神も聞け 藻塩の煙 焦がれても

 シミュレーター室のドアを潜った直後の、アスクレピオスの表情は、一生記憶に残りそうなものだった。
 唖然としたかと思えばハッと息を呑み、惚けていたのがみるみる怒りに切り替わって、衝動のままに振り返った。しかし出て行こうとしたドアは今や周囲の景色に同化して、こちらからは視認できなくなっていた。
 前に進むなど以ての外で、逃げ場がない。
 にっちもさっちもいかない状況に、彼の溢れて止まない感情は、ここまで先導してきた青年に向かった。
「マスター!」
 怒り心頭で怒号を上げ、どういう事かと、説明を求めた。腕を横薙ぎに払い、長い袖をぶん、と振り回して、緑の草原に佇む少年――の腕に抱かれた羊を、恐らくは人差し指で指し示した。
 こめかみに青筋が浮かんでいた。
 ここに来る道程では、さほど興味なさげな顔をしていたが、決して機嫌は悪くなかった。ところがその羊を見た途端、露骨に嫌そうな顔をした。
 不快さを隠さず、少しでも近付けば唾でも吐きそうな勢いだ。
「なぜ、ここに。こいつが。いる!」
「ええ~。俺、言わなかったっけ?」
 腸が煮えくり返った声で凄まれて、人類最後のマスターたる藤丸立香はサッと目を逸らした。真っ白い綿雲がふわふわ浮かぶ青空を眺めつつ、両手は胸の高さに掲げて、激昂するの医神からじりじり距離を取った。
 摺り足で少しずつ後退して、様子を窺い、瞳だけをアスクレピオスへと向けた。
「お前は、サーヴァント同士の交流会だと、そう言うから」
「だから~、サーヴァント同士の交流会だって」
「そいつは! サーヴァントじゃあ! ない!」
 すかさず目が合った男が不満を口にして、反射的に言い返したものの、話が通じる状態ではなかった。
 興奮して、頭に血が上っている。
 右腕を上下に振り回しながら怒鳴られて、立香は困った顔で頬を掻いた。
 直接詰られているわけではないものの、パリスはアスクレピオスの大声に、逐一ビクッ、ビクッ、と反応した。最初こそ笑顔だったのが、次第に落ち込んで、今や萎れた花の如く俯いていた。
 無意識に腕に力がこもっているのだろう、抱きしめている羊も若干潰れていた。
 ただそのモコモコした外見に、痛覚が備わっているかは不明だ。微妙に嬉しそうなのは気のせいかと考えつつ、立香は先ほど自分で広げた距離を、思い切って詰めた。
「まあまあ、そう言わず」
 このままでは、喧嘩になる。それにここに居ては、次に部屋に入って来る存在の邪魔になるかもしれない。
 場所を移すべく提案すれば、それまで黙って固まっていたパリスが、突然顔を上げ、口を開いた。
「そっ、そうです。アポロン様は、僕に勝手についてきちゃったわけですけど、だから、ええと……僕の一部ってわけじゃ、ないけど……あれ。でも、アポロン様も、一応……あれれ? サーヴァント、に、なるの……かな?」
 勇ましく喋り出したかと思えば、途中から自問自答を開始した。羊の外見をした太陽神、アポロンを弁護すべく必死に捲し立てるものの、次第に自信がなくなって、声は尻窄みに小さくなった。
 首を傾げて考え込んで、ぎゅう、と更に強く羊を抱きしめる。
「パリスちゃん、それ、今考えるコト?」
「ひゃああ、ごめんなさい!」
 それが矢張り、少しは苦しかったらしい。
 口がどこにも見当たらない生き物が突如喋って、羊飼いだった少年は悲鳴を上げて跳び上がった。
 ついでにアポロンをぽーん、と空中に放り投げて、大慌てでキャッチした。孤を描いて落ちて来たそれを改めて胸に抱いて、息を切らし、必死の形相でアスクレピオスに向き直った。
「とっ、とにかく。あの、あのの。あの。ぼく、と……僕と一緒に召喚されたってことは、アポロン様も、サーヴァント、だと。いうことで! 親睦会に参加する権利は、あ、あると。僕は思います」
 懸命に訴え、どこから見ても太陽神とは言い難い羊をずい、と前に差し出した。
「そうか。だが生憎、僕はそうは思わない」
「がびーん」
 それを冷たくあしらって、アスクレピオスはヒュッ、と指先で空を斬った。
 袖に隠された彼の指先に、魔力の塊が渦を為した。空間に小さな歪みが生じて、立香は次に起きる事象を想像し、背筋を寒くした。
 ショックを受けてよろめいたパリスのすぐ脇を、高速で何かが駆け抜ける。
「うひゃあ」
「ちょっと、ちょっと。アスクレピオス、待った。ステイ、ステイ!」
「僕は犬じゃないぞ」
「ツッコミどころはそこですか」
 彼が反対側に身体を傾けていたら、直撃だった。
 驚いて尻餅をついたパリスを庇い、割って入って、立香は声を荒らげた。
 それが大いに不満らしく、アスクレピオスが忌々しげに舌打ちした。およそ医者がすべきではない顔になって、続けて放つつもりだった銀色のナイフ――メスをくるりと反転させた。
