心うらやむ 今日の夕暮

 吹く風が冷たい。
 ひと呼吸置いてはらはら舞い落ちる木の葉を見上げて、歌仙兼定はふぅ、と腹の底から息を吐いた。
 唇から解けた吐息は、ほんの一瞬だけ白く濁った。熱を帯びたそれは間もなく空中に霧散して、行き先はようとして知れなかった。
「もう秋も終いか」
 感慨深く呟いて、名残惜しげに後ろを振り返る。彼の視界を染めたのは、散り急ぐ色とりどりの木の葉だった。
 庭園に聳え立つひときわ大きな銀杏の足元は、見事なくらい真っ黄色だった。こんもり丸く膨らんで、見た目だけなら、とても柔らかそうだった。
 けれど実際には、それほど居心地は宜しくない。もとより落ち葉の集合体でしかないのだから、飛び込んだところで、受け止めてくれるわけがなかった。
 何年か前に、外見に騙された短刀が、落ち葉の山に突進したことがあった。そうして顔面から地面に激突して、あまりの痛さに大騒ぎする事態が起きた。
 あれはこの本丸がまだ創建されたばかりの、屋敷が今ほど賑わっていなかった頃の出来事か。
 すっかり遠くなった記憶を手繰り寄せて、この本丸最古参である打刀はふむ、と頷いた。
「風流だねえ」
 あの時、額を赤く腫らして泣きじゃくっていたのは、どの刀だっただろう。
 はっきりと思い出せないのを誤魔化し、呟いて、彼は口元を綻ばせた。
 老齢な思考力と、子供らしい無邪気さとを同居させている短刀たちを一旦頭から追い出し、改めて暮れゆく秋の景色に目を眇めた。風はとっくに通り過ぎたのに、其処此処で木の葉がひらひらと待っていた。
 その一枚に手を伸ばすけれど、指が届くことはなかった。
「おや、嫌われてしまったか」
 横からの干渉を嫌って、真っ赤に色づいたもみじがすい、と脇に逸れた。そのまま斜めに泳ぎつつ、斑模様の地面に落ちて、消えた。
 辛うじて緑を残す下草に、枯れてしまって灰色混じりの一帯が隣接し、赤や黄色の木の葉が隙間を埋めていた。その中に吸い込まれてしまったら、先ほどの一枚がどれなのか、探すのは困難を極めた。
 代わりに小動物が集め損なったどんぐりが一個、落ちているのに気がついた。
 拾おうとして、彼は身を屈めた。しかし膝を軽く曲げ、腕を伸ばしたところで思いとどまり、姿勢を正した。
 これから寒くなる一方だから、この一粒は、どこかの生き物の糧になるべきだ。
 興味本位で手を出して良いものではない。己を戒めて、歌仙兼定は行き場を失った手で前髪を梳いた。
 額を覆う毛先を脇へ流すが、すぐに戻って来たのに苦笑して、肩を竦めた。気を取り直し、冷えた空気をたっぷり吸い込んで、またもや強く吹いた風に向かって吐き出した。
 ほんの小さな抵抗を示したものの、敢え無く敗退して、目を閉じた。ザザッと地面を削りながら走る旋風には抗えず、巻き上げられた塵や砂粒を避けて、利き腕で顔を庇った。
 咄嗟に奥歯を噛み締め、首を竦めて突風をやり過ごした。二秒後には瞼を開いて、一変した、とまではいかないものの、直前とほんの少し趣を変えた景色に瞬きを繰り返した。
 肩の力を抜き、微笑んで、落ち葉が降り積もる地面を踏みしめる。
 夏場は力強く伸びる草葉の抵抗を受けて、ザク、ザク、という感触だった。それが今は柔らかで、ふかふか、ふわふわ、と表現すべきものに変わっていた。 
 もちろん大の字になって突撃するには不向きだけれど、歩くだけなら充分だ。
 風の悪戯で山なりになっている木の葉を蹴散らし、彼はすっかり冷えた肩をそうっと撫でた。
「冬も、じきか」
 朝晩の冷え込みは日に日に厳しさを増して、それに比例し、布団に引き籠もる刀剣男士も増加中だ。特に琉球刀のふた振りや、南泉一文字の寒さへの抵抗は、凄まじいものがあった。
