命にかへて 逢う世なりせば

 歌仙兼定とくちづけた。
 ほんの一瞬だった。互いの唇と、唇とが微かに重なり合い、そして離れた。
 表面を触れ合わせただけの、例えるなら爪先が掠めただけのようなもの。ただそれが、唇だったというだけで。
 戯れではなかった。
 かといって、真剣に向き合っての結果でもなかった。
 そもそも小夜左文字は、彼に対して格別な感情は抱いていない。向こうもそうだろう。それがどうして、このような結果を迎えたかと言われたら、答えに詰まらざるを得なかった。
 理由など、ない。
 分からない。
 何故あんなことをしたのか。あんな真似を許したのか。自分のことだというのに、小夜左文字にはさっぱり見当が付かなかった。
 驚いた。
 驚いた顔をしていた。
 終わってから、今し方自分達の身に起きた事象を知って、お互いに吃驚して固まってしまった。
 言葉が出なかった。
 語る言葉を持ち合わせていなかった。
 花見の宴の声は遠く、鳥の囀りの方が五月蠅い。それにも増して、ど、ど、ど、と脈打つ鼓動が喧しかった。
 春の陽射しが暖かく、柔らかな午後だった。
 朝から――否、昨夜から延々と続く宴会は、未だ終わるを知らず、酒飲みたちの喧噪は途切れることがなかった。
 食べるものがなくなり、酒すらも補充が追い付かない状況で、歌い、踊り、果ては格闘技の実践が展開されて。
 とても制御出来ているとは言い難い環境で、正直居心地が悪かった。
 もとより、騒がしいのは得意ではない。本丸での生活で多少は慣れたし、耐性がついてはいたけれど、毎年繰り返されるこの乱痴気騒ぎだけは、どうしても好きになれなかった。 厳しかった冬が終わり、日ごとに気温が高くなっていくのが分かる。日の出は早くなり、日暮れはすっかり遅くなった。西の空を彩る夕暮れの鮮やかさには目を見張るものがあり、ほんの少し前まで真っ白だった大地は、今や若緑色に溢れていた。
 季節の変わり目というものを目の当たりにして、声なく立ち竦んだのは、顕現して最初に迎えた春のこと。
 あまりにも劇的な変化を前にして、ただひたすら圧倒されて、震えるのが精一杯だった。
 そこから何度か同じような経験を繰り返し、さすがにもう慣れたと思いたかったけれど、そうはならなかった。
 今年もまた、色鮮やかな変遷に目を奪われた。一日、一日と膨らんでいく蕾に心を躍らせて、ついに綻び、花開いた時は感動もひとしおだった。
 ただの刀の付喪神であった頃は、無為に時を過ごしていた。この刀身に染みついた仇討ちへの執念と、失われた数多の魂の呪詛が、季節の彩りを体感させる目を、耳を、完全に塞いでいた。
 こうしている今も、全てが取り払われたわけではない。黒い澱みは未だ足元に蠢き、隙を見ては耳元で復讐を囁いていた。
 刀剣男士として仮初めの身体を得た事で、閉じていた感覚は強引に開放された。それでも俯き続ける小夜左文字の視線を、今一度強引な手腕で持ち上げさせたのは、他ならぬ歌仙兼定だった。
 彼が顕現した時、本丸にはあの打刀しかいなかった。
 必然的に話し相手は限られて、出陣しているときも、そうでない時も、つかず離れず一緒だった。
 だからもしかしたら、彼に対して、他の刀には抱かない親近感めいた感情は、あったのかもしれない。
 第一、彼とはこれが初対面ではない。『小夜左文字』とは細川幽斎が名付けた号だ。そして『歌仙兼定』の命名者は、細川三斎と言われていた。
 刀が打たれてから現在に至るまでのうち、本当にごく僅かな期間でしかないけれど、このふた振りは共にあった。当時は号もなく、付喪神として未成熟であった打刀は、幾らか年嵩の短刀の後ろを雛のようについて回り、無邪気に振る舞っては度々騒動を引き起こしてくれた。
 本丸で再会した打刀は、見てくれこそ大きくなったけれど、頭の中身は当時とさして変わっていなかった。
 思えば六百年の昔から、彼は季節の移り変わりに敏感だった。
 元の主がそうであったように、風流に親しみ、和歌や茶道に精通していた。小さな変化にも敏感で、美しく咲き誇る花々だけでなく、病を得て萎び、枯れ行こうとしている植物にまで心を砕く男だった。
 そんな刀と、宴で盛り上がる席から遠く離れた場所で遭遇したのは、思えば必然だった。
 料理上手としても知られ、台所に陣取る機会が多い打刀だけれど、いい加減休憩が欲しいと強請ったらしい。開口一番、「疲れた」と、本当に疲れた顔で呟かれて、危うく噴き出すところだった。
 咄嗟に右手で口を塞いだけれど、漏れ出る息を全て堰き止めるのは不可能だった。
 笑われたのに機嫌を損ねて、右の眉を僅かに持ち上げた歌仙兼定は、深い溜め息の末に傍らをぽんぽん、と二度叩いた。
 隣に座るよう、暗に促された。逆らう道理はなくて、素直に従った。
 この時点で彼の提案に乗っていなければ、後であれこれ思い悩み、悶々とさせられることもなかった。
