春鶯

「うわっ」
 突然吹いた突風に、綱吉は咄嗟に腕を頭上に掲げた。
 それで防御出来るわけではないが、無意識に身体が動いていた。舞い上がる埃や細かな塵を避けて目を瞑り、直後に耳元で大きく響いた物音にびくりと肩を震わせた。
 煽られて逆さを向いた前髪が額に戻り、薄い皮膚を擽る。ホッと息を吐いて瞼を持ち上げて、彼は顔のすぐ横で揺れるビニール袋に苦笑した。
 中身は近所のコンビニエンスストアではなく、駅前の商店街まで足を伸ばした大事な成果だ。
 これしきの衝撃では、潰れたりしない。柔らかなものなので不安に駆られたが、無事であるのを確認して、深く長い息を吐いた。
「っと。やばい」
 路上で安堵していると、向かい側から自転車が走ってきた。
 慌てて邪魔にならない場所へ避けて、現在時刻を確認して奥歯をカチカチと噛み鳴らす。
 まだまだ余裕はあるが、急ぐに越した事は無い。綱吉は前方に広がる光景に一度小さく頷いて、力強くアスファルトを蹴った。
 今のところ、計画は順調に進んでいる。一番のネックであった家に居候中の子供達は、フゥ太とビアンキが揃って外に連れ出してくれたお蔭で、なんとかなりそうだった。
 もうひとつの懸案事項であるリボーンも、コロネロに誘われたとかで、出かけている。行き先までは聞いていないが、ちらりと見えた彼の携帯画面には、スカルという名前が表示されていた。
 あのふたりに絡まれれば、不死身を自称する彼もただでは済むまい。
 天にも届きそうな悲鳴を想像したら、ぶるりと震えが来た。暖かな陽射しが照りつける中、鳥肌立った腕を交互に撫でさすって、自宅までの道を小走りに駆けた。
 途中で小鳥のさえずりが聞こえて、視線を上げたがそれらしき影は無い。
 そもそもその鳥が、例の風紀委員長が連れているものである保証だってないのだ。雀や鳩は、この辺りでも頻繁に見かける。カラスだって、あちこちに巣を張り巡らせていた。「そういえば、ヒバリさん。カラス駆除も始めたって噂、本当かな」
 ゴミを荒らすだけでなく、子猫や小動物さえ襲う獰猛さを秘めた鳥だ。自分だって黒ずくめの、カラスのような側面があるというのに、風紀委員の活動に害鳥駆除が加わったというのは、なんとも奇妙な話だった。
 けれどあの男は、あれで小さい生き物を可愛がっている。ずんぐりむっくりした黄色い鳥を、常に連れ回しているのが、その証拠だ。
 するとカラス退治も、ヒバードを守るため、なのだろう。
 噂の域を出ていない話なのに、こう考えると妙に信憑性が高く感じられるから、不思議だ。
 まったくもって、あの男はよく分からない。
 恐ろしく気まぐれで、恐ろしく我が儘で、恐ろしく身勝手で、驚くほど強い。
 その強さに臆し、怯え、そして憧れた。
 彼のような存在は、綱吉の世界にいなかった。彼の知る中で、あの男は紛れもない絶対強者であり、決して手が届く存在ではなかった。
 だというのに、だ。
 数奇な巡り合わせが、断崖絶壁よりも遙かに遠い両者の距離を一気に狭めた。よもやあの男に、『沢田綱吉』という一個人として認識して貰える日が来るなど、夢にも思わなかった。
 とはいえ、それで綱吉自身が強くなったわけではない。むしろ己の弱さを思い知らされてばかりだ。
 いつか堂々と、肩を並べて歩けるようになるだろうか。
 貧弱な拳を何気なく眺めて、彼は脳裏に描き出された妄想を慌てて打ち消した。
「そもそも、オレは。マフィアになんか、ならないってば」
 黒ずくめの美丈夫と背中合わせに佇む未来の自分を想像し、その格好良さにくすぐったさを覚えた。うっかり悪くない、と思ってしまったのを瞬時に否定して、ようやく見えた自宅の屋根にホッと息を吐いた。
