草緑月

 目が醒めた時、死神が迎えに来たのかと思った。
 気配を感じて、意識が水面下から浮上した。穏やかな波間に漂っていたのを、無理矢理陸に押し上げられた格好だった。
 照明は消えて、室内は暗い。カーテンの隙間から差し込む光が床に伸び、反射して、天井のシャンデリアがキラリと輝いた。
 そんな微かな光の中に、黒装束の男が佇んでいた。
「……殺されるかと思いました」
 吃驚して、飛び起きた。悲鳴を上げたかったが、強張った筋肉がそれを阻止した。
 壁際に後退して、パジャマ姿で身構えて、侵入者の顔を認識したのはその後だった。
 助手席に座り、頬杖をついた綱吉がぼそりと呟く。窓に映し出される彼の表情は苦虫を噛み潰したかのように渋く、眉間には深い皺が刻まれていた。
「君と戦うなら、もっとちゃんとした時間と、場所を用意するよ」
 小声の愚痴は、運転席に座る男の耳にしっかり届いていた。ただ返って来た言葉は若干的を外しており、黙って聞いていた綱吉は深々と溜め息をついた。
 がっくり肩を落とし、そうじゃない、と首を振る。額に手を添えて俯き、前のめりになったが、ハンドルを握る雲雀は全く意に介さなかった。
 楽しそうに口角を歪め、ハンドルを右に回した。カーブする道をそれなりの速度で進んで、直線に戻ったところで僅かにアクセルを踏み込んだ。
 更にスピードを上げて、黒塗りの車が夜明け前の空の下を駆けていく。
 瞬く間に後ろへ流れていく灰色の景色に視線を投げて、綱吉はクッションも充分な座席に身を埋めた。
 身体を固定するシートベルトの表面をなぞり、時折左側を窺って、正面を見据えた。
 なにもないと思われていた空間に、ちらりと、月や星々とは明らかに違う輝きが垣間見えた。
「おお」
 傷ひとつないフロントガラス越しに現れたのは、遙か遠く、なだらかな稜線を染めた朱色の太陽だった。
 日の出だ。
 思わず身を乗り出して、シートベルトに止められた。ゆっくりと、しかし確実に位置を高くする太陽に見惚れていたら、隣から微かな空気の流れを感じた。
 現在地を思い出してはっとなり、そちらに顔を向けた。
 途端に雲雀が口元を引き締め、正面に向き直った。
「ぬぬぬ」
「三文分は、得をした?」
「おかげさまで、どうも」
 盗み見られていたのを自覚し、綱吉は喉の奥で唸った。雲雀はいつも通り飄々として、嫌味を口にする。それに負けじと応戦したが、彼のお蔭でこの光景を見られたのは、間違いなかった。
 ただ約束もなく、唐突に現れるのは、止めて欲しい。
「いきなりなんだもん」
 心臓に悪い目覚めだった。改めて思い出して、綱吉はポケットから引き抜いた携帯端末を撫でた。
 指紋認証で画面を明るくすれば、現在時刻の他に、メールや電話の着信履歴がまとめて表示された。
 もっとも今のところ、この一時間以内に届いたものは見当たらない。
 そろそろ部屋の目覚まし時計が鳴る頃だ。それから三十分もすれば、ボスの右腕を自称する獄寺が部屋へ迎えに来る。
 綱吉の不在が露見するのは、その後だろう。
 どんな言い訳をしようか考えて、一気に憂鬱になった。屋敷のバルコニーからとは違う日の出に感動出来たのは、ほんの僅かな時間だった。
 寝癖が残る前髪を掻き毟り、刻一刻と進んで行く時計を睨み付けた。小さく舌打ちしたら、気に触ったのか、運転席から腕が伸びてきた。
「そんなの見て、楽しいの?」
「楽しくないですよ」
「そう。じゃあ見なければ良いじゃない」
「また、簡単に言っちゃって」
 片手でハンドルを操作しつつ、雲雀が綱吉の手ごと、小型の端末を膝へ降ろさせた。しかも画面が下になるように、力加減と角度を調整する徹底ぶりだった。
 与えられる体温に逆らわず、従って、綱吉はぐーっと背筋を伸ばした。遠いようで、案外近いところにある天井を仰ぎ、一分前とは明るさが違う空に目を向けた。
 ほんの一瞬のうちに、世界が一変していた。
「ヒバリさんに拉致されたって、言いますからね?」
「良いよ」
 予定では、今日は傘下のファミリー代表者との会談の後、ボンゴレが別名義で運営している工場の視察が入っていた。
