色づきそむる 櫨の立枝

 薄雲が空を覆い、地上は明るいのに太陽が見えない。
 目映い光球の行方を捜して頭上を仰ぎ、小夜左文字は項を擽る後れ毛を右手で押さえ込んだ。
 そのまま意味も無く皮膚を掻き、当て所なく視線を彷徨わせる。格別注視すべきものがない状態で踵を上下させ、行き先を定めようと右足を地面から浮かせた。
 もれなく薄い草履が彼に付き従い、足元の砂利を後方へ弾き飛ばした。ぺたん、と地面に貼り付いては剥がれる、を繰り返した後、それは程なくして動きを鈍くし、やがて停止した。
 歩みを止めた短刀は、それが見間違いだと信じ込み、一瞬躊躇した後に通り過ぎた景色に意識を戻した。振り返り、そこに在るものが紛う事なき現実であると確かめて、深く息を吸い、二度に分けて吐き出した。
 四度、五度と瞬きを連続させて、俄には信じ難い光景にごくりと息を呑んだ。乾いた唇を舐めてドクドク言っている鼓動を確かめ、左胸を撫でた腕を降ろした。
 どれだけじっくり眺めようとも、左斜め前方に座る男の姿は消えたりしない。まだこちらには気付いていないようで、熱心に己の手元を見詰めては、指先を細かく動かしていた。
 作業に没頭して、他に気を向ける余裕がないのだろう。熱心に仕事をこなす姿は、布で顔を覆い、正体を隠していた時期の彼を連想させた。
 しかしあの頃と、今とでは状況がかなり違う。山姥切長義が手にしているのは、時の政府へ提出する報告書ではなく、掌ほどの小刀と、小さな栗だった。
 本丸に顕現して長い山姥切国広の本歌にして、政府側から派遣され、そのまま本丸に居着いた刀剣男士。その出自は、審神者の力によって顕現した小夜左文字を含む他の刀剣男士たちと比べると、明らかに異質だった。
 それでも審神者は彼を受け入れ、仲間として認めるよう、自らが呼び起こした刀剣男子達に求めた。
 一部からは反発があったが、それも早い段階で沈静化した。結局この本丸では、審神者の命令こそがすべて。首魁たる存在が決めたことに、その従者である刀剣男士らが背けるはずなどないのだ。
 ただしわだかまりが全て解消したかと言われたら、そうとも限らない。
 山姥切長義もその辺りは承知しているようで、自ら他の刀たちの懐に入り込もう、という雰囲気はなかった。
 山姥切国広に対しては当たりが強く、なにかと下に見る発言が多い。それが国広の刀たちには気に入らない様子で、特に脇差の堀川国広は、彼らが一緒にならないよう度々妨害行動を取り、それでも避けられなかった場合は兄弟刀を庇うような行動が多々見られた。
 もっとも当の山姥切国広は修行を経て、自分に自信を持ったようだ。兄弟刀の心配を嬉しく思いつつ、山姥切長義の発言はどこ吹く風と受け流していた。
 そういうわけで後からやって来た本歌の方が高飛車で、礼儀のなっていない不躾な刀に見えてならない。
「……ん?」
 他者を頼らず、他者に頼られることもなく、孤独で、それでも我を押し通している。
 誇り高くあるのは構わないが、高すぎるのも困りものだ。
 迂闊に近付けば、どんな罵詈雑言が飛んでくるか分からない。まるで毛を逆立てて常にこちらを威嚇している猫だ、と表したのは、小夜左文字の昔馴染みだ。
 どうすれば彼と腹を割って話が出来るようになるのだろう。
 そんな話題を昨日の夕餉でしたばかりなのを思い出して、短刀の付喪神は背筋を伸ばした。
 穴が空くほど見詰めていたからだろう、気付かれた。
 集中力が途切れた瞬間、はっと顔を上げた打刀と目が合って、小夜左文字はきゅう、と内臓が縮こまった感覚に陥った。
「なんだ」
「いえ、べつに」
 立ち尽くしていたら、声を掛けられた。機嫌が悪そうな顔で、不満げな眼差しを向けられた。
 咄嗟に顔を背けてしまったが、不思議と立ち去ろうという気持ちにはならない。足が動かないのは緊張の為ではなく、ましてや竦んでしまったわけでもなかった。
 決して笑っているわけではない膝が向かったのは、山姥切長義が座る縁台だった。
