契りとて 結ばずもなき 白糸を

「アスクレピオス、これ見て」
「なんだ?」
 カルデアに設置された、メディカルルーム。新たに召喚された医療系サーヴァントが君臨するその部屋を、人類最後のマスターである藤丸立香が訪ねたのは、夜も遅い時間だった。
 壁に据え付けられたデジタル時計は、日付が変わる直前を伝えていた。刻一刻と進む数字は、さながらこの世界が破滅するまでの、タイムリミットを表しているようだった。
 その無機質な線の羅列を一瞥して、アスクレピオスは椅子を引いた。腰を捻り、四つあるキャスターで床を削って、やって来た青年を仰ぎ見た。
 本来なら一部のスタッフを除き、人間は皆、ベッドに寝転がっている時間帯だ。明日も早朝から予定が組まれており、のんびり夜更かしを楽しむ余裕など、どこにもあるはずがなかった。
 だというのに、あらゆる計画の中核に据えられた立香が、此処に居る。
 具合が悪いだとか、痛みがあって眠れないだとか、そういう様子はなさそうだ。顔色は悪くなく、身体のどこかを庇って無理をしている、という風でもなかった。
「もう眠る時間だが、マスター。睡眠薬は、依存性が高い。余程でない限り、僕は出さないぞ」
 とすれば、考え得る中で最も高い可能性は、なにか。
 推測を巡らせて告げた医神に、立香は首を竦めて苦笑した。
「分かってるって。そうじゃなくて」
 胸の前で重ねた両手を揺らし、彼は口元を緩めてはにかんだ。白い歯を覗かせて、目を細め、右手を浮かせて顔の高さまで持ち上げた。
 だらん、と細い紐がその指先から垂れ下がり、先端に結ばれた物が中空を駆けた。重力に引っ張られた紐がピン、と伸びて、真っ直ぐになった瞬間に跳ね返り、繋がれた物体が左右に踊った。
 忙しなく動き回るのは、真ん中に穴が空いた小さな金属片だった。
 最初に彼が見ろ、と言ったのは、どうやらこれの事らしい。医神が知るコインに似て非なる形状に首を捻り、立香を見返せば、彼は椅子から動かないアスクレピオスとの距離を大股に詰めた。
「はーい、よく見てて」
「だから、マスター」
「あなたは段々、眠くなる。眠くな~る、ねむくなる」
「……は?」
 そうして爪先がぶつかる寸前で足を止めると、右手にぶら下げた糸を操り、金属板を左右に揺らし始めた。
 ゆらゆらと、一定のリズムで。
 穏やかに、緩やかに。
 黄金色をしたリング状のコインが、ふたりの間で静かに往来を繰り返した。
 動きは単調で、退屈だ。じっと見詰めていると、欠伸が出そうになる。
 立香は至って真剣な顔つきで、懸命に糸を操作していた。ただこれになんの意味があるのか、アスクレピオスにはさっぱり見当が付かなかった。
「マスター、頭は大丈夫か」
 なにか意味があっての行動だとは思うが、そこに秘められた目的が読み解けない。
 先に言い放たれた台詞も気になって眉を顰めた彼に、立香は途端に渋い顔をした。
 唇をへの字に曲げて、小鼻を膨らませた。ふー、と長い息を吐いて肩を落とし、左手で口元を覆い隠した。
「やっぱりダメかあ」
「なにがだ」
 ため息を吐きながら言われたが、なにが駄目なのかも、まるで理解出来ない。
 いい加減、きちんと説明するよう睨み付ければ、視線を受けた青年は照れたような、それでいて若干ばつが悪そうな顔をした。
 その場で膝を曲げ、尻を浮かせた状態で、座り込む。腿と臑を同時に抱え込んで、今し方アスクレピオスに見せたコインを指で挟み持った。
「催眠術。ほら、アスクレピオスさ、最近ずっと休み無しで働きっ放しだったじゃない? ちゃんと休んでないみたいだったから」
「僕にそうするよう命じたお前が、それを言うのか」
「それは、まあ、その通りなんです、が」
 医務室の後任者となったアスクレピオスの仕事は、多岐に亘った。
 マスター以下、人間であるカルデアのスタッフの健康管理に、各サーヴァントの霊基のメンテナンス。そこに英霊としての戦闘行動が加わり、補助役として駆り出される彼は、ここ数日、ほぼ休み無しだった。
 ノウム・カルデアにいる間は根城としているメディカルルームから全く外に出ず、食事をしに食堂に現れるのは稀。イアソンたちが何かと気に掛け、気分転換に誘っているようだが、素っ気なく断ってばかり、との話だった。
 このままでは皆の健康を守るべき医者が、真っ先に倒れてしまう。
 どうにか無理矢理にでも休ませる方法を模索した結果だと、立香は紐に繋いだコインを小突いた。
「催眠術って、サーヴァントには効果ないんだ。新発見」
 ゆらゆら揺れる硬貨を見詰めているうちに、本当に眠ってはくれまいかと、期待した。
 しかし結果はご覧の通りの、大失敗。
 茶目っ気たっぷりに小さく舌を出したマスターに、アスクレピオスは疲労感を覚えて頭を抱え込んだ。