 道具作成のスキルを、こんなところで発揮しないでいただきたい。
 背中に冷たい汗を流して、立香は真横に広げた腕を折り畳んだ。
 身体を張って止めに入ったまでは良いけれど、これが自分に突き刺さっていたかと思うと、今更ながら心臓がバクバクして来た。
 冷や汗を拭い、荒い息を吐いて、彼は渋々武器を引っ込めた医神に肩を落とした。
「ひ、ひどいですよぉ」
「そうだ、そうだー」
「五月蠅い。黙れ。切り刻んでスープの材料にされたいのか」
「暴力反対!」
 その背中に庇われたパリスが、腰が抜けたのか、座り込んだまま抗議の声を上げる。
 そこにアポロンまでもが調子に乗り、不満げに言い放ったものだから、アスクレピオスの機嫌は治まらなかった。
 一度は撤収させたメスを、再び、しかも今度は両手に構えた。いつでも斬り掛かれるよう構えを取って、間に立つ立香など目に入っていない様子だった。
 このままでは本当に、血みどろの争いが起こりかねない。
 いざとなれば令呪を使ってでも、止めなければ。マスターとしての立場を思い出し、決意を固め、慎重にタイミングを計り、状況の変化を注視して息を殺した。
「あれ? 先輩、なにしてるんですか?」
 ところがそんな緊迫した場面で、あまりにも無防備且つ暢気な声が響いたものだから、全てが台無しだった。
 堪らず膝から崩れ落ちそうになった。立香は愕然としたまま、草原の真っ只中に現れた四角い空間と、そこから入って来た少女に引き攣った笑みを送った。
「はい?」
 たった今到着したばかりのマシュには、状況がさっぱり分からない。進路を塞ぐように立っている彼らに、不思議そうな顔をするのは当然だった。
 憤っていたアスクレピオスはといえば、やって来た集団の姿に興を削がれたらしい。チッ、と聞こえるように舌打ちして、物騒な凶器を袖の中に回収した。
「おやおや、揉め事かい? よくないね~」
「ダ・ヴィンチちゃんまで。いいの?」
「ちょっとくらいはね。ゴルドルフ君にも、たまには働いてもらわないと」
 ともあれ、一触即発の事態は避けられた。ホッと胸を撫で下ろして、立香は大きなバスケットを抱える女性陣に顔を綻ばせた。
 その籠の中には、今日の昼御飯が入っている。ブーディカは飲み物が入った水筒を胸に抱き、最後にシミュレーター室に現れたエミヤは、皆が座るためのシートを担いでいた。
「全員、揃った?」
「まだ何人か、来ると思うよ。台所で準備してたら、見つかっちゃって」
 今日ここに集まったのは、パリス立案によるサーヴァント交流会のためだ。もっとも本当の目的は、アスクレピオスとアポロンの仲を取り持つこと、なのだが。
 食堂を開催地に選ばなかったのは、下手を打った場合、周囲に被害が及ばないように、との配慮だ。無機質な空間よりも――たとえ疑似空間であっても――晴れ渡る空の下であれば、多少心が大らかになるのでは、という無駄な配慮もあった。
 最初のチャレンジは失敗に終わったが、チャンスがこれ一回とは限らない。
 パリスが気を取り直し、準備を手伝うべくエミヤに駆け寄った。アポロンは少年の胸元から頭上に移動して、息子との軋轢は一旦忘れることにしたらしかった。
 一方で収まらないのは、アスクレピオスだ。
「僕は帰るぞ」
 ここで待っていれば、次に来る誰かがドアを開けてくれる。そうすれば外に出られると踏んだようで、奥へ移動するサーヴァントたちに背を向けた。
 どこまでも頑なで、意固地だ。
「そんなこと言わずに、さ」
「アスクレピオスさんは、参加されないんですか?」
「いや、する。するから。マシュ」
「お前の耳には、糞かなにかが詰まっているのか。僕は帰る、と言っているんだ」
「そんなわけないし、マシュの前で汚いこと言わないで。せめてお昼ご飯だけでも、食べて行こう、よっ」
 なんとか彼を引き留めようとして、立香は声を高くした。どこかにナイフが隠れているかもしれないが、思い切って白い袖の上から手を掴めば、予期していなかったのか、細身のサーヴァントは大仰なくらい身を竦ませた。
 ぎょっとなって立香を見て、直後に気まずそうに口元を歪めた。
 やはり先ほどの刃物を隠し持ったまま、いつでも取り出せるよう準備していたらしい。今回はたまたま、運良く無傷で済んだが、掴む場所が違っていたら、今頃立香の手は血まみれだった。
 物騒なものを潜ませていた男は、偶然起こらなかっただけの可能性に、少しは反省したらしい。
「……食べるだけだぞ」
「もちろん」
 サーヴァント交流会とはいっても、大人数ではないし、大した計画も立てていない。草原に設定したシミュレーションルームに昼飯を持ち込んで、雑談したり、気晴らしに運動したりと、のんびりした時間を過ごそう、という程度だ。
