かきくらす 空の時雨は しぐれかは

 断末魔の叫びを上げ、人の背丈をゆうに超える魔獣の体躯が大きく震えた。
 天を仰ぎ、牙を剥く。まだ襲って来るかと警戒し、息を殺して身構えた立香の前で、それはゆっくり倒れていった。
 ふらふらと左右に踊ったかと思えば、右に重心を傾け、そのままばったりと。太い四本の足がピクピク痙攣していたが、それもしばらくすると薄らいでいった。
「マスター、ご無事ですか」
 そんな毛むくじゃらのモンスターの脇から、ひょっこり、銀の頭髪が現れた。
 少し前まで死闘を繰り広げていたというのに、涼しい顔をしている。余裕すら感じられて、それで立香は我に返った。
「あ、ああ。うん。大丈夫」
 はっ、と息を吐き、強張っていた筋肉を弛緩させた。
 安堵感が押し寄せて、全身の力が抜ける。膝が笑い、崩れそうになったのを、必死に堪えた。
 そんな懸命の努力が報われたのか、サンソンには気付かれなかった。彼は黒いコートを翻し、素早く刈りとった魔獣の毛を手土産に、ゆっくりこちらに戻って来た。
 胸に手を当て、背筋を伸ばし、立香がそれを出迎える。
 今回の目的であった素材を受け取ろうと、両手を広げ、伸ばした瞬間。
「失礼」
「へわっ」
 短く呟いた男が、素早く身体を捻り、立香の横から腕を繰り出した。
 腋の下から手を入れ、首の後ろに通し、反対側の肩を掴んで引き寄せた。
 流れるようにスムーズに、肩を支えられた。頼んでもないのに倒れないようしっかりと抱えられて、立香はかあっと顔を赤くした。
「おぉ……じぇんとるめん……」
 悟られないよう上手く隠し通せたつもりだったのに、看破されていた。
 どこでボロが出たのか考えるが、全く思いつかなかった。
「お褒めいただき、光栄です」
 横ではサンソンが、しれっとした顔で笑っている。その落ち着き払った態度に頬を引き攣らせ、立香は小さく首を振った。
 流石は医者をやっていただけの事はある、ということか。処刑人としての面が強い彼だけれど、だからこそ人体の構造に詳しく、一寸した変化も見抜けるのだろう。
 数奇な境遇を有する英霊は多数在るが、サンソンもそのひとりと言えた。改めて彼の辿った道筋を振り返り、横顔を眺めていたら、突き刺さる視線を嫌った男が目を細めた。
「なんでしょう、マスター」
 帰還の号令はまだかと、照れ気味の視線が告げている。
 嗚呼、とうっかり忘れかけていた事を思い出し、立香は頬を緩めた。
「ムッシュ・ド・パリって、なんか、美味しそうだよね」
「はい?」
 だがその唇は、およそ誰ひとりとして想像していなかった言葉を発していた。
 カルデアとの通信を繋ごうとしたはずなのに、まるで異なる内容を口ずさんでいた。呟いた本人ですら予想していなかった状況に、立香は目をぱちくりさせた。
「あれ?」
 今喋ったのは本当に自分かと、あろうことかサンソンに訊ねて、首を捻る。
 不思議そうに瞬きする彼を見詰めて、世界でも有数の知名度を誇る死刑執行人は肩を落とした。
 盛大にため息を吐き、目を逸らし、項垂れて。
「もしや空腹ですか、マスターは」
「いやあ、あはははは。分かる?」
「貴方との付き合いも、それなりに長くなっていますから。しかし、ブッシュ・ド・ノエルの親戚のような扱いを受けようとは」
「……ごめん」
「いえ、責めているわけでは」
 サラサラと短い銀髪を風に靡かせながら微笑まれ、立香は恐縮して、首を竦めた。
 語感からの類推だったのと、そもそもの発端となった食べ物まで正確に当てられて、恥じ入るしかない。そこまで分かり易い人間だろうかと、自分を振り返りつつ頬を掻いて、その手で男の脇腹辺りをぽんぽん、と叩いた。
 もう支えなしでも大丈夫、との合図だったのだが、伝わらなかった。
 相変わらずサンソンの腕は立香の肩に回され、がっしり固定していた。
「サンソン?」
「フランスに馴染みが薄い貴方だからこその、発想、……なのでしょうね。もし、よろしければ、ですが。マスターの思い描く、ムッシュ・ド・パリとは、どのようなものでしょう」
