「失礼しまーす」
管制室から押しつけられ、もとい任せられた資料を手に医務室のドアを潜れば、微かに、不思議な匂いがした。
青臭いような、それでいて清涼で、心地よいような。
この部屋では、あまり嗅いだ事がない類のものだ。それでいて、どこかしら薬草めいたものにも感じられて、よく分からない。
「アスクレピオス、いるー?」
ノウム・カルデアに属する人間、並びにサーヴァントの両方を診察する半神半人の英霊は、姿がなかった。いつも気難しそうな顔で座っている椅子は空で、書籍や書類が山積みの机は雑多に散らかっていた。
黒、もしくは白を基調とした外観の医師に呼びかけてみるが、返事は無い。
「あれえ?」
四六時中メディカルルームに詰めているような男が、珍しい。
どこへ行ったのかと首を捻り、藤丸立香はダ・ヴィンチから託された資料に目をやった。
透明だがガラス素材ではない、頑丈な容器の中身は、真っ赤な液体だ。レイシフト先で採取した素材に、これまでと異なる数値を示すものがあったとかで、詳しい分析を頼みたい、という話だった。
「置いてっちゃって良いのかな」
どういった外観の、どのような特性を持つ獣のものかは、その場にいたマスターの口から説明するのが手っ取り早い。
そういう事情もあって頼まれたのだけれど、肝心の相手が不在となれば、出直すべきか。
悩み、意味もなくその場でくるりと反転して、立香は再び漂って来た匂いに顔を上げた。
「これ、かな?」
アスクレピオスが戻って来るのを待つ間の、暇潰しを見付けた。
昨日までは確実になかったものに気がついて、自然とそちらに足が向いた。合計四歩半で辿り着いた先にあったのは、白い可憐な花を咲かせる植物だった。
「スズラン、だっけ」
大ぶりの花瓶に生けられ、床に直接置かれていた。
大きな緑の葉に埋もれるようにして、一本の茎に沢山の花が並んでいる。ランプシェードにも似た花弁はどれも俯き加減で、顔を伏して恥ずかしそうにしていた。
先ほどから鼻腔を擽る匂いは、間違いなくこの花から発せられたものだ。
膝を折って屈み、顔を近づければ、香りは益々強まった。意識して吸い込めば、すうっと身体の中に溶け込んで、心地よい。
「誰かのお見舞い、ってわけじゃないよね」
昨日のレイシフトでは、大きな被害は出なかった。留守番組の間で騒ぎがあったとも聞いていない。
並べられた簡素なベッドはどれも空だし、奥にある重傷者用の治療カプセルも蓋が開いていた。この可愛らしい花を愛でる人は、メディカルルームには存在しなかった。
残る可能性は、殺風景な室内に彩りを添えようとしたのか。
「だとしても、アスクレピオスの仕業じゃ、ないよね」
あの治療バカが花など飾るものかと、失礼千万な事を呟いて笑っていた、その真後ろで。
「僕が、なんだって?」
「――うひゃああ!」
その馬鹿にしていた相手の声が不意に響いて、立香は跳び上がらんばかりに驚いた。
思わず大事な検体を放り投げ、落とすところだった。孤を描いて戻って来たのを急ぎキャッチし、無事なのを確認して安堵の息を吐いた。
変な汗が噴き出して、心臓が口から飛び出るかと思った。
血の気が引いて青くなった顔色を、一瞬のうちに真っ赤に染めて、彼は奥歯を噛み鳴らしながら立ち上がった。
死者を蘇生するほどに医術に長けたが故に、大神ゼウスの雷霆を受けた男。
太陽神アポロンと人間の女との間に誕生し、賢者ケイローンに育てられた蛇使い座の英雄。
「アスクレピオス」
「なにか、用があったんじゃないのか?」
首を竦めて名を呼べば、白蛇を連れた男は立香が握り締めているものをチラリと見て、顎をしゃくった。
いつ戻って来たのか、全く気付かなかった。霊体化して、最初から部屋に居たのではないかと疑いたくなるくらい、気配を感じなかった。
止まらない汗を袖に吸わせ、息を整え、言葉を探す。
アスクレピオスは背もたれのある椅子を引き、腰掛け、サンダルの底で床を叩いた。
「これ、えっと。ダ・ヴィンチちゃんから」
「ああ、聞いている。報告は僕から直接すると、伝えておいてくれ」
「分かった」
急かされている気がして、若干早口になった。液体入りのボトルを差し出せば、医神は即座に理解して、左手で受け取り、興味深げに顔の高さに持って行った。
軽く振ったかと思えば、光に透かしてじっと見詰める。
早速集中モードに突入した彼に、苦笑を禁じ得なかった。
一応、これで用事は終わりだ。早急に立ち去っても良いのだが、なかなかタイミングが掴めず、切り出せなかった。
「あの」
「ん?」
黙って出て行っても、文句は言われないだろうけれど、それも若干癪に障る。
せめて何か言い残そうと、後の事は考えずに声を振り絞ったら、アスクレピオスの意識はあっさり立香に移動した。
目の前の検体に注目し、余所見などしないと信じていたから、意外だ。
翡翠の眼を向けられ、思わずドキリとなった。一度だけ大きく跳ねた鼓動に息を呑み、右往左往した後、立香は足元の花瓶を指差した。
「これ、どうしたの」
飾るのなら床ではなく、テーブルか、棚の上にすれば良いのに。
爽やかな初夏の匂いを漂わせるスズランを示しながらの問いかけに、アスクレピオスは嗚呼、と頷いた。
「あまり触るな。毒がある」