 だからといって、彼らを調理当番から外すわけにはいかない。この本丸に顕現した以上は、皆等しく、交代で役目を果たすのが決まりだった。
 まだ夜が明けきらぬうちから台所に立ち、一番鶏が鳴くより早く朝食の準備を開始しないと、総勢八十振りを越える刀剣男士全員の胃袋を満たすなど、到底無理な相談だ。ひと振りでも寝坊し、遅刻しようものなら、その分作業効率が下がり、食事の時間が後ろ倒しになった。
 そうなると前日までに決まっていた出陣や、遠征の手はず等など、あらゆる予定に狂いが生じる。
 無慈悲だなんだと責められようと、布団でぐるぐる巻きにしてでも連れて行く。それが初期刀として、この本丸を預かる歌仙兼定の仕事だった。
「僕だって、寒いのが平気というわけではないんだけどね」
 そんな仕事を三百六十五日、雨の日も、風の日も繰り返している打刀は、一部の刀から鬼だ、との評価を受けていた。
 けれど彼だって、好き好んでやっているわけではない。ほかに引き受けてくれる刀があるなら、喜んで引退を表明するつもりでいた。
 ところがもうじき五度目の冬を迎えようとしているのに、未だ後釜が現れなかった。
「まったく」
 今朝も謙信景光がなかなか起きてこなくて、迎えに行こうとしたら、小豆長光が代わりに現れた。本来は許されないことなのだが、時間も差し迫っていたので、やむを得ず承諾した。
 お蔭で今朝の卵焼きは、普段以上に甘かった。短刀たちからは好評だったが、これが毎日続くとなると、虫歯になる刀が現れそうだ。
「いや、さすがにそれは……おや?」
 そもそも刀剣男士は、虫歯になるのだろうか。
 ふと湧いた疑問に首を傾げていたら、視界の端に動くものがあった。
 本丸の南側に作られた庭園の、茶室に至るまでの細い道。
 この一帯は綺麗に掃かれて、落ち葉は疎らだ。苔の濃い緑色に、所々散らばる赤いもみじ葉が鮮やかで、先ほどまで彼が居た場所とはまた違う趣があった。
 その片隅に、蹲る影があった。打刀に背を向ける格好で屈んでおり、訪問者があるとは気付いていない様子だった。
 膝元に笊を置き、膝が汚れ、または濡れるのも構わず、せっせとなにかを集めている。慎重に近付き、その手元を覗き込めば、拾っているのは風に飛ばされて来たであろう芥や、枯れ落ち葉だった。
「熱心だねえ」
「はい? ……おや、あなたは……」
 一心不乱に取り組んでいるので、邪魔をするのは悪いかと思った。しかしうっかり声に出してしまい、振り返った江雪左文字には苦笑しきりだった。
 申し訳なさに首を竦めれば、手を休めた太刀が手の甲で頬の汗を拭った。土汚れが移り、焦げ茶色の筋が走ったが、当の刀はまるで意に介さなかった。
 長い髪をひとつに束ね、更に手拭いで頭全体を包み込んでいた。いつもの作務衣姿に素足で、見ている方が寒さを覚える格好だった。
 指先も、足先も、すっかり赤く染まっていた。
「その、平気なのかい?」
「……ああ、いえ。はぁ……今は、……そう、ですね……」
 庭掃除に取り組んでいる間は、周囲のことなど気にならなかったようだ。しかし歌仙兼定の登場で集中力が途切れて、晩秋の寒さを思い出したらしい。
 困った風に眉を寄せられて、歌仙兼定は脱力して肩を落とした。邪魔をした侘びも兼ねて、懐に潜ませていた手拭いを取り出し、中腰の太刀に差し出した。
「ほどほどにするんだよ」
 半ば押しつける格好で握らせて、釘を刺す。
 受け取った刀は少し困ったような、面映ゆい表情を浮かべ、小さく頭を下げた。
「お借り致します」
 些かのんびり過ぎる、ゆっくりとした口調で礼を言われた。
 早口で短気な刀などは、彼と会話していると、調子を崩されがちだ。歌仙兼定も微妙にその傾向がある。しかしこの太刀に、もっと早く喋れと言ったところで、一切が無駄だった。
