梅が香とめん 人親しまん

 微かに香る甘い匂いに誘われて、目白が梅の木にやって来た。
 緑色の艶やかな羽に、細長い嘴、愛嬌のある眼。小さな花に顔を突っ込み、蜜を集めて枝から枝へ飛び移る姿は忙しなく、ふっくらとした体躯もあって、実に可愛らしかった。
 油断すればすぐに見失ってしまう素早さで、目で追うのも一苦労。
 思わず首を伸ばし、前のめりになって、小夜左文字は着実に迫る春の足音に耳を澄ませた。
「おっと」
 危うく行きすぎて、縁側から落ちるところだった。
 前傾姿勢を強くし過ぎたのを反省し、軒下に垂らした両脚を誤魔化しにぶらぶら動かす。腋の下を流れた冷や汗にぶるっと身震いして、彼は周囲に悟られぬよう吐息を零した。
 ホッと胸を撫で下ろし、そうっと後ろを窺い見る。
 穏やかな日差しが差し込む縁側にて、弟刀が絶賛百面相中とも知らず、座卓に向き合う男は巧みに筆を操っていた。
 凛と背筋を伸ばし、姿勢はお手本のように良い。長い髪を無造作に背に垂らして、紙面に注ぐ眼差しは真剣だった。
 美しく装飾が施された料紙には、定規と篦を使って細い筋が等間隔に刻まれている。その罫線の隙間を縫うようにして、流麗な文字が丁寧に書き連ねられていた。
 一言一句として間違えないよう、手本として広げた経典をじっくり眺め、頭の中で何度も書く練習をして。
 お蔭で一行進めるだけでも、相当な時間がかかる。その分仕上がりは折り紙付きだが、だからといって書写したものが役に立つとは思えない。
 数年に渡って彼が一振りで成してきた偉業は、誰に評価されることもなく終わりを迎えるのだろう。虚しくないのかと不思議に思うが、江雪左文字にとって、こうやって過ごす時間は決して無駄ではない。
 だから飽きもせず、今日も励んでいる。
 小一時間ひと言も発せず、足を崩すこともせずに佇んでいる兄刀から視線を逸らし、小夜左文字は梅の木が幅を利かせた坪庭に視線を戻した。
 交互に動かしていた脚を揃え、並べた膝の隙間に両手を埋めた。退屈しのぎに両手の指を弄り、ふと思い出して視線を上げた先に、もう目白の姿は無かった。
 腹を満たして、どこかへ飛び立ってしまったようだ。
「ああ……」
 もっと見ていたかったのに、叶わなかった。折角やって来た春の気配を掴み損ねた気分で、短刀の付喪神は落胆に肩を落とした。
「お小夜?」
 その溜め息が、江雪左文字の耳に届いてしまった。
 なんと間が悪いのだろう。どうせなら他のところで気付いて欲しかったと、もやもやする気持ちを内側に隠して、彼は今一度兄刀を振り返った。
「はい」
「……退屈、では……、ありませんか……?」
 爪先は軒下に垂らしたまま腰を捻り、上半身だけを江雪左文字へと向ける。
 縁側に面した障子を開き、差し込む天然光を頼りに写経していた太刀の身体は、詰まるところ小夜左文字と同じ方角を向いていた。必然的に両者は正面から顔を突き合わせる事になったが、身長に差があるのも手伝い、視線は巧く絡まなかった。
「いいえ」
 それに幾ばくか安堵して、躊躇なく首を横に振った。
 確かにここにいても、特別なにか起きることはない。ただ静かで、無為な時間が過ぎていくだけだ。
 けれどそれが決して無駄だと、小夜左文字は思わない。江雪左文字が毎日せっせと机に向かい、写経に務めるのと、そう大きな違いがあるようには感じられなかった。
 それに、例えば先ほどのように、目白が花を訪ねてやって来る事もある。
 遠くからは馬の嘶き、鍛練に汗を流す雄々しき掛け声も、途絶えることなく響いていた。
 時間が動いている証拠を、あらゆる場所から見出し、己の存在をその中心に据える。
 四方に注意を向け、意識を研ぎ澄ましていた。退屈している暇など無かった。
「手持ち無沙汰、では、ありますが……」
 もっともじっとしている時間が長い分、この身体は動きを欲していた。
 その一点だけを抜き出して言うのであれば、左文字の長兄たる太刀の指摘は、あながち間違いとも言い切れなかった。
 そんな複雑な心境が、少しでも顔に出ていたのだろうか。
「私と、いても……楽しくは、ないでしょう……?」
 江雪左文字は小さく肩を竦め、控えめに微笑んだ。どこか自虐的にも映る表情を見せられた方は、言葉の選択を誤ったと悟り、己の失態に下唇を噛んだ。
 だが言ってしまった以上、もう取り戻せない。
 傷つけてしまったのでは、と後悔する余裕があるのなら、さっさと否定すべきだ。内向きになりたがる自らを奮起して、小夜左文字は兄刀の方へ身体を乗り出した。
 だらしなく垂らしていた利き足を回収し、固い縁側の床に膝小僧を擦りつけた。そのまま四つん這いで敷居の向こうに座す男の元へ向かおうとして、不意に流れてきた姦しい騒ぎ声に眉を顰めた。
「待って、待ってってば~!」
「急げよ。おいてっちまうぞ」
「なんでもっと早く教えてくれなかったのさ!」
