闇とかこへる 霧にこもりて

 ふわりと、微かに甘い香りが鼻腔を擽った。
 凛と静まり返った空間に、色を伴わない匂いだけが通り過ぎて行く。風はなく、無駄な物音が悪戯に聴覚を刺激することもなかった。
 お蔭ではっきりと、目に見えない存在を認識出来た。深く息を吐き、歌仙兼定は満足げに口元を綻ばせた。
「躑躅か」
 そういえばこの辺に咲いていたと、姿の見えない艶やかな花を思い浮かべて囁く。
 吐息に混ぜ込んだ小声は低く掠れ、あまり遠くまで響かずに消えていった。
 空を見上げれば、月は影も形も無い。薄墨を広げたような雲が一帯を覆い尽くしており、星明かりは疎らだった。
 遙か遠くに常夜灯としている石灯篭の火が見えるが、それがこの場所まで影をもたらすはずもなく。
 足元さえ判然としない暗闇に佇んで、打刀の付喪神は芝居じみた仕草で肩を竦めた。
「悪い虫に、なってしまいそうだ」
 本丸に集う刀剣男士の大半は寝床に入り、朝が来るのを夢の中で待っている。近侍に命じられた静形薙刀は寝ずの番を決め込んでいるが、近くを通りかかった時はかなり眠そうだった。
 こっくりこっくり舟を漕いでは、突然覚醒して、はっと背筋を伸ばしていた。
 あれは傍目から見ると滑稽だが、自分がやっている時に他者に見られるのは、かなり恥ずかしかった。
 今宵は何も見ていない。今後の為にも己の口に蓋をして、歌仙兼定はぼんやりとした暗がりに目を凝らした。
 短刀ほどではないにせよ、打刀である彼もまた、夜目が利く方だ。しかし周囲を注意深く探っても、艶やかに咲き乱れる躑躅は見当たらなかった。
「おや?」
 現在地の認識を誤ったらしい。爪先で雑草繁る地面を叩いて、彼は眉を顰めた。
 道を間違えたつもりはなかったが、知らないうちに、闇に惑わされたようだ。
 陽の光の下であれば、なかなか起こりえない事だ。珍しい経験に苦笑を漏らして、歌仙兼定は気の向くままに歩みを再開させた。
 本音を言えば、夜の躑躅の蜜を吸う、悪い虫になりたかった。こんな時間から甘露に舌鼓を打ち、闇に濡れる花を愛でてみたかった。
 期待は裏切られた。
 花の方から、丁寧に遠慮を申し出られたようなものだ。或いは静寂を友とする夜が、花の安眠を守るべく、帳を降ろしたのか。
 どちらであっても、風流であるのに変わりはない。
「ふふ」
 楽しい想像に胸を膨らませ、障害物に注意しながら足を操る。月のない空の下での散歩は、いつだって危険と隣り合わせだった。
 それでも外に出ようと決めたのは、ただの気まぐれでしかない。
 眠れなかった。布団を敷いて横になってはみたものの、どれだけ待っても睡魔は訪れない。妙に頭が冴えており、目を閉じてじっとするのは苦痛だった。
 要らぬことをあれこれ考えては、結論に至らぬまま次の思索へと突入した。長く忘れていた出来事を不意に思い出したり、朝が来てからすべきことを繰り返し確認したり。
 そんなことをしているから余計に眠れなくて、痺れを切らして布団を蹴り飛ばした。
 気分転換をして睡魔を呼び込もうと、読みかけだった書物を広げた。文字を追っているうちにあわよくば、というのが狙いだった。
 けれど三行目に入る前に、これ以上読み進めると寝ないまま朝になってしまう危険を察知した。
 尚悪い事に、欠伸が出るどころか、益々目が冴えていた。書物を読むのに必要な灯りを得るべく、有明行燈の火を蝋燭に移し替える手間を経たのも、眠気を遠ざける一因になっていた。
 眠りたいのに、その逆の行動ばかりしている。
 部屋にいると徹夜で読書の誘惑に駆られ、危険は増すばかり。ならば思い切って室外に出た方が良いと、そういう流れだった。
 台所を覗くか、厠へ向かうか。
 隣室で高鼾中の和泉守兼定を叩き起こすのも悪いので、まずは手っ取り早く話し相手になって貰おうと、近侍が控える部屋に向かった。