 この四年あまり、江雪左文字だって耳に胼胝が出来るくらい言われ続けて来ただろう。それでも改まらないのだから、この先も変わることはない。
 修行に出たことで、考え方や、その方向性に変化が現れた刀は何振りも存在した。だがそれだって結局のところ、詭弁を弄して隠していた本質を露わにしたり、己と向き合うことで本来の姿を取り戻しただけ、というのが実情だ。
「それは、そうと。……歌仙殿」
「なんだい?」
 渡された手拭いを頬に押し当てた太刀が、なにかを思い出した風に、話を切り出す。
 立ち去るつもりで居た打刀は思いがけず引き留められ、怪訝な顔で首を傾げた。
 続きを待ち、江雪左文字の顔をじっと見詰めるけれど、なかなか次が出てこない。
「江雪殿?」
 しばらくは耐えたが、限度というものがある。痺れを切らして呼びかければ、彼は嗚呼、という風に頷いた。
「いいえ、……はい」
「うん?」
 なにやら含みのある表情で呟かれたが、さっぱり意味が分からない。益々眉を顰めて首を前に伸ばしたら、江雪左文字が不意に口元を手で覆い隠した。
 どうやら笑ったらしい。彼にしては珍しい動作だが、なにが面白いのか、歌仙兼定には皆目見当が付かなかった。
「その、……なんだい?」
 自身に何か奇妙なことでもあったかと、不安になる。
 答え合わせを求めて声を高くすれば、江雪左文字は残る手を横に振り、屋敷の西側を指差した。
「歌仙殿は、大層、……風流でおられるので。どうぞ……お小夜は、今ならば、おそらく。厩の方かと」
 本丸では複数の馬を飼育している。どれも戦場で共に戦う、貴重な戦力だった。
 だからなのか、その世話も刀剣男士の仕事だった。厩舎の掃除は臭くて、重労働なので人気がないが、中には好んでやりたがる刀も、少数ながら存在した。
 歌仙兼定は最近でこそ慣れたものの、当初は嫌で、嫌で仕方が無かった。話に出て来た短刀も、動物に嫌われるからと、あまりやりたがらなかった。
 ただその、江雪左文字の弟刀に当たる短刀の名が、ここで出た理由が分からない。
「お小夜が、え? なんだい、急に」
「ふふ」
 確かに小夜左文字とは親しくしているけれど、突然言われると驚いてしまう。
 脈絡なく登場した名に面食らったが、江雪左文字は笑う一方で、なにも教えてくれなかった。そのまま話を一方的に切り上げ、庭掃除に戻ってしまって、しつこく追求するのも難しかった。
 言うだけ言って、放り出された。
 無責任な真似はしない太刀だと思っていたが、ほんの少し評価が変わった。眉を顰めて喉の奥で唸り、、歌仙兼定は疑問符を生やしたまま歩き出した。
 だが数歩といかぬうちに、頭は早々に切り替わった。
 分からないものに、いつまでも固執し続けるのは、健康に悪い。太刀も深い意味があったわけではなかろうと、希望的観測から結論づけて、調子を取り戻し、屋敷に向かうべく足を進めた。
 だが気がつけば、道が僅かに逸れていた。
 広々とした母家の玄関前を素通りしかけて、彼は丸めた拳を喉に押しつけた。
「ん、んっ」
 爪先は、厩舎を向いていた。
 間違っても、江雪左文字に言われたからではない。咳払いしつつ、必死にそう自分に言い聞かせて、方向を修正すべく大股で一歩を踏み出す直前だった。
「なにやってるの、歌仙さん」
 ひと振りきりだというのに、やけに大袈裟な身振りを見られた。
 よりにもよって好奇心旺盛な短刀に見つかって、打刀は反射的に身を竦ませた。
 ビクッと肩を震わせて、振り返って存在を確認する。相手が誰なのかは、声を聞いた時点で分かっていたが、視界に飛び込んできたのはそのひと振りだけではなかった。
 ぞろぞろと、万屋帰りなのだろう、複数が連れ立っていた。
