川霧は 行くべき方を 隔つれど

「トリックオア、トリート!」
 突然勇ましい雄叫びと共にドアが開かれ、中にいたアスクレピオスは思わずビクッと肩を跳ね上げた。
 完全に油断していたのもあり、殊の外驚かされた。手にしていたものを咄嗟に握り潰しそうになって、寸前で思い留まれたのは幸いだった。
 ガラス製の試験管だから、粉々にしていたら危なかった。
 勿論アスクレピオスはサーヴァントなので、この程度で傷を負ったりしない。問題なのは、今し方入って来た存在の方だ。
 声だけで、誰がやって来たのかは分かっている。内心の動揺を溜め息ひとつで落ち着かせて、彼はゆっくり振り返った。
 そして視界に飛び込んできた光景に、剣呑に染まっていた目を丸く見開かせた。
「……なにを、やっている。マスター」
 メディカルルームの入り口に佇んでいるのは、間違いなく人類最後のマスターこと、藤丸立香だ。
 しかしその出で立ちは、およそアスクレピオスが知るものとはかけ離れていた。
 なにをどうすれば、ベッドから剥ぎ取ったと思しきシーツを頭から被り、全身白尽くめにしてやって来られるのだろう。
 覗き見用の穴すらなく、本当に頭からすっぽり、布に覆われていた。
 見た目だけなら簡易ゴーストであるけれど、まったくもって恐ろしさの欠片も見当たらない。丈がまるで足りておらず、隠れているのは上半身のみで、両足は丸出しだった。
 目的も意図も計りかねて、動揺が拭えない。
 唖然としながらの問いかけに、立香はしばし無言だった。上半身をくねらせてリズムを取り、何を考えたのか、前方に突き出した両手を一斉に高く掲げた。
「トリック、オア、トリート!」
 入室時と全く同じ文言を口にして、シーツの裾を激しく波打たせた。
 足だけでなく、腹まで見えた。下はいつもの格好なのに安堵して、アスクレピオスは軽く痛むこめかみに指を添えた。
 右手に持ったままだった試験管を円を描くように振った後、架台に戻し、静かに目を閉じて肩を落とした。気を取り直すべく緩く頭を振り、長い銀糸のもみあげを背中側へ流して、呪文のようなひと言を述べた後は沈黙を保つ青年を、しばらくじっと観察した。
 見えていなくても、雰囲気は伝わっているだろう。
 あまり喜ばしい状況ではないと察して、立香はもぞもぞ身動ぎ、シーツを捲り上げた。
「あのさあ」
「……ハロウィン、とかいう祭、だったか?」
 ようやく顔を出して、下唇を尖らせて文句を言おうとする。
 それを遮ったアスクレピオスに、彼は驚いたのか、目を点にして固まった。
「あれ?」
「そういうことか。分かった。今、思い出した」
 この珍妙極まりないマスターの格好と、謎が過ぎる文言と。
 遙か彼方に置き忘れていた記憶を手繰り寄せて、アスクレピオスは嗚呼、と吐息を零した。
 今朝、偶々遭遇したとあるサーヴァントたちとの会話が、鮮明に蘇った。
「知ってたの?」
「食堂によくいるだろう、あの赤い……アーチャーだったか。今日は騒がしくなるから、菓子のひとつやふたつ、用意しておけ、とな」
 きょとんとしながら首を捻った立香に頷き、ポケットをまさぐる。
 出て来たのはそのアーチャーから譲り受けた、親指大のキャンディだった。
 愛らしい色柄の包み紙に覆われて、両端は強めに捻られ、リボンの形になっていた。中身は透けていないので見えず、どれが何の味かは、食べてみないと分からなかった。
 そのうちのひとつを掌に転がし、残りをポケットに戻した医神に、マスターたる青年は明らかに不満げな顔をした。
