氷の垢離に 得べき成けり

 呼ばれた気がして、歌仙兼定は筆を走らせる手を止めた。
 中途半端になってしまった文字を、ひと呼吸置いてから完成させて、筆を置いた。コトリ、と微かな音が響いた直後に、閉じていた襖の向こうから声が掛かった。
「歌仙、いいですか?」
 控えめな問いかけは、よく知る相手のもの。
 嗚呼、と己の直感に苦笑して、打刀はゆっくり立ち上がった。
 座布団の凹みを爪先で均し、袴の皺を撫でて伸ばした。
「どうぞ」
 合間に応じて、入室の許可を下した。
 返事を受けて、襖がすい、と開かれた。僅かに横にずれたかと思えば、隙間に白い指先が差し込まれ、一気に奥へと押し込んだ。
 慣れた調子で空間を切り開き、見知った顔が現れた。正面に歌仙兼定の姿を認めた彼はホッとした様子で息を吐き、素早く左右を見回した。
「大丈夫ですか?」
「問題ないよ。入りたまえ」
 遠慮がちに聞き直した彼に首肯して、指先で小さく手招く。しかし小夜左文字は臆してか、敷居の前で足踏みした。
「お小夜?」
「あの。歌仙なら知ってるかと思ったんですけど」
「うん。なんだい?」
 ちらちらと左右も気にしつつ、小さな短刀が早口で捲し立てた。そわそわして、落ち着かない。彼らしくない、珍しい姿だった。
 それを不思議に思いつつ、歌仙兼定は表情を和らげた。
 真剣に書き物に取り組んでいたところを邪魔したと、彼が思っているなら、その心配は不要だ。
 心苦しく感じる必要はどこにもないと微笑み、目を細めた。胸の前で腕を組み、聞く姿勢を作ってやれば、小夜左文字は左胸に手を添えて二度、深呼吸した。
 それからやおら右を見て、なにかに合図を送った。続けて右手を軽く振り、自身は少しだけ左にずれた。
 新たに作られた空間に、緑色を主体とした影が現れた。
 こちらもすっかり見慣れた色だ。しかし真っ先に浮かんだ姿より、背丈はずっと高かった。
「松井江?」
「……ご無礼を。どうか、お許し下さい。歌仙様」
 まさか彼が一緒だとは思っておらず、驚いた。それが声にもはっきり現れて、歌仙兼定は些か高い音を響かせた。
 目を丸くする初期刀に、黒髪の青年は気落ちした様子で俯いた。申し訳なさいっぱいの立ち姿を目の当たりにして、本丸最古参の打刀は堪らず短刀を見た。
 打刀同士の視線は上手く絡まない。互いに戸惑っているのを嗅ぎ取って、小夜左文字は小さくため息を吐いた。
「近々、政府の使者が、ここに、主の就任周年記念の祝賀に来る、と。……聞いてますよね?」
 頻繁に隣を気にしつつ、小柄な少年が訥々と告げる。
 すでに知らされていた情報を再確認されて、歌仙兼定は当然とばかりに頷いた。
 組んでいた腕を解き、脇へ垂らした。右腕を軽く揺らし、腰に据えて、左手で空を撫でた。
「勿論だとも。それで?」
 この本丸は、紆余曲折はあったけれど、設立から無事五年を迎えることが出来た。
 数多在る本丸の中には、詳細は不明ながら、長く保たなかったところもあるらしい。中には強制的に解体されただとか、時の政府に離反する動きがあったので消去処分されただとか、不穏な噂が流れたこともあった。
 しかしここは、幸いにもそういった事象と無縁でいられた。辛く、苦しい戦いを強いられる中で、ひと振りとして欠けることなく走り続けてこられたのは、ひとえに審神者の尽力によるものだった。
 そんな審神者に、政府から直々に使者が立つという話だ。
 これまでの苦労を労い、これからの活躍を期待する。それを伝えるだけだというのに、随分仰々しい扱いだった。
 とはいえ、正式な使者をぞんざいに出迎えるわけにはいかない。屋敷中をくまなく整理し、掃除して、審神者の刀として恥ずかしくない振る舞いでもてなすのだと、へし切長谷部たちが随分張り切っていた。
 かくいう歌仙兼定も、言祝ぎの歌を詠むべく、頭を巡らせていたところだ。
 報せが届いてからこの方、屋敷は大わらわだ。
「それで、主が。……金屏風、知らないか、って」
「金屏風? ああ、なるほど」
