榊葉の さしてつれなき 世々を経て

 誰かが髪を撫でている。
 柔らかな接触と、その主たる存在の淡い匂いが、立香の意識の片隅に紛れ込む。
 まだ眠っていたいという思いと、目覚めてしまいたい、という欲が交互に行き交った。奥底に沈んでいる本能が緩やかに刺激されて、気持ちとは裏腹に、肉体は覚醒へと向かい始めていた。
「う……」
 窄めた口から吐息を零し、ぶるりと身震いしたのが直接のきっかけだった。
 水面下で藻掻き、暴れる意識を正しい方向に導けば、短い髪を梳く指の存在が益々強く感じられた。
 この手を知っている。
 普段は長い袖の下に隠れ、それ以外でも分厚い手袋に阻まれて、滅多に日の目を見る機会のないものだ。
 それが優しく、立香を擽る。いつもとどこか違う雰囲気がしたが、疑問は形となる前に、朝靄の中に消えていった。
 鼻腔をやんわり擽る匂いに、消毒薬臭さはあまりない。代わりに太陽の温もりを感じると言ったら、彼はきっと嫌な顔をするだろう。
 とても快いもので、大好きだった。だのに教えてあげられないのが、少し寂しかった。
 羊の姿を借りた太陽神を頭から追い出して、立香は飽きることなく人の髪を撫でる男を捜し、瞼を開いた。
 二度、三度と瞬きをして、仄暗い空間にその輪郭を浮き上がらせる。
「起こしたか」
「……ううん。朝?」
 直後、立香の目覚めを察し、アスクレピオスが口を開いた。
 いつものように低い、だが少し遠慮がちな、小声での問いかけだった。自分がこうすることで、眠りを妨害したのでは、と危惧している。その随分小心者な心配を、立香は首を横に振って否定した。
 布団の下でもぞりと身動ぎ、言いながら時計を探すが、角度的に見えない。今一度、伸びをするついでに確認しようと足掻けば、見かねたアスクレピオスが溜め息と共に呟いた。
「六時、……もう少しで二十七分、と言ったところか。お前の後輩が、あと三十分少々で呼びに来る時間だ」
「あふふ」
 蹴られた膝を伸ばしたかと思えば、仕返しなのか、臑を足の指で挟まれた。痛くはない。むしろくすぐったくて、立香は首を竦めて苦笑した。
 自分や、彼が動く度に、被った布団が揺れて、そのさらりとした感触も心地よかった。素肌に直に触れているので、繊維が皮膚に絡み、包み込む感覚は、一枚羽織っている時とはまるで別物だった。
 ベッドは狭いが、暖かくて、居心地が良い。
 枕の上で首を振り、クスクス笑みを漏らしていたら、訝ったアスクレピオスが人の襟足を撫でた。
「わひゃ」
「いい加減、起きろ。準備をしないと、間に合わないぞ」
「うえーい……」
 黒髪をサッと掻き回し、ついでとばかりに脈を測って、離れて行く。
 意地悪な指と、説教臭いひと言に奥歯を噛んで、立香は大きく膨らんだ布団にしがみついた。
 端を捲られた。そこから内に籠もっていた熱が逃げていく。捕まえようとしたけれど、間に合わなかった。
「アスクレピオス」
 隙間から抜け出し、男がベッドサイドに腰を下ろした。背筋を伸ばし、両サイドだけ長い髪を軽く梳いて、忠告に従おうとしない不真面目なマスターを振り返った。
「僕は手伝わないぞ」
 薄明かりの中でも淡く輝く銀の毛先で立香の頬をぺちり、と叩き、呆れ混じりに言い放つ。
 時間ぎりぎりまで自堕落に過ごした結果、大慌てで身支度を調えた為にズボンのファスナーが上がっていなかったとか、シャツの前後が逆になっていたとか。そういう数え切れない失敗談のことを、彼は言っているのだろう。
 先手を打って釘を刺した医神に頬を膨らませ、立香は口を尖らせた。
「いいよ。アスクレピオスは、脱がすのは巧いけど、着せるのは下手だし」
 診療と称して患者の衣服を剥ぎ取ろうとし、抵抗すれば破くのも厭わない。そんな男に手伝って貰っても、きちんと着られるとは思えなかった。
「言ってろ」
 べー、と舌を出しながら抗議しても、アスクレピオスは意に介さなかった。相手をする気が最初からなかったのか、反論せず、前屈みになって床に落ちていたものを拾った。