 台所の勝手口を出たすぐ脇に設置されたそれは、薪割りや、畑仕事から帰った男士たちが休憩するのを目的として設置されたものだ。
 勿論そういった理由以外で使っても構わない。現に銀髪の打刀は、見るからに仕事中だった。
 三振りは余裕で座れる縁台の真ん中に陣取り、右側に笊を、左側に水を張った桶を置いていた。足元には削り滓を入れるための籠があり、余所へ逃げないよう両膝で挟んで固定していた。
 紺色の内番着の袖を肘まで捲って、手袋はしていない。綺麗に整えられた爪から雫がひとつ垂れ下がり、濃い影が彩る地面へと落ちた。
 透明な水滴の行方を見送って、小夜左文字は視線を上げた。山姥切長義は胡乱げな表情を崩さず、近付いてくる少年に小首を傾げた。
「どうした。俺になにか用か」
「今日の台所当番は」
「燭台切光忠と、大般若長光と、あとは謙信景光と。……それがどうかしたか」
 口調はぶっきらぼうで、愛想がない。淡々としており、感情の起伏に乏しく、気の弱い刀であればたちまち臆してしまいそうだった。
 しかし小夜左文字は構わず質問を投げかけ、返ってきた言葉に嗚呼、と頷いた。
 今日の食事当番に、山姥切長義の名前は含まれていなかった。それで不思議に思っていたのだが、教えられた数振りの名前で疑問は解決した。
 この打刀は相州風が強く表れているけれど、長船の系統に属する刀工の作だ。光忠、長光、景光という長船派の直系からは外れているものの、あちらはどうして、仲間意識が強い様子だった。
 国広たちからは煙たがられている彼を、燭台切光忠たちが代わりに構い倒している光景は、これまでにも何度か見た。今回もその一環なのだと解釈して、短刀は無意識にホッと息を吐いた。
「そんなに珍しいか」
「え?」
「憑き物が落ちたような顔をしている」
「え、と……すみません」
 途端に低い声で呟かれ、きょとんとしていたら小刀の先を向けられた。勿論届きはしないが、空気を撫で斬るような動きをされて、小夜左文字は首を竦めた。
 脇を締め、内股になり、臍の前で両手を結び合わせる。恐縮して半歩後退した彼に、山姥切長義は深々とため息を吐いた。
「謝るな。俺だって、好きでやっているわけじゃない」
 彼自身も、この労働は不本意だったようだ。
 猫背になって腕を下ろし、絞り出すように吐き捨てられた。切っ先が地面を向いた小刀が今にも落ちそうだったが、そうなったとしても、咄嗟に手を伸ばして掴むわけにはいかなかった。
 自分自身が傷つく展開を恐れ、前に出られない。
 注意すべきかと躊躇しているうちに、打刀は自分で小刀の状態に気付き、顔を上げて握り直した。
 事なきを得たのに安堵して、興味本位で桶を覗き込む。
 好奇心に抗えなかった短刀は、途端に横から飛んで来た鋭い視線に冷や汗を掻いた。
「がんばってください」
「うるさい」
 彼がどれくらいの時間、ここで悪戦苦闘していたかは分からない。しかし作業風景を見る限り、捗っているとはお世辞にも言えなかった。
 水を張った桶に沈んでいる栗は、どれもこれも形が歪だ。鬼皮を剥いた段階の栗は笊に山盛りなのに、渋皮を剥き終わった分は本当にごく僅かだった。
 桶の底が見えている。足元の籠の中身も、立ち上がって捨てに行くほどの量ではなかった。
 ぎこちない笑顔で声援を浮かべれば、間髪入れずに不機嫌な声が飛んで来た。
 それにたまらず苦笑して、小夜左文字は彼の右側に回り込んだ。
「貸してください」
 言いながら右手を出し、小刀を渡すよう、暗に示した。
 一方で左手は笊の山に伸ばして、天辺に陣取っていた大ぶりの栗をひとつ掴んだ。
 山姥切長義は最初こそ怪訝にしていたが、逆らう理由も見つからないと、素直に応じてくれた。
 柄の部分をくるりと反転させ、切っ先を自分自身に向けてから、短刀へと手渡す。
 借り受けた小刀はよく使い込まれており、柄の中央、やや刃寄りの部分が若干すり減っていた。
 飾り細工をしたり、小さい芋類などを扱ったりする時は、包丁よりもこちらの方が便利だ。
 握り癖がついており、持ち主の手の大きさがこれだけで想像出来た。
