暁より芽吹くもの、総ての淵源となりしもの

 たった一騎のサーヴァントが、戦況を大きく変動させることは、ままあることだ。
 同じように、たった一騎のサーヴァントが召喚されただけで、マスター周辺の生活環境が様々に変化することも、全くない、とは言い切れない。――否、割と良くあることだった。
 それが良いかどうかは、また別問題。ともあれ今回もまた、藤丸立香の周囲は微妙に騒がしさを増すこととなった。
 アスクレピオスが召喚された。
 医神と称され、異聞帯ではなかなかに苦しめられた相手だ。勿論その地で出会った彼と、カルデアにやって来た彼とは同じであって、異なるもの。わだかまりは無いつもりだった。
 それでも最初は、どうしても緊張した。
 向こうの態度も素っ気なくて、早速医神のお手並み拝見とばかりに医務室を覗けば、軽傷が過ぎると悪態を吐かれもした。
 もっと重傷になるか、もっと稀少な病を持って来いと言われ続け、ならばと必要以上にあちこち連れ回すことにした。もとい、勝手についてきた。共に過ごす時間が少しずつ長くなって、溜め息を吐きながら手当てを受ける回数はこれに比例した。
 そのうちに彼の方から、毎日の健康チェックを提案してきた。マスター当人の自主性に任せていたら、こっそりサボったり、嘘の報告をしかねない、との理屈からだった。
 実際、多少具合が悪かろうと、皆がレイシフトを望むなら、それに応じて来た。カルデアでサーヴァントを使役に出来るのは、自分しかいない。ならば無理をしてでも自分が行くべきであると、微熱を隠して気丈の振る舞うこともあった。
 第一こちらが万全であろうと、なかろうと、トラブルが起きる時は、起きる。
 不測の事態に備えるためにも、アスクレピオスの定期検診の申し出は、些かお節介な気もしたが、有り難かった。ただ特に深く考えることなくこの提案を呑んだのは、今思えば間違いだったのかもしれない。
 その後の己に待ち受ける諸々を事前に察知出来ていれば、絶対に受けなかった。
「ふぁ、あぁ~……んむ」
 目覚めは、あまり良くなかった。熟睡出来た気がしなくて、微妙に怠さが残っている。トレーニングルームで遅くまで励んでいた疲れが抜けきらず、肩を回せばゴキッと結構な音がした。
 骨に異常は無いが、関節のあちこちが軋んでいる感覚がある。大きな欠伸の後、生理的に出た涙を指で拭って、立香はもうひとつ出そうになった欠伸を右手で隠した。
 指の隙間から息を吐き、霞んで見える景色を瞬きで補正した。鈍色の床や廊下は天井のライトを反射して淡く輝き、どこまでも続く廊下から恐怖感を取り除いていた。
 窓のない空間は閉塞感があり、若干落ち着かない。
 閉じ込められている、という感覚をなるべく持たせない配慮を肌で感じながら足を繰り出せば、カツリと硬い音がひとつ響いた。
「ねむ……」
 本当はもう少し眠っていたかったけれど、生憎とこの後の予定が詰まっている。早めに食事を済ませておかないと、十日以上前から決められていたミーティングに間に合わない。
 空腹のままでは、集中力もなにもあったものではない。そんな状態で参加したら、却って皆の迷惑になりかねなかった。
「残ってるかなあ」
 但しこの時間の食堂は、混んでいる。サーヴァントは基本的に睡眠や食事を必要としないのに、カルデアに集う面々は食べるのが大好きで、暇を見付けては大勢で集まっていた。
 人間と同じように料理をして、人間と並んで食事を摂る。
 その姿は生前の彼らを彷彿させて、不可思議で、面白かった。
 とどのつまり、彼らと共に生活する分には、不満はない。ただマスターである自分が朝食を終えていないのに、用意された料理の数々を全て平らげてしまうことがあるのだけは、納得がいかなかった。
 マシュ辺りが気付いて、自分の分を避難させてくれているのを祈るしかない。
 後は、食事の後では血糖値が上がる云々との理由から、この時間帯を狙って現れる医神と遭遇せずに済むか、どうか。