 彼が何を手にしたのか、寝転んでいる立香からは見えない。ただ俯いたまま手と足をごそごそ動かして、一瞬だけ尻を浮かせたのだけは、辛うじて分かった。
「アスクレピオス?」
 なんだか、奇妙なものを見た。
 違和感を覚えて首を捻ったものの、その正体が掴めない。なにが引っかかっているのか分からないまま、立香は仰向けに姿勢を変えた。
 無機質な天井を見上げて、自分でも枕元の時計を確認した。数字は教えられたものより進んで、間もなく六時半になろうとしていた。
 このまま行けば本当に、マシュが部屋まで起こしに来てしまう。義理堅く、真面目を絵に描いたような少女は、それが自分の勤めだとばかりに毎日、飽きもせず、同じ時間に顔を出した。
 そんないたいけな少女を、あられもない姿で出迎えるわけにはいかなかった。
 だが、動けない。動きたくない。全身が怠いし、なにより肝心な事を忘れている予感がする。
「朝かあー……昨日、戻ったの遅かったのになあ。……あ」
 両手を広げ、大の字になってぼんやりしていたら、空っぽだった思考にふっ、と蘇るものがあった。
 思わず大きな声を出した立香に、余所向いていたアスクレピオスが眉を顰めた。
「どうした?」
「いや……うん。あのさ、来ないよ」
「なにがだ?」
「昨日、オレ、レイシフト先でトラブって、戻りが遅かったじゃない。それで、今日の朝からの予定、午後にずれたんだ」
 想定外の事態からどうにか帰還した立香は、怪我こそなかったものの、心身共にへとへとだった。見かねたゴルドルフ新所長がダ・ヴィンチに進言して、翌日――即ち今日の予定が半日分、繰り下げられた。
 本来得られるはずだった休息時間を、午前に宛がった格好だ。その分、夕方からの自由時間が消えることになるが、不満の声は聞かれなかった。
 ただそんなへとへと状態で、夜中にふたりで何をしていたのか、と言われたら、弁解の余地はなかった。
 癒して欲しいと強請ったのは、立香だ。アスクレピオスは、その愚患者の我が儘に応えたに過ぎない。
「……そうか」
「うん、そうそう」
 再びうつ伏せになり、枕を胸の下に抱き込んで、素っ気ない相槌に頷く。
 しかしワクワクしながら待っていても、期待していた言葉は得られなかった。
「だからと言って、いつまで裸でいるつもりだ」
 思い描いていたのとは百八十度異なる台詞と共に、昨晩穿いていた下着が飛んで来た。掴んで、確かめて、立香はそれをもう一度、床に向かって放り投げた。
 どうせなら、洗濯済みのものを取って欲しかった。
「――知ってた。知ってたけどね、そういう男だって」
「なんだ、さっきから」
 けれどギリシャ神話に名を連ねる医神に、そんな甲斐性が備わっているはずもなく。
 起こしたばかりの上半身を再びドサッ、とベッドに沈めた立香に、アスクレピオスは若干苛立たしげに呟いた。
 肩を竦め、人の顔を睨み付けてきた。
 それに無言で応対していたら、深々とため息を吐かれた。
「風邪を引いても、診てやらんぞ」
「いいよ。台所からネギ、持ってくる」
「……まだ根に持っているのか」
 捨て台詞に言い返して、頭の先まで布団を被った。直後に聞こえたひと言は、明らかに悔恨の色を含んでいたが、自分から視覚をシャットアウトした手前、彼がどんな表情をしていたか、知る術はなかった。
 惜しいことをしたが、後悔先に立たず。
 早計な自分自身に落ち込んで、布団を少しだけ下げれば、意外に逞しい背中が目に飛び込んで来た。
 後ろ髪は短いので、均整の取れた体格を隠すものはなにもない。それほど筋肉質というわけではないけれど、無駄が削ぎ落とされた肉体は、目を見張る程美しかった。
 肌は、白い。さながら乳白色の陶器か、はたまた丁寧に磨かれた大理石か。
 そんな純白の素肌のあちこちに、赤く腫れたひっかき傷や、圧迫され続けた結果のうっ血の痕が散らばっていた。
「うぅ」
 否が応にもそこに目が行ってしまう。
 彼本来の色を穢したのが他ならぬ自分であると、強く意識させられた。
 首の周辺だけでなく、肩甲骨の辺りにまで傷があった。自覚はないが、強く爪を突き立てたのだろう。複数並ぶ小さな痣は、三日月の形をしていた。