「燭台切光忠さんの、ですね」
「分かるのか」
「使い易そうです」
 長い間、愛用しているのだろう。繰り返し研いでいるうちに段々磨り減って、元の形や大きさは最早想像がつかなかった。
 それでも使い続けているものを、山姥切長義に迷う事なく貸し出した。
 料理好きの太刀の顔を思い浮かべて、小夜左文字は頬を緩めた。
 今頃は壁の向こう側で、忙しく夕餉の支度をしているに違いない。一緒に台所を任せられた大般若長光は、放っておくと勝手に一振りで晩酌を初めてしまうので、苦労は絶えないだろう。
 謙信景光がいるのなら、小豆長光もいるかもしれない。
 わいわい賑やかな長船派のやり取りを思い浮かべて、彼は屑籠を脚の間から抜いた打刀に頷いた。
「座るか」
「ありがとうございます」
 ついでに山姥切長義は栗入りの笊を持ち上げて、桶の横に移動させた。出来上がった空間にすかさず潜り込んで、小夜左文字は草臥れ気味の草履ごと足をぽーん、と宙に蹴り上げた。
 縁台は短刀でも足が楽に着く高さしかないが、例えば広縁や、打刀や太刀の体格に合わせて作られた椅子だと、爪先が浮いてしまう。それらに座る時の癖が無意識に発動してしまって、短刀は人知れず顔を赤らめた。
 伏し目がちに隣を窺えば、本丸に来てまだ日が浅い打刀は、特に気にする様子もなく座っていた。
 これが慣れた刀であれば、たちまち短刀をからかう言葉を投げかけてきたに違いない。 滑稽だ、と面白がられなかったのにひっそり胸を撫で下ろして、小夜左文字は右手に小刀を握り直した。
 左手で持った栗をくるくる回し、平らに切り取られた尻の部分に刃を衝き立てた。
 栗はあらかじめぬるま湯に漬けてふやかし、外側の固い殻は剥かれていた。後に残ったのは薄い渋皮で、これを完全に取り除くことが山姥切長義に与えられた使命だった。
 ただこれが、簡単なように見えて、思いのほか難しい。
 表層だけを剥ぎ取れたら良いのだが、軽く薙いだ程度では残ってしまう。かといってごっそり削ぎ落としていたら、食べられる部分がどんどん減っていく。
 この匙加減が巧く行かず、山姥切長義がやり終えた分はどれも凸凹していた。
 彼に任せていたら、大事な食料が量を減らす一方だ。手際が悪いのでひとつ仕上げるのにも時間がかかり、夕餉に間に合わなくなる可能性も高い。
 だがそれを言えば、打刀の矜恃に傷が付く。
 燭台切光忠もやり方の説明くらいはしているだろうが、目の前で実践してみせたかどうかは怪しかった。
「ええと。こっちの、平らな方から、頭の方へ刃を入れて。こう……ぐるりと」
 以前、昔馴染みの料理好きな打刀に教えてもらった方法が、こんなところで役に立った。
 世の中、なにがどう転ぶか分からない。覚えておいて損することはひとつもないのだと痛感して、小夜左文字は刃を添えた栗をくるりと捻った。
 小刀を握る右手は動かさず、剥かれる側を操り、焦げ茶色をした渋皮を削ぐ。すると下から真っ白い、無垢な艶肌が表れた。
「ほう……」
「あとは残った部分を、面取りしながら削っていくだけです」
 最初に削った頭から、尻に向かって刃を流す。この時も先ほどと同じく小刀は極力動かさず、栗の方をゆっくりと押し出した。
 隣に座る男はその仕草ひとつひとつを丹念に観察し、時折感嘆の息を漏らして頷いた。 腕組みするではなく、両手は膝の上だった。視覚から得た情報を頭の中で精査し、経験として取り込もうとしているのか、指先はなにかをなぞるように、常に動き回っていた。
 慣れた小夜左文字なら、一個の栗を片付けるのにものの一分とかからない。
 その三倍の時間をかけて説明して、彼はふと心配そうに山姥切長義を窺い見た。
 これで伝わっただろうか。
 言葉足らずで誤解を受ける経験は、短刀にも覚えがあった。
 分かり合えないのは、哀しい。同じ屋敷で、同じ釜で炊いた飯を食べていても、相手を受け入れる心境が定まっていなければ、結局は相容れない関係のままだ。
 かといって無理に閉まっている扉をこじ開けようとしても、誇り高い刀は意固地になる一方。