 粟田口の短刀たちだろうか、混ざり合った声はどれが誰のものか分からない。
 複数のドタドタという足音と共に、一瞬のうちに静かになった。まるで小規模な嵐で、迷惑極まりなかった。
 短刀たちの住まう区画は、太刀たちの部屋がある区画からはかなり離れている。
 だというのに、壁一枚隔てただけのように聞こえた。いったい何の騒ぎなのかと気になったが、追いかけて問い質すのも馬鹿らしかった。
 静かで穏やかな環境を好む江雪左文字も、さぞや気分を害したことだろう。
 出鼻を挫かれたのもあり、眉間に皺を寄せ、小夜左文字は改めて兄刀に視線を投げた。
 思い描いていたのは、同じように渋面を作って不機嫌を隠さない姿。しかし実際そこにあったのは、どこか嬉しそうな、柔らかな笑顔だった。
 口角が僅かに持ち上がり、目尻は下がっていた。白い肌は微かながら朱を帯びて、ほんの少しであるけれど、血色が良くなっていた。
 切れ長の双眸は遠くを見据え、ここではない場所を見ている。
 予想とあまりに違う現実に愕然としていたら、視線に気付いた太刀がスッ、と表から感情を消した。
「どうか、しましたか?」
「いえ……」
 能面とまではいかないが、微笑にも届かない表情で問われて、戸惑いが隠せない。
 俯いて首を横に振った短刀に、太刀が怪訝に目を眇めた時だった。
「江雪、いいかな?」
「はい?」
 閉め切った襖の向こうから、呼び声があった。やや低めながら伸びがある、太刀相手にも遠慮のない、砕けた口調だった。
 それが日向正宗のものだと気付くのに、小夜左文字は三秒と少し必要だった。
 答えに辿り着いた時にはもう、彼は右手で襖を開き、顔を覗かせていた。
 屋内だからか、帽子は被っていない。動きの邪魔にならないようにか、衿の上に捲いた黒に白の線が走る飾り布の先は、着衣の第一釦と第二釦の隙間に捩じ込まれていた。
 床に置いていた盆を手に取り、胸元に掲げて敷居を跨ぐ。ここに至って、彼は小夜左文字の存在に気がついた。
「あれ、小夜もいたんだ。じゃあ、どうしよう。ちょっと足りないな」
 襖の前で立ち止まって、困った風に呟かれた。独り言だったようだが、充分に聞こえる音量で、それで彼の目的が半分以上判明した。
 日向正宗が運んで来たのは、急須と湯飲み。そしてささやかな茶菓子だった。
 それらを丸形の盆に行儀良く並べ、炊事場からここまで運んで来たらしい。但し小夜左文字が一緒、という可能性は念頭になかったようで、湯飲みはふたつしか用意されていなかった。
 彼と、江雪左文字の分だ。
 右手一本で重い荷物を支え、丸めた左手を頬に添えて悩む彼に、長髪の太刀がゆっくり立ち上がった。筆を置き、墨を磨るのに使う水滴を持って、僅かに乱れた袈裟を軽く整えた。
「であれば、私が。……もらって来ましょう……」
 水を補充するついでだと言って、部屋の主自ら出て行こうとする。
「あああ、いいよ、いいって。梅干し茶、おいしく出来たと思うんだ。ゆっくりしててよ。小夜もね」
 それを慌てて制したのは、日向正宗だった。
 入れ替わりに敷居を跨ごうとする太刀を急ぎ引き留めて、左手で陶器の水滴を引き受け、代わりに盆ごと茶器一式を押しつけた。
 少々強引なやり方に、形良く並んでいた湯飲みと急須がぶつかった。
 不穏な音が聞こえて、やり取りを遠巻きに見ていた小夜左文字は慌てて身体を起こした。
 半端な姿勢を改めて、二本の足で床に立った。緩んでいた尻端折りを歩きながら引っ張り上げて、戸惑う江雪左文字から盆を譲り受けた。
「ですが」
「勝手に来たのはこっちだし。いいから、いいから」
 太刀は太刀で、日向正宗の決定が不満らしい。なんとか食い下がろうとするものの、早口で窘められて、結局敵わないと口を噤んだ。
 ようやく大人しくなった彼に肩を竦め、目尻に朱を入れた短刀が、小夜左文字に向かってにこりと微笑んだ。
「根を詰め過ぎると、良くないからね。見張り、よろしく」
「え? あ、はい」
 星の明るい夜を閉じ込めたような瞳だった。
 きらきら輝く目を眇め、飾り気に乏しい丸い水滴を手に、日向正宗は踵を返した。
 これは仕事を押しつけられた、と思って良いのだろうか。預かった盆の重みを両腕で支えつつ、彼は開けっぱなしで放置された襖の向こうへと目を泳がせた。
 急にやって来た短刀は、立ち去る際も素早かった。振り返りもせず行ってしまった少年に困惑したまま傍らを伺えば、江雪左文字も似たような顔をして溜め息をついた。
「いただきましょうか……」
 日向正宗の戻りを待っていたら、折角用意してくれた茶が冷めてしまう。
 行き場を失った手で襖を閉めた長兄の言葉に頷いて、小夜左文字は渡されたものを傾けぬよう、慎重に足を進めた。
 畳の縁を踏まぬよう戻って、積み上げられた経典の手前で膝を折った。丸盆を大事に置いて、好奇心から急須の蓋をそうっと持ち上げた。
 細い湯気が数本揺らめき、鼻先を甘く擽った。
「梅干し?」
