声かすかなる 秋の夕暮れ

 その日の彼は、朝からずっと多忙を極めていた。
 調理当番を引き当ててしまい、起床は日の出前。朝の挨拶もそこそこに急いで食べ終えると、即座に片付けに入り、終えると今度は私室へ戻って出陣の準備。
 仲間たちと一緒に京都へ出向き、活動を活発化させつつある歴史修正主義者を牽制しつつ、これを討伐。本丸へ帰還後は即座に手入れ部屋に入り、傷を癒した。
 一刻足らずで手入れ部屋を後にして、戦装束を脱ぎ、次は昼餉の支度に取りかかる。
 先に台所に入っていた仲間たちは、休む間もなく現れた彼に驚き、手伝いは不要と訴えた。しかし任された以上はやり遂げると言って聞かず、一歩も譲らなかった。
 結局、薬味である葱を刻む役目を任せられ、これに勤しんだ。饂飩に入れるには些か量が多い葱の理由はここにあったのだが、果たして本丸で暮らす刀剣男士のうち、何振りがこの事実に気付いたかは、確かめていないので分からない。
 そうやって朝からずっと働きづめだった彼にも、ようやく休息の時間が訪れる。
「お小夜、入るよ」
「どうぞ」
 襖越しに呼び掛けて、歌仙兼定は返事と同時に襖を開いた。
 丸型の引手に指を掛け、左へと滑らせた。右手には半月型の盆を持って、傾けぬよう神経を注いでいた。
 温かな薄茶に、色鮮やかに彩られた羊羹。
 気に入ってくれるよう心の中で祈って、打刀は短刀の部屋に足を踏み入れた。
 相変わらず物が少なく、整理整頓の必要すらない空間だった。
 箪笥代わりの行李が大小ふたつ並んで、畳んだ布団と、戦装束がその上に。刀は床の間の刀掛けに収納されて、畳の上に塵芥の類は見当たらなかった。
 壁際に折り畳み式の文机が置かれ、座布団の類はひとつもない。縁側に面した障子は解放されていたが、北側に面している為もあり、部屋全体が明るい、とは決して言えなかった。
 小さいながらも立派な中庭が、前方に広がっていた。向かい側には打刀たちが日々を過ごす部屋が並んでいるが、背の低い木々が衝立代わりになって、視界を遮っていた。
 不快にならない配置は、江雪左文字の苦心のたまものだ。
 庭づくりを趣味としている太刀の顔を思い浮かべて、歌仙兼定は後ろ手に襖を閉めた。
「どうかしたんですか?」
「少し早いが、甘味を一緒に、どうかと思ってね」
 狭くもなく、かといって広くもない部屋の主たる少年は、少しでも明るい場所を求め、縁側近くに座していた。
 膝を三角に折り畳み、薄い書物を広げていた。だが振り返り、入って来たのが誰かを知るや否や、見せたくないのか、表紙を閉じてしまった。
 素早い反応に興味を惹かれつつ、気付かなかった振りをして、打刀は運んできたものを両手で持ち直した。一度は顔の高さまで掲げて、それからゆっくり下ろし、座っている短刀に見せた。
 ふたつ並べた湯飲みを揺らさないよう配慮しつつ、自信作の菓子を示す。
 小夜左文字は首を伸ばして覗きこみ、三秒後に我に返ってばつが悪い顔をした。
「気にしなくても良いのに」
 甘味と聞いて、うっかり反応したのを恥じていた。愛想の悪い鉄面皮がほんのり朱に染まっているのを眺め、打刀は数歩の距離を一気に詰めた。
 質素な部屋を縦断して、開けた場所に陣取る少年の傍で膝を突いた。菓子盆を置いて軽く押し、小夜左文字へと差し出す。
「呼ばないと、君は来ないだろう?」
「だからって、わざわざ訪ねてこなくても」
「迷惑だったかな?」
「そういう聞き方は、狡いです」
「おや。そうかい?」
 四角形の平皿に並ぶのは、濃紫色をした羊羹の上に様々な色、形の羊羹細工を散らして寒天で固めた、元は一本の棹のように長い菓子だった。
 今は食べやすいよう小さく切り分けられているけれど、元がどんな姿だったか想像出来るような並びになっていた。
「もみじ」
