ブリーフィングを終えて、マシュと一緒に食堂へ向かう途中だった。
廊下の先に見知った影を見付けて、立香は怪訝に首を捻った。
彼らの前方に佇んでいたのは、黒いフードを被り、烏の嘴にも似たマスクを装着したひとりの男だ。生物なのか、機械仕掛けなのかも分からない蛇は、連れていない。白い杖も持たず、その身ひとつで待ち構えていた。
「アスクレピオスさん?」
立香の挙動を見て、マシュも少し先に立つサーヴァントに気付き、その名を口にした。
アスクレピオス。ギリシャに由来する英霊にして、医療の神として崇められている半人半神の存在。太陽神アポロンの子にして、賢者ケイローンの教え子でもあった。
表情はマスクとフードに隠れ、殆ど見えない。翡翠色の瞳も隠されて、その感情は読み解けなかった。
「マスター、少し良いか」
「え? ああ、うん。どうかした?」
カルデアに召喚された彼が真っ先に取り組んだのは、メディカルルームの独占だ。持ち合わせたスキルを最大限活用し、新たな医療器具を量産しては、治療と称して日々研究を重ねていた。
そちらに多くの時間を割いているので、彼がカルデア内に存在する娯楽室や、食堂といった公共スペースに顔を出すのは稀だ。廊下を歩いている姿さえ、滅多に見る機会はなかった。
そんな男が、まるでマスターである藤丸立香を待っていたかのように、突っ立っている。
不思議に思わない方が可笑しかった。
前回の検査で、なにか引っかかるところがあったのか。それとも研究に必要な素材の確保の為、どこかしらの時代へレイシフトしたいのか。
思いつく限りの理由を頭の中で並べ、立香はマシュに手を振った。先に食堂に向かうよう、無言で指示を出せば、意図を組んだ彼女は笑顔で頷いた。
「それでは、先輩。お先です」
「うん。すぐ行くから、オレの分もお願い」
「了解です」
長い旅路を共にしてきたからか、ちょっとした事でも通じ合える。
相棒感が増して来た彼女に昼食の確保を任せ、立香はアスクレピオスに向き直った。
黒衣のサーヴァントは残っていた距離を早足で詰め、すれ違ったマシュに一瞬だけ目をやった。振り返らなかった少女の背中を見送って、彼は呆れた感じで右手を腰に当てた。
「あのデミ・サーヴァントは、お前の情人か?」
そうしてマスク越しに、低めの声で問うて来た。
「じょう……えっと。ごめん、なに?」
だが彼の発した単語の意味が、立香には上手く理解出来ない。
分からなくて素直に訊き返せば、アスクレピオスは不機嫌そうに目を眇めた。
「恋人か、と聞いている」
「は?」
挙げ句、ため息を吐きながら言い直された。
あまりに直球な質問に、立香は目を丸くした。聞き間違いかと疑って、至って真面目な顔つきの男にさーっと青くなった。
直後に火が点いたように真っ赤になって、両手をばたばた振り回し、叫んだ。
「ちょっ、はあ? えっ、急に、なに。ちっ、違うよ。マシュとは、えっと、その。そういうんじゃ、なくて」
廊下には他にも何騎かサーヴァントがいたし、ブリーフィングに参加していたスタッフの姿もあった。
突然声を張り上げた立香に驚き、多くの視線が一斉に彼に向けられた。思いがけず注目を浴びた青年は恥ずかしそうに地団駄を踏み、遠くを伺い、マシュが戻ってこないのを確かめて、ホッと安堵の息を吐いた。
心臓がバクバク五月蠅い。体温が上がって、首筋を汗が伝った。
「心拍数が異常な反応を示しているぞ、マスター」
「アスクレピオスが、急に、変なこと聞くからだろ」
それは医者でもある目の前のサーヴァントにも、しっかり伝わっていた。
熱を帯びた頬を押さえ、立香は口を尖らせた。
深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着かせて、改めてアスクレピオスを見やる。彼は相変わらず何を考えているか分からない顔をして、二度、三度と小さく頷いた。
「それで? まさか用件って、それだけ?」
こんな所で待ち伏せてまで聞きたかった内容が、これなのか。
咥内の唾を飲み、ジト目で睨み付けながら、嫌味も込めて立香は問い直した。
「いや。マシュ・キリエライトが、マスターの恋人であったとしても、僕としては何の弊害にもならないんだが。お前に渡したいものがある」
彼は前半と後半で、全く意味が繋がらない言葉を口にし、右手を左手の袖に入れた。
この半神が何を伝えようとしているのか、はっきり言って、まるで分からない。ただ彼の縁者に当たるアルテミスも、人間には不可解極まりない行動を執る場合があるので、最早驚きもしなかった。
袖の中に物を収納するスペースがあった事の方が、吃驚だ。
どういう構造になっているのか謎なコートから出て来たのは、四角い、掌にすっぽり収まるサイズの箱だった。
中程に一本、筋目が入り、蝶番が見えたので、パカッと蓋が開くタイプのものだろう。大きさ的にも、指輪を入れる為のケースのようだ。
けれどこの男に、そのようなものは似合わない。恐らく、新しく出来た薬かなにかだろうと高を括っていたら。
「受け取れ、マスター。先日の、お前の言葉に対する答えだ」
「ん?」
またもや意味不明な事を言いながら、彼は長い袖の上で箱を上下に開いた。
現れたのは、指輪だった。
揺れる黒色の布の上で、鮮やかなピンク色が照明を反射し、煌めいた。
「はい?」