 走ったからか、それとも違う理由か、バクバク言う心臓を宥め、門扉を潜った。
「ただいまー」
 不用心だと思うのだが、玄関の鍵は掛かっていない。声を上げて帰宅の旨を伝えると、僅かに遅れて台所から奈々が姿を現した。
「おかえり。早かったわね」
「うん」
 なにをしていたのか、エプロンは着けていなかった。耳を澄ませば複数の話し声が聞こるので、テレビでも見ていたようだ。
 奈々は階段に上がって自室に向かうのではなく、廊下を進んで近付いてきた息子を迎え入れ、道を譲った。台所に入った綱吉は、案の定見知らぬ光景を映し出すテレビを真っ先に見た。
 シンクは綺麗に片付けられ、昼食の残り香が微かに鼻を擽った。ランボたちはまだ戻っていないようで、他に物音は聞こえてこなかった。
 食事を終えてすぐに出かけた時と、状況は殆ど変わっていない。その事実に胸を撫で下ろし、買って来たものを中央のテーブルに置いた。
「手伝う?」
「大丈夫」
 プラスチック製の容器がビニール袋と擦れ合い、ガサガサと歪な音を立てた。斜め後ろから覗き込むように迫って来た母の問いに短く答えて、彼は袋の口を大きく広げた。
 真っ先に出て来たのは、真っ赤な宝石――もとい、苺だ。
 大粒だが数が少ないものと、小粒だけれど内容量が多いものとで悩んだ結果、見栄えが悪くならない程度に大きいものが、それなりに入っているものを選択した。そういう中途半端さが良くないとは思うのだが、悩みすぎて結局選びきれないよりは良い、と自分に言い聞かせた。
 まだ今月は始まったばかりなので、小遣いには余裕があった。それ以外の材料も、あまり値段を気にせず手に入れることが出来た。
 これが月末迫る時期だったなら、こうはいかない。祝日で学校が休みで、時間に余裕があるのも有り難かった。
 条件は全て綱吉に有利。あまりに都合が良すぎる展開で、逆に心配になってくるくらいだった。
「あら、本当に?」
 椅子の背凭れに引っかけられていた奈々のエプロンを取り、もたつきながらも装着する。だが後ろに手を回して紐を結ぼうとしたところで、見かねた母に口と手を挟まれた。
 見えないところで結ぼうとしては失敗する息子に呆れつつ、声はどこか楽しそうだ。
 手際よく蝶々結びを作られて、綱吉はむすっと口を尖らせた。
「大丈夫だってば」
 このまま彼女の勝手を許せば、ずるずると最後まで居座られてしまう。
 自分でやる、と決めていたことまで、母に奪われてしまいかねなかった。
 それでは何の為に、ビアンキたちに頼んでランボやイーピンを連れ出してもらったか、分かったものではない。
 こんなところで計画を台無しにされるのは御免だった。
 奈々の手を借りた方が、より美味しいものが出来るのは分かっている。しかし甘えてばかりもいられない。傍で見ているだけ、というのは、自分が作ったものと胸を張って言えないではないか。
 それでは、己の力ひとつで世界に挑んでいるあの男に誇れない。
 ちっぽけなプライドを振りかざして、綱吉はくるりと身体を反転させ、奈々の肩を両手で押した。
「いいから、出てってよ」
 声高に叫び、力技で母を追い出しにかかる。
 乱暴な仕草ではあるけれど、そこまで力を使っていない。奈々は最初こそふらついたが、すぐに体勢を立て直した。
「はいはい。じゃあ、頑張ってね。手はちゃんと洗うのよ?」
「子供じゃないんだから、それくらい分かってるよ」
 軽く突き飛ばされた格好だが、機嫌を損ねたりしなかった。逆にカラコロと喉を鳴らして笑って、自分から率先して歩き出した。
