たもとゆたかに 裁てといはましを

 出陣を終え、審神者への報告も済ませた。今回は刀装兵が守りを固めてくれたのもあり、幸いにも負傷せずに済んだ。
 ただ無傷で帰還を果たせたのは、小夜左文字だけ。それを少し口惜しく思いながら、彼は無人の部屋の前を通り過ぎた。
 自室で手早く着替えを済ませ、手拭い一枚を持って廊下へ出る。軽く汗を流そうと井戸を目指し、外に向かう経路を行けば、向かいから見知った顔が近付いて来た。
 以前は目深に被っていた襤褸布を外し、今は肩から背に羽織っている。もう必要無いだろうに、愛着があるのか、彼は未だにそれを手放そうとしなかった。
「小夜」
「山姥切さん?」
 あちらも小夜左文字には当然気付いており、行き違う直前、名前を呼ばれた。そのまま足を止めた彼に小首を傾げれば、彼は少し困った顔をして目を泳がせた。
 打刀が左右を素早く確認した理由が、まるで分からない。このまま通り過ぎるわけにもいかなくて、短刀の付喪神は仕方なく歩みを止めた。
 山姥切国広は周囲を探った後、右手にぶら下げたものをガサガサ揺らした。どことなく落ち着きがなくて、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
「どうかしましたか」
 黙っていられたら、なにも分からない。
 やむを得ず問いを投げた彼に、山姥切国広はハッと背筋を伸ばした。
「ああ、いや。すまん。江雪を知らないか」
「兄様ですか?」
 猫背を改め、早口に言った。
 聞かれた方は目をぱちくりさせて、長い銀髪の太刀の姿を脳裏に思い描いた。
「いえ。僕は、帰ったばかりですので」
 江雪左文字は、この本丸に三振りある左文字の刀の中で、唯一の太刀だ。戦を厭い、農作業を好む、本来の刀としての在り方に相反する精神性の持ち主だった。
 その彼とは、出陣前に会ったきりだ。無事に戻るよう、頭を撫でてもらった。
 慶長五年の京の町から戻った時、出迎えの中にその姿は無かった。ならば彼はまだ、末の弟が願い通りになったと知らないかもしれない。
 会話の中で思い出して、そういえば、と小夜左文字も目を泳がせた。無意識に太刀の暮らす部屋の方を見れば、それは山姥切国広が歩いてきた方角と一致した。
「そうか。それもそうだったな」
「いないんですか?」
「ああ」
 彼があちらから来たとすれば、江雪左文字の部屋は既に訪れた後。
 推測は正しく、首肯で返された少年は眉を顰めた。
 部屋の配置は刀種ごとに分けられ、太刀は太刀、短刀は短刀ばかりで集められていた。しかし仲間が増えるにつれて、当初の部屋割りでは数が足りなくなり、後から増築された部屋を使う刀剣男士は刀派も、刀種もばらばらだった。
 ただ江雪左文字が本丸に来た時点では、この法則は生きていた。
「畑では」
「先に行って、見て来たが、いなかった」
「そうなんですか」
 短刀たちよりも少し広めの和室を思い出し、他に兄刀が行きそうな場所の筆頭候補を口にする。
 だがそれも否定されて、小夜左文字は嗚呼、とため息を吐いた。
 短刀が思いつく場所なら、この打刀だって分かって当然だ。すでに調べた後と教えられて、ふた振りは揃って天を仰いだ。
「庭でしょうか」
「広いな……」
 となると、次なる候補地はそこしかない。
 広大な敷地を有する本丸の、季節ごとに形を変える庭園を瞼の裏に浮かび上がらせて、山姥切国広は心底嫌そうに呟いた。
 瓢箪型の池を中心に、茶室が設けられた庭も、江雪左文字の行動範囲だ。剪定用の鉄鋏を手に、邪魔な枝を切ったり、雑草を抜いたりと、忙しい。