 その中でアスクレピオスとアポロンの関係が、少しでも改善されたら御の字。
 望み薄ではあるけれど、なにもしないで放置するよりはいい。パリスから相談を持ちかけられて、悩み抜いた上での行動だから、ここで彼を帰すわけにはいかなかった。
 渋々承諾の意を表明した医神に、立香は満面の笑みを浮かべた。ぱっと両手を広げてアスクレピオスを解放して、先に歩き出したマシュを急いで追いかけた。
 精巧に再現された草原の丘は広々として、緩やかな上り坂が続いたかと思えば、急に下り坂が現れた。時折風が吹き、爽やかな緑の匂いが鼻腔を擽る。遠くを見ればこんもりと木々が生い茂る森が広がり、のんびり草を食む牛の姿まであった。
 あの牛には、触れられるのだろうか。
 好奇心が擽られたが、あそこまで行くのは大変そうだ。ふと気になって後方に目を転じれば、アスクレピオスはちゃんと、立香に続いて歩いていた。
 もっとも足取りは重く、いかにも気が進まない、という風だ。口をへの字に曲げて、不機嫌を隠そうともしなかった。
 一応太陽神の血を継いで、死後には星座にまでなっているのに、威厳らしいものがまるで感じられない。
 ただの我が儘な子供同然だ。アポロンの前では医神としての立場も形無しだと笑って、立香は先を急ぎ、マシュに並んだ。
「持とうか」
「いえ、大丈夫です」
 大人数分の食事が入ったバスケットは、それなりに重い。いくらデミ・サーヴァントとはいえ大変だろうと手助けを申し出たが、あっさり断られた。
 行き場のなくなった右手を握って、開いて、立香は何気なく自分の上腕を見た。むん、と鼻から息を吐いて力瘤を作ってみたが、残念ながら少女の視界には入らなかった。
 人理修復の旅を始めて以降、トレーニングを積んできた。今ならあの時叶えられなかった数々が叶うかも知れないが、過ぎた時間が戻ることはなかった。
 親子の関係というのは、それと同じかもしれない。
 余計なお節介だと分かっていても、見ているだけしか出来ないのは歯痒かった。歩みが遅いアスクレピオスをひとり待って、立香は控えめに笑った。
「行こう」
 この丘を下った先で、エミヤとパリスが水色のシートを敷いていた。別方向からは複数の笑い声がした。ブーディカが言っていた残りの参加者が、シミュレーション室に入ったらしかった。
 依然顰め面の半神に手を差し出せば、彼はその手を取らなかった。直前の事も頭にあるのだろう。はね除けることもせず、完全に無視した。
「……怒ってる?」
「当たり前だ」
 大外回りで避けられて、それはそれで傷つく。
 声を潜めて問いかければ、振り向きもせずに言われた。
 間髪入れず、即答だった。つい笑ってしまうレベルの素早さで、立香は返す言葉が見つからなかった。
 それでもパリスが、なにかと両者の仲を取り持とうとするのは、あの少年自身に決して許されない不和をもたらした過去があるからだろう。
 アスクレピオスとアポロンの不仲さに、彼はなんら関与していない。それでも本来必要の無い責任を感じて、あれこれ骨を折っていた。
 そして徒労に終わるのが目に見えている努力は、これからも続くのだ。
「あんな可愛い子に、涙目で頼まれたら、断れないしなあ」
 その度に、立香は厄介事に巻き込まれる。今回のように。
 出来るものならサーヴァント同士で解決してもらいたいけれど、マスターが出ていった方が早く片付くこともある。何でも屋のお兄さん的存在の自分に苦笑して、立香は斜め前方で立ち止まっていたアスクレピオスに目を向けた。
 一瞬だが、視線が交錯した。独り言を聞かれたらしい。顔を背ける直前、彼はぼそっと呟いた。
「僕の方が、可愛かった」
「……ごめん。聞こえなかったから、もう一回」
「さっさと行くぞ!」
 耳を疑うひと言に、心の底から再度言ってくれるよう懇願した。
 その要望を蹴り飛ばし、アスクレピオスが声を荒らげた。銀髪の隙間から覗く耳を真っ赤にして、荒々しい足取りでずんずん坂を下っていった。
 皆と合流を果たしたマシュが、立香たちに手を振っている。後ろからは騒がしい喋り声が迫っており、追い付かれるのは時間の問題だった。
「やっほーい。おおっと、マスター発見!」
 遠くからでもよく響く声で、誰が来たのかはすぐに分かった。見ればアストルフォに引っ張られたデオンが、そのペースについて行けず、度々転びそうになっていた。
 彼に捕まったら、立香もああなる。運動神経の差からして、デオンのように巧く立ち回れるはずもない。
「よし、行こう。急ごう。そうしよう」
 幸い、アスクレピオスにも先を急かされている。彼を言い訳にすれば、アストルフォから逃げたことにはならないはずだ。
 そうと決まれば、行動は早い方が良い。力強く地面を蹴って、立香は開いていた医神との距離を詰めた。