 けれど過去は、変えられない。あの段階で、小夜左文字はああするのが最良だと判断した。それが全てだった。
 あそこでああしておけば良かった。こうしておけば良かった。
 記憶や経験はあくまで過去の蓄積であり、今更変えようのないものを引っ張り出して、どうこう論議するのは、無意味であると思っていた。だから小夜左文字は復讐を嘆くのではなく、求める刀となったのだ。
 だというのに、顕現してからこの方、不思議なことに後悔ばかりしている。もっと巧く出来た、避けられたのではないか云々と、つまらないことを引き合いに出しては、己の不甲斐なさを悔やみ続けていた。
 歌仙兼定とくちづけたことだって、そう。
 あれからもう軽く数刻は経過しているのに、目を閉じてじっとしているだけで、あの一瞬のやり取りが何度となく蘇った。
 しかもただ蘇るだけではない。頭の中にある記憶と、肉体に宿る経験が重なり合って、とうに終わった時間にまで意識が遡るのだ。
 限定的な時間遡行とも受け取れる行為で、過去を反芻する。もう数十回、否、百回を超えたかもしれない。たった一度の接触を、小夜左文字は心の中で際限なく積み重ねていた。
 こんなのは変だ。おかしい。
 頭の片隅から、必死に急き立てる声が聞こえる。
 それなのに止められないし、止めようがなかった。
 無意識に思い出して、意識すれば記憶はより鮮明になった。色を伴い、音を引き連れ、熱の再現を試みては、気付かぬうちに唇を触っていた。
 微かに濡れたような、それでいて乾いているような感触。
 熱くもなく、かといって冷たくもない、程よく心地よい微熱具合。
 肌を掠めた呼気からは、ほんの少し酒の匂いがした。
 けれど彼は直前まで台所に立っていたと言うし、桃の木の足元には徳利などの酒器はなかった。代わりに焼き魚の切り身と、生姜と、春野菜の天麩羅が、内側を十字に区切った箱に盛り付けられていた。
 その魚が食べかけだったので、恐らくあれが、匂いの発生源だろう。
 鰆の粕漬けは、美味しそうだった。強請れば譲って貰えただろうが、今となっては無理な相談だ。
 この先ずっと、鰆の粕漬け焼きが食膳に上がる度に、今日のことを思い出す。
 なんとも厄介で、悩ましい未来予想図だった。
「はあ……」
 意図せず溜め息が漏れた。その理由が歌仙兼定にあるのか、自分自身にあるのか、小夜左文字には判断がつかなかった。
 物憂げな表情で右を向けば、灰色の壁が一面に広がっていた。
 部屋に戻る気になれず、かといって盛り上がりが続く宴に混じるつもりもない。花咲き誇る庭を離れた彼の足は、自然と蔵に向かっていた。
 少々湿った空気が鼻腔を擽る。年季の入った埃と、収蔵されている野菜に付着した土やらなにやらが混じり合った、実に複雑怪奇な臭いが、後を追うようにして続いた。
 とても静かで、だからこそ落ち着かない。こんな所に引きこもって何をしているのかと、自分を叱りたくなる衝動に襲われては、意気地のない部分がむくりと首を擡げた。
 その都度地面から立ちあがる、という単純作業が阻害された。蔵を出て屋敷に帰る機会を無限に逸したまま、息を殺して時間が過ぎるのを無意味に待ち続けていた。
 あれが幻であれば、と何度願ったことだろう。
 しかし間違いであったとは、奇妙にも思わない。あの時はああするのが自然の流れで、ああなるのは当然だったのだ。
 彼とは、互いを慰め合うような関係ではない。それはない。そのような過ちは、一度だって犯したことはなかった。
 だというのに、くちづけは必然だったとの確信がある。そのような行為に至る間柄ではない、と断言出来るのに、あの一瞬は決して不快ではなかった。
 でなければこんなにも繰り返し、繰り返し、飽きることなく反芻し続けるなどあり得ない。
「歌仙……かせん。……之定……」
 ならばどうして、自分はこんな辛気臭い場所で膝を抱え、丸くなっているのだろう。
 いつの間にか唇に触れる指にはっとして、振り払っては、またなぞってしまう真似を性懲りもなく繰り返して。
 何度目か分からない溜め息を零し、三角に折り畳んだ膝に頬を転がした。陽の光が遠い屋内に風はなく、目を閉じても、開いても、明るさにさほど違いは無かった。
 ここに閉じこもって、それなりの時間が過ぎた。
 大典太光世もことある毎に蔵に逃げ込むが、頃合いを見て前田藤四郎が連れ出していた。しかし今の小夜左文字に、そのような相手は存在し得なかった。
 大体、彼が此処に居ると知っている刀はいない。ならば外に誘いに来る刀があるはずもなかった。
 そこまで思考が回ったところで、ひとつの可能性に行き当たる。
「僕は、……探して、欲しがってる……?」
 これまで思い至りもしなかった発想に心底驚き、愕然となった。外れそうになった顎を慌てて閉じた際、必要以上に力を込めたからか、奥の方でガチッと嫌な音がした。
