彼の背中が、好きだ。
勿論顔も、声も気に入っている。思いの外長い指も、もみあげだけが長い不思議な髪型も、大好きだ。
ただ一点、文句があるとすれば。特異な患者や見知らぬ病気の話を話を聞けば、どんな状況下であろうともそちらに意識を奪われ、なかなか戻って来ない、というところだろうか。
けれどひとつのことに集中し、やり遂げようという精神は、嫌いではない。だから結局、彼と、彼に関する事は、一から十まで、愛おしくて仕方がないのだ。
「……ふー……」
まだ熱いコーヒーに息を吹きかけ、立香は揺れる湯気越しに見えた姿に目を細めた。
先ほどから、室内に会話はない。それどころか、立香が入室した時点から、彼らはひと言も言葉を発していなかった。
ドアを開けた瞬間、視線を向けられたから、存在は認識しているはずだ。
完璧に無視されたのではないし、これが初めてというわけでもない。今さら傷つき、騒ぎ立てて、迷惑を掛けるつもりはなかった。
彼は単に、机と、モニターに広げている資料を見比べ、精査する方を優先させただけだ。多くのデータを参照し、集めた情報を入力して、より精度の高いものに変換していく作業は、地味な上に、時間を要するものだった。
「いつ終わるかな」
折角煎れたコーヒーが冷めないうちに、片付いてくれれば良いのだけれど。
自分にだけ聞こえる音量でぼそっと呟いて、立香は傍らに置いた、もうひとつのマグカップに目をやった。
カルデアの食堂で使っている、特に目立つ装飾もない、一般的な形のものだ。白一色で、持ち手部分はまるで耳朶のように、中央部で僅かに窪んでいた。
そこにカーブを作ることで、握り易くしているのだろう。
僅かな段差に指を引っかけ、底部を左手で支えながら、立香は香りが強いコーヒーを咥内に注ぎ込んだ。
「あち、ち」
ミルクと砂糖もたっぷり入っているので、苦みは全く感じない。
ただ熱い。味に関しては、二の次扱いだった。
「教授みたいには、いかないなあ」
折角教えてもらったのに、まるで活かせていない。
反省点が多過ぎると肩を竦めて、彼は穏やかに波打つ水面から視線を上げた。
俯き加減な姿勢はそのまま、瞳だけを動かした。湯気で曇る世界に飛び込んで来たのは、腰を捻り、椅子の背凭れに肘を掛けた男の姿だった。
白に彩られた背中ではない。
目映い銀が煌めき、冴えた肌に唇の紅が鮮やかだ。僅かに眇められた眼は、陽光を浴びた沃野の輝きだった。
「ん、んんっ」
「声くらい、かけたらどうだ」
気付かないうちに見詰められていたと知り、息が止まった。
予想していなかったので、驚いた。反射的に口の中にあった液体を一気に飲み込み、軽く噎せたら、呆れ半分に叱責された。
邪魔をしては悪いからと、遠慮していたのに、必要ないと言われた。気遣いが無駄になったのは地味に衝撃的で、哀しかったが、黙って手を伸ばされた途端、沈んだ機嫌は元に戻った。
「熱いよ」
寄越せ、という仕草に立ち上がって、零さないよう注意しながらマグカップを差し出す。
アスクレピオスは静かに頷き、持ち手部分に通った立香の指ごと、布越しに握り締めた。
「それじゃあ、下ろせないよ」
「なんだ。飲ませてくれるんじゃないのか」
これではカップを手放せない。
せめて反対側の手で底を支えてくれるよう求めれば、彼は小首を傾げつつ、低く笑った。
茶化して、こちらの反応を楽しんでいる。
「……猫舌だから、やだ」
