忍び余り 色に出でぬる 袂かな

 その日が近付くにつれて、ノウム・カルデアでは甘い匂いが鼻につくようになった。
 どこもかしこも、胃が溶けそうなくらいに甘い香りで溢れている。初めは食堂とその近辺だけだったのだが、時が過ぎるに連れて範囲を広げて、どこに居ても感じられるようになって行った。
 かくいう立香も、過分にその匂いを纏い、漂わせていた。
「う、う~ん」
 数日かけて試行錯誤を重ね、ようやく完成、と言えるものが出来上がった。
 けれど果たして、気に入ってもらえるだろうか。
 直前になって怖じ気づき、腰が引けた。やはり止めるべきか悩んで、足取りは非常に重かった。
 だが医務室の扉は、もう目と鼻の先だ。今更引き返すなど、往生際が悪過ぎた。
「……そう。日頃お世話になっているお礼。そう、お礼。お礼なんだから。別に他意はない。深い意味も、……ない。ない。ないったら、ないぞ」
 沢山の仲間から助言、助力を受けて、どうにか形になった。ここで諦めてしまっては、彼ら、彼女らの努力を無駄にすることにも繋がった。
 普段から食堂を根城にしている複数のサーヴァントの顔を思い浮かべ、立香は自分に向かって頷いた。臆したがる心を懸命に奮い立たせ、最後の一歩を踏み出した。
 沈黙するドアは硬質で、冷たい印象を与えた。来る者を拒む気配が感じられる。しかし本来ここは、誰でも入室可能な、開かれた場所だった。
 立香が抱いたイメージは、メディカルルームそのものに対してではなく、最近この部屋の主となった存在に対してのもの。
「よし」
 深く息を吸い、吐いて、覚悟を決めた。
 ここまで来たら、突っ切るだけ。これまでの己の旅路を軽く振り返って、人類最後のマスターは小ぶりの包みを胸に抱きしめた。
 高鳴る鼓動を数えつつ、唇を舐めた。奥歯を噛み、顎に力を込め、真剣な眼差しでドアを睨み付けた。
「アスクレピオス、入るよ」
 中にいるだろう男に呼びかけて、返事を待たず、爪先を前に出す。
 動くものに反応し、扉は自動的に開かれた。シュン、と左側へスライドして、一瞬のうちに道を作った。
 敷居を跨ぎ、もう一歩。
 視線を上げた先に広がる飾り気のない空間は、しんと静まり返っていた。
「あれ?」
 あてが外れて、立香は目を丸くした。
 てっきり椅子に腰掛けた男が振り返り、用件を問うてくるものと信じていた。だのに机の前は無人で、情報を呼び出す為の端末が無造作に放置されていた。
 複数並んだモニターには、誰のものかは分からないが、いくつかのデータが表示されていた。ただそれは過去のもののようで、グラフに現れる数値は動かなかった。
 自分の呼吸する音、そして心臓の音だけがいやに大きく、耳に響く。
「いない。……いない、のか」
 ゆっくりと呟いて、ようやく実感が湧いてきた。
 まさか不在だとは思っておらず、この場合どうするかのパターンは想定していなかった。
 アスクレピオスはだいたい、この医務室にいる。戦闘で負傷したサーヴァントの治療や、マスターの定期検診の他に、自身が生涯に亘って続けてきた研究も、ここで行っていた。
 勝手に拡張された奥の部屋には、その研究の為のラボがある。
 そちらかと思って足を伸ばすが、これもまた、外れだった。
「どこ行ったんだろう」
 辺りをぐるりと見回してみるものの、彼が出向いた先のヒントは転がっておらず。
 それどころか整理整頓され、掃除が行き届いた空間には、塵ひとつ落ちていなかった。
 磨かれてピカピカの床は、天井から降り注ぐ光を受けて、眩しく輝いていた。さすがに鏡のように物を写し出したりしないが、透き通った湖面が如き静けさをたたえていた。
 じっと見詰めていたら、目が疲れて来た。
 眉間に寄った皺を解し、立香は深々とため息を吐いた。
「どうしようか」
 無人の椅子の背凭れに手をやり、沈黙するドアを眺めるが、変化は訪れない。
 立っているのにも疲れて、やや高めのスツールに浅く腰掛けた彼は、大事に抱えていたものを顔の前に掲げた。
 半透明の包み紙でラッピングして、天辺には黄金色のリボンを。簡素だが、思いの丈を籠めたつもりだった。
 しかし食べてくれる相手がいなければ、詰め込んだ感情も行き場を失う。
