心のうちぞ 空に知らるゝ

「暑い」
 思わず、といった感じで言葉が口に出た。
 ただでさえ意識の外に追いやっておきたいものが、声になった途端に余計強く感じられてならない。首筋に纏わり付く湿気にも舌打ちして、歌仙兼定は深々と溜め息をついた。
「雅じゃないな」
 こんな仕草は、己の信条に反する。けれどどうしても出てしまった諸々に臍を噛んで、彼は額に貼り付いた前髪を掻き上げた。
 それでどうにかなるわけではないが、視界は広がり、気持ちは微少ながらも落ち着いた。今度は時間をかけて、肺の中の空気を吐き出して、軒先から覗く陽射しに視線を向けた。
 日の出は徐々にであるが遅くなり、早朝の空気は澄んで心地よかった。
 しかしそれから僅か二刻と経たないうちに、気温はぐんぐん上昇していった。
 夏の盛りはとうに過ぎ、暦の上ではもう秋だ。実際、その訪れを如実に感じる日だってあった。
 ところが、どこを境目にしたのか、気候は一転した。一旦は行き過ぎたはずの夏が、ここ数日、ぶり返していた。
 納戸に収納すべく集めていた団扇を引っ張り出し、いつ片付けるか相談しあっていた葦簀も、今しばらくこのままだ。通行の邪魔だと鴨居近くまで巻き上げられていた簾が降ろされて、室内に差し込む陽気を遮っていた。
 ふと特徴ある匂いを感じ、視線をそちらに向ける。
「やんなっちゃうねー」
「でも、まだ水遊びが出来ると思うと、楽しいです」
「せっかく蚊帳も畳んだのにな」
「幽霊さんも、戻ってきたりするんでしょうか」
「あれは別に、夏も冬も関係なくない?」
 賑やかな話し声も複数聞こえてきて、歌仙兼定は嗚呼、と小さく頷いた。
 進行方向にある広縁で、粟田口の短刀と脇差たちが仲良く談笑していた。その足元には蚊を避けるための蚊遣りが焚かれ、丸々として可愛らしい豚の置物から白い煙が伸びていた。
 暑さが一番厳しかった時期にはぱたっと見かけなくなった蚊も、早晩の涼しさに惹かれたか、この頃は頻繁に姿を現していた。
 奴らもまた、冬を前に最後の稼ぎ時と悟り、活発化していたらしい。だが狙いが外れた。連日の暑さに影響されたのか、憎らしいほどの素早さは幾分衰えていた。
 とはいっても、油断しているとすぐに血を吸われてしまう。音も無く忍び寄る不届き者を退治するのに、蚊遣りは必要不可欠だった。
「おっと」
 そういえば、自分の部屋の蚊遣りは火を消しただろうか。
 この夏に新調したばかりの浴衣を身に纏い、思い思いに過ごしている粟田口派の面々を見て、急に思い出した。
 反射的に胸の前に出た手は、叩き合わせる直前で停止した。行き場の失われた指先を無駄にひらひら踊らせて、歌仙兼定は自分自身に肩を竦めた。
 彼の部屋の蚊遣りは、そこで寡黙に働いている豚のような愛らしいものではない。端が欠けてしまい、使い物にならなくなった底の浅い皿を再利用したものだ。
 間違って倒れることはないだろうが、風で飛ばされた紙類が上に覆い被さったら、どうなる。
 嫌な想像をして、打刀は眉を顰めた。
 目を眇めて記憶を呼び覚ますが、どれだけ繰り返したところで、部屋を出る際に火の始末をした確証が得られない。
「むぅん」
 大丈夫だという気持ちと、万が一という不安が鬩ぎ合い、激しい鍔迫り合いを繰り広げている。
 喉の奥で低く唸って、彼は覚悟を決めて踵を床に叩き付けた。
 さほど音は響かなかったが、敏感な短刀が何振りか、衝撃に驚いて一斉に振り返った。
 その怪訝な眼差しを避けるようにして、歌仙兼定は来た道を戻り始めた。
 気分転換がてらのんびり過ごしていたのに、ちょっとした気付きで全て台無しだ。それもこれも全て、逆行した季節が悪いのだ。
