新春の風、というものは、ただの錯覚でしかない。風は年がら年中吹いており、それが新春を告げているかどうかは、ただの受け手側の気持ちだ。
それでも多少、爽やかに感じるのだから、不思議と言わざるを得ない。
年が変わり、新しい一年のスタートを無難に切れた。
九代目から引き継いだばかりの年若い十代目として、他組織の代表者との挨拶は無事終えた。老獪且つ狡猾な人生の先輩方とのやり取りも、最近はなんとか、そつなくこなせるようになってきた。
すべては経験のたまものだ。後継者に指名された直後はドタバタ続きで、マフィアのボスなど絶対に御免だと言い張っていたが、それも遙か昔の話だ。
「ちょっとはゆっくり、出来るかなあ」
朝から連続していた予定は、これで一段落したはずだ。海に面した断崖の上に建つ屋敷の、風が強く吹き付けるベランダに佇んで、綱吉はホッと安堵の息を吐いた。
腕を絡めて頭上に伸ばせば、肩の骨がボキリと鳴った。
ここ数日は会食続きだったので、完全に運動不足だ。体重も増えた気がする。ベルトが若干苦しい腹を撫でて、彼は四肢の力を抜き、首を振った。
少し動きたいけれど、暇を持て余している仲間は居るだろうか。
思い浮かべたけれど、出て来た顔のうちの半分は、長期休暇で故郷へ帰っていた。
「獄寺君だと、ちょっと、物足りないしなあ」
屋敷に残っているのは、忠犬宜しく控えている男だ。しかし獄寺は中距離戦闘を得意としており、肉弾戦を持ち味にしている綱吉とは戦い方が大きく違っていた。
それでも彼だって、接近戦がまるでダメ、というわけではない。
「よし」
もとより、軽く身体を温めるだけだ。贅沢は言っていられないと、綱吉は脇を締めて気合いを入れた。
拳を作って正拳突きを真似て、気配を感じて振り返る。
「あれ?」
キィ、と物音がしたが、開いたのは部屋とベランダを繋ぐ窓ではなかった。
室内の、陽射しが届かない場所に誰かが立っていた。黒い服で身を包んでおり、影になっているので顔までは分からなかった。
一瞬獄寺かと思ったが、彼の場合は、入室の前に必ず一声掛けてくる。
「誰だろ?」
ひとり首を傾げ、腰を捻った。身体を百八十度回転させて、鍵が掛かっていない窓に歩み寄った。
先ほど潜ったばかりの場所から室内に戻れば、暖炉で温められた空気が肌を包んだ。
思ったよりも身体は冷えていた。白くなった指先に息を吹きかけて、綱吉は動かない人影に目を凝らした。
「あれ」
「なんだ、いたの」
そうして目をぱちくりさせて、その場で立ち尽くす。
驚いて固まっていたら、居るのを知っていただろうに、雲雀からそんな言葉が返って来た。
素っ気なく告げて、彼は凭れていた壁から離れた。踵で絨毯の縁を削り、組んでいた腕を解いた。
短く切り揃えた黒髪に、同じく黒く冴えた眼差し。鋭い眼光は、新年を迎えた後も健在だった。
彼の瞳が濁ることは、あるのだろうか。
常に毅然と佇む男を前にして、ハッと我に返った綱吉は慌てて姿勢を正した。
背筋を伸ばし、雲雀の出方を窺う。彼が訪ねて来るという話は、一切聞かされていなかった。
もっとも雲の守護者はいつだって気まぐれで、予定通りに行動してくれた試しはない。来いと言った日に現れず、来るなと言った時に限ってやって来るので、扱いが大変だった。
しかし彼が乱入して来たお蔭で、脱せた窮地があったのも事実。
雲雀は綱吉たちとは違う視点で、世界を見ている。意思疎通は簡単ではないけれど、今やなくてはならない存在だった。
そんな男が、正月早々、何の用か。
「帰ってなかったんですか?」
「君こそ」
「オレは、まあ、山本たちが戻って来てからです」
「ふうん?」
霧の守護者もそうだが、所在が掴みにくい男だ。てっきりホームグラウンドに帰国しているとばかり思っていただけに、ここで顔を合わせるとは予想していなかった。
訊けば、返される相槌は短い。緩慢に頷き、雲雀は照れ笑いを浮かべた綱吉に近付いた。
あと数歩の距離まで来て、ゆっくり右手を掲げた。
「鈍ってると思ってね。相手してあげるよ」
「うわあ……」
人差し指で弛んだ腹を指差され、不敵に笑いかけられた。
まさにベランダで考えていたことを見抜かれて、綱吉はがっくり肩を落とした。
俯いて額を押さえ、緩く首を振る。
「不満なの?」
それを見て、雲雀が拗ねたように言った。顔を上げれば、表情は相変わらず不遜だった。
戻した右手を腰に当て、挑発的に口角を歪める。断っても、強引に押し切ってやるという、そんな決意が垣間見えた。
確かに獄寺では物足りないと思っていたが、雲雀が相手となると、軽く、で片付くはずがない。
お互い本気になって、時間を忘れて暴れ続けるに決まっている。
「夕飯の支度、頼んでおきますね」
「任せるよ」
ひとり分多く用意してくれるよう、調理長に依頼しておかなければ。
ついでに客室も整えておくよう伝えるべく、綱吉は連絡用の通信機がある机に向かおうとした。
それでふと、思い出したことがあって、胸の前で両手を叩き合わせた。
「そうだ、ヒバリさん」
「なに」
キャスター付きの椅子を引き、回り込んで、数ある引き出しのうち、ひとつを引いた。部屋の中央に陣取る男を手招き、取り出した箱を見せて、蓋を開いた。