 それで遭遇したのが、半分寝て、半分起きている状態の静形薙刀だった。
 起こしてやるのが先輩としての責務な気はしたが、自力で頑張ってこの危機を潜り抜けるのも、良い経験となるだろう。
 そういう理由で近付かず、散策に転換したのだが、要はあまり親しく無いので、会話の題材に困るとの判断だ。
 これが良く見知った短刀だったなら、喜んで乗り込んで行ったのだが。
 つれなく追い払われる未来まで想像して、栓なき妄想に苦笑する。常に頭の片隅に居座っている小さな影を思い浮かべて、歌仙兼定は照れ臭さに頬を掻いた。
 あの幼い見た目の少年も、今頃は夢の中に違いない。その内容があまり良いものではないとしても、だ。
 復讐の逸話を有する短刀は、それこそが己の成すべきことと言って疑わない。主の懐に収まり、主を守り抜く存在でありながら、その主の命を逆に奪った因果により、性質が変容してしまったのだ。
 粟田口に代表される短刀たちのような、大らかさや無邪気さは、左文字の短刀には見受けられなかった。
 常にもの悲しげな表情を浮かべ、或いは抑えきれない怒りを瞳に滾らせている少年だ。出会ったばかりの頃は彼がどうしていつも怒っているのか分からなくて、今思えば無粋な質問を、度々投げつけもしたものだ。
「……あの頃の僕は、お小夜にとって、良くない虫だったろうな」
 躑躅の香りに誘われながら、様々な植物が集まっている庭をさまよい歩く。時間が潰れて、程よく身体が疲れるのを願っているだけだから、目的地など特に決めていなかった。
 結果として布団を敷きっぱなしの部屋に戻れたら、それで構わない。
 常夜灯の光から離れ過ぎないのだけ気をつけて、歌仙兼定は爪先に当たった小石を脇へ払い除けた。
 草履の先端で跳ね飛ばし、進路を平らにしてから細長い雑草を踏み潰した。夜の時間を邪魔された草花は鬱陶しげに打刀の足に絡みつき、湿っぽい体躯を押しつけてきた。
 空気は程よく温く、寒さは感じなかった。
 夏はまだ遠く、冬は欠片すら残っていない。上着も羽織らずに出て来たが、一枚重ねていたら、暑さで嫌になっていたはずだ。
 考えあってのことではなかったけれど、良い判断だった。自画自賛して笑みを零し、彼はすっかり遠くなった躑躅の香りを、名残惜しげに振り返った。
 結局、花自体は見付けられなかった。ここに来るまで、度々甘い香りに誘われたが、ついぞ姿を現してくれなかった。
 なんとつれないのだろう。まるで会いに行くとの文を女に寄越しておきながら、いつまで経ってもやってこない男のようだ。
 思い焦がれ、探し求め、待つのだけれど、向こうは霞のように消えて実態を掴ませない。手を伸ばしても指の隙間からすり抜けて行ってしまう思いは、歌仙兼定にも覚えがあるものだった。
「やれやれ」
 直前まで小夜左文字のことを思い浮かべていたから、尚更だ。
 透明な水に手を添えて掬ったつもりでいて、気がつけば全てが零れ落ちている。そしてくだんの短刀は、水自体も透明ではなく、真っ黒い泥だと指摘するのだ。
 あなたがそうだと信じ込んでいるものは、僕にとってはまるで違うものです。
 いつ、どういう状況だったかは忘れたけれど、そう言われたのを覚えている。
 どのような文脈で、どのような流れで出たひと言かも覚えていない。ただこの指摘はグサリと胸に突き刺さり、未だに抜けない棘と化していた。
「お小夜」
 遠回しな断りの台詞だとの理解は、気付かなかった振りをして奈落の底へと放り投げた。
 この好意は、刀剣男士としての利にならない。逆に迷いを産み、審神者への忠義に仇為すことにもなりかねない。
 知っている。
 分かっている。
 それでも簡単に捨てきれないし、消せる感情ではない。だからこそ千年を超える時の中で、恋の歌は尊いものとして伝えられてきたのではないか。
 彼を愛おしいと思うようになったのがいつかも、記憶は曖昧だ。
 出会って、離れて、また出会って。