 累積する暑さへの恨みもあり、表情は険しい。赤子が見たら泣き出しそうな顔をして、彼は大股で廊下を進んだ。
 いくつかの角を曲がり、何振りかの仲間とすれ違って、慣れ親しんだ一帯へと出た。
 目を瞑っていても辿り着けそうなくらい、身体に馴染んだ経路だ。今更迷うなどあり得なかった。
「ああ、やっぱり」
 確信はあったが、いざ目の前にすると、落胆は殊の外大きい。
 手垢が付いてやや黒ずんでいる引き手に指を掛け、襖を開いた。途端に先ほど、広縁で嗅いだのと同じ匂いが鼻腔を擽った。
 左右の部屋でも同じものが使われているが、煙は間違いなく、歌仙兼定の私室から流れ出ていた。
 しかも密閉した空間に閉じ込められていたのを抗議するかのように、匂いは濃い。直撃を喰らった打刀は軽く噎せて、飛び出そうになった唾を掌で防いだ。
「けふっ」
 それほど長く放置したつもりはないけれど、空気の流れを遮断していたお蔭で、籠もってしまっていたようだ。
「しばらく使ってなかったからなあ」
 来期まで持ち越すのもどうかと思い、多めに焚いていたのも災いした。素早く室内に入って、襖を閉めて、彼は困り顔で頭を掻いた。
 手始めに向かい側の障子を開けて、風通しを良くした。四方を建物に囲まれた坪庭が目の前に現れて、不機嫌な蚊遣りの煙を一手に引き受けてくれた。
 少しすれば喉に苦い匂いも薄らいで、過ごし易くなった。立ったまま待っていた男はふう、と安堵の息を吐き、まだ煙をくゆらせている皿を両手で抱き上げた。
「……いや、いいか」
 火を消そうとして、一瞬迷った。長い睫毛を瞼の上で数回踊らせて、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
 手にしたものを下ろしかけて、止めて、開けたばかりの障子の手前に移動させた。床に対して水平に置き、手で煽って煙を庭先へと誘導した。
 これでよし、と満足げに口角を持ち上げて、燦々と陽射しを受けて眩しい庭先にも目を細めた。足を伸ばして座り、背筋を伸ばして、夏と秋の狭間に落ちてしまった景色を充分に堪能した。
「これもまた、一興か」
 茹だるような暑さは御免被るが、その暑さを体感できるのも今だけだ。
 冬になって寒さが厳しくなれば、この日を懐かしむことがあるかもしれない。まだ見ぬ未来に想いを馳せて、彼はクツリと喉を鳴らした。
 ただの刀であった頃は、季節の変わり目に遭遇しても、それが暑いだとか、寒いだとか思わなかった。風流を嗜んではいたものの、知識として蓄えていることと、実際に体感するのとでは、雲泥の差だった。
 人の身を得て始めて知った感覚は、鶴丸国永の弁ではないけれど、驚きに満ち溢れていた。
 刀剣男士として顕現して、もう四年の月日が過ぎている。だというのに未だ新発見の連続で、退屈している暇などなかった。
「紙と、筆は……ええと」
 良い歌が詠めそうな予感がして、彼は投げ出していた脚を引き寄せた。膝を立てて部屋の中を見回し、整理出来ているようで、その実物が多い空間に手を伸ばした。
 四つん這いのまま座卓へ近付き、手前に積み上げていた読みかけの書物の障壁に顔を顰めた。
 横に逸れて避けるのは大袈裟だし、かといって立ち上がって、跨ぐのも面倒だ。
「よ、い……と。んわっ」
 結論として、彼はその場から座卓に鎮座する筆を取ろうとした。
 手間を惜しみ、即物的な行動に出た。悲惨な展開が脳裏を過ぎったが無視して、刀を握るのに馴染んだ無骨な手を目一杯伸ばした。