 粟田口の短刀が、乱藤四郎を筆頭に、全部で三振り。そこにまだ新参者の部類に入る刀が大小ふた振り、混じっていた。
「おや、お出かけかい?」
「んなわけねーだろ。もうじき日が暮れちまう」
 保護者のように見える眼鏡の打刀が率直な感想を述べて、即座に隣に居た脇差が否定の言葉を口走った。
 実際、日は西に大きく傾き始めていた。日没までそう時間は掛からず、そうなったら空が暗くなるのは一瞬だった。
 これから外出していては、夕食までに戻ってこられない。食事はいつだって争奪戦で、早い者勝ちだから、下手を打つと食べるものがなにも残っていない、という事態になりかねなかった。
 そんな馬鹿な真似を、初期刀である歌仙兼定がするはずがない。
 的外れなことを言った南海太郎朝尊は、肥前忠広の冷静な合いの手に成る程、と深く頷いた。西の空を仰いで神妙な顔つきを作り、それから歌仙兼定に向き直って二度、三度と素早く瞬きを連続させた。
「おやあ?」
「っていうか、あんたさ。その頭」
 ふた振り同時になにかに気付き、肥前忠広が歌仙兼定を右人差し指で指し示した。
「頭?」
「あーっ!」
「わああああ!」
「――ぐわ、いってえ。何しやがる、くそっ」
「なんだい、なんだい? 急に。どうしたんだい?」
 直後に三者三様の叫び声が飛び交って、打刀は目をぱちくりさせた。
 頭上にやろうとした手を引っ込め、突然片足立ちで跳ね出した脇差に絶句する。隣で南海太郎朝尊が興味津々に肥前忠広を覗き込むが、周囲にいた短刀は素知らぬ顔を決め込んでいた。
 だが彼らが脇差の足を、思い切り踏みつけたのは、間違いない。
 いったいぜんたい、どうしたのか。
 訳が分からず混乱していたら、直前の荒っぽい行動などなかったかのように、澄まし顔の乱藤四郎が可愛らしく小首を傾げた。
「歌仙さんは、今日も、とっても風流だよね」
「ですねー」
「ねー?」
 両手は後ろに回して、腰の辺りで結び、上半身を前方に突き出しながら早口で捲し立てた。一緒に前に出た秋田藤四郎が相槌を打って、最後はふた振り同時に声を上げた。
 残る五虎退は慌てふためき、おろおろしていた。やり場のない手を空中に彷徨わせ、地面に座り込んだ肥前忠広を気にしつつ、兄弟刀に加勢すべきか悩んで、ひたすら右往左往していた。
「おい、てめえら。ふざけんじゃねえぞ」
「こらこら、肥前君。そういう荒っぽい言葉遣いは、よくないんじゃないかな」
「いきなり足踏まれて、黙ってろってのかよ。先生は」
 後方では脇差が怒鳴り散らし、打刀がまたも的外れなことを指摘した。それで肥前忠広の怒りの矛先が変わって、罵声を背中で受けていた短刀達は小さく舌を出した。
 歌仙兼定は蚊帳の外に捨て置かれ、状況が理解出来ない。
 呆気に取られていたら、乱藤四郎が更に半歩、近付いて来た。
「ねえ、歌仙さん。小夜さ、まだ馬小屋だと思うし。夕飯もうじきだから、呼んで来てあげたら?」
「そうです。それがいいです。五虎退も、そう思いますよね?」
「えええ? え、えと、……はい……」
 勢い良く捲し立てて、秋田藤四郎が追随した。突然話を振られた五虎退は戸惑いながらも頷いて、最後にくすっ、と控えめに笑った。
 兄弟刀に振り回されて、話を合わせただけではないらしい。
「てめえら、後で覚えてろよ!」
 負け惜しみで肥前忠広が叫ぶものの、誰も聞いていなかった。歌仙兼定は一瞬だけ彼を見たが、近付くのは、一列になった短刀たちに阻まれた。
 脇差がああなる直前、なにか言われたが、もう思い出せない。
 その後の事が強烈過ぎて、記憶が吹き飛んでしまっていた。厩へ行くよう、三振りから促されて、打刀は不承不承に頷いた。
「分かったよ、分かった。お小夜を呼んでくれば良いんだろう?」