 周辺に響く鈍い痛みに鼻を啜って堪え、呼吸を止めて二秒後、ゆっくりと息を吐いた。
 過剰に熱を含んだ呼気が、冷えた蔵の中に吸い込まれていく。その行方を追いもせず、彼は恐る恐る、蔵の出入り口を見た。
 閂は掛けていない。屋敷に暮らす誰もが自由に出入り出来るようにと、四六時中鍵など掛けられていなかった。
 結界に覆われた空間に位置する本丸だから、外敵の侵入を警戒する必要もない。泥棒を図る存在があるとするなら、夜中に腹を空かせた刀剣男士か、近隣の山里に暮らす動物くらいだろう。
 もっとも蔵の扉は相応に重量があるので、野生の獣が簡単に開けられるものではない。
 そしてそれは、短刀の膂力でも同様だった。
 完全に閉めたつもりで、ほんの少し隙間が残っていた。そこから漏れ入る陽射しの弱さと、角度で、もう夕暮れ時が近いのだと察しが付いた。
 かれこれ二刻近く、この場で過ごした計算だ。
「ああ」
 感嘆の息を漏らし、あれだけ躊躇していたのを忘れて、腰を浮かせて立ち上がった。しかし膝が真っ直ぐ伸びきるより早く、肢体は力を失って床へ崩れ落ちた。
 みっともなく尻餅をついて、熱を持つ頬を両手で挟み込んだ。俯いて、膝と膝の間に鼻先を埋めて、湧き起こる羞恥心に身を焦がした。
 くちづけあった一瞬よりも、今の方が余程恥ずかしい。何事もなかったかのような顔をしてあの場を立ち去ったのは、いったいどこの誰だと糾弾したかった。
 自然に振る舞えていると信じていたけれど、後から思えば不自然極まりない態度だった。遠ざかる唇に追い縋るべく顎が揺れて、直後に追いつけないと悟って、上半身ごと退いた。なにか言おうとする打刀を遮る形で立ち上がって、「じゃあ」のひと言だけを残して踵を返した。
 これのどこが、自然な流れと言えるのか。
 あまりにも唐突過ぎる展開に、歌仙兼定は絶句していた。中途半端なところで右手を浮かせて、物言いたげな顔で目を泳がせていたではないか。
 平静なつもりで、動揺していた。
 そんなことに今頃になって気がついて、穴があったら入りたかった。
 いや、すでに穴蔵もとい、蔵には入っている。
 己が置かれた状況と、環境を高いところから俯瞰して、小夜左文字は積み上げられた米俵に背中を預けた。
 力を抜いて寄りかかり、薄暗い天井を何するでもなく眺めて過ごす。
 投げ出した両足の間に両手を並べていると、冷たい床に体温が持って行かれ、肉体としての形まで失われていくようだった。
 咲き誇る桜の下での宴会は、賑やかで、騒々しく、誰も彼もが楽しそうだった。
 仲間の笑顔も満開で、見ていて飽きなかった。けれど黒い澱みを背負い、これと共に歩む道を選択した短刀には、あまりに眩し過ぎる光景だった。
 少しの間ならば平気だけれど、長時間に亘って眺めていると、瞳を焼かれた。直視するのが辛くなった。自分は此処に居るべき存在ではないと強く意識させられて、責め立てられている錯覚に陥った。
 ここでは彼を、誰も忌避しない。不幸を招き、不運を呼ぶ刀だと蔑んだりしない。
 それでも耳元で、何者かが囁くのだ。
 耐えられなくて、席を外した。不満を口にし、引き留めようとするいくつもの手を拒んで、芝に広げられた茣蓙から逃げ出した。
 花見として設けられた宴なのに、花を愛でている刀は少なかった。分かっていた事だが、彼らの目的は酒と料理が七割で、残りの二割は、顕現して日が浅い刀たちとの親睦を深めることだった。
 そうして僅かに残った一割が、花を眺めることなのだが。
 こうなってしまうと、『花見』の意味合いは逆に感じられた。これは最早花を見るのではなく、花に見られる宴ではないか、と。
 憤りにも似た感情を打ち消すべく、淡い色合いが目映い世界をひたすら歩いた。枝垂れ桜が咲き乱れる場所を離れて少し行くと、同じように春を彩りながらも、あまり注目を受ける機会が少ない花に巡り会った。
 桃だ。
 咲くのは梅よりずっと遅く、桜よりは幾ばくか早い。色合いは紅梅ほど強くなく、桜と比べると艶やかさが勝った。
 それが一本だけ、ぽつんと。
 好んで植えられ、集められている桜と対比させるかのように、静かに佇んでいた。
 その樹下に男が在ると、すぐには気付かなかった。
 遠くからでも分かる鮮やかな色彩に、まず目を奪われた。盛りを僅かに過ぎて、明日、明後日にも散ってしまうと分かる儚さに心を打たれた。
 凛とした佇まいが緑の中でよく映えて、美しかった。微かに甘い香りが漂って、蜜を集め終えたらしき蜂とすれ違った。
 向こうに攻撃する意思はなく、小夜左文字も無闇に命を奪う考えはない。余韻を残して消えた羽音を目で追って、次に桃の木に視線を戻したところで、ようやく青草を尻に敷いた男に気がついた。
 距離があったが、目が合ったと分かった。避ける理由がないので歩み寄ったところで、いきなり「疲れた」と愚痴を零されたので、笑ってしまった。