 テレビのリモコンを弄って誰も見ていないテレビを消し、忠告を残して去って行く。洗濯物でも取り込みに行ったのか、しばらくすると玄関のドアを開閉する音がした。
 これで奈々も、当分邪魔しに来ないはずだ。
「まったく……」
 お節介にも程があると、自分の母に向かって深々溜め息を零した。けれどその人の良さで救われている部分も、間違いなく存在した。
 もっともリボーンという厄介な家庭教師が沢田家にやってきたのは、彼女が原因なわけだが。
 それが良かったのか、悪かったのかは、簡単に断じきれない。しかしあの赤子の登場が、閉塞状態に陥っていた綱吉の環境を転換させたのは、紛れもない事実だった。
 今頃コロネロと楽しくやっているだろう赤ん坊を頭から追い出し、今成すべきことと向かい合う。
「よし」
 決意を込めた眼差しで苺のパックを見詰めて、彼は早速封を破こうとした。
 だがいざ指先に力を加えたところで、直前に残された母の助言を思い出した。
「そうだった、そうだった」
 うっかり忘れるところだったが、まだ手を洗っていない。ついでにうがいも台所で済ませて、綱吉はシンク下の引き出しから必要な道具類を引っ張り出した。
 銀色のボウルに、泡立て器。バターを溶かす湯煎用のボウルも別に用意して、水を張った鍋をコンロに据えた。
「あと、なんだっけ」
 苺は最後だからと冷蔵庫に保管して、入れ替わりに卵と牛乳を取り出した。奈々が菓子を作るために常時ストックされているバターも出して、秤を使って必要な分だけ取り、残りは元あった場所に戻した。
 沸騰を開始した鍋の火を止めてバターを溶かし、大きめのボウルに卵と牛乳、そして砂糖を入れ、掻き混ぜ始めた。
「うわっちゃ」
 ただ先を急ぐあまりボウルががちゃがちゃ揺れ、中身が跳ねて手や顔にまで飛んでくる。
 少しずつ量が減っていく中身に不安になるが、ここで下手に分量を増やせば、失敗するのは目に見えていた。
 あくまでも、レシピ通りに。
 無用な手を加えてアレンジする、という考えは持たない。やり直している暇はないと己を戒めて、綱吉は一心不乱に泡立て器を動かした。
「これくらいかな?」
 ようやく満足がいくところまで混ぜたところで、ベタベタに汚れた手をタオルで拭った。 次に、苺とセットで買って来たホットケーキミックスの封を切り、どさっとボウルに流し込んだ。砂煙のようなものが局地的に巻き起こったが、くしゃみで吹き飛ばす醜態は晒さず、最後まで我慢した。
「へくちっ」
 代わりに余所を向いて小さくくしゃみをして、思い切り鼻を啜って作業を再開させた。ちらりと壁の時計を見て、窓の外の陽気に小さく舌打ちした。
 本当は獄寺や山本たちから、遊びに誘われていた。京子にハルも一緒で、少し遠出をして海の方へ行かないか、と言われていた。
 最初はそれも悪くないと思っていた。折角の長い休みなのだから、ちょっとくらい帰りが遅くなっても構わないと、心を時めかせた。
 しかしカレンダーを見て、ふと思い出してしまった。おそらく家族からも、仲間からも祝われることのないだろう人の誕生日を。
 せめて自分くらいは、と傲慢にも思ったのが、運の尽き。そこまでしてやるほど親密な関係ではないのに、日頃の感謝だとかなんだとか、あれこれ理由を作ってしまった。
 仲間達には別の言い訳を用意して、粘る獄寺を説得し、丁寧に断った。ただ結局、彼らの計画は、綱吉の不参加により流れてしまったらしいので、その点は申し訳ないとしか言いようがない。
 遠出は出来ないけれど、次の週末辺りに自分から誘ってみようか。