「お先に」
「なになに、競争? 分かった、いっくよー」
「待て。待ってくれ、アストルフォ。せめて手を。手を、うわっ、放して」
 すれ違いざまにそう言い残せば、駆け出した立香に反応し、アストルフォが元気よく叫んだ。もれなく引きずられていたデオンが悲鳴を上げて、置き去りにされた格好のアスクレピオスが目を丸くした。
 マスターが彼の右側を走り抜けたと思えば、直後に左側をビュン、と駆け抜けて行く影があった。跳ねるように進む二騎のサーヴァントを見送って、医神と称される男は無意識に指を蠢かせた。
 怪我人発生の気配を察知し、本能が疼いた。しかしサーヴァントというものは、存外頑丈に出来ている。多少転んだり、ぶつけたりした程度では、大した傷にはならなかった。
「チイッ」
 外科手術に最適な道具が手元にあるのに、使う機会を完全に逸した。本来のペースを崩されて、彼は苛立ちのままに舌打ちした。
 むしゃくしゃする感情のやり場に困り、頭皮に爪を立てて掻き毟るが、少しも気分は晴れない。やむを得ず天を仰ぎ、力なく息を吐いていたら、前方からキャー、と甲高い悲鳴が上がった。
「おおおっと、羊はっけーん。まっるーい。かっわいーい。よーし、そうれ。アターック!」
「あああ、アポロン様は、ボールじゃありませーん」
 なにがあったか分からないが、断片的に聞こえて来る会話から、あの羊が酷い目に遭っているのは想像がついた。
 それならば、気分が良い。冥府の底よりもずっと深いところにあった気持ちを一気に浮上させて、アスクレピオスは口角を持ち上げた。
 目を凝らせば、羊の姿を借りた太陽神が、鞠玉のように空中を跳ねていた。
 その球体、もとい羊を奪い合い、パリスとアストルフォがなにやらやり合っている。息も絶え絶えのデオンが仲裁に入るが、まるで意味をなしていなかった。
 マスターはといえば、そちらの騒ぎに加わる気はないらしい。柔らかな草を覆う空色のシートに、靴を脱いで上がろうとしていた。
 賑やかなやり取りを眺め、笑っている。心から楽しそうな姿を視界に収めて、アスクレピオスはやれやれ、と肩を竦めた。
 あんな顔を見せられたら、怒っているのが馬鹿らしくなるではないか。
 すっかり絆されている自身を認めて、彼はピクニックの準備が進む空間に急いだ。
「まったく、あの子たちってば」
 近付けば、先行していたメンバー同士の会話が耳に入って来た。
 ブーディカがぎゃあぎゃあ五月蠅い面々を見ながら愚痴を零して、白い獣を肩に乗せたマシュが困った風に目を細めた。エミヤは黙々とシートの端を固定し、我関せずといった雰囲気だった。
「靴は脱いだ方が良いんだな」
 その独特な空気に割り込むのは勇気が要ったが、立ち竦んでいるわけにはいかない。緑と青の境界線上で、思い切って口を開けば、居合わせた全員の視線が一斉に向けられた。
「いらっしゃい。ごめんねー、主役なのに」
 表面にやや光沢があるシートの上には、マシュが運んでいたバスケットを中心に、飲み物を入れたボトルが数種類と、持ち運びし易い薄型の皿や、食器類が雑多に並べられていた。
 それらを手際よく整理して、ブーディカが笑う。
 嫌味ではないだろうが、思わず反応しかけて、アスクレピオスは喉まで出掛かった怒号を飲み込んだ。
「……気遣いは無用だ。僕はマスターの指示に従うだけだ」
 代わりにぶっきらぼうに吐き捨てて、視線を主催者の片割れに向ける。
 軽く睨み付ければ、立香は照れ臭そうに頬を掻いた。
「えっと、うん。脱いでくれると、嬉しいかな」
「分かった」
 ノウム・カルデアでの生活で、靴を脱ぐのはシャワーを浴びるか、ベッドに寝転がる時くらい。食堂でも、医務室でも、無論管制室でも、土足での行動が基本だった。
 だから、立香の行動を見ていなければ、アスクレピオスは靴のまま、シートに上がるところだった。
 そういう風習があると、知識としてなら有していた。しかし頭で分かっていても、それが必要になった時、実際に行動に移すのは、なかなか難しかった。
 確認して、頷いて、彼は右膝を軽く折り曲げた。腰を斜め後ろに向けて捻って、ズボンの裾を払い、金色に輝く靴を脱いだ。
 両足分を揃え、理路整然と並べられたほかの面々の分に倣い、踵をシート側に向けて置いた。振り返ってマスターを窺えば、彼は一瞬きょとんとした後、目を細めて微笑んだ。
 雷撃に貫かれる以前にも経験した覚えがない行動なので、これで合っているか少々不安だった。どうやら間違っていなかったようで、誰からも、特になにも指摘されなかった。
「来てくれて、良かった」
 立香には、露骨にホッとした顔で言われた。横で聞いていた少女は、なにを思い出しているのか、口元に手を当ててクスクス声を漏らした。
「先輩、昨日の夜から、心配で堪らないって様子でしたからね」