 小声で問いかけられて、ようやく話が繋がった。
 右手で空気を握り潰して、初期刀たる刀は視線を動かし、松井江を見た。
 審神者に頼まれたのは、恐らくこの打刀だ。しかし本丸に来てまだ日が浅い彼では、在処が分からなかったのだろう。
 それで小夜左文字に頼ったが、この短刀でも心当たりが思い浮かばなかったらしい。
 本丸で二番目に古い刀が知らないのであれば、最も古くから在る刀に聞くより他に術が無い。そういう判断で、ここを訪れたらしかった。
「ご存知ですか?」
「そういえば、あったねえ。けれど、うん、どこに仕舞ったものか」
 俯きがちだった青年に尋ねられて、歌仙兼定は顎を撫でた。天井を見上げながらしばらく考え込むけれど、その在処は思いつかなかった。
 言われてみれば、確かに金屏風は存在した。見た事があるし、飾るのを手伝ったこともあった。
 けれどあれは、毎日使うものではない。
 祝いの席に引っ張り出した後は、用済みとなって片付けられた。恐らくいくつかある納戸の何処かに押し込められたはずだが、具体的にどこにあるか、までは把握していなかった。
「歌仙でも、分かりませんか」
「こういうのは、へし切長谷部の領分だろう」
「帳簿にも、記載がなかったそうです」
 そもそもあれを最後に使ったのがいつだったか、その記憶すら曖昧だった。
 金一色の屏風は、かなり大きな物だった。畳んで、納戸に収納するにしても、かなり目立つので探しやすい部類に入るはずだ。
 それが見つからず、調度品を管理する帳簿にも記載がない、という。
 屋敷の備品類の管理方法が定まる以前の出来事だとしたら、これはかなり厄介な案件だ。容易い話と高を括っていたが、次第に神妙な顔になって、歌仙兼定は口をへの字に曲げた。
 眉間に皺を寄せて小さく唸るが、それで答えが出て来るものでもなく。
「参ったね」
「やっぱり、新しいものを手配した方がいいのかな」
 率直な感想をぽつりと呟けば、聞き取った松井江が、諦めた様子で言った。
 胸の前で両手を重ね合わせ、かなり落ち込んでいる。審神者に役目を任されたのに、果たせない自分を悔やんでいる風だった。
「待て。本当に、ちゃんと、全部探したのかい?」
「そうです。それに、屋敷に金屏風は、二隻もいりません」
 確かに新調するのが手っ取り早いし、確実だけれど、屋敷中をくまなく探し回ってからでも遅くない。
 早まらないよう声を飛ばせば、横で聞いていた小夜左文字も力強く同意した。
 ただその理由が、未だ抜けきらない貧乏性によるものだというのが、いかにも彼らしく。
「お小夜……」
「なんです?」
「いいや、なんでも」
 うっかり憐れみを抱きそうになって、歌仙兼定は急ぎ首を振った。
 咳払いで誤魔化して、摺り足で畳の上を移動した。ゆっくり彼らに歩み寄って、藤色の髪をわしゃわしゃ掻き回した。
「増改築が繰り返されているからね、ここは。探すのを手伝うよ」
「助かります」
 短い後ろ髪を逆立てて、敷居を跨いだ。
 道を譲って下がった短刀が、安堵した様子で礼を述べた。松井江も照れ臭そうにはにかんで、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます、歌仙様」
「ところで、その。松井。前から言おうと思っていたんだが、止めないか。その呼び方は」
「何故です?」
 背筋を伸ばした後、胸に手を添えて微笑む。
 どことなく寂しげにも見える顔立ちの彼に苦笑して、歌仙兼定はひらひらと手を振った。
 彼らの嘗ての持ち主は、主従の関係にあった。松井江という号の由来でもある男は、細川家の重鎮だった。
 しかしそれはあくまで、前の主同士のこと。刀剣男士となった彼らに、顕現してからの時間の長短こそあれ、上下の関係はないに等しかった。
 だというのに謙られるのは、背中が痒くなる。
「僕も、……いいです。いらないです」
「小夜様も、そんな」
 さらに小夜左文字は、歌仙兼定の元の主の、父親の愛刀だった。