 緑茶の中に、見慣れぬものが沈んでいる。くすんだ赤色の塊をよくよく注意して見れば、焼き目が付いた梅干しだった。
 そんなものが、どうして茶の中に放り込まれているのか。
 訳が分からず戸惑っていたら、横から覗き込んで来た江雪左文字が、嗚呼、という風に頷いた。
「疲労回復に、良いと。そう……聞いています」
「そうなんですか?」
 太刀は特段驚いた様子もなく、当たり前のものとして受け取っていた。いつかの日に、誰かから教えられたのであろう知識を披露して、委ねられた急須を傾け、京焼の湯飲みに茶を注いだ。
 派手で華やかな文様が焼き付けられた器を中心に、香ばしくも少々酸っぱい匂いが広がって行く。
「いただきます」
 味が破綻することはないのか。あまり聞かない組み合わせに、恐る恐る口を付ければ、意外にも両者は反発する事もなく、自然と中和し、程よく混じり合っていた。
 どちらか片方が勝ることもなく、互いに譲り合って、良い塩梅を醸し出している。
「美味しい」
 屋外の風に当たって冷えた身体にじんわり馴染み、内側から身体を温めてくれた。
 お節介が過ぎない、心地よい配分に、勝手に表情が和らいでいく。それは江雪左文字も同じなようで、右手で湯飲みを抱く彼は心底嬉しそうだった。
「日向も喜びましょう」
 混じりけのない、心からの感想を述べた弟刀に相好を崩し、美しく色づけされた急須の蓋に指を添える。
 円形の輪郭に沿って人差し指を一周させた彼は、戦への出陣を命じられた時とはまるで違う表情をしていた。
 机に向かって寡黙に筆を動かし、写経に励む時ともまるで違う。
 これまで滅多に見るのが叶わなかった姿を目の当たりにして、小夜左文字は自覚のないまま、ぶるり、と大きく身震いした。
 本丸に来るまで、この太刀を兄刀と意識したことはない。同じ刀工の手によって生み出されたとはいえ、来歴はまるで異なり、境涯を共にした経験はないに等しかった。
 だから小夜左文字は、江雪左文字の事をあまり知らない。四年近い時を本丸で過ごして来た仲であっても、本音をじっくり語り合える関係だとは、お世辞にも言えなかった。
 日向正宗とも、そこまで親しいわけではない。それが兄刀のところにふらっと茶を持って現れて、あんな風に慌ただしく去って行く関係だとは、今日まで知らなかった。
「日向正宗さん、とは」
「ええ。紀州で、少し」
 水を向ければ、長兄は照れ臭さを押し隠すように言った。
 ふた振りが紀州徳川家で共に在ったのは事実であり、その話は聞き及んでいる。だが具体的にどんな生活を送っていたか、訊ねたことはなかった。
 そんなふた振りの関係性が、あの短いやり取りから嗅ぎ取れた。
 小夜左文字が今日、江雪左文字を訪ねたのは偶々だ。出陣も遠征も言い渡されておらず、出かける用事もなく、台所仕事も人数が充分足りていた。手伝いに入っても却って邪魔になるだけと弁えて、ならばと久しぶりに長兄の懐に潜り込もうと画策した。
 とはいっても、兄刀の膝は簡単には空かない。写経が一段落するのを待つべく縁側に出て、邪魔をしないよう、時間が過ぎるのを待っていた。
 小休止しないかと、声を掛けるのさえ憚っていた。
 彼の手を患わせるのは良くないことと、頭の片隅で勝手に思い、決めつけていた。
 退屈ではないか、と問いかけられたのを思い出し、胸の奥がちくりと痛む。小さな棘が刺さったかのような、ささやかだが断続的に続く疼きに身動ぎ、尻をもぞもぞさせて、彼は二杯目を湯飲みに注ごうとする兄刀に視線を移した。
「あの」
「お小夜も、飲みますか?」
 話しかけようとして、先手を取られた。思わずぐっと息を呑んだ途端、なにを喋ろうとしていたのか、内容は霞の如く消えてしまった。
 江雪左文字としても、弟刀がそのような事態に陥っていると、微塵も感じていないに違いない。どこかのほほん、とした、浮き足立っているような雰囲気が、彼の全身から湧き出ていた。
 戦嫌いで、喧噪を苦手とし、酒宴の席にも全くと言って良いほど参加しない太刀は、気難しくて扱い辛いと評されてきた。だというのに目の前にいる男は、出陣を命じられて渋る時とは別人だった。
 これは本当に、何かにつけて『不幸』の二文字が付きまとう左文字三兄弟の長兄か。
 穏やかで、菩薩と表現しても過言ではなさそうな姿を見せられて、小夜左文字は開いた口が塞がらなかった。
 呆気に取られて固まっていたら、返事が無いのを訝った太刀が首を捻った。
「お小夜?」
 急須を盆に置き、長い髪で畳を擦りながら顔を覗き込もうと近付いてきた。
「あ、いえ。いただきます」
 端正で美しい顔立ちが静かに迫ってくるのにはっとして、短刀は急ぎ、湯飲みに残っていた茶を飲み干した。
 空になった器から、仄かに梅の香りが漂った。
 昨年の初夏に、青梅の収穫を手伝った。急須の中に沈んでいる梅干しは、その時のものかもしれなかった。
