たとえば、ある夜の出来事として

 夜中だった。
 目が覚めた、というよりはずっと起きていた。眠れなかったのだ。
 寝支度すら済ませていなかった。興味深いデータをいくつか発見してしまい、読み耽っているうちに、ベッドに入るタイミングを失ったようなものだ。
 しかしさすがに、根を詰めすぎたらしい。
「ああ……」
 短く息を吐き、キリシュタリアは背筋を伸ばした。
 手袋をした指で眉間の皺を解し、疲労を訴える眼球を慰めた。座ったまま数回深呼吸を繰り返して、わざわざ印刷してもらった資料の表面を撫でた。
 カルデアはどこもかしこも機械化されており、情報の閲覧も、基本的にモニターの上でだ。だけれどキリシュタリアにとっては、眩しい光を放つ画面よりも、白くさらさらした紙に印刷された文字の方が、よほど親しみ易かった。
 それにこちらの方が、知識を吸収しているという実感が、より強く得られた。 
 この天文台は、どうしてここまで無愛想で、無機質な環境を整えたのだろう。
 到底理解の及ばない男の顔を思い浮かべて、彼は椅子を引き、立ち上がった。
 寝食を共にする仲間の多くは、もう夢の中のはずだ。キリシュタリアもこの後はシャワーを軽く浴びて、寝床に入るつもりだった。
 だが長時間読書に集中していたからか、小腹が空いた。喉も渇いている。
「食堂に行けば、なにかあるだろうか」
 ここでの食事は広々とした空間で、上下関係の関係なく、一堂に集まって、というものだ。
 けれどキリシュタリアは、その出自や時計塔での経歴、さらにはAチームの代表という肩書きのお陰で、他人と同席する機会はあまりなかった。
 あったとしても、Aチームの誰か、の場合が多い。付け加えるとすれば、そのチームの中でも、メンバーはほぼ固定されていた。
 カドックにヒナコは、まず近づいてこなかった。話しかけてくるのはオフェリアとペペロンチーノが殆どで、たまにデイビッドが斜向かいに座ってくれるくらいだろうか。
 今宵得た知見も、きっと彼らにしか語る機会は得られまい。
 どこに行っても、自分の周囲はこんなものだ。
 皮肉な笑みを浮かべ、彼は服の上から肩を撫でた。首を回して四肢の緊張を解し、力を抜いて、歩き出した。
 堅い音を響かせて、二十四時間明るさを保つ廊下を行く。窓の外は真っ白で、月どころか、星の光すら見当たらなかった。
「今夜は、一段と吹雪いているね」
 カルデアが建っている位置的に、仕方がないこととはいえ、空が見えないのは少し寂しい。
 鳥の囀りさえ聞こえない環境に在るのを改めて自覚して、彼は小さく首を振った。
 コップ一杯の水をもらって、早く休もう。こんな時間ではあるが、食堂は開いているはずだ。
 交代で働いている職員たちに、心の中で賞賛を送って、吹雪く世界を映し出す窓から視線を外した。
「おや?」
 その彼の前方に、左右を窺いながら進む背中があった。
 Aチームのメンバーが集まっている区画とは、別の区画から出てきたらしい。小走りに進む姿には、辛うじて見覚えがあった。
「あれは、たしか」
 ひとつの目的のために各地から集められた、優秀な魔術師たち。その筆頭格がキリシュタリアなのは、間違いなかった。
 けれどどういうわけか、魔術師とは到底言えない一般人までもが、カルデアに招聘されていた。
 レイシフト適正だけがずば抜けていた、という理由だけで東洋の島国から招かれた青年。
 名前を、なんと言っただろう。
「マウント・フジ、の……そう。フジ、マル」
 候補生の顔と名前、それに大体の経歴は、頭の中に入っている。なぜかマシュと一緒にいる機会が多いので、特に印象に残っていた。
 その彼が、こんな夜更けに、いったいどこに行くのだろう。
 魔術の教養が一切ないものだから、通常の訓練以外にも、様々な課題が出されているという話だ。もしやそれが辛くなって、逃げ出そうとしているのか。
「……」
 だとしたら、引き留める理由はない。本人が続けられないと言うのなら、その気持ちを尊重すべきだ。
 貴重な人材を失うのは惜しいが、やむを得まい。
 もっとも外は極寒の世界だ。不用意に飛び出したら、命に関わる。
 正当な手続きを経なければ帰れないのは、彼だって教えられているだろうに。その行動は、あまりに軽率が過ぎた。
 追いついて忠告し、帰国の助言くらいはしてやろうと、靴音を高く響かせたキリシュタリアだが。
「おや?」
