なでしこを 思ひ出づらん 草むらに

 一世一代の告白だった。
「ま、マスター。マスター!」
 廊下を歩いていた彼を追いかけ、決意を持って呼びかけた。
 ただそれだけなのに、息が切れた。頬を上気させ、小走りに距離を詰めたパリスを振り返り、藤丸立香は一緒にいた数騎のサーヴァントに合図を送った。
「先、行ってて」
 言葉だけでなく、視線であったり、指の動きであったり。
 細かな仕草で連れていた英霊に指示を出し、渋った相手にも繰り返し言い含めて、彼だけがその場に残った。
 一仕事を終え、ようやく身体ごとパリスに向き直った青年は、穏やかに微笑み、首を右に傾がせた。
「ごめん。なに?」
 待たせてしまったことをまず詫びて、視線を合わせるべく軽く膝を折った。角度を持たせた太腿に両手を据えた彼は、数回瞬きを繰り返し、肩で息をするパリスを真っ直ぐに見詰めた。
 迷いの無い眼差しが美しく、神々しくもある。
 雨上がりの澄んだ青空を思わせる双眸に見惚れかけて、パリスはハッと息を呑んだ。
 我に返り、背筋を伸ばした。折角屈んでくれたマスターの好意に反し、ほんの少し背伸びをして、彼よりも目線の高さを上にした。
「あれ、アポロンは?」
「えっと。あの、アポロン様は。ちょっと、お留守番です」
 普段から頭上に戴く羊のぬいぐるみ、もといアポロン神は、今回は席を外して貰っていた。
 お蔭で少々心許ないし、落ち着かない。
 慣れない状況にもじもじしつつ、パリスは緩みそうになる決意を引き留め、拳を硬くした。
 指先にまで力を込めて、足は肩幅に開いた。僅かに重心を低くして、多少のことでは揺らがないよう、姿勢を安定させた。
「マスター、あの。折り入って、お話があります」
「うん?」
「あの、僕。えっと。僕、その……あの。マスター」
「うん」
 しかしいざ口を開くと、弱気が顔を出した。早々と挫けそうになり、言い淀んで、なかなか出て来ない一大決心を喉の奥で捏ね回した。
 幾度となく息継ぎを挟み、何度も詰まりなら、声を震わせた。
 マスターはその間、身じろぎすることもなく、パリスを待ち続けた。
 廊下のど真ん中なので、通り過ぎる人もいる。誰もが彼らに視線を送り、珍しい取り合わせだと言わんばかりの表情を浮かべた。
「僕、マスターのこと、が。えっと。えっと……」
 中には聞き耳を立てる英霊もいたが、大半は立ち止まることなく、そのまま通り過ぎて行った。
 誰かの足音が聞こえる度に、パリスは喋るのを止めた。衆目を浴びるのを出来るだけ避けようとして、お蔭で同じ単語を繰り返す羽目になった。
 早く言えば良いのに。この意気地無し。
 自分自身を罵る声が、内側から聞こえて来る。形のない悪意が忍び寄って、耳元で彼を誹り続けた。
 そこに混じって、完全な善意による、神の囁きが聞こえた。
「僕、あの。マスターのこと、大好き、です!」
 いつも頭の上から騒ぎ立てる、羊の声。
 甘美な誘惑を振り切り、魂を奮い立たせ、パリスは長く胸に詰まっていた感情を吐き出した。
 一気に、大声で。
 握り拳を胸に添え、一思いに叫び、頭を振った。全身を撓らせ、この小柄な体躯ではなく、本来の姿を取り戻した気持ちで、告げた。
 こんなにも腹の底から声を出したのは、いつ以来だろう。
 自分でも驚く程の声量に目をぱちくりさせていたら、思いの丈をぶつけられた方は、もっと驚いた顔をしていた。
「え、……と。ああ、うん」
 圧倒されてきょとんとして、藤丸立香は短く息を吐いた。中途半端な中腰状態を改めて、一瞬遠くを見て、頬を掻いた。
 人差し指で肌を数回小突き、掌を広げ、首筋から肩の一帯を覆い隠した。
「ありがとう。嬉しいよ、パリス」
 余所を向いて、最後に名前を呼ぶ時にだけ視線を合わせ、彼は笑った。
