寒露

「っくしゅ!」
 そう広くない室内に響いたくしゃみに、雲雀は調子良く進めていたペン先をぴたりと止めた。中途半端なところまで書いた文字を、一瞬の間を挟んで完成させて、素早く瞳を上向かせた。
 くしゃみの主を視界の中心に据えて、無意識に利き手でボールペンをくるりと回転させる。
「寒い?」
 相手は前方のソファに腰掛け、頻りに鼻の下を擦っていた。
 周辺一帯をほんの少し赤くして、話しかけられたと気付いてハッと背筋を伸ばす。両膝を手に添えて仰々しく畏まり、綱吉はゆっくり雲雀を見た。
 表情が些か強張っているのは、仕事の邪魔をしたと分かっているからだ。
 怒られるのを警戒し、緊張している。くしゃみひとつで大袈裟に考えている彼には、呆れざるを得なかった。
 肩を竦め、雲雀は握っていたものを転がした。集中力が切れた途端、やる気も一気に失われた。
 特段急ぐものでもなし、と放置を決めて、綱吉に向き直る。
 もっともあちらは、ギシ、と椅子を軋ませた彼に益々頬を引き攣らせた。
「寒いの?」
「へ? あ、いいえ。いえ、そういうわけじゃ」
 そんなに怯えなくてもいいだろうに。若干傷つきながらも、そういう顔をされると苛めたくなるから困る。
 およそ相容れない感情をひとつの所にまとめ置いて、雲雀は慌てて首を振った少年に目を眇めた。
「ふうん?」
 上半身を机上に寄せて、頬杖をついた。鼻から息を吐いて軽く首を傾げ、僅かながら口角を歪めた。
 意地悪い笑みを浮かべた雲雀に、綱吉はピンと背筋を伸ばし、目を逸らした。なにを考えているのか、ソファの上で落ち着き無く身を捩らせた。
 背の低いテーブルには、彼の宿題が、ほぼ手付かずで置かれていた。ノートに教科書を鞄から出し、広げはしたが、文房具は筆箱の中だった。
 そちらを当て所なく眺めて、突如ぶるっと震えて細く華奢な肩を抱く。
 寒気を覚えたのが雲雀を恐れてか、別の理由かは、当の本人にしか分からないことだった。
 ただこのところ気温が急激に下がり、冬の気配が目に見えて迫っているのは確かだ。早晩の冷え込みは厳しく、ブレザーを羽織って登校する生徒は着実に増えていた。
 けれどそこに座る少年は、薄手の長袖シャツに袖なしのベスト姿。
 何度も上腕を擦って、摩擦熱を誘っている。
 応接室は日当たりの良い場所にあるけれど、直射日光が眩し過ぎるので、窓にはカーテンが引かれていた。それになにより、ぽかぽか陽気の恩恵を受けるのは、その窓を背にしている雲雀だけだった。
 テーブルセットは部屋の中央、やや奥寄りにあるので、そこに陣取る綱吉には陽射しが降り注がない。
「暖房、つけようか」
 少し早い気がしたが、必要ならば使うべきだ。
 掃除は数ヶ月前になるが、済ませてある。なにも問題無い、と天井に設置された空調を見上げながら呟いた雲雀に、綱吉は座ったままソファの上でぴょん、と跳ねた。
「ひえ? いえ、あの。ほんと、気にしないでください。大丈夫です」
 先ほどの比ではないくらいにぶんぶん首を振って、大袈裟に辞退を申し出た。遠慮して、背中を丸めて小さくなって、上目遣いに雲雀を見詰め返した。
 そういう仕草は逆効果だと、早く誰か、指摘してやるべきだ。
 但し自分では絶対に言わないと天に誓って、雲雀はいじらしい少年に深々と溜め息をついた。
「そう。じゃあ」
 机の角に手を置いて、力を加え、キャスター付きの椅子を後ろに押し出す。
 空間を広げ、出来上がった隙間にすくっと立ち上がった彼を目で追って、綱吉は元から大きい目を真ん丸に見開いた。
「ヒバリさん」
「君が断ったんだから、しょうがないね」
 きょとんとしたまま名前を呼ばれて、自然と言葉が零れた。
 責任の所在を放り投げられた少年は不思議そうに首を傾げた後、幅広の机を回り込んだ風紀委員長にヒクリと頬を引き攣らせた。
 急いで場所を空けるべく、ソファの真ん中から端へと退いた。ドタバタと必要以上に物音を響かせて、身体を斜めにして左に避けた。
 そんな彼が直前まで座っていた場所に、雲雀は堂々と、さも当然のように腰を下ろした。
 浅い凹みに尻を据えて、表面に張られた革に残る他者の体温を回収した。両足は肩幅より少し広めに開いて、ほぼ直角になっている膝をトントン、と交互に調子良く叩いた。
「はい。おいで?」
 そうしてすぐ隣で唖然としている綱吉を、明朗な言葉で誘った。
 言われた方は唖然としたまま瞬きを繰り返し、赤くなったり、青くなったり、忙しかった。
 滑稽な百面相を披露されて、雲雀は肩を揺らした。
 但し待ってやったのは、ほんの一分にも満たない間だけ。その後は膝を叩くのを止め、掌を上にして固定させた。
「小動物?」
 なにをしているのかと、低めの声で囁きかける。
 雲雀だけが使う呼び方に息を呑み、綱吉は彷徨う視線を胸元に落とした。
 ベストの裾を掻き集め、もぞもぞさせた。長い躊躇を経て、覚悟を決めて天を仰いだ。
「お、お邪魔……します」
 恐る恐る言って、両手も使って四つん這いで雲雀に近付く。
 直前で姿勢を起こし、どう座ろうか一寸だけ迷って、程よく広げられた腿の間に身を沈めた。
 背凭れの役目を果たすべき男にはあまり体重を掛けず、どちらかといえば前方に身体を傾がせ気味にして。
 行儀良く膝を揃え、その間に緩く握った拳を埋めた彼を、雲雀は素早く、後ろから抱きしめた。
 折角の綱吉の配慮と努力を嘲笑い、薄い背中に貼り付いた。両側から腕を回して、肉付きの悪い腰を拘束した。
「っ!」
 密着されて、オレンジ色の髪の毛が派手に踊った。目の前にあるうなじがみるみる汗ばんで行くのを確かめて、雲雀は知れず口元を綻ばせた。
「どう?」
 こうすれば、暖かかろう。
 耳元で問いかければ、綱吉は堅牢に結ばれた大きな手に、自身の小さな手を重ねた。
 振り解こうとしているのかと想像し、雲雀は警戒したが、そうはならなかった。
 単純に寄り添わせるだけに済ませて、年齢の割に小柄な少年は俯いた。背後にいる男から、赤く染まる耳以外を隠して、指先にほんの少しだけ力を込めた。
「え、……と。熱い、……です……」
 それからどれくらいの時間が過ぎただろう。
 蚊の鳴くような声で呟かれて、雲雀は目を点にした直後、そのふかふかの髪に顔を埋めた。

2019/11/04 脱稿