その手には乗らないと頬を膨らませ、ふいっと顔を背ければ、諦めたのか、アスクレピオスは手を放した。
代わりにテーブルに散らばっていた資料を集め、隙間を作った。メモ用紙には英語ではない文字や、複雑怪奇な計算式が多数書き込まれていて、立香にはさっぱり読み解けなかった。
「どうぞ、先生」
その出来た空間に、淹れ立てではなくなりつつあるコーヒーをコトン、と置く。
からかわれた腹いせに嫌みたらしく囁けば、むず痒かったのか、アスクレピオスが椅子の上で身動いだ。
深く座り直し、爪先で床を数回叩いて、立香を仰ぎ見た。
「そちらでは、ないんだな」
「なんで? これは、オレのだよ」
袖越しに指差しながら言われたけれど、彼の言わんとしていることは、まるで分からなかった。
人の飲み止しを欲しがるなど、趣味が悪すぎやしないだろうか。温くなり、飲み易さが増したコーヒーを啜りつつ、首を捻っていたら、アスクレピオスはここぞとばかりにため息を吐いた。
「お前の魔力が、多少なりとも、混ざっているだろう」
渡されたマグカップに手を伸ばした医神の口調は、至って真面目で、真剣そのものだ。
「……やめてよ。冗談でもそういうこと、言うの」
だが内容は、褒められたものではない。洒落にならなくて、立香はむすっと頬を膨らませた。
魔術師として産まれたわけでも、教育を受けて来たわけでもない立香に内在する魔力は、極小だ。それでも唾液や、体液には微弱に混じるようで、隙あらば直接摂取を目論むサーヴァントも、実際、何騎か存在した。
この男は、その類ではないと信じていたのに。
裏切られた気分で睨み付ければ、悪いと思っていないのか、アスクレピオスは呵々と笑った。
机に寄りかかり、浅く腰掛けた立香の方を向いて、ミルクも、砂糖も足していないブラックコーヒーに舌鼓を打つ。
「僕だけじゃない。皆、言わないだけだ」
間際に囁かれて、立香は反射的に目を逸らした。照れも臆面もなくさらりと言われたのが、何故だか無性に恥ずかしかった。
欲望に忠実で、正直なサーヴァントと、そうではないサーヴァントの違い。
分かってはいたけれど、認めたくなかった事を明け透けな態度で伝えられて、立香は無意識に身を捩った。
肩幅に開いていた脚を閉じ、太腿の上に左手を置いて、マグカップを持つ右手に力を込める。
その横でアスクレピオスは頬杖をつき、口角を持ち上げた。
「どうした、マスター。心拍数が上がっているぞ?」
「うるさいな」
彼の目には、いったいどんな数値が表示されていると言うのだろう。
鼓動が加速しているのを正確に指摘されて、思わず悪態を吐いた。誤魔化しにぐい、とマグカップを傾けて、甘くて苦いコーヒーを喉の奥へと押し流した。
透き通るような爽やかな香りが、遅れて鼻腔を擽った。
「だいたいさ、オレの魔力って、どうなの。美味しいの?」
人間は食べ物を口から体内に送り込むことで、栄養を摂取する。しかしサーヴァントは、基本的に食事を必要としなかった。
魔力こそが、彼らを動かすエネルギーだ。しかし数多の英霊と契約する立香は、彼らを満足させるだけの魔力を有していない。もし全英霊に供給しようものなら、この身は一瞬で乾涸らびるそうだ。
そうならない為の代替品として、カルデアの電力が、彼らとの契約維持に費やされていた。
つまるところ、皆が欲しがるマスターの魔力だけれど、英霊の大半はそれなしで日々を営んでいた。実際に味わった経験がある者も、さほど多くはない。