「だってさー、……いや、いいや。やめよう、この話題は」
 アスクレピオスがこの催しの話を聞かされたのは、今朝早くだ。けれど計画そのものは、もっと早い段階から進められていた。
 知らなかったのは、医神のみ。
 けれど内実を教えられていたら、絶対に参加しなかった。だからこそ話が外に漏れないよう、彼らは必死に画策したに違いなかった。
 それもこれも、アスクレピオスとアポロンの仲を取り持つ為。
 厄介事ばかり持ちかけられるマスターの気苦労は、いかばかりか。同情はするけれど、正直なところ、腹立たしさは拭えなかった。
 剣呑な目つきになっていたらしい。立香は一瞬だけこちらを見て、笑い止まない少女を手で制した。そのまま頭上に腕を伸ばして、広々とした空間に、どさっと背中から倒れ込んだ。
「あー、良い天気」
「シミュレーターだけどね」
「それは言わない約束でしょ、ダ・ヴィンチちゃん」
 しみじみとした呟きを、更に小柄な少女が茶化した。立香は利き手をひらひら揺らして、大の字になって目を閉じた。
 心の底からリラックスした表情で数回深呼吸し、起き上がってこない。彼自身にとってもも久しぶりの余暇なのだと思い出して、アスクレピオスはその右側に腰を下ろした。
「紅茶と、珈琲と、あとなんだっけ」
「ジンジャーエール」
「そうそう、それ。どれにする?」
 すかさずブーディカが両手に持ったボトルを揺らし、エミヤの助けも借りて、問いかけて来た。
 人数分より多く用意されたコップには、すでに何種類かの飲み物が注がれていた。そのうち、まだ空のものを一緒に差し出されて、アスクレピオスは口籠もった。
 こういう場には、慣れていない。咄嗟にワインは、と言いかけて、マスターが未成年なのを思い出した。
「どしたの?」
「いや、……なんでもない。どれでも構わない」
 宴ではないのだから、アルコール類が用意されるわけがなかった。脳裏に浮かんだアルゴノーツの面々を素早く頭から追い出して、彼は選択を他者に委ねた。
 ブーディカは緩慢に頷き、たわわに実った果実のような胸を揺らした。口をへの字に曲げ、明後日の方向を見やり、しばらく悩んでから赤色のボトルの蓋を外した。
 白い湯気を立てながら注がれたのは、紅茶だった。鼻腔を擽る香りはほんのり甘く、ささくれだった心を慰めるのに充分だった。
「すまない」
「いえいえ~。どういたしまして」
「ねえねえ、マシュ。あっち、なんだか楽しそう。行ってみない?」
 愛想がなかった自分を反省し、謝罪と感謝を伝えれば、ブーディカはにこやかな笑顔で首を振った。その向こうではダ・ヴィンチがマシュの袖を引き、アポロンを中心にした集団を指差した。
 あの白い羊は相変わらずボール扱いを受け、三騎のサーヴァントの間を飛び交っていた。
 アポロンを取り返そうと躍起になっていたはずのパリスまでもが、今では満面の笑みを浮かべ、太陽神を空中に投げ放っている。そして本来は酷い仕打ち、と怒るべき存在は、ボールとしての状況を甘んじて受け入れていた。
 しかも微妙に、嬉しそうに見える。
「あいつ……」
 見目麗しい三騎に取り囲まれて、至って幸せそうだ。そこにダ・ヴィンチにマシュ、ブーディカまで加わったのだから、天下に知れ渡る女好きの神が、喜ばないはずがなかった。
「アポロン様、楽しそうだね」
「お前にもそう見えるなら、そうなんだろう」
 急に近場が静かになって、立香がのっそり起き上がった。両足を投げ出したまま、上半身だけ浮かせて遠くを見やり、真っ先に目に飛び込んできた存在に苦笑した。
 あまりにも率直な感想だが、アスクレピオスも同意見だ。わざわざ否定してやる道理もなかった。
 アポロンの名声が地に落ちようと、どうなろうと、関係無い。
 冷たく吐き捨てた彼に、立香はいそいそと膝を折り畳んで、その天辺に顎を置いた。
「そんなに、嫌い?」
「お前は、なら、自分を殺そうとした相手を――いや、愚問だった」
「ははは」
「笑うんじゃない。お前はもう少し、自分というものを大事にしろ」
 前屈みの姿勢から問いかけられて、反射的に切り返した。だが途中で、喋っている相手が他ならぬ藤丸立香であると悟り、降参だと白旗を振った。
 高らかと笑い飛ばされたのに腹を立て、拳を作って殴る真似だけをする。
 振り上げられた長い袖が降りてこないと知って、立香はカラカラと、先ほどより高らかに笑った。
「でも、俺になにかあったら、アスクレピオスが助けてくれるんでしょ?」
 顎を引いて俯いて、上目遣いの囁きは小声だった。
 とはいえ、障壁などなにもない空間だ。やり取りが、聞きたくなくても聞こえていたエミヤは、深々とため息を吐いて立ち上がった。
「なにもないとは思うが、念の為だ。近くを偵察してくる」