「美味しく出来たのになー」
 立香が直前まで居た食堂に、彼の姿はなかった。管制室に呼ばれた可能性を考えるが、アスクレピオスを必要とする案件なら、マスターにも同時に声が掛かるのが普通だ。
 となればどこかで急患が出たのか、はたまたアルゴノーツの誰かから誘われたのか。
 カルデアには、あの医神の顔なじみが複数存在している。イアソンに絡まれ、迷惑そうにしているところに遭遇したことも、何度かあった。
 今回も昔馴染みと談笑し、楽しい時間を過ごしているのだろうか。
 だとしたら、探し出して、邪魔をするのは心苦しい気がした。
 勝手な想像を巡らせ、立香は椅子をくるりと半回転させた。キャスターで床を削り、転がして、動く度にカサカサ鳴る袋を膝に置いた。
 時間を掛けて結んだリボンの端を抓み、軽く引っ張る。
「オレだって、暇じゃないのに」
 不在の男に向かってぼそりと愚痴を零し、包装を解いた。むすっと膨らんでいた頬を凹ませて、取り出したのは銀色のカップに入った焼き菓子だ。
 表面が焦げ茶色なのは、なにも火力を間違えたわけではない。ココアパウダーをたっぷり混ぜ込んでいるので、元々このような色なのだ。
 作り方は単純で、初心者でも余程のことがなければ失敗しない、と言われて安心していた。けれど蓋を開けてみれば意外と難しく、普段から料理をしている存在の言葉は当てにならない、というのを思い知らされた。
 そうやって多くの協力を得つつ、試行錯誤の末に完成したチョコカップケーキ。
 あまり美味しそうに見えないのが残念だが、試食した感じ、口当たりは悪くなかった。
 もっと凝った物を作りたかったけれど、時間が足りない。今はこれが限界と、男らしく潔く、覚悟を決めて来たというのに。
「食べちゃうぞー」
 頑張って準備したが、渡せないのでは、用意した甲斐がない。
 この後の予定も差し迫っており、ゆっくりしていられる時間は残り僅かだった。
 卓上に置かれたデジタル時計の数字を確かめ、今一度ドアを振り返るが、相も変わらず変化はなかった。両膝を伸ばして空を蹴り、立香は椅子の上で猫背になった。
 返事が無いと分かりきっているのに、合いの手が返されないのに拗ねて、手にしたカップケーキを鼻先へ。
 合計三個包んできたうちの一個を嗅げば、美味しそうな匂いが嗅覚を刺激した。
 そもそも菓子作りに没頭して、昼食を食べ損ねた。
 すっかり忘れていた空腹感が、ひとり芝居の虚しさも手伝ってか、急激に膨らんだ。
「本当に、食べちゃうぞー。知らないもんねー」
 ぐう、と鳴った腹に苦虫を噛み潰したような顔をして、背筋を伸ばした。椅子の上で畏まり、またも不在の男に向かって告げて、口をへの字に曲げた。
 空回りしている自分を痛感し、気恥ずかしさから顔を赤くして、肩を落とす。
「……食べちゃお」
 複数個用意してあるのだから、一個くらいなら、構わないだろう。
 悪いのは、医務室に居ないアスクレピオスだ。折角マスター自ら足を運んでやったのに、なんと間の悪い奴なのだろう。
 会う約束は、していない。だというのに全ての責任を彼に押しつけて、立香は銀色の容器の角をペリ、と剥がした。
 しっとり柔らかな生地が、衝撃でぼろっと崩れた。細かな滓が端から落ちて、立香の膝に散らばった。
「おっと」
 こうなる予感はしていたが、防ぐ手立てはなにも施していなかった。
 こればかりは、致し方がない。大きな粒は指で抓んで、急ぎ口へ運んだが、爪の先にも乗らない小さなものは、諦めるしかなかった。
 黒色のズボンに散った茶色を軽く払い除け、心の中で、カルデア中を掃除をしている誰かに頭を下げた。その一方で立香は、目の前に出現したチョコレート色に頬を緩めた。
「美味しそう」
 自画自賛になるが、心からの感想を口にして、目尻を下げる。
 いかにも甘そうな甘味を前に、空腹は増す一方だ。早く齧り付きたい、という衝動を必死に宥め、彼は手作りケーキに軽く一礼した。
 過不足なく食べ物にありつける境遇に感謝して、ようやく口を開いた。
「あー……ンム」
 幸せいっぱいに顔を綻ばせ、自信作を堪能すべく、頬張る。