 それから誘われるまま傍らに座り、松花堂弁当の中身を覗き込んだ。花見の席には見なかった料理が殆どで、そういうことをしているから余分に疲れるのだと、茶化さずにはいられなかった。
 指摘したら彼はばつが悪そうな顔をして、仕方が無いのだ云々と言い訳を始めた。
 曰く、自分が食べたいものと、酒飲み連中から来る要望がかけ離れているだとか。
 曰く、彼らは時間を掛けて丹念に作った料理も、さっと短時間で簡単に作った料理も、食べれば同じと同列に扱っている、だとか。
 挙げ句日頃の感謝が足りない、と不満を爆発させたので、代表として謝った。次からはじっくり味わって食べる旨を表明したら、彼は慌てて、そんなつもりはなかったと頭を下げた。
 そんな他愛ない話をだらだら続けているうちに、風が吹いた。
 頭上の桃の枝が一斉にざわめき、左右に大きく撓った。煽られて上を向く枝先と、抵抗してどっしり構える幹と、上空に攫われていく花弁の織りなす光景は見事と称するより他になく、言葉を失うには充分だった。
 会話が途中で途切れたのも忘れて、ふた振り揃って春のざわめきに見入った。
 戯れが過ぎる風の御使いに感謝して、ひらひらと揺れ踊りながら落ちてくる花びらを追いかけた。捕まえようとして巧く行かず、両手を使って何度も挑戦したが、一度として成功しなかった。
 横で見ていた打刀は、こちらが失敗する度に苦笑を漏らし、終いにはくく、と喉を鳴らして俯いた。
 表情を隠しても、肩が震えているので笑っているのが分かる。気分を害した短刀はぶすっと頬を膨らませ、嫌がらせ目的で右肩から男に体当たりした。
 悔しいことに、あちらは微動だにしなかった。
 勿論一寸は揺れたけれど、反対側にひっくり返るだとか、よろめいて姿勢が崩れるだとか、期待した事はなにも起きなかった。
 背筋を伸ばした彼は、距離が近くなった短刀に顔を綻ばせた。意地悪をされたのに何故か嬉しそうな顔をして、満開の花を思わせる笑顔を浮かべた。
 目映かった。
 そんな風に見詰められるのが、どうしようもなく面映ゆかった。
 途切れた会話は再開されなかった。視線を逸らすことも出来ず、ただ呆然と見詰め返すのみ。
 向こうから何か言ってくれれば助かるのに、歌仙兼定は馬鹿みたいにニコニコする一方で、言葉を発しようとしなかった。
 奇妙な時間だった。
 花見の宴席とは異なる居心地の悪さに、小夜左文字は耐えきれず俯いた。失礼にならない程度にゆっくりと視線を外して、横に並んだ自分たちの手を何気なく眺めた。
 大きさがまるで違っていた。あんなにも柔らかく、小さかった掌は、長くしなやかな、大人の手に変わっていた。
 対する自分はどうかと比較して、あまりの貧相さに絶望めいた感情を抱きたくなった。
 悲惨な現実に落胆して、それが身動ぎとして表に出た。僅かに揺れた肩が打刀の上腕を掠めて、袖と袖とが交錯した。
 吐息よりも微かな衣擦れの音に、何故かふた振り同時に反応した。
 はっとして、顔を上げた先に歌仙兼定がいた。当たり前のことなのに驚いて、意識してこなかった距離の近さに気付かされた。
 体当たりを喰らわせて、そのまま居座っている自分にも驚愕した。
 それを許した歌仙兼定にも、唖然となった。
 これまでの日々の中、当然の如く享受してきた相手の存在の大きさを痛感した。
 思えば彼とは、長い付き合いだ。本丸で最初に選ばれた打刀と、最初に鍛刀された短刀というだけでなく。遠い過去から現在に至るまで、共に居た時間はごく僅かだったにも関わらず。
 兄弟刀よりも兄弟らしい、と評されたこともあった。誰に言われたかは忘れたが、その後どちらが兄で、弟かと軽く揉めたのはよく覚えている。
 人見知りが強い打刀にとって、小夜左文字は数少ない心許せる相手だったのは確かだ。他の刀剣男士を前にしては絶対見せない表情をして、審神者相手でも絶対に吐かないだろう愚痴や弱音も、散々聞かされてきた。
 両者の間には最初から壁などなく、故にこうして肌触れ合う距離でも違和感を抱かない。小夜左文字自身、宗三左文字や江雪左文字相手には緊張させられることでも、歌仙兼定にはまるで臆するところがなかった。
 顕現直後――否、本丸に顕現する以前からこの調子だったから、この関係を特別なものだとは意識してこなかった。
 認識していなかった。
 だのに、理由は不明ながら、この瞬間に悟らされた。
 振り返れば、過去に幾度か指摘されて来た事だった。お前達は付き合っているのかと、若干茶化し気味にではあったものの、直接的な表現で問われたことさえあった。
 不意に思い出したとある日の出来事に、かぁっ、と頬が熱くなった。
 この場に鏡がなくて良かったと、心の底から安堵した。とても見られたものではない筈で、蔵に自分以外誰もいなかったのは幸いだった。