藤丸立香の魔力が如何様な味わいなのか、感想を聞ける相手は、僅かだ。
その少数に含まれる男に興味本位で訊ねて、空になったカップを膝に置く。
小首を傾げながらの質問に、アスクレピオスはしばらく無言だった。
「聞いて、どうする」
「べつに、どうもしない。でも、自分のことなのに、知らないのは、ちょっと悔しいかなって」
やがてぼそっと訊き返されて、真面目に考えて、答えた。
マスターからサーヴァントへの魔力供給は、非常時の、限定的な行為という考えしかなかった。令呪に頼れない状況で、それ以外に生き延びる術がない時に使う最終手段、という認識だった。
だから魔力の味云々は考えてこなかったし、想像したこともなかった。
背筋を伸ばし、天井を仰いでから視線を戻せば、頬杖を解いたアスクレピオスがマグカップを降ろすところだった。
「マスター」
「ん?」
おいで、と手招かれたので、素直に従った。
役目を終えたカップは机に譲り渡し、床に降り、二歩にも届かない距離を一秒足らずで詰めた。彼の座る大きめの椅子に右膝を預け、隙間に潜り込ませた。
肘掛けに両手を置いて、二人分の体重を一脚の椅子に集中させる。
アスクレピオスが首を僅かに傾がせるのを待って、立香は息を止めた。
目は閉じない。慎重にタイミングと、角度を調整して、ほんの少し突き出された唇に、唇を寄せた。
「は……ン」
吸い付いた先はほんのり温かく、ほんのり湿っていた。
当たり前だろう、直前までコーヒーを飲んでいたのだ。鼻腔を通り過ぎた匂いも、当然の如く、その香りに染まっていた。
擦り合わせ、軽く食んで、伸ばした舌で互いをなぞって、離れる。
「苦い……」
「甘いな」
ほぼ同時に放たれた両者の感想は、真逆も良い所だった。
砂糖とミルク入りを飲んでいた男と、ブラックで飲んでいた男の差だ。前髪が交差する距離から数秒間見つめ合って、先に我に返ったのは、立香だった。
「って。違うって。そうじゃなくて」
これではただの、飲み物の感想だ。
知りたいのは、魔力に味があるかどうか、だ。欲しい情報はこれではない、と自分自身に首を振った彼に、アスクレピオスはしどけなく微笑んだ。
「座れ、マスター」
「え、ちょっと。それは」
「魔力を吸わせてくれるんだろう?」
寄りかかっている椅子から一旦降りるよう告げ、彼自身は椅子に浅く腰掛け直した。左右の制限がなくなった膝に身を委ねるよう促して、躊躇する立香を急かした。
だらりと垂れ下がる袖を振り、恐らくは足元を指差して、表情はどこか楽しげだ。
喜悦に染まる眼差しにゾクリとして、立香はここに来て初めて、自分の言動を悔やんだ。
尻込みして、じりじり後退を図るものの、果たせない。
二の足を踏んでいたら、焦れた男に腰を攫われた。素早く回り込んだ腕に問答無用で引き寄せられて、衝突を回避しようと踏ん張ったら、上半身だけが前方に傾く羽目になった。
「うっ」
転ぶ恐怖に負けて咄嗟に目を閉じ、両手を突っ張らせる。
肘掛けを掴み損ねて、ずりっと滑った。ガリガリ削られる衝撃が、指先から掌に向けて走る。心臓がきゅう、と縮こまり、全身の筋肉が硬直するのが、ありありと感じられた。
けれど予期していた激痛は来ず、冷たい床との接吻も起こり得ない。
「お前が言い出した事だろう?」
逃げようとしたのを咎める声が耳のすぐ傍らで響いて、その掠れる低音に、鼓膜がビリビリ震えた。
脳髄を直接掻き回された感覚に陥って、背筋が粟立つ。
