、母が持っていくよう勧めてくれるけれど、思春期の反発心から、従った試しはなかった。
 奈々の言う事を、素直に聞いておけば良かった。
 後悔に襲われるが、最早どうにもならない。手で拭うにしても、ではその汚れた後の手をどうするのか考えると、ひとつも身動きが取れなかった。
 このまま帰るしかない。自宅までの距離をざっと計算して、綱吉は深々と溜め息を落とした。
「最悪だ、もう」
 どうして自分ばかりが、こんな思いをしなければならないのだろう。すれ違う人は誰も彼も幸せそうで、楽しそうだというのに。
 地球上の全人類が、本来味わうべきであった不幸が、軒並み自分に押し寄せているのではなかろうか。
 そんな非科学的な妄想に取り憑かれ、世界を恨みそうになり、綱吉は天を仰いだ。
 まだ明るさが残る空は眩しく、ぷかぷか泳ぐ雲は暢気だ。
「はあああ…………」
 せめてひとつくらい、良い思いがしたい。
 今日の不幸を帳消しに出来るくらいの幸運など、そう簡単に訪れないと分かってはいるけれど。
 本日何度目か知れない溜め息を零し、綱吉は歩みを再開させた。先ほどより歩幅を狭く、速度も落として、前後左右や頭上にも注意を払いながら。
 過剰過ぎると承知しているけれど、つい、気にしてしまう。
 後ろからスピードを出して走ってくる自転車にビクつき、向かいから犬を連れて散歩中の老人には大袈裟に飛び退き、道を譲った。吼えられて、河川敷の草むらまで逃げて、リードを目一杯伸ばしても届かない安全圏で胸を撫で下ろした。
 幸運は、まだ訪れない。
 夕食が、好物だらけであれば良いのに。そんな可愛らしい願いに縋って、コンクリート製の橋を渡ろうと、斜面に生える草の中から抜け出した。
 傾斜を滑り落ちないよう注意しつつ、腹に力を込め、一歩一歩着実に。
 ここで転ぶと、洒落にならない。踏ん張って、足元に意識を集中させて、ようやく舗装された道に合流したところで。
「ん?」
 目の前に黒い影を見て、綱吉は顔を上げた。
「んげっ」
 その影の正体を目にした瞬間、彼は悲鳴を上げた。反射的に飛び退こうとして、現在地を思い出した。
 後ろに下がったら、傾斜角が三十度は超える斜面を真っ逆さまだ。いくら日中は暖かくなったといえども、川の水はまだ冷たかった。
 嫌すぎる想像に鳥肌を立て、脂汗を流し、ぎりぎりのところで踏み止まった。失礼千万の悲鳴を浴びせられた方はむすっとした表情を崩さず、片膝が半端に折れた不安定な体勢の綱吉を、黙って見下ろし続けた。
 黒の学生服を肩に羽織り、空っぽの袖には臙脂色の腕章が。やや長めの前髪に隠されていても、眼光の鋭さは少しも揺らがなかった。
 貫かれ、抉られた。
 まさに蛇に睨まれた蛙。少しでもバランスが崩れれば川面へ真っ逆さまの状況で、綱吉は一歩も動けなかった。
 指先を震わせることも、生唾を飲むことすら叶わない。
 これからいったい、何が始まるのか。
「裏門からの不法侵入」
「ひえっ」
 ドキドキしながら固まっていたら、不意に呟かれて、心臓が止まりかけた。
 それはまさに、綱吉が今朝犯した罪状のひとつ。風紀委員に遅刻を咎められるのが嫌で、正規ではないルートを使い、学校に潜り込んだ。
 シャツが破れる憂き目には遭ったが、誰にも見られていないと、高を括っていた。
「いや、あれは、その……」
 よもやここで、風紀委員長に指摘されるとは、夢にも思わなかった。
 咄嗟に言い訳しようとしたけれど、言葉が出て来ない。金魚のように口をパクパクさせていたら、黒髪の青年はふっ、と口の端を持ち上げて笑った。
 表情がほんの少し緩んで、許されたのかと、根拠もなくそう思ってしまった矢先。
「あいだっ」
 スッと持ち上がった長い指で、前触れもなく、額を弾かれた。
 ビシッ、と小気味の良い音がしたが、それを聞いたのは綱吉だけかもしれない。短い爪で皮膚を穿ち、抉られて、打たれたところが真っ赤になったのが、鏡を見なくても分かった。
 ただのデコピンなのに、この破壊力はなんだろう。
「ってえええ~~~」
 たまらず両手で額を庇い、その場に蹲った。滑らないよう、膝はアスファルトと地面の境界に押し込んで、爪先を立てて角度を調整した。
 肩からずり落ちた鞄が、膝の上で斜めに転がった。ファスナーを開きっ放しだったので、教科書が何冊か飛び出したが、拾う元気はなかった。
 まだじんじんしている箇所を撫で、生理的な意味で溢れた涙で睫毛を濡らした。鼻を啜り、喉を鳴らして、口をへの字に曲げて嗚咽を堪えた。
「次やったら、見逃してあげない」
 必死に耐えていたら、雲雀も軽く膝を曲げ、屈んだ。綱吉より若干高いところに目線を確保して、右手で頬杖をつき、不遜に言い放った。
 但し彼の言い分は、どこか可笑しい。
