たとえば、ある日の出来事として

 夜中も、もう良い時間帯だった。
「よし、出来た」
 小さく呟き、カドック・ゼムルプスは椅子の上で背筋を伸ばした。両腕を頭上で組んで、ぐー、と身体を大きく反らし、ギシギシ五月蠅い椅子の抗議は無視した。
 出来上がったばかりのレポートを保存し、念のためにバックアップも作成して、パソコンの電源を切った。これで明日の提出には間に合うと、一仕事終えた安堵感から、深く息を吐いた。
「さて、と。寝るか……ん?」
 今日やるべきことは、すべて片付いた。あとは枕を高くし、朝までベッドで過ごすのみとなった。
 しかし部屋の外からなにやら騒ぐ声がして、彼は疲労感が残る肩を揺らし、眉を顰めた。
 誰かが、こんな時間にも関わらず、暴れている。しかも一人ではなく、複数だ。
 なんと迷惑な話だろう。これではゆっくり休めない。
 気付いた仲間が注意してくれるのを密かに期待したが、生憎と、その気配はなかった。
 お行儀がよく、成績優秀なオフェリア・ファムルソローネが、眠い目を擦りつつ怒鳴り散らす姿は、あまり想像できない。ベリル・ガットや芥ヒナコがしゃしゃり出てくる可能性はゼロであり、スカンジナビア・ペペロンチーノでも半々がいいところだ。
 となれば、自分が行くしかない。
 こんな時間までレポート作成に費やしていた、自分の不運を嘆きたくなった。
「ああ、くそっ」
 悪態をつき、カドックは忌ま忌ましげに机を叩いた。苛々しながら立ち上がり、渋々ドアへ向かおうと、利き足を浮かせた。
 ところが。
「カドック、カドック! 助けて!」
 今まさに開けようとしたドアが、向こうから自動的に開いた。
 それだけではない。甲高い悲鳴を上げながら、小柄ではないが、大柄とも言えない体躯が転がり込んできた。
「待つんだ、藤丸。どうしてカドックに頼むんだ」
 続けて、夜中でも上等な白コートに身を包んだ男が、息せき切らして飛び込んできた。勢い余って床に転がり、這い蹲っている青年の肩を掴んで、必死の形相で激しく揺さぶった。
 彼が動く度に、鮮やかなブロンドの髪がふわふわと宙を泳ぐ。一方で組み敷かれ、振り回されている方は黒髪で、今にも泣きそうな顔をしていた。
 どちらも、カドックには馴染み深い存在だった。
 一方は彼が所属する組織、カルデアに編成されたAチームのリーダーであり、一方は補欠扱いの人間だった。
 遥か東方の島国からやって来た、魔術師ですらない男。単にレイシフト適正が優れているから、という理由だけで招かれた、およそ場違いも良い所の一般人。
 そんな二人が夜更けに、カドックの部屋へ、一度に押し寄せてきた。
「なんなんだ……?」
 さっぱり状況が分からない。キリシュタリア・ヴォーダイムがその優秀さをやっかまれ、無能な一般人に襲われているならまだしも。
 唖然と立ち尽くすカドックに救いの手を求めてきたのは、黒髪の東洋人、藤丸立香だった。
「おい、お前ら。なんだ。なんのつもりだ」」
 廊下の照明は、時間のせいもあるのだろう、昼に比べると薄暗かった。
 ドアは開いたままで、室内から漏れた光がそこだけ明るく照らしている。もし見る存在があれば、騒いでいるのはカドック、と思われかねなかった。
 自分自身の失態で減点を食らうのは致し方がないが、誤解で周囲にマイナス評価を下されるのは、我慢ならない。
「お願い、カドック。助けて」
「待つんだ、藤丸。君は、私の手助けは無用だと言うのか」
「……うるさい。うるさい、黙れ。黙れよ、お前ら!」
 しかし床で揉み合う二人連れは、こちらの迷惑など微塵も感じていない。
 勝手な主張を繰り返す藤丸と、それに追い縋るキリシュタリアに、カドックは耐えられなかった。
 ふたりよりも余程大きな声を響かせ、直後にハッとなった。慌てて邪魔になっている藤丸の足を蹴り飛ばし、ドアを閉めた。