 戦国乱世を駆け抜け、生き延びた家系に仕えた男の刀は、この短刀にも敬意を表して止まなかった。
 ただ篭手切江に対してだけは、ほかのふた振りよりも距離が近い。
 同じ江の刀としての親近感もあるだろう。それに加え、家臣でありながら、年若い主君に対して物言う男の刀だったのが、微弱ながら影響しているようだった。
「扱いに差を持たれるのは、どうもね」
「僕には、そんな価値はありません」
「まあ、どうせ、言っても聞かないのだろうけれど」
 その脇差との違いを思い返して、歌仙兼定は肩を竦めた。
 短刀と顔を見合わせた後、斜め後ろを振り向けば、松井江は彼らの半歩後ろで胸を張った。
「はい。これは、僕が好きで言っていることですので」
 決意めいたものを漂わせ、きっぱりと断言した。
 蜻蛉切も桑名江相手に、手を焼いていると聞き及んでいた。それがまさか、自分の身にも起きるだなんて、あの当時は思いもしなかった。
 困った顔で笑って、三振りは並んで廊下を急いだ。刀剣男士の私室がある離れを出て、長い渡り廊で繋がれた母家へと向かった。
 度重なる増改築で、本丸の屋敷は初期の姿を完全に失っていた。特に離れは、部屋が足りなくなる度に増築が繰り返され、今では一部が二階建てだった。
 それでも近いうちに、また足りなくなるかもしれない。
 記憶の海に埋没したかつての屋敷を振り返りながら、歌仙兼定は傷みが目立ち始めた柱をなぞった。
「さて」
「ここの納戸は、全部、調べたつもりだけれど」
 納戸と廊下を仕切る戸は、襖ではなく、板戸だった。そんな戸の引き手周囲には手垢が付き、そこだけテカテカ光っていた。
 格子窓から差し込む陽光は弱く、廊下は全体的に薄暗い。往来が少ないのもあって空気は冷たく、足元から体温が抜けて行くようだった。
 納戸は何カ所かあるが、使用頻度が高いものは、大座敷に近いこの一帯に収納されている。それ以外だと書庫の片隅や、屋外の蔵が使われていた。
 だが蔵は食料貯蔵庫代わりであり、屋根裏は狭い。細い梯子を使ってまで、打刀の身の丈より大きい金屏風を収納するとは、考え難かった。
 となれば三部屋横並びになっているこの納戸か、書庫か。
「もう一度、確かめてみよう」
 松井江は知識こそあれど、金屏風の実物を見たことがあるのかは謎だ。もし金色に輝くものを想像し、探していたのであれば、決して見つかるはずがなかった。
 あれは全面に金箔が張られているのではなく、光を受けて輝くのは内側だけだ。外側は黒で、折り畳めば金色は一部しか現れない。
 そうとは知らずに見て回っていたら、気付かずに行き過ぎてしまいかねない。
 そんな可能性を頭に置いて、歌仙兼定は最も奥にある納戸に入った。てっきり手前から探して行くと思い込んでいたふた振りは、慌てた様子で彼を追いかけた。
「そっちですか?」
「……ああ、そうか。そうですね」
 声を高くした松井江と違い、小夜左文字は歌仙兼定の意図するところに気付いたようだ。
 なるほど、と納得して、手を叩き合わせた。怪訝にしているひと振りを見上げて、これでいい、と言わんばかりに頷いた。
 ただでさえ物が多い本丸だ。収納場所を確保する為に、使用頻度が低いものは必然的に奥へ、奥へと追いやられた。
 そして少なくともこの一年は、確実に金屏風を使っていない。いや、一年どころでは済まなかった。
 年単位で使わないものを、出入りが激しい場所に仕舞っておくのは効率的ではなかった。
 捨てた、という可能性も完全には否定出来ないが、一応あれはあれで、高価な品だ。片付けたのだって、邪魔になるからではなく、破れたら買い換えるのが大変、という理由が一番だった。
 そうでなくとも騒がしく、常に誰かが座敷、廊下の関係なく走り回っている状態なのだ。弾みで倒して、壊されたら、たまったものではない。
「そうやって、次第に出番が減っていったのだとしたら、ここら辺に……うわっ」
「わふ」
 困惑している松井江に説明しつつ、歌仙兼定が少々立て付けが悪くなっている戸を一気に開いた。