「えええ~……まだ引き摺るの、それ」
「ええ、はい。是非に」
 感想を聞かせてくれるよう、至近距離から懇願されて、立香は心の中で後退した。
 コメントを求められたが、そもそも、深い考えがあっての発言ではない。思考が脳を通らなかったような、突発的、且つ偶発的な事故のようなものだ。
 それなのに食いつかれ、食い下がられた。
 サンソンとしては珍しい反応でもあって、立香は仕方なしに彼を見詰め返した。
 口を真一文字に結び、への字に曲げて、鼻から息を吐き、吸い込んで。
「んー……」
 自由が利く範囲で首を捻り、眉を顰め、半眼した。
 最初に思い浮かんだのは、赤だった。
 鮮やかな、緋。それは血の色であり、炎であり、熱であり、命でもある色。
「……マスター」
「真っ赤な、ケーキ。かな」
「ガトー?」
「ん」
 長く黙り込まれて、訝しんだサンソンが軽く身体を揺さぶった。
 それに触発されて口を開いた立香は、訊き返されて、小さく頷いた。
「赤い、ケーキ。甘くて、良い匂いがして、美味しくて」
 艶やかで、鮮やかで、滑らかで、しっとりしていて。
 それはもう、頬が落ちるくらいに甘美で。たったひとくちだけでも、天にも昇るほどの幸福感が得られるような。
「それを食べたら、もう、死んでも後悔ないって、思えるくらいの」
 思い浮かべるだけで涎が出て、涙まで溢れそうになる。それを懸命に押し留め、満面の笑みを浮かべて、囁く。
 黙って聞いていたサンソンは、途中から目を見開き、表情を険しくした。深く息を吸い、全身の毛を逆立てて、怒りにも似た感情を露わにした直後、すうっと何処かへ掻き消した。
 喉の奥で唸っていたのが、静かになった。
 その上で祈るように目を閉じ、顔を伏し、立香の肩に擦り寄った。
「よろしく、サンソン」
「いやです。嫌です。どうして、貴方は、僕に、そんなことを」
「アスクレピオスも、ナイチンゲールも、何があってもオレを助けようとするから。ごめんね」
「マスター!」
 俯く彼の頭を撫でての哀願を振り切り、サンソンは声を荒らげた。
 優しい手を払い除け、唾を飛ばして叫んだ。直後にハッとなって、気まずそうに顔を歪めた。
 歯を食い縛り、憤怒に耐えているのが良く分かる。
 それでも立香は彼に向け、控えめに微笑み続けた。
「……酷い人です」
 やがてサンソンが、ぽつりと、心からの感想を述べた。
 気持ちの整理が付いたのか、それとも無理矢理押し殺したのかは分からない。顔を上げた彼はいつも通りの涼やかな表情で、直前に垣間見た激情は、綺麗さっぱり失われていた。
 続けて彼は腕を下ろし、立香を解放した。靴底で地面を削り、正面に立って、恭しく一礼した。
「僕は貴方のサーヴァントとして、貴方の刃になると誓いました。地獄の底であろうと、天の果てであろうと、……良いでしょう。お付き合いしましょう」
 場所が場所なら、膝を折って恭順の意を示していたに違いない。
 ここが屋外で良かったと、密かに安堵して、立香は目尻を下げた。
「うん。ありがとう」
 謝意を伝え、今度こそカルデアとの通信を開いた。無事に目的が達成された旨を報告し、これから帰還すると早口に告げれば、端末からはマシュの喜ぶ声が聞こえて来た。
「マスター」
「なに?」
「いえ、大した事ではありませんが。戻ったら、マリーたちも誘って、お茶を一緒に。いかがでしょう」
 レイシフトに際しての注意事項が繰り返される中、サンソンがそっと耳打ちしてくる。
「良いね、それ。そうしよう」
 音を拾われないよう配慮しての小声に、思ったよりも大きな声で反応してしまい、慌てて口を塞ぐが後の祭り。
 左手で顔を覆った立香を眺め、マスターにはとことん甘いムッシュ・ド・パリは、嬉しそうに目を眇めた。

かきくらす空の時雨はしぐれかは 身より余れる夜はの涙を
風葉和歌集 1137

2020/04/26 脱稿