 慌ただしく廊下を伺い見たが、幸か不幸か、誰とも視線は絡まなかった。
 瞬時に空間を断絶したドアに寄りかかり、痛む頭を抱えながら前に向き直れば、怒られて少しは冷静になったのか。ふたりは横一列になり、床に座り込んでいた。
「……ごめん」
「すまなかった、カドック」
 しかも素直に謝罪して、頭まで垂れる始末。
 揃ってしょんぼり落ち込んだ顔を見せられては、これ以上怒鳴りつける気力も失せるというもの。カドックはがっくり肩を落として溜め息を吐き、緩く首を振って、ドアから離れた。
「で、何の用なんだよ。ヴォーダイム、と……フジマルだっけ?」
 まだ自身の体温が残っている椅子に戻り、腰かけて、尋ねる。
 直接床に座しているキリシュタリアより、視線が高いのは、意外に悪くない。重役気分で首を傾げたカドックに、ふたりは顔を見合わせた。
 なにやら不穏な気配を醸し出した後、肘で牽制し合ってから、藤丸の方がおずおず口を開いた。
「あの、さ。カドックって、パソコン、詳しい?」
「別に、普通だけど。壊したのか?」
 一緒に右手も肩の高さまで挙げて、まるで教師に質問する生徒のようだ。
 問われて、ちらりと自分の机のパソコンに目をやって、カドックは頭に浮かんだ疑問を深く考えないまま、口にした。
「うん。壊したんだ、キリシュタリアが。オレのを」
「違うだろう、藤丸。私は、純粋に、君の手助けをしようと」
「でも結果的に壊したじゃん! オレが必死に書き上げた、明日締め切りのレポートのデータ、全部消えちゃったじゃん!」
 途端に、キリシュタリアが声を荒らげた。話に割って入ろうとして、膝立ちになった藤丸に、逆に怒鳴り返された。
 両手を大きく振り回して、藤丸が表情豊かに喚き散らす。鼻を愚図らせ、奥歯を噛んで、涙を流さないよう必死に耐えているのが窺い知れた。
 それを目の当たりにして、さすがのキリシュタリアも言葉を喉に詰まらせた。
「それは……弁解のしようもない。が、だったら、今からでもやり直せば」
「おい、ちょっと待った」
 気まずそうに目を反らし、もぞもぞ身動ぎながら、尚も食い下がって訴えかけるのを止めない。
 放っておけば人の部屋でふたりだけの世界を作り上げそうな空気に、カドックは慌てて腹に力を込めた。
 握り拳で自分の膝を殴って、聞き捨てならないやり取りに牙を剥いた。ふたりを順番に睨み付けて、再び痛み出した頭を右手で抱え込んだ。
「お前たち、えっと……どういう関係なんだ?」
「どういうって?」
「仮にも精鋭中の精鋭であるAチームのリーダー様と、雑用係同然の補欠が。なんで一緒になって、レポート作ってんだって話だよ!」
 自分もそのAチームの一員なので、自画自賛ではあるが、キリシュタリアが誰よりも優れた魔術師なのは否定できない。そんな、逆立ちして世界一周しても追いつけない男が、魔術の素養も、教養も皆無な人間に構っていること自体、あり得なかった。
 けれど現実に、彼らはこうして一緒にいる。
 こちらの知らないところで交流を深め、親しくしていたのは、間違いなさそうだった。
「カドック、君は知らないかもしれないが、藤丸は、素晴らしい人間だ。そんな風に貶めるような表現は、感心しないな」
「ちょっと、キリシュタリア」
 それを証明するかのように、神妙な顔になったキリシュタリアが真面目に言い返す。
 どこか説教臭い、真剣な口ぶりに、隣で座っていた藤丸は顔を赤くし、肘で彼を小突いた。
「なにを恥じることがある、藤丸。全部、本当のことだろう?」
「いつも言ってるだろ。オレのこと、買いかぶりすぎだって」
「おやおや。私の直感を疑うのかい?」
「そうじゃないけど――」
 その攻撃を受け止めて、キリシュタリアが愛おしげな眼差しを藤丸に投げた。受け止めた側も面映ゆげな、まんざらでもない表情で答えて、伸びてきた手に首を竦めた。
