時間になっても、メディカルルームのドアは開かない。誰もやってくる気配が感じられなくて、準備して待ち構えていたアスクレピオスは眉を顰めた。
「間違えたか?」
定期検診の時間を伝え損ねた可能性を考え、彼は首を傾げたまま、手にしたカルテに目をやった。
持ち運びに便利な、程よいサイズの端末に表示されたデータの右上には、検診日として今日の日付と、ほんの三分前に通り過ぎたばかりの時刻が記されていた。
一週間前の検診の際に、次はいつにするか、相談して決めていた。
昨日も、イレギュラーが発生していないか確認し、問題ないとの結論を得ていた。
だというのに、どうして彼は来ないのか。
ここで悶々と悩んでいたところで、正解など得られない。持て余した苛々を発散すべく、アスクレピオスは床を蹴り飛ばした。
右足の裏がほんのり痛んだが、意に介さない。この程度で悲鳴を上げている場合ではないと己を叱咤して、壁のボタンに手を伸ばした。
もしかしたら遅れているだけかもしれず、この瞬間もこちらに向かっている最中かもしれない。
または完全に忘れ去って、食堂で他のサーヴァントたちと談笑しているところかもしれない。
あれこれ想像するけれど、いずれも決定打に欠けた。念の為、ダ・ヴィンチにマスターの所在を問い合わせてみれば、彼女は小さなモニターの中で、不思議そうにするだけだった。
その隣に居たマシュ・キリエライトにも問うたが、返答内容はダ・ヴィンチとほぼ同じ。しかし朝食時に、『今日は部屋でのんびりする』と言っていた、との情報が得られたのは、不幸中の幸いだった。
これで、当てずっぽうでノウム・カルデア内を歩き回らずに済む。
礼を言って通信を切り、医務室の主と化した男は覚悟を決めて立ち上がった。
薄型の携帯端末を胸に抱き、足早に部屋を出た。
廊下を行くサーヴァントに挨拶をされる都度、会釈を返した。カツカツと固い音を響かせる空間は明るく、煌々と照っている。しかしどこまで行っても窓はなく、豊かな自然や、時の移ろいを感じ取るのは難しかった。
単調で、無機質で、面白味がない。
こんな時だけ、ふと、故郷たるギリシャの大地が懐かしくなった。山があり、海があり、地形は起伏に富んで、季節に合わせて咲き誇る花々は美しかった。
冬の間の陰鬱な空気も、夏場に全身を貫く太陽の鋭さも、此処に在る限りは一切得られない。
「僕らしくない」
感傷に浸るなど、奇妙なことだ。
緩く首を振り、忘れることにして、アスクレピオスは辿り着いた部屋の前でひとつ咳払いした。
それで気付いて飛び出して来るなら、許してやろう、と頭の片隅で考えた。もっとも現実は甘くなく、期待したような結果はひとつも得られなかった。
「まったく」
だがこのドアの向こうにマスターがいるのは、ほぼ確実だ。彼のサーヴァントとして契約した際、両者の間で繋がった魔力の流れが、この距離からだとはっきり感じられた。
いったい何をしているのやら。
たっぷり説教してやろうとほくそ笑み、ドアを開ける。
「入るぞ、マスター」
「ぎゃ!」
入室の許可は取らなかった。足を踏み込んでから胸を張って言って、視線を前方に投げれば、正面の壁際に設置された寝台で何かが大きく飛び跳ねた。
薄手のタオルケットが宙を舞い、空気を受けて膨らんで、すぐに落ちて沈んだ。ふぁさ、と肩に布を羽織った青年は吃驚した様子で目を丸くして、手にした本を閉じ、視線を左右に泳がせた。
動揺が垣間見えた。時計を探し求め、表示されている数字をじっと睨み付けた後、数回瞬きを繰り返し、再度小さく悲鳴を上げた。
一旦俯いて、顔を上げて、頬を引き攣らせながらぎこちない笑みを浮かべる。
なぜアスクレピオスが訪ねて来たのか、理由が理解出来たらしい。