「日向正宗さんの、梅干し……美味しいです」
「ええ。ですが次は、もっと、美味く作る、と」
 食事の席でも、あの短刀が作った梅干しは大人気だ。一年分は余裕で作ったはずなのに、気がつけばもう残り少ないと嘆いていたのは、頻繁に台所に立つ昔馴染みの打刀だ。
 その事を知っているのだろうか。江雪左文字はふっ、と口元を綻ばせた。
 小夜左文字が知らないところで、彼らは言葉を交わしていた。部屋を訪ねるのは各自の勝手だが、それくらい気を許した相手が居たのは驚きだった。
 けれど考えてみれば、この太刀だってもう本丸で四年を過ごしている。単に気がつかなかっただけで、彼が独自の交友関係を築いていても不思議ではなかった。
「知らなかった」
 兄刀のことはなんでもお見通し、と変な自負を抱いていたが、打ち砕かれた。
 これでは弟として失格だ。そんな風にさえ思えてきて、密かに傷つき、悔しさに上唇を噛んだ。
「おや……? 帰って来たのでしょうか……」
 そうとは知らない太刀が暢気に急須を取り、弟の為に茶を注いで、振り返る。
 聞こえた足音に短刀も反応して、まだ温かい茶に口を付けぬまま首を捻った。
 足音はひと振り分だけれど、それにしては少々調子が荒っぽい。日向正宗ならもっと軽やかで、小刻みに拍子を刻みそうなものなのに、これは些か騒々しかった。
 小柄な少年のものではない。
 思い違いに気がついて、別の可能性に思い至った直後だ。
「江雪左文字、いるか!」
 どおん! と勢い任せに襖を開いて、山姥切長義が大声を響かせた。
 壁を貫かんばかりの、実に凛々しい雄叫びだった。
 二度続けて大きな音に晒されて、室内にいたふた振りは揃って目を丸くした。もう少しで湯飲みを取りこぼすところだった小夜左文字は冷や汗を拭い、唖然としている兄刀越しに、戸口で仁王立ちの打刀を見た。
 山姥切国広の本歌にして、備前長船と相州両方の特徴を有する刀は、時の政府から派遣された監査官として現れた。
 しかし諸処の事情を経て、今では頼りになる本丸の仲間だ。小夜左文字たちと同様、審神者に忠誠を誓い、歴史修正主義者の目論見を挫くべく、日夜戦いに挑んでいた。
 但し今は、出陣を命じられてはいないようだ。
 それを証拠に、彼は戦装束を解いていた。長船派の刀たちと同じ紺色の内番着に身を包み、袖を捲って、骨太い肘を露出していた。
 汚れの少ない軍手を左手で握り締めているので、これから畑仕事か、馬当番か。
 ただそのような状態で、どうしてこの部屋にやって来たのか、事情はさっぱり分からない。
 開口一番、名前を呼ばれた太刀も困惑が否めず、細長い眉を真ん中に寄せた。
「長義。もう少し……静か、には。……出来ませんか……?」
 辛うじて絞り出した叱責は、しかしあっさり無視された。打刀は惚けている短刀たちを一瞥すると、何故か一旦廊下に戻り、周囲を窺ってから室内に上がり込んだ。
 乱暴に襖を閉め、こちらの当惑を余所にずんずん進んで、太刀の手前で膝を折った。
 爪先と膝頭で体重を支え、両手は腿の上に。どことなく緊張した面持ちで、唇は真一文字に引き結ばれていた。
「長義」
 訪ねて来た理由を語らぬまま、居座るつもりでいるらしい。
 どんな状況下でも居丈高に構え、誰に対しても不遜な態度を崩さない青年は、江雪左文字に名前を呼ばれて僅かに眉の形を崩した。
 元々多弁ではない太刀は、自ら切り出す真似をしなかった。向こうが用件を告げるのをじっと待ち、長く艶やかな髪をほんの少し左右に踊らせた。
 緩く首を振った兄を盗み見て、小夜左文字は妙な息苦しさに息を呑んだ。
 兄刀に代わって話を振るべきか悩んだが、お節介が過ぎるだろうか。
 けれどこのまま放っておいても、沈黙が無駄に長く続くだけだ。
 完全に切り出す機会を逸してしまい、山姥切長義は苦々しげな表情で右の頬を引き攣らせた。助けを求める風に短刀に一瞬目をやって、直後に深々とため息を吐いた。
「頼みが、ある」
「私に、……ですか……?」
「ああ」
 彼はひょっとしたら、小夜左文字がここにいるのを想定していなかったのかもしれない。
 自分と江雪左文字のふた振りだけの秘密にしておきたかったのが、短刀が場に居合わせた為に予定が狂った。それで葛藤していたのだとすれば、あの沈黙も頷けた。
 そして覚悟を決めて喋り出した、ということは、小夜左文字が秘密を他者に言いふらすような刀ではない、と彼が認めた事に他ならない。
 山姥切国広を自らの偽物と評し、時に威圧的な態度も辞さない彼が、こうして江雪左文字の前で膝を折って頭を下げている。
 これだけでも、驚くべきことだ。あまりにも珍しい光景に、小夜左文字は息をするのも忘れて打刀に見入った。
 その突き刺さる眼差しが不快だったのか、軽く睨まれた。但し上目遣い気味だった為か、迫力というものは皆無だった。
 日頃の勝ち気で、生意気な彼の姿からは想像が付かない。この場に堀川国広がいたら、意外過ぎて顎を外すのではなかろうか。