「なんだよ、それ。アスクレピオスは初体験だから、絶対知らないと思ったのに」
 余計な事をしてくれたと、己のサーヴァントに対して悪態をつく。ぶすっと頬を膨らませて、余程悔しいのか、地団駄を踏んだ。
 不満を露わにするのは構わないが、埃を立てるのだけは止めて欲しい。
 目にも見えない細かな塵を嫌い、長い袖ごと左手を振って、アスクレピオスは右手に摘まんだキャンディを立香の方へと差し出した。
「僕には馴染みのない習慣だが。確か、ケルトの祭、だったか?」
 もっとも手渡すつもりがあるのか、ないのか、実験器具を並べたテーブル前、という微妙に遠い場所に陣取って、動かない。
 言葉だけが飛んでくる状況に、マスターである青年は苛立たしげに頷いた。
「そうだったと思うけど」
 ハロウィンは毎年お祭り騒ぎで、それに便乗したトラブルも多発していた。
 おおよその歴史や、意味や、目的は知っている。けれどそういった本来の祭事が消し飛ぶほどの、凄まじい大騒ぎの前に、全てが霞んで、消し飛んでしまっていた。
 だから今更真面目に聞かれても答えられないし、真顔でキャンディを渡されても困る。
「いらないのか?」
「なんか、面白くない」
 もっと違う反応を期待していた。驚くなり、笑うなりしてくれると予想していた。
 だからこんな風にきちんと事前に用意され、応対されるのは、立香にとって不本意極まりなかった。
 とはいっても、彼だって真剣に仮装の準備をしていたわけではない。
 可愛らしい衣装に身を包んだ見目幼いサーヴァントたちのような、凝ったものは何ひとつ持ち合わせていなかった。
 せいぜいその日眠っていたベッドから剥いだシーツを抱えて、ドアを開ける直前に、目深に被るのが限界だった。
 他の誰にも、こんな恥ずかしいところは見せられない。
 今日の祭について何も知らない――と思い込んでいた相手を前にしてでなければ、ここまでチープな仮装で挑めるわけがなかった。
 浮かれていたのが急激に冷めて、時間差で羞恥心がカーッと湧き上がって来た。思いつきで行動するのは良くないと悟って、立香は引き寄せたシーツで顔を半分隠した。
「帰る」
 来るのではなかった。
 多くのサーヴァントたちが楽しそうにしているのに引きずられて、調子に乗ってしまった。
 そういうのが通用する相手ではなかった。
 知っていたのに、忘れていた。
 そもそもギリシャ神話はハロウィンと無縁、という事実を嫌という程思い知らされて、すごすご退散を決め込もうとした矢先だ。
「なんだ、要らないのか」
 折角用意したのに、とばかりに、アスクレピオスがつまらなさそうに呟いた。
 高い位置に掲げたキャンディを目立つように踊らせて、顎をしゃくり、立香の視線をそちらに誘導する。
 言われて思い出した青年は嗚呼、と小さく頷いて、どうしようか迷い、その場で足踏みをした。
 なにか言いかけて口を開いて、しかし無言のまま閉ざした。瞳を中央に寄せて顰め面を作り、口をきゅっと引き結んで、ドアの方へ足を向けようとした。
 しかし直前になって、なんら収穫を得ないまま引き下がるのは、己の沽券に関わるとでも思ったようだ。
「ちぇ」
 何に対してなのか分からない舌打ちをひとつして、彼は歩きながら利き腕を伸ばした。
 マントのように羽織ったシーツで床を擦り、掌を上にして、四本の指を横に並べて平らにした。親指だけは少し離れた場所に待機させ、アスクレピオスの僅かに手前で、揃えた指先を軽く曲げた。
 早く寄越せ、とばかりに上下に揺すって、眼差しでも急かす。