 痛かったのではないだろうか。
 今も、痛いのではなかろうか。
 皮膚が裂け、血が出たと分かる箇所もあった。幾分時間が過ぎた瘡蓋に、我知らず手が伸びて、視界に己の指が入り込んだところで、立香はハッとなった。
 艶やかな白い肌に、痛々しい傷の赤みと、もうひとつ。
 違う色が紛れ込んだ。
 日頃、意識することは殆どない。誰も――数居るサーヴァントも、カルデアの職員も、勿論シオンも――立香の出自を揶揄しない。それがこんなタイミングで、他ならぬ立香自身が、己が東洋の島国出身というのを強く認識させられた。
「結構、……違うもんだな」
 天井照明を消した状態の、足元に危険がない程度の明るさでも、差ははっきり現れていた。
 それでなくとも、アスクレピオスは半神だ。完璧とまではいかないが、人間の領域を軽く凌駕した存在なのは、疑う余地がなかった。
 ある種の感動を覚えたが、そもそも何故今、こんなことに気がついたのか。
 彼と肌を重ねたのは、昨晩が初めてではない。正確な回数は覚えていないけれど、少なくとも片手では足りないはずだ。
 だというのに、どうして。
「あれ?」
 触れるか否か、という距離で左手を彷徨わせ、立香はぱちくりと目を丸くした。
 目覚めた直後に覚えた数々の違和感が蘇って、彼は素早く、瞬きを繰り返した。
「なにをしている?」
 その立香の目の前から、精悍な背中が遠ざかった。すくっと立ち上がったアスクレピオスは、肌同様に白いズボンを腰の高さまで持ち上げて、下がっていかないよう固定させた。
 最中にくるりと反転して、珍妙な姿勢で固まっているマスターに首を傾げた。
 上半身は裸のままだった。右の上腕に三センチほどの蚯蚓腫れを残す男は、怪訝な顔で立香の枕元に近付いた。
「アスクレピオスが、服、着てる」
「まだ寝ぼけているのか?」
「えっ」
 思わず口から出た独白を拾われた。心底不思議そうな顔をされて、それで立香は我に返った。
 うっかり声に出してしまったのが恥ずかしければ、これによって得られた事実にも、驚愕を隠せなかった。
 反射的に上体を起こして、被っていた布団をずるりと腰まで落とした。着衣の途中だったアスクレピオスは訳が分からない、という風に眉を顰め、額で交錯する前髪を左右に揺らした。
 その手には、これから着るつもりだろう黒いシャツがあった。
 ゆとりが少なく、身体に密着するタイプのものだ。ズボンも、上着もゆったりとしたデザインのものを着用している彼だから、初めて素の姿を目の当たりにした時は、大いに驚かされた。
 同時に、どれだけ鍛えてもあまり肉が付かない体質の自分が恥ずかしくなり、脱ぐ、脱がないですったもんだの騒動になったのだが。
 どうでも良い記憶を頭から追い出し、立香は瞬きを二度、三度と繰り返した。ぽかんと開いた口を閉じ、乾いた咥内を舐めて、唾を飲み込む。そんな彼からふいっと目を逸らし、アスクレピオスはシャツの左袖に腕を通した。
「人を露出狂みたいに言うんじゃない。僕が服を脱ぐ機会があるとすれば、お前の前くらいだぞ」
 続けて右腕を通して、大きく広げた襟首に頭を潜らせ、長い髪を隙間から引き抜き、言う。
 脇のすぐ下で撓んでいる裾を引っ張り、手早く身なりを整える彼に再度瞬きして、立香は整理がつかない頭を軽く叩いた。
「え、あ……いや、あの。そう、じゃ、なくて」
「なら、なんだ」
 左右に開いた喉元を閉じるべく、銀色のボタンを留める際に、一瞬だけちらりと立香を盗み見る。
 淡々と作業を進める男に首を振って、人類最後のマスターたる青年は、右のこめかみから耳の辺りを掌で覆った。
 僅かに遅れて左手も同じ位置に添えて、ジタバタと、ベッドの上で足を交互に動かした。
「アスクレピオスが、服、着てる」
 迫り上がってくる恥ずかしさと、嬉しさに、他にどうしようもなかった。勝手に緩み、赤く染まる頬を物理的に隠して、元から多かったシーツの皺を倍に増やした。
 喜び、はしゃいで、溢れ出て止まらない感情を爆発させた。