 兄弟刀を大事に思うあまり、あの脇差は山姥切長義に敵意を隠さない。当の打刀が『自分は自分』と言って、飄々と受け流しているにもかかわらず、だ。
 何かにつけて本歌と写しを比較したがる打刀は、一部の刀からも若干煙たがられていた。
 長船派の面々や、南泉一文字と一緒にいるところは頻繁に目撃されたが、江雪左文字とも親しくしていたとは知らなかった。
 今日は兄刀に関して、新たな発見の連続だ。
 関心を寄せていたつもりで、現実には知らない事だらけだったと痛感させられる。
 これで落ち込まない方が無理な話で、口惜しさに拳を作っていたら、深呼吸した山姥切長義が爪先を寝かせ、跪座から正座に姿勢を作り替えた。
 居住まいを正し、正面から太刀と向き合った。それで江雪左文字も急須を下ろし、膝の上で包み込むように持って、聞く体勢を作った。
 居心地の悪さを覚えた短刀は、席を外そうかと尻をもぞもぞさせた。あまりにも場違いな空気に居たたまれなくなって、逃げ出したい衝動に駆られたが、時間がそれを許さなかった。
「江雪は、その。……畑仕事が、得意だと。聞いた」
「……いいえ。そのような、ことは。決して……」
「いいや、お前が作った野菜が一番美味いと、皆が褒め称える。それもひと振りやふた振りだけじゃない。あれは、世辞なんかじゃなかった」
 短刀が立ち上がるより僅かに早く、山姥切長義が堰を切ったかのように喋り出した。
 何に急き立てられているのか、早口に、一気に捲し立てて、太刀の謙遜を薙ぎ払った。
 大袈裟に右腕を振り回し、虚空を斬った後に拳を作った。間違い無い、と息巻きながら告げて、聞き役のふた振りを唖然とさせた。
 なぜ野菜作りの才に関してで、そこまで興奮出来るのかが分からない。第一野良仕事は、刀本来の役目ではないと嫌う刀剣男士もかなりいる。そこの打刀だって例外ではなかった。
 戦道具が称賛されるべきは、戦場での活躍ぶりだ。それが血濡れた仕事ではなく、畑での仕事ぶりが褒められるというのは、裏を返せば、武の面で貶されているにも等しい。
 とはいえ、江雪左文字は戦嫌いで有名だ。この称賛も、彼にとってはなにより嬉しいものだろう。
 兄刀には強くあって欲しいと思う反面、手放しに褒められているのを聞くと、胸が熱くなるのは否めない。
 弟刀として、複雑な心境に陥っている小夜左文字を知らず、山姥切長義はふた呼吸ほど間を取って、拳を前に滑らせた。
 固く握って利き手を畳に衝き立て、前傾姿勢を作って距離を幾ばくか詰めた。真剣な眼差しで江雪左文字を見詰めて、一瞬の逡巡を乗り越えて、本題を切り出した。
「……どうか、俺に。畑仕事の極意を、伝授しては貰えないか」
 高すぎる矜恃が邪魔をして、挫けそうになったのを、ぎりぎりのところで踏み止まった。 無事に要望を告げ終えた彼は、それで一定の満足を得たらしい。曇りがちだった表情は明るくなり、自信を取り戻した様子だった。
 一方で請われた方は、当惑を隠さない。
「そのように、言われましても……」
 江雪左文字にとって、畑仕事は土いじりの一環だ。元々庭造りが好きだった手前、農作業にも抵抗がなかった。彼は顕現直後から一貫して、戦に出るより植物を相手にする方がずっと良い、という方針だった。
 そういう背景があって、彼は手間暇を惜しまない。地道で終わりのない作業に対し、愚痴や弱音を吐かない。黙々と、淡々と、惜しみない愛情を農作物に注ぎ続けた。
 それが結果として、野菜の味の向上に繋がった。
 極意もなにも、あったものではない。けれど顕現してまだ数ヶ月の山姥切長義は、その事に気付かない。
「頼む、江雪。本歌として、俺は絶対に、あいつにだけは、負けるわけにいかないんだ」 放っておけば額を畳に擦りつけ、土下座しそうな勢いだ。
 切羽詰まった様子で重ねて求められて、江雪左文字は困った顔で小夜左文字に視線を投げた。
 どうしたものかと、眇められた眼差しが雄弁に語っている。
「そんなこと、言ったって」
 どこでどういう話になったのかは知らないが、山姥切長義はまた勝手に、山姥切国広に対して対抗心を抱いたらしい。どんなことでも写しを上回っていないと気が済まない性質というのは、なかなかに厄介だ。
 兄刀の心情をぼそりと代弁して、小夜左文字は深く肩を落とした。中身が残る湯飲みを盆に置き、続けて太刀の掌中で温められていた急須を引き取った。
 両手を自由にした江雪左文字が、控えめな笑みを浮かべてすうっと背筋を伸ばした。
 滑らかな動きで立ち上がれば、山姥切長義の視線もゆっくりと上に移動した。必死の形相は俄に活気づき、明るく冴え渡って、はち切れんばかりだった。
 実に分かり易い変化が面白く、危うく噴き出すところだった。
 まるで雨に濡れる捨て猫が、新たな飼い主に巡り会い、喜びを爆発させているかのようだった。
「仕方がありませんね……」