 会えなかった時間の分だけ、恋しさが募った。再会を果たした暁にやりたいこと、話したいことを数えているうちに、数百年が過ぎた。
「身の憂きを いはばはしたに なりぬべし……」
 言葉にすれば中途半端になり、けれど言わずにいれば胸が焦がれる。
 複雑怪奇な心情を詠んだ歌に想いを託し、甘ったるい香りに後ろ髪を引かれつつ、次の一歩を踏み出した。
 悪い虫になりきれない自分の中途半端さに下唇を噛んで、気晴らしのつもりで天を仰いだ。
「はあ」
 口を開けて短く息を吐き、鼻から吸い込んだ。四肢に蔓延る熱を放出し、肩の力を抜いて、若干猫背になった。
 部屋に居ても、外に出ても、答えの出ないことばかり考えてしまう。
 月明かりもない暗い夜のうちだから、頭の中まで黒く沈んでしまうのだ。肉体よりも精神的な疲弊を覚えて、歌仙兼定は屋敷に戻ろうかと視線を上げた。
 常夜灯の頼りない光を右奥に見て、現在地を素早くはじき出した。来た道を戻るのも味気ないと、少し先にあるはずの分岐を経て行こうと即座に決めた。
 本丸の庭園は広い。徐々に拡張が繰り広げられて、近頃では藤棚が整備されたり、梅林の中に東屋が作られたりと、時間遡行軍との戦いとは関係無いところで妙な力が加えられていた。
 風流な景色が四季を通じて楽しめるから、歌仙兼定としては願ったり叶ったり。もっとも恩恵を預かりたければ、日々の手入れに協力するよう求められており、問答無用で駆り出されるのが難点だった。
 藤棚作りで両手を傷だらけにした記憶が蘇った。
 設計図通りに組み立てたはずなのに、格子が綺麗な四角形の連続にならなかったのは、何故だろう。
 花が咲いてしまえば関係無いが、冬の間、陽の光がそのまま地面に落ちていたのを見た時は、気になって仕方が無かった。
 赤や白の花がみっしりと咲き誇り、巨大な鞠のようになっている躑躅も良いが、長い花房が風に揺れる藤の花も美しい。
 昼間の光景を思い描き、顔を綻ばせた。朝が来たら瞼に焼き付けに来ようと決めて、石灯篭の光を確認した。
 寒くはないけれど、日中に比べれば気温は下がっている。自覚がないまま徐々に体温を奪われていたと知り、彼は薄絹の寝間着の上から両腕を撫でた。
 この様子なら、無事に眠れそうだ。ほんのり湧き起こった眠気を増幅すべく、わざと欠伸を零して、往来の多さから雑草が生えなくなった小道に進路を切り替えた。
 嫌なことは忘れて、夜の静寂を楽しむのに専心した。鼻歌を奏でたりはしないが、それに近い心境で調子良く歩を進めた。
 やがて茅葺きの茶室が現れ、水の跳ねる音がした。この時間でも眠らない魚が泳いでいるのか、軽やかな花の香とは違う、青草や土と混じり合った水の匂いがした。
 間もなく丹塗りの太鼓橋が見えてくる。光に溢れた景色を瞼の裏に呼び出し、目の前に広がる薄闇に線描したような光景と重ね合わせた。
「……む?」
 本来なら、ぴったり重なり合うはずだ。計算が狂った藤棚とは違い、一部のずれもなく、歪みも出ないはずだった。
 ところがどこかが変だと、本能が告げていた。違和感を覚えて、彼は出しかけた足を戻した。
 背筋を伸ばし、池に架かる太鼓橋をじっと見る。なにが違っているのか必死に考えていた矢先、正解の方が先に動き出した。
「歌仙?」
 向こうの方が、打刀よりも遙かに夜目が利く。
 それでも若干自信なさげに名前を呼ばれて、歌仙兼定のぞわっと全身に鳥肌を立てた。
 背筋が寒くなり、内臓がぎゅっと縮んで真ん中に集まった。圧迫された心臓がドドド、と小刻みな音を響かせて、首筋に冷たい汗が流れた。
 呼吸が止まり、吐き気を覚えた。喉の低い位置を胃酸に焼かれて、気持ち悪さから叫び出したい衝動に駆られた。
 瞠目し、立ち竦む。
 一方で橋の中腹に蹲っていた少年は、欄干を助けとしてゆっくり立ち上がった。