 その生意気な双眸に不遜な笑みで応じて、アスクレピオスは長くちらつかせていたキャンディを、すいっと掌中に引っ込めた。
 小さなものを長く垂れた袖の間に隠して、視界から掻き消した。
「アスクレピオス?」
 この期に及んで意地悪をされる理由が分からず、立香が首を捻る。
 ぽかんとしている青年に目を眇めて、彼は握り締めたキャンディをぽーん、と高く弾き飛ばした。
 直後に落ちて来たものを掴んで、試験管が多数並ぶ机に身を寄せた。浅く腰を預けて、興味深そうに飴玉の包み紙に視線を落とした。
 訝しげに見守る立香に口角を歪め、その包装紙の角を唇に添わせた。
 軽く噛んで、反対側を抓んで引っ張る。
「それで。マスター?」
 包み紙の捻れをほんの少しだけ緩めて、口角を歪めた。
 妖しげな笑みを浮かべ、なにかを企んでいると分かる眼差しを向けられて、立香はドキリと四肢を硬直させた。
「僕がハロウィンを知らなかった、として。お前は僕に、どんな悪戯を仕掛けるつもりだったんだ?」
 そのつもりだったのだろう、と眇められた眼が囁きかける。
「え? え、え。あっ」
 はっと我に返って、答えに窮した立香は視線を彷徨わせた。
 肩から垂れ下がるシーツを掻き集めて無数の皺を作り、両手を内側に隠して左右の膝をぶつけ合わせた。俯いて言葉を探し、もじもじ動く姿は、人見知りの小さな子供のようだった。
 この切り返しは、想定していなかったらしい。なにもない場所に目をやっては、落ち着きなく身体を揺らす。そのいじらしい態度に、アスクレピオスはふっ、と鼻から息を吐いた。
「マスター?」
 答えを急かして意地悪く呼びかけ、腰掛けていた机から降りた。
 包装が解け切らないキャンディを見せつけながら進めば、嫌な予感を覚えたのだろう、立香はゆっくり後退した。
「べ、別に。悪戯とか、そういうのは。じゃなくて。えっと、なんだろ。なんていうか、な。そう。アスクレピオスって、ほら、こっちに来たばっかりだし。知らなかったらびっくりするでしょ。やっぱ。だからその前に、さ。先に教えといてあげないと、なー……、なんちゃって?」
 壁際に追い詰められて、苦し紛れに言い返すが、説得力は無いに等しい。
 それは本人が一番よく分かっているようで、言い終えた後の表情は口惜しげだった。
「そうか、なるほど。ご高配、感謝する。マスター」
 現実には、アスクレピオスは必要な知識はすでに得ていた。
 全くもって、台所に陣取っているあの英霊は、良い仕事をする。でなければ、食事中にも拘わらず群がって来たオバケの仮装の集団に、いいように玩ばれていただろう。
 渡されたキャンディを、念の為と何個か残しておいたのも、正解だった。
 更にこのような愉快な現場に遭遇出来たわけだから、まさにハロウィン様々だ。
 抑えきれない笑いを目元に滲ませたアスクレピオスに、立香はぶすっと小鼻を膨らませた。口を尖らせて露骨に拗ねて、ダンダンと激しく床を蹴った。
「なんだよ、その顔は。さては信じてないな」
「まさか。マスターのことは、心の底から敬愛しているとも。さて、ではもうひとつ質問だ」
 到底信じられない、という視線を躱して、医神は開いていた距離を一気に詰めた。顎を引き、怯えた子犬状態のマスターのすぐ前まで進み出て、カツン、とわざとらしく大きな足音を響かせた。
 中身が落ちそうで落ちないキャンディを、唇近くに待機させて。
「trick or treat?」
 流れるような滑らかな発音で、首を竦めて身構える青年に問いかける。
「ほ?」