 途端にもわっと煙のような埃が舞い上がって、直撃を喰らった打刀と短刀は悲鳴を上げた。
 慌てて目と口を閉じ、顔の前で両手を振り回した。濛々と立ちこめる埃を払い除けて、しばらく待ってから視界を確保した。
 年末の大掃除で、此処もある程度片付けられたはずだ。
 だのに酷い有り様なのに絶句して、歌仙兼定は頭を抱えた。
「誰だ。ここの掃除を担当していたのは」
 どう考えても、手抜きだ。苛立ちながら吐き捨てるが、心当たりは浮かんで来なかった。
「年末は、みんな、忙しかったので」
「そうだとしても。もうちょっと、やりようがあるだろうに」
 年の瀬は毎年連隊戦の任務があり、審神者は政府に命じられた任務を終えるのに毎回必死だ。刀剣男士も多数引っ張り出され、屋敷の仕事は疎かになりがちだった。
 かくいう歌仙兼定と小夜左文字も、ずっと出ずっぱりだった。居残り組だった松井江が代表として弁解するけれど、それで気が晴れるわけもなく。
 床を荒々しく踏み鳴らし、歌仙兼定は必死に己の不機嫌を宥めた。小夜左文字がその腰を軽く叩いて、彼の努力を労った。
 もっと責められると覚悟していた松井江は、懸命に自分自身を制御する打刀に目を見張り、口元を綻ばせた。
「ああ、しかし」
「歌仙?」
「歌仙様?」
 やがて口を開いた歌仙兼定は、感嘆の息を途中で止めた。
 喋り出したかと思えば、急に黙られて、拍子抜けしたふた振りが同時に首を捻る。
 不思議そうに見詰められて、視線を浴びた男は照れ臭そうに微笑んだ。
「いや、なに。五年ともなると、こうも埃が積もるものなのかと。そう思っただけだよ」
 ものの考え方、捉え方を逆転してみれば、この大量の埃は、それだけの歳月が積み上げたもの。あるはずの物が行方知れずとなり、探さなければならないのも、月日の流れによって生じた現象だ。
 彼らはそれだけの時を、この本丸で過ごして来た。
 改めて実感したと囁いて、風流を愛する刀が鼻の頭を掻く。
「そうですね」
 彼と同じだけの時間を、この地で積み重ねて来た短刀もまた、深く長い息を吐いて同意した。
 ただ顕現してから三月と経っていない打刀だけは、ピンと来ない様子だった。
「僕には、まだ、あなた様と同じ感慨に至れるだけの経験がないので。少し、寂しいですね……」
 しんみりしながら告げて、胸に添えた手を握り締める。
 指先に力を込めた彼に目を眇めて、歌仙兼定は首を横に振った。
「なに、君もすぐに分かるようになる。いや、なってもらわねば困る、かな?」
 顕現したばかりでは、分からないことも多い。慣れないやり取りに戸惑い、苦労する機会も頻出する。
 けれどそれは決して恥じることではないし、哀しむことでもない。
 この本丸に集う刀剣男士全てに、そんな時間があった。歌仙兼定や、小夜左文字だって例外ではなかった。
 心からの笑みを浮かべて告げて、彼は勇ましく袖を捲った。
「そもそも、この埃は、僕らの敵だ。早く金屏風を見付けて、救い出してやらなければ、ね」
 気合いを入れ直し、汚れが目立つ奥納戸に脚を踏み入れた。
「まったくです。埃に埋もれて、忘れられるなんて。復讐しないと」
 続けて小夜左文字も、敵に挑むような険しい表情で意気込み、脇を締めた。
 彼らの勢いに若干気圧されて、出遅れた松井江は廊下でしばらく立ち尽くした。大量に積まれた木箱や、がらくた同然の諸々を押し退けるふた振りを呆然と眺めて、ようやく決心が付いたのか、握り拳を作った。
「ここ、なら。……僕たちが、埃を被る暇は、なさそうだ」
 ひとり呟いて、口元を綻ばせる。
「お手伝いします」
「何を言っている。今の近侍は、君だろう。率先してやるべきと知りたまえ」
「はいっ」
 顔を上げ、宣言してから右足を前に繰り出した。
 途端に内側から飛んで来た叱責にも、彼は何故か、嬉しそうだった。
 

2020/01/19 脱稿
あらたなる 熊野詣での験をば 氷の垢離に得べき成けり
山家集 1530