「え、嘘」
「嘘を言ってどうする。その花瓶の水を飲むだけでも、最悪、心臓が止まるぞ」
「……嘘だあ」
真顔で告げられたが、俄には信じ難い。
こんなにも可愛らしい花が有毒だと言われても、簡単には納得出来なかった。
大袈裟に言っているだけと、一笑に付そうとしたが、アスクレピオスの表情は変わらない。目つきは鋭く、真っ直ぐで、眼圧は凄まじかった。
ヒヤッとしたものを背中に感じて、たまらず花瓶から離れた。
先ほどまで快く感じていた匂いまで、毒かもしれないと考えたら、寒気がした。
「なんで、そんなもの」
両手で鼻を塞ぎながらの呻き声は、掠れて、くぐもっていた。
恐怖を滲ませた言葉に、アスクレピオスはようやく、ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「心配するな。匂いは問題ない。但し根や葉、花にも毒が含まれている。間違っても口に入れるな。特に葉は、見た目が似ている植物と勘違いしての、誤食が多い。気をつけることだ」
「……覚えとく」
「そうしろ」
表情は若干和らいだものの、語られる内容は至って真面目だ。注意深くスズランを観察しながら首肯して、立香はその外見を脳裏に焼き付けた。
今後、レイシフト先で野営をした時に、役に立つかもしれない。
野草を摘んで食べる程に困窮する事態にならないのが一番だが、知識は蓄えておくべきだ。
「ていうか、アスクレピオス。誰か毒殺したいの?」
「殺して欲しい奴がいるのか、マスター?」
「なんでオレの話になってんの」
「冗談だ。毒は、使いようによっては薬になる。実際、コンヴァラリア・トゥ・マイウから抽出したコンバラトキシン――」
「待って。コン……なに?」
そんな有毒植物を、医務室に持ち込んだ意味は。
薄ら寒いものを覚えて質問した立香は、続けられた言葉に眉を顰め、反射的に手を挙げた。
流暢に喋り続ける男を遮り、あまりにも耳慣れない単語に渋面を作る。
一方でアスクレピオスも不思議そうな顔をして、少し考え込んだ後、パチパチと目を瞬かせた。
「そうか。お前の国の言葉では、……君影草、もしくは」
「スズラン」
どことなく辿々しく言われたけれど、生憎、その呼び名にも馴染みがない。
最も一般的と思われる呼称を口ずさめば、アスクレピオスは鷹揚に頷いた。
「その、スズラン、も。使い方次第では薬になる。扱いは難しいが、強心剤としての効果が期待出来るからな」
彼にとっては、その呼び方こそが不慣れなのだろう。
立香ほどスムーズではない発音で言い直されて、なんだかくすぐったかった。
「蘇生薬に、使えそう?」
「どうだかな」
無意識に、笑みがこぼれた。頬を緩め、心持ち声を高くして訊ねれば、調子を取り戻した医神が肩を竦めた。
使えそうなものは、なんでも使うつもりらしい。
研究熱心な男に目を眇めて、立香は毒とは無縁にしか思えない花を見た。
「気になるなら、何輪か、持っていっても良いぞ」
「え。それは、ちょっと……」
「注意して扱えば、そう怯える必要はない。花だって、お前を害そうとして咲いているわけではないからな」
その視線を勘違いして、アスクレピオスが言う。
今し方聞かされた話を思い出し、首を横に振ろうとしたら、鼻で笑われた。過剰になる必要はないと諭して、彼はゆっくり立ち上がった。
立香が躊躇している間に、花瓶に歩み寄った。青々とした葉諸共に、三輪ほど、まとめて抜き取った。
縦に連なる花々が一斉に揺れ動いた。
鈴が踊り、透明な音が奏でられた気がして、立香は目を見張った。
「ここにあっても、用が済めば捨てるだけだ。飾ってやれ」
「あ、……うん。うん。ありがとう。大事にする」
素っ気なく吐き捨て、押しつけられた。
雫を滴らす花を慌てて抱え込んで、立香はぶっきらぼうな男と、白い花を交互に見比べた。
照れ臭さに微笑んで、一段と強くなった香りに目尻を下げた。
「お前のような花だな」
「ええー。全然似てないよ。オレ、こんなに可愛くないよ?」
それを眺めて、何をどう思ったのか。突然言われて、堪らず噴き出した。
いったいどこに共通点を見出したのだろう。あまりにも突飛な感想に、ケラケラ笑っていたら、気を悪くしたアスクレピオスがむすっと口を尖らせた。
「用が済んだなら、さっさと帰れ。この愚患者が」
「言われなくても、帰りまーす。どこかに花瓶あったかな。マシュなら知ってるかな」
乱暴に肩を突き飛ばされて、立香はあっかんべー、と舌を出した。素早く気持ちを切り替えて、ドアに向かいつつ、譲られた可憐な花に相好を崩した。
人の気配を感知し、扉は自動的に開いて、閉ざされる。
一気に静かになった室内にひとり佇んで、アスクレピオスは僅かに感触が残る指先を、額に持って行った。
「ひ弱そうな見た目で、全体に毒がある。……一方で、一度は止まり掛けた心臓を無理矢理動かす力もある。だというのに、当の花はそれに無自覚か」
今頃、あの青年は嬉々として、花瓶の行方を尋ねて回っているのだろう。
聞く相手のない独り言に自嘲して、彼は青臭い匂いを吸い込んだ。
思はずに深山出でしもほととぎす かく語らはん契りとを知れ
風葉和歌集 145
2020/05/03 脱稿