「自分で、服、着てる」
 ひとり身悶える立香に、アスクレピオスは唖然とした様子で立ち尽くした。整えたばかりのシャツの裾を弄って、一瞬だけ遠くを見やり、左手で顎を撫でた。
 なにやら物思いに耽った後、上着は羽織らないままベッドサイドへ戻った。クッション性が良いとは言えない備え付けの寝台に腰掛けて、右人差し指で立香の喉仏を擽った。
 隆起をなぞり、上に転じて、顎をすいっとなぞって、彼の意識を自分に向かわせた。
「僕が服を着て、そんなにおかしいか。立香」
「だって、初めて?」
 空色の瞳にアスクレピオスの顔をいっぱいに映して、立香は小首を傾がせた。語尾が上がり気味で、疑問形になりはしたが、表情は確信を抱いていた。
 これまでにも幾度となく、褥を共にした。熱を分かち合った。時に傷つくのも厭わず、狂おしいまでの感情に身を任せた。
 しかしこれまで一度として、揃って朝を迎えたことはなかった。
 この男はいつだって、先に部屋を出て行く。時間になればマシュが来ると知っているから、立香以外の誰かが此処に居た、という痕跡を極力残さなかった。
 だから一緒に朝を迎えた事はない。目覚めた時、そこに彼がいたのは、これが初めてだった。
 ついでに言えば、サーヴァントが身に着ける衣服は基本、霊基に付随している。これの着脱や変更は、当騎の意思ひとつで可能だった。
 勿論実体化した上で、布製品を着用することも出来る。但し今、アスクレピオスが纏っているそれらは、彼の魔力によって構成されていた。
 それをわざわざ脱いで、実体化させたまま捨て置き、時間が経ってから一枚ずつ着ていく。
 効率的だとは、とても言えない行動だ。それを敢えて、今になって実行に移した彼に、どのような心境の変化があったのか。
 物分かりが良いように見えて、案外察しが悪く、気が利かない朴念仁のくせに。
 違和感の原因が、明らかになった。胸に閊えていたものが取れたと、立香はすっきりした表情で口元を綻ばせた。
「オレが今日、午前の予定、なくなったの。本当は知ってたんじゃない?」
「いいや。それはさっき、初めて聞いた」
「またまた~」
 デミ・サーヴァントのマシュが時間になっても来ないと分かっていたから、今日は長く、一緒に居てくれた。
 そうだと決めつけた立香が、頑なに否定するアスクレピオスを茶化し、肘で小突く真似をする。
 それを溜め息で受け止めて、男は諦めたのか、緩く首を振った。
 寝癖が残る黒髪をくしゃりと押し潰し、掻き混ぜて、手櫛で整えた。横からの圧力に、立香は上半身を斜めにさせて、反対側の腕をベッドに衝き立てた。
「アスクレピオス?」
 憶測が間違っているのをうっすら理解して、顔を顰める。
 わけもなく不安になって、小さな声で名前を呼んだ。僅かに身を乗り出した彼に、アスクレピオスは困った顔で微笑んだ。
「いや、……単に、メディアに言われただけだ」
「メディア?」
「ああ。リリィの方だが」
 告げられた台詞と共に、コルキスの魔女の顔が思い浮かんだ。それを瞬時に打ち消して、立香は嗚呼、と頷いた。
 直後に首をこてん、と右に倒して、唐突な登場人物に疑問符を乱立させる。
 クエスチョンマークを生やしたマスターに目を細め、アスクレピオスは緩く握った手を口元に持って行った。
 クツクツと、喉の奥で笑っていた。
 それも今の立香が面白いのではなく、過去のことを思い出して、だ。
 恐らくは、メディア・リリとの会話を。
 一体全体、彼女は何と告げたのか。大いに気になったが、聞いたら負けのような気分がして、立香はただ無言で頬を膨らませた。
 河豚を真似て威嚇して、猫背になって、膝元に集めた両手を握り締めた。
 その膨れ面を面白がり、アスクレピオスがずい、と顔を寄せた。前髪が交錯し、鼻先が擦れる近さから眼を覗き込んで、戯れに上唇を舐めて離れていった。
「あっ、あのねえ」
 それが誤魔化しに思えて、つい声を荒立てた。腹に力を込め、思い切り叫ぼうとして、寸前で勢いを挫かれた。
「これまでも、お前は。終わった後も、僕と一緒に居たかったのか?」