 あまりのしつこさに、逆らうのも馬鹿らしくなった。
 降参だと両手を掲げ、若干投げやり気味に言う。すると乱藤四郎を筆頭に、早くから本丸に顕現していた刀たちが、揃って笑顔になった。
「そうそう。分かればよろしい」
「急いでくださいね。あ、でも、走らないでくださいね!」
「いってらっしゃい~」
 各々勝手な事を言って、完全に見送る体勢だ。元気よく手を振られて、歌仙兼定はさっぱり分からない、と首を捻った。
 先ほども、江雪左文字から小夜左文字の名前が出た。
 前触れもなく、唐突だった。それが二度も続いて、頭上の疑問符は増える一方だった。
 いったい小夜左文字に、なにがあると言うのだろう。分からないまま早足で厩への道を急げば、次第に特徴ある獣臭が強くなっていった。
 最初のうちは数頭だった馬も、今では十頭を越えている。それらを順番に馬場に放し、厩舎を掃除して、餌や水を補充して、となると、ほぼ一日仕事だった。
 手際が悪いと、夜になっても終わらない。また庭掃除に拘る江雪左文字のように、凝り出してもきりがないので、適当なところで諦めるのが肝心だった。
 しかしそれが巧く出来ない性分の刀が、中には存在する。
 これから会いに行く刀にも、そんなところがあった。
 直接馬の面倒を見るのは苦手だからと、間接的な部分で関わろうとした。厩舎の隅々まで、丁寧に掃除するのを心がけている短刀だった。
 その心意気や、感心するしかない。けれど時間を費やしすぎて、食事の時間を忘れるのはいただけなかった。
 だから彼を呼びに行くのに、別段不満はない。そうしてやった方が良いのは、歌仙兼定自身も重々承知していた。
「お小夜。お小夜? いるかい?」
 ただやはり、多くの仲間が口を揃え、彼の名前を口にしたのが引っかかった。
 まるで彼のところに行くよう、誘導されているように感じた。否、江雪左文字は微妙だったが、乱藤四郎たちは露骨にそうだった。
 小夜左文字に会えば、疑問は解決するだろうか。
 薄暗い厩の入り口から中を覗き込み、呼びかける。口元に手を添え、腹の底から声を響かせれば、ほんの少し間を置いて、奥から反応があった。
「歌仙ですか?」
「そうだよ。僕だよ」
 訝られて、不必要に声が大きくなった。無駄に強く主張して、聞こえて来たなにかを引きずる音に眉を顰めた。
 現れた小夜左文字は、重そうな三つ叉の鋤を手にしていた。本丸で共有している道具だが、彼の体格にはあまりにも不釣り合いだった。
 遠い昔にもっと小さなものを用意するよう掛け合ったが、予算の都合で見送られて、そのままになっていた。
 今になって思い出したが、ここで切り出す話題でもないだろう。
「んっ」
 喉の奥で咳をして、素早く頭を切り替える。ひと言、夕餉の時間が迫っている旨を告げようと意気込んで、緊張気味に表情を引き締めた。
 そんな歌仙兼定を見上げて、小柄な少年が猫のような目を眇めた。
「歌仙?」
「なんだい?」
「いえ、ああ、ええと……。そうですね。庭は、綺麗でしたか?」
 なにかに気付いたように数回瞬きして、訊き返されて言葉を濁した。一度遠くを見た後、視線を戻し、急に声を高くした。
 唐突な話題の振り方に、打刀は首筋に刃を突きつけられたような感覚に陥った。ぴくっとほんの少し肩を跳ね上げて、何故、と驚愕して息を呑んだ。
 小夜左文字は明らかに、直前まで馬当番の仕事に明け暮れていた。暇を持て余した打刀がどこで、なにをしていたかなど、微塵も頭になかっただろう。
 だというのに、歌仙兼定の行動を言い当てた。こちらは何も言っていないというのに、だ。
 言葉を失い、立ち尽くしていたら、沈黙を嫌った短刀が三叉の鋤を壁に立てかけた。水の入らない桶をその近くに押しやって、雑多に散らばっていたものを一箇所に集めた。
