キス習作1

 すいすいと、黒手袋に覆われた指が携帯端末の表面を動き回っていた。
 神話の時代の存在が、近代文明の利器を自在に操っている。カルデアに所属していなければ、そしてマスターとなっていなければお目にかかれなかっただろう光景に、立香はほう、と息を吐いた。
「ねえ」
 その最後の吐息を利用し、呼びかける。
 同時に彼は、よいしょ、とベッドから身体を起こした。
 両手と両足を使って四つん這いになってから、背筋を伸ばした。膝立ちでベッドサイドに腰掛けた男に躙り寄り、右肩にのし、と顎を乗せた。
 寄りかかり、体重を預けた。しかし黒衣の男は意に介することなく、手元に集中し続けた。
「まだ、それ、かかる?」
 持ち運びに便利なサイズの端末には、目が痛くなりそうなほどに細かな数字が、大量に並べられていた。
 立香と契約したサーヴァントたちの、様々なデータらしい。名前と性別が上部に記され、その下方に日付と、何に由来するか分からない数字が、無尽蔵に連なっていた。
 それらを並べ替え、或いは計算するために取り出して、アスクレピオスの指は忙しい。
「聞いてる?」
「聞こえている」
 返事がないのに拗ねて、首を伸ばせば、喉元に微風を受けた男がようやく言葉を発した。
 但し視線は固定されたまま、動かない。一瞥もくれない英霊にむすっと小鼻を膨らませて、立香は顎を浮かせた。
 一旦離れて、だらんと垂らしていた両腕を持ち上げた。これならどうだ、と心の中で鼻息を荒くして、男の背中に向けて、勢い良く倒れ込んだ。
「うっ」
 どすん、とぶつかられて、さすがのアスクレピオスも無視を決め込むのは難しかったらしい。
 両肩に腕を回し、抱きついて来た立香に、ようやく翡翠の瞳を投げかけた。
「マスター」
「やっと、こっち、見た」
「もう少し、待て。良い子だから」
「オレ、そんな子供じゃないんですけどー」
 若干迷惑そうに、眉間に皺を寄せて、端末から浮かせた手で黒髪をわしゃわしゃ撫でて来る。
 猫の子になった気分で首を竦めて、立香は文句を言いつつ、頬を緩めた。
 これしきのことで機嫌を取り戻してしまえるなんて、なんてお手軽なのだろう。そんな自分を悔しく思いつつ、スキンシップを純粋に喜んで、彼はゴロゴロと喉を鳴らした。
 そうすれば甘えん坊な獣と化したマスターに向け、医神が更に手を伸ばした。
 人体の急所である喉仏を撫でられたが、恐怖心は沸いてこない。むしろ信頼して、好きに任せていたら、耳の後ろから後頭部に腕が通された。
「アスクレピオス?」
「もうすぐ終わる」
 緩く力を込め、男が囁く。と同時に、彼は空いた方の手で、装着していたガスマスクを外した。
 隠れていた鼻筋から下のラインが現れて、ギリシャ彫刻にも劣らない流麗な顔立ちが露わになった。額で交差する銀の前髪を軽く揺らして、アスクレピオスはふっ、と鼻から息を吐いた。
 間近で見せつけられた微笑に見惚れ、立香は一瞬、息をするのを忘れた。
「それまで、大人しく待っていろ」
「う、……んっ」
 低い小声で告げられて、ハッと我に返った。
 返事をすべく首を縦に振ろうとしたら、立香の低い鼻に、高い鼻がぶつかった。
 思いがけず遮られ、何事かと思った時にはもう、唇が触れていた。軽く啄むように甘噛みされて、ぬるっとした温かな感触が通り過ぎていった。
 隙間から覗く赤い舌の悪戯に、自然と顔が赤く染まる。
「いきなり、は。やめてよ」
 いつまでも残る微熱が、立香からあらゆる自由を奪い去る。
 甘い色に染まった苦情を鼻で笑い飛ばして、アスクレピオスは朱を帯びた頬を擽った。

 2020/04/05 脱稿