「あー、ごめん。ありがとう」
「気にするな」
 戦闘用に展開された空間ではないが、どこかでバグが生じているかもしれない。万が一を懸念したアーチャーの気遣いを、立香は素直に信じた。
 赤衣の青年はひらひらと手を振ると、マスターに背を向けてさっさと歩き出した。その行く先には森が広がっており、パリスたちが騒いでいるのとは完全に逆方向だった。
 あちらに巻き込まれるのも、巧妙に避けたのだろう。賑わいが増した集団を一瞥して、アスクレピオスは胡座を組んだ膝に肘を衝き立てた。
 猫背になって頬杖をつき、すぐ傍らに視線を戻す。
 間近で目が合った。
 パチッ、と、静電気のような小さな衝撃が走った気がした。
「マスター」
「紅茶、冷めちゃうよ。あと、少し早いけど。お昼にしようか」
 驚き、息を呑んで、咄嗟に彼の方へ身を乗り出した。しかし先手を打つ格好で、立香は素早く身を翻した。
 シートの中心に広げられたバスケットに膝立ちで歩み寄り、大きな籠の片側を持ち上げた。角度を付けて中身をアスクレピオスに示し、こちらへ来るよう、手招いた。
 中は二段組みになっており、隙間なく食べ物が詰め込まれていた。
「サンドイッチ、というものだったか」
「そうそう。ええとね、これが厚焼き卵で、こっちがトマトとベーコン。あとこれが、アボガドと……なんだっけ」
「いい。だいたい分かった」
 どれも厚めに切った食パンに、具材が飛び出す勢いで詰め込まれていた。断面が目立つように切り分けられて、屋外でも食べやすいようにとの配慮から、ひとつずつ紙に包まれていた。
 これならば長い袖に手指を隠していても、汚れを気にせずに済む。
 中身の種類は多岐に亘り、立香でも覚え切れていない。指折り数える途中で言葉に詰まった彼に苦笑して、アスクレピオスは程よく温い紅茶で喉を潤した。
 ほんの少しだけ、砂糖が入っていた。だが嫌になる甘さではない。ホッとするぬくもりに頬を緩め、彼はバスケットの片隅に鎮座するサンドイッチを指し示した。
「これは?」
「え? あ、あー……それは、なんだったっけかな……」
 先ほどの説明でも、これは省かれた。興味を抱き、疑問を呈すれば、彼はあからさまに目を逸らした。
 あまりにも露骨で、白々しい。胸の前で組んだ指をもぞもぞ動かして、言及してくれるなと、態度が物語っていた。
 けれどそういう姿を見せられると、余計に好奇心が擽られるというもの。
「ふむ」
 どれから食べるか悩む仕草を取って、アスクレピオスはバスケットの上空に指を彷徨わせた。
 合間に紅茶を味わって、黄色が眩しい厚焼き卵のサンドイッチを取るべく、行動を起こす。
「あ――」
 途端に立香がホッとした表情を作り、直後に唇を歪めた。見るに堪えない酷い顔になって、寸前で進路を変えた医神を恨めしげに睨み付けた。
 厚焼き卵を選ぶと見せかけて、彼はバスケットの隅に追いやられていたものを掴み取った。英字が印刷された包装紙ごと抜き取り、緑のソースが絡んだ鶏肉のサンドイッチを顔の前へと運んだ。
 バジルの匂いが、仄かに漂って来た。包丁を入れる際、一度に出来ずに何度もやり直したと分かる不器用な断面を眺めていたら、渋い顔のマスターが苛々した様子で口を開いた。
「毒なんか、入ってないよ」
「そんなことは、思っていない」
 しげしげと見詰めるばかりで、なかなか食べようとしないのに痺れを切らしたらしい。拗ねた口調で妙なことを言われて、アスクレピオスは首を傾げた。
 自分から食べるよう促しておいて、どうしてそんなに刺々しいのだろう。選んだサンドイッチが不満なのかもしれないが、一度手にしたものを、元あった場所に戻すのは憚られた。
 彼の顔と、手元とを交互に見比べて、医神は翡翠色の瞳を眇めた。沢山並ぶほかのサンドイッチにも視線をやって、その出来映えの違いに眉を顰めた。
 これが気になったのには、いくつかの理由がある。
 第一に、立香がこれにだけ言及しなかった。第二に、多数ある中でこの種類だけ、少々形が歪だった。
 第三に、単純に心惹かれた。黄色や、赤ではなく、大地に根を下ろす緑の植物と同じ色がメインになっていたからだ。
 バジルソースを細かく裂いた鶏肉に絡め、レタスに包み、パンで挟んであった。切れ目は凸凹している。厚焼き卵は断面が真っ直ぐなので、それとは別存在の手によるものと、簡単に想像が付いた。
 ちらりと前方を窺うが、立香は余所を向いていた。マシュたちを気にしている体を装っているが、意識が別の所にあるのは明らかだった。
「では、いただこう」
 彼がそんな態度を取る理由を探りつつ、厳かに呟く。サンドイッチは結構な厚みがあって、思い切り口を開かなければ、頬張るのは難しかった。
 どうせマスターしか見ていない。