 赤や黄色に染め、型抜きされた紅葉や銀杏の葉が重なったり、広がったり。澄み渡る川面に散る木の葉を想定しているのか、川底の石らしき粒も散見された。
 見た目からして美しい菓子に、短刀の目は釘づけだった。
 こんなに手の込んだものを、台所に押しかける刀たちに配るのでなく、わざわざ部屋まで運んできた理由。
 予想が付いたのか、藍色の髪の少年はちょっとはにかんだ表情を浮かべた。淡色の空気を醸し出す彼に相好を崩して、歌仙兼定は包み紙から引き抜いた黒文字を皿に添えた。
「どうぞ。この時期に合うものをと、考えてみたんだけれど」
 そう言って皿の縁を押さえ、味見役を依頼する。
 短いひと言で確たる自信を持ったらしく、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。
 色艶やかな甘味は、まだまだ色づき出したばかりの外の景色を、一足先に再現していた。本丸に大勢いる食いしん坊な刀たちも、これを見れば即座に食いついたに違いない。
「歌仙が考えたんですか」
「そう。気に入ってくれたかい?」
 感嘆の息を吐き、小夜左文字が呟く。
 ほんの少しの不安を滲ませて、歌仙兼定は目尻を下げた。
 餡を練るところから始めたので、いつ誰が、味見役を申し出てくるか心配だった。幸いにも打刀が誰の為に必死になっているか、察しの多い刀ばかりが台所に陣取っていたので、杞憂に終わってくれたわけだが。
 水屋での苦労を思い返しつつ、返事をそわそわ待っていたら。
「ちょっと、気が早いですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
 まだまだ青さが残る葉が大多数を占め、庭の木々が紅色に染まり尽くすのは、当分先のこと。
 季節を先取りしすぎだと笑った小夜左文字は、しかしひと呼吸置いて、首を竦めた。
「でも、いいですね」
「だろう?」
 満足げなひと言に歓喜して、歌仙兼定はぶわっと膨らんだ感情を必死に堰き止めた。
 嬉々としながら目を眇め、仕上がりまで完璧だと、うんうん頷く。そんな丹精込められた菓子を前にして、小夜左文字は口元を綻ばせた。
 賞賛を受けて胸を張り、歌仙兼定が改めてどうぞ、と掌を菓子盆に向ける。外見は合格点をもらったが、味が悪ければ意味がないと言って、評価を欲しがり、手を付けるよう促した。
「ささ、お小夜」
「いただきます」
 再三催促されて、短刀は首を縦に振った。膝に抱いていた書物を脇に置いて、中庭に向いていた身体を打刀に向け直した。
 軽く頭を下げて目礼し、小さな手を合わせてから楊枝を抓んだ。小刀の如く尖った先端を皿に向け、最も手前にあった寒天に突き刺した。
 折角の綺麗な紅葉を真っ二つにするのは惜しかったが、そうも言っていられない。なるべく綺麗に、元の姿を保ったままであるよう心がけて、指先は慎重だった。
 どうにか不格好にせずに済ませて、半分になった片側に切っ先を突き刺す。
「召し上がれ」
「あ~……はむ」
 口に入れやすい大きさにして、まずはひとつ、咥内へ。
 その一挙手一投足を見守って、歌仙兼定は知れず拳を作った。
 この瞬間は、何度繰り返しても緊張した。
 いかに味見を繰り返し、自信を持って供した料理でも、食する者の好みに合わなければお蔵入りだ。彼の作るものは概ね好評なのだが、燭台切光忠に支持者をじわじわ奪われつつあり、なんとか挽回したい気持ちも少なからずあった。
 固唾を飲んで見守って、小夜左文字の口元を注視する。
 突き刺さるような眼差しに苦笑して、少年は楊枝を引き抜き、餡子を奥歯で噛み砕いた。
 大きめの塊を小さく、小さく磨り潰し、破片を舌の上で転がした。口蓋に擦りつけ、または犬歯で切り刻み、一層細かくして、唾液と共に飲みこんだ。
「……どうかな」