 深く嘆息して、床に貼り付けていた足を浮かせた。サンダルの先で空を斬り裂けば、蹴られるのを警戒した立香が慌てて立ち上がった。
 後ろに後退しつつ、倒れそうになった体躯を支え、バランスを取った。不機嫌に椅子を軋ませる医神を見下ろし、頬を軽く引っ掻いて、視線を泳がせた。
「僕を気にする前に、まずは自分のことを第一に考えるべきではないのか。マスター?」
「そうかもしれないけど。でも、オレのせいで無理させてるって分かってるんから、なにかしてあげたいって。そう思うのも、ダメなわけ?」
 手厳しい提言を受けて、彼は両手を背中に回して隠し、足を組んだアスクレピオスへと捲し立てた。
 英霊は、眠りを必要としない。食事も本来、必要ではない。立香が思っているほど、アスクレピオスは日々の業務に忙殺され、参っているわけではなかった。
 むしろ楽しい。充実している。人類が進化を続け、病への抵抗を諦めなかったのを実感出来て、何よりも喜びが勝っていた。
 だがマスターの気遣いが迷惑、というわけでもない。カルデアに数多く在る英霊の中の一騎に過ぎない自分に関心を抱き、気に掛けてくれたのもまた、率直に嬉しかった。
 とはいっても英霊としての立場よりも、医者としての視点が上回っているので、素直に善意を受け取るのも難しい。
「マスター」
「分かったよ、分かりました。戻って寝るよ。アスクレピオスは、どうぞご自由に」
「僕はまだ、何も言っていないぞ」
 肩を竦め、呆れ混じりに呼びかければ、触発された青年が握り拳を作って怒鳴った。
 勝手にキレて、一方的に拗ねている。あっかんべー、と赤い舌を伸ばして捨て台詞を吐かれては、苦笑せざるを得なかった。
 随分と子供じみた反応だ。アスクレピオスはクツクツ喉を鳴らして、医務室を出て行くべく、身体を捻った彼を手招いた。
 呼び戻し、頬杖をついて、思いついた悪巧みに口角を持ち上げた。
「……なに」
「マスター自ら、そこまで言うんだ。良い事を教えてやる。僕を休ませたいと思うのなら、そこのベッドに座れ」
「う、うん?」
 もう片手で、具合が悪い者に提供する為のパイプベッドを指し示し、命じれば、立香はきょとんと目を丸くした。
 疑問に思うところはあるけれど、とりあえず従うつもりらしい。怪訝にしながらそちらへ移動し、真っ白いシーツに腰を降ろして、彼は次の指示を待った。
 なにも疑わず、何も怪しまず、他者を容易に信用し、その意志を貫き通す。
 一歩間違えれば奈落の底に落ちて行くのが確実な、あまりに危うい性格を懸念しつつ、アスクレピオスは立ち上がった。
「両手を肩より上で広げて、目を閉じていろ」
「え、……と。こう?」
「ああ、良い子だ」
 気が急くのを必死に留めながら告げて、サンダルの底で床を叩いた。カン、と小さな音を繰り返し響かせて、素直に応じる立香を手放しに称賛した。
 顎を引き、下唇を突き出して、言われた通りのポーズを取った彼が、マスターとしてではなく、人の子として、どうしようもなく愛おしい。
 こんな未熟な子供に、癒されようとしている。それは医療の神として崇められている立場としては、酷く不本意ではあるけれど、英霊としての身分に甘んじれば、致し方がないものと言い訳がついた。
「ねえ、アスクレピオス。このあとは、どう――……わぶっ」
「少し休む。付き合え」
 腕を持ち上げ続けるのは、意外に体力が必要だ。既に肘がプルプル震えているのを見て取って、アスクレピオスは彼の言葉を遮り、無防備な身体に向かって倒れかかった。
 言いながら胸に抱え込み、押さえつけ、諸共にベッドへ転がった。
 立香の悲鳴は、医神の胸に吸い込まれて消えた。仰向けに倒れた衝撃で唇を噛んだらしく、痛みに呻く声がしばらく続いたが、それもじきに消えてなくなった。
 柔らかく、少しだけ消毒薬臭いシーツに横になって、密着したところから流れ込んでくる体温に、深く息を吐いた。
「ああ。一挙両得、だな。これは」
 マスターを休ませられる上に、アスクレピオス自身も休める。少々狭いのが難点だが、居心地は悪くなかった。
 柔らかな黒髪を梳いていたら、だらんと投げ出されていた立香の腕が背に回された。きゅっと細い指同士を絡め、結んで、勝手に逃げ出さないよう、脆弱な束縛の輪を閉じた。
 彼は何も言わないし、顔を上げようともしなかったが、その動きが答えなのだろう。
「眠れ、マスター。お前が眠らなければ、僕の仕事は終わらない」
 耳元で低く囁いた瞬間だけピクリと震えた人間は、小さな身体を一層小さくして、やがて静かに寝息を立てた。

契りとて結ばずもなき白糸を 絶えぬばかりや思ひ乱るる
風葉和歌集 444
2020/03/22 脱稿