「ああ……」
 これから先、どんな顔をして彼と会い、話をすれば良いのだろう。
 起きた事を思い返すばかりで、これから先のことをあまり考えてこなかった。憂鬱な想像をしてしまい、一度は天を向いた眼差しが、再度地の底に向いてしまった。
 目を閉じれば数刻前の出来事がありありと蘇る。
 衣擦れに引きずられる格好で顔を見合わせた後、今度はふた振りとも、すぐに目を逸らした。歌仙兼定の表情からは笑みが消えて、どこか戸惑ったような雰囲気を漂わせていた。
 それが何に起因しているのか、小夜左文字には今でも分からない。不信感や、軽い疑念といったものがあったようだが、彼の心の内を読み解くのは易くなかった。
 会話のきっかけを見出せず、肩を寄せ合い、時間が過ぎゆくのをただ眺めていた。
 折角時間を費やして作っただろう弁当は放置され、打刀は箸を取ろうともしない。申し訳ないことをしたと後から思ったが、当時の短刀はそこまで頭が回らなかった。
 布越しに感じる微かな熱と、断続的に聞こえて来る男の呼吸音と。
 耳を澄ませば鼓動さえ聞こえるのでは、という距離で、過去に覚えたことのない強い緊張感に見舞われた。
 自分に聞こえているのなら、彼にだって聞こえているはず。
 それが余計に緊張を膨らませ、四肢を強張らせた。透明な縄でぐるぐる巻きにされた心境で、かちこちに固まった筋肉は、やがて思いがけない反応を引き起こした。
 ぴくりと、右の中指が勝手に動いた。
 それだけだ。そう、たったそれだけなのに、全身の発条が一気に爆発したかのような衝撃が走った。
 ビクッと、震えたのだと思う。
 直後に歌仙兼定がこちらを向いて、何事かという表情をした。小首を傾げ、流麗な眉を僅かに潜ませ、探る眼でこちらを覗き込んで来た。
 名前を呼ばれた気がする。
 いや、呼ばれたのだろう。だけれど声は聞こえなかった。頭の中は真っ白で、聴覚どころか、色々な感覚がすっかり麻痺していた。
 他にもひと言、ふた言質問された覚えがあるが、なんと答えたかは覚えていない。もしかしたら、答えてすらいないのかもしれなかった。
 首を振った、のは確かだ。それだけははっきりと記憶している。しかしそれ以外は、部分的に欠落していたり、前後が入れ替わったりして、判然としなかった。
 足りない部分を空想で補っている気配すらあった。
 どこまでが現実に起きたことで、どこからが妄想に端を欲するものなのか。両者が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになってしまった以上、分離して整理するのは不可能に近かった。
 どこかの時点で、笑いかけられた。
 ふっ、と窄めた口から漏れた吐息が、緊張の行き過ぎから来る混乱に陥っていた短刀の鼻先を擽った。
 彼がなにを見て笑ったのか、咄嗟に理解出来なかった。
 けれど同じところをぐるぐる回っていた思考が、それで一段落した。ゆっくり減速して、凍り付いていた四肢に熱が戻った。
 打刀はぽかんとする短刀に目を細め、左耳の辺りを指差した。なにかと思って怪訝にしていたら、花びらが付いている、と教えられた。
 それは頭上に戴く桃の花ではなく、薄紅色の桜の花弁だった。
 どこで拾って来たかなど、考えるまでもない。花見の宴は枝垂れ桜の足元だったから、あの場に居た刀の多くは、身体のどこかしらに花弁を付着させていた。
 小夜左文字も御多分に漏れず、そのひと振りに含まれていた。
 陽が昇る直前、夜明けの空にも似た色の髪に、淡い色の花弁が一枚。
 これが兄刀の宗三左文字だったなら、髪色に埋もれて区別がつかなかったに違いない。指摘を受けて真っ先に思ったのはそんなことで、お蔭で男の手が接近しているのに気がつかなかった。
 意識が余所を向いている隙に、忍び寄られた。いいや、小夜左文字がそう感じただけであり、歌仙兼定にすればこうするのは自然の成り行きだった。
 長く、しなやかな指が藍色の髪に触れた。
 癖のある頭髪に埋もれ、絡まる花弁を取り除かんとして、爪先を僅かに揺り動かした。
 引きずられる格好で、中空にあった毛先が、華奢な短刀の頬を掠めた。
「!」
 記憶を辿るうちに、連動して今現在の小夜左文字までもがビクッと肩を震わせた。背後に誰かいる予感を抱いて振り向いたが、さすがにそれはあり得なかった。
 薄暗い空間には、伸びる影すら存在しない。
 入り口から漏れ入る光の形も、先ほどから殆ど変わっていなかった。
 その事実にホッとして、同時にがっかりした。本丸の誰も、自身の不在を疑問に思わないのだと、悪い方向に思考が傾いた。
 きっとそんなことはないと思うのだが、楽観的に構える余裕もなかった。精神的にゆとりが無く、何もしていないにも拘わらず疲弊しているのが実感出来た。