 感謝を伝えられたけれど、そこに深い感情は込められていない。
 照れ臭そうにしてはいるけれど、奥深くまで響いていないのがはっきりと見て取れた。
「ちっ、違います。マスター。僕の気持ちは、あの。そういうんじゃ、なくて」
 親しみを抱いている。仲間として認めている。力を貸すに値する存在だと認識している。一緒に居れば楽しい、等など。
 英霊がこの青年に従う理由は、様々だ。
 中には露骨が過ぎるほど、彼に愛情を向けるサーヴァントも居た。彼ら、彼女らのあまりにも直球なやり方は、見ているだけでも赤面ものだったが、時としてパリスを焦らせた。
 伝えたいことは、伝えなければ、伝わらない。
 胸に秘めるのではなく、実行に移さなければ、意味がない。
 これはただの親愛ではない。友愛では片付かない。だのに言い方が不味かったのか、マスターにきちんと理解して貰えなかった。
「僕は、えっと。あの。もし、この戦いが終わっても。叶うなら、ずっと、マスターのお側で。あなたと一緒に、旅をして。旅を続けて、それで。それで!」
 離れたくない。
 共に在りたい。
 共に生きたい。
 約束が欲しい。
 英霊とマスターという契約ではなく、もっと別の誓約が欲しい。
「パリス」
 分かって欲しくて、気付いて欲しい一心で、必死に捲し立てた。周囲の目など、もう気にならない。拳を振り回し、踵を上げ下げしながら訴えていたら、不意に静かに、突き刺さるような声が耳に届けられた。
 直後に、唇に指が添えられた。
 人差し指、一本だけ。それが縦に、パリスの口を塞いだ。
 静かに、の合図。
 たったそれだけで、背筋がぶるっと震え、熱を持った内臓器官が一気に冷たくなった。
 汗の雫が背中を伝った。呆然と目を見開いて、パリスは怒っているように見える青年を仰ぎ見た。
「ご、……めん、な、さ……」
 今度こそ間違えないと、決めていたのに。
 また自分は、選択を誤った。
 鋭い眼差しは、暗雲に飲まれて黒く澱んだ空の色だ。天井から照らす光を遮り、俯いてパリスを見下ろす男の貌は、険しかった。
 反射的に、謝罪していた。
 摺り足で後退して、頭を下げた。
 奥歯が震えて、カタカタ音を立てる。血の気が引いて、全身が凍えるように寒かった。
 言わなければ良かった。
 言うべきではなかった。
 神に振り回された自分の軽率な行動が、多くを傷つける結果を引き寄せる。その罪深さは身を以て学んでいたはずなのに、どうして。
 己に課せられた宿業を恨み、口惜しさに唇を噛む。
 いっそ消えてしまいたい。座に還る選択肢も含めて、突っ走ろうとした矢先に。
「……謝らないで。顔を上げて、パリス」
 小声で告げられて、パリスは息を止めた。
 ガバッと、直後には姿勢を正していた。潤んだ眼から涙が零れるのを我慢して、唇を引き結んだ。
 小刻みに震える指で服の裾を握り締めて、マスターを見る。
 彼は戸惑い気味に微笑んで、首の後ろに手を当てた。再び明後日の方向を見やった後、すぐに戻して、表情を一新させた。
 いつもの彼に戻って、小さく頭を下げた。
「パリスの気持ちは、うん。嬉しいよ。ありがとう。光栄、て言えば良いのかな。……でもさ、それは、きっと、オレがマスターで、パリスがオレのサーヴァントだから、で」
「違います。あ、いえ。その通りかも知れないけど、でも、それだけじゃないです」
「……うん。けどさ、やっぱり、あると思うんだ。それにオレは、みんなが言う程、大した人間じゃないよ。いつもさ、みんなに助けられてばっかりで。守られて、ばっかりで。パリスみたいな英雄に、こうやって相手してもらえるだけでも、奇跡みたいなものだし」
「ちがいます!」
 恐縮してか、マスターの声が小さくなる。