 口の端にぶつかったケーキが自壊して、比較的大きな塊が床に落ちるのと、長く静まり返っていたドアがひとりでに開いたのは、ほぼ同時だった。
「ん?」
 慣れた調子で室内に入り、長いもみあげを揺らした男が首を捻る。
 カップケーキを咥えた状態で固まっているマスターを見出して、アスクレピオスは数回、瞬きを繰り返した。
 ふさふさの睫毛を何度も上下させて、形の良い唇を引き結び、顎に手を添えて考え込む素振りを見せる。
 往診に出ていたわけではないようで、彼は手ぶらだった。
 黙り込み、診療室に入ってからひと言も言葉を発しない。その沈黙があまりにも不気味で、空恐ろしく感じられた。
 立香はごくりと、喉に詰まりそうな大きさの塊を無理矢理呑み込んだ。歯形が残るケーキを顔から剥がし、自由の利かない頬の筋肉を、強引に動かした。
「ふ、ふへ。えへ、へへ……」
 しかし言葉が出てこなくて、不自然極まりない笑いが零れ落ちた。
 気まずい空気が流れて、逃げ出したい衝動に駆られたが、動けない。
 あちらの出方がまるで読めず、どうして良いか分からず混乱していたら。
「おい、マスター。ここで何をしている」
 語尾の上がらない問いかけが飛んで来た。
 低い声だった。医者として患者と向き合う時とは趣が異なる、凄みを利かせた声色だった。
 こういう喋り方をする時のアスクレピオスは、大体において、機嫌が悪い。
 交差する前髪の向こうから覗く眼光は鋭く、良く研がれたナイフのようだった。
 思わずぐっと息を詰まらせ、立香は奥歯を噛み鳴らした。
「え、えっと。その」
「お前は、此処がどういう場所か、分かっているのか」
「ええ? え、えっと。保健室、じゃなくて。あの――だわっ」
 質問されて、咄嗟に答えられなかった。時間が経つに連れて増していく怒りのオーラに圧倒されて、椅子の上であたふたしていたら、バランスを崩して落ちそうになった。
 咄嗟に膝上の包みを握り締めたら、つられて右手の指先にも力が入った。ぐしゃ、と柔らかなものが潰れる感触があり、見れば三分の二になったカップケーキが拉げていた。
 脆くなっている咬み痕から、細かな破片が次々落ちて行く。
 全てを拾うなど、出来ない。唖然と見ている前で、甘ったるいケーキはどんどん形を変えていった。
「あああ……」
「マスター、貴様」
「ちょ、ちょ。待って」
「前任者がどうだったかは知らないが、ここは治療を行う場だ。それなのに、お前が持っているものは、なんだ。お前は自分が何をしているのか、分かっているのか。雑菌を増やし、害虫を寄せ付けかねない代物を、ぼろぼろと」
 大股で詰め寄られて、必死に懇願したが聞き入れられなかった。興奮しているのかアスクレピオスはいつもより早口で、カツカツ足音を響かせながら、利き手を振り回した。
 跳ね上がった袖の先が、立香の膝を打った。反射的にそちらに目をやれば、磨かれた床に散らばる菓子屑が嫌というほど目に付いた。
 苦心の末に焼き上げたものが、無惨な姿を晒していた。
 しかしアスクレピオスの目には、それは医務室を汚す不浄な物、として映し出されていた。
 粉々になったケーキを指し示し、ギリシャの英霊が不機嫌に顔を歪めた。
 険しい表情で睨み付けられて、顔を上げた立香は即座に目を逸らした。
 右手に持ったままの菓子の角度を調整し、断面を上にした。散らばっている欠片を踏まないよう注意しつつ椅子から降りて、左手にぶら下げた袋の口を握りしめた。
「ごめん、なさい」
 確かにこの部屋は、患者を治療し、癒すための場所だ。前任者が甘い物好きで、作業をしつつ何かを食べている光景を良く目撃したものだから、ついつい忘れがちだったけれど。
 ここを衛生的に保つのは、大切なことだ。アスクレピオスは間違っていない。彼がナイチンゲールから学んだ新しい考え方は、きちんと理解され、しっかりと根付いていた。
 深く考えなかった立香が悪いのだ。
 反省すべきは、軽率な行動に出た立香の方だ。
 分かっている。だのに傷ついて、哀しくて堪らなかった。
「……ごめんなさい」
 必死に声を絞り出したが、後半は鼻が詰まって、上手く音にならなかった。