 それがあまりに流暢すぎたものだから、立香はぽかんと口を開いた。呆気に取られた様子で小首を傾げ、しげしげとアスクレピオスを見詰め返した。
 そして。
「ふあ!」
 数秒間停止して、やおら真っ赤になった。ようやく理解したのか、慌てふためき、右往左往して、現状打破を模索して辺りを見回した。
 しかし医神の研究室と化している室内には、他に誰もいない。背後はすぐ壁で、逃げようにも前は塞がれていた。
 いつの間にか追い詰められていた自分自身に、青くなった。今更慌てふためいている彼を嘲笑って、アスクレピオスはキャンディの包み紙を高く掲げた。
 こめかみよりも僅かに上の辺りで持ち、緩く結ばれた両端を片手で器用に挟み持った。親指と人差し指、反対側は残る三本の指と掌で押さえつけて、捻れを一気に解放した。
 螺旋状に形作られていたものがくるっと回転し、本来の姿を取り戻す。もれなく薄紙に包まれていたものが隙間から零れ落ち、長い舌が素早く絡め取った。
「あ」
「迂闊が過ぎるぞ、マスター」
 直前に囁いて、アスクレピオスが飴玉をコロリと転がした。掬い取った球体を舌で包み、乾いた表面にたっぷりの唾液を塗して、全体に満遍なく熱を与えた。
 体温を吸い、蜜がゆっくり溶け始める。
 口の中いっぱいに広がる甘みと、鼻腔まで流れて来た苺の匂いに苦笑して、彼は緊張でガチガチになっている立香にずいと迫った。
 鼻先を寄せて、衝突する寸前で僅かに角度を付けた。あちらも、これからなにをされるのか、大方の予想は出来ているらしかった。
 逃げられないと悟って覚悟を決めたのは潔いが、他のサーヴァント相手にもこうなのだとしたら、些か腹立たしくもある。
 寸前でサッと瞼を閉ざされたのを、食い入るように見詰めていたら、何も起きないのを怪しんだ立香が、恐る恐る片眼だけを開いた。
「アスクレピオス?」
「菓子がないなら、悪戯されても文句は言えないな。マスター?」
「う、うるさいな。もう。分か……んっ」
 それを意地の悪いひと言で誤魔化して、腹を立てた彼を黙らせた。空になった包み紙を手放し、代わりに掴むものを求め、華奢な顎を指でなぞった。
 俯かれたら、計算が狂う。そうならないよう物理的に封じ込めて、首を伸ばし、少し乾燥気味の唇を強引に奪った。
 かぶりつき、押さえつけた。輪郭を確かめ、その中心に吸い付いた。
 上から覆い被さるように擦りつけて、蜜に濡れた舌先で堅牢な門を擽った。鼻の頭を舐めて、犬歯で軽く噛んだ。
「ひゃっ」
 思わぬ刺激に、可愛い悲鳴があがった。反射的に首を竦めて逃げようとした立香の顎を、アスクレピオスは三本の指で捕らえた。
 きつく閉ざされた歯列を開くよう促し、一旦離れたものを再び重ね合わせるべく、迫る。
「あ、アスク……」
「黙れ」
 間際に名前を呼ばれたが、制した。彼が息継ぎも兼ねて口を開いたのは好機であり、逃す手はなかった。
 短く、鋭く言い放って、舌の真ん中に飴玉を転がした。浅い窪みに据えて、唾液に溶け出した甘い、甘い蜜を周囲に集めた。
 叱責されたと受け取った立香が、四肢に力を込めた。守りに入ろうとしているのを察したアスクレピオスの動きは、それより少しだけ早かった。
「立香」
 その声は、本当に発せられたものだったのか。
 それとも心の中で囁いたものだったのか。
 ただ立香は、微かに反応した。脇に逸れていた瞳が正面に向けられ、澄み渡る空の色の中に鮮やかな新緑が広がった。
「あ……」
 彼の口から零れた吐息を掠め取り、呑み込んだ。
「ンふっ」
 重ね合った唇の隙間から一部が漏れたが、無視して、アスクレピオスは長い舌を存分に伸ばした。