 信じられない気持ちで首を振るが、実際にはそれほど動けていなかった。居ると思っていなかった存在をその場に見出して、愕然としつつも、冷静な部分が状況判断に務めていた。
「お小夜、どうしたんだい」
 優しく質問したかったのだけれど、詰問の体になってしまった。
 動揺が隠しきれない低く掠れた声に、短刀の付喪神は自嘲気味に微笑んだ。
「歌仙こそ」
 草木も眠る時間帯だ。起きている者は他に居ないと、互いに思い込んでいた。
 油断した。気付くのが遅れた。
 間抜けな顔をしていたに違いない。あんぐり開きっ放しだった口を慌てて閉じて、打刀は気を落ち着かせるべく深呼吸を繰り返した。
 左胸に手を添えて、荒立つ鼓動を鎮めた。前歯の裏側を舐めて、二度、三度と瞬きを連発させた。
 目を閉じて、開いても、小夜左文字の姿は消えない。勝手な妄想が生んだ幻ではないのを再確認して、意を決して橋の袂に近付いた。
 短刀は逃げなかった。太い欄干に身を寄せて、大人しく打刀を待った。
「眠れなくてね」
 あと数歩で並ぶというところで呟けば、小夜左文字は首を竦めた。寒さから来る仕草ではなく、噴き出しかけたのを堪えたらしかった。
 きゅっと引き結んだ唇を解いて、本丸の中でも際立って背が低い刀剣男士は仰け反るように背筋を伸ばした。どことなく呆れたような、困った雰囲気を漂わせて、スッと目を逸らした。
 歌仙兼定を見たかと思えば、地獄の入り口を想起させる池の水面に視線を向けた。釣られて同じものを視界に入れれば、吸い込まれそうになった。
 身を乗り出しすぎると、落ちてしまう。それはあまりにも間抜けが過ぎて、実行に移すわけにはいかなかった。
 冷や汗を拭い、体内に残る熱を息と一緒に放出した。身長差を考え、真横に並ぶのではなく手前で足を止めて、目線の高さが近くなるよう配慮した。
 その心遣いを汲み取ったのか、違うのか、小夜左文字は肩を竦めて首を右に傾けた。
「僕も、です」
 真夜中の散策の理由を語り、目尻を下げた。しかし淡い微笑みの裏側に、言葉に表した以外の理由が隠れているのは明白だった。
 肉体が睡眠を拒んだ打刀とは、根本的に違う。彼の場合は、心が拒んでいると言うべきだろう。
 小夜左文字が連れているという黒い澱みは、他の刀剣男士には認識出来ない。本当に存在しているのかと疑いたくなるが、当の刀が言うのだから、信じるしかなかった。
 その黒い澱みが、小夜左文字にしか聞こえない声で、囁く。
 憎しみを。
 恨みを。
 怨嗟の声の主は、判然としない。山賊に殺された身重の女性か、短刀を手にした山賊に殺された無辜の人々か、はたまた研ぎ師になってまで復讐を遂げた男のものか。
 或いはその全てか。
 持ち主を守るべき短刀は、長く憎悪に晒されたことで、自責の念から復讐を志した。刀の身でありながら、与えられた逸話の通りに役目を果たそうとして、過ぎた時間に固執した。
 それを憐れと思う者もある。
 けれど歌仙兼定は、それだけとは思わない。
 彼の執念を、信念を、誰が否定出来るだろう。『小夜左文字』という短刀の美しさは、叶えられない願いを抱き続ける虚しさ、哀しさを伴ってこそのものだ。
「そう」
「はい」
 二本の足でしっかり地面を踏みしめる短刀は、凛とした眼差しで前を見ている。ただその瞳に映る景色が、他の刀たちと違っていたとしても。
 それが彼の世界であるなら、尊重するだけだ。
「冷えているね」
 手を伸ばし、小さな掌を掬い取れば、意外にも小夜左文字は拒まなかった。
 珍しいことだったが、なにもこれが初めてではない。久しぶりに触れるのを許された手を撫でて、打刀は氷のような冷たさに眉を顰めた。
 いったいいつから、彼はここにいたのだろう。
 己が引き連れる黒い澱みが、仲間の夢に悪影響を与えるのを恐れて、たったひと振りで。
 孤独には慣れていると言っても、辛くないわけではない。以前なら兎も角、今の本丸は大所帯であり、昼も夜も、嫌になるくらいの賑やかさだった。