 彼らとならどこに行っても、なにをしても楽しい。妙なトラブルは御免だけれど、ドタバタ劇も後から振り返れば良い思い出だ。
 簡単には忘れられそうにない出来事の数々を振り返り、粉と液体と混ぜていく。小さな塊を見付け次第潰して、綱吉はボウルがすっ飛んで行かないよう、左腕でしっかりと押さえ込んだ。
 ある程度混ざったところで溶かしバターを足し、更に混ぜた。一方で使い込まれたオーブンに火を入れて、余熱を入れるのも忘れない。
「よっ、と。……どうかな」
 真っ白だった粉は卵の色が混ざり、ほんのりクリーム色になっていた。
 溶け残った粉がないのを丹念に確認して、役目を終えた泡立て器を労う。怠さを訴える右腕をぐるりと回し、こちらも慰めて、最後に両腕を揃って高く掲げた。
「ん~」
 まだ行程の半分しか終わっていないのに、心の中で満足しかかっている。
 本番はここからだと己を鼓舞して、綱吉は壁際に吊されていたお玉を取った。
 泡立て器と入れ替わりにボウルに添えて、ぐるりと円を描くように掻き混ぜた。しつこいくらいにしっかり混ざり合っているのを確認して、前々から見繕っておいた紙製の容器を一個ずつバラし、鉄板へと並べていった。
 バレンタインの時に、京子たちに売り場へ連れ回されたのを思い出した。男である自分が何故、と思いつつ、手作りが貰えるのならばと喜んでお供したものだ。
 勿論貰えたが、獄寺や山本、了平たちにも同じ物が渡されていたので、その辺は深く考えない方がいいだろう。更にはビアンキの毒入りチョコレートまでもが紛れ込んでおり、その日の夜から翌日にかけて、かなりの地獄が展開された。
 獄寺などは、トイレで朝を迎えたと言っていた。山本はちゃっかりポイズンクッキングを免れていたそうで、さすがとしか言いようがなかった。
 物騒だが賑やかな過去に、自然と口元が緩んだ。お蔭で目測を誤って、綱吉は大きく傾いたお玉にはっとなった。
 容器の端から鉄板に向けて、液が零れていた。
「あっちゃー」
 気付くのが早くて少量で済んだが、うっかりにも程がある。
 すぐ気が抜けてしまう欠点に臍を噛んで、彼は改めて、花の形をした入れ物に意識を傾けた。
 入れ過ぎないよう、六分目か七分目まで注ぎ込んで、次のカップへと移る。計算では並べた器全てが埋まるはずだったが、作業中に零して減ってしまった余波か、一個分余ってしまった。
「ま、いっか」
 空のまま残されている紙容器に肩を竦め、素早く頭を切り替えた。
 まさか鉄板に零した分を掻き集めるわけにもいかず、潔く諦めた。数が減るのは残念だが、嘆いたところで戻って来るわけではないのだから。
 それよりも大事なのは、この先だ。余熱で充分温まったオーブンの戸を開けて、綱吉は慎重に、重い鉄板を差し込んだ。
 テーブルから持ち上げる際も水平を保ち、慎重を期した。ここで躓いて、転んだら一巻の終わりと忍び足でそろそろ進み、無事扉を閉めたところで止まっていた呼吸を再開させた。
「はあー……」
 こんなことで、心臓が破裂しそうだ。ドキドキ言っている左胸をエプロンの上から撫でて、彼は暗記するまで読み込んだレシピの記述を諳んじた。
「ええと。確か、百八十度で、二十五分だから」
 ずっとこの家で暮らしているが、オーブンを自分で使った回数はごく僅か。それこそ片手で足りるレベルだった。
 そもそも使う必要がないではないか。食事は母の奈々が全て用意してくれる。自宅にある様々な機械や設備の中で、彼が実際に操作したことがないものは、山ほどあった。
 そんな彼の日常が変わったのは、リボーンが家に来てからだ。