 予想に反したルートを辿る背中に、彼は小首を傾げた。
 眉を顰め、藤丸立香が消えたドアを見上げる。
 閉じたばかりの扉を開けて、足を踏み入れれば、黒髪の青年は規則正しく並べられたテーブルの間を、小走りに駆けていくところだった。
 カウンターを回り込み、無人のキッチンの内側へ潜り込んで。
 行き止まりの空間で、東洋人の青年はひとり、満面の笑みを浮かべた。
 想像していたのとはまるで異なる雰囲気に、呆気に取られて立ち尽くす。
「ん? わあ!」
「うわ」
 惚けていたら、人の気配を感じた藤丸が顔を上げ、悲鳴を上げた。
 入り口に佇むキリシュタリアを見ながら、彼は両手を高く掲げた。恐怖に染まった表情で、化け物でも見たかのような態度だった。
 甚だ失礼な反応ではあるが、向こうがこちらの存在を、全く気取っていなかったのだから当然だ。
 冷静になれば、ずいぶんと滑稽な顔を見せられたものだと、笑いがこみ上げてきた。
「こんな時間に、何をしているんだい?」
 悲観的な予測は、綺麗に外れた。
 果たして正解は何だったのかと興味を引かれ、問いかけつつ距離を詰めれば、腕を下ろした青年はきょとんと目を丸くした。
 不思議そうに見つめられて、なんだかくすぐったい。
 堪えきれずに笑みを漏らせば、はっとなった藤丸は首を竦めて赤くなった。
「帰る、よ。ごめん」
「どうして謝るんだい?」
 手にしたもので顔を隠しつつ、余所を向きながら謝罪されたが、理由が分からない。
「……怒りに来たんじゃないの?」
 率直に聞き返せば、僅かに高い声が飛んできた。
 距離を詰め、カウンターを挟んで向き合って、彼の手元を覗き込む。
 藤丸が大事に抱えていたのは、丼状の容器だった。
 蓋部分に食べ物の画像が印刷され、商品名らしき文字が周囲を埋め尽くしていたが、残念ながら読めない。
 日本語は管轄外だった。もっと勉強しておくべきだったと悔やんでいたら、姿勢を正した藤丸が照れ臭そうにはにかんだ。
「はは、なんだ。んー……君も、お腹空いたの?」
 夜中の外出と、食堂への不法侵入を咎められるわけではないと知り、安心したらしい。
 白い歯を覗かせて笑う彼に、キリシュタリアは面食らった。
「それは、なんだい?」
「はい?」
 失礼ながら、彼は料理上手には見えない。それに色鮮やかな容器も気になって、反射的に問い質せば、今度は藤丸が目を点にした。
 そうして素っ頓狂な声を上げてしばらく固まった後、何かに思い至ったらしく、嗚呼、と頷いた。
「カップラーメン。見たことない?」
「カップ……? ヌードルなら、分かるが」
「そう、それ。そのインスタント版。お湯を入れたら、すぐ出来るよ」
「湯を? これから鍋で調理するのではなく?」
「……ねえ。もしかしてオレのこと、からかってる?」
 透明なビニルで包装された容器を見せながら説明されたが、半分も分からなかった。
 終いには疑われて、キリシュタリアは慌てて首を振った。
 顎に手をやり、真剣に見つめていたら、苦笑した藤丸がカウンターの向こうから手招いた。近くで見ればいい、と仕草で告げて、保温中だったポットのボタンを押した。
 再沸騰を機械に命じた傍らで包装を破り、蓋を半分だけ開けて、中に入っていた袋をいくつか取り出した。
「こんなものが、本当に、食べられるのか?」
「ふふふ」
「藤丸?」
「あ、すごい。オレの名前、知ってたんだ。意外」
 ゴミくずのようなものが入った透明な袋を破き、丼の中にぶちまけた彼に首を捻っていたら、嬉しそうに相好を崩した。
 名前を言い当てられたくらいで、喜んでいる。ぱあっと空色の瞳が輝いたのに、キリシュタリアは眉を顰めた。
「意外? どうして」
「だって、オレなんて、補欠だし。みんなと全然違うし。全然ついていけてないし」
 問いかけに、藤丸は恐縮しながら言った。遠くを見て、やがて自嘲気味に頬を歪め、手元に視線を落とした。
 袋に残っていた小さな欠片まで取り出して、くしゃりと握り潰す。横顔からは苦悩というよりも、悔しさが感じられた。
 それこそ意外で、キリシュタリアは息を呑んだ。
「君は」
「すごいよな、ヴォーダムは。エリートなんでしょ?」
「……ヴォーダイム、だ」
「え。あ、ごめん」
 喋ろうとしたら、遮られた。こちらに何も言わせないつもりなのか、早口に捲し立てられたが、指摘すれば彼は即座に頭を下げた。
 口に手を当て、失言を恥じていた。気まずそうに目を逸らして、失敗した、と言いたげな姿だった。