 それに彼に関しては、もうひとつ気がかりがある。
「なるほど。よく分かった」
「出来そうですか」
「やってやるさ」
 満足そうに首肯した打刀に小刀を返し、小夜左文字は膝に集めていた渋皮の削り滓を屑籠に入れた。小さな破片も抓んで落とし、身綺麗にしたところで、根拠のない自信に溢れた男に苦笑した。
 あまり話したことがなかったので不安だったが、杞憂だった。
 他の刀剣男士たちと同様、変に構える必要などなかった。肩の荷がひとつ下りたと頬を緩めた少年は、早速教えられたことを実践する刀に目を細めた。
 とはいえ、いきなり思いのまま、理想通りの動きが出来るはずもなく。
「ああ、くそ。くそっ」
 教わる前よりは多少良くなったものの、あくまでも多少だ。
 なかなか思い描く通りにいかないのに腹を立て、山姥切長義が何度も悪態を吐く。その度に噴き出したくなるのを堪えて、小夜左文字はひょい、と縁台から飛び降りた。
「どこへ行く」
 途端に打刀が顔を上げ、不安そうな声を出した。
 雨の日に屋外に放り出された猫のような、心細げな姿を見せられて、短刀の付喪神は堪らず肩を震わせた。
「続けていてください」
 ひと言告げて、勝手口を押し開けた。中で作業中だった燭台切光忠たちにひと言断り、もう一本小刀を借り受けて外に戻れば、山姥切長義は先ほどとほぼ同じ体勢のまま固まっていた。
 剥きかけの栗を中途半端なところで踊らせて、行き場のない小刀を小刻みに揺らしていた。小夜左文字がすぐに戻ってきたのを見て精悍な顔立ちを一瞬だけ緩め、大きく目を見開いたかと思えば、慌てたように作業を再開させた。
 惚けていたのを悟られないよう、取り繕おうと必死だけれど、隠し切れていない。
「あの。中でやっても良いと、燭台切光忠さんが」
「俺がいては、邪魔だろう」
「そうでもないと思いますが」
 そんな彼に語りかけ、台所の状況を振り返る。
 調理当番たちは忙しそうにしていたけれど、まだ慌てるような時間ではない。のんびり、ゆっくり作業を進めており、そこに山姥切長義が混じったところでなんの支障もないはずだった。
 だというのに屋外でちまちま栗を剥く道を選んだのは、彼なりの遠慮だ。それとも仲が良い長船派の刀たちに対して抱いている、引け目のようなものだろうか。
 長船に連なりながらも長船には含まれず、刀工堀川国広の最高傑作と謳われる山姥切国広との間には覆し難い溝がある。
 他者との接触を最小限に控え、馴れ合いめいたものからも距離を置いている彼の立ち方は、仲間としての扱いに苦慮すると同時に、ひとつの疑念を抱かせた。
「手伝います」
 借りて来た小刀を見せ、囁く。
「そうか」
 たちまち山姥切長義は嬉しそうな、ホッとした表情を浮かべた。脱力した声で小さく呟いて、三秒が過ぎた辺りで我に返り、背筋を伸ばした。
 弛緩した肢体に力を注ぎ込み、少々仰々しい動きで尻を浮かせ、立ち上がった。一度動かした栗入りの笊を元の位置に戻し、空いた場所に腰を据えた。
 渋皮を剥く前と、剥いた後の栗を縁台の真ん中に並べ、その足元に屑籠を。
 これらを左右から囲む形でふた振りの刀剣男士が座り、作業の遅れを取り戻すべく手を動かした。
 初めのうちは山姥切長義が一個終わらせる間に、小夜左文字は三個か、四個剥き終わらせて。
 負けず嫌いの打刀が歯軋りしながら繰り返していくうちに、両者の間隔は徐々に狭まっていった。
「……慣れているんだな」
 それでもなかなか追いつけないのを悔しがり、山姥切長義が長い息を吐きながら嘯く。
「この身体を得てから、長いですから」
「そうか。ああ、いや。期間だけなら、俺もそう違わないはずなんだがな」
「え?」
 本丸での経験値はこちらが多いのだから、簡単には負けてやれない。そう言い返した短刀は、成る程と首を縦に振った男が続けた何気ないひと言に驚き、握っていた栗を危うく落としかけた。
 膝から滑り落ちる寸前で捕まえて、どっと噴き出た汗を拭った。熱を含んだ呼気を手元に吹きかけて、瞬きを連発させて山姥切長義に向き直った。