「そもそも、見逃してくれてないじゃないですか」
 朝の不法侵入を罰しておきながら、次は見逃さない、とはどういうことか。
 意味が分からないと不満を口にすれば、反論されると思っていなかったらしい男は一瞬目を丸くし、すぐに眇めた。
「あ、いえ。今のは、なんでもない、です……」
 不敵な表情は崩さず、値踏みするような眼差しを向けられた。下手に刺激するのは良くなかったと反省して、慌てて発言の撤回を求めた綱吉だけれど、理屈が通じない男に伝わるはずがなかった。
 デコピンで済むものが、トンファーになったら、最悪だ。
 それだけは回避したいと首を振り、俯いて恐怖に耐えていたら、この時間でも爆発している寝癖越しに、小さな溜め息が聞こえた。
 跳ね放題の髪の毛を揺らし、おずおず顔を上げた先で、雲雀は胸元から何かを取り出そうとしていた。
 白シャツの胸ポケットに指を入れ、引き抜く。
 見慣れた図柄が現れて、綱吉はきょとんとなった。
 黒表紙に金色で印刷されているのは、並盛中学校の校章だ。
 同じ物を、綱吉も持っている。勿論綱吉に限らず、あの学校に在籍する生徒は全員、通学時に携帯が義務づけられていた。
 てっきり没収された自分のものかと勘繰ったが、そうではない。そもそも今日は、風紀委員に手帳を渡してすらいない。
 ならばそれは、雲雀自身の持ち物だろう。
「立てば?」
「ひえっ、え。……はい」
 怪訝に首を傾げていたら、急に言われた。叱られたわけではないのに、大仰にビクついてしまったのを恥じて、綱吉はまだ五月蠅い心臓を服の上から宥めた。
 深呼吸を二回、三回と繰り返して、雲雀に続いて背筋を伸ばした。足元を気にしなくて済む場所まで移動して、手帳を広げた風紀委員長に瞬きを繰り返した。
「ヒバリさん?」
「あげるよ、君に」
「はい?」
 小言が始まるのを覚悟して、急ぎ詰め込んだ教科書で凸凹している鞄を抱きしめていたら。
 またもや前触れもなく言われて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 差し出されたのは、緑色の、薄くて、小さな植物だった。
 草だ。
 手帳に挟まれていたので、少々草臥れていた。茎の部分を抓んだら、上部が重くて、真ん中より下側からへにょり、と折れてしまった。
「さすがに、ハトは、面白かったね」
「うぐ」
 どうして彼が、こんなものを持っているのか。訳が分からずにいたら、追加で言われて、綱吉は喉の奥で唸った。
 まさかそんなところから、見られていたとは。
 帰ったら真っ先にシャワーを浴びると心に誓って、彼は右手の平を差し出した。
 真ん中にそっと置かれたのは、クローバーだった。しかも、四つ葉の。
「でも、ヒバリさん。なんで」
 反射的に握り締めようとして、慌てて自制した。ピクリと震えた指先を誤魔化し、飛ばされないよう壁に使って、尽きない疑問に声を高くした。
「そこの川辺で昼寝してたら、たまたま、見付けただけだよ」
 雲雀は興味なさげに言って、視線を遠くに投げた。右手は閉じた手帳を胸ポケットに戻して、動きに迷いは無かった。
 その言葉はきっと、嘘ではない。彼は並盛町の、至る所に出現する。今日は天気が良かったから、屋外の草むらに寝転がっていたとしても、なんら不思議ではなかった。
 けれど偶然目に入ったからと言って、あの泣く子も黙る風紀委員長が、四つ葉のクローバーを摘むだろうか。しかもなくさないよう、大事に、手帳に挟んでまで。
「……たまたま、ですか」
「なに。文句あるの?」
 理解は出来るが、納得は出来ない。
 そういうこともあるのかと、半信半疑のままぼそっと呟いたら、聞き捨てならなかった雲雀の目つきが鋭く尖った。
「いえ。いえ。なんでも!」
 低い声で凄まれて、急ぎ首を横に振った。
 文句など、あるわけがない。懸命に訴えて、綱吉は些か渇き気味の植物に、左手を重ねた。
 両手で挟んで、類い稀な幸運が逃げないよう、閉じ込めた。
「ふへへ」
「早く帰りなよ」
「はーい」
 クローバー自体の感触は、言ってしまえばそこまで良くなかったけれど、不思議と心がぽかぽか温かい。
 無意識に頬が緩み、気がつけば変な笑い声が漏れた。首を竦め、湧き上がるくすぐったさに身悶えていたら、仏頂面で吐き捨てられて、現実が戻って来た。
 いつの間にか、太陽は西への角度を強めていた。
 夕暮れが迫っている。雲雀の顔が赤く見えたのは、きっとその所為だ。
 だとしても。
「大事にします」
「ただの草だよ」
「それでも、です」
「ふうん。変な子」
 朝からずっとモヤモヤしていたものが、急激に晴れていく。
 ようやく心からの笑顔を浮かべた綱吉に、雲雀は相変わらず素っ気なかった。

2020/05/16 脱稿