 アスクレピオスがやって来て、立香の周りで一番変わったのは、そこだ。軽率に日々の検診を受ける約束をしたお蔭で、彼は医務室であろうと、なかろうと、兎に角体調に異変がないか調べようとした。
 寝起きを襲撃されたこともある。
 さすがに部屋に忍び込むのは止めるよう言えば、ドアを出たところで待機されていたこともあった。
 あちらにも都合があるから、毎日ではないけれど、廊下に出ようとした瞬間にあの顔とご対面、というのは心臓に悪い。なまじ身長が近いだけあり、ほぼ正面から彼の冷たく、鋭い眼光が迫ってくるのだから、初めの数回は本気で悲鳴を上げてしまった。
 検診の内容は、触診による体温の確認と、目が充血していないかのチェック。睡眠不足でないか調べた後は、肌荒れ具合から栄養が足りているかを探って、最後に喉が腫れていないかを診て、終わり。
 本当はもっと色々調べたいようだけれど、彼の希望に添っていたら、あまりに時間が掛かりすぎる。さすがにそれは、毎日は難しいからと、器具無しでも出来ることだけに絞っていって、残ったのが以上の項目だった。
 ここに至るまで、実に様々な悲劇があった。
 かの医神は医療行為こそが己の責務と信じているから、患者であるマスターの意思や、都合は二の次だ。食事中であろうと、トイレの中であろうとお構いなしに押しかけて来られて、散々だった。
 検診はちゃんと受けるので、時と場所を考慮してくれるよう必死に訴え続けた。廊下で、立ったままでも出来る項目のみで承諾してもらえたのは、割と最近のことだった。
「来ないな?」
 どれだけ進んでも代わり映えのしない廊下を、食堂目指してひたすら突き進む。
 もう少し部屋から近ければいいのに、との不満を呑み込んで、立香は代わりに首を捻った。
 いつもならこの辺りで、アスクレピオスと遭遇する。もっと手前の時もあった。食堂に近過ぎると他のサーヴァントに絡まれ易いので、立香がひとりのタイミングを狙って、待ち構えている場合が殆どだった。
 それなのに、今日は目印となる非常灯の下には誰も佇んでいなかった。
 袖の長い、白い服の男は影も形も見当たらない。
 特徴的な前髪を脳裏に思い浮かべて、立香は無意識に開きそうになった口を力技で閉じた。
 下顎を手で押さえ、ここ最近獲得した、不本意な習性を封じ込めた。
 アスクレピオスによる朝の定期検診は、最後に立香の咽喉をチェックする。口を大きく開けるよう命じられて、きちんと応じたつもりでいたら、舌が邪魔だと指で押さえつけられたことがあった。
 無理矢理、有無を言わさず。
 突然口腔に親指を突っ込まれて、その時は驚いて、噎せた。咳き込んでいるのに解放して貰えず、涎がだらだら溢れて、アスクレピオスの指を濡らし、汚したが、医神はまるで意に介さなかった。
 恥ずかしいし、痛いし、苦しいしと、散々だった。文句を言おうにも舌の自由が奪われており、口を閉じれば彼の指を噛んでしまう。呻き声を上げるのが精一杯で、必死に抵抗したら、至極嫌そうな顔をされた。
 マスターとして大事にされているのではなく、検体として扱われているようで、哀しくなった。
 彼の行動が善意から来ているのは、分かる。自身に課した仕事に真摯に向き合い、役目を果たそうとしているのも、痛いくらい伝わって来た。
 ただ彼はサーヴァントで、人間とは違う。かつて人だったかもしれないが、現代人の立香の感性とは相容れない場所に立っていた。
 絶望的な距離を感じた。
 どうせ言っても通じないと、早々に諦めた。
 以来、立香は自分が傷つかないために、彼の検診を受ける際は、率先して口を開くようになった。ただ開けるだけでは奥が見え難いので、舌も目一杯外に伸ばし、平らに均すよう心がけた。
 その自発的な行動に、アスクレピオスは特に何も言わなかった。当たり前のように受け入れて、それが当然であるかのような振る舞いだった。