 口の中を空っぽにするのに、―分半とかからない。
 ほう、と息を吐いた短刀に恐る恐る問いかけて、藤色の髪の打刀は頬を引き攣らせた。
 緊張のし過ぎで、顔が可笑しなことになっている。
 鏡があれば見せてやりたかったと目を眇め、小夜左文字は小さく頷いた。
「美味しいです」
「本当に?」
「はい」
 楊枝を置かず、残っていたもう半分に突き刺して、続けて口の中へ。
 その合間に囁いた少年に瞠目して、歌仙兼定は握り拳を固くした。
 心の中で勝利の雄叫びを上げ、自然と緩んでいく表情を慌てて引き締めた。緊張から解き放たれて、嬉しさから花を散らした。
 一瞬でにこにこ笑顔になった打刀を盗み見て、小夜左文字は口に含んだ餡を噛み砕いた。抵抗は最初だけで、一度歯が入ってしまえば、後は済し崩しだった。
 程よい固さで、とても食べやすい。見た目の華やかさもさることながら、小豆の甘さが疲れた身体に心地よかった。
「うん」
 これならいくらでも食べられそうだ。
 悪くないと首肯して、彼は幾分温くなった薄茶で喉を潤した。
「……ふう」
「まだあるよ、お小夜」
「良いんですか?」
「君の為に作ったものだからね」
 ひと息つけば、残り半分となった皿を指差された。てっきり打刀と半分ずつと思っていたので、素直に驚きだった。
 小夜左文字は今日、朝からずっと働きづめだ。それを知っているからこそ、味見役も兼ねてもらうべく、歌仙兼定は新作菓子に取り組んだ。
「では、遠慮なく」
 きちんと昼餉を食べたのに、心なしか小腹が空いていたところだった。
 本当に良い頃合いに来てくれたと喜んで、彼は皿ごと引き取り、膝に置いた。
 丁寧に、けれど先ほどよりほんの少し素早い手の動きを確かめて、歌仙兼定は満面の笑みを浮かべた。作って良かった、来て良かったと喜んで、視界の隅で動かない書物に首を捻った。
「ところで、お小夜。それは?」
 彼が入って来た時、小夜左文字はそれを読んでいた。
 わざわざ机ではなく、縁側で広げていたのは、灯明に使う油を惜しんだからだろう。昼のうちは極力自然光を利用するのが、彼の個人的な決め事だった。
 その境遇故か、この短刀には貧乏性な面がある。
 あちこち擦り切れて襤褸布寸前の袈裟をちらりと見て、歌仙兼定は紺色の表紙を指し示した。
「んぐ、ん、んっ……それ、は。ええと、歌仙は、見ない方が良いと思います」
 食べている最中だった少年は、問いかけに慌てて咀嚼回数を増やした。頬張っていた羊羹を急ぎ飲みこんで、喉に詰まり掛けたのか、何度か胸を叩いた。
 無事胃袋へと塊を落とし、ほっと息を吐いてから、唇を舐める。
 いやに意味深な発言を受けて、文系を自称する刀は眉を顰めた。
「なぜ?」
 表紙書きがないということは、万屋で売られているものではない、ということだ。装丁が新しいので、間違って剥がれてしまったとも思えなかった。
 厚みもさほどではないので、本丸で暮らす刀剣男士の誰かが、自分で作ったと考えるのが妥当だろう。
 けれど歌仙兼定の知る中に、書き物をする刀は存在しなかった――自身以外は。
 もし歌集を編むような刀があるなら、是非とも紹介して欲しかった。共に歌について語り合い、四季の移ろいや心の機微について、夜が更けるまで論議したかった。
 小夜左文字も和歌に心得があるけれど、歌仙兼定ほど熱心ではない。前の主が戦国一とも言われる文化人であったというのに、だ。
 なんと勿体ないのだろう。
 才能はあるのだから、存分に発揮すれば良い。互いに切磋琢磨しあえば、歌仙兼定も今以上の歌を詠めるようになるはずだ。
 結局は自分の為なのだが、その辺は考えないことにして、鼻息を荒くする。
 詰め寄られた少年は黒文字を空になった皿に置き、茶で口を漱いで、ほう、と息を吐いて肩を落とした。