同時に背中を撫で上げられて、ぞわっ、と鳥肌が走った。
「ひっ」
喉を引き攣らせて悲鳴を上げれば、立香の身体を難なく受け止めた男がくくっ、と笑った。
「知りたいんじゃなかったのか?」
左脇に潜り込んだ手と、背に添えられた手が、同時に上下に動き始めた。
布越しの愛撫は摩擦が激しく、くすぐったいというよりは、若干痛い。繊維に引っ掻き回され、擦られて、触れられた皮膚が熱を持ち、赤く染まっていくのが見なくても分かった。
「アスクレピオス」
「口を開けろ、立香」
なんとか肘掛けを掴み直したけれど、身体をさすられる度に膝が笑い、力が抜けて行く。
中途半端な前傾姿勢を維持するのは辛くて、助けを懇願すれば、無情なひと言が放たれた。
崩れかけの下半身を叱咤して、肩幅以上に足を開き、椅子から突き出た砦へと着地した。ゆっくり腰を下ろし、他者に体重を委ね、安心したところで、強張っていた頬の筋肉は自然と解けた。
止める暇もなく、勝手に開いた唇に、生温い湿った肉が貼り付いた。
蛇を真似て舌を伸ばしたアスクレピオスが、恐らくはわざと、たっぷりの唾液を立香へ塗り込めて、弾いた。
「ンぅ」
ぴちゃっ、と冷えた飛沫が散った。それ以上に、水が砕け、跳ねる音が大きく響いた。
咄嗟に仰け反り、喉を露わにした立香を追って、半神半人の英霊が両手でその細腰を掻き抱いた。落ちないよう、そして逃げられないよう左右から束縛して、無防備に晒された喉仏に齧り付いた。
軽く牙を立て、突起を取り巻く皮膚を浅く削る。
一歩遅れて傷つけた場所に唾液を塗布して、くにゅくにゅと、その一帯を捏ね回した。
「ひ、ゃ、あう……んっ」
最後にちゅう、と窄めた口で吸い付いて、解き放つ。
甘い痛みが背中を駆け抜けて、立香は無意識に、彼の腿を膝で蹴り飛ばした。
手の位置を肘掛けからもっと内側へ移動させ、力の入らない指で白いコートを引っ掻き、握り締めた。
気を緩めると、縋り付いてしまう。そうしたい衝動を瀬戸際で食い止めて、立香は顎を舐める男に首を振った。
懸命に遠ざけようと試みるが、この程度で引き下がってくれるのなら、彼は英霊になどならなかっただろう。
最後まで粘り、足掻き、食らいつき、運命を諦めなかったからこそ、この男は今、此処に在るのだ。
英霊という存在のしぶとさ、しつこさを、身を以て体感しながら、耳朶まで登って来た舌先に首を竦めた。ぞわぞわっと湧き起こる悪寒に懸命に耐えて、甘噛みからもたらされる淡い疼きに四肢を震わせた。
自分がどこに座っているかも忘れて、立香は腰をくねらせた。直接的な刺激を自ら生み出そうとして、直後、太腿の内側を這う存在に意識を奪われた。
いつの間にか、アスクレピオスの右手がそこにあった。左腕は背に回されたままで、変わることなく脊椎の隆起を擽っていた。
「あの、あの……待って。まって」
黒いズボンに隠された、幾分肉厚な箇所を揉まれて、電流が走る。
ふにゅふにゅと感触を楽しみながら弄られて、立香は舌足らずに捲し立てた。
「なにを?」
止まってくれるよう懇願したけれど、伝わらない。
逆に真意を聞かせるよう求められて、頭が爆発しそうだった。
火が点いたように真っ赤になって、アワアワしていたら、開けっぱなしの口を塞がれた。問答無用で食い付かれ、前歯を閉じ切る前に、咥内に潜り込まれた。
にゅるっと柔らかくて、生温かで、ねっとり湿ったものが歯茎をなぞり、粘膜を擦った。時に優しく、時に鋭く、傷つきやすい場所を何度も穿ち、捏ねられた。