 中学校に入学したばかりの頃には、まさか自分が手作り菓子に挑戦する日が来るなど、夢にも思わなかった。
 今でも時々、これは妄想が過ぎる夢では、と疑うことがある。
 心の片隅で抱いていた理想や、憧れが再現されているのではと、ベッドに入って目を瞑った時など、特に強く思った。
 しかし夢と片付けてしまうにはあまりにリアルだし、綱吉の得になる出来事ばかりでもなかった。命を狙われ、幾度も死にそうな目に遭いたいとは、断じて願ったことはない。
「これでよし、と」
 念の為キッチンタイマーも用意して、綱吉は折り曲げていた膝を伸ばした。そのまま数回屈伸運動をして、用済みとなったボウルやお玉を流し台に移動させた。
 後は無事焼き上がるのを期待して、飾り付けの用意をするのみ。
 焦げて真っ黒にならないよう祈り、壁の時計を仰ぎ見た。思ったよりも針は進んでおらず、遊び疲れた子供達が戻って来るまで、もうしばらく猶予が残されていた。
 正直テキパキ進められたとは言い難いが、初めて挑んだ時よりは着実に上達している。「ふふん」
 自画自賛して鼻を高くした彼は、使い終えたボウルと泡立て器を上機嫌に洗い始めた。
 鼻歌交じりに汚れを落とし、泡を全て水に流した。乾いた布巾で水気を吸い取り、ピカピカに磨かれた仕上がり具合に満面の笑みを浮かべた。
 料理は決して得意ではなく、むしろ苦手な部類に入るが、それを言ったら他の事だって全部そうだ。
 運動も、勉強も、これといって人に自慢出来るものはなにもない。なにをやってもダメダメの、ダメツナ。それがあの日までの沢田綱吉の評価だった。
 周囲は勿論そう思っていたし、綱吉自身もそう決めつけていた。
 その重くて分厚い扉を、リボーンは力技でぶち破った。けれどその根っこの部分を引っ張り上げてみれば、出て来るのは奈々のお節介な笑顔だった。
 彼女が胡散臭いチラシを真に受けなければ、リボーンとの出会いはもう少し遅れていたはずだ。
「母さんにも、……母の日の前倒しってことで。良いかな」
 数年前の自分からは想像も付かない現在の立ち位置を見返して、綱吉は首を竦めた。照れ臭さから赤くなった頬を銀色のボウルに映して、小さく舌を出した。
 どうせ出来上がったもの全部、ひとりで食べきれるわけがないのだ。味見代わりに一個くらい譲っても、構わないだろう。
「よーし」
 残りの準備も頑張るべく気合いを入れて、綱吉は洗い終えた道具を順番に収納していった。テーブルの上がすっきりしたところで満足げに胸を張っていたら、オーブンの方から小麦粉の焦げる良い匂いが漂って来た。
 否応なしに食欲を擽られ、たまらず涎が咥内に溢れた。
「どうかな?」
 焼き具合を気にして様子を見にいったが、扉を開けて覗き込むわけにはいかない。ぐっと我慢して、好奇心に蓋をした。
 美味しい香りが漂っているというのは、順調に熱が通っているという証しだ。設定した時間がどれくらい残っているかを調べて、綱吉はいそいそと冷蔵庫へ向かった。
 吟味に吟味を重ねて選んで来た苺を取り、大事に胸に抱え込んだ。そしてもうひとつ、昨日のうちから母に頼んで買ってきてもらったものを、奥の方から引っ張り出した。
 子供達に見つかったら大騒ぎになりかねないものだから、隠しておいたのだ。既に泡立て済みで、開封後すぐに使える生クリームは、綱吉にとって救世主にも等しかった。
 これがあると、近いうちに菓子作りが行われると思われてしまう。そうなったら彼らは外出するなど絶対言わず、奈々の後ろをついて回るに決まっていた。
 特に食いしん坊のランボなどは、スッポンよりも厄介だ。