「和泉守兼定さんの、です」
「……あれの?」
「はい。自信作を集めたので、論評を頼むと」
 観念して白状して、皿を盆に戻し、空いた膝に歌集を置いた。表紙は捲らず、撫でるに留め、目つきを鋭くした男に頷いて返した。
 和泉守兼定は、この本丸で最も年若い刀だ。外見は好青年だが、性格に若干の幼さが残り、冷静な一面と無鉄砲な一面が混在した。
 正攻法での戦い方ではなく、有利に事を運ぶ為に、時には卑怯な手段をも辞さない。そういう点では戦上手で、少数精鋭での特攻に長けているが、反面馬に乗っての大規模戦闘には不慣れだった。
 歌仙兼定とは同門に当たるが、刀匠は異なる。各々が産み出された時代もかなり隔たっており、他の兄弟刀たちとは幾分趣が異なっていた。
 彼らは決して、仲が悪いわけではない。
 ただ仲良しとも言い切れず、関係は複雑だった。
 兄弟刀の間で思想や理念が乖離しているのは、左文字も同じだ。但しこちらは、無闇矢鱈と相手に食って掛かったりしない。
 一方で歌仙兼定は和泉守兼定をどことなく下に見ている雰囲気があり、和泉守兼定も歌仙兼定に敵愾心を隠さなかった。
 同じ兼定として、自分の方がより優れている、と双方共に心の中で思っている。
 我が強く、強情な面はそっくりだと密かに嘆息して、小夜左文字は不機嫌を露わにした打刀に首を竦めた。
「どうして僕ではなく、お小夜に頼むんだ。あいつは」
 あらかじめ怒号を予想し、身構えていたのが功を奏した。
 案の定拳を振り回して吠えて、歌仙兼定は悔しそうに歯軋りした。
 小鼻を膨らませ、怒りを滲ませて遠くを睨んだ。丁度風が吹き、木々が揺れて、ざあああ、と木立が一斉に音を響かせた。
 首筋を撫でる空気は体温よりも低く、心地よかった。前髪を煽られた打刀は忌々しげに舌打ちすると、反射的に立てた膝を倒し、胡坐を作り直した。
 ぷんすかと煙を噴いて、怒りは当分収まりそうにない。
 子供のように拗ねてしまった男に苦笑して、年嵩の少年は目を細めた。
「歌仙に頼むと、読む前から馬鹿にしてくるから嫌だ、だそうです」
「はあ?」
 記憶を掘り返しながら囁けば、打刀は間髪入れずに反応した。やや音程が外れた声で叫んで、頬杖を解き、意味が分からないとばかりに顰め面になった。
 百面相を目の当たりにして、面白いのだが、笑うわけにはいかない。
 密かに腹筋に力を込めて、小夜左文字は綴じ紐の結び目を弾いた。
 隠せば良いものを、堂々として、大胆な結び目だった。この辺りにあの男の性格が滲み出ており、押し付けて来た時の表情が自然と蘇った。
 対して歌仙兼定はといえば、納得がいかないようで、膨れ面は絶賛継続中だった。
「下手なものを下手と言って、なにが悪いんだ」
 そういうところが、和泉守兼定が小夜左文字を頼った理由なのに、まだ分からないようだ。
 ぶつぶつ文句を言っては頬杖の腕を入れ替えて、窄めた口から息を吐く。同派としての面目を潰されて、面白くない、と態度で語っていた。
 この考え方が改まらない限り、両者が同じ席で歌を詠み合うことはなさそうだ。
 変なところで融通が利かない男に内心呆れながら、左文字の短刀は薄茶の残りを飲み干した。
 濡れた飲み口を親指でなぞって拭い、湿った肌は着衣の裾に擦りつけた。人差し指と重ねて何度か揉むように動かしてから、薄い紙を何枚かまとめて捲った。
「和泉守さんと、歌仙とでは、時代が違いますから」
「……僕が、彼の時代の風流を解せていないとでも?」
「人の考え方も、随分と変わっているでしょうし」
 支配者が度々入れ替わる動乱の時代と、大きな戦が遠い過去となった時代とでは、ものの捉え方も、命に対する価値観も、相当に異なっていた。
 思想が交わらないのも当然だ。そしてこの深い溝を埋める為に、言葉というものが存在しているというのに。