 江雪左文字も勿論気付いているはずだ。抑揚に乏しい口調ではあるが、内心面白がっているのが端々から感じられた。
 誰だって、頼られたら嬉しいに決まっている。それが自分自身ではなく、兄刀であっても。
「本当か!」
「私で、お役に立てるのでしたら……ええ」
 歓喜を膨らませる山姥切長義に頷き、江雪左文字は胸元をさっと撫でた。纏わり付いていた墨の匂いを払い落とし、まずは袈裟姿から着替えようと、鈍いながらも行動を開始した。
 ところがそれを、気が急いた打刀が遮った。
「よし、ではすぐに向かうぞ」
「長義……」
 威儀を肩から外そうとした太刀の手を、先走った山姥切長義が掴み、引っ張った。
 それをよろめきもせずに叱責して、江雪左文字は取り戻した手できょとんとする青年の額を弾いた。
「あだっ」
 ぴん、と伸ばした人差し指で攻撃し、焦りすぎだと窘める。
 思いがけない一打に驚いたのは、なにも山姥切長義だけではなかった。
「兄様」
 そんな叱り方、小夜左文字はされたことがなかった。
 せいぜい、軽く小突かれる程度だ。だが、よく考えてみれば、宗三左文字はよくああやって怒られていた。
 相手によって使い分けている、というのが正しかろう。そしてこの打刀は、次兄と同等の扱いを受けていた。
 それくらい気を許した間柄、ということだ。
「このままでは、なにも……出来ません。分かりますね……?」
 出陣時は防具にもなる重い袈裟を身に纏っていては、鍬を立て続けに振るうのは難しい。裾を上げて、小夜左文字のような尻端折りも出来ないので、機動性は格段に落ちた。
 それでも構わないのかと言外に問われて、冷静さを欠いていた打刀は反省して頭を垂れた。
 だが落ち込んでいたのは一瞬だけで、すぐに気を取り直し、顔を上げた。
「急げよ」
「ええ。先に、準備を……お願いしますね……」
「任せろ」
 自信満々に胸を張り、短く言って踵を返す。そして彼は畳の上を大股に進み、襖の引き手に指を掛けたところで、電撃を受けたかのように動かなくなった。
 これまでの勇ましさが鳴りを潜め、部屋から出て行こうとしない。
 振り返りもせず畑へ向かうものと決め込んでいた小夜左文字は、打刀の心理が読めず、首を捻った。
 江雪左文字はといえば、構うことなく着替えを続行していた。だが動きは緩慢で、いつ準備が完了するのか、想像もつかなかった。
 両者を交互に見比べているうちに、胸の内でなにかに折り合いを付けた山姥切長義が、不意に言葉を発した。
「小夜左文字」
「え? あ、はい」
 まさか自分が呼ばれると思っておらず、寝耳に水だった短刀はビクッと背筋を震わせた。
 必要以上に畏まり、胸の前で両手を擦り合わせた。何を言われるのかと警戒し、怯えた表情を浮かべた彼だが、打刀は振り返らなかったので、その姿が視界に入ることはなかった。
「このこと、……分かっているな」
「ああ。はあ。はい」
 低めの声で凄まれたが、前ほど怖いとは思わない。
 むしろこの、徹底的に人前で弱い部分を見せたがらない誇り高さに、訳もなく親しみを覚えた。
 秋の頃、顕現したての彼は栗の渋皮向きに悪戦苦闘していた。お節介かと思いつつ手伝いを買って出れば、彼は案外素直に耳を傾けてくれた。
 へそ曲がりを発揮するのは、一部の刀にだけ。
 兄刀だけでなく、自分をも頼ってくれるようになったのが、兎にも角にも嬉しくて、くすぐったかった。
「分かってます」
 山姥切国広にだけ発揮される負けん気は、こうやって裏で支える存在があってこそ、成立しているのかもしれない。
 江雪左文字は存外に交友関係が広く、孤立しがちに見えた山姥切長義も、実際のところそうとは言い切れない。
 今日だけで、随分と色々な一面を垣間見た。それこそ知らなかったと拗ねて、落ち込んでいる暇などないくらいに、次々と。
「畑に行って、待っているぞ」
「ええ。すぐに……よいしょ、私も、……向かいます……おっと」
「頼むから、もう少し急いでくれ」
「……失敬な」
 黙ってやり取りを見守っていたら、無言の圧を感じた。
 視線の主は、言わずもがな。襖の手前から睨まれて、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
 当の刀は急いでいるつもりでも、江雪左文字の動きは総じて鈍い。ゆったりし過ぎる所作は、時間を惜しむ刀からすると、苛々して仕方が無いものだった。
 顎をしゃくって指示されて、短刀は命じられるままに立ち上がった。兄刀の着替えを手伝うべく歩み寄れば、山姥切長義は見るからにホッとした顔になった。
「お小夜、私は……そんなに……?」
 鈍すぎるのを指摘された太刀は、言われたのはこれが初めてではないだろうに、傷ついたらしい。打刀が出て行った後の襖を振り返り見ながら訊ねられて、苦笑を禁じ得なかった。
「兄様は、兄様です」
 事実を否定するのは難しく、かといって肯定したら、兄刀の動きが余計に鈍りかねない。