 あいつにだけは、知られるわけにはいかない。日頃はビアンキに感謝などしないのだが、今日だけは特別と心を広くして、彼は一層強くなった焼き菓子の匂いにクン、と鼻を鳴らした。
「うん」
 これなら出来映えを心配することもなさそうだ。
 逸る心を抑えつつ、焼き上がりまでの残り時間を数えた。椅子に座ってソワソワしながら、目を瞑ってはすぐに開き、時計とキッチンタイマーを交互に見比べた。
 落ち着きをなくして、貧乏揺すりが止まらない。局地的な地震を断続的に繰り広げて、居ても立ってもいられなくなり、勢い良く立ち上がった直後だ。
 チーンとベルがひとつ鳴って、世界が切り替わった。ようやく、と心を躍らせて、彼は勝手に緩む頬を慌てて引き上げた。
 最後の仕上げを急いで済ませ、余ったホイップクリームと、失敗気味のカップケーキ一個は奈々に委ねた。汚れたエプロンは洗濯機に放り込んで、矢張りあらかじめ用意しておいた四角い箱に、出来たものを詰められるだけ詰め込んだ。
 駆け足で向かった学校は、祝日なだけあって静まり返っていた。誰もいないのなら門扉も施錠されているのでは、とここに来て不安になったが、意外にも通用口は開いていた。
 見つかったら不法侵入で訴えられそうだけれど、綱吉は一応、この学校の生徒。
 それを証明する生徒手帳は忘れてきたし、制服も着用していないが、この際構っていられなかった。
 細かい事を気にしていたら、キリがない。
 ままよ、と腹を括って校内に入り、勢いのままに校舎内へと足を踏み入れた。
 誰かに見つかって、咎められるのは不味い。最悪、つまみ出されてしまう危険があった。
 昇降口で靴を脱ぎ、律儀に上履きに履き替えてから廊下を駆けた。息を殺し、気配を探りながら階段を上るが、シンとしている空気に足音は思ったより大きく響いた。
 反響する音にビクビクしながらも着実に一歩を重ね、目的地のある階まで到達した。登り切ったところで左胸に手を添えて深呼吸して、綱吉は乾いてヒリヒリする唇を舐めた。
 どうしてこんなに頑張っているのだろうかと、ふと疑問に思ったが、即座に頭から追い出した。
 理由などない。
 理屈などない。
 ただ祝いたかった。それだけだ。
 喜んでくれるかどうかも、関係無い。むしろあの男のことだから、嫌がるかもしれない。パイナップルのような髪型をした男なら、大喜びしてサンバのひとつでも踊り出しそうだが。
 どこかでくしゃみをしている骸を想像したら、肩の力が抜けた。
 要するにこれは、綱吉のただの我が儘だ。自分がどこまで出来るかの証明を兼ねた、自己満足の結晶でしかない。
 ダメツナなりに努力した姿を見せて、誇りたい。出会った時から今に至るまで、最強の名を戴いている男に、示したい。
「やっぱり、嫌がられそうだなあ」
 応接室と冠されてはいるけれど、実質そうではない部屋の前に佇めば、自然と苦笑が漏れた。
 それをすぐに引き締めて、ここまで来て引き返すわけにはいかないと、胸の中で握り拳を作った。
 在室であるのを信じて、遠慮がちにノックを二回。続けてもう一度、小さめのノックをすれば、数秒の間を置いて「どうぞ」との声が聞こえた。
 覚悟をしていたとはいえ、その声を耳にした途端に痺れが走った。ドアノブを掴もうとした指がぴくりと震え、虚空を握り潰した。
 面白味に欠けるドアをじっと見詰めて、忘れかけていた呼吸をはっと再開させた。
 このままだと、怪しまれてしまう。焦ってドアノブを回した時には、緊張などという概念はすっかり忘れ去っていた。
「失礼します!」