 最初から決めつけて、添削もせず、助言もなく、すべてに等しく零点を付けていくのは、いかがなものか。
 静かに打刀を批判して、小夜左文字は不必要に飾り立てない一文に頬を緩めた。
「午睡して 叩き起こすは蝉の声 怒鳴っても止まず 叫んでも止まず――」
 情景がありありと思い浮かぶ歌に、しかし歌仙兼定は不満げだ。なにが面白いのか、と首を捻って、眉間の皺は深くなる一方だった。
 このままだと癖になると、短刀は手を伸ばした。
「ん?」
 それを避け、仰け反った打刀が目を瞬かせる。空振りした利き腕を膝に落として、小夜左文字は仕方なく自分の眉間を小突いた。
「歌仙は、難しく考え過ぎです」
 皺が出来ていると教えてやり、嘆息に混ぜて囁いた。
 指摘を受けた場所を揉みほぐして、男は気難しい表情で口を尖らせた。
「そうは言っても、お小夜」
「和泉守さんは、自分が良いと思うものを詠んでいるだけです。歌仙も、そうでしょう」
 反論を試みられて、出来の良し悪しは関係ないのだと諭した。
 自分が好むものを、好む通りに作り上げているのに、横からあれこれ茶々を入れられたら、好きだったものも嫌いになってしまう。
 折角仲間が出来かけているのに、自分から潰しに行くのはもったいない。
 淡々と言葉を重ねて、小夜左文字は型に縛られない自由な歌を指で辿った。
「むむむ……」
 横では歌仙兼定が、折角解いた眉間の皺を、前より一本増やしていた。
 腕組みをして唸り、短刀の言葉を懸命に飲みこもうとしていた。風流云々は抜きにして、歌詠み仲間としてまず認めようと必死に努力した。
 しかし、これまでずっと馬鹿にして、鼻で笑って来たのだ。
 そう簡単に出来るわけがなかった。
「今すぐでなくても良いんですよ」
 百面相が一段と酷くなり、最早笑いを堪え切れない。
 我慢するのを諦めた短刀に言われてハッとなって、歌仙兼定がばつが悪い顔でそっぽを向いた。
 笑われたのを恥じて、頬を仄かに朱に染めた。どうして素直に認められないのかも、なんとなくだが想像出来た。
 要は小夜左文字と和泉守兼定が、自分の知らないところで親しくしていたのが、気に食わないのだ。
 雰囲気からして、短刀はこれまでにも何度か、打刀に歌の評定を頼まれているのだろう。そして短刀も、快くそれを引き受けていた。
「お小夜は、あいつの歌が、その……」
「面白いと思います。僕や、歌仙では、きっと詠めないものです」
 隠していたつもりはなかろうが、裏でこそこそされていたみたいで、あまり気分が宜しくない。
 しかもなかなかに高評価で、余計に悔しかった。
「う、ぐ」
「歌仙は、下の句をどうしますか?」
 発想の起点が違うから、歌の趣も、景色も、格段に違ってくる。
 それが面白いのだと言った短刀に指差されて、歌仙兼定は示された紙面に目を走らせた。
 そこには上の句だけが記されていた。途中まで思いついたものの、続かなかったようで、代わりに詠んでくれるよう依頼する一文が小さく添えられていた。
「紅葉着て 峰の奥まで 色気付き」
「ふふ」
「まるで品がない」
「そうは言わずに」
 声に出して読み上げて、渋る打刀を短刀が促す。
 肘で小突かれた男は意地悪く見上げてくる少年を一瞥して、深々とため息を吐いた。
「紅葉、……峰の山。奥深く。緋色一色なのだろう。そして紅葉はいずれ散る、散らぬ……散らすな……」
 秋の山の情景を、率直に描き出した歌だ。回りくどい真似はしない。和泉守兼定は赤一色に染まる山を、色気づいた若い娘に重ねていた。
 ならばそこから続く光景は、なにか。
 実物を目にするのは、もう少し先だ。だから目を瞑り、過去へと意識を遡らせた。
 瞼に焼き付けた記憶を蘇らせて、燃えるような鮮烈な色彩を脳裏に導き出す。