 そうしているうちに、彼の顔を見かけると、無意識に口を開けようとする習慣が生まれた。パブロフの犬よろしく、涎ではなく舌を垂らし、背筋を伸ばして首を若干後ろに倒す癖がついた。
 なんとも嬉しくない。
 顎を撫でながらむすっと小鼻を膨らませて、立香は待っていても現れない医神に肩を竦めた。
「……ま、いっか」
 来ないなら来ないで、構わない。あのアスクレピオスだって、たまには寝坊することだってあるのだろう。
 珍しい事態に行き当たって、少し気分が良くなった。空腹を訴える腹をひと撫でして、立香は口角を持ち上げて笑った。
 ぺろりと舌を出して唇を舐め、今日のメニューを想像して、足取りを軽くした。食事中に襲われるのだけは勘弁だが、きっと居合わせた誰かが守ってくれる。期待に胸を弾ませて残る道程を順調に進めば、前方から近付いて来る影に気がついた。
 あちらも立香同様、どこか楽しそうだ。スキップを刻む足取りは軽やかで、見ている方まで不思議と表情が緩んだ。
「あっ」
 間もなくすれ違うというところで、向こうもこちらに気がついた。胸の前で交差させた腕を僅かに緩めて、パリスは満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
「おはようございます、マスター」
「おはよう。楽しそうだね。なにか良い事あった?」
 麗しい少年姿のサーヴァントが抱きしめているのは、羊をデフォルメ化したぬいぐるみ、ではない。こんな形をしているけれど、この羊は一応、立派な神様だった。
 アポロン。目下立香の頭を悩ませ続ける、例の医神の父親だ。
 そのアスクレピオスは、この羊を大層毛嫌いしていた。少しでも気配を嗅ぎ取れば、即座に場を離れる徹底ぶりだった。
 是が非でも、接触したくないらしい。そして万が一にも接触を許した場合は、これを切り刻むのも容赦しなかった。
 これまで何度となく、羊の毛が宙を舞う現場に遭遇した。
 物騒な物を構えて息を切らすアスクレピオスを宥めるのは、何故かいつも、立香の役目だった。
「僕ではなく、アポロン様に、とても良い事があったみたいで。それで僕も、なんだか嬉しくて。つい。えへへ」
 弾むようなスキップを見られて、恥ずかしいらしい。赤く染まった顔を羊――もとい、アポロンで隠して、パリスは首を竦めて小さくなった。
 トロイア戦争の英雄は随分と愛くるしい姿で召喚されたが、この仕草を見てしまうと、アポロン神が要らぬ干渉をしたのも分かる気がした。
 カルデア的には、最盛期の姿で現れて欲しかったけれど、致し方ない。
 神の悪戯は、遙か昔から気まぐれなものだと決まっている。およそ神威を感じない姿のアポロンに視線を向けて、立香は頬を緩めた。
「そっか。でもその気持ち、オレも分かるよ」
 気持ちは伝染するものだ。隣に立つ相手が笑顔でいれば、こちらもつられて笑顔になる。逆に暗く落ち込んだ顔をしていれば、引きずられて、なにも無いのに陰鬱な気分になりもする。
 立香では、アポロンが上機嫌かどうかは分からない。白いモコモコした羊は喋らないし、パリスの細腕に抱きしめられているので、殆ど身動き出来ない状態だった。
 だが彼と四六時中一緒にいる少年がそう言うのだから、間違いないのだろう。
 目を細めて頷くと、幼い見た目のサーヴァントは弾ける笑顔を浮かべた。両足を揃えてぴょんぴょん飛び跳ねて、もう一度深くお辞儀をした。
「今日の朝ご飯も、美味しかったですよ」
「ありがとう。またね」
 色々な地域、時代のサーヴァントが混在するカルデアだから、食事の内容は一種類ではない。キッチンを預かるサーヴァントもまた、様々な出自を持つ多国籍部隊だった。
 どれも美味しかったと笑うパリスに手を振って、益々凹んだ腹を抱えて食堂へと急ぐ。
 しかしこういう状態の時ほど、妨害に遭い易いのが世の定め。
「うげ」
 十メートルと進まないうちに、新たな人影を発見して、立香は思わず低い声を零した。