 歌仙兼定がそうしたように、小夜左文字は己の頬を撫でた。顎の下から耳元に抜けるようにして指を沿わせ、輪郭を確かめながら、人差し指だけを上に向かわせた。
 絡みついていた桜は、たった一弁のみ。その割には随分と大袈裟な仕草であるが、文系を気取る男はいつも大体、こんな感じだった。
 単に抓み取れば済む話なのに、ひと手間足して、わざわざ触れようとする。
 他の刀剣男士相手には、しない。小夜左文字にだけ、そうする。
 深く考えたことはなかった。あれらに何らかの意図が含まれていたのかどうかは、この場では調べようがなかった。
 ただ想像するだけなら、容易い。自らが願う結論にも、至りたい放題だった。
 かあっと顔が熱くなり、胸の奥の疼きが酷くなる。耳元で鼓動が鳴り響き、まさにあの瞬間の再現だった。
 頬に手を添えられて、彼ははっと息を呑んだ。驚いて視線を戻せば、予想だにしなかった近さに打刀が居た。
 鼻先を吐息が掠めた。
 彼の呼気が唇を撫でた。
 目を見張った。
 至近距離で視線が交錯した。
 火花が散った。
 咄嗟に目を閉じた。首を竦め、脇を締めてぎゅっと力を込めた。
 顔の各部位が一斉に中央に集まった。眉間に皺が寄って、顰め面が面白い事になっていたはずだ。
 もっと良い顔が出来なかったものか。激しい後悔に見舞われるが、過去の自分を叱り飛ばしたところで栓ない話だった。
 歌仙兼定はしばらく動かなかった。桜を抓み取るのも忘れて、息を殺していた。
 この時彼がどんな表情を浮かべ、なにを思っていたのか、見当も付かない。盗み見ておけば良かったと悔やむが、今更だ。
 彼の立場になって考えてみるが、行き着く先は常に真っ暗闇。手持ち無沙汰に自分で頬を撫でて、小夜左文字は細すぎて頼りない肩をがっくり落とした。
 同時に右手も頬から落として、すぐに取って返して耳朶に被さる髪を掻き上げた。
 桜の花びらはもう残っていなかった。
 どの時点で落ちたかは、はっきりとしない。気がつけば失われていた。歌仙兼定が取ってくれたと信じたいが、そんな暇はなかったはずだ。
 互いに固まったまま数秒を過ごして、小夜左文字が先に動いた。沈黙に耐えかねて、そろりと片方の瞼を持ち上げた。
 僅かに遅れて、反対側の瞼も。
 けれど視界は真っ暗で、なにも見えなかった。丁度今居る、蔵の中のような具合だった。
 昼間の、満開を過ぎようとしている桃の木の下だったのだ。屋外でそれは通常、あり得ない。しかし本当に、そうだったとしか言いようがなかった。
 目の前にいる男の貌すら、はっきりと映らなかった。輪郭が滲んで、ぼやけて見えた。
 焦点が合わないくらい近くにあったのだと、今なら分かる。けれどあの瞬間は、何が起きているのかさっぱりだった。
 戸惑った。
 困った。
 次にどうすべきか分からず、肉体も、思考も、完全に硬直した。
 なんとか視覚を取り戻そうと瞬きを繰り返して、ようやく藤色の髪に紛れた男の瞳を見付けた直後。
 縹色をした双眸がスッと、優しく、それでいて鋭く眇められた。
 射貫かれた。
 唇が重なった。
 打刀に花びらの存在を指摘されてから、ほんの数秒間の出来事だった。
 とてつもなく長く感じられたが、実際はそうでもない。永遠に終わりが来ないのでは、と惑わされたが、過ぎてしまえば呆気ないものだった。
 動揺してはいけない。その一心で彼を見詰め返して、平静を装って立ち上がった。
 彼とは、こういうことをする関係ではなかった、はずだ。
 つかず離れずの距離を保って、お互いを気遣いながら、巧くやっていたつもりだった。
 兆候がまるでなかったとは、言い切れない。しかし踏み越えてはならない一線というものがあると悟って、極力見ないようにしてきた。
 それなのに今回、躓いた。
 うっかり転んで、その拍子に飛び越えてしまったようなものだった。
「……歌仙」
 拒む時間はあった。
 歌仙兼定が耐える選択肢もあった。
 本当は、知っていた。けれど気がついていない振りをしてきた。そうすることで、平穏を保っていた。
 自分達は刀剣男士。審神者の命に従って時間遡行軍と戦い、歴史修正主義者の目論見を挫くのが存在理由であり、役割だ。武器として、力を振るう物として、刃を敵の首に突き立てるだけが、求められる全てであるべきだった。
 この感情は、そこから逸脱している。
 戦う武器でしかない存在にとって、明らかに不自然であり、不必要なものだった。
 それを自分が抱いていると、認めたくなかった。自分に向けて抱かれていると、信じたくなかった。
 まるで人の子のように。
 恨みを呼び、憎しみを育てる土壌が自分自身にも宿っていると、考えたくなかった。
 短刀『小夜左文字』は不幸を招く刀。だが結局のところ、不幸を招いたのは所有者自身であり、刀はただそこに在っただけだ。
 ところが刀剣男士として現身を得た彼自身が、愛憎といった感情を抱き、育てていくとなると話は別だ。