 そうしてもう少しで届きそうというところで、着物の袖が、手前に積まれていた書籍の角に引っかかった。
 遠くへやろうとしていた手が、そのかなり手前で、思わぬ重みに引っ張られた。意識は座卓の筆に集中しており、一尺近い高さがあった書物への対処は遅れた。
 ずどん、とそれなりに良い音が響いた。
「いった、た、た」
 崩れた書物を下敷きにして、歌仙兼定は情けないやら、恥ずかしいやら、ひと言では説明出来ない感情に顔を赤くした。
 急いては事をし損じる、という言葉を聞いた事は無いんですか、と。
 昔馴染みの短刀の声が聞こえるようだった。
 打刀に対してだけやたらと辛辣で、説教臭い小夜左文字の顔が、呼んでもないのに瞼の裏に現れて、これ見よがしにため息を吐いた。細かな仕草ひとつひとつまで再現されて、本当にその場にいるかのようだった。
「お小夜に見られなくて、よかった」
 部屋の真ん中に突っ伏したままぽつりと零し、起き上がるのも億劫に感じて、大の字になったまま数秒間を過ごす。
 指が筆に届かず、座卓ごとひっくり返さなかったのだけは僥倖と、打刀は落ち込む自分を慰めた。
「はあ……」
 決して寝心地が良いとは言えない空間で時を重ね、いい加減飽きてきたと立ち上がる準備に入る。
 まずは両手の平を畳に置いて、上体を起こすところから始めようとした。
 すい、と滑りの良い襖が軽やかに横に開かれたのは、ちょうどそんな時だった。
「なにをやってるんですか?」
「ぎゃっ」
 外から、在室か否かを問う声すらなかった。
 至極当たり前のように室内に顔を覗かせた来訪者に、隙を突かれた男はみっともなく悲鳴を上げた。
 本日二度目の転倒となり、最早簡単には起き上がれない。
 声だけで誰が来たのかも即座に理解出来て、尚更顔が上げられなかった。
 突っ伏したまま身悶えていたら、返事が無いのを訝しみ、向こうから近付いてきた。遠慮のない足取りで距離を詰めて、数秒としないうちに、畳だけだった視界に白い爪先が忍び込んできた。
 小さな指、それよりひとまわり小さな爪。
 冬場でも素足で過ごす少年の親指を、こんなにまじまじ見たのは初めてかもしれない。
 滅多に得られない経験は、しかし嬉しくなかった。もっと違う状況であれば喜べたものをと、悔しさに唇を噛まずにはいられなかった。
「歌仙?」
「……落ち込んでいるところに、塩を塗らないでくれ」
「はあ」
 しゃがんだのだろう、衣擦れの音がした。くぐもった声で訴えられた短刀は分かったような、分からないような緩慢な相槌をひとつ打ち、数秒が経過した辺りでちょん、とひとの頭を小突いて来た。
 旋毛を狙って、指を置いてそのまま動かない。
「お小夜。……その。なにを、して。いるんだい」
 それ以外の反応が皆無で、妙な不安に駆られた。恐怖のようなものまで湧いて出て来て、訊ねずにはいられなかった。
「ああ、いえ。特に意味は、ないんですが。なんていうか。……見えたので」
 対する小夜左文字の返答も、どこかしら戸惑っている雰囲気があった。
 自分でもなにをやっているのだろう、と疑問を抱いている空気が伝わってきて、呆気にとられた打刀は一秒後、噴き出しそうになった。
「んん、んっ」
 勢い良く出て行こうとしたものをすんでの所で封じ込めたが、変な咳き込み方をしたので喉の奥がやや痛い。
 諸々を誤魔化すように急いで起き上がり、わざとらしく喉を撫でさすった。慌てて取り繕ったので、何冊か膝の下に敷いてしまっているけれど、脇に退くのは難しかった。
 下手な気取り方をしているのは、自覚している。小夜左文字もお見通しの筈で、ちらりと様子を窺えば、呆れ混じりの表情が見えた。