 真顔で問いかけられて、言葉が返せない。
 至近距離から覗き込んで来る双眸は、新緑萌える大地に、鮮やかな光を宿していた。
 透き通る宝石のような彩は、間違いなく立香だけを映していた。
 その紛れもない事実に、心臓が、一瞬とはいえ、止まりかけた。呼吸は実際に止まった。うぐ、と腹の底で唸って、立香は耐え切れず、両手を伸ばした。
「なにをする、マスター」
「ごめん。でもやっぱ、無理」
 合計十本の指を壁にして、左右に並べた掌でアスクレピオスを押し返した。顔面を潰された男はくぐもった声で非難して来たが、ここで折れるわけにはいかなかった。
 蘭陵王やアーサーや、ギルガメッシュ、それ以外でも、カルデアに集うサーヴァントは大概顔がいい。ここは美男美女の巣窟だ。だから免疫が出来ていると信じていたが、ゼロ距離から見詰められるのは、やはり心臓に悪かった。
 心から謝罪しつつも、拒否行動を止めないでいたら、手首を掴まれた。力技で退けられて、立香は最後の抵抗とばかりに、投げ出していた足を蹴り上げた。
 だがそれも、空振りに終わった。
 キャスターでありながら、こちらの攻撃を見越していた。余裕を持って躱されて、逆に突き飛ばされた。
 片足が宙に浮いた状態で肩を押されて、バランスが崩れた。敢え無くベッドに倒れ込んだ立香の上に覆い被さって、アスクレピオスは一度だけ、忌々しげに舌打ちした。
 その苛立ちは、きっと顔を攻撃されたことによるものだろう。わざとではないのだが、どさくさに紛れて彼の鼻の穴に指が入ってしまったのは、運が悪かったとしか言いようがなかった。
「なにが無理だ。金輪際、僕の顔が見たくないと言うのなら、そうしてやるぞ」
「待って。ごめんて。そうじゃなくって。そんなんじゃなくて。ああ、もう。どうも、すみませんでした!」
 切れて血が流れることもなければ、奥まで入り込むところまで行かなかったけれど、痛かったのは間違いないだろう。
 勇ましい声で罵倒されて、立香も負けじと喚いた。半泣きで吼えて、謝って、ずび、と垂れそうになった鼻水を音立てて啜った。
 咥内の唾を飲み、右腕で顔を隠した。目元から鼻筋を覆って、唇を真一文字に引き結んだ。
「……った、に。決まってる、だろ……」
 そして懸命に声を絞り出したが、前半部分は殆ど音にならなかった。
 胸倉を掴もうにも立香は裸なので、アスクレピオスの手は中途半端なところで泳いでいた。それを解き、広げて、彼はひと呼吸置き、鼻を愚図らせるマスターの黒髪をゆっくりと撫でた。
 前髪の生え際を擽り、薙ぎ倒して、剥き出しになった場所にキスを落とした。優しく、慰めるように数回繰り返して、未だ目元を塞いでいる腕を軽く押した。
 促され、おずおず利き手を退かせたものの、立香はすぐに正面に向き直れなかった。最初は余所を向いて、それから少しずつ瞳を動かした。
「そうか」
 視線が交錯するのを待って、アスクレピオスが感慨深そうに呟いた。ほんの少しだけ口角を持ち上げ、目を細めて、嬉しそうな顔をした。
 面映ゆげに、それでいて照れ臭そうに。
 怒りや呆れ、或いは嘲笑といった感情ははっきり表に出す男だ。喜びや楽しみは、医術に関するものにだけ、極端に特化していた。
 こういう顔もするのだと、立香は目を見開いた。息を呑み、内から湧き起こる震えに全身を竦ませた。
 瞬きする時間さえ惜しんで、網膜に焼き付けた。
 それと同時に、今更が過ぎるが、自分が素っ裸なのを思い出した。長い間遠くを旅していた羞恥心が突如駆け戻って来て、立香は背中の下敷きになっていた布団を掻き集めた。
 嬉しいやら、気恥ずかしいやら、頭がごちゃごちゃで、心が落ち着かない。
「ああああ」
「どうして隠れる」
「恥ずかしいからに決まってるだろ!」
 引き寄せた綿入りの布を頭から被れば、即座に引き剥がされた。尚も顔を覗き込もうとする男に、唾を飛ばして怒鳴りつけて、立香はどっ、どっ、と騒々しい心臓に臍を噛んだ。
 体調が悪いのを隠したり、怪我をしているのを黙っていたりした時は、恐ろしく反応が早いのに、こういう時だけ馬鹿みたいに鈍感だ。