 先ほどは閉ざされていた歯列は、今や閂も外され、全開だった。
 程よい広さを保つ隙間に、溶けて幾分小さくなった飴玉を転がして、押し込む。溶け出た蜜もまとめて流し込んで、ついでとばかりに舌先を擽った。
「んう、っんん」
 途端に口の中が満杯になって、立香は息苦しさに頭を振った。注ぎ込まれた甘い唾液ごと、思いの外大きく感じられる飴玉を押し返そうとしたものの、思うようにいかず、塊はするりと脇へ逸れた。
 無論形を持たない液体をどうこうするのも難しい。諦めて飲み下そうとしたが、アスクレピオスに唇を奪われた状態では、口を閉ざすことさえ叶わなかった。
 呼吸は鼻に頼るしかなく、下手をすれば一緒くたに気道に入ってしまう。そうならないようタイミングを計っていたら、唾液はどんどん量を増していった。
 柔らかな肉を食み、感触を楽しんでいる男もそれが分かっているだろうに、立香を解放する気配は皆無だった。
 ふたり分の体温を受けた液体が、咥内を満たした。一部は口の端から伝い落ち、顎を掴む男の指を濡らした。
 無造作に中を掻き混ぜられて、頭の中で水音が跳ねた。
 くちゅくちゅと、飴玉を挟んで舌が絡み合う度に、粘ついた音が狭い場所でこだまする。
「んふっ、んむ。ぅ……」
 次第に息が荒くなって、比例して体温が上昇を開始した。酸素不足から頭がぼうっとする。肩に羽織る形になっていたシーツが、支えを失い、するする落ちていった。
 行き場を無くした手で胸を掻き毟れば、見咎めた男の手が袖越しに握り締めて来た。立香もその布をがむしゃらに手繰り寄せて、五本ある指の全てを探り当てた。
 合計十本の指を全部使って抱きしめて、どうにか無事に飲み込めた蜜の味に荒い息を吐いた。
「は、あ……んは、んっ」
「立香」
「分かって、る……ん、待って」
 足りない酸素を必死に掻き集めて、軽く噎せた。アスクレピオスは吐息と共に囁いて、立香の下唇に伝う小さな水滴を掬い上げた。
 一度、二度としゃっくりするように横隔膜を震わせた彼を案じてか、顎から離れた指が、迷いのない動きで立香の背後に回された
 脊椎から腰骨の上をなぞり、数回に分けて叩かれた。気遣いのようであり、遠くへ逃げていかないようにとの、新たな束縛のようでもあった。
 狙っての行動ではなかろうが、この男は無意識にこういう仕草を取りがちだ。気付かない訳がないのに、と苦笑して、立香は自分から唇を薄く開き、アスクレピオスを誘い込んだ。
 喉の奥で飴玉を転がして、臼歯の角で軽く噛んだ。
 与えられた直後よりは小さくなっているものの、ひと息に飲み下すにはまだ大きい。噛み砕くのも容易ではなく、圧を加えればするっと逃げていった。
 ならばと外に飛び出さないよう、前歯の裏で堰き止めた。舌で弾き、繰り返しぶつけることで、わざとコロコロ音を響かせた。
 自分にしか聞こえないメロディを楽しんで、窄めた唇からふっと甘い息を吐く。
 キスの再開を求め、近付いたところに微熱を浴びせられた男は眉を顰め、小さく肩を竦めた。
「どこで覚えて来たんだ」
「さあ?」
 小首を傾げて惚けて返し、飴玉を弾ませた。口蓋と舌の間に閉じ込め、唇を閉ざせば、間に合わないと分かっているだろうに、男が上から覆い被さって来た。
 先ほどの仕返しか、寸前にふっ、と息を吹きかけられた。
 鼻先を掠めた微風に首を竦めて、立香はせっつかれる前に自分から口を開いた。
「ふは、……あがっ」
 そして密かに、押しつけられた飴玉の返却を試みたのだが、巧く行かない。