 妥当なところで相槌を打って、小夜左文字はこの話題を終わらせた。
 江雪左文字が着物を脱いでいる間に、内番着を行李から出し、袈裟を畳んだ。最後に長い髪が邪魔にならないよう、結ぶ手伝いをしていたところで、合図もなしに襖が開いた。
「あれ?」
 中の様子を見て、日向正宗が素っ頓狂な声を上げた。右手に湯飲みと水滴、左手に小ぶりの薬缶をぶら下げていた彼は、状況の変化に理解が追い付かず、星空のような眼をパチパチさせた。
 呆気にとられて惚けている短刀のことを、小夜左文字たちもすっかり忘れていた。
 山姥切長義がいきなり訪ねて来たなど、彼は知る由もない。三振りで茶を飲みながら寛ぐ計画は、戻ってみればご破算寸前だった。
「……すみません。長義に、……呼ばれてしまいました……」
 順番的には、日向正宗の方が先約に当たる。しかしあの打刀の懇願を見てしまうと、無碍に断ることなど出来なかった。
 申し訳なさそうに首を竦めた太刀を見上げ、天下に名が知れ渡る名工の短刀は二度、三度と頷いた。少ない情報から事情を察して、急に目を細めてクスクス笑い出した。
「へえ、良かったじゃない。また、長義さんに構ってもらえてさ」
「そのような……ことは……」
「また?」
 訳知り顔での呟きだが、小夜左文字には事情が飲み込めない。
 引っかかりを覚えたものの、答えを聞く余裕はなかった。
 理由は、簡単だ。
「江雪左文字、いるかーっ!」
 前にも増して勇ましい足音が轟いたかと思えば、山姥切長義を上回る音量と、勢いで、山姥切国広が部屋に飛び込んで来たからだ。
 元から開いていた襖を、必要もないのに更に押し広げ、敷居の手前で仁王立ち。またしてもの突然過ぎる来訪に驚き、日向正宗が湯の入った薬缶を落とさなかったのは幸運だった。
 三振り揃ってぎょっとして、左文字ふた振りはどこかで見た光景と、少し前の記憶を反芻した。対する山姥切国広はそうとも知らず、荒い息を肩で整え、羽織った布で顎の汗を雑に拭った。
「あなたも、ですか。もう少し……行儀良くは……できませんか……」
 分かり辛いが上機嫌だった江雪左文字も、これは看過できなかったようだ。審神者から出陣を命じられた時並の渋面を披露して、比較的低めの声で囁いた。
 それでも若干間延びした、おっとりした口調であるが故に、威圧感はないに等しい。
 山姥切国広も馬耳東風と受け流し、問答無用で部屋に入ってきた。
 背筋はぴんと伸びて、足取りに迷いは無かった。修行に出る前の、擦り切れた布を被って自虐的な発言を連発していた頃とは違い、自分に自信を抱いているのが傍目からも伝わってきた。
 威風堂々とした姿や態度は、『山姥切』という刀に共通するもののようだ。もっとも方向性に関しては、似ているようで、実のところは真逆も良いところだった。
「その様子……。さては、本歌か」
 溜め息を数えている江雪左文字にピンときたらしく、金髪の打刀が右の眉を僅かに持ち上げた。
 思い当たる節があるのか、口元に手をやって数秒黙り、確認を求めて太刀ではなく短刀に目を向ける。
 日向正宗は怪訝に首を傾げて、小夜左文字は咄嗟にぱっと目を逸らした。
 誤魔化そうとして、墓穴を掘った。
 秘密だと約束したのに、うっかり襤褸を出してしまった。
「そうか。やっぱりか」
「い、いえ。ちが、ちっ、違います」
「お小夜」
 慌てて否定しようとしたが、頭が真っ白になって言葉が巧く出て来ない。
 何度も息を詰まらせて、両手を右往左往させていたら、見かねた江雪左文字が左手を伸ばし、彼を制した。
 先を越されたと悔しがり、舌打ちする山姥切国広もやんわり宥めて、結い終わっていない髪を背に垂らした。
 静かに立ち上がり、髪以外は準備を終えたと目を細めた。当惑する弟刀から結い紐を引き受けて、編まず、首の後ろで一括りにまとめて縛り上げた。
「畑の、ことを……教えてくれ、と。あなたも、ご一緒に。……いかがですか……?」
 眠くなりそうなのんびりした口調で告げて、打刀に利き手を差し出す。
 小夜左文字は驚き、背筋を寒くした。
 山姥切長義との約束を、こんなに簡単に破っていいのか。
「兄様」
「私は、……言われていませんので。ね?」
 裏切りにも等しい行為だと焦って声を上擦らせれば、太刀はふわりと優しく微笑み、弟刀に頷いた。
 あの場で取り交わされた約束に、江雪左文字は関与していない。山姥切長義が名指ししたのは小夜左文字だけで、そこの太刀には一切言及しなかった。
 だから構わないのだと、彼は言う。知られてしまった責任は自分にあるから、思い悩まなくて良いというのだ。
 あまりにもご都合主義な発想だが、今はその配慮に感謝するしかなかった。
 山姥切長義も、まさか江雪左文字が暴露するとは思っていなかったに違いない。だからこそ彼はあそこで、短刀にだけ釘を刺した。
