居敷

 処理待ちの書類の山に埋もれて日々を過ごす中、数少ない楽しみは睡眠と食事。
 うち睡眠も、ふかふかのベッドで休める日はごく僅か。残りは執務室に置かれた大きめのソファで、辛うじて身体を横たえる程度だった。
 朝昼晩と、トラブルの報告はこちらの都合など関係ない。マフィアのボスを継ぐと決めた時から覚悟していたとはいえ、こうも頻発されると参ってしまいそうだ。
 連日の激務は心身を蝕み、まだ二十代前半とはいえ、回復が追い付かない。若いのだから大丈夫、というのは詭弁だと、綱吉は心の底から溜め息を零した。
「ちょっと、休憩」
 今日も巨大な執務机の前に陣取り、食事もろくに摂らずに頑張っているが、書類の山はちっとも減らなかった。
 挙げ句、目が霞んできた。すぐに塞がりたがる瞼を頻りに擦っていた彼は、観念して万年筆を手放した。
 情報化社会と言われ、パソコンでの作業が中心とはいえ、重要な報告や決済は未だ紙が用いられていた。
 小柄な青年の手には少々大きい万年筆が卓上をごろり、と転がった。すぐに銀製の文鎮に行き当たり、僅かに跳ね返って停止した。
 その行く末から目を逸らし、綱吉は椅子を引いて立ち上がった。
「ん~~」
 両腕を高く掲げて背筋を伸ばし、凝り固まった筋肉を解し、骨を鳴らした。左右に軽く揺れながら数歩進んで、部屋の中央部で待ち構えていたソファへと向かった。
 革張りのそれは黒く艶を帯び、いつだって綱吉を暖かく迎え入れてくれた。寝室にあるキングサイズのベッドには到底敵わないが、それでも十二分過ぎるくらいの心地よさを与えてくれた。
 ここに横になり、目を閉じれば、五秒としないうちに夢の世界へ旅立てる。
 目覚ましは特に用意していない。どうせ一時間もすれば、様子を見に誰かがやってくるだろう。
 訪ねて来るのが山本や獄寺であれば、こちらの疲労度を推し量り、そっとドアを閉めて帰って行きそうなところだが。
「リボーンだったら、やだなあ」
 容赦なく叩き起こしてくれるかつての家庭教師を思い浮かべて、彼は嫌な未来図を頭から追い出した。
 仮眠する前に、疲れる思いはしたくない。楽しい事だけ考えて、ピカピカに磨かれた靴を脱いだ。
 皺の一本も入っていないそれを無造作に床に並べ、右膝からソファに上がり込んだ。前屈みに倒れそうになった体躯を両手で支え、背凭れに沿って身体を斜めに傾けた。
「ふー」
 肘起きを枕代わりにして、味気ない天井を眺めながら息を吐く。
 大きく膨らみ、すぐに凹んだ腹に手を添えて、綱吉はゆっくり目を閉じた。
 欲を言えば二時間、せめて三十分だけでも、安眠を得たい。
 それくらいは許されるはずと、昨今の己の頑張り具合を持ち上げて、寝息を吐くべく口を窄めた矢先だった。
 どうにもこの男にだけは、超直感が働かない。
「よいしょ、と」
「ぐえっ」
 不法侵入者の声が聞こえたと思ったら、臍の真上に巨大な塊が落ちてきた。
 問答無用で圧迫されて、綱吉は蛙が潰れたような悲鳴を上げた。
 投げ出していた両足と、首から上が反動で跳ね上がり、直後に沈んだ。それでも退かない不届き者を右目で睨み付けて、綱吉は両肘を突っ張らせた。
 上体を起こそうと試みて、力技で退かしにかかるが、叶わない。
「お、も……」
「へえ、この頃のソファは喋るんだね」
「んな訳あるかあ!」
 苦悶に喘いでいたらそんな軽口を叩かれて、思わず声を張り上げていた。
 最後の力を、こんなところで使ってしまった。その後呆気なく沈み、倒れ込んだ綱吉を見て、雲雀はようやく腰を浮かせた。
 ぴくぴく痙攣しているボンゴレ十代目を見下ろし、薄ら笑いを浮かべて肩を竦める。