 敢えなく前歯に跳ね返されて、再び生温かな舌先によって奥へと捩じ込まれた。
 ガチっと来た衝撃に気を取られて、易々と侵入を許した。慌てて門戸を閉じて追い出そうとするが時既に遅く、甘く染められた咥内をぐるりと一周された。
 舌の付け根を弄られて、吐き気にも似た衝動に駆られたかと思えば、慰めなのか背中を優しく撫でられた。
「む、う……んむ、ふぐ」
「ふふ、は……ぁ、んっ」
 揃って鼻から息を吸って、吐いた。隙間なく張り合わせた唇を捏ねて、時折離れて、また深く、深く重ね合わせた。
 歯列をなぞり、口蓋を舐めた。邪魔な飴玉を押しつけ合い、一緒になって転がした。
 ゆっくりと時間を掛けて、互いの熱をひとつにした。間に挟まれた球体を愛撫して、じわじわ小さくしていった。
 唇を窄めて吸い付いて、奪ったり、奪われたり。
「はふ、あ……ンく」
 たった今飲み下した唾液がどちらのものかなど、立香に分かるわけがなかった。
 ただ甘く、甘く、蕩けるように甘い。
 次第に昂ぶる感情が更なる熱を引き寄せて、密着させた胸元から響く鼓動はどくん、どくんと嵐のようだった。
 ぴちゃぴちゃと粘りを伴う水音が爆ぜて、呑み込みきれなかったものが唇を越えて溢れていく。
 その大半を舐め取って、アスクレピオスは全て飲み下せとばかりに、改めて立香へと注ぎ込んだ。
「んもっ、は……ぅあ、ちょ、うぅン」
 一層強く、背を掻き抱かれた。立香が握り締めている方の手も、これ幸いとばかりに胸を圧迫した。
 そうやって狭い場所に閉じ込められた状態で、斜め上からのし掛かられた。
 潰れそうだ。もとより蠱惑的な愛撫の連続に、立香の膝は限界だった。
 ガクガク震えて、いつ折れても可笑しくない。
 それを防いでいるのが、アスクレピオスの拘束というのだから、なんとも皮肉な話だった。
 小さくなった飴玉を追いかけて、蛇の舌が立香の咥内を我が物顔で蹂躙する。
 そのうちガクン、と本当に崩れ落ちる恐怖を覚えて、立香は長らく握り締めていたものを手放した。
 もっと大きなものに縋ろうと、思いの外逞しい肩にしがみつく。
「あ、すく……ふぁっ、んん」
「ああ、立香。……りつか、っは、……ふ」
 抱きつかれた男は満足げに瞳を細め、たっぷりの唾液で甘い飴玉を包み込んだ。
 そのまま立香の舌へと擦りつけ、柔らかな肉をくにゅくにゅと揉みしだいた。飴玉が完全に溶けきるまで粘るつもりなのか、最後の辺りは唇を重ね合わせるでもなく、ただ舌を伸ばして立香を擽り続けた。
 けれどさすがに、疲れたのだろう。
「……は……ぁ」
 悔しそうな声と共に、彼は静かに離れていった。
「けふっ」
 ようやく解放されて、立香もたまらず咳き込んだ。咄嗟に口の中に残るものを吐きかけて、慌てて手で蓋をして、喉を大きく上下させた。
 無理矢理呑み込んで、視界の端でキラリと光ったものを目で追いかける。
 細く、長く伸びた透明な糸をアスクレピオスが舌で絡め取るのを見て、立香は反射的に赤くなった。
 蜘蛛の糸かと思われたその正体を悟り、今更ながら自分達が直前までしていた行為に羞恥を覚えた。
「うわっ」
 途端に力が抜けて、視界がガクン、と下がった。
「大丈夫か」
 咄嗟にアスクレピオスが利き腕に力を込めて庇ってくれて、尻餅をつくのだけは回避された。それでも身体に力が入らないのには違いなくて、しがみついた先が全ての元凶という状況が腹立たしかった。
 しかも当の医神に、その自覚がまるでない。
 意外と本気で心配されて、立香は一瞬目を丸くした後、ぶすっと頬を膨らませた。