 言わないと分かってくれない相手に腹を立てて、立香は布団の下から、男の膝を蹴り飛ばした。
 不意打ちを食らい、今度は避けられなかったアスクレピオスの体勢がガクン、と下がった。体重を支えきれず、ベッドに沈み込む形になり、必然的に下にいた立香との距離が狭まった。
「ぐ」
 低く呻いて、顎同士が衝突するのだけは回避した。不安定な姿勢から脱し、且つ立香を傷つけないように動くのは、そう難しくないけれど、簡単でもなかった。
 少しずつ、互いの位置を探りながら重心をずらしていく男を見上げて、立香は浅い呼吸を繰り返した。
 三回、四回と回数を重ねて、自身の手元に意識が集中している男に腕を伸ばした。
「えーい」
 小声での掛け声と共に首に絡ませ、ぐいっと引っ張った。
 背中を一瞬だけ浮かせ、体重を利用して、離れようとするアスクレピオスを引きずり戻した。
「こら、なにを」
 戸惑う彼の声が震えていた。
 顔は見えない。アスクレピオスにも見せない。
 幅広の肩にしがみついて、立香は音立てて鼻から息を吸い、止めて、口を開いた。
「一緒に居たい、に、きっ、決まってる、だろ。しゅ、しゅき……好き、なんだから!」
 面と向かってでは絶対に言えない台詞を、一気に捲し立てた。ただ肝心なところで緊張から噛んでしまい、言い直したのが、無念でならなかった。
 なんと格好悪いのだろう。
 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。カーッと頭から湯気を噴いて、立香は昨晩と同じように、男の肩に爪を立てた。
 自分の失敗に対する感情を、他者にぶつけることで発散させた。覗き込まれずに済むようにと、男の腕の付け根に額を擦りつけた。
 両腕に力を込め、簡単に振り解かれないよう必死に歯を食い縛った。
「く……は。はは、ふははははっ」
 ところがその渾身の抵抗は、さほど意味を持たなかった。
「アスクレピオス?」
 突然声を響かせ、笑い出した彼に驚き、立香の方から拘束を解いた。呆気にとられて目を点にして、両手を広げてベッドに身を委ねた。
 医神は膝立ちになり、ストン、と腰を下ろした。左手で額を覆い、息を整えて、深く頷いた。
「そうだった、な。ああ、そうだ。そうか……なるほど。お前は、メディアリリィと同じで……それは僕も、同じだった、ということか」
「んんん?」
 ひとりで考え込み、ひとりで結論を出してしまった。
 合間に聞こえて来る独白だけでは意味が分からず、置いてけぼりを喰らった立香は不満も露わに眉を顰めた。
 メディア・リリィは絵に描いたような、恋に恋する乙女だ。理想の世界を夢見て、色恋沙汰に花を咲かせ、目を輝かせ、心を時めかせていた。
 そんな彼女が口にする物語は、一部からは失笑を招いていた。しかしアスクレピオスは、彼女が夢見る光景を、ただの絵空事と退けられなかった。
 好きなのだから、片時も離れたくないのは当たり前。眠っている間も、傍に居て欲しい。目覚めた時にひとりなのは寂しいから、ずっと手を抱きしめて、髪を梳いていて欲しい。
 好きな人の仕草は、どんな些細なことでも愛おしい。剣を取り勇ましく戦う姿も良いけれど、日常の、例えば素肌に一枚、一枚衣を重ねて行く瞬間さえも、見ていて心が躍るのだ――と。ましてやそれが、褥から出て、皆の前に戻る為の身支度ならば、尚更に。
 ほかの誰の目にも触れない素の姿から、衣を纏うことで、社会的な立場を有する存在に切り替わっていく。ある種の儀礼的な側面を感じて、特別なのだと、少女はうっとり目を細めて笑っていた。
 そんなものかと、アスクレピオスも当初は半信半疑だった。
 けれど無垢な寝顔を一晩中眺め続けるのは、意外と楽しかった。飽きるのではないかと危惧していたけれど、杞憂だった。
 どんな夢を見ているのか、偶に笑ったり、顔を歪めたりするので、観察のし甲斐があった。戯れに鼻を抓んで、頬を小突いて、反応がないと知りつつも唇を啄み、温かな口腔内を楽しみもした。