 誰の所為でこうなった、との思いは呑み込んで、綱吉はまだズキズキ痛む腹を抱え込んだ。
 ソファの上で胎児のポーズを作って、傍らに佇む黒髪の男をねめつけた。涙目なので迫力には欠けるが、抗議のつもりで歯を食い縛っていたら、雲雀は明後日の方角を向いてため息を吐いた。
「そんなところに居るから、悪いんだよ」
「人を踏んでおいて、言うに事欠いてそれですか」
 こちらは昨晩から明け方まで、近隣で発生したいざこざ解決に駆り出されていたのだ。城に戻ってからは溜まっていた事務仕事に専念して、睡眠時間はごく僅か。
 満腹状態だったら、吐いていたに違いない。
 空っぽに近い胃に救われたが、あまり嬉しくなかった。今のやり取りだけでげっそりやつれた気分になって、綱吉は背凭れにしがみつき、身を起こした。
 なんとかソファの真ん中に座って、神出鬼没極まりない雲の守護者を仰ぎ見る。
「はぁー……」
「ちょっと。人の顔見て溜め息、吐かないでくれる?」
「だったら、溜め息吐くようなこと、しないでください」
 雲雀にとっては軽くやったつもりでも、こちらは死ぬ思いをしたのだ。少しくらい愚痴を言っても許されるはずだ。
 いつになく強気で言えば、自由すぎる暴君は機嫌を損ねたのか、むっと口を尖らせた。
 余所を見てしばらく黙り込み、間を置いて再度綱吉の方を盗み見た。時間の経過でこちらの感情が落ち着き、状況が沈静化するのを狙っての行動と思われた。
 その手は食わない。過去に何度、同じような目に遭ってきたと思っているのか。
 今度こそ許してやらない、と心の中で牙を剥いていたら、なにを思ったのか、雲雀は短く切り揃えた前髪を押し潰した。
 本当は、額に掛かる前髪を掻き上げたかったに違いない。しかしほんのひと月前に、鬱陶しいと言ってバッサリ切り落としてしまっていた。
 ところが癖が抜けきらないようで、利き手を空振りさせる寸前だった。
 ちょっとした仕草だが、滑稽だった。うっかり噴き出しそうになったのを堪えて、綱吉は緩みかけた緊張感を奮い立たせた。
 ここで力みを解いたら、相手の思うつぼだ。
 この男のことだから、こういったポーズさえも計算のうちかもしれない。
 疑心暗鬼に陥っている若きドン・ボンゴレに肩を竦めて、雲雀恭弥はおもむろに右手を伸ばした。
 直前まで己の頭上に置いていたものを、綱吉の真上に移した。重力を無視して跳ねている癖毛を軽く押し潰して、くしゃくしゃと掻き混ぜたと思えば、急にすいっと持ち上げた。
「なんなんですか」
「分かったよ」
「なにがですか」
 腰に手を添えて偉そうにふんぞり返り、明後日の方角を見ながら言葉を紡ぐ。
 意味が分からなくて眉を顰めた綱吉は、彼の手の動きから、退くよう言われているのだと理解した。
 肘から先をひらひら横に振られて、彼は渋々尻を浮かせた。横にずれるだけで良いのか、目で問えば、雲雀は尚も手を振り続けた。
 ソファから離れるよう指示されたが、理由は説明されていない。いったいどういうつもりなのか、さっぱり見当が付かないが、逆らって殴られるのも癪だった。
「はいはい」
 苦々しいものを堪えて立ち上がり、言われた通り場所を譲った。すると雲雀は満足そうにひとつ頷き、今し方まで綱吉がいた場所に腰を下ろした。
「ヒバリさん」
 単に自分が座りたかっただけかと、腹が立った。
 そういえば彼は、こちらが寝転がっているのを承知で座ってきた。最初からそのつもりだったのだと分かって、堪忍袋の緒が切れそうだった。
「ちょっと」
 安眠を邪魔された恨みを晴らすべく、拳を硬くした。
 肩を怒らせ、眉を吊り上げて仁王の形相を作ろうとして、摺り足でソファへ躙り寄った。
「ほら」