 手袋をした男に手首を取られ、両手で挟むように握られて、息を呑む。
 真っ直ぐな視線を上目遣いに探って、耳は真っ赤だった。
「……そういうのは、頼むから、よそでやってくれ」
 どこからどう見てもただ事ではない雰囲気に、カドックは思わず「ケッ」と舌打ちした。行儀悪く足を組んで、その上に肘を突き立てて頬杖を突き、忌ま忌ましげにふたりを見下ろした。
 一瞬とはいえ、完全に存在を忘れ去られた。
 人の部屋で色気づかれる謂われはない。やるなら出ていけ、と顎をしゃくれば、我に返った両者は慌てて居住まいを正した。
 居心地悪そうに恐縮する彼らを待っていたら、落ち着きなく左右を見回した後、藤丸が先に動いた。
「と、いうか。パソコンの話なんだけど」
 そもそも彼が、それほど親しくないカドックを頼ってきた理由。
 一般的に機械に疎いとされる魔術師の中で、比較的現代社会に馴染んでいる、ということで、候補に選ばれてしまったようだ。
 あとは何度か、シミュレーター内での戦闘で、不本意ながらチームを組んだことがある、という繋がりからか。
 本題を思い出した彼の言葉に、カドックは嗚呼、と頷いた。
「データが消えただけなら、状況にもよるだろうけど、復旧は出来るだろ」
「本当?」
 率先して手伝いたいとは思わないが、長々と居座られたら、いつまで経っても眠れない。
 後々恨まれるのも面倒で、助けてやる旨を告げれば、藤丸は目を真ん丸に見開いて、両手を忙しなく叩いた。
 データが戻ってくると決まったわけではないのに、心底嬉しそうな顔をして、無邪気に喜んでいた。反面、キリシュタリアは不満があるのか、口をへの字に曲げていた。
 ただし拗ねているのは、カドックに対してではない。
「藤丸……」
 口惜し気に名前を呟いて、ただひとりだけを見詰めている。
 その熱を感じさせる眼差しは、なんの関係もないカドックでさえ、気恥ずかしさを覚える程だった。
「マジかよ」
 まるで隠す素振りがないのにも驚きで、信じ難い。
 キリシュタリア・ヴォーダイムとは、こんな男だったのか。他人には隙を見せず、気安く話しかけるなど叶わない、恐ろしく遠い存在と認識していたのに。
 たった一人の、およそ優秀とは言い難い相手に対してだけは、こんなにも感情をむき出しにしていた。
 それが少し悔しくて、ほんのちょっぴり、羨ましくて。
 気まぐれに、意地悪をしてみたくなった。
「おい」
 喉の奥で笑いを押し殺し、カドックははしゃぎ回る藤丸を落ち着かせた。
 まずはその、壊れたというパソコンを見てみないことには、始まらない。
 今の彼が所持している様子がないので、部屋にあるのだろう。取りに行かせて、戻ってくるまで待つのは、正直言って時間の無駄だ。
「行くぞ」
 ならばこちらから出向くしかなく、そうすれば機械関係では役に立たない男も、諦めて立ち去るはずだ。
 就寝が多少遅くなるけれど、あのキリシュタリアを出し抜けるのだから、悪い気はしなかった。
 思わぬ弱みも発見したし、気分は上々だ。
 不遜な表情で気落ちする男を睥睨し、椅子を引いて、ゆっくり立ち上がった。カドックの動きを見守っていた藤丸は目をぱちくりさせた後、彼の意図を理解し、諸手を挙げて飛び上がった。
 そして。
「ありがとう、助かる。カドック、大好き!」
「うわっ」
 それがこの男のコミュニケーション方法なのか。歓声を上げ、抱きついてきた。
 日本人はスキンシップが苦手と言われているのに、容赦がなかった。背中に圧し掛かられて、危うく潰されるところで、カドックはすんでのところで、机を頼りに踏み止まった。
「離れろ、この。くそ、こいつ、意外に重い」
 耐え切れずに倒れていたら、藤丸も道連れだった。