 喧噪を常に隣に置く現状では、ひっそりと静まり返ったこの今の状態こそが異質だ。歌仙兼定はそれを分かった上で散策に出て、夜の光景を楽しんでいたけれど、小夜左文字は事情が違った。
「歌仙だって、冷たいです」
 細かな傷が無数に残る手の甲を親指で捏ねていたら、不意に言われた。
 先ほどと比べたら幾ばくか、声の調子が高い。己の登場により彼の心境に変化が生じ、気が楽になったのだとしたら、これ程嬉しいことはなかった。
「おや。ではもうしばらく、こうしていても?」
 だからなのか、つい調子に乗った。
 小首を傾げながら囁いた打刀に、短刀は一瞬きょとんとしてから、呆れ顔で肩を竦めた。
「片手だけで、足りるのなら。どうぞ」
「むう」
 思わぬ形で幸運に恵まれたと喜んでいたら、見透かされた。
 嘲笑めいた眼差しを斜め下から投げかけられて、歌仙兼定は喉の奥で唸った。
 我が儘を言えば、両手とも握らせてくれたのだろうか。それともこれ以上は有料だとでも言って、振り払われてしまっただろうか。
 どちらにしても、あまり良い結果にはならない。
 ならば贅沢は言わず、今の状況で満足しておくべきだ。これだけでも過分なまでの幸福なのだから、二兎を追うのは愚かしすぎる。
 ほんの一瞬の間に様々な葛藤を抱き、現状維持を決めた。向こうから申し出てこない限り、絶対に手放さないと密かに誓って、痛ましくも勇ましい手を包み込んだ。
 この胸の奥底に宿る炎が、彼に届けば良い。繋いだ場所から流れて、冷え切った小さな体躯が少しでも安らぐのなら、いくらでも差し出すつもりだった。
 痛くない程度に指先に力を込めて、尖り出ている指関節を順繰りに撫でた。
 小夜左文字は黙って打刀の好きにさせて、遠くを見たかと思えば、一瞬のうちに視線を戻した。
 交錯したかと思えば、脇へ逸れ、やがて定位置に収まった。
「お小夜?」
「いえ。花の……躑躅……?」
「躑躅? ああ、うん。向こうに咲いているね」
 戸惑いが垣間見える表情と台詞に、歌仙兼定は嗚呼、と頷いた。自信なさげな少年の弁を補足して、顎をしゃくり、己が来た方角を示した。
 池を迂回する格好で庭を巡ってきたので、歩いた距離はなかなかだが、躑躅が植えられた場所は存外ここから近い。
 自らは嗅ぎ取れなかったが、花の香りとは得てしてそういうものだ。顔を寄せて匂いを堪能しようとしても、思った通りに薫ってくれない気まぐれさは、まるで生きている人間のようでもあった。
 植物でさえ思うままにならないのだから、心を持つ相手ならば、尚更に。
「難しいね」
「歌仙?」
「こちらのことだよ」
 ままならない事ばかりと愚痴を零して、拾われた。
 なにか言いたげな少年に先手を打って、歌仙兼定は自分に向かって苦笑した。
「見にいくかい?」
「なにを、ですか」
「躑躅を」
「ああ……」
 一度途切れた会話を再開させようとして、巧く通じなかった。慌てて言い足せば、小夜左文字は緩慢に頷き、あまり興味なさそうに顔を背けた。
 最初に話題を振ってきたのは彼なのに、意外だ。
 執着があったわけではなく、偶々そよ風に乗って流れてきた匂いに疑問を抱いただけ。その程度だったとひとり結論づけて、打刀は次に放つ一手を探して口を噤んだ。
 左手で口元を覆い隠し、引っ張られた気がして右手に視線を落とす。
 中途半端な位置を泳ぐ指先越しに見た少年は、気のせいか拗ねているようだった。
「お小夜?」
「いえ、別に」
 素っ気なく言われて、突然の不機嫌ぶりに驚きを隠せない。
 なにが気に障ったのか懸命に考えるが、心当たりはひとつも浮かんでこなかった。
 躑躅を見に行くか、どうかというやり取りしかしていない。それで臍を曲げられるとは夢にも思わないし、この先だってそうだろう。
「別に、って」
「綺麗でしたか」
「ん?」
「躑躅」
「ああ」