 そこに軽やかな、男の声が舞い込んだ。
 一旦座り、慣れた調子でソファに横になった男が、やおら綱吉に向かって手を伸ばした。
 足が長すぎて、踵が肘掛けからはみ出していた。残る片足は軽く膝を曲げ、空を抱く格好で両腕を広げていた。
 おいで、とポーズを決められて、一瞬意味が分からなかった。
「なにしてるの」
 惚けていたら、急かされた。早くしろ、と鋭い目つきで睨まれて、綱吉は思わずビクッとなった。
 中学生の頃のような反応を見せられて、雲雀は一瞬固まった後、不意に口元を綻ばせた。
「座りなよ」
「はい?」
「僕が君に座ったから、怒ったんでしょ」
「なんのこと……って、ああ!」
 カラコロと喉を鳴らしながら言われたが、咄嗟に意味が分からない。
 きょとんとしながら小首を傾げた大空の守護者は、ソファに堂々と寝転がる男の全容を視界に収め、ハッと背筋を伸ばした。
 どうすればそんな理屈に到達出来るのか、彼の思考回路が十年経っても掴めない。
 けれどこういう突飛な発想を繰り返してきたからこそ、雲の守護者は今の地位を得たに違いなかった。
 横になっているところに座った侘びとして、今度は自分に座れ、と言っているのだ。
 なんとも恐れ多い勧誘に、綱吉は右の頬を引き攣らせた。
「えええ……」
 碌でもない謝罪に苦笑を禁じ得ず、実行に移すには勇気が要った。
「早くしなよ」
「うわっ」
 戸惑い、躊躇していたら、更なる催促を受けて、宙を泳いでいた男の手が向かってきた。
 右手首を掴まれて、問答無用で引っ張られた。その程度でバランスが崩れることはなかったが、軽くふらついて、爪先がソファにぶつかった。
 咄嗟に左腕を伸ばして背凭れに押しつけ、つっかえ棒代わりにして姿勢を維持する。
 距離が狭まった分だけ鋭い眼光に潜む圧が強まって、綱吉は降参して白旗を振った。
「じゃあ、えっと。失礼します」
 不意打ちで座らなければ意味が無い気がしたが、こうも繰り返し求められたら断れない。
 優柔不断な性格にトホホと肩を落として、彼は開放された右手を太腿に添え、雲雀に尻を向けた。
 ソファになにも置かれていない、という前提で、なるべく重心を後ろにし過ぎないよう、ゆっくり腰を落とした。
 雲雀恭弥の脇腹の、本当に端の端ギリギリのところを狙って、座る。
 不自然極まりないポーズに膝がぷるぷる震えて、太腿が数秒としないうちに悲鳴を上げた。寛ぐどころか、空気椅子に挑んでいる気分だった。
 真顔になって、遠い彼方の壁を見るだけの時間が過ぎていった。どんな苦行なのかと罰ゲーム感覚で耐えていたら、体重を少しも預けてもらえない側から不満が発せられた。
「なにしてるの。そうじゃないよ」
 ぶすっと言って、雲雀が斜め下から手を伸ばして来た。上半身を少しだけ浮かせて、辛うじて姿勢を維持していた綱吉の手首をむんずと掴んだ。
 他者を殴るには向かない細い腕を、強引なやり口で引っ張った。
「わあ」
 それでバランスを崩した綱吉が、雲雀の方へと倒れ込む。
 咄嗟に無事な方の腕を伸ばし、座面の端を掴んで転倒だけは回避するが、それも王様気取りの男にとって不満だったようだ。
 露骨に顔を顰め、口を尖らせたかと思えば、何を思いついたのか拘束を緩めた。開放された綱吉はサッと腕を引いて背後に隠したが、彼の目的は想像と違ったところにあった。
「え」
 今の綱吉は、雲雀の方に向いて腰を捻り、ソファの端に浅く腰掛けた状態だった。
 その太腿に手を添えられて、軽く揉むように撫でられた。
 瞬時に背筋がぞわっとなって、鳥肌が立った。不吉な予感がして、反射的に仰け反って距離を取ろうとしたのが、結果的には失敗だった。
