知らざりき 静心なく 波騒ぐ

 眼鏡の少女が血相を変えて駆け込んできた時は、血の気が引く思いだった。
 その細い肩に担がれ、引き摺られるように運ばれて来たのは、顔面蒼白の青年だった。明るく冴えた空色の瞳は瞼の裏に隠され、見えない。唇は土気色をして、体躯はか細く震えていた。
 トレーニング用のジャージ姿だった。ボクササイズ用のグローブを装着しており、話を聞いたところ、強く打ち込んだパンチングボールが跳ね返って来たのを、うっかり避け損ねたという。
 勢いに乗ったボールをまともに喰らい、仰向けに倒れた際に頭を打った。軽い脳震盪というのが、診断の結果だ。
 けれど詳しく調査したところ、他にも気になる数値がいくつか散見していた。
 ただアスクレピオスは、敢えてその事を口にしなかった。気絶したマスターこと藤丸立香を案ずるマシュ・キリエライトを説得し、業務へと戻らせる。他にもわらわらと、数珠つなぎの如く押しかけて来たサーヴァントの数々を追い出せば、メディカルルームは一気に静かになった。
「……ふう」
 今や室内に在るのは、溜め息を零したアスクレピオスと、ベッドですうすう眠る立香だけだ。
 カルデアに来て、こんなに大声を張り上げたのは、初めてだ。看病を買って出た複数の英霊を迷惑だと怒鳴り、その身勝手さが却ってマスターの療養を邪魔していると糾弾して、もう喉がカラカラだった。
 本来は食事を必要としない立場だが、今は一杯の水が欲しい。黒衣の上から喉仏の周辺を撫でて、彼はもう一度、深々と息を吐いた。
 寝台に目をやれば、点滴に繋がれた青年は、未だ夢の中だ。表情は落ち着いており、苦悶に歪んでいたのは過去の話となった。
「すまなかったな。騒々しかっただろう」
 聞こえていないと知りつつ、語りかけ、謝罪して、アスクレピオスはベッドへ足を向けた。喉の渇きを癒すのは後回しにして、落ち着いた呼吸を繰り返す青年を覗き込んだ。
 黒髪は汗ばんで湿り、額に細い毛先が何本も貼り付いている。枕元に設置したモニターに表示されるグラフはいずれも平常値の範囲内だが、数値として現れない症状というものは、確かに存在した。
「チッ」
 忌々しげに舌打ちして、彼は一旦場を離れた。
 壁際に設置された棚を開け、清潔なガーゼタオルを取り出した。他に必要なものはないかと、周囲を見回してから、すぐさまベッドサイドに取って返した。
 折り畳んだ布を立香の額や、頬に軽く押し当て、小さな粒に成長していた汗を拭い取ってやる。耳朶を包み込み、顎のラインをゆっくりなぞって、やがては首筋へと。
 ベッドに寝かせる際、ジャージの上は脱がせたので、今のマスターは黒のインナー姿だった。身体にぴったり密着したそれは、通気性が良い筈だが、それもほんのり湿っていた。
 一定の間隔で胸が上下に振れており、藤丸立香という人間がちゃんと生きているのを、如実に表していた。
「さすがに、な」
 肌着まで脱がせるか一瞬悩んだが、それだと起こしてしまう。上から拭うのが精々かと思い直して、アスクレピオスは何気なく点滴に繋いだ栄養剤に目をやった。
「……貴様」
 途端に顰め面を作り、医神として奉じられる英霊は、マスクの内側で声を低くした。
 透明な袋の向こう側に、白い塊が見えた。丸い角を生やした不可思議な生き物は、羊の人形のようであって、そうではなかった。
「随分と献身的だね」
 到底生き物とは思えない造詣ながら、それは、喋った。感心したような、それでいて呆れていると分かる調子で呟き、ぴょん、と平らな床の上で跳ねた。
 普段はトロイア戦争の発端となった英霊、パリスの頭上にいるぬいぐるみだ。しかしその実体は、太陽神アポロン。他ならぬアスクレピオスの父親たる存在だった。
 足がない為か、不器用に跳ねながら、少しずつ近付いてくる。時々着地に失敗し、横にコロコロ転がって、見る者が見れば可愛いと言いそうだけれど、生憎とアスクレピオスは全くそうは思わなかった。
 むしろ忌々しく、今すぐにでも蹴り飛ばし,踏み潰し、粉々に切り裂いてしまいたかった。
 けれど五月蠅くすれば、マスターの安眠を阻害する。
 確実に、一撃で仕留めるべく、向こうから間合いに入って来るのを見計らって、彼は背中にメスを構えた。
 魔術で練り上げたそれは、武器としての使用にも耐える鋭さだ。これで串刺しにしてやろう、と目論んでいたのだけれど。
「おっと」
 殺気を読んだのか、アポロンは前進した直後、ぽーん、と後方に跳ねた。
 今まさに足を踏み出そうとしていた医神はタイミングを外され、口惜しげな表情をマスクで隠した。
「こわい、こわい。それは、父に向けるものではないと、思うけどねえ?」