銀の輪に留められた石そのものはそこまで大きくないが、存在感が凄まじかった。光を集め、倍増させて周囲に拡散している。間違いなく高品質で、高価なものだと、宝石に興味がない立香でも、背筋が震えるくらいだった。
強突く張りの、宝石に目がない女神が見たら、拍手しながら飛び跳ねるのではないか。
そんなピンク色のダイヤモンドで飾られた指輪を突きつけられて、目が点になった。
「どうした、マスター。嬉しくないのか」
アスクレピオスは人間の血を半分引いており、まだまともな方だと信じていたけれど、その前提が揺らぎ始めていた。
「なに、……これ……?」
悪寒がした。
恐る恐る、掠れる小声で問いかければ、指輪を手にした男は逆に、不思議そうに首を捻った。
「お前が言ったんだろう。僕と、結婚しても良いと」
「言ってないよ!」
まるで身に覚えが無いことを言われて、声がひっくり返った。先ほどよりずっと大きい声を響かせ、立香は握り拳を作った。
さすがに殴りつけはしないけれど、それに近い態度にはなった。背筋を伸ばし、己を大きく見せようとした彼に、アスクレピオスは流麗な眉を顰めた。
「その年齢で、痴呆の気があるのは、どうかと思うぞ」
真剣に心配されて、この医神の頭は本当に大丈夫かと、不安になった。
冷や汗が止まらない。無理矢理指輪を渡そうとする手を察し、一度は逃げたが、険しい目つきで睨まれて、それ以上は動けなかった。
神の暴走がどれだけ凄まじいか、身を以て知っている手前、迂闊な事も言えなかった。
「本当、待ってよ。さっぱり分かんないんだけ、ど……ん?」
いくらアスクレピオスがキャスターで、筋力もセイバーやランサーに比べると劣っているとはいえ、人間である立香よりは圧倒的に強い。
なるべく機嫌を損ねないよう、注意しつつ、必死に言葉を探していたら。
抱え込んだ頭の片隅で、キラリと光るものがあった。
指輪に取り付けられた石のように、綺麗なピンク色をした、そう、パンケーキ。
数日前のことだ。
メディア・リリィがイアソンに向かい、甘い苺を山盛りにしたパンケーキを、一緒に食べようと誘っている現場に、遭遇した。
食堂で、偶々だった。その場にはヘラクレスもいた。メディカルルームで治療中だったのに、無理矢理イアソンが連れて行ったとかで、憤慨しながらヘラクレスの手当てを続行するアスクレピオスも、居合わせていた。
滅多に無いことだからと、面白がって、傍に行った。イアソンはメディア・リリィの提案を迷惑そうに断ったが、押し切られ、嫌々パンケーキを口にしていた。
そこでのやり取りだ。
いたいけな少女が、自分達は結婚を約束した間柄なのに、イアソンはどうしてそんなに自分を邪険に扱うのか、と抗議した。
イアソンは彼女に、自分達はもう離婚しているからお前など関係無い、と言い返した。
そんなことはない、とメディア・リリィが声を荒らげる。だがまともに取り合う気がない男は、偶然目が合った立香を指差し、こう言った。
お前と結婚するくらいなら、マスターと結婚する方がマシだ、と。
話の流れの上であり、冗談だと誰が聞いても分かるものだ。立香も真に受けなかったが、丁重にお断りした。そうした方が、場が盛り上がると思ったからだ。
すると、即答で拒絶されると思っていなかったらしい。イアソンは大袈裟に落ち込んで、隣に居たヘラクレスに抱きついた。だったらコイツと結婚する、と言い出して、巻き込まれたヘラクレスもかなり困った様子だった。
挙げ句にイアソンは、マスターであってもヘラクレスはやらんぞ、とまで言い出した。この話題はいつになれば終わるのか、と半ば呆れていた立香は、別に構わない。どうせなら、自分はアスクレピオスの方が良い、と答えた。
イアソンからは、本気か? と心配された。
アスクレピオス当人は、全くのノーリアクションだった。
他愛ないやり取りの中の、他愛ないジョークだった。
その筈だ。
それがまさか数日後、こんなことになろうとは、ゼウス神でも思うまい。
「冗談でしょ。アスクレピオス、あれ、本気にしたの……?」
「どういう意味だ、マスター。まさか、お前、僕に嘘を言ったとでも?」
首を竦め、小さくなり、後退しながら質問を投げる。
すかさず右足を大きく前に出して、アスクレピオスは今までにないくらい低い、ドスの利いた声を発した。
「いや! いや、ちが……いや、その……あの……」
それがあまりに恐ろしくて、まさに蛇に睨まれた蛙だ。その通りです、とはとても言える雰囲気ではなくて、立香は言葉に詰まり、ふるふる首を振った。
これで通じてくれれば良いが、残念ながらそうはならない。
「ていうか、アスクレピオス。奥さん、居るんじゃ」
必死に考え、なんとかこの場をやり過ごせる材料を探し、ぽろん、と落ちてきた神話の一幕。
これで思い直してくれるのでは、と一縷の望みを託し、声に出す。
「それがどうした?」
箱から取り出した指輪を右手に、残る手で立香の左手を掬い取った男は、間髪入れず、一切悪びれることなく、言い放った。
「恋人は、何人居ようが構わないものだろう?」
「うわ――……」
流石はあのアポロンの息子、とは口が裂けても言えない。
いつサイズを測ったのか、ピンクダイヤモンドの指輪は、立香の左薬指にぴったりだった。
紅に匂はざりせば梅の花 深き心をよそへましやは
風葉和歌集 38
2020/04/04 脱稿