 掠れる小声と共に頭を下げ、食べかけの分は欠片が落ちないよう、全てを口に詰め込んだ。袋に収まったままの二個はそのまま、憤然としている男の胸に叩き付けた。
「待て、マスター。これはなんだ。おい。おい!」
 一口で頬張るには大き過ぎた塊を、掌で押さえつけた。噛み砕きながら喉に流し込み、息苦しさを堪えて床を蹴った。
 空気を読んだドアが、立香が体当たりする直前にスッと開いて道を譲った。置き去りにされた男はなにかを繰り返し叫んでいたが、声は途中で聞こえなくなった。
 こみ上げる吐き気に耐えて、味など分からないカップケーキを呑み込んだ。少しも美味しくない。こんなに不味い菓子は初めてだった。
「馬鹿みたいだ」
 全力で自室へ戻って、ドアが閉まると同時にへたり込んだ。糸が切れた人形のように崩れ落ちて、しばらくそこから動けなかった。
 怒られたのがなによりショックだった。もしや彼は、今日が何の日か知らないのでは、という疑問に至ったのは、のろのろと立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ後だった。
 口の中に残るチョコレートの甘い匂いを洗い流したかったが、洗面台まで行くのが億劫だった。靴も脱がずに横になり、天井を仰いで、立香は視界に紛れ込んだ前髪を引っ張った。
「だとしても、だよ」
 なにも人の顔を見て、開口一番怒鳴らなくても良いだろうに。
 口の中をいっぱいにしていて、すぐに答えられなかったのも、災いした。なによりタイミングが悪すぎた。あの瞬間に帰って来るなど、未来視の能力があるサーヴァントでもない限り、分かるわけがなかろうに。
「はー……ああ」
 天に向かってため息を吐いて、大の字になった。そこから右を下にして寝返りを打って、ベッドからはみ出た左指で空をなぞった。
 爪先でぐるぐると円を描き、ぐしゃりと握り潰した。悶々とする気持ちを宥めるつもりでシーツの皺を撫で、平らに均した。
 なにをあんなに、一生懸命になっていたのだろう。
 この数日の頑張りを振り返って、残ったのが虚しさだけという現実は、簡単に受け入れられるものではなかった。
 ちゃんと約束を取り付けるべきだった。
 先にバレンタインデーの説明をすべきだった。
 待ちきれなくて、勝手に食べ始めたのがそもそもの間違い。
 目を閉じれば反省点が渦を巻き、立香を呑み込んだ。せめて床に散った分を掃除してから立ち去るべきだったのではと、結果として火に油を注いでしまった自分の行動に、今更ながら青くなった。
 考えれば考えるほど、気が滅入り、起き上がれない。
 気がつけばブリーフィングが予定されていた時間を過ぎていたが、呼び出しのメッセージは無視した。体調不良を心配する複数の声がモニターから聞こえて来たが、応じる気力も湧かなかった。
 申し訳ないと思いつつ、聞こえないフリをした。勝手極まりないとは分かっているけれど、優しくされると余計惨めになるから、放って置いてほしかった。
 人類存続の危機と背中合わせの旅路を送っているのに、こんなことで落ち込んで、哀しんでいる自分が情けない。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、数えるのも億劫になった頃、立香はようやくベッドから起き上がった。
 少し眠ったら、幾分気持ちが晴れた。
 寝癖がついた後頭部を掻き混ぜ、目尻に残る涙の痕を拭った。
 マシュや新所長に謝るのは、きちんと顔を洗って、腐抜けた面を整えてからだ。アスクレピオスにも非礼を詫びて、許してもらえるよう頭を下げに行こう。
「よし」
 この後の予定を簡単に組み立てて、両の頬を軽く叩いた。立ち上がるだけでも気合いが必要だったが、少しずつ本来の調子を取り戻していけたら良い。焦りは禁物を自分自身に言い聞かせ、立香は深く息を吐いた。
 煌々と照明が灯る室内では、現在時刻が分かり難い。
 夕飯も食べ損ねたと肩を竦めていたら、部屋の外から呼び出し音が鳴った。
 あまりにもタイミングが良すぎる訪問だが、疑念は生まれなかった。普段からサーヴァントたちは自由気ままに、勝手にマスターの部屋に突撃してくる。今回もそうだと勝手に思い込んで、立香は首を伸ばし、身体を左右に揺らした。