「右回り」
「ん?」
「いいえ。なんでもないです」
 その彼がぽろっと意味が掴めないことを口にしたので、首を捻って問い返したが、答えを教えてもらえない。
 首を横に振ってはぐらかされた打刀は、追求すべきか一瞬迷ったが、すぐに諦めて、瞳を宙に泳がせた。
「用件は?」
 杢目が美しい天井を眺めてから、正面に向き直った。凸凹している足場に四苦八苦しつつ、短刀に来訪の理由を尋ねれば、小夜左文字は小さく肩を竦めた。
「ちょっと、かくまってもらおうかと」
「ん?」
 苦笑混じりに言われたが、これもまた意味が読み取れない。
 きょとんと目を丸くした歌仙兼定に、小柄な短刀は一瞬、襖の方を振り返った。
 素早く瞳を巡らせて、接近する気配がないのを確かめて頬を緩めた。安堵から若干猫背になって、左胸に手を添えて軽く上下に揺り動かした。
「篭手切江の、採寸が」
「ああ、そういう。なんだ、まだ諦めてなかったのか」
 追っ手から逃げおおせるのに成功して、力が抜けたようだ。
 いつもより柔らかめの目つきで囁かれた内容に、打刀は大いに納得して頷いた。
 粟田口派の刀たちが揃って浴衣を新調したのに、対抗意識を燃やしたらしい。細川家に所縁を持つ脇差が、このところ嫌になるほど喧しかった。
 着付けを得意とし、己自信ではなく他者を着飾らせるのを喜びにしている篭手切江は、悔しさから周囲に聞こえるほど歯軋りして、負けていられないと盛大に吼えた。自分達ももっと鮮やかに着飾るべきと主張して、同じ江の同胞だけでなく、こちらにも矛先を向けてきた。
 遭遇する度に熱弁をふるわれて、かなり面倒だった。のらりくらりと躱しているうちに夏の気配が過ぎ去って、彼もついに観念したかと思っていた矢先に、季節が舞い戻ってきた。
 広縁に集まっていた乱藤四郎や鯰尾藤四郎たちは、一度は畳んだ浴衣に、再度袖を通していた。あの光景を見て、篭手切江は情熱を再燃させたらしい。
 歌仙兼定もまた、毎日のように着物の新調を促され、是非見立てさせて欲しいと強請られていた。
 自分が着るものは自分で選びたいし、ないなら自分で仕立てる。
 そういう方針でやってきた打刀としては、脇差の申し出は有り難くも、若干迷惑な話だった。
 それにあの大衆向けに特化した歌を好む少年に任せた場合、予想を違えるものを仕上げて来かねない。
 要するにそこにいる短刀と、脇差と、猛牛にも勝る速度を出す二輪車を乗り回す打刀と揃いの、なんだか分からない舞台衣装を出して来そうで――怖い。
 一度でも袖を通そうものなら、既成事実とばかりに仲間扱いされて、望んでもない場に引っ張り出される可能性がある。勿論脇差はひと言もそんなことを口にしていないが、態度から丸分かりだった。
 小夜左文字もそれが分かるから、彼の申し出を断り続けているのだ。
「懲りないねえ、彼も」
「性分なんでしょう」
「そう言ったら聞こえは良いけれど……おっと」
「壁に耳あり、です」
 呆れ混じりにやり取りをしていたら、ギシギシと廊下を行く足音がした。
 襖が閉まっているとはいえ、防音効果はないに等しい。喋り声は簡単に外に漏れ出し、雑談の内容はすぐさま屋敷中に広まった。
 咄嗟に右手で口を塞いだ歌仙兼定に、小夜左文字は首を竦めて笑った。足音が問題無く通り過ぎるのを待ってから目尻を下げて、悪戯っぽく人差し指を口に押し当てた。
 静かに、という合図に黙って頷いて、打刀は藤色の髪を雑に掻き回した。
 たった今廊下を通り過ぎたのは、篭手切江ではない。声がしなかったので推測の域を出ないものの、床の軋みから計算した体重は、脇差のそれではなかった。