 資金運営絡みで目を通しておかなければならない書類は、大方決済が完了している。急ぎで整理しなければならない案件がなにもなかったのは、幸いだった。
 だからこそ、狙われたのかもしれない。
 今日も普段通りに始まり、何事も無く終わるものだと思っていた。
 ところが夜明けを待たずして、見通しが良かった空に雲が立ちこめた。
 視界不良、行く先も不明。
 どこへ連れていかれるのか、皆目見当がつかなかった。
 辛うじてパジャマから着替える猶予は貰えたが、服装を選んでいる余裕はなかった。お蔭で靴下が左右で違う。適当に引っ掴んで持って来たネクタイは、ジャケットとのバランスが悪く、結ぶのを諦めた。
 第一ボタンを外して開いた襟元を弄り、そのまま指を顎に添える。
 見慣れない景色が次々現れては、消えて行った。左右に広がる葡萄畑に動くものはなく、市街地が遠いのも手伝って、すれ違う車も殆どなかった。
「どこ、行くんですか?」
「さあ」
「え?」
 このまま行けば、いずれ海に辿り着くだろう。
 ちゃんと屋敷に帰り着けるのなら、それでいい。腹を括って、一からやり直しとなった今日の予定を確認しようとしたが、返って来たのは不思議なひと言だった。
 素っ気なく、淡々と。
 無責任が過ぎる投げやりな合いの手に、綱吉は目を丸くした。
 零れ落ちんばかりに見開いて、運転席の男を凝視する。
 穴が空きそうなくらい見詰められて、雲の守護者は口角を持ち上げた。
「どこに行きたい?」
「はあ?」
 不遜に訊ねられて、素っ頓狂な声が出た。
 日に何度も、驚かせないで欲しい。愕然として口をぽかんと開けた綱吉に嘆息し、雲雀は人差し指でハンドルを叩いた。
 リズムを取り、小さく肩を竦めた。言葉を探しているのか目を泳がせて、やおらブレーキを踏み、速度を落とした。
 後続車の邪魔にならないよう車を端に寄せ、完全に停車させた。明るさを増していく空と、完全に姿を現した太陽を遠くに眺めて、ハンドルに凭れ掛かるように猫背になった。
 その状態で助手席の綱吉を見て、不敵な笑みを浮かべた。
「君が行きたいところ、行ける範囲でなら、連れていってあげる」
 さらりと言われて、顎が外れそうだった。
「えええー……」
 予想外の返答に絶句して、綱吉は顔を覆った。全く以て意味が分からないと、早朝から叩き起こされた己の境遇を振り返った。
 前触れもなく突然やって来て、早く支度をしろ、と急かされた。どうやってセキュリティを掻い潜ったか分からないが、正面玄関から堂々と連れ出された。
 その間、屋敷の人間には誰ひとりとして遭遇しなかった。
 神出鬼没なこの男には、これまでにも散々振り回されて来た。今日もそうなるのか、と彼の身勝手さを恨んでいたら、膝に放置していた携帯端末が突如騒がしく踊り出した。
「うわっ」
「ムッ」
 不意を衝かれ、シートの上で飛び跳ねた。
 雲雀も何が起きているのか察して、露骨に顔を顰めた。
 長らく沈黙していた電話が、華やかな音楽を奏でていた。小刻みに己を震わせて、早く出るよう、持ち主に促した。
 画面上に表示されているのは、獄寺の名前だ。慌てて車に搭載されているデジタル時計を確認すれば、普段の起床時間をとっくに過ぎていた。
「え、あ。あっ、えと、も……もしもーし」
 咄嗟にどうすれば良いか分からず、狼狽して、端末を握り締めた。応答する方法さえ頭から吹き飛んで、鳴り続ける小型の機械に向けてそのまま喋り出そうとした直後。
 ブツッと、音楽が止まった。
 激しい振動も収まって、画面が一気に暗くなった。
 理由は、明白だった。
 綱吉が持つ端末に、雲雀の手が覆い被さっていた。指は側面に添えられており、彼が電源ボタンを押したのは間違いなかった。
「はい?」
「チッ」
 許可した覚えはなく、横から割り込まれた格好だ。
 勝手な事をした彼にきょとんとしていたら、盛大な舌打ちが顰め面と共に飛んで来た。
「君ねえ」
「うわ、まただ」
 露骨に不機嫌になった雲雀の前で、一度は沈黙した電話がまた鳴り始めた。
 一度や二度で、諦める獄寺ではない。ここは大人しく、状況を報告すべきだろう。