 上品に食べるのを諦め、アスクレピオスは顎が外れるくらいに口を開いた。白く鋭い牙を覗かせて、がぶり、と潔くかぶりついた。
「んむ」
 圧迫され、中に詰められていた鶏肉が飛び出した。鼻の頭を掠めたそれを慌てて避けて、噛み千切った分をもぐもぐと咀嚼した。
 口に入れれば、バジルの香りが一段と強くなった。ソースにヨーグルトが混ぜてあるのか、微かに酸味がある。香草が鶏肉の生臭さを打ち消して、良い具合に調和していた。
 野菜のシャキシャキした歯ごたえと、蒸し鶏の柔らかさが心地よかった。顔にソースが付いていないか、指でなぞって確かめて、アスクレピオスは二口目を頬張った。
 先ほどはみ出た鶏肉を狙って、その周辺に食いついた。続けて三口目、四口目と続けて、あっという間に包み紙の中を空にした。
「悪くないな」
 口の端を伸ばした舌で舐め、ソースが僅かに残る紙を小さく折り畳んだ。最後にぼそっと呟けば、傍らで見ていた立香がぽかんとした様子で頷いた。
「お腹、空いてた?」
「いや?」
 唖然としながらの質問に、言われて気付いたアスクレピオスは自分に首を傾げた。
 特別空腹だったわけではない。。そもそもサーヴァントは、基本的に食事を必要としない。
 カルデア内では、常に魔力が供給されている。なにかを食べてでも補わねばならない、というような切迫した状況下にはなかった。
 いわば「食べる」という行いは、個々の趣味のようなものだ。そしてアスクレピオス自身は、食べることにさほど強い執着を抱いていなかった。
 それでも食堂に行くのは、怪我や病気を隠している愚患者がいないかを探すため。更には食事中の方が口が軽くなる存在もあって、この特性を利用し、患者との円滑なコミュニケーションを図るのが目的だった。
 献立に関しては、栄養価が偏ってさえいなければ、なにを出されても不満なかった。逆を言えば、強いてこれが食べたい、という欲求を抱いても来なかった。
 こんな風にパクパクと、夢中になって齧り付いたのはいつ以来か。
 遠い記憶に想いを馳せたが、あまりにも遠過ぎた。咄嗟に思いつかないくらい昔だ、と自分を納得させて、彼は頬を膨らませている立香に目を細めた。
「もうひとつ、もらうぞ」
「え? え、あ」
 サンドイッチの大半は、食パンを真ん中で二等分にして詰められていた。即ちもう片割れが存在する。別の味を試す気は、全く起こらなかった。
 バジルソースを贅沢に、たっぷり使ったチキンサンドを掴み、躊躇せず食いついた。対する立香は驚き、愕然として、一瞬青くなったかと思えば、すぐに真っ赤になった。
 ひとりで百面相を繰り広げ、尻を浮かせたり、膝を抱えて丸くなったり。
「お前は、食べないのか?」
 忙しなく動き回って、食事を始めようとしない。
 歯形の残るパンを片手に訊けば、彼は何かを言いかけ、ぐっと歯を食い縛った。
「その。……おいしい?」
 怒鳴ろうとしたのを思いとどまり、膝を揃えて座り直した。もぞもぞと身動ぎ、横目でこちらを窺いながら、小声で問いかけてきた。
 照れが過分に混じった質問に、アスクレピオスは手を止めた。唇に貼り付いたソースを舐め取って、断面の凸凹が酷くなったサンドイッチに視線を落とした。
 味付けは、悪くない。
 紅茶との相性も抜群だ。
 けれど本当に、それだけだろうか。
「ああ。なんだろうな。巧く言えないが、なにか……なにか入っているのか?」
 食材はありふれたものばかりで、この為だけに用意されたものはない。それでも強く惹かれた。ひとつ目にこれを選んだのは、見た目と、立香の態度からだったが、再度同じものを食べたいと思ったのは、別の理由があると考えられた。
 しかしその理由がなんなのか、まるで見当が付かない。
 隠し味として、アスクレピオスが知らないものが混ざっているのか。
 つい包み紙の底を覗き込んだ彼に、立香はぎょっとして、一秒後には噴き出した。
「まさか。そんなわけないって」
 食材に中毒性のものが含まれているのを疑った医神に腹を抱え、横に手を振った。若干大袈裟な身振りで否定して、笑い過ぎて目尻に涙を浮かべる程だった。
 そこまで面白い事を言ったつもりはなくて、この反応は些か不満だ。けれど言葉にすれば、余計に笑われかねなかった。
 我慢してぐっと堪えていたら、アポロンでのボール遊びに興じていた少女たちが、休憩だと叫び、ビニールシートに駆け込んできた。
「あー、もう。喉渇いた。お茶ちょうだい、お茶」
「申し訳ないが、マスター。コップを取ってもらえるだろうか」
 ダ・ヴィンチとデオンが一緒くたになって倒れ込み、飲み物を欲して悲鳴を上げた。マシュだけが靴を脱いで、あらかじめ準備されていたコップを両手に持った。
 息も絶え絶えのふたりにまず手渡し、自分の分も取った。フォウは彼女の肩から飛び降りて、底の浅い皿に注がれていた水に舌先を浸した。