 山姥切国広か、山姥切長義辺りではなかろうか。
 一時期、本丸の空気を真っ二つに斬り裂いてくれたふた振りを同時に思い浮かべて、歌仙兼定は足元に散らばる和書の一冊を手に取った。
「しまった。折れてる」
 突き飛ばし、腹で潰した時の角度が悪かったのだろう。表紙の一部が三角に折れ曲がっていた。
 慌てて伸ばしてみたものの、一度出来た皺は戻らない。
 何度か指でなぞって薄くならないか祈っていたら、近場に落ちていた別の本を、小夜左文字が拾い上げた。
「きちんと片付けてないから、こうなるんです」
 つい先ほど聞いた幻聴が、現実となって脳裏に響いた。
 胸に突き刺さる的確な叱責に、咄嗟に身体を硬くして、歌仙兼定は子供のように小さくなった。
「し、仕方が無いじゃないか。片付けたら、その……増えてるんだ……」
「はいはい」
 この小言を聞くのは、これで何度目だろう。
 片手どころか両手を通り過ぎ、千手観音が頭上に降臨するくらいだ。
 なんとか言い訳をしようと試みたものの、ろくな回答にしか導き出せなかった彼に、短刀は諦めた表情で苦笑した。
 彼自身、最早言ったところで治らないと思っているのだろう。
 それでも口にしてしまった自分自身に笑っている、という雰囲気を嗅ぎ取って、歌仙兼定はむすっと口を尖らせた。
 室内は床に物が散乱せず、ある程度片付いてはいるものの、一定の法則に従って整理が出来ているとは言い難い。
 空いたところに適当に詰め込んで行って、棚を満杯にしているだけなので、整然としているのとも違う。必要な物がどこにあるか、即座に見分けるのが不可能な状態なので、ひとたび探し物を始めたら、一帯は足の踏み場もない状態に陥った。
 顕現してから幾度となく繰り返して来た状況が、近日中にも繰り広げられそうだ。
 そう遠く無い未来を想像して肩を震わす少年を軽く睨んで、歌仙兼定はふて腐れた態度でそっぽを向いた。
「悪かったね」
「それが、歌仙ですから」
「褒めてないだろう?」
「もちろんです」
「ぐぬ……」
 ぶっきらぼうに言えば、慰めるような言葉をかけられた。
 もっともそれが彼の本心とも思えない。言葉を重ねれば、予想通りの返答が得られて、二の句を継げなかった。
 どうにもこうにも、この短刀には敵わない。
 古くからの馴染みというのは厄介極まりないと、へし切長谷部と日本号の顔が代表して思い浮かばれた。
 眉間の皺が消えないでいる打刀仲間に同情を寄せて、崩してしまった書籍の回収を今更ながら開始した。小夜左文字も黙って手を動かす彼に倣って、近場で散らかっていたものを集め始めた。
「僕としては、よくもまあ、これだけ集める気になれると」
「お小夜は購買意欲が低すぎるんだ」
「必要無いものまで、欲しいと思わないだけです」
「清貧を気取って、己の心根まで貧しくするよりは、ずっと良いだろう?」
「僕は雅ではない、と」
「……そうは言ってない」
 説教が始まるのを嫌って言い返していたら、機嫌を損ねられた。反論しにくいところに踏み込んで来られて、歌仙兼定は口をへの字に曲げた。
 不満を露わにしつつも、それ以上は声に出さない。
 喉まで出掛かった内容を唾と一緒に呑み込んで、彼は代わりに深々と息を吐いた。
 聞こえようによっては、溜め息と受け止められたかもしれない。
 後から心配になって様子を窺うが、小夜左文字に格段の変化は見受けられなかった。
 もっともかの短刀は、元から表情に乏しい。胸の内を素直に吐露するような刀でないのは、長い付き合いを持つ打刀自身、よく分かっていた。