 開けてから叫んで、勢い良く一歩を踏み出した。
 正面やや左方向に顔を向ければ、いつものように雲雀が机に座っていた。
 窓が開けられ、春の爽やかな風が吹き込んでいた。白いカーテンがゆらゆら揺れて、ワルツを踊っているようだった。
 清楚な少女の白ワンピースを連想したくなるけれど、生憎そんな純真な存在はこの場にありはしない。居るのは暴虐という名に形を与えたかのような、並盛中学校の絶対君主たる男だけだ。
 草壁や、ヒバードの姿はなかった。近くに控えているのだろうが、綱吉の来訪を知っていたかのように、室内には見当たらなかった。
「……なに?」
 入室は許可したものの、雲雀からは出迎える姿勢が一切感じられなかった。
 今も書類から目を離さず、ペンを器用にくるくる回しながら、綱吉を見ようとしない。一瞥さえくれようとせず、来訪者に興味が無い、と言いたげな態度だった。
 もっともそれは、今に始まった事ではない。
 最初のうちこそ戸惑ったが、もうすっかり慣れてしまった。むしろ彼が両手を広げて歓迎してくれたら、槍の雨でも降るのではと怯えなければならない。
 口元を緩めていたら、不審がった雲雀がペンを机に置いた。眉を顰め、剣呑な目つきでこちらを一瞬睨み付けた。
 それで我に返って、綱吉はドアを尻で締めた。トン、と押して後は成り行きに任せ、反動を利用して執務机へと歩み寄った。
 大事に抱えてきた箱を掲げて、距離が狭まるにつれて胡乱げな眼差しを強くする男の前にそっと置く。すると雲雀は何らかの危機感を覚えたのか、背筋を伸ばして椅子に深く座り直した。
「なに?」
 先ほどと同じ質問を繰り出し、顎をしゃくって綱吉を示す。
 棘のある口調と視線に微笑みで返して、大空を継承する少年は小さなシールで封をしただけの箱を開けた。
 ホールケーキを作るだけの技量はない。見栄えがするデコレーションなど、尚更だ。
 だから小さなカップケーキを並べて、その頂点に苺を飾った。螺旋を描いた生クリームを土台にして、赤色の宝石がまるで蝋燭の炎の如く輝いてくれるのを期待した。
 結論を言えば、思い描いていた通りの図にはならなかったけれど。。
 きつね色を通り越し、やや焦げ目が付きすぎているカップケーキ。
 巧く円になってくれず、歪んだ楕円になった生クリーム。
 蔕が付いていた方を下にして、尖っている方を上にしたものの、移動中の振動やらなにやらで悉く倒れてしまった苺の数々。
「う……」
 もう少し畏まって、格好良く登場させたかったのに、叶わない。
 所詮はダメツナのやることか、と自虐思考が戻ってきたところで、箱を覗き込んだ雲雀が深々とため息を吐いた。
「どういうつもり?」
 今日が何の日か、さすがに忘れていなかったらしい。
 自分の誕生日に、ケーキを持って現れた相手が何を目的としているか、想像は難くなかろう。それでも敢えて問うた風紀委員長に、綱吉は少々ぎこちない笑顔で応えた。
「オレが、作りたかっただけです」
 恩を売ろうだとか、そんなことは全く無い。
 率直な思いを素直に吐き出せば、雲雀はなにを考えているのか、背凭れに身を預けて椅子をギシギシ鳴らした。
「ふうん?」
 やがて鼻から息を吐き、立ち上がった。膝の裏で椅子を遠くへ追いやって、分厚くて頑丈な机に尻の位置を移した。
 重要な書類だろうに乱暴に脇へ退かして、左腕を支えに身を乗り出した。高い位置から綱吉ごとケーキを見下ろして、何度か小さく頷き、最後に口角を歪めて笑った。
「僕が甘いもの、好きじゃないの、分かっててやってる?」
「それは、まぁ……でも、誕生日ってそういうものじゃないですか」