 幾ばく冷静さを取り戻して、液晶画面に添えた指を上に滑らせる。その単純な操作をする僅かな間に、雲雀がシートベルトを外したのに、綱吉は気付けなかった。
 逃げ場のない密室で、動きを制限する拘束を解いた男が、大きく身を乗り出した。
「もしもし、もしもし? うん。ごめん。あのね、うん、うん。違うって。オレはだいじょ……」
 通話が繋がった途端、スピーカーから獄寺の声が溢れ出た。正直何を言っているか分からないくらい、発音がめちゃくちゃになっていたが、心配してくれたのは痛いくらい伝わって来た。
 そんな過剰なまでに身を案じる男を宥めていたのを、遮られた。
 力技で綱吉の腕を降ろさせ、膝に縫い付けた。逆らえないよう、斜め前方から覆い被さり、真っ直ぐに見据えたまま顔を近づけてきた。
 鋭い眼光が、綱吉を射貫く。
「ンムー!」
 目を閉じて、という雰囲気ではなかった。色気など皆無だ。これはキスなどではない。噛みつかれ、一歩間違えれば食い千切らかねない代物だった。
 無理矢理口を塞がれて、熱を押しつけられた。鼻息が肌を掠めて、そこから火傷が広がっていく錯覚を抱かされた。
 奥歯を噛み締め、恐怖を堪える。
 至近距離で睨み付けて、綱吉の硬直がいつまでも解けないと知るや、雲雀は意外にもあっさり離れた。微かな衣擦れの音を残して、運転席へ戻っていった。
「…………殺されるかと思った」
 随分と時間が過ぎてからの感想は、紛れもない本心だ。
 息をするのも忘れて、瞬きも殆ど出来なかった。心臓が爆音を刻み、全身が火照って汗が止まらなかった。
 電話は通話状態のままで、獄寺の声がスピーカーからひっきりなしに響いていた。応答してくれるよう懇願して、彼の周囲に人が集まっているのも感じられた。
「出ても?」
「赤ん坊には伝えてある」
「じゃあ、大丈夫かな」
 必死に喚く自称右腕を諭す声もあったので、問題ないだろう。屋敷を出る時、誰とも会わなかった理由を手短に説明されて、納得した綱吉は自分で通話を終了させた。
 ついでに電源も落とした。ふと嫌な予感を覚えて隣を見れば、いつの間に取り出したのか、雲雀がトンファーを構えていた。
 利き手に握り、いつでも振り下ろせるよう、機会を狙っていた。
「ダメですよ、これは。大事な写真とか、いっぱい入ってるんですから」
 もしあそこで電源を切らなければ、彼は強硬手段に出ていた。
 市販品よりも格段に頑丈に出来ている端末だけれど、雲雀の豪腕なら、分からない。壊されないよう胸に庇い、声高に叫んで、綱吉はあからさまに拗ねている男に苦笑した。
 目を細め、口を閉ざした。クツクツと喉の奥で笑って、小刻みに肩を震わせた。
「どうせ、あいつらとのつまらない写真ばかりなんだから、いいじゃない」
 それが気に触ったのか、雲雀がむすっとしたまま言う。
 獄寺や山本たちへの嫌悪を隠さない彼に、綱吉は目を見張り、すぐに頬を緩めた。
「それが、ですねえ。ヒバリさんの写真も、実は、結構入ってたりするんです」
「僕の? そんなの、許した覚え、ないけど」
 自慢げに言って、掌より少し大きい端末を高く掲げた。本物がそこにいるのに、真っ黒になった液晶画面に頬を寄せて、愛おしげに目を閉じた。
 初耳だと雲雀は驚いた様子だが、それもそのはずだ。
 彼は写真を嫌う。カメラを向けた途端、トンファーを手に実力行使で撮影を止めに来た。
 つまるところ彼を撮すには、見つからないよう、こっそりやるしか無い。ただ勘が鋭く、全方位を警戒して緩めない男を隠し撮りするのは、勿論容易ではなくて。
「そりゃあ、そうですよ。だって、ヒバリさんの寝てるところを――――あ」
 大容量を謳う端末に保存されている画像のうち、他とは隔離させた、フォルダの中身。
 そこにたっぷり貯め込んだ写真の出所を、調子に乗って、自分からうっかり暴露してしまい。
 綱吉は本日三度目の、死の予感に背筋を寒くした。
「へえ?」
 淡々として、飄々として、表情の変化から感情は読み取りにくいが。
 雲雀の目が笑っていないのだけは、疑いようがなかった。
「……じょ、冗談。冗談ですってば!」