「いっそ、僕が見立てても良いんだけど」
「なにか?」
「――じきにまた、涼しくなる。篭手切もすぐに諦めるさ」
「だと良いんですが」
 沈黙が嫌で、わざとらしく声を高くした。
 拾った和書を座卓に置く勢いを利用した彼の言葉に、小夜左文字もどこかほっとした表情で口元を綻ばせた。
 彼も密かに、少々言い過ぎたと反省していたようだ。
 引っ張り戻した話題に揃って目を細めて、歌仙兼定はせっせと働く少年を眩しく見詰めた。
「ああ、お小夜。それは、重いから、そのままで」
「これくらい、僕だって」
「無理しないでおくれよ」
 棚の前に置きっぱなしにしていた木箱を退かそうと、華奢な体躯が大股開きで踏ん張る背中がどうにも愛らしくて、たまらない。
 失笑を堪えつつ言えば、小柄なのを気にしている短刀は余計にむきになって、意地でも動かしてみせると意気込んだ。
 こうやって時折顔を覗かせる、子供じみた頑固さもまた、いじらしい。
 口にすれば拳が飛んで来そうな感想を胸の内に留めて、歌仙兼定は額を拭う小夜左文字に頬を緩めた。
「ひと通り片付いたら、休憩にしよう」
「お茶の一杯くらいは、出ますか」
「団子もつけるよ」
「がんばります」
 手伝いを頼まれたわけでもないのに、自発的に打刀の部屋の片付けを行う彼には、毎度頭が下がる。
 礼のひとつもせねばなるまいと、奮発して鼻息を荒くして言えば、意気揚々と頷かれた。
 求められたからと応じたら、思いの外反応が良かった。珍しいこともあると驚いて、もうひとつ垣間見えた短刀らしさに口元が緩んだ。
「そうと決まれば――」
「歌仙、これは?」
「預かろう」
 のんびりしている場合ではなくて、頑張ろうと気合いを入れた途端に、横やりが入った。
 絶妙な嫌がらせだと心の中で苦笑して、差し出された巻物を引き受けた。
 金具を外して広げれば、随分昔に買った絵巻物だった。内容が興味深くて購入を決めたのに、部屋に持ち込んだ途端に行方を見失って、それっきりになっていた。
「お小夜は探し物の天才だな」
「歌仙が片付け下手なだけです」
「……ものは言いよう。うん」
 懐かしい気持ちにさせられて、感嘆の言葉を述べればぴしゃりと言い切られた。
 取り付く島のないひと言に、なんとも言えない表情を浮かべて、歌仙兼定は広げたばかりの巻物を閉じた。
 くるくる捲いて、金具で止めて、その間も忙しなく動き回る少年へと視線を移す。
 小夜左文字は小柄な体躯を生かし、というわけではなかろうが、棚と畳の僅かな隙間を覗き込んでいた。
 そんなところにも紙の一枚や二枚――五枚や六枚も紛れ込んでおり、取り出すのも大変だ。
 猫のように手を出しては引っ込めている短刀を後ろから窺っていた歌仙兼定は、その細い項を流れる汗の雫に気がついた。
 坪庭に面した障子を開けているとはいえ、風は弱い。陽射しは依然強く、太陽を遮る雲は期待出来なかった。
 蚊遣りの煙が、今更ながら鼻腔を刺激した。
 ずっと室内にも漂っていたはずなのに、今になって匂いが戻ってきた。反射的に口と手を左手で覆い隠すものの、露わになったままの瞳は日焼けでやや黒ずんでいる短刀の肌に釘付けだった。
 足の指はあんなに白いのに、項から背に掛かる一帯はよく焼けていた。胸側に比べて赤みが強いのは、ここに来る前に、屋外で日光を浴びて来たからだろう。
 そういえば彼の兄刀のどちらかが、畑当番だった。
 午前中はその手伝いをしていたと推測して、打刀はごくりと息を呑んだ。
 華奢で骨と皮ばかりの体躯ながら、日焼けの恩恵を受けて、短刀の肉体はいつになく健康そうだった。