 冬を前に、松の幹に菰を巻くとも言っていた。その準備をしているのかもしれなかった。
 敷地が広範囲なら、その分やることも多岐に亘る。当てずっぽうで探し回っても、時間を無駄にするだけだ。
「ほかの方に聞いた方が」
 とにかく、小夜左文字には兄刀の所在は分からない。他に知っていそうな刀があれば、そちらを当たる方が賢明だった。
「そうだな。そうするか……っと、そうそう。小夜。時間があるなら、一緒に、どうだ」
「はい?」
 提案にすんなり同意して、山姥切国広が気を取り直して背筋を伸ばした。そのまま行き過ぎようとして、直前に出しかけた足を戻した。
 手にした袋を胸元に持ち上げ、反対の手で底を支えて斜めにする。
 なにが入っているか分からないが、ガサ、と大きなものが傾き、低い方へ流れていく音がした。袋自体も右側だけ膨らんで、打刀の掌からはみ出した。
「なんでしょう」
「いや、な。兄弟とどうかと思って買ったはいいが、行き違いで、どちらも遠征に出てしまって」
「はあ」
「俺だけでは食い切れ……る、とは、思うんだが。折角だ。どうだ?」
 先ほどから仄かに甘い匂いがしていたが、発生源はそれだ。
 食べ物だと暗に伝えられて、小夜左文字は思わず爪先立ちになった。
 もう一度ガサガサ振られて、反射的に頷いた。即答してから、あまりにも早過ぎたかと赤くなるが、山姥切国広は呵々と笑って肩を揺らした。
 しかも上機嫌に、ひとの頭をぽんぽん叩いて来た。顕現したばかりの頃からすれば、考えられないことだった。
 多くの仲間を得て、修行の旅を終えて、彼は変わった。写しであることを卑屈に捉え、内向きで自虐的な思考に染まっていたのが、嘘のようだ。
 今はしっかり前を向いて、胸を張って歩いている。屈託なく笑って、心を許した相手には遠慮がなくなった。
 こうやって親しみを込めて接して貰えて、小夜左文字も嬉しい。
 些か乱暴な手を押し返して、短刀は相好を崩した。
 身長差があるので肩は並ばないが、足並みを揃え、とりあえず庭へ向かうことにした。長い渡り廊を抜けて母家に出れば、丁度玄関で草履を揃えている刀と出くわした。
「蜂須賀。江雪を見なかったか?」
「おや、山姥切。小夜も一緒なんだね。珍しい」
 外から帰ってきたばかりなのだろう、上がり框で膝を突いていた。自身の履き物だけでなく、傍にあった鯰尾藤四郎のものらしき靴も踵を揃え、行儀良く並べ替えていた。
 その彼が話しかけられ、首から上だけで振り返った。傍に立つふた振りを順に見て、あまりない組み合わせと思ったのか、正直な感想を述べた。
「僕は別に、歌仙とばかり居るわけじゃないです」
 それに思わずムッとなり、小夜左文字は言い返した。悪気があったわけではない青年は一瞬きょとんとして、続けてぽん、と着物上から膝を叩いた。
 なにが面白いのか、豪快に笑って、唖然とするふた振りに慌てて右手を振った。
「あっはは。いやあ、すまない。そんなつもりはなかったんだが。ええと、江雪だったね? 残念ながら、昼の後は見てないな」
 まだ笑いが収まらない中、早口に言って、呼吸を整えた。胸に手を添えて、深呼吸を数回繰り返し、開け放たれたままの玄関を指差した。
 夏場は日除けの葦簀が立てかけられていたが、とっくに片付けられた後だ。晩秋の陽射しを受けた石畳が眩しく輝き、吹く風に攫われて、砂埃が舞っているのが見えた。
 教えられて頷いて、小夜左文字は山姥切国広と顔を見合わせた。
「そうか。ありがとう」
「どういたしまして。なんなら、加州に聞いてみると良い。昼餉の片付けで、一緒だったはずだよ」
「分かった」