 打刀の方は驚かれた事に驚いた顔をして、しばらくぱちくりと目を丸くした後、得心がいった様子で肩を竦めた。
「なにか誤解があるようだが。俺は、お前達と同じ審神者から顕現した刀だぞ」
「それは、え……だって」
「少し休むか。ずっと同じ姿勢でいると、肩が凝る」
 小夜左文字の認識では、彼は時の政府から派遣されてきた刀だ。監査官として聚楽第に出撃する刀剣男士らに同行し、その力量を見定めて報告する役を任されていた。
 それが任務を終えた途端、政府の下に戻るのではなく、本丸に居座った。しかも山姥切国広の本歌である、山姥切長義として。
 思わぬ事態に気が動転し、困惑が否めない短刀を一瞥して、銀髪の打刀は小刀を笊の隅に置いた。空になった両手を揃って天に向かって伸ばし、前傾姿勢のまま固まっていた関節を解した。
 ボキボキと骨が鳴るのが、小夜左文字の耳にまで響いた。
 落としかけた栗の処遇に困っていた少年は開きっ放しだった口を閉じ、隣に倣って小刀と一緒に笊へ預けた。
 刃物の棟に添えていた人差し指が、その形通りに窪んでいた。血流が悪くなっている指先を揉んで、解して、視線を感じて傍らを盗み見た。
 山姥切長義は頬杖をつき、不敵な笑みを浮かべていた。ほんの少し子供じみた、悪戯っぽい表情で口角を持ち上げて、左手で高慢な態度で空中を小突いた。
「考えてもみろ。俺は山姥切長義――山姥切国広の本歌だ。どちらが先で、どちらが後か、子供でも分かる理屈だろう?」
「はあ……」
 人差し指で円を描いたかと思えば、掌を上にして空気を押し上げる。偉そうな口ぶりは他者を威圧するものだが、不思議と以前ほど嫌悪感を覚え無かった。
 彼だって、なにも誰彼構わず威圧的な振る舞いをしたいわけではない。ただ単にそういう性格で、そういう言い方しか出来ないだけなのだ。
 それが分かってしまえば、もう怖いとは思わない。
 それよりも気にすべきは、彼が口にした内容だ。
 彼は今、この本丸を指揮する審神者によって顕現させられた刀だと言った。しかし本丸内に設置された鍛冶場で、山姥切長義という刀が顕現したという事実はない。小夜左文字は初期刀である歌仙兼定に続き、この地に降臨した短刀だ。彼が知らないのだから、他の刀だって勿論承知しているわけがなかった。
 だからといって冗談を言っている風にも見えなくて、訳が分からない。
 短刀の困惑を嗅ぎ取って、打刀は喉の奥でくくっ、と笑った。なにが面白いのかと頬を膨らませていたら、山姥切長義は大仰な仕草で肩を竦め、察しが悪い旨を鼻で笑い飛ばした。
「山姥切長義さん」
「なに、簡単な話だよ。写しである山姥切国広が顕現した以上、その本歌である俺が地上に顕現しないのは、ひと言で言って道理に合わない。本歌が先で、写しが後である純然たる事実が存在する以上、顕現順で俺が後になるというのは、歴史に反する。違うか?」
 睨まれても意に介さず、一気に捲し立てた彼は長い足を片方、前に繰り出した。膝を完全に伸ばしてから高く掲げて足を組んで、堂々とした佇まいで両手を広げた。
 なにかの高説を聞かされている気分だった。
 自信満々に言われると、咄嗟には否定しづらい。喉まで出掛かった反論を呑み込んで、小夜左文字は半信半疑のまま相槌代わりに頷いた。
 彼の言いたいことは、大雑把だが理解出来る。同時に、何もかも山姥切国広を上回りたい心理が働いているだけでは、という気持ちも湧いてきた。
 本歌が先で写しが後、という言い分は認めるが、どれだけ記憶を遡っても、彼が山姥切国広に先んじて顕現した過去は出てこない。それこそ歴史改変ではないかと言いかけた短刀は、不意に打刀が遠くを見た、その横顔に息を呑んだ。
 悔しさと悲しみ、それに諦めめいたものが入り交じり、複雑に絡み合っていた。
「つまるところ、俺は山姥切国広と同時に顕現した、ということだ。しかしあの写しというものの気性は、小夜左文字、お前もよく知っているだろう」
 彼方を見詰めながら、山姥切長義がぽつりと呟く。