 思いつく限りの言葉を訥々と紡ぎ、これぞ、と輝くひと言を探し出す。もっともそれは簡単な作業ではなく、音を刻まずとも、男の唇は絶えず動き続けた。
 顎を撫で、鼻梁に指を添え、真剣に悩み、考える。
 集中し始めた打刀の横顔に相好を崩して、小夜左文字はすっかり空になった菓子盆を脇へ退けた。
 かちゃかちゃ音を響かせても、歌仙兼定は反応しなかった。時折瞼を閉じて、開いている時も双眸は遠くを見据え、短刀を見ない。生来の負けず嫌いぶりを発揮して、良い句に仕上げようと躍起になっていた。
 それを嬉しく思いつつ、少し寂しさを覚えた。自分が言い出したことなのに、と即座に戒めて、口の端に残る微かな甘さに指を重ねた。
 透明な中に踊る色彩が、とても美しかった。
 雅さを求めるあまり、逆に頭が固くなってしまっている彼に、和泉守兼定の緩さを足せば、良い塩梅になるに違いない。
 けれどやり過ぎると、各々の持ち味を殺してしまうから、注意が必要だ。
「歌仙は、頑張り屋さんですから」
「お小夜?」
「思いつきましたか?」
「……今しばし、猶予を」
「分かりました」
 縁側に向かって足を伸ばし、陽を浴びて輝く緑の木々に目を細める。
 ぽつりと呟いた独り言に、思いがけず反応されたが、内容までは聞き取れていなかったようだ。即座に話題をすり替えられたことに、打刀は気が付かなかった。
 小首を傾げていたら、苦々しい表情で言われて、噴き出しそうになった。
 すんでのところで笑いを封じ込めて、小夜左文字はドクドク鳴る鼓動を数え、自然重くなった瞼を閉じた。
 視界を闇に染めても、真っ暗ではない。薄くだが光を感じて、不思議と安心出来た。
「風よ。散らすな。秋を散らすな。花を、ううん……うん?」
 ほんの僅かな言葉の中に、様々な情景を落とし込むのは簡単で、難しい。
 直感のみで作り上げられた上の句の厄介さに臍を噛んで、歌仙兼定はふとした瞬間、右肩に重みを感じて目を丸くした。
 咄嗟に身体を退きかけて、直前で思い止まった。肘を数寸動かすだけに留めて、軽過ぎて不安になる体重に瞬きを繰り返した。
 小夜左文字が寄り掛かっていた。四肢の力を抜き、両手を膝に転がして、上半身を傾けていた。
 両目は閉ざされ、唇は薄く開いていた。小振りの鼻が膨らんでは窄まって、呼吸は安定し、表情は穏やかだった。
「お小夜?」
 朝から働きづめだった少年は、部屋で静かに、ひとりの時を楽しんでいた。
 腹が膨れて、ひと息ついて、気が抜けたのだろう。
「お小夜……」
 中途半端に浮いた右手を握っては広げ、虚を衝かれた男はやがて肩の力を抜き、微笑んだ。目を細め、破顔一笑して、すよすよ眠る短刀に鼻の下を伸ばした。
 本丸で再会を果たした時、彼は復讐に囚われ、健やかな眠りとは無縁だった。周囲は全て敵と捉え、ちょっとした物音でも目を覚ました。
 熟睡など夢のまた夢で、常に神経を張りつめていた。触れれば壊れる繊細さで、迂闊に近づけない雰囲気があった。
 それが今や、どうだ。
 彼がこんな風に眠れる日が来るなど、想像だにしなかった。
 それも他ならぬ自分の腕に、身を委ねて。
 愛しさが膨らんで、溢れ出そうだった。人が見れば薄気味悪い、と言われそうな笑みを浮かべて、締まりのない表情を左手で覆い隠した。
「参ったな」
 必死に考えていた下の句など、どこかへ飛んで行ってしまった。
 今はただ、この安らかな寝顔だけを見ていたい。他になにも考えず、誰かの――自分の隣で眠れるようになった、哀しい短刀の変化を喜びたかった。
「紅葉着て 峰の奥まで 色気付き 風よ鎮めや 夢を散らすな」
 抱きしめたい気持ちを堪え、そっと囁く。
 評価はいかばかりか、眠る少年が微かに笑った。

篠原や 霧にまがひて 鳴く鹿の 声かすかなる 秋の夕暮れ
山家集 秋  438
2019/10/26 脱稿