 起きやしないかと冷や冷やして、そうならないぎりぎりのところを探った。
 眠っている彼に行ったことの全てが露見したら、嫌われるどころでは済まないかもしれない。柔肌をまさぐり、舐め、味わった。意識がある状態では出来ないくらいに時間を費やし、たっぷりと堪能させてもらった。
 どうしてこれまで実行に移さなかったのか、今では疑問でしかない。
 新たな境地を開くきっかけをくれた少女には、感謝してもしきれなかった。心の中で密かに礼を言って、アスクレピオスは深く息を吸い、吐いた。
 妙にすっきりとした、晴れ晴れとした表情をされた。
 この一瞬の間に医神の心境にどんな変化があったのか、さっぱり読み解けない。首を捻りつつ起き上がり、寒さを覚えた立香は布団を肩に、斜めに引っかけた。
 空調は入っているけれど、長時間裸でいるのを前提とした設定ではない。出掛かったくしゃみを堪え、鼻を啜った彼に目をやって、アスクレピオスは余っていた布団を立香の膝に被せた。
「いつまでも、そんな格好をしているからだ」
 太腿近くに残るうっ血の痕や、赤みを残す肌を物理的に遮断して、他の場所も布でぐるぐる巻きにしながら告げる。
 医者としての側面を強調した発言だったが、簀巻きにされた方は苦笑するばかりだった。
 体調を崩しても、誰かが、なんとかしてくれると無邪気に信じている。そんな顔を見せられて、アスクレピオスは力なく肩を落とした。
 やれやれ、とため息を吐き、上機嫌に布団にくるまっている立香のこめかみに手を伸ばした。瞳で動きを追う彼の黒髪を梳き上げ、額の真ん中を狙って首を伸ばした。
 ち、と小鳥が囀るような音を残し、一瞬だけ触れて、すぐに離れる。
「早く服を着ろ。それとも、そんなにネギがいいのか?」
「遠慮します!」
 直後にゴチン、と額をぶつけられて、立香は大慌てで首を振った。
 本当は口にして欲しかったとか、言える雰囲気ではない。この男ならやりかねない、と別の理由で襲って来た寒気に身震いして、彼は布団の下で畏まった。
 しかしアスクレピオスがベッドを降りようと、身体を捻った瞬間。
「なんだ?」
 その手を、指を、無意識に掴んでいた。左の中指と薬指を捕まえて、弱い力でくい、と引っ張っていた。
 気付いた男が動きを止めて、交差する前髪を左に偏らせた。斜め下から覗き込むように問われて、それで立香ははっとなった。
「あ、いや。……えと、なんだろ」
 咄嗟の行動だったので、なんらかの意図が働いていたわけではない。朝から思いも寄らぬプレゼントを貰ったのだから、これで満足しておくべきなのは分かっていた。
 けれど人間とは、欲深いもの。
 ひとつのことに満足したら、また別のものが欲しくなった。どこまでも、いつまでも続く強慾の鎖を断ち切るのは、容易ではなかった。
 言葉を探し、立香は目を泳がせた。無意味に奥歯をカチカチ鳴らして、手を握り返して来た男にハッと息を呑んだ。
 掌を擽るように撫でられた。甲全体を覆って、ゆっくりと手前へ滑らせたかと思えば、指を互い違いに絡めて束縛された。
 その一挙手一投足を見守っていたら、視界が暗くなった。慌てて顎を引き、正面を向いたら、柔らかなものが顎を掠めた。
「こら、動くな」
「ごめん」
 狙いを定めていたのに、直前で動いたから、位置がずれた。眼前を銀色が通り過ぎ、翡翠の双眸に睨まれて、立香は蛙になった気分を味わった。
 冷静になってみれば、叱責はあまりに理不尽で、自分がさも悪いように扱われたのは不満だった。
 条件反射で謝罪したのは、失敗だった。じっとしていて欲しければ先に言えと、強い気持ちを込めて睨み返せば、どう受け取ったのか、アスクレピオスは嘲笑めいた表情を口の端に浮かべた。
 その人を見下したような、勝ち誇った顔が好きだった。
 それにも増して、この自信ありげなところが崩れる瞬間が、大好きだった。
「ん――――」
 だからキスを企む彼の先手を打ち、立香から首を伸ばした。悪戯な笑みを瞼の裏に隠して、ほんの少し右に角度をつけた。