 慌てて口を塞ぐものの、既に遅い。好意的とは到底思えない悲鳴を聞きつけて、前方から来る男がのっそり顔を上げた。
 歴戦の勇士とは違うので、体格はさほど立派なものではない。背は低くもなく、高くもなくて、着痩せするタイプなのかかなり細身に見えた。白い髪はもみあげの部分が長く、後ろは短い。彼が歩く度に胸元で、淡く色づいた毛先がゆらゆら踊った。
 交差した前髪の先に潜む瞳が、立香を捉えるべくすうっと眇められる。
 無意識に開こうとする口腔を手で覆い隠したまま、蛇に睨まれた蛙はたじろぎ、後退を図った。
「ああ、なんだ。マスターか」
「ええ?」
 いつもならここで、逃げ出そうとする立香を鬼の形相で追いかけてくるのが、彼だ。
 逃亡する、イコール自己管理がなっておらず体調不良、という短絡的な結論を導き出すのが、そこにいる医神だった。
 だというのに、今日は突っかかってこない。勢い良く距離を詰め、頭ごなしに説教しても来なかった。
 元気が無い。
 面倒臭そうに吐き捨てられて、戸惑いが否めなかった。
 召喚された直後の、愛想のなかった頃に戻ったようだ。機嫌が悪い雰囲気が、離れていてもひしひし伝わって来た。
 直前に出会ったパリスとは正反対だ。今になって疑問に思ったが、そういえばアポロンの機嫌が良かった理由を聞いていない。
「なにか、……あった? 大丈夫?」
 放置しても良かったのだが、問わずにはいられなかった。損な性分だと自分で自分に苦笑して、立香は具合が悪そうにも見える男に近付いた。
 アスクレピオスは父親であるアポロンを毛嫌いしているが、アポロンはアスクレピオスに構いたがるので、両者の思惑が衝突して、頻繁に騒動が勃発した。
 巻き込まれる側にとっては、迷惑極まりない。
 そっとしておくべきか迷いつつ、老婆心を働かせた立香に、アスクレピオスは力なく首を振った。
「なにもない。……いや、あの男が……いいや、マスターには関係無いことだ」
 白く澄んだ肌も、今は血色が良くないように映る。それでも無理をして、言いかけた言葉を途中で呑み込んだ彼は、必死に苛立ちを収めようとしているようだった。
 単に言いたくないだけかもしれない。この男はアポロンとの間に、ひと言では言い表せない感情を抱いているのを、認めたくないのだ。
「面倒臭いなあ」
「なんだって?」
「いえ、別に。こっちのこと」
 当人は隠しているつもりらしいが、周囲からはバレバレだ。
 虚勢を張りたがる男に失笑を漏らした立香は、急に凄みを利かせられて、慌てて目を逸らした。
 寸前まで落ち込んでいたのに、いきなり復活しないで欲しい。突き刺さる眼差しを、両手を掲げて壁代わりにして避けていたら、その掌に深々と溜め息をぶつけられた。
 ごく僅かな時間でしかなかったが、それで気持ちを切り替えたのだろう。
 暗く沈んでいた表情はみるみる生気を取り戻し、口元は不遜な笑みで彩られた。およそ医者らしくない顔を向けられて、立香はぞわっと背筋を寒くした。
「ではオレは、朝ご飯が待ってるので、これで」
「待て、マスター。今朝の検診が終わっていない」
 身の危険を感じて、反射的にこの場から離れる決断を下した。早口に告げて横並びにしていた手を左右に振り、じりじり距離を広げようとした。
 しかしその努力を踏みにじり、アスクレピオスが手を伸ばしてきた。忘れたままでいれば良いのに、日課を思い出して、白い袖を振り上げた。
 内側に隠れていた手が、咄嗟に払い除けようとした立香の手首を掴んだ。非力なように見えて、さすがはサーヴァントといったところだろう。握る力は存外強かった。
 頑張れば振り解けなくはないけれど、朝食前の空腹が、本来の力の半分も発揮させてくれない。
 肩肘を突っ張らせて一応の抵抗は示したが、容易にねじ伏せられてしまった。
「どこへ行くつもりだ」
「どこって……」
「すぐ済む。口を開けろ」