 途中で水を向けられた少年は一瞬きょとんとしてから、修行に出る前の山姥切国広を思い浮かべ、嗚呼と両手を重ね合わせた。
 今でこそ襤褸布を取り払い、堂々とした佇まいを見せる打刀だけれど、以前はなにかと自分を卑下し、二言目には「どうせ俺は写しだ」と口にする青年だった。
 そのような刀が、自信に満ち溢れて威風堂々としている本歌と早い段階から共にあったら、どうなる。
 比較対象が傍に居ない状況でも、ああだったのだ。
 もし山姥切長義が、顔を上げればすぐ目に入る位置にいたら、彼はきっと自分を保てない。何の為に己は顕現したのかと、本歌だけ在れば良かったのではないかと懊悩し、自らの意思で折れていたかもしれない。
 勿論そうならない可能性だってあるが、彼が揺るぎない自信を手に入れるのは、相当先になっていただろう。
 長い付き合いだ、楽に想像がつく。
 直接言葉にしなかった打刀の意図を汲んで、小夜左文字は語られなかった内容を呑み込んだ。
 山姥切長義は高くした左膝に頬杖をつき直し、僅かに愁いを帯びた眼差しを前方に投げた。
「そういうわけで、俺は顕現間際に政府に回収された、というわけだ」
 写しが顕現すれば、本歌も顕現する。
 だが本丸に現れたのは、写しの側のみ。
 消えた本歌は、審神者ですら把握しないうちに時の政府が預かり、存在を隠した。それならば彼が先に言ったことも、充分に納得出来る。
 ただそれは、山姥切長義にとってあまりにも不本意で、堪え難い屈辱だっただろう。
「そんな……」
「俺と写しのどちらが即戦力になるか、言うまでもなかろう。だが政府は逆の判断を下した」
 抑揚なく語られる内容に衝撃を受け、深く係わり合いを持たないくせに傷ついた顔をする短刀に、打刀は一瞥もくれない。
 淡々と語られる言葉は彼自身のことでありながら、彼自身もどこか他人事のように感じている雰囲気だった。
 だからこそ余計に憐れで、哀しくなる。山姥切国広はそこまで弱くない、と言いたいのに言える空気ではないし、なによりこれは、とうに過ぎた時間の出来事だった。
 今更なにをどう言ったところで、過去が覆ることはない。それこそ山姥切長義が言うように、写しが本歌を先んずるなど得ない、ということのように。
「政府の連中は、時間遡行軍との戦いが長期戦になると、最初から見越していたということだな」
 打刀は最後、自嘲気味に吐き捨てて、腕を解き、足を降ろした。
 返す言葉を持たない少年はしばらく押し黙り、地面すれすれのところで両足をぶらぶらと踊らせた。
 後方の台所では、なにかが完成したらしい。謙信景光の可愛らしい歓声と、控えめな拍手が同時に聞こえてきた。
 あまりにも間が悪いとしか言いようがないが、事情を知らない彼らを責めるのは酷というもの。
 怯えた顔で恐る恐る隣を窺えば、山姥切長義は壁に凭れかかり、やるせない表情で空を仰いでいた。
「あの、……」
「慰めは無用だ。この本丸は、俺が存在するに足るものと、他ならぬ俺が認定したんだ。貴様らはそれを誇ればいい」
 あの大それた調査任務は、結論だけを言えば山姥切国広の成長を計る試金石だった。彼が本歌と共にあっても腐ることなく前を向き、己は己だと立っていられるだけの精神性を手に入れられたかどうか、調べるための試験だった。
 そしてこの本丸で暮らす山姥切国広は、時の政府側の懸念を見事ねじ伏せ、はじき返した。
「あなたは、山姥切国広さんのことが、嫌い、なのだと……思ってました」
「はあ? 嫌いに決まっているだろう」
 もっとも試された側は、きっとそう思っていない。
 試した側がなにを思い、どんな想いを抱いて監査官として振る舞っていたかも、恐らく。
 何気ないひと言に存外大きな声で反論して、山姥切長義は忌ま忌ましげに舌打ちした。
 言うのではなかった、と表情が告げている。彼は思っていた以上に、表情が豊かだった。
 そしてきっとこれから先、もっと色々な顔を見せてくれるようになるだろう。
「よかった」
「俺が偽物君を嫌いなのが、か?」
「いいえ、そうではなくて」