「さて、マスター。問題だ。今は、何時だ?」
それを証拠に、低い声での呼びかけに、彼は大仰に首を竦めて小さくなった。
「ごめ、……ごっ、ごめん。ごめんなさい。過ぎてるの、気がつかなかった」
早口で謝罪して、ベッドの上で丸くなり、両手を叩き合わせ、頭より高く掲げた。土下座、と言われているポーズとは少し違うが、それが許しを請う姿勢だというのは、よく伝わって来た。
悲痛な形相で拝まれて、アスクレピオスは苦笑を漏らした。
「遅刻は許し難いが、自力で思い出した点は、褒めてやろう。面倒だから、ここで済ませる。良いな?」
「お願いしまっす!」
検診といっても、大したものではない。身体に異常がないかの問診と、本人が自覚していない異常が現れていないかの触診が、大半だ。
大がかりな装置を使っての調査は、過剰にやり過ぎると、却って身体に変調を招きかねなかった。
「何を読んでいたんだ?」
ドア前から離れ、自動でスリープモードに入った端末を起動させながらの質問は、ただの興味本位からだった。
時間の経過を忘れるくらい、没頭する本だ。さぞや著名な人物による作品だと思い、表紙に目をやれば、記されていた文字はアスクレピオスにとっても馴染みのあるものだった。
「へへへ」
一瞬目を見張ったのを、マスターは見逃さなかった。彼は悪戯っぽく笑って、膝に転がしていた本を得意げに見せびらかした。
「……選書に難があり過ぎるぞ、マスター」
「そんなことないって。面白いよ、アルゴナウティカ」
さりげなく毒を吐けば、即座に反論された。頬を膨らませ気味に力説されて、嘗てその旅路に同行した男は、右手で頭を抱え込んだ。
金色の羊毛を求めて冒険を繰り広げた男もまた、カルデアに召喚されていた。毎日飽きることなく、ヘラクレスの勇猛さを声高に語っては、付き合いで耳を傾ける仲間から失笑を買っていた。
アスクレピオスも稀に、その輪に無理矢理引きずり込まれ、時間を奪われた。マスターである藤丸立香は、それ以上に巻き込まれていた。
それこそ耳に胼胝が出来るくらいの頻度で聞かされているだろうに、わざわざ本にまで手を出すなど。
「イアソンに無理強いされたのなら、僕から苦情を伝えておくが」
「まさか。オレが、図書室から、自分で探して、持って来たんだよ。アスクレピオスも出てるし。うん。ちゃんと、知っておきたかったから」
面倒極まりない船長の顔を頭から追い払い、座っているマスターの正面に立った。
端末を一旦脇に置き、まずは検温すべく額に手を翳せば、彼は照れ臭そうに微笑み、瞼を閉じた。
半分は自分自身に言い聞かせているような口ぶりだ。いったいどのような心境から、この本を読もうと決めたのかは、想像するしかないけれど、悲観的な思考から至ったわけではなさそうだった。
「そうか」
彼が望むのなら、無理矢理取り上げるわけにもいくまい。
若干複雑な思いを抱きつつ、相槌を打てば、魔力で編んだ体温計が返事代わりにピピッ、と鳴った。
表示された数字は、平熱の範囲内だった。
「異常なし、だな」
「船の上でも、こんな風に、みんなの体調管理を?」
「ああ。それが、僕に求められた、僕の役割だからな」
だがあの時代には、直接触れずとも体温が測れる道具など、存在しなかった。器具も発達しておらず、あらゆることが手探りだった。
問いかけに淡々と返し、端末に今し方得られたデータを入力する。このやり方も、カルデアに召喚されてから学んだことだ。
医者として、身に着けなければならない事は多い。知識として有していても、実際に活用出来るようになるには、経験を積む以外に近道はなかった。
「でもイアソンは、アスクレピオスだから、船医になって欲しかったんじゃないのかな」