 正面からの睨み合いに負けて、口籠もったところでもう片方の手が伸びてきた。強い命令口調で告げられて、立香は咄嗟に目を閉じた。
 殴られることはないと分かっていても、数多の旅路からの経験が、どうしても身構えさせた。湧き起こる本能的な恐怖を必死に薙ぎ払い、堪えていたら、まるでそれを慰めるかのように、布越しの手がこめかみのすぐ脇を掠めた。
 つい、と前髪の生え際を擽り、額の中心を目指して緩やかに動く。
 アスクレピオスの指先は、熱を測っているだけ。それ以上でも、それ以下でもない。義務的に、規則的に、数十回と繰り返されて来た行動を執った。
 だというのに、それが立香を安心させた。強張っていた四肢は徐々に緊張を解き、引き攣っていた頬の肉も次第に緩んでいった。
 かくん、と顎が開いた。唇は閉ざされたままながら、歯列が開かれ、弛緩した舌先が前歯の裏に行き当たった。
「ふむ……」
 布越しでも熱が測れるのかは疑問だが、アスクレピオスの指は続いて立香の右目の脇へ移動した。医神自身も半歩前に出て、観察しやすい角度を探りながら立香の顔を覗き込んだ。
 互いの呼気が触れそうな距離だった。
「おい。目を開けろ」
 目を瞑ったままだと、充血しているかどうかが分からない。
 指摘されて思い出して、はっと息を吐くと同時に瞼を持ち上げる。もれなく唇をも紐解いて、舌をべろりと伸ばしたのは、完全に無意識の所業だった。
 そうする習慣が出来ていた。
 廊下を照らすライトの明かりを集め易いよう、首に角度を持たせ、斜め上を向くまでがセットだった。
 もう二度と、口の中に指を突っ込まれたくなかった。乱暴に荒らされて、舌どころか下顎まで潰れる寸前の憂き目に遭いたくなかった。
 結構痛かった。怖かった。自分から口を開き、舌を出し、喉をさらけ出す方がずっとマシだった。
 初めの数回は恥ずかしかったが、もう慣れた。カルデア内を我が物顔で歩き回るサーヴァントから奇異な目を向けられても、気にしなくなった。
 皆も立香が、アスクレピオスからなにかと怒られ、追い回されているのを知っている。そして立香自身、彼らが無茶をしがちなマスターを心の底から心配し、そのストッパー役を引き受けた医神に対して、好意的に解釈しているのにも気付いている。
「んぁ」
 鼻から息を吐き、様子を窺えば、アスクレピオスの視線はスッと脇へ逸れた。袖の中の手が僅かに蠢き、揃えられた四本の指先が、頬骨の上を滑り落ちていった。
 親指がそれを追いかけて、頬骨の隆起を擽った。顎の輪郭をなぞり、喉の下に添えられる。立香はどこに焦点を合わせるかで一瞬迷い、整髪料でも再現が難しそうな医神の前髪に見入った。
 杖に絡む蛇の図が自然と浮かんで、彼はアスクレピオスなのだと、至って当たり前のことを考えた。
「……んーう?」
 顎関節が外れそうなくらいに口を開け続けるのは、なかなかに大変だ。それに舌を出したままでは、口腔が乾く。そうすれば喉を痛めることにも繋がるのに、検診終了の合図が、いつまで経っても聞こえてこなかった。
 勝手に閉じて良いものか、どうなのか。下手を打てばまた怒鳴られ、無理強いされかねない。
 想像したら、ぶるっと震えが来た。首の角度が変えられないので、瞳を動かしてアスクレピオスの動向を探れば、彼は人を前にしてなにやら考え事をしている風だった。
 立香の顔をどことなく虚ろな眼で見詰めているが、視線は絡まなかった。咽喉の異常を探っている気配もなかった。
「あふ……、あふ、く……れ……ふぃおしゅ……?」
 なるべく口を閉じないよう、舌を出したまま名前を呼ぼうとしたが、巧くいかない。
 やはり彼は本調子ではなかった。様子がおかしかったのを思い出し、医務室に行くべきは彼の方と、マスターとしての責務に心を奮い立たせた、その瞬間。
「あの男のせいで」
 ぼそっと掠れた声が聞こえた。
 煌々と明るかった視界がほんの少し暗くなって、風もないのに癖だらけの前髪が額にぶつかった。