 昼食の時のやり取りを記憶から呼び出して、蜂須賀虎徹が長い指を引っ込めた。裾を押さえながら立ち上がる所作は優雅で、美しかった。
 歌仙兼定とはまた違う趣に、小夜左文字は小さく頷いた。続けて頭を下げて感謝の代わりにして、名前が出た打刀を探し、来た道を振り返った。
 山姥切国広も、同じことを考えていたようだ。視線は表玄関入ってすぐのところに掲示された、本日の各種当番の案内に向かった。
 畑当番、馬当番の他に、食事当番や、洗濯当番まである。非番の刀が手伝うのは勿論構わないのだが、ここに掲示された刀が主たる部分を請け負うのが、この本丸の決まりだった。
 江雪左文字の名前は、吊された木札には見当たらない。
 ただ加州清光の札は、食事当番のところにぶら下がっていた。
「炊事場だな」
「行きましょう」
 この時間なら、食事当番は夕餉の仕込みに取りかかっている頃だ。
 当て所なく探し回らねばならなかったところに、救いの手が差し伸べられた。笑顔で去って行く蜂須賀虎徹に改めて頭を下げて、小夜左文字は気忙しく歩き出した打刀を追いかけた。
 山姥切国広はそこまで大きい方ではないが、本丸でも小柄な部類に入る短刀にとっては、充分背が高い。歩幅もまるで違っており、一度離されると追い付くのが大変だった。
 小走りに廊下を行って、打刀が押し上げた暖簾の下をするりと駆け抜けた。台所は入ってすぐに一段低くなっており、転ばないよう注意しつつ、背伸びして辺りを見回した。
「加州」
「んー? なにー?」
「おまんら、なにしちゅう。晩飯は、まぁだ先ぜよ」
 飴色に塗られた床は冷たく、容赦なく体温を奪った。そんな中で、明かり取りの窓から差し込む柔らかな光が、夕飯の仕込みをするふた振りを淡く照らしていた。
 そのうちのひと振りに声を掛けた山姥切国広だったが、違う刀からも合いの手が入った。片隅であぐらを掻いて座り、糠床を掻き混ぜていた陸奥守吉行の言葉に、小夜左文字は苦笑交じりに首を振った。
「いえ、そういうわけでは」
「江雪左文字を知らないか?」
 夕食の催促に来たわけではない。勿論冗談だというのは分かっているが、一応否定した彼の向こうで、相手にしなかった山姥切国広が加州清光に問いかけた。
 目的を果たすのを優先させて、それ以外に目が向いていない。
 真面目で不器用な青年に肩を竦め、包丁を手にした加州清光の打刀の返事を待つ。
 進めていた作業を切りの良いところまで進めて、彼は背を仰け反らせ気味に振り返った。
「江雪なら、だいぶ前に、山姥切に呼ばれてったけど?」
 ぬか漬けの香りをたっぷり堪能して、小夜左文字もそちらへと近付いた。
 並んで立つふた振りを順に見た幕末志士の刀は、彼らが江雪左文字を探す理由を聞きもせず、知っていることだけを口にした。
「俺は知らないぞ」
 もたらされた情報で、唐突に名前を出された方は面食らい、声を荒らげる。
 紙袋を握り締め、山姥切国広は動揺を隠さない。さあっと青くなった彼を見上げた短刀は、直後に噴き出した加州清光に、急ぎ視線を戻した。
「あっははは。違うって。あんたじゃなくて、あっちの山姥切」
 余程面白かったのだろう、赤く塗った爪で目尻を擦りながら笑われた。
 冷静に考えれば、すぐに分かりそうな事だ。だのにうっかり失念していた打刀は今度は赤くなり、恥ずかしそうに下を向いた。
 顔を隠そうと空いた手を頭上にやるが、生憎そこに、襤褸布はない。
 修行前の癖が完全に抜けきっていない彼に、陸奥守吉行も衝動を隠さなかった。
「わっ、ひゃっひゃっひゃ」
 豪快な声が背後から響いて、山姥切国広が悔しそうに唇を噛む。