 後で揉めることはないのだろうか。心配になったが、今からとやかく言ったところで、どうにかなる問題でもなかった。
 ここは江雪左文字の技量に期待するしかない。
「良いのか? 俺が、行っても」
「はい。……人数が、多い方が。捗りますので」
 左文字ふた振りのやり取りを見聞きして、山姥切国広が声を潜めた。来てはいけなかったのでは、と思い始めていた矢先だったので、戸惑いが全体に現れていた。
 それを笑顔で押し切って、支度を済ませた太刀が打刀を誘う。
 彼はしばらく躊躇していたが、五、六秒が過ぎた辺りで力強く頷いた。
「感謝する。本歌相手だからといって、負けてばかりはいられないからな」
 毎日のように突っかかってくる山姥切長義に、彼も多少思うところはあるようだ。
 自分は自分だから、比較し、劣等感を抱く必要は無い。とはいえ競争になったら負けたくない、との気持ちは誰しもが等しく持っている。
 後はこれを表に出すか、出さないか。
 対極線上にありながら、根っこが繋がっているふた振りを頭の中で並べて、小夜左文字は目を眇めた。
「力仕事なら任せてくれ」
「期待……しています。では、お小夜。……日向も。すみませんが……」
「はい。行ってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
 得意げに力瘤を作った打刀に、太刀が穏やかに微笑んだ。すれ違いになってしまった短刀には小さく頭を下げて、連れ立って部屋を出ていった。
 和やかな談笑がしばらくの間聞こえて、柔らかな空気が残された少年の頬を撫でた。
 置いていかれた格好だが、不思議と不満や、寂しさは覚えなかった。
「やれやれ。江雪も、人気者だね」
「兄様は、山姥切さんたちとは」
「小田原で一緒だったって、そう聞いてるよ。彼らがまだ、北条と共に在った頃だね。すっごく賑やかだったって」
「ああ……」
 短いが要点を押さえた日向正宗の説明に、納得するより他にない。
 打刀たちがあれほどに兄刀を慕うのも、道理だ。この本丸で兄弟ごっこを開始した小夜左文字とは、年季が違う。
 過去に共に過ごしたことがある、というだけで無条件に慕ってくれる打刀が、小夜左文字にも在った。それと同じだ。
 目が合うだけで、満面の笑顔を浮かべてくれる。出撃中はさすがに控えているけれど、終わった途端に怪我を案じて駆け寄ってくるのは、心配性が過ぎるのではなかろうか。
 大声と共に現れた山姥切たちを出迎えた時の江雪左文字は、これと似た心境だったのだろう。
 親近感が湧いて、頬が勝手に緩んだ。
 それを日向正宗にしっかり見られて、小夜左文字はかあっ、と顔を赤くした。
「な、なんでも、ないです」
「へえ。うん。さて、このお茶、どうしようかな」
「ああ、そうですね……」
 ひとり慌てふためいて、案外気にされていないのに安堵するやら、少し切なくなるやら。 薬缶を顔の高さで揺らした彼の独白に、ちゃぷちゃぷと水の音が重なり合った。
 合いの手を挟みはしたものの、妙案が浮かばずに困っていたら、見かねた少年がクク、と喉を鳴らして笑った。
「じゃあ、行こっか」
「どこにですか?」
「畑だよ。湯飲み、あとふたつかみっつ、追加しないとね」
「どうして……?」
 いたずらっ子な表情で告げられて、咄嗟に意味が掴めない。
 ぽかんとしながら問い返した小夜左文字に、日向正宗は梅干し茶の急須、続けて太刀らが出ていった廊下を指差した。
「江雪も言ってたじゃない。人手は、多い方が捗る、ってね」
 最後に自分自身を指し示し、白い歯を覗かせた。
 同意を求めて首を傾げられ、それでようやく、小夜左文字ははっとなった。
 どうして気がつかなかったのだろう。あの場で、自分も行くと言わなかったのだろう。
 邪魔をしてはいけない気がしていた。そんなことはなかった。
 過去がどうであろうと、兄弟刀であろうと、なかろうと。彼らは同じ本丸に集った、かけがえのない仲間だ。
 広大な畑を耕すのに、協力し合わない道理はなかった。
 目から鱗が落ちて、視界が急激に明るくなった。眩しさに何度も瞬きを繰り返して、小夜左文字はとくん、とくんと小刻みに震える鼓動に息を呑んだ。
「そう、ですね。はい。その通りです」
 緩く握った拳を胸に添え、一度だけ深く頷く。
 彷徨っていた視線が一点に集中するのを見届けて、日向正宗は薬缶を差し出した。
「ねえ。僕が来るまでの間の、江雪の話、聞かせてよ」
「僕も、兄様の……紀州の頃の話、聞きたいです」
「分かった。約束だね」
 荷物を分担して持とうと提案され、即座に同意した。火傷しないよう注意しながら引き受けて、短刀間で交わした指切りに心を躍らせた。
 世界が広がった気がした。
 もう昼だけれど、新しい一日が始まった予感を覚えて、彼はくすぐったさに首を竦めた。

この春は賤が垣根に触ればひて 梅が香とめん人親しまん
山家集 春37

2019/03/17 脱稿