「貴様を親と思ったことは、一度もない」
「やだなあ。父なくして、子はならず。そこを忘れてもらっては、困る」
「黙れ。裂くぞ」
 眼光の鋭さが増した息子を冷静な声で諭しつつ、アポロンは嘲笑うかのように、愛くるしい身体を揺らした。
 脅しても、まるで響かない。その個体が唯一ではないから、破壊されたところで、痛くも痒くもないのだ。
 なんと腹立たしいのだろう。
 なんと傲慢なのだろう。
 人間はただひとつの肉体と、そこに宿る唯一無二の魂を守るのに、必死に生きている。だというのにそこの神は、無限に増殖する端末を有して、使い捨てのように扱っていた。
「僕に壊されに来たのなら、望み通り、そうしてやる。そうでないなら、今すぐ立ち去れ」
「随分と、その人間にご執心のようだけれど」
「出ていけ、と言ったんだ。聞こえなかったのか、この単細胞」
 これ以上、会話をするつもりはない。
 態度でも意思表示し、きらりと輝くメスを見せつける。
 右手だけで合計三本の凶器を構えてみせた彼に、アポロンは首を振ったつもりなのか、身体全体を横に揺らした。
「単細胞どころか、実はこの身体、もの凄く精密なんだけ――――あ」
 躊躇などしなかった。
 ぶちぶち言う羊を黙らせるべく、アスクレピオスは無言でメスを一本、投げ放った。
 それは見事にぬいぐるみの真ん中に突き刺さったが、手応えと言えるものはなかった。鋭利な刃物が深くめり込んでいるというのに、綿のひとつも洩れることなく、それは悠然と床の上に存在し続けた。
「酷いなあ。ぷんぷん」
「警告はした筈だ」
「そんなに、その人間が大事かい?」
 アポロンが可愛らしく文句を言った途端、その右の目らしき場所を狙い、アスクレピオスは二本目のメスを放った。続けて三本目を反対側に突き刺すつもりでいたが、照準が僅かに狂った。
 カツン、と固い音がメディカルルームにこだまし、跳ね返った凶器がくるくる回転しながら床を滑った。
「ちいっ」
 盛大に舌打ちした彼を感情のない眼で見上げて、羊に擬態したアポロンは、丸い身体を薄く、平らにした。
 どうやら肩を竦めているつもりらしい。
「やめておきなさい。人間は、いずれ死ぬ。それが『今』ではないだけだ。お前の献身は、報われない」
「うるさい!」
 どこまで人間の心を抉り、踏み滲み、蔑ろにすれば気が済むのか。
 我慢ならず、激昂した息子を見詰めて、アポロンは、今度は身体を縦に長くした。
 ぽとり、ぽとりと、羊に刺さっていたメスが床に落ちた。クッション性豊かなはずの身体をすり抜けて、アスクレピオスが投じたものは、なにひとつ神に届かなかった。
「忠告はしたよ」
 無傷な身体を取り戻し、飄々と告げて、アポロンがひときわ大きく跳ねた。愛しいパリスのところへ戻るつもりなのか、自動ドアを抜けて、これまでの不器用な動きが嘘のようなスピードだった。
 一瞬で獣が立ち去って、残されたアスクレピオスは原因不明の疲労感に襲われた。力が抜けて、堪らず先客があるベッドに寄りかかった。
 改めて目を向けた立香は、傍らで起きていた一触即発の事態を知る由もなく、穏やかに眠っていた。
 口元が僅かに綻び、微笑んでいるようにも見える。夢の中でだけでも楽しい思いをしていれば良いと願って、アスクレピオスは濡れた黒髪を軽く梳いた。
 傷をつけないよう慎重に、指で額から払い除けてやった。幾ばくか血色が戻った肌を確かめ、首筋に揃えた指を添えれば、とくん、とくん、と確かな血流が感じられた。
「……マスター」
 他の患者には、ここまでしない。献身的かと言われたら、その通りかもしれない。
「お前は僕のマスターであり、パトロンであり、患者であって」
 指摘されるまで、考えもしなかった。
 互いの立場を確認すべく、関係性を声に出し、数えていくが。
 まだあるような気がして、けれど思いつかなくて、アスクレピオスは言葉を喉に詰まらせた。
「お前は、僕の」
 無音で口を開閉させてから、静かに眠る青年の頬に手を添えた。ゆっくりと撫でて、柔らかな耳朶を擽った。
 命の息吹を探って、確かめて、安堵した。反面、意識が無いまま運び込まれた時の事を思うと、胸がざわつき、心臓が締めつけられるように痛んだ。
 空色の瞳が見えないのが、不安を誘った。
 形良い唇が何も告げてくれないのが、心細さを引き寄せた。
 早く目覚めて欲しい。早く自分を見て、その名前を口ずさんで欲しい。
「お前は、僕の……なんだ……?」
 渦巻く感情の波に抗い、アスクレピオスは眠る立香の唇をなぞった。
 

知らざりき静心なく波騒ぐ みぎはに鴛鴦の浮き寝せんとは
風葉和歌集 1144
2020/04/12 脱稿