 むちゅ、と唇の中心に窄めたそれを押しつけて、反応はいかばかりかと、寸前で閉じた目をほんの少しだけ開く。
「っ!」
 直後、不敵に笑いかけられた。否、殆ど見えはしなかったけれど、本能がそう警告を発した。
 全身にビリッとくる痺れが走って、後ろに逃げようとしたが、果たせない。
 先回りした白い腕が蛇のように絡みついて、立香の背中を、腰を、二重に囲い込んだ。
「んぅ~~っ」
 挙げ句力任せに食いつかれ、舌を捩じ込まれた。昨晩散々貪られた場所を舐め、玩ばれ、逃げ惑えばその分しつこく追い回された。
 ちゅくちゅくと、水に濡れた音が頭の中でこだました。耳元で鼓動が弾み、余韻を残す身体が熱を抱いて淡く疼いた。
 無意識にもじ、と膝を捏ねて、立香は咥内を好き放題甚振る舌先に舌を絡ませた。
 一方的な蹂躙を食い止めて、柔らかな微熱に軽く牙を立てた。吸い付き、裏側を捏ねて、表面を擦り合わせた。
「は、っあ……ん」
 息が続かなくて、口を大きく開いた。両者の間に架かる透明な糸を手繰り寄せ、肩を上下に弾ませた。
 跳ねた唾液の冷たさに喘ぎ、布団の端を腿の間へと押し込んだ。気を緩めればすぐ開いてしまう膝を、懸命に閉じて、首筋を舌でなぞる男に頭を振った。
「どうした。誘っているのか?」
 挑発的な台詞を耳元で囁かれて、頭が破裂しそうだった。
 誘っているのは、いったいどちらか。長い指で露出する立香の足首を、土踏まずを、小さな指を撫で回しておいて、どの口が言えた義理か。
 もう片方の手は綿入りの布越しに膝から上、太腿の一帯に添えられていた。指先に強弱を付け、軽く揉んで、明確に立香の欲を煽っていた。
 目的は明白で、何を狙っているのかはバレバレだ。
 言わせたいのだと察して、立香はぐ、と喉の奥に力を込めた。その手には乗らないと、はね除けてやりたい気持ちはあるけれど、いかんせん医神の方が一枚上手だった。
 彼は的確に立香の弱い――これまで気付かれていなかった筈の場所を狙って、舌を這わせた。
「んや、あ……ちょ、ひゃうっ」
 喉の脇、耳の真下近く。太い血管が走るすぐ上を舌先でこちょこちょ擽られて、変なところから、変な声が出た。
 完全に裏返った、甲高い声だった。本当に自分の声帯から発せられたのかと疑いたくなる、俄には信じ難い音域だった。
「立香?」
 それはアスクレピオスも同じだったようで、驚いた声で名前を呼ばれた。一瞬変な間が生まれて、あまりのいたたまれなさに、立香は右手で顔を覆った。
「分かった、から……言う、から。ちょっと待って」
 指の隙間からぼそぼそ言って、浅い呼吸を繰り返した。短い間隔で吸って、吐いてを数回行って、未だ落ち着かない心臓に唇を舐めた。
 ちらりと時計を見れば、午前七時までもう間もなく。起床を促す通信や、眼鏡の後輩の足音は聞こえなかった。
「あの、さ。……オレ、今日。朝は、フリーなわけだよね」
「ああ」
「で、さ。えっと、アスクレピオスは、その」
「ああ」
 必死に言葉を紡ぐ合間に、緩慢な相槌が返された。しかし聞いていないわけではないのは、次第に強まる語気からも明白だった。
 他にどう言えば良いか、彼自身、分からないのだろう。
 そういう不器用な面が可愛いと、内心苦笑して、立香は腿に添えられていた彼の手に、手を重ねた。
 ぎゅっと握り締め、意を決して、口を開いた。
「アスクレピオスは、午前中は、忙し――」
「僕を誰だと思っているんだ。それしきの遅れなど、すぐに取り戻せるに決まっているだろう」
 しかし皆まで言い切る前に、食い気味に言葉を被せられた。一気に捲し立てられて、大声を浴びせられた立香はぽかんとなった。
 目をぱちくりさせて、一瞬思考停止して。
「ぶっ」
 正直に気持ちを吐露した彼に、噴き出さずにはいられない。
「……笑うんじゃない」
 自分が何を、どう言ったか、今になって理解したようだ。気まずそうに目を逸らしたアスクレピオスの顔は、当分忘れられそうになかった。

2019/11/17 脱稿
榊葉のさしてつれなき世々を経て 神も許せるしめのほかかな
風葉和歌集 841