 立香が取った分は、僅かに遅れて戻って来たブーディカの手に渡った。パリスはアポロンを抱きしめて、遠慮がちに離れたところに立っていた。
「僕は、混じらないからな」
「でも、大っぴらにアポロンを殴り飛ばせるチャンスかもよ」
 視線が何かを訴えかけてくるが、跳ね返し、取り付く島も与えない。
 そこに立香が、助け船のつもりなのか言って、アポロンを指差した。
「……なるほど。そういう考え方もあるか」
 目から鱗が落ちるとは、こういう事を言うのだろう。
 冗談めかした彼のひと言に、アスクレピオスは感慨深く頷いた。
 拳の隙間に鋭利な刃物を隠し持てば、さぞや良い悲鳴が聞かれるだろう。それで全ての鬱憤が晴れるわけではないが、悪くないアイデアだとほくそ笑んでいたら、己の危機を察した羊がパリスの腕からスポン、と抜け落ちた。
「あれ? アポロン様、待ってください。どこに行くんですか~」
 一瞬だけ身体を小さくして、緩い拘束から脱出した。そのままぽーん、ぽーんと草むらを跳ねて、尻尾を巻いて逃げ出した。
 抱きしめていたものが突然居なくなり、パリスが大慌てで追いかけて行く。
「なになに、今度は鬼ごっこ?」
 それを見て、なにをどう勘違いしたのだろう。アストルフォが目を爛々と輝かせた。
 あれだけ動き回っていたのに、まだ元気だ。BLTサンドを片手にぴょん、と飛び上がって、草原を駆け回る少年に標準を定めた。
「ふははは、負けないぞー」
「私はもうダメ。疲れた」
 高らかと吼えて、広々とした大地を駆け出す。ちょうど森の偵察に出ていたエミヤが戻って来るところで、彼は遠目にも分かるくらい、大仰に身構えた。
 巻き込まれないよう退避していたはずなのに、結局は巻き込まれた。ビニールシートに陣取っていた面々は一様に憐れみの表情を浮かべ、欠落した体力を補充すべく、バスケットの中を覗き込んだ。
「あれ? バジルチキンサンド、もうないんですか?」
 そうしてマシュが、一箇所だけぽっかり空いたスペースを見付け、高い声を響かせた。
 眼鏡の奥の瞳を真ん丸にして、立香を見る。その立香はアスクレピオスの方をちらっと見たが、肝心のバジルチキンサンドは既に医神の胃の中だった。
 残ったのは、ソースで汚れた包み紙がふたつだけ。
 小さく折り畳まれたそれを指先で遊ばせていた彼に、マシュは目に見えてがっくり肩を落とした。
「先輩が作ってくれたの、楽しみにしてたんですよ」
「そうなのか。美味かったぞ」
 落胆を隠さず、言外に二つとも食べてしまったアスクレピオスを責める。それを真正面から受け止めて、彼は淡々と言い返した。
 まだ口の中に残るソースを舌で集め、唾液に混ぜて飲み込んだ。堂々と胸を張っての物言いに、少女は拳を作り、上下にぶんぶん振り回した。
「そりゃあ、そうですよ。だって、先輩の愛情がたーっぷり、入ってたんですから」
「フォウフォウ」
「ちょっと、マシュ。マシュ、やめて!」
 どれだけ自分が楽しみにしていたかを、獣も味方に付けて訴えた。周囲に響く大声で叫んで、立香の赤面を引き出した。
 聞いていたダ・ヴィンチがブーディカと顔を見合わせ、にやにやと不敵な笑みを浮かべた。デオンは紅茶で一服して、無言でにこやかに微笑んだ。
「なるほど、愛情か。……愛情、か」
 急に賑やかになった周囲を見回し、アスクレピオスがしみじみと呟く。
 最後に視線を向けられた立香は、耳の先まで真っ赤だった。
「繰り返さなくて良いから。てか、俺、ソース掻き混ぜてただけだし」
「えー? 自分がやるって、包丁持つ手をぷるぷるさせてたのは、どこの誰だったっけかなー?」
「俺です! すみませんでした!」
 必死に言い訳を捲し立てるが、一緒にキッチンに立っていたブーディカを相手にしたら、太刀打ちできない。
 やけっぱちで認めて、その場で丸くなった。額をシートに擦りつけ、殻に閉じこもって、しばらく出て来なかった。
 一部の女性陣から軽やかな笑い声が発せられて、穏やかに吹く風がそれを攫っていく。
 遠くではパリスとアストルフォの大声が交錯して、見かねたブーディカが立ち上がり、そちらに歩き出した。マシュは喚いて気が済んだらしく、ダ・ヴィンチと一緒に食事を開始した。
 人工的なものとは思えない青空を仰いで、アスクレピオスは俯いて動かない青年の手元に、ばさり、と白い袖を被せた。
 ビクッと、立香の身体が一瞬、大きく跳ねた。
「美味かった」
「……どういたしまして……」
 彼にだけ聞こえる声で囁くが、礼を言うべきはこちらだろう。
 誰にも見えないところで握り締めた手は、太陽よりも温かかった。

2019/12/07 脱稿

神も聞け藻塩の煙焦がれても とがむばかりの思ひありきや
風葉和歌集 1297