 その首筋に、透明な汗の粒が浮いていた。蒸し暑さで屋外よりも不快指数が高いのもあり、それはじわじわ大きくなっていった。
 水晶玉のようであり、光を受けて輝く姿は蛋白石のようでもあり。
 初めはとても小さなそれが、時間をかけて成長を遂げて、やがて流れて形を失い崩れ去る。
 誕生から終末までの一連の流れを想像して、歌仙兼定は知らず知らず唇を噛んだ。
 なんて美しい一生だろう。
 そして目の前でこの美しいものが失われることの、なんと惜しいことだろう。
 出来るならば時間を止めて、永遠に閉じ込めてしまいたい。しかし汗の粒はいずれ流れ、潰えるからこそ美しいのだ。
 完璧なのは、ほんの一瞬。
 だからこそ強く惹かれるのは理解しているし、これを無理矢理留め置くのがいかに傲慢であるのかも承知していた。
 それでも、壊したくない。
 壊れて欲しくない。
 だが、叶わないのなら、いっそ。
 まとまりを欠いた意識がぐるぐる回って、目の前が暗く感じられた。
 それが目を瞑った所為だと気付くのに二、三秒必要で、利き手を伸ばしていたのは完全に無意識だった。
 五本ある指のうち、四本までを折り畳み。
「もう、少し……とどか、な……届け。とど――」
 棚の下の奥深くに潜り込んだ書類相手に奮戦していた少年の、首筋に。
 気がついた時には、ぺたりと。
「ひゃうんっ」
 人差し指の先が、成長真っ只中の汗の粒を押し潰していた。
 小夜左文字にしてみれば、不意打ちでつい、と首を後ろから撫でられたのだ。ぬるっとした汗の感触と、ほの温かな人肌の温もりが、快感であるはずがなかった。
 悲鳴は、頭の天辺か裏側から響いたのでは、と思えるものだった。
「な、んな。なんっ。なん、で、すか」
 直後に飛んで来た掌に手首をはたき落とされ、振り返った短刀が顔を真っ赤にして吼えた。
 なぞられたばかりの箇所を庇って棚に背中から突っ込んで行ったのは、些か大袈裟が過ぎる態度だった。
「なにも、そこまで」
「歌仙」
「いや、すまない。その、……なんと……なく……?」
「は?」
 若干傷ついたとは言えず、慌てて取り繕ったが、言い訳にすらならない。
 働かない頭で必死に考えた台詞に、小夜佐文字は憐れみと蔑みが半々に混じった視線を投げかけて来た。
 けれど彼だって、つい先ほど、ひとの旋毛を意味なく触って来たではないか。
 それとどれだけの違いがあるのか。声に出して訴えたかったが、切り出すのが一瞬遅れた所為で、結局言葉に出来なかった。
 斜め下からねめつけられて、どうやって不平不満を訴えられようか。
「団子、二個でお願いします」
「承知した」
 手っ取り早い妥協案を提示されて、呑むしかなかった。
 一も二もなく了承して、歌仙兼定は気を取り直して片付けを再開させた少年をこっそり盗み見た。
 あの瞬間、弾け飛ぶ直前の汗の形は、完璧だった。
 これ以上ない美しさだった。
 至極で、至高で、至宝に等しい輝きだった。
 けれど彼は時を止める術を持たず、その彩りを永遠に閉じ込めるのは不可能だ。
 かといってみすみす崩れ落ちていくのを黙って見送るなど、許せなかった。
 だから、潰した。
 壊した。
 この手で、自ら。
 そうすることで、歌仙兼定は手に入れた。
 彼しか見たことのない、とびきりの彩りを。
 彼だけが壊すことを許された、この上なく美しい玉石を。
「……まったく」
 なにも知らず、気取らずにいる少年にひっそり溜め息を零し、歌仙兼定は短刀に見えないところで唇を舐めた。

2019/09/11 脱稿
待ちつけてうれしかるらん七夕の 心のうちぞ空に知らるゝ
山家集 秋 262