 喧嘩になりはしないかと心配だったが、どうにか堪えてくれた。片足で強く床を蹴るだけに済ませた彼に安堵して、小夜左文字は長兄の太刀が居たらしい空間を見回した。
 山姥切長義は一年ほど前に本丸にやって来た、山姥切国広の本歌だ。
 名前が同じなら、外見もどこか似通っている。自信家で、少々高慢な物言いをする刀だけれど、実際は努力家で、写しに負けないくらい真面目な刀だった。
 江雪左文字とは、北条家で多少ながら縁を結んだと聞いていた。そこの打刀も、同様だ。
 国広の兄弟刀が揃って不在なので、彼は過去に縁を持つ太刀を真っ先に頼った。ところが先を越す形で、山姥切長義に連れて行かれたと知って、金髪の打刀は不満げだった。
「そう、なのか」
「そうそう。なーんか、知らないけど。相談があるとか、ないとか、言ってたよ。終わってなければ、まだ部屋じゃない? あっちの山姥切の、ね」
「そこは繰り返さなくていい」
 小声で相槌を打てば、加州清光がすかさず茶化した。意地悪く口角を持ち上げて、危険が無い程度に、持っていた包丁を揺らした。
 余程気に入ったのか、先ほどの言い回しを繰り返し、山姥切国広の機嫌を損ねても意に介さない。
 愉快だとケラケラ笑い続ける彼を見て、丁度勝手口から入って来た打刀が不思議そうに首を傾げた。
「なになに、どうしたの?」
 大和守安定が、籠いっぱいの野菜を手に土間を駆ける。その足元には、水滴の跡が点々と残された。
 恐らくは外の井戸で、畑で収穫した野菜を洗っていたのだろう。
 夕飯の準備が着々と進む中、長居をして邪魔するのはあまり宜しくなかった。
「いやさあ、聞いてよ」
「助かった。感謝する」
 必要な情報は集まったので、ここにもう、用はない。
 まだ笑い止まない加州清光が喋り出したのを遮って、山姥切国広は背負った襤褸布を翻した。
 生真面目に礼は言って、大股で廊下を目指し、突き進む。
 危うくぶつかるところだった小夜左文字は呆れ混じりに嘆息し、惚けている大和守安定にも頭を下げた。
「お邪魔しました」
「今夜は団子汁だからね」
「楽しみです」
 渡された野菜を俎板に転がした加州清光が、いつも通り飄々と言った。あまり良いとは言えない態度を取られたのに、一切気にしていない。もう年単位での付き合いになるのだから、気難しいところがある刀の相手にも、すっかり慣れているようだった。
 陸奥守吉行にも小さく頭を下げて、小夜左文字は廊下に出た。先ほど通ったばかりの渡り廊に戻れば、一心不乱に前を行く背中が見えた。
 写しと本歌という、簡単ではない間柄の打刀の名前が飛び出して、内心穏やかではないらしい。
 余計な事を考えまいとして、巧くいかない様子が、荒々しい足取りから想像出来た。
「仲が悪いわけでは、ないと、思うけど」
 小夜左文字は短刀なので、打刀たちと行動を共にする機会は、とあるひと振りを除けば、多いようで、意外と少なかった。
 時間が空いた時に共に過ごすのは、兄弟刀や、刀種が同じ短刀がどうしても多かい。部屋がある区画も違うので、彼らが普段、どういう生活を送っているのかも、よく分からなかった。
 ひとつ屋根の下に暮らし始めてから、もうかなり経つのに、だ。
 敢えて触れず、近付かないようにしていたのは、否定しない。下手に刺激して、わざわざ騒動を起こしたくなかったのだ。
 しかしいつまでも、避けて通って過ごすわけにはいかない。
 深々とため息を吐き、小夜左文字は速度を上げた。渡り廊を抜けた先で追い付いて、横に並んで打刀の顔を覗き込めば、彼はキッと眉を吊り上げ、唇を堅く引き結んでいた。
「あの、山姥切長義さんも、……一緒に?」
「それは俺が決めることじゃない」