 そうなれば今度こそ、本当に、彼自らが不幸を呼び込むことになる。
「かせん」
 首を擡げた不安に連動し、黒い澱みが蠢いていた。小夜左文字は思わず口元を押さえて、無意識に中指で唇を撫でた。
 あまりにもなぞり過ぎた所為か、一部分だけ乾いてカサカサになっていた。一瞬の邂逅の記憶は徐々に薄れ、他のものに取って代わろうとしていた。
 嗚呼、どうして彼はあんな真似をしてくれたのだろう。あそこで触れ合ったりしなければ、これほどの恐怖を覚え、身を竦ませる事にはならなかったのに。
 恨み言が心の奥から溢れた。現実に言葉に発していないか心配になって、息を止めて口を噤んだ。
 更にその上から両手を重ね、二重の鍵を掛けて身を捩る。
 空気が動いた気がして、身体を大きく揺すった。顔を上げ、急に増した明るさに、一秒遅れて目を閉じた。
 重い扉を開く、鈍い音がした。短刀の腕力では少ししか動かせないものが、難なく操られ、出入りに不自由ない空間があっという間に作られた。
「そこにいるのは、お小夜かい?」
 呼び声は低く、しかし伸びやか。
 高い天井に吸い込まれ、僅かに反響する音色に、咄嗟に応じることが出来なかった。
 無言を貫き、素知らぬふりをして隠れ続ける道もあった。けれど残念ながら、座り込んでいる場所が悪かった。
 出入り口を楽に見通せる場所というのは、裏を返せば向こうからも良く見える、ということに他ならない。
 余程の節穴でなければ、見逃すはずがなかった。そして歌仙兼定がそんななまくら刀でないのは、小夜左文字自身が一番よく分かっていた。
 逃げ切れないと悟って大人しくしていたら、光を背負った男が大仰に肩を竦めた。両手を腰に当てて首を振り、この距離でもはっきり聞こえる音量でため息を吐いた。
「もうじき、夕餉の時間だよ」
 花見の宴は、どうなったのだろう。今宵も外で、車座になっての食事だろうか。
 打刀はあれから、台所に戻ったのか。それとも別の場所で、別のことをしていたのだろうか。
 あのことを、どう思っているのか。
 疑問は次々降って湧いて、尽きる事がない。だがそのひとつとして、選んで声に出せなかった。
 ただ黙って、男が穏やかな足取りで近付いて来るのを待つ。
 立ち上がるのを促し、手が差し伸べられた。綺麗に並んだ五本の指と、そこから広がる大きな掌越しに見上げた顔立ちは、優美で、秀麗で、少し寂しげだった。
「お小夜」
「……すみません」
 催促して二度、三度と揺らされて、辛うじてそれだけを絞り出した。
 短い謝罪がどれほど多くの感情を内包しているものか、歌仙兼定には分かるまい。ひとり懊悩し、苦しんでいたか、この打刀は知る由もないのだ。
 心の隙間からぽろりと零れ落ちた憎しみが、足元をころころと転がっていく。
 奥歯を噛んで漏れ出かけた嗚咽を磨り潰した短刀に、歌仙兼定は出した手を引っ込めた。
 代わりに彼は、膝を折った。急いで右膝で地面を叩いて、蹲る小夜左文字と目線の高さを揃えようとした。
 身を屈めて、猫背になって。
「お小夜」
 先ほどより近いところから声を発して、幾ばくか薄まった暗がりから覗き込んで来た。
 真っ直ぐに突き刺さる眼差しは、くちづけを交わす直前に見たものと相違なかった。
「……っ」
 思わず警戒し、肩が跳ね上がった。蛙を真似て後ろに飛び退こうとしたけれど、人を模したこの体躯では叶わなかった。
 距離を詰めようとして果たせなかった男は、僅かに眉を顰めた。思案するかのように瞳を揺らして、前のめりになった身体を支えるべく、右手を地面に突き立てた。
 小夜左文字の爪先すぐ脇に拳を置いて、言葉を選んでいるのか、無言で口を開閉させた。やがて深く息を吸い込み、唇を真一文字に引き結んだ。
 告げる決心が整ったと、そういう表情だった。
「僕は――」
「だめです」
 それを、直前で制した。
 両者の声がごく僅かな差で重なり合った。邪魔が入ると予想していなかった男は呆気にとられ、二の句が継げず、惚けたまま目を点にした。
 お蔭でこちらも、気まずい。咄嗟に放った台詞を補うのも忘れて、小夜左文字は両手の指を意味も無く蠢かせた。
 空を掴み、握り、均して、ぽとんと膝に落とした。
 一緒に視線を沈めて、戸惑う男の方へ首を傾けた。
「僕は、……だめです。歌仙。あなたを、不幸にしてしまう」
 一度堰を切ってしまえば、あとはなし崩しだった。
 喉の奥に閊えていた物が、一気に溢れた。これまでの穏やかで、和やかで、柔らかな日々が瓦解し、壊れてしまうのがなにより恐ろしかった。
 本丸で共に居て、時を過ごす。それだけで良いではないか。醜悪な感情を引き寄せる関係は、望まない。今まで通り、可も不可もない生活を過ごすのでは駄目なのだろうか。