 嫌がらせを疑われて、綱吉は思わず目を逸らした。壁に吊された五月のカレンダーの数字を上から順に数えて、胸の前で両手の指をもぞもぞ蠢かせた。
 雲雀があまりこういう類を好まないのは、承知の上だ。それでも他に思いつかなかったし、綱吉の財力ではこれが限界だった。
 案の定だったと冷や汗を流し、笑顔を引き攣らせる。最悪トンファーの一撃が飛んでくるかと覚悟して、防御に走るべきかと悩んだ。
 そうして雲雀の利き手がすっと宙を撫でた途端、警戒しすぎてビクッと首を竦めて小さくなった。
「で、これは君が?」
 しかし飛んで来たのは質問であり、拳ではなかった。
「はえ……?」
 予想が違えて、間抜けな声が漏れた。半信半疑のままぎゅっと閉ざした瞼を開ければ、雲雀がカップケーキを詰めた箱に指を向けていた。
 惚けたまま頷き返せば、彼はまた「ふうん」と息を漏らした。への字に曲がった唇を徐々に緩めて、ちょうど真ん中に陣取っている、一番出来が良かったものへと手を伸ばした。
 そのまま容器ごと持ち上げるのかと思いきや、箱から出て来たのは苺だけ。
「あの」
「まぁ、いいよ。くれるなら、貰ってあげる。残り滓は、鳥の餌にもなるしね」
「えええ~……?」
 思わぬことに動揺を隠しきれない。話しかけようとしたら遮られて、些か酷い発言に心が砕けそうになった。
 雲雀の為を思って作ったのに、鳥の餌にされるのは傷つく。
 そんなに食べるに値しない代物なのか。あまりにも切なくて、涙しそうになったところで、脳内で反芻した彼の言葉にはっとなった。
 下向けていた視線を正面に戻せば、雲雀は苺に付いた生クリームを、舌を伸ばして舐めているところだった。
 鮮やかな緋色がちろりと顔を出して、なんとも艶めかしい仕草にゾクッと背筋が震える。
 なんというタイミングだと顔を赤くした綱吉は、再び俯きたくなるのを必死に我慢した。
 彼は残り滓は、と言った。今からこれを砕いて、鳥の前にばらまくとは言っていない。
「ヒバリさん、オレ」
「それにしても、君。僕にこんなに沢山、食べさせるつもりだったの?」
「こっ、これでも。減らしたんですけど」
「そう。哲、お茶」
「畏まりました」
「うわあ!」
 もしやとの思いで気が逸り、後方への注意が疎かになっていたのは否定しない。
 それでも超直感が働かない速度で、いつの間にやら現れたリーゼントの風紀副委員長に、綱吉は心底驚かされた。
 みっともなく悲鳴を上げて、その場でぴょん、と飛び跳ねる。
「うるさいよ」
「スミマセン!」
 向かいから叱責されて、反射的に謝った。背筋を伸ばし、九十度に腰を曲げて頭を下げたところで、いきなり唇になにかを押しつけられた。
 それがクリームを舐め取られた後の苺だと気付くのに、二秒か、三秒必要だった。
「変な小動物」
 クク、と喉の奥で笑った雲雀のひと言に、かあっと顔が熱を持った。
 苺は退いてくれない。払い除けることも出来ず、押し返すのも憚られ、困った挙げ句、恐る恐る口を開いた。
「むぐ」
 もれなく、容赦なく押し込まれて、塊が舌の上に転がった。無意識に雲雀が舐めたであろう場所を探してしまう自分に首を竦めて、綱吉はしおしおと小さくなった。
 これではどちらがプレゼントをもらったか、分かったものではない。
「コーヒーに砂糖とミルクたっぷりで、宜しいですか?」
「うん。僕はブラックね」
「心得ております」
 頭上では、何事も無かったように雲雀と草壁の会話が行き交った。
 当分顔を上げられそうになくて、綱吉は妙に甘ったるい苺をもぐもぐと噛み砕いた。

2019/04/30 脱稿