「どうぞー」
 気楽に声を返し、入室を許可する。
 果たして、ヒュン、と壁に収まったドアがあった場所に立っていたのは。
「……うそ」
 右手に盆を掲げ持った、銀髪の英霊だった。
 どことなくむすっとして、不機嫌そうではあるが、怒っている雰囲気ではない。むしろ戸惑っているような、そんな印象を抱かせた。
「体調はどうだ」
 絶句していたら、訊かれた。複数の気配がある廊下から室内に場所を移して、アスクレピオスは凍り付いている立香に目を眇めた。
 一瞬だけ外を気にして、舌打ちした。思わずビクッとなったら、振り返った彼が慌てて首を振った。
「違う。今のは、お前にではない。……そうだな。僕の勉強不足が招いたことだ」
「アスクレピオス」
「知らなかったというのは、言い訳にもなるまい。カルデア全体が浮き足立っているのを感じ取っておきながら、その理由を探ろうともしなかったのは、僕のミスだ」
 言いながらゆっくり歩み寄り、彼はベッドサイドのテーブルに持っていたものを置いた。ガチャン、と一度だけ大きな音がして、視線を向ければ、湯気を立てるマグカップがふたつ、並べられていた。
 そしてその容器に挟まれる格好で、ピンク色の皿が一枚。
 上には銀色の容器に収まった、焦げ茶色の焼き菓子が、ふたつ。
「すまなかった。マスター」
 驚いていたら、両手を空にしたアスクレピオスが小さく頭を下げた。申し訳なく思っていると、誰が聞いても感じられる調子で告げて、溜め息と共に肩を落とした。
「いや、あの。えっと」
 それで益々目を丸くして、立香は声を高くした。だがなにかを言おうとするものの、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 無意味に両手を泳がせて、最後は緩く握って膝に落とした。黙ってこちらを窺っている男をじっと見詰めて、緩やかに膨らんでいく感情に合わせ、四肢の強張りを解いた。
「オレも、……うん。ごめん」
 診察室でのアスクレピオスの指摘は、間違っていない。
 軽率だった自分を恥じて、面と向かって謝罪をすれば、緊張気味だった男の貌が綻んだ。
 つっかえていたものが取れたらしい。見るからにホッとした様子だった。
「座っても良いか?」
「どうぞ、どうぞー。狭苦しいところだけど」
 力の抜けた質問に笑顔で返し、座っていたベッドの脇から少しだけ移動した。場所を作り、此処に来るよう手で促して、明らかにアスクレピオスが用意したのではない一式に視線を転じた。
 大きめのマグカップの中身は、気持ちを落ち着かせてくれるホットミルク。
 誰の気遣いかは分からないが、感謝しかなかった。
「オレも食べて良いの?」
 医神が金で模様を描いた皿を引き寄せて、片方を手に取り、残りを差し出してくる。
「折角だからな。それに、僕だけが食べるのは、恨まれそうだ」
「そんなことないのにー」
 軽口を叩かれ、言い返すのに、迷いは生まれなかった。
 悩まなかった。考えなかった。躊躇しなかった。
 ごく自然と、会話が生まれていた。
 嬉しかった。
 幸せだった。
 無意識に微笑んで、立香は銀紙を少しだけ捲った。横ではアスクレピオスが、興味津々にその様子を観察していた。
 ひと通り食べ方をチェックしてから、実践に移るが、すぐに手を止めてしまう。
「難しいな……」
「そう?」
「お前が作ったものだからな。一粒たりとも落とさないためには、どうするのが一番良いのかと」
「大袈裟だなあ」
 悩ましげな横顔が、面白い。
 恐ろしくくだらない事に真剣になっている彼を笑って、立香は大口を開け、自慢のケーキに齧り付いた。
「んー」
 気のせいか、食堂で試食した時よりも、ずっと美味しい。
 幸福感に包まれて、頬は緩みっぱなしだ。皿に欠片をボロボロ零しつつ、豪快に食べ進めていたら、観念したのか、アスクレピオスも白い牙を覗かせた。
 遠慮がちに噛みついて、落ちかけた欠片を舌で拾い、飲み込んで。
「ああ、……美味いな」
 しみじみと呟かれて、立香は噴き出しそうになったのを必死に堪えた。

忍び余り色に出でぬる袂かな 人知れずこそしぼりわびしに
風葉和歌集 785

2020/02/16 脱稿