 短刀として世の中を渡り歩く中で、人と人の営みを間近で眺めて来た。ちょっとしたきっかけで平穏が砕け散る様をつぶさに見て来ただけに、昨日までの関係が一変するような状況は受け入れ難かった。
「不幸……?」
 しかしあちらは、違う考えを有していた。
 鸚鵡返しに呟いて、歌仙兼定はスッと背筋を伸ばした。一度天を仰いでゆるゆる首を振って、地面に押しつけていた利き腕を持ち上げた。
 指の背に貼り付いた汚れを振って落とし、更には袴に擦りつけて拭って、関節を伸ばした。二度、三度と軽く空気を掻き混ぜて、上目遣いに様子を窺う短刀へと差し向けた。
 ぽすん、と大きな手が落ちて来た。わしゃわしゃと容赦なく掻き回されて、準備が出来ていなかった細い首が落ちそうになった。
「か、歌仙」
「なにを、今更。君に置いて行かれたあの時から、僕はとっくに、不幸だ。お小夜」
「それは。そんな……」
 抗ったが、許されない。物理的に顔を上げられなくて、打刀がどんな顔をしているのか、見て確かめることが出来なかった。
 指先に籠められた力具合といい、彼が怒っているのは間違いない。
 それをどう宥め、謝罪すれば良いか思いつかなくて、小夜左文字は黙って撫でられ続けるしかなかった。
 歌仙兼定は昔、小夜左文字と一緒だった。
 同じ主の下に在った。打刀はその頃まだ号がなかったけれど、実利に特化した片手持ちの刀として、重宝されていた。
 ふた振りが離れたのは、時代の流れ上、やむを得ないことだった。
 飢饉で餓える領民を救うために、金銭の工面は急務。当時の持ち主が手っ取り早くこれを得る為に、売れるものを売りに出すのは当然の選択だった。
 その元の主の決断を、歌仙兼定は非難した。その結果己は不幸になったと、物でしかない刀が言い切った。
 刀剣男士として顕現する以前の彼らは、自身で考え、行動する権利を有していなかった。
 物は物であり、持ち主に依存することでのみ存在を許される。こちらから何かを訴えかけるには、それこそ夢で語りかけるくらいしか術が無かった。
「そんなこと、言ったって……」
 間接的に、大人しく売られて行った小夜左文字まで責められた気分だ。
 あの時は他に道がなく、そうするのが最良だと短刀も納得した。結果として打刀を細川の屋敷に置き去りにしたのは否定しないが、抗って覆せるものではなかった。
 それくらい、この男だって分かっているはずだ。
 だのに恨みがましく言われて、気が滅入った。益々落ち込んで、嫌になったところで、頭上にあった手が引っ込められた。
 首に掛けられていた負荷が消えても、顔を上げられない。
 湧き起こる悔しさと、不条理さから来る腹立たしさが混じり合う。醜悪な感情がむくむくと膨らんで、無意識に拳を硬くしていた。
 何かの弾みで爆発して、殴りかかってしまいそうだ。
 そうならないよう枷を掛け、唇を噛んで、腹に力を込めた。
「だから、お小夜には。僕を幸せにする義務がある」
「――はい?」
「拒否権はない。だって、そうだろう?」
 そんなこちらの苦労を足蹴にして、突然、凛とした声で言い張られた。
 唖然とし、目をぱちくりさせて、不遜に笑いかけてくる男を疑わしげに見る。
「意味が、分かりません」
 声は掠れていた。音になったかどうかも怪しかった。
 惚けて固まっていたら、あの時のように頬を撫でられた。顎の輪郭をなぞり、もみあげを擽って、癖の強い藍色の髪を軽く掬い上げた。
 棘のように硬い毛先を指先で梳いて、朗らかに笑いかけられた。
「だから、まずは言わせてくれ。お小夜。言わせても貰えないのだって、不幸極まりない話だろう?」
「それは。僕は、不幸を招きますから」
「なら、その不幸を断ち切ってみせよう」
 自信満々に告げられて、益々困惑が否めない。なにを根拠に断言しているのか、それすら読めなかった。
 ふふん、と鼻を鳴らして口角を持ち上げ、歌仙兼定が指を走らせた。薄い耳朶を包むように掌を広げて、小夜左文字の後れ毛を梳いた。
 滑らかな動きを、ピリリとくる痺れが追いかけて走る。背筋がぞわっとして、産毛が一斉に逆立った。
 爪先がぴくりと弾んで、じんわり染み込んで来る他者の熱に心が疼いた。先ほどまで確かにあった苛立ちは霞のように消え失せて、黒く染まった感情は見事にひっくり返った。
 これまで目にする機会のなかった色が現れて、四肢の隅々に広がって行くのが分かる。「だめ、です」
 暖かかった。
 心地よかった。
 だからこそ恐ろしくて、逃げたかったのに、果たせない。
「聞いてくれ、お小夜」
 甘美な音色は透明な縄と化し、華奢な体躯を優しく縛り上げた。耳に馴染む掠れた低音は、頑なだった短刀を甘く蕩かした。
 全身を包む微熱は穏やかで、泣きたくなるほど優しくて。
 幸福というもののあまりの居心地の悪さに、小夜左文字は顔を顰めて目を閉じた。

何ゆゑか今日までものを思はまし 命にかへて逢う世なりせば
山家集 659
2019/04/14 脱稿