 江雪左文字に固執しなくても良いのでは無いか、と内心思ったが、言えなかった。台所に戻って、食事当番の刀たちに振る舞うのでも良さそうなのに、山姥切国広は完全に意固地になっていた。
 こうなったら絶対に、あの太刀と食べる、と心に決めてしまっていた。小夜左文字が横からあれこれ言ったところで、耳を貸してくれるとは思えなかった。
 この頑固さは、昔馴染みの打刀と通じるところがある。
 うっかり思い浮かんだ顔を頭から追い出して、短刀は幅が狭くて滑りやすい箱階段を慎重に登った。
 最後の方は両手も使って落ちないよう注意しつつ、天井にぽっかり開いた空間から頭を出す。
 床張りの廊下は広々として、真新しい木材の匂いがした。
 山姥切長義はこの建て増しされた二階分の、奥の方にある部屋を与えられていた。
 四方の壁には各々窓が設けられ、開け放たれて風が通っていた。遙か遠くの山並みでは、頂上付近から紅葉が始まっていた。
 そんな景色を楽しんで、廊下で寛ぐ刀があった。
「王手……です。長義」
「またか。なぜだ。どうしてそうなる」
 往来の邪魔にならないよう窓辺に寄って、ふた振りの刀が将棋盤を挟んで向き合っていた。パチン、と小気味よい音が小夜左文字の耳朶を打ち、直後に聞こえた声で、それが誰なのかを理解した。
 山姥切国広越しに様子を窺えば、案の定、江雪左文字と山姥切長義だ。
「おや? 貴方が、こちらに……。珍しい、ですね……」
「あんたもな」
 加州清光はああ言っていたが、どう考えても相談事をしている雰囲気ではない。
 仲睦まじく将棋に興じる彼らに小夜左文字はぽかんとして、山姥切国広は苛立たしげに吐き捨てた。
 江雪左文字は畑か、庭にいなければ、大体居住区画である離れの一階の、自室にいる。そこで写経に励むか、瞑想に浸るか、はたまた読書に勤しむかのどれかが多かった。
 将棋や碁を嗜んでいるのも知っていたが、二階で、こうやって過ごしているところは初めて見た。
 細身の太刀は薄い座布団の上に行儀良く正座して、敗北を受け入れられずにいる打刀から、立っている弟刀たちへと視線を移した。口元に淡い笑みを浮かべて、大らかにひとつ頷いた。
「随分探したぞ」
「私を、……ですか……?」
「ああ。灯台もと暗しとはよく言ったものだ」
 その後ゆるりと首を傾げた彼は、興味深そうに瞳を眇め、緩く握った手を顎に添えた。考え込む素振りを見せたものの、山姥切国広のひと言の意味は分からなかったようで、すぐに膝上で両手を揃えた。
 一方で山姥切長義は前傾姿勢を維持したまま、腰を捻って振り返った。表情は忌々しげで、敗戦の悔しさから立ち直れていなかった。
「なにか用か、偽物君」
「俺は偽物なんかじゃない。国広随一の傑作だ」
 吐き捨てるように言われて、山姥切国広は淡々と切り返した。
 険悪そうに思えるけれど、このやり取りはいつものことだ。最早挨拶代わりとなっている節もあった。
 とは言っても、目の前で繰り広げられると、穏やかではいられない。
 堪らず緊張で頬を強張らせた小夜左文字は、ここに来た目的を伝えようと、慌てて半歩前に出た。
「あ、あの。兄様。山姥切国広さんが、えっと……その。あれ、……なんでしたか?」
 しかし声を上擦らせながらの訴えは、中途半端な所で途切れざるを得なかった。金髪の打刀と一緒に兄刀を探していたが、そもそもの目的である、一緒に食べようと誘われたものの正体を、短刀はまだ知らされていなかった。
 万屋の印が入った袋の中身は、依然秘されたまま。当の刀にその意図はなかったかもしれないが、なぜか今まで、一度も話題に出なかった。