 自分は正しく名前を記憶してもらえていたのに、その逆が果たせなかった。
 今度こそ怒られるのを覚悟している素振りが、逆にキリシュタリアにとって、新鮮だった。
「私の名前を間違えたのは、君が、初めてかな」
「マジで? うわあ……ほんっと、ごめん」
 千年続く名門の跡取り息子の名を正しく記憶し、呼べない人間など、時計塔にはいなかった。
 本来は怒るべきところかもしれないが、初めての経験に、不思議と心が躍るのを抑えきれなかった。
 そもそも藤丸はきちんと反省し、謝罪した。それで帳消しだと口元を綻ばせれば、猫背になった青年は額を覆ってため息を吐いた。
「ちゃんと覚えたつもりだったんだけどなあ」
「君こそ、私の名前を、覚えようとしていてくれたんだね」
「そりゃあ、嫌でも名前、聞くし。みんな、ヴォー……ダイム、は、すごい、って褒めてるし」
 次は言い間違えないように注意しつつも、自信がないのがそこだけ不自然に間を取った彼は、依然としてキリシュタリアを見ない。
 代わりにゴミを捨てて、保温に切り替わったポットに向かった。半球状の容器に熱湯を注いで、蓋をして、残っていた銀色の袋を重し代わりに蓋の上に置いた。
 ちらりと遠くを見たのは、時計を確認したのだろう。
「私は、そこまで凄い人間ではないよ」
「嘘だあ」
「本当さ。それとも君は、皆が言っていることと、私自らが告げていることと、どちらを信じるんだい?」
「それは――」
 忙しなく動く彼に目を眇め、訂正を求めて、囁く。
 意地悪だったかもしれない質問に、藤丸は口籠もり、俯いた。
 自分がエリートと呼ばれる存在であり、その評価に見合う努力をしてきた自負はある。生まれ持った才能に奢らず、あらゆる知識を追い求め、覇道と信じた道のりを歩んできた自覚はある。
 しかし。
 なにも知らない、知りもしない連中から勝手な評価を下され、レッテルを貼られるのも、癪な話だ。
「……うん。でもやっぱり、ヴォーダイムは、凄いと思う。オレにはさっぱりなことも、すぐに解けちゃうし。みんなが投げ出したくなることにも、正面向いて取り組んでるし。そういうところ、立派だと思う。オレも、見習わなくちゃね。あ、今度、分かんないところ、教えてもらってもいい?」
 重しをしてもめくれ上がろうとする蓋を手で押さえ、やがて自分の中で結論を出したらしい。藤丸は静かに、こちらを向いて微笑んだ。
 本気でそう思っているのが分かる態度に、キリシュタリアは騒然となった。
 ヴォーダイム家の跡取りに気に入られ、取り入ろうとしている訳ではない。Aチームのリーダーだからと、媚びを売っている雰囲気でもない。
 上位の人間相手だからと諂っているわけでもなく、自尊心を抑制して傅いているわけでもなく。
 ちょっと成績が良いくらいの相手、程度の認識で。彼は。
「君は」
「そうだ。ヴォーダイムも食べるよね。だったら箸がもう一個……フォークの方がいいのかな」
「藤丸」
「なに?」
 独特のペースを崩さず行動する彼を引き留めて、思いの外大きな声になったのに、自分自身で驚いて。
 立ち尽くすキリシュタリアに、藤丸は不思議そうに首を傾げた。
 自覚はなかろうが、どこか小動物じみた仕草で、目を細めて口元を緩め、次の言葉を待っている。
 これまで近づいて来た誰とも異なる反応を目の当たりにして、動悸が収まらなかった。
「……キリシュタリア、で。構わない。そう呼んでくれ」
 気がつけば、そう懇願していた。
「そう? じゃあ、キリシュタイア」
「キリシュタリア、だ」
「嘘、言えてない? ええっと……キリシュタイヤ?」
「遠ざかった。どうしてそうなるんだ。もう一度、ちゃんと」
「だから、ちょっと待ってってば」
 血を同じくする一族のひとりとしての名前ではなく、ひとりの人間としての名前で、呼ばれたい。
 生まれて初めての衝動に、突き動かされた。
「三分経ってる。伸びちゃうって」
「藤丸」
「じゃあさ。もう、キリシュ、じゃダメ?」
 急かして、何度も訂正して、焦る彼に妥協案を提示された。
 一瞬息が止まった。上目遣いに訊ねられて、即答出来なかった。
 親にすら、そんな呼び方をされたことがない。ごく一部の人間からは、そう略して呼ばれたことが数回あるが、初対面も良いところの相手からは、初めてだった。
 返答を躊躇していたら、藤丸は待つつもりがないのか、勝手に動き出した。