「お小夜」
「少し、屈んでくれますか。歌仙」
 気忙しく動き回る彼に、途方に暮れていたら、肩越しに振り返って頼まれた。逆らう理由もなく、素直に従えば、両手の汚れを内番着に擦りつけ、小夜左文字が目を細めてはにかんだ。
 膝を折って屈んだ男の前に進み出て、困惑する眼差しを真っ直ぐ見返し、頷いた。
「風流が、くっついてます」
 そうしてひと言囁いて、藤色の髪に手を伸ばした。
 獣臭が僅かに残る指で、歌仙兼定の右耳近くに触れた。カサ、と乾いた音を微かに残して、すぐに引っ込めた。
 その細く、水仕事で荒れた指先に抓まれていたのは。
「もみじ」
 赤子の手とも評される、真っ赤に染まったもみじ葉だった。
 端から端まで美しく朱色に染まり、五つに割れた先端はどれも欠けていなかった。均整の取れた姿を保ち、小夜左文字の掌中に収まっていた。
 いつ、どこで貼り付いたのか、皆目見当が付かない。
 反射的にそれがあった場所に手を置いて、歌仙兼定はハッ、と背筋を伸ばした。
 肥前忠広に言われた言葉が、急に脳裏に蘇った。
 秋田藤四郎が別れ際、急げと言いつつ、走らないように忠告したのを思い出した。
 江雪左文字の意味ありげな表情が、瞼に浮かび上がった。
 乱藤四郎が脇差の足を踏んででも、言わせなかった理由が、ようやく明らかになった。
 あの時からずっと、打刀は髪にもみじの葉を貼り付けていたのだ。そして誰ひと振りとして、これを教えてくれなかった。
 代わりに古くから本丸にある刀は、揃ってある刀の名前を告げた。
 小夜左文字の元に行け、と。
「……そういう、こと、か」
 長らく疑問だったものが、解決を見た。謎に対する答えが、ストンと音を立てて在るべき場所に収まった。
 もし江雪左文字に、もみじが髪についていると言われていたら。
 肥前忠広に指摘されていたら。
 果たして歌仙兼定は、巧く取り繕えただろうか。
 落ち葉の存在に一切気付いていなかった現実を、すんなり受け入れられただろうか。無様な言い訳に終始し、羞恥から更なる醜態を招きはしなかったか。
「秋も、終わりですね」
「そうだね。……本当に」
 茜色に染まった木の葉を手に、小夜左文字がしんみりしながら呟いた。
 小声で相槌を打って、打刀は深く頷いた。厩舎に設けられた小さな窓を仰ぎ、じわじわ色を変えつつある空に目を細めた。
「さあ、お小夜。夕餉の時間が近い。戻ろうか」
「ああ、そうですね。そうでした」
「おっと、その前に。お小夜、それを」
「これですか?」
 当初の目的を思い出し、屋敷へ戻ろうと短刀を促す。
 小夜左文字はあらかじめ分かっていたのか、すんなり承諾し、続けて言われて小首を傾げた。
 指し示されたもみじ葉を、顔の高さに掲げた。ほんの数分前まで歌仙兼定の髪を彩っていたそれを引き取って、打刀は不思議そうにする少年に相好を崩した。
 ゆっくり手を伸ばし、高い位置で括られた藍色の髪の根元に、もみじの葉柄を差し込む。
 途中で折れそうになったが、指で押さえて補強して、ぐ、ぐ、と強く捩じ込んだ。最中に握りつぶしかけて、一部折れ目がついてしまったが、そこはご愛敬としか言いようがなかった。
「風流の、お裾分けだ」
 夕焼け色の髪に、沈み行く太陽の色が紛れ込んだ。
 くっきりと浮かび上がる彩に満足げな顔をすれば、頭上に手をやった少年が何をされたか悟り、呆れ混じりに微笑んだ。
「秋が、終わりますね」
 先ほどと殆ど同じ――しかし微妙に趣を異にする口調で告げて、目尻を下げた。
「さあ、行こうか」
 そんな彼に手を差し伸べて、歌仙兼定は静かに立ち上がった。

2019/12/01 脱稿

秋暮るゝ月並分かぬ山賤の 心うらやむ今日の夕暮
山家集 秋 489