 そうしてやればよかった、と内心思いつつ、存外力が強い男を引き剥がし、息を整える。
 深呼吸して、必要になるかもしれない、と自分のノートパソコンを小脇に抱えようとした時。
 凄まじい殺気を感じて、カドックはヒク、と頬を引き攣らせた。
「藤丸。やはり君の集めた資料だけでは、評価を得難いと思うんだ。君が良ければ、私が整理したものの、今回は提出を見合わせた分を提供しても構わない。カドックが無事にデータを復旧させた暁には、どうだろう」
「えー、いいよ。気持ちはうれしいけどさ。それに、それだとズルになっちゃわない?」
「そんな寂しいこと、言わないでくれ」
「だからさ、いいってば。変なところがないかのチェックは、カドックに見てもらうし」
「おい、勝手に決めるな!」
 前言撤回である。彼らとは、関わるべきではなかった。
 人の迷惑など一切気にせず、好き放題言い合うふたりにぎょっとなって、カドックは今度こそ藤丸を払い除けた。
 しかし彼も負けてはおらず、再び、今度は腰にしがみついてきた。
 腕を回し、力を込めて、頭を鷲掴みにされても離れていかない。
「ヴォーダイム、なんとかしてくれ」
「ははは。ふたりは仲が良くて、実に羨ましい限りだね。妬いてしまいそうだ」
「頭おかしいんじゃないのか?」
 なりふり構わずキリシュタリアに助けを求めるけれど、予想とは百八十度違う台詞が返って来た。
 反射的に怒鳴ったが、敢え無く流された。救い主を失ったカドックは、ぐいぐい押してくる力に抗いきれず、じりじりと後退した。
 藤丸に強引に移動を促され、パソコンを落とさないように抱きかかえるのが精一杯だった。
 ここで自分の分まで壊されては、たまったものではない。自尊心と優越感を優先させた結果に脂汗を流し、彼は凄みを利かせた眼差しにも鳥肌を立てた。
「今回は譲るとしても、カドック。藤丸は、渡さないよ」
「別に欲しいと思ったこともないし。要らないし!」
「ええー。レポート手伝ってくれたら、オレのとっておきのカップラーメン、出すよ? カドック、ラーメン嫌い?」
「待った。その話、どこから出て来た?」
 文脈がおかしい。ラーメンのくだりがどこから出てきたのかも、皆目理解出来ない。
 話が噛み合っていない。致命的なレベルでズレている。
 もしや、と嫌な予感を覚えて冷たい汗を流し、カドックは大きく身震いした。
「お前、ヴォーダイムのこと、分かってないのか?」
「うん? パソコン音痴で、オレの夜食のラーメン、いつもつまみ食いに来る奴なのは知ってるけど?」
 キリシュタリアには聞こえないよう音量を絞っての質問に、藤丸は目を真ん丸にして首を傾げた。
 こちらの意図を汲まない彼の声は、特別小さなものではなかった。
 きっとキリシュタリアの耳にも、無事届けられたことだろう。
 悪寒を強め、視線を転じれば、表向きは悪意ゼロでにっこり微笑む男が見えた。
「よし、行こう。善は急げって言うし。カドック、早く。早く」
 腰から腕に手を回し直して、藤丸が勇ましく吠えた。腕を高く掲げ、意気揚々と歩き出す。拘束されたままのカドックはもれなく引きずられ、下手なタップダンスを披露した。
「やめろ、引っ張るな。僕を巻き込むんじゃない」
「手伝ってくれるって言っただろー?」
 苦情を吐き捨てるが、耳を貸してもらえない。訴えが聞き入れられることはなく、無情にも部屋のドアは自動的に開かれた。
 キリシュタリアはひらひら手を振って、見送る姿勢だ。ここが誰の部屋か知っているだろうに、もしやカドックが戻るまで、ずっと待っているつもりなのだろうか。
 空恐ろしい想像をして、血の気が引いた。しかしどういう理屈か、藤丸を振り解くのも難しく。
 明日から始まる地獄の予感に、カドックはただでさえ悪い顔色を、いっそう酷くさせた。 

2020/04/15 脱稿