 蓋を引き剥がして、温められた銀の袋の封を切り、どろっとした液体を湯に注ぎ入れて。
 自分で持ち込んだらしい割り箸で掻き混ぜて、湯を吸った麺を解していく。
 湯気を放つ容器からは、先ほどまではなかった深みがあり、芳醇で、空きっ腹を刺激する匂いが溢れた。
 夕食はしっかり取ったはずだが、それでも尚、食欲をそそられる香りだった。
「本当に、食べものだったのか」
「そう言っただろ。おいしいよ」
「なにかの魔法か? 湯を入れただけだろう?」
「その冗談、キリシュが言うと笑えないなあ」
 あまりにも急激な変化に理解が追いつかず、目を丸くしていたら、笑われた。
 冗談を言っているつもりは皆目ないのだけれど、伝わらなかった。心底びっくりしていたら、取り皿とフォークを出して来た藤丸が、肩を揺らしながら容器の中身を移し替えた。
「イギリスだったっけ。カップラーメン、なかった?」
「分からない。少なくとも、テーブルに出てきたことは、一度も」
「さすがはお貴族様。じゃあ、初体験、どうぞ。あっち行こう」
 ついでに出して来た四角い盆にカップラーメンの容器と、底の浅い食器と、箸とフォークを並べ、無人のテーブルを指差す。
 迷うことなく頷いたキリシュタリアは、無意識に湧き出ていた唾液を、息と共に飲み込んだ。
 目の奥がチカチカした。
 照明が切れかけて、点滅しているわけではない。頭上を仰ぎ、確かめて、彼は左手で口元を覆い隠した。
「藤丸」
「どうしたの? 早くおいでよ。冷めちゃうよ」
 動けずにいたら、呼ばれた。整然と並べられたテーブルのひとつに移動し、椅子を引いて、藤丸は座らずにキリシュタリアを待っていた。
 謙ることもなく、臆するわけでもなく。
 彼にとって――彼が生まれ育った環境では、それは当たり前のことなのだろう。
「私は、君が……ここから、出て行くのだとばかり」
「ええー? そんなことないよ。確かに無茶苦茶大変だけど、面白いし。知らないことだらけで、楽しいよ。世界が変わった、て感じで」
 キリシュタリアが向かい側に来てから着席して、食堂に来た本当の理由を告げても、彼は怒らなかった。
 食べる前に両手を合わせ、黙礼して、それから改めて箸を手に取る。
 これまで気がつかなかったけれど、彼の所作は整っていて、綺麗だった。
「そりゃあ、オレが素人なのを笑って、馬鹿にする奴もいるよ。けど、それは本当のことだし。オレが一番下なのは、オレだって分かってる。でも、やってみなきゃわかんないし。上には行けないかもしれないけど、前になら、進めるだろ? いただきます」
 一方的に喋って、打ち切って、食前の言葉を述べて、麺を抓んで音を立てて啜る。
 突然行儀悪くされて驚いたが、丼を持ち上げてスープを飲む姿は豪快で、堂に入っていた。
 とても美味しそうで、幸せそうで、楽しそうで。
 満ち足りているようで。
「食べないの? 伸びるよ」
「ああ、いただこう」
 見入っていたら聞かれて、キリシュタリアは慌ててフォークを取った。
 だが恐る恐る麺を掬い上げ、口へ運ぼうとしたら、寸前でするりと逃げられた。
「うあちっ」
 しかも落下の衝撃で跳ね返ったスープが額で砕け、反射的に悲鳴を上げた。
「ふっ。ふは、あはははは」
 挙げ句にその瞬間を藤丸に見られて、腹を抱えて笑われた。
 恥ずかしいやら、情けないやら、悔しいやら。ともかく訳が分からない感情が一気に溢れて、止まらない。
「そんなに、笑わなくても良いじゃないか。初めてなんだ」
「ごめん、ごめんって。なんだったら、食べさせてあげようか?」
「君は私を、いくつだと思っているんだ」
「ラーメンに関しては、オレの方が先輩ってことで」
 口を尖らせて抗議すれば、軽口で応じられた。あまりにも不躾な提案で、即座に突っぱねたが、後から思えば、恥を忍んで頼んでおくべきだった。
「一度や二度の失敗くらい――――うっ」
 意気込み、再び挑戦して。
「あー、あー。もう。布巾取ってこようか?」
 今度は無事に口まで運べたが、吸い込む瞬間、麺に絡んだ汁が服や、髪や、テーブルに飛び散った。
 見かねた藤丸の提言に黙って頷き、辛うじて咥内に収まった分を咀嚼して、飲み込む。
「おいしい……」
「よかった」
 ぽろっと零れた感想に、安堵の息が重なった。
 顔を上げた先に見えたのは、久しく忘れていた、澄んだ色の空だった。
 

2020/04/18 脱稿