「わわわっ」
「これは、……うん。こっち」
 突然膝頭の辺りをむんずと掴まれたかと思えば、出来た隙間を通って長い指が裏側に滑り込んできた。そのまま水を掬うように持ち上げられて、ただでさえ後ろに傾いていた重心が一層後方に偏った。
 仰向けに倒れかけて、綱吉が慌てふためいている間は、完全に雲雀の独壇場だった。
 ぶつぶつ呟きながら、人の左膝から先を宙に浮かせた。抵抗する暇を与えず、思うままに事を進めていった。
 直前まで前のめりに、その後仰向けを強いられた。腹筋に力を込めて耐えていたところに、下半身を操作されて、今度こそ倒れる、と覚悟した。
 そうならなかったのは、雲雀が掴んでいた足を降ろしたからだ。
「ここだね」
 彼は満足げに言って、綱吉の膝をソファに横たわる自身と背凭れの間に埋めた。動かないよう上から押さえつけ、固定して、それ以上はしてこなかった。
 自分のことに必死だったので、現状がどうなっているのか、即座に理解出来ない。ただようやく終わったと、ホッと息を吐いた綱吉は、背筋を伸ばすついでに改めて己の現在地を俯瞰した。
 太腿の内側に、固くて太いものが当たっていた。
 不安定な状態をどうにかしたくて、無意識に動かした下半身が、分厚くて仄かに温かなものにぶつかった。
 皺だらけのズボンの上から擦られて、ビクッとなった。背中に冷たいものが流れて、斜め下から注がれる視線に頬がヒクリと引き攣った。
「うん」
 今、自分がどういう状態なのか、ようやく把握した。
 口角を持ち上げた雲雀が、心底楽しそうなのが癪でならなかった。
 だがそれ以上に、湧き起こる羞恥心に耐えられなかった。
「な、なっ……ああああ!」
「悪くないね」
 意図せぬうちに、彼を跨いでいた。そうなるよう、仕掛けられた。
 操られた。いいように遊ばれた。
 臍よりも少し下、足の付け根より僅かに上。腰骨を跨ぐ格好で、座らされていた。
 咄嗟に退こうとしたけれど、左膝をがっちり押さえられているので、果たせない。代わりに尻を浮かせれば、追いかけて、突き上げられた。
 なにかを連想させる動きに、かあっと熱が迸った。
「ひひ、ひっ、ひば、ヒバリさ、ん」
「どう? 僕の座り心地」
「まだ昼間です!」
 顔が赤くなるのを抑えられない。もっと早く逃げておけば良かったと思うが、後悔先に立たず。全てが今更だった。
 そこに追い打ちをかけるような台詞を吐かれ、反射的に怒鳴った。
「へえ……?」
 嫌々と子供のように首を振って叫んだ綱吉に、雲雀は一瞬目を丸くして、すぐに意地悪く眇めた。
 不敵に笑い、両側から細腰を捕まえた。本格的に拘束を開始して、ぐり、と腰を軽く右に捻った。
「う」
 その瞬間、墓穴を掘ったと悟ったが、もう遅い。
 腹の中で舌なめずり中の男を前にして、綱吉は一気に青くなった。
「昼間じゃなければ、いいんだ?」
「そういう問題じゃあ」
「ふうん? じゃあ、昼間でも問題無いよね」
「ちがああああう!」
 暖簾に腕押し、馬の耳に念仏。
 そんな慣用句が脳裏を過ぎった。
 懸命に抵抗するものの、本気で殴り飛ばせないのは、相手が雲雀だからに他ならない。
 脇腹を擽られ、背中を撫でられた。ゆっくり身体を起こす男が迫って来ても、追い返す真似はしなかった。
 前髪越しに額で頬を擽られ、機嫌を測るように頬を押しつけられた。吐息が掠める近さで覗き込まれる頃には、言い返す気力もなくなっていた。
「一緒に怒られてくれますか」
「君の頑張り次第かな」
 キスの前のお強請りは、あまり期待出来そうにない。
 それでも良いか、と腹を括って、綱吉は広くて逞しい背中に腕を回した。

2019/06/02 脱稿