 話の腰を折られて尻込みしていたら、一度は終わったはずの話題が帰って来た。
 花の話を出されて、一度だけ首を縦に振った。まずは合いの手を挟んで、目を細めて、照れ臭さから口元を緩めた。
「どうやら振られてしまったみたいでね。見付けられなくて。匂いだけ、楽しんで来たよ」
「そうなんですか」
 格好を付けたいところだけれど、小夜左文字相手に虚勢を張っても仕方が無い。
 正直に本当のことを告白したら、不思議と尖っていた短刀の気配が和らいだ。
 何故か今のひと言で、彼の機嫌が直ったようだ。理屈がさっぱり分からなくて、謎だらけだったけれど、指摘すればまた気分を害してしまいそうで、言わずにおいた。
 本当にままならず、厄介この上ない。
 しかしだからこそ面白くて、興味が尽きなかった。
「風が、出て来たかな」
 上空は相変わらず雲が広がって、螺鈿の如く煌めく星々を隠していた。ただその雲の流れが、屋敷を出た直後に比べると、いくらか速まっていた。
 雨は降らないだろうが、風のお蔭で些か寒い。
 そろそろ撤収の頃合いだと独り言を呟けば、呼応するかのように、短刀の方から橋を降りてきた。
 斜めに伸びていた肘がゆっくり下がり、角度を持った。ちゃっかり風よけに使われて、歌仙兼定は失笑せずにはいられなかった。
「寒いかい?」
「少しだけ、ですが」
 懸命に耐えて問いかければ、小夜左文字はムッとしつつも頷いた。
 強がって否定に走るかと思いきや、逆だった。素直に認めたのには吃驚したが、眠いのだとしたら、あり得る話だった。
 ならばこの後行く先は、ひとつだ。
「戻ろうか。そうだ。なんなら、今夜は一緒に寝るかい?」
 思いつきで、つい口走った。
 言ってから、あまりにも傲慢が過ぎる申し出だと気付き、はっと息を呑んだ。背筋が凍えるような寒気を覚えて、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 小夜左文字はきっと、吹雪を招く雪女よりも冷たい眼差しと、表情で、こちらを見ているに違いなかった。馬鹿にして、憐れんで、見下すような視線で眉間に皺を寄せているに違いなかった。
 片手ではとうに足りない過去の記憶を一気に振り返って、前に出そうとした足を凍らせた。浮いていた爪先を戻し、すん、と鼻から息を吸って、誤魔化すべく雅とは程遠い笑みを無理矢理形作った。
「ははは。なんて、ね」
 冗談を言った体を装うとして、声が上擦った。
 とても巧く出来たとは言い難いけれど、今の打刀にはこれが精一杯だった。
 無理矢理絞り出した笑い声に、外的な要因から右手が大きく震えた。解けかけた指先を小夜左文字の方から繋ぎ直して、一瞬険のある眼差しを作ったかと思えば、直後に伏して深々とため息を吐いた。
「…………」
 はぁ、と聞こえる音量でやられて、これ以上の気まずさは他にない。
 分かり易すぎる失態に、歌仙兼定は天を仰いだ。
 もっと良いやり方があっただろうに、どうしてそちらを選び取れなかったのか。
 他に思いつかなかったし、今も思いついていない。だがもっと時間があり、心に余裕があれば或いは、と勝手に期待して、絶望して、目頭を熱くした矢先だ。
 繋いだ手を強引にぶん、と前後に振って、小夜左文字がへの字に曲げた口を開いた。
「嘘なんですか?」
 低い、凄みのある声だった。
 見た目にそぐわない、およそ子供らしからぬ声にぎゅっと心の臓を握られて、歌仙兼定は背中を伝った汗に肝を冷やした。
 怒らせた。
 誰が見てもそうだと分かる反応に鳥肌を立てて、男はぎこちない動きで短刀を見た。
 ギギギ、と変な音が聞こえそうな歪さで振り向いて、声の調子に反して殊の外幼い拗ね顔に息を呑んだ。
 小夜左文字は口をぎゅっと噤み、頬をぷっくり膨らませていた。やや俯き加減で、瞳だけを上向かせて、歌仙兼定の反応を窺っていた。