 辛うじて残っていた小さな、小指の先程もない飴玉を奥歯で噛み砕いて、磨り潰す。
「マスター?」
「――てか、普通に食べさせてくれればいいのに」
 飴玉が何味だったかなど、もう思い出せない。兎に角甘くて、甘ったるくて、歯が溶けてしまいそうなくらい甘かったとしか、覚えていなかった。
 折角菓子を貰ったのに、少しも貰った気が起きない。
 手酷い悪戯を受けた記憶だけが残されたと煙を噴けば、アスクレピオスは惚けた顔で首を傾げた。
「なぜ怒る。この祭では、恋人にはこうやって菓子を与えるのではなかったのか」
 あらゆる医学の知識に精通し、医術を収めた医神が、心底不思議そうに眉を顰める。
「はあ? あ……いや、え? 待って。その話、誰に聞いたの。誰。誰に。ねえ!」
 その唇から放たれた台詞に愕然として、立香は反射的に怒鳴った。
 両手を振り回し、勢い良く捲し立てた彼に瞬きを繰り返し、アスクレピオスが反対側に首を倒した。瞳を左に滑らせて、今朝の記憶を招き寄せた。
「確か、ケルトの女王の……メイヴ、とかいったか?」
「あぁれかぁああああ!」
 偶然食堂で遭遇したと教えられて、立香は今度こそ膝を落とした。ガンッ、とそれなりに良い音を響かせた上で頭を抱え込み、苦悶の声を漏らした。
「本当に大丈夫か、マスター」
 案ずる声が繰り返されるが、殆ど耳に入らない。彼は長い髪をたなびかせ、扇情的なポーズを取る女性の姿を、必死になって頭から追い出した。
「あのね、アスクレピオス。違うから。いや、違うとも言い切れないけど、そういうのは、えっと、つまり……とにかく、メイヴの言うことだけは、そんなに簡単に信じちゃダメだから。ね!」
 恐る恐る手を伸ばして来た彼に叫んで、その指を袖ごと引っ掴んだ。両側から握り締めて、必死の形相で訴えて、訳が分からない様子の医神に縋り付いた。
 こう言われると、実践した方は、良くない事をしたのではないか、と不安になる。
「……嫌だったか」
 一瞬間を置いて、低く掠れた声で問いかけた彼に、息を乱した青年はハッとなった。
 自嘲気味な笑みと共に肩を竦められて、反応が過剰過ぎたと気がついた。あのトラブルメイカーなライダーに、そうと知らずに振り回されていた。
 厄介事ばかり引き起こすその迷惑さに意識が向いて、目の前の男を蔑ろにするところだった。
「ごめん。そういうんじゃ、なくて」
「なら、どういうことだ?」
「だから、えっと……その」
 但し真顔で問い詰められると、巧く答えられない。
 座り込んだまま顔を寄せられて、立香はサッと目を逸らした。胸の前で人差し指をちょんちょん、と突き合わせて、言葉を探し、膝はシーツの海を掻き回した。
 アスクレピオスも立香に合わせて身を屈め、片膝を突いた。答えをくれるまで動かない、と強固な意志を滲ませて、真剣な表情でマスターを窺った。
 こうも熱い眼差しを向けられたら、本当に、正面から見返せない。
 閉じた口の中で舌を動かせば、まだまだ残る飴の甘さが泡のように弾け散る。
 唾液を飲み込む度に薄まっていくはずなのに、いつまでも残って、当分消えてくれそうになかった。
「ええと」
「マスター」
 急かされて、勝手に目尻が潤んだ。鼻の奥がつんと来たのを誤魔化し、大きく息を吸い込んで、彼は懸命に声を絞り出した。
「ら、来年、……も。よろしく、お願いします……」
 メイヴの高笑いが、本当に聞こえるようだった。

2019/11/03 脱稿

川霧は行くべき方を隔つれど 心に通ふ道はたどらず
風葉和歌集 1124