 惚けていたら、にゅるっとした感触が、舌の上を走った。
 瞬きを二度繰り返す間に、人肌ほどの熱が、乾きかけた粘膜を擽った。
 なにかに舐められた。
 舌を――、舐められた。
「ほあぁ!?」
 事態が理解出来ず、状況が把握出来ない。頭の天辺から変な声を出して、立香は目の前にある、彫刻のように整った顔立ちに目を白黒させた。
 咄嗟に口を閉じ、両手で二重に鍵をかけた。舌先を口蓋に押しつけて何度も擦るが、たった一瞬横切っただけの感覚が消えることはなかった。
 仰け反り、倒れそうになって、後ろにふらつけば、庇うように腰に腕が回された。余所から力を加えられたお蔭で却ってバランスが崩れ、カクンと膝が折れそうになったけれど、アスクレピオスのお蔭で崩れ落ちるところまでは行かなかった。
「なるほど、こうなるのか」
「な、なに、がっ」
「魔力供給の手段としては、微々たるもの……ないよりは、という程度ではあるが。不思議と気分は悪くないな」
「はあああ?」
 ひとりで勝手に納得して、ひとりで勝手に満足げな顔をしている。こちらは事情がさっぱり分からないというのに、悩みが解決したという体で喋らないで欲しかった。
 素っ頓狂な声を上げ、身体を捩ってアスクレピオスの拘束から逃れた。もともと縛り付けるものではなかったので、振り払うのは容易かった。
 アスクレピオスも追いかけてこなかった。
 全力疾走した直後のような感覚で、息が切れて、胸が苦しい。ぜいぜい音を漏らしながら肩を上下させていたら、先ほどまでとは打って変わって、すっかり元気になった男が不敵に笑った。
「あの男のお蔭で散々だったが、感謝するぞ、マスター。それから、寝不足だろう。朝食は野菜を多めに食え。トレーニングに励むのは構わないが、オーバーワークは却って健康を損ねる。今日は早めに休め。分かったな」
「ちょ、ちょい。ちょお!」
 びしっとこちらに指を向け、息継ぎの間を惜しむかのように捲し立てられた。反論を挟む余地を与えてもらえず、引き留めようとしたけれど、果たせなかった。
 言いたい事だけ言って、アスクレピオスは踵を返した。カツ、カツ、カツ、と硬い音を一定間隔で響かせて、あっという間に行ってしまった。
 呆気にとられて見送って、足音が聞こえなくなってもしばらく動けなかった。愕然としたまま二度、三度と瞬きして、立香は傾いていた体躯を真っ直ぐに直した。
 息を吐き、吸って、また吐いて、微熱を抱え込む唇をそうっと覆い隠した。
「あれ。待って。なに? なんなの? なに自分だけ、機嫌良くなってんの? じゃあ、なに? あれ。あれ、いや、待って。おかしくない? おかしいよな? なんで? どういうこと? あれえ? んじゃ、あれ。ひょっとして。オレって、アスクレピオスがアポロン絡みで機嫌悪くする度に。また同じ事されたり、する、……の?」
 混乱して、状況を整理しようとすればするほど、余計に混乱した。
 これまでにも何度か、魔力供給としてサーヴァントとキスをしたことくらいなら、ある。粘膜接触が最も手っ取り早く済むからと、強引に唇を奪われたりもした。
 だから今回のそれも、似たようなものだ。犬に噛まれた――舐められた程度に思っておけばいい。それなのに、異様に衝撃が大きい。動揺が隠せない。
「うそ。明日から、どうするの」
 これまでは彼に無理矢理口腔を開かされるのが嫌で、自発的に動いていた。しかし今日のような事が今後も続くのであれば、迂闊な真似は出来ない。
 もっとも抵抗しようものなら、あの医者が黙って許してくれるはずもなく。
「どう、すん……の……」
 くぐもった声で呻くが、答えをどれだけ欲しても、誰かが妙案を提供してくれたりはしない。
 思わず頭を抱え、しゃがみこんだマスターの脇を、アレキサンダーたちが不思議そうな顔をして通り過ぎた。

暁より芽吹きしは、総ての淵源となりしもの
2019/09/16 脱稿