 自分でも苦しい言い訳だと分かっているが、咄嗟にその言葉が口を突いて出た。命を、そして秘蔵ファイルを守る為に必死に捲し立て、訴えて、この世にひとつしかない携帯端末を強く抱きしめた。
 顔面が腫れるくらい滅多打ちにされても、これだけは絶対手放さない。
 それくらいの強固な意志を表明した綱吉に、雲雀は諦めたのか、ため息を吐いた。
 長くトンファーを掲げ続けるのにも、疲れたらしい。肩を軽く回して骨を鳴らし、手早い仕草で武器を戻した。
 そして代わりと言うべきではないかもしれないが、彼所有の端末を取り出した。
 艶のある黒い外観に、装飾の類は一切ない。起動させた際に表示される画面も、デフォルトで用意された画像そのままだった。
 その潔さが、いかにも彼らしい。
「ヒバリさん?」
「ちょっとこっちに来なよ。確か、これを……ああ、こっちか」
 その端末を慣れない指使いで操作して、なにかのアプリを呼び出し、綱吉を手招く。
 画面は見せて貰えなくて、何をしているかは分からない。だが促されるままにシートベルトを外し、近付けば、同じく肩を寄せて来た雲雀が、やおら左手を前方に伸ばした。
 掴んだ端末の画面には、成人男性ふたりの姿がアップで映し出されていた。
 おや、と綱吉が唖然とした瞬間。
 フラッシュが瞬いた。
「うっ」
 反射的に目を閉じて、顔を庇おうとしたら、ぐいっと肩を掴んで引き寄せられた。
 フラッシュが短い間隔で明滅を繰り返した。瞼越しでも分かる眩しさに顔を歪めていたら、むにゅ、と暖かなものが再び唇に覆い被さった。
「ンん――」
 口から吐くつもりでいた息が、行き場を失い、鼻から漏れた。
 はね除けようとしたら、肩を抱いていた手がするりと離れた。そうして頭を振る直前だった綱吉の顎を抓んで、向きと角度を固定した。
 長い時間重ね合って、名残惜しげにちろりと舐めて、離れて行く。
「ひっ、ひば、ヒっ」
「ああ、今の機種は上手だね。悪くない」
「なにしてくれるんですか! って、写真。写真? 今の? え。嘘。けっ、消して。消してください。なにしてくれてるんですかあ!」
 思いも寄らぬ展開に、頭が追い付かない。
 気が動転したまま喚き散らすけれど、雲雀は不敵に笑うばかりだった。
 今し方撮影した写真は、見せてくれなかった。自分だけで楽しんで、底抜けに上機嫌だった。
「ヒバリさん!」
「だったら君のところの写真、消す?」
「ずるい。卑怯」
 顰め面で、目を閉じたままで、そんな不細工な顔で撮られたのは納得がいかない。
 抗議するが梨の礫で、悪口は意味をなさなかった。
 負け惜しみで睨み付けるものの、効果が無いのは分かりきっている。ぶすっと口を尖らせ、小鼻を膨らませて、綱吉はふっくら柔らかなシートに凭れ掛かった。
 両足を揃えて投げ出し、踵を何度か上下させ、息を吐いた。四肢に蔓延る熱を追い出し、気持ちを落ち着かせて、運転席に戻った雲雀に目を細めた。
「そういえば、さっき思い出したんですけど。今日って、バレンタインデーだったんですね。忘れてました」
「ふうん?」
 頭を切り替え、世間話を振ってみた。
 実際に忘れていたが、端末に表示された日付を見て、思い出した。しかし雲雀はさほど関心を示さず、相槌をひとつ打っただけだった。
 だがそれで、確信を得た。だからなんだ、と訊き返して来ない彼の不器用さに相好を崩し、綱吉はシートベルトを装着し直した。
「行きたいところ、決まりました。ちょっと遠いんですけど、有名なショコラティエのお店があるんです」
「どこ?」
「検索するんで、ヒバリさんのそれ、貸してください」
「嫌だよ」
「消しませんって。むしろ、撮り直させてください。何枚でも」
 明るさが増した車内で早口に言って、地図を見るから寄越せと両手を揃え、差し出した。渋る雲雀を説得し、半ば剥ぎ取るように奪って、独特なアプリの配列に舌を巻いた。
 呆れたような眼差しを投げて来た男も、観念してシートベルトを着け直した。
「じゃあ、行くよ」
「はーい」
 エンジンを再起動させて、少しは通行車が増えた道路に合流する。
 普段と同じ通りに過ぎるはずだった一日は、思いがけないプレゼントに溢れていた。

草緑月
2020/02/11 脱稿