 心配事がひとつ消えて、心から安堵した。
 ぽつりと漏れた本音に素早く反応した打刀に、小夜左文字は目尻を下げて首を振った。
 青年は予想が外れて目を丸くし、直後に口をへの字に曲げた。分かり易いくらいに機嫌を悪くして、意味深な表情の少年を睨み付けた。
 反面、残っている栗を剥くかどうかで、右手が迷っている。
 笊の傍を行ったり来たりする彼の手を視界の隅に置き、短刀が一足先に小刀を取った。
 半分剥いた状態で放置していた栗も一緒に掴んで、なだらかな曲線を描く面に素早く刃を走らせた。
 躊躇せず、途中で迷いもしない。
 するりと滑り抜けた刃を追いかけ、渋皮がするりと滑り落ちていく。
 それを膝に集め、一定の量に至ったところで屑籠へ。気がつけば手付かずの栗は数をかなり減らし、残り僅かとなっていた。
「くそ、この……痛っ」
「大丈夫ですか?」
 彼だけにやらせるわけにもいかず、山姥切長義も渋々作業を再開させた。しかしささくれだった気持ちが小刀に乗り移り、荒っぽい動きは彼自身を傷つけた。
 今回だけでなく、小夜左文字が来る以前に作っていた傷も、多数指に残っている。
「心配ない」
 身を案ずる言葉を一蹴して、打刀は平気だと強がった。じんわり血が滲む指先を唇に押し当て、密閉して、痛みが通り過ぎるのを辛抱強く待った。
 自然と目尻に浮かんだ涙も、瞬く間に消え失せた。
 そのあまりに人間くさい仕草は、監査官としてやって来た頃には当然無かったし、正体を明かして本丸で暮らすようになった直後にも見られなかったものだ。
 彼は長い間、本来在るべき場所に居られず、不遇な環境を嘆いて性格が捻くれてしまったのかもしれない。だがそれを挽回するだけの時間は、充分用意されていた。
 時の政府が長期戦を覚悟しているのなら、尚更に。
 今は山姥切国広に対して当たりが強くても、今後どうなるかは誰にも分からない。小夜左文字が抱えていた懸念も、開花することなく萎んで消えた。
「なにがおかしい」
 控えめに笑っていたら、咎められた。
 不満ありありの表情でねめつけられて、本丸古参の付喪神は剥き終えた栗を桶の水に落とした。
「山姥切長義さんが、この本丸の刀で良かった」
 彼が政府側の用意した刀であったなら、いつかこの本丸を去ってしまうかもしれない。今は良くとも、心の底から嫌になったら、見切りを付けて政府の元へ帰ってしまうのではないかと危惧していた。
 その心配はなさそうだ。
 これから先もずっと、彼は同じ審神者に仕える刀として、小夜左文字たちと共に戦い続けてくれる。
「嬉しいです」
 正直な気持ちを吐露し、次の栗に手を伸ばす。
 面と向かって告げられた青年は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、数秒してから栗の頭に小刀を添えた。
「ああ、……そうか。なら、いい」
 若干強張った、ぎこちない口調で呟いて、二度、三度と頷き、渋皮を削り落とすべく左手を動かす。
 だが勢い余ってつるりと滑り、鋭い刃は彼の親指の爪を掠めた。
 ざっくり刺さっていたら、大量出血は免れない。一気に跳ね上がった鼓動に顔を赤くして、彼はばつが悪い様子で小夜左文字を睨んだ。
 調子を狂わせた責任を取るよう、目で訴えられて、苦笑を禁じ得なかった。
「練習する時間は、沢山あります」
 栗の皮剥きも、効率の良い掃除の手順も、美味しい料理の作り方も。
 戦いと一緒で、どんどん経験して、学んでいけばいい。
「あと四年は、頑張りましょう」
 自分と同じだけの時を本丸で過ごせば、否応なしに巧くなれる。
 もっとも小夜左文字が、今のまま待っていてやる保証はないのだが。
「……長いな……」
 屈託なく言ってのけた少年に、山姥切長義は至極嫌そうに顔を歪め、心からのひと言をぼそりと吐き捨てた。

2019/02/24 脱稿

山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づきそむる櫨の立枝
山家集 雑 1200