その度にちゅくちゅくと粘り気のある水音が弾け、頭の中に響き渡る。
「んんん~~~!」
舐られた場所から熱が生まれ、全身へと広がっていった。脳天を貫かれる感覚が空恐ろしくて、鼻から息を吐き、悲鳴の代わりにするけれど、何の効果も得られなかった。
そうしているうちに肺の中が空になって、頭がくらりと来た。酸欠という言葉が脳裏を過ぎり、灯る危険信号に急かされて口を開けば、それまで脳内だけに轟いていた音が、派手に鼓膜を震わせた。
ぬちゃりと跳ねて、二重になって耳に飛び込んでくる。
「ひゃっ」
吃驚して肩を震わせ、身を捩れば、牙を覗かせたアスクレピオスががぶり、と容赦なく噛みついて来た。
距離を取ろうとした、と解釈したのだろう。
唇の脇を削られて、じんじんした。血は出なかったし、傷も残らないだろうが、しばらく消えそうにない痛みに耐えていたら、怒りに駆られた行動を反省した男が、そこを執拗に舐め始めた。
白い肌を丹念に撫で擦り、唾液を塗し、繰り返し擽る。
一方で置き去りにされた立香の舌は、前歯の裏で行き場をなくしていた。直前までの愛撫の記憶を辿り、忘れられず、欲に喘いでひくり、ひくりと切なげに震えていた。
「やら、ぁ。そこ、ばっ、か」
口を開けたまま訴えたら、上手に喋れなかった。
言葉を覚えたての赤子のような哀願に、アスクレピオスは動きを止め、長い睫毛を揺らめかせた。
肩の付け根付近を引っ掻き回されて、ふ、と力の抜けた笑みを浮かべた。愚図る子供をあやす眼差しをして、立香の目尻に浮かんだ涙を、音立てて吸い取った。
ちゅう、と甘く響く音を残し、寸前で閉ざされた瞼と、その真下にもくちづけて、鼻筋をなぞって唇へと降りて行く。
「は……ぁ、あふ」
「良い子だ」
先回りして口を開け、舌を伸ばして待っていたら、褒められた。頭の代わりに太腿を撫でられて、思わず腰が浮きそうになった。
彼の親指が、深く皺を刻む足の付け根を掠めた。
「んふ、う」
同時に、立香が無抵抗に差し出した舌を絡め取る。
狙い澄まし、タイミングを合わせたのだ。悲鳴を上げるのも許さず、全てを自分に委ねるよう促して、普段は奥深い場所に眠っている欲望を曝け出すよう仕向けたのだ。
表層を捏ね、唾液を啜り、または塗布して、透明な糸を垂らし、千切れないよう引き伸ばした。くちゅ、ぬちゅと淫らな音を幾重にも響かせて、呼吸を乱し、荒ぶる熱を招き寄せた。
柔らかな肉を絶えず擽られ、舌の付け根が引き攣るように痛い。
だのにそれさえも快感に置き換えて、立香は荒い息を吐いた。
「あ、っは……あ、す……んぁ」
名前を呼びたいのに、上手く音を紡げない。
途中で軽く牙を突き立てられたり、窄めた舌先でぐりぐり擦られたりと、毎回邪魔されて、叶わなかった。
「立香。……ああ、ああ」
だというのにアスクレピオスは簡単にこちらを呼んで、感極まった声を漏らした。
くちゃ、と一段と大きな水音の後に囁かれて、耳の奥を直接舐られた気分だった。
奪われる。
吸い取られる。
骨抜きにされて、ぐずぐずに蕩かされる。
下腹部が疼いて、腰の揺らぎが止められない。貪欲な身体がもっと、もっとと欲しがって、アスクレピオスに縋り付いた。
彼の肩を掴む手は幾度となく滑り落ち、その度に這い上がった。首に絡めてしまえば楽なのは分かっているけれど、ちっちゃなプライドが邪魔をして、そこまでは至れなかった。