素直に近付いて来た雲雀に、納められていた紙の束を広げて、示す。
「なにこれ」
「ええと、どれだったかな……と。これかな? あ、違う」
トランプのように横に並べるが、一枚ずつがトランプよりもずっと大きい。
掌に余るサイズのそれは、経年劣化で色がくすんだハガキだった。
端が若干黄ばんでおり、物によっては角が折れている。しかし概ね、保存状態は悪くなかった。
カラフルで、絵柄も色々だ。印刷されたもの、手書きのものもあった。
手書きに関しては、あまり上手と言えないものばかりだ。子供がマジック片手に、悪銭苦闘しながら描いたと分かるものが大部分を占めていた。
それらの中から何枚かを引き抜き、見比べて、綱吉は顔を綻ばせた。絵と一緒に記された文章を読んで、楽しそうに目を細めた。
だが雲雀には、彼が何を笑っているのか、さっぱり分からない。
放置されるのは気にくわなくて、むすっと小鼻を膨らませた矢先だ。
不機嫌な気配を察したドン・ボンゴレ十代目が、手にしていたものを一斉に机に降ろした。それから真面目な顔をして、目的のものを探り当てた。
引き抜かれた一枚には、他のものとは違い、表書きがなかった。
「はい」
宛名が記されていない面を上にし、綱吉が雲雀に差し出す。
素直に受け取って、かつての風紀委員長は眉を顰めた。
「なに?」
怪訝にしつつ、彼はハガキを裏返した。
出て来たのは、今年の干支だ。鉛筆で下書きをして、色鉛筆で着色されていた。
お世辞にも上手とは言えず、新年を祝う文字がなければ、正体さえ掴めなかっただろう。手本とした絵があったはずなのに、線はガタガタで、色使いも微妙だった。
「これが?」
机を挟んで向かい側にいる綱吉と、手元を見比べながら、雲雀は投函されなかっただろう年賀状を揺らした。
下辺を持ち、顔を扇ぐ。軽く首を捻った彼に苦笑して、綱吉は大量に散らばった年賀状の数々を集めた。
「去年帰った時に、見付けたんで。持って来ちゃいました」
角を揃え、入っていた箱へと戻す。
雲雀は残された一枚を改めて見詰めて、下手な絵の脇に添えられた年号に眉を顰めた。
黒曜石の瞳を中央に寄せて、物言いたげな態度で綱吉を射貫く。
睨まれたダメツナは小さく舌を出し、先ほどの雲雀を真似て、右人差し指を伸ばした。
「干支、ちょうど一周したんで」
「僕宛だったやつ、てこと?」
「正解」
空中にくるりと円を描いて、悪戯っぽく笑う。
得心がいった風に頷き、雲雀は改めて色鮮やかな紙面に視線を落とした。
十二年前といえば、彼らはまだ中学生だった。綱吉は不登校一歩手前で、雲雀は風紀委員長として学校に君臨していた。
本来なら交わるはずのないふたりの運命は、とある赤ん坊の出現により、一変した。
「学校宛てにしてたら、届いたのに」
「そう思ったんですけど、ほかの人に見られるの、嫌だったし。だいたいあの頃って、ヒバリさん、オレの名前、ちゃんと把握してました?」
互いの存在は認識し合っていたけれど、年賀状を出し合うような関係ではなかった。それでも思い立ち、余った一枚で書いてみたものの、そもそも住所を知らない、という難題にぶつかった。
結局、出さなかった。
出せなかった。
直接手渡しに行く、という勇気も、あの頃は持ち合わせていなかった。
だのに長年捨てなかったのは、単に忘れていただけか、それとも。
今となっては思い出せない記憶に目尻を下げて、綱吉は肩を竦めた。雲雀は興味深そうに何度か頷いて、古くなった年賀状をくるりと反転させた。
「もらってもいいの?」
「どうぞ。ああ、くじは外れだったはずです」
不器用なりに頑張って描いた絵を見せられて、はにかむ。
どうでも良い情報を付け足された男は一瞬きょとんとして、自分の側を向いた紙面の下方を確かめた。
最初から印刷されていた数字を親指でなぞり、嗚呼、と吐息を零す。
「そう? 当たりじゃない?」
「はい?」
そうして彼は、不意に笑った。
低い声で囁かれて、綱吉は目をぱちくりさせた。言っている意味が分からない、と首を傾げて、戻って来た葉書に目を落とした。
拙い絵をあまりまじまじ見たくなくて、すぐ表に返した。先ほど雲雀が注目していた箇所を勘で探って、六桁の数字を目で追いかけた。
左から右に視線を走らせ、瞬時に左に戻し、頭の中でひとつずつ読み上げた。
その上で改めて、声に出した。
「……いち、はち……」
「どう?」
奇なるかな。今年の西暦の後に、十八が並んでいた。
まるで仕組まれたかのような、奇跡的な並びだった。
「あ、あはは」
言われるまで、気付かなかった。勿論十二年前の年の瀬、狙ってこれを選んだわけでもなくて。
なにもかもが偶然だったのに、こうなるとなにかに導かれていた、としか思えない。
思わず噴き出して、綱吉は満足げにしている男を見上げた。
「今年も、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
ほかに言葉が浮かばなくて、仰々しく頭を下げた。
机に両手を置いてお辞儀をした彼に、雲雀は楽しそうに目を細めた。
2020/01/03 脱稿