 心持ち早口になっている彼の弁を否定して、パリスは頭をぶんぶん振った。
 羊のアポロンが頭上に居なくて良かった。定位置に陣取っていたら、きっともの凄い勢いで飛んで行ったことだろう。
 それくらい必死に、自虐的な事ばかり口にするマスターを拒絶して、彼は鼻息を荒くした。
「僕が好きになったのは、マスターが、マスターだったからじゃないです。でも、そんなマスターだから、好きになったんです」
 顔を真っ赤にして吼えて、ふと、自分の発言内容に疑問を持った。
 ありったけの思いを詰め込んだつもりだけれど、これでは何を言っているのか、さっぱり分からないではないか。
 きちんと言語化すべきところが、感情を優先させたが為に、まるで意味不明な発言になった。
「いあ、あの。えっと、これはちがくて。ええと、ちょ、ちょっと。ちょっと待ってくださいいいい」
 整理して言い直そうと試みるが、頭が追い付かない。懸命に考えるものの、逆にどんどんこんがらがって、肝心の部分を見失ってしまった。
 混乱に陥って、目玉をぐるぐるさせていたら、頭を抱え込んで呻くパリスを前に、藤丸立香がぷっ、と噴き出した。
 緩く握った手を口元に当て、反対の手は腹に置いて、軽く身を捩りながら。
 目を瞑り、口元を綻ばせて、頬は可憐な花の如き色合いだった。
「……ありがと」
 最後に添えられた、掠れた声での囁きが胸を打つ。
 惚けた顔で固まって、パリスは二度、三度と瞬きを繰り返した。
「マスター」
「でもさ、やっぱり、ごめん。パリスが悪いんじゃないんだ。オレが、……そう。オレが。胸を張って、自分で、自分を誇れるようになってからじゃないと」
 握り拳をぱっと解いて、駆け寄ろうとしたら、制された。感情を押し殺した口調で続けられて、パリスは嗚呼、と息を吐いた。
 出しかけた足を戻し、凛と佇んで、マスターと向かい合った。
「大丈夫です。待てます。……ううん、待ちます。大丈夫です。その頃にはきっと、僕も、きっと大きくなって、こんなちんちくりんじゃない僕に戻ってますから」
「へえ。それは、楽しみ、かな」
「えへへ。自分で言うのもなんですけど、格好良かったんですからね。アキレウスにだって、負けないんですから」
 袖まくりをして肘を曲げ、力こぶを作ろうとするが、この身体ではぺたんこのままだ。
 それでも言いたい事は通じたようで、マスターは歯を見せて笑った。
 朗らかに、穏やかに。見ていて心が和む姿を眺めて、パリスはホッと胸を撫で下ろした。
「ねえ、マスター。聞いて良いですか」
「なに?」
「僕が、これが僕だと自信を持って言えるくらいの僕になれたら、また、さっきの言葉。言っても良いですか?」
 あれはどう考えても、勢い任せの、先走りたがる子供の言葉だった。
 許されたわけではないけれど、猶予をもらった。けれどそこに甘んじて、無為に時間が過ぎるのを待つのは嫌だった。
 パリス自身、この身体では出来ることが限られている。戦えるけれど、全盛期の肉体を保持している英雄たちには、到底敵わない。
 アポロン神の意向を無碍にするつもりはないけれど、悔しいとは思う。それと同時に、今の姿でだってやれることは沢山あると、可能性に気付かされた。
「それは、……つまり?」
「また、ちゃんと、告白させてください」
「ええと……」
「マスターのお返事は、いつでも構いません。でも、断られない限り、僕は諦めませんから」
 いや。きっと、断られても諦めない。諦めるくらいなら、戦争など起こさない。
 にっ、と頬を緩めて笑い、決意を口にする。マスターは一瞬ぽかんとした後、赤らんだ顔を手で隠した。

2020/05/10 脱稿

なでしこを思ひ出づらん草むらに 露かかりとも知らせてしがな
風葉和歌集 1191