 小声で戸惑いがちに聞かれて、山姥切国広は虚を衝かれて目を丸くした。ぱちぱち、と瞬きを数回繰り返して、やがてふっと鼻から息を吐いた。
 淡く微笑んで、軽いのか、重いのかも不明な袋を短刀へと差し出した。
「任せる」
「え?」
「退け。江雪、次は俺が相手だ」
「なんなんだ、いったい。急に来て」
 短く言いって押しつけられて、小夜左文字は咄嗟に袋を受け取った。両手を空にした打刀はすかさず銀髪の打刀の肩を突き、将棋盤の前から排除した。
 押し退けられた方は声高に叫び、奪われてなるものか、と山姥切国広に掴みかかる。
 取っ組み合い、とまではいかないものの、猫がじゃれ合うような喧嘩が始まった。状況についていけない短刀は袋を抱きしめ、おろおろするばかりで、助けを求めて長兄の太刀に顔を向けた直後だった。
 それまで静かに座していた男が、ゆらりと、長い髪を揺らめかせて立ち上がった。
「戦いは……」
 普段は物静かで、穏やかで、優しくて、清らかな刀は。
 当然、眼前で繰り広げられるやり取りをよしとしなかった。
「きらい、――――です」
「ぎゃっ」
「ぐあ!」
 左右の手を堅く握ったかと思えば、高く振り上げ、同時に振り下ろす。
 それは互いの頬を抓り合っていた打刀ふた振りの脳天、そのど真ん中に落ちた。
 風が吹けば飛んでいきそうなほどの細腕ながら、ゴンッ、と聞くだけで震えが来る音が響いた。石をも砕きそうな拳骨が言い争う両者を問答無用で黙らせて、傍で見ていた短刀までもが、咄嗟に自分の頭を庇った。
 声もなく悶絶するふた振りの痛みが伝わって来るようで、殴られたわけでもないのに、恐怖が拭えない。
 ぶるっと身震いして、小夜左文字はゆっくり着席した兄刀に、引き攣った笑みを零した。
「失礼。それで、お小夜。用件は、なんでしょう……?」
 対する江雪左文字は平然として、いつもの彼そのままだった。
 コホン、と咳払いをひとつしたものの、まるで直前の行動などなかったかのような態度だ。真向かいでは山姥切ふた振りが揃って頭を抱え、うんうん唸り続けているというのに。
 大人しそうに見えても、太刀は、太刀。
 刀というものの本質を垣間見て、小夜左文字は背中を流れた汗の冷たさに、表情を引き締めた。
「これ、あの。山姥切……国広さんが、一緒に、どうかって」
 兄刀の機嫌を損ねないよう言葉を選び、託された袋の口を開けた。がさがさ言わせながら中に手を入れて、ひとつ選んで取り出せば、現れたのは栗饅頭だった。
 先端が尖った球状で、下部には芥子の実が塗されていた。
 外見からして栗を真似た饅頭を掌に転がし、そうっと兄刀へと差し出す。
 江雪左文字は両手で受け取って、嬉しそうにはにかんだ。
「おや、これは……。ありがとうございます、国広」
 彼は愛おしげに饅頭を撫で、小夜左文字が次々取り出す饅頭に目を細めた。小さく頷きながら数を数えて、拳骨の痛みから復活しつつある打刀らに微笑んだ。
「いっつぅ……、あー……ああ……。その代わり、食べたら、俺と一番、勝負してもらうぞ」
 先に回復した山姥切国広が将棋盤の前を確保して、壁際に追いやられたもうひと振りの肘鉄を躱した。見ていてはらはらする展開に、短刀は隣をちらりと窺って、袋の底に残る饅頭をごろごろ転がした。
 合計で、六つもあった。国広の刀はこの本丸には、全部で三振り在るので、当初はひと振り二個の計算だったのだろう。
 それなりに大きいのに、あの小柄な脇差も、これをぺろりと食べてしまうのだろうか。
 にこやかな笑顔を振りまく堀川国広を思い浮かべていたら、彼の思考を遮るように、太刀が穏やかに言った。
「長義も、どうですか。数はあるようです」