 あまりにも愛らしい――愛くるしい姿だった。
「お小夜」
「なんでもありません」
 途端にきゅう、と別の意味で心臓が締めつけられた。
 心が時めく、とはまさにこういう瞬間を指すのだろう。まるでお手本のような感覚を実際に体験して、打刀はふいっとそっぽを向いた少年に肩を震わせた。
 口元が勝手にほころび、笑いがこみ上げてきた。
 懸命に堰き止めるものの、「くうっ」と耐えているのが分かる息が漏れた。聞き逃さなかった短刀はギッ、と仇に相対した時のような鋭い眼差しを作り、一秒後には明後日の方向を向いて殊更大きく腕を振った。
「もういいです」
 愛想を尽かし、一方的に話を切り上げた。これ以上は時間の無駄と断じて、打刀を置いて、ひとりで立ち去ろうとした。
 橋を渡り切って、その先に進もうとして、振り解いたつもりだった手を強く握り締められて、苦々しい表情を作った。
 舌打ちが聞こえた。
 およそ小夜左文字らしからぬ苛立ち具合に、却って心が和らぎ、胸が熱くなった。
「嘘なものか」
 声は驚くほど自然に、滞ることなく溢れ出た。
 静謐に包まれた闇を裂き、打刀は腹の底から響かせた。
 威風堂々と胸を張って、尊大と受け取られかねないくらいに背筋を伸ばした。凛と声を響かせて、逃げようとする少年を引き留めた。
 悪足掻きを止めない体躯を力技で引き寄せて、後ろ向きに倒れそうになったのを受け止めた。胸で支え、右後ろ側から包み込む如く、抱え込んだ。
 そうと悟られぬ程度に拘束した。長く繋いだままだった手を一度離し、向きを変えてすぐに繋ぎ直して、その上から残る手を重ねて蓋をした。
「嘘なものか」
 同じ台詞を繰り返して、祈るように目を閉じた。
 むしろこちらが、嘘に翻弄されて、騙されている気分だった。
 甘い花の香りに誘われながら、結局辿り着けなかった愚かな男になりたくなかった。
 縋るように抱きついた格好悪さに、頭の片隅では悪態を吐いていた。それでも離れ難くて止まらない震えに耐えていたら、慰めるかのようにトントン、と緩い束縛に合図を送られた。
 恐る恐る目を開ければ、首から上だけ振り返った少年が苦笑していた。
「冗談です」
 風に攫われそうな程の小声で囁いて、自分から打刀に体重を預けた。寄りかかり、しなだれかかって、喉の奥でくくっ、と笑った。
 どこまでが本気で、どこからが冗談だったのか、まるで分からない。
 振り回される一方の男は困惑をありありと顔に浮かべて、短刀を解き放った。
 すかさず前に出て、逃亡を成功された少年がくるりと身体を反転させた。
「寒いから、ですよ」
 悪戯っぽく言って、深い意図はないと釘を刺した。
 それ以上でも、それ以下もない理由だと念を押されて、歌仙兼定は不満も露わに口を尖らせた。
「僕が湯たんぽなのか」
「いやなんですか?」
 不満を声に出せば、瞬時に合いの手が返って来た。
 暗闇から放たれたかにも思える質問に、打刀は大慌てで首を振った。
「いいや。光栄だね」
 力みすぎて、声が異様に高くなった。
 無理をしていると丸分かりの台詞に、軽やかに地面を蹴った小夜左文字が藍色の髪を踊らせた。
 白い湯帷子の裾がふわりと舞い上がり、華奢な太腿が一瞬だけ夜闇に浮かび上がった。
 目が吸い寄せられて、直後に布で覆い隠されたのに軽く傷ついた。そういう部分に心惹かれてしまう貪欲ぶりにも衝撃を受けて、発作的に額を叩いていた。
 ぺちん、と乾いた音が水面に広がった。
「歌仙、置いて行きますよ」
「待ってくれ。今行く」
 悪い虫には、この先も当分、なれそうにない。
 いいように手玉に取られているのを感じつつ、それも悪くないと思っている。つくづく悪人になりきれない自分に臍を噛んで、歌仙兼定は小走りに駆ける背中を必死に追いかけた。

やすらはん大方の夜は明けぬとも 闇とかこへる霧にこもりて
山家集 588

2019/05/18 脱稿