擦られ過ぎた舌が痺れて、感覚がじわじわ鈍って行くのが分かる。
頭の芯が熱を帯びて、思考は霞んだ。もたらされる快感と、昂ぶる一方の情欲に全身が支配されて、アスクレピオス以外、なにも目に入らなかった。
気持ちが良い。
どうしようもなく、心地良い。
コーヒーの味など、もうどこにも残っていなかった。微かに燻る彼の体臭に包まれて、その匂いに染まっていく自分を否応なしに意識した。
「っあ、んむ、ン……ぅちゅ……ふふ」
なんだか嬉しくなって、自分からも吸い付き、齧り付いた。口を窄め、啄んで、ちゅ、ちゅ、と痕には残らないキスマークをいくつも送りつけた。
髭の無いつるりとした顎を舐めて、咬んで、嫌がられて、したり顔で笑いかけた。
これまでたっぷり嬲られた仕返しだとほくそ笑んで、やり返しに近付いて来た彼を一度は躱し、見つめ合った上でくちづけた。
「んぅ、は……ぁ、んんっ、んむぅ、う」
咽喉近くまで潜り込んで来た舌に付け根をぐりぐり捏ねられ、嘔吐くけれど、容赦なく叩き伏せられた。噎せたのに口を塞がれて、咳き込もうにも、出来なかった。
行き場のない呼気を吸われ、入れ替わりに注がれた。
唾液共々飲み込むように強要されて、逆らえるわけがなかった。
口付けあったまま喉仏を二度、三度と上下させ、涙目で睨み付ければ、不遜な眼差しが返って来る。
悦に入った表情を見せられて、興奮気味の吐息まで浴びせられて、身体が震えた。内側からゾクゾク来て、勝手に緊張した下半身がアスクレピオスの脚を両側から強く挟んだ。
甘い感覚が湧き起こり、全身を染めていく。
「あまい、な」
期待に彩られた眼差しを向ければ、ぽつりと呟かれて、立香はハッと息を吐いた。
遅れて、羞恥心がぶわっ、と膨らんだ。そもそもの始まりを思い出して、鼻を啜り、上唇を噛んだ。
一瞬で体温が上がった。自然と涙が溢れ、睫毛を濡らした。奥歯を噛み締め、喉をヒクヒク引き攣らせて、無条件で流されようとしていた理性を必死に引き留めた。
「アす、あ、アスクレピオス」
「なんだ? 教えて欲しかったのではないのか?」
肩で息し、何度も言葉を噛んだ立香を真正面から見据えて、まるで悪びれもせず、医神が告げた。
その一見涼やかな、しかしどこか余裕を失った彼の表情が、情欲を昂ぶらせた時の目つきを否応なしに想起させた。
耳の奥深い場所で、彼が過去、暗がりの中で囁いた言葉が甦った。
甘い。あまくて、甘くて、どうしようもなく甘い。
蕩けるほどに、芳しい。
どんな花の蜜にも勝るほど。
天上の甘露にさえ、引けを取らない。
これほどに僕を酔わせるものが、他にあるものか。
どれだけ喰らっても、喰らっても、食い足りない。
それらは全て、閨の中で、立香を貪り喰らう彼が紡いだことば。夢うつつの中で繰り返された、立香を味わう彼の、心からの想い。
低く掠れた声色が、一度は止まった震えを呼び覚ました。
「あ、……や、あ、……ああっ!」
どくりと心臓が嘶き、彼に貫かれる衝撃を再現する。
追体験させられて、立香は咄嗟に自分自身を抱きしめた。
熱が荒ぶる。息をするのさえ苦しい。ぞくり、ぞわりと、全身の震えが止まらない。
俯き、唇を戦慄かせていたら、顎を取られた。指二本で上向かされて、目を逸らすのは許されなかった。
大胆不敵な眼差しが、立香を捕らえて離さない。
「さて、マスター。次はお前の番だぞ?」
見せつけるように舌なめずりして、アスクレピオスがにぃ、と笑った。
2020/04/29 脱稿