「長旅に、医者は必要だろう。なにを今さら、当たり前のことを言っている」
「いや、そうじゃなくて。たとえばオレも、あのさ、お医者さんだったら誰でも良かったわけじゃないんだ。アスクレピオスが、たまたま、お医者さんだったから……て、ええと……なんて言ったら良いんだろ」
振られた話題の意味が掴めなくて、真顔で応対すれば、マスターは困った風に眉間に皺を寄せた。口をへの字に曲げてうんうん唸り、言葉を探して目を泳がせた。
右手の人差し指で頬を掻き、彼方を見詰めて、膝の間に両手を置いた。
分厚いアルゴナウティカをぎゅっと握り締め、背表紙をトントン、と叩きながら、しばらく黙り込んだ。
けれど結局、上手い説明が思いつかなかったらしい。彼は溜め息と同時に肩を落とし、ゆるゆる首を振った。
「オレも、みんなみたいに、ドラマティックな旅がしてみたかったな」
最後にぼそりと、小声で呟く。
独り言だったに違いない。けれど聞き逃すには、あまりにも傲慢なことばだった。
「お前の旅路がドラマティックでなければ、アルゴー号での船旅など、凡庸の極みではないのか?」
つい、皮肉を口にしていた。
人類最後のマスター、藤丸立香の旅路は、苛烈を極めたものだった。アスクレピオスが戦列に加わるよりずっと前から、彼は多くの犠牲を払いながらも、世界を救うべく歩き続けていた。
その日々の記録は膨大で、全てを読み切れた、とはとても言えない。それでも大筋は理解しており、彼が経験した数多の出会いと別れについても、概ね承知していた。
無力な存在でしかなかった人間が、人類史を背負って立ち上がる物語だ。これをドラマティックと言わずして、どうする。
「……そだね」
だがマスターの反応は、予想外に淡泊だった。控えめに笑っての首肯は、アスクレピオスが想像したような、大袈裟な否定や、照れながらの肯定の、どちらにも相当しなかった。
理由は明白で、単純に、今し方告げた内容が、立香の期待していたものではなかっただけだ。
間違えた。
瞬時に察して、彼はこれまでのやり取りを頭の中に甦らせた。
繰り返し反芻して、表情の変化を振り返りながら、マスターの台詞を一言一句ずつ噛み締めた。
「アスクレピオス?」
急に黙り込んだ医神に、立香が怪訝そうに目を眇めた。
検診も中断しており、再開される様子はない。いつもより余分に時間が掛かっているのを気にして、ベッドサイドの時計にちらりと目をやった彼の膝から、赤い表紙のアルゴナウティカがするりと滑り落ちた。
「あっ、と」
即座に勘付き、彼は手を伸ばし、床に落ちるのを阻止した。横から掬い取り、ホッとした表情を浮かべて、手垢がついた本を愛おしげに撫でた。
その仕草と、柔らかな目つきに、アスクレピオスは嗚呼、と小さく頷いた。
「アルゴー号は、もう存在しないが」
「うん?」
「あの五月蠅いだけの船長も、アタランテも、ヘラクレスも、なにより僕が、此処に居る。なら、カルデアは第二のアルゴー号でもあり、お前も、……その船の一員だろう」
得心がいった。答えは音もなく、胸の中に落ちてきた。
淡々と言葉を紡げば、最初はぽかんとしていたマスターの目が、次第に明るく輝いた。雲ひとつない青空を思わせる双眸を煌めかせて、頬を緩め、ひと呼吸置いてからきゅっと目を閉じ、白い歯を覗かせた。
声もなく嬉しそうに笑って、顔をくしゃくしゃにして、大きく、深く頷いて。
「……そうだね!」
先ほどと同じような返事なのに、まるで違う。
その差異に驚き、実感し、胸が熱くなるのを覚えて、アスクレピオスは口元を緩めた。
風の音もよそに聞かせて花ざかり かくて千年の春をこそ見め
風葉和歌集 1179
2020/03/29 脱稿