 六個を四振りで分けるとまた喧嘩になりそうだが、江雪左文字はそこまで考えていないようだ。
 この場に在る全振りに行き渡れば良い、という前提での提案に、話を振られた打刀は素っ頓狂な声を上げた。
「はあ? 誰が、偽物君からの施しなど……いや、違う。違うぞ、江雪。そうではなくて、だな。折角だ、有り難くいただこう」
 だが調子に乗って喋るにつれて、江雪左文字の表情が険しくなっていく。
 切れ長の目を一層細く、さながら糸のように眇められて、山姥切長義は慌てて言い直した。
「別に、嫌なら食べなくて良いぞ」
「いやだなあ、偽物君。いつ、誰がそんなことを言ったんだい?」
 横で聞いていた山姥切国広がぼそっと言うのを肘で制して、自分達は仲良しだと主張するべく、その肩を無理矢理引き寄せる。
 嫌がる写しと肩を組み、貼り付いた笑顔を浮かべた。非常にぎこちなく、不格好で、なりふり構わない様子が、いっそ憐れなくらいだった。
 己の矜恃もかなぐり捨てるくらい、痛かったらしい。二発目の拳骨を是が非でも回避しようとしているのが、ありありと伝わって来た。
 山姥切国広の方も、積極的ではないけれど、拒絶はしなかった。若干ふて腐れながらではあったが、受け入れて、江雪左文字に手を差し出した。
「はい、どうぞ」
 その手に栗饅頭をふたつ置き、太刀が口元を綻ばせた。心底嬉しそうな様子に、小夜左文字はホッと息を吐いた。
 余った二個が入った袋は、山姥切国広の脇に置いた。早速一口齧った長兄とは対照的に、打刀は将棋の駒を並べて勝負の準備を進めている。長丁場になりそうな予感を覚えて、短刀は一旦座ったものの、すぐに立ち上がった。
「お茶、持って来ましょうか」
「それは、嬉しいです。頼めますか、お小夜」
「なら、俺も行こう。お前ひとりでは大変だろう」
 自分がここに居続けても良いのか迷い、挙手して、承諾を得た。場所を奪われた打刀がそれに乗っかり、右膝を起こした。
「助かります、長義」
 黙って他者の勝負を眺めるだけは、退屈だったようだ。手持ち無沙汰の解消狙いだったのに、江雪左文字に礼を言われて、手伝いを買って出た彼は一瞬ぽかんとした後、ふいっと顔を背けた。
 照れたのか、銀髪から覗く耳が赤かった。
「ありがとうございます、山姥切長義さん」
 小夜左文字も感謝を述べて、すかさず追い打ちを掛ける。
 連続して謝意を向けられるのには慣れていないのか、焦れた打刀は荒っぽく右腕を振り回した。
「いいから、行くぞ。戻った頃には、偽物君の泣きっ面が拝めるだろうしな」
 早く行くべく急かし、廊下で喚き散らす。
 いかにも捨て台詞臭いひと言に、山姥切国広は聞き捨てならなかったのか、ピクリと眉を吊り上げた。
「俺は江雪に、勝ったこと、あるぞ」
「――なにぃ!」
 小鼻を膨らませ、勝ち誇った表情で立っている打刀に言い返す。
 恐らく初耳だったであろう情報に、山姥切長義は目を丸くし、屋根を突き破る勢いで声を響かせた。
 直後、江雪左文字が堪えきれずに噴き出した。くく、と彼にしては珍しく声を漏らして、楽しそうに目尻を下げた。
「私の、七十五勝……一敗……でしたか?」
 可愛らしく小首を傾げ、ふんぞり返っている打刀に確認を求める。
「……止めろ。その目、気に入らない」
 直後、後方から向けられた眼差しを嫌い、山姥切国広は襤褸布を引っ張りながら俯いた。
 兄弟刀を相手する時とはひと味違う彼らの姿に、小夜左文字は嗚呼、と深く息を吸い、頬を緩めた。

2019/11/10 脱稿

うれしきを何につつまむ唐衣 たもとゆたかに裁てといはましを
古今和歌集 865