木ごとの花は 雪まさりけり

 弱い風が吹いていた。
 カタカタ鳴る障子の向こう側を気にして首を伸ばした小夜左文字は、心を読んだかの如く響いた別の物音にはっとなった。
 背筋を伸ばし、居住まいを正す。ギイギイ床板を軋ませる誰かの足音は、夜の静けさも手伝い、いやに大きく聞こえた。
 昼間ならきっと気にも留めなかった。縫い物の手を休め、深呼吸を二度繰り返し、貧乏性の付喪神は乾いていた唇を舐めた。
 行燈の灯りだけでは心許ないが、日中はなにかと忙しい。
 糸が解れて穴が空いてしまった肌着を膝に広げて、彼は今日の出来事をざっと振り返った。
 寒さは相変わらず厳しく、水仕事を任された刀たちの苦しみは言葉に表しきれない。馬当番もこの時期は苦行で、ただでさえ大変なものが輪をかけて大変なものになっていた。
 一方で山籠もりを生業としているような刀だけは、何故か元気だ。山伏国広は祢々切丸という心強い仲間を得た事で以前にも増して張り切り、あらゆる刀剣男士に声を掛け、修行に行こうと誘っていた。
 とどのつまりどのような時節であっても、この本丸は朝から晩まで賑やかだ。騒動が起きない日などない。たとえどれだけ、皆が平穏を願ったとしても。
 時間遡行軍との戦いも継続中で、争いを厭う左文字の長兄の嘆きが尽きる事もない。今日も数珠丸恒次と膝をつき合わせては、どうすれば歴史修正主義者を説得できるのかと、終わりのない討論を繰り広げていた。
 結論が出ることのない問答に終始する彼らを横目に、小夜左文字は台所仕事の手伝いに、掃除、洗濯と休む暇もないくらいだった。
 但し悪い事ばかりだったとは言えない。殊に料理当番の燭台切光忠から、小豆長光の新作菓子の味見を頼まれたは僥倖だった。
 洋風の焼き菓子には乾燥させた果物が混ぜ込まれており、食感が面白かった。洋酒を使っているとかで、その癖のある匂いが気になった以外は、概ね満足だった。
 思い返していたら涎が出て、無意識に口が動いた。
 空気を咀嚼し、呑み込んで、小夜左文字は若干の虚しさに苦笑した。
 この事は歌仙兼定には内緒だ。
「お小夜?」
「は、い!」
 西洋かぶれを嫌う打刀の顔を想像し、秘密だと笑っていた長船派の太刀を思い出して首を竦めた少年は、直後聞こえた声に座ったまま飛び跳ねた。
 声が上擦り、動揺を隠しきれない。
 完全に油断していた短刀は右往左往しながら辺りを確かめ、二秒と少々過ぎた辺りで障子を振り返った。
 行燈の炎が揺れて、畳に伸びる影が泳いだ。
 細い腕をその上にすい、と伸ばして、彼は部屋の外にいるだろう男に眉を顰めた。
「お小夜?」
「歌仙、どうしたんですか」
 瞬きを繰り返し、心を落ち着かせながら問いかける。
 先ほどの素っ頓狂な声が嘘だったかのような落ち着きぶりに、訪ねて来た男はホッとした様子で言葉を紡いだ。
「入っていいかな」
 言いながらも、すでに彼の手は動いていた。
 断られることはないとの前提で、打刀の付喪神は短刀の部屋の障子をするりと開けた。
 僅かに横に引いて隙間を作り、そこに指を差し入れて、一気に押した。広がった空間に現れた歌仙兼定は、内番着でもなければ、華やかな紫の衣装でもなかった。
 寝間着としている湯帷子に、綿を入れて厚みを持たせた褞袍を着ていた。図柄は一切なく、濃香一色に染めた布を用いて、衿や裾の縁取りは二藍だった。
 この季節にしか着ないものだから、この配色を選んだのだろう。
 地味な風に見えて、こういうところに己の美意識を差し込んでくる。気付く者の方が少なかろうに、当の刀は一切気にしていないらしい。
 そういうところがいかにも彼らしくて、小夜左文字は肩を竦めた。
「道の露けさとならずに済んで、良かったですね」
「……うん?」
 こんな夜更けに訪ねて来ると、思ってもみなかった。
 約束はしていなかったはずだ。直近の記憶をざっと振り返って、彼は自分に向かって頷いた。
 歌仙兼定は告げられた台詞の内容を吟味しているらしく、顎に手をやって数秒沈黙し、やがて半眼を解いて口元に笑みを浮かべた。
「苔の庵は、僕の方だろう?」
 重ね色目に掛けてのひと言だと気付き、わざとらしく両手を広げておどけてみせる。
 苔の庵を訪れはしたが、相手が不在だったので涙に暮れながら山道を引き返すと歌に詠んだのは、中古三十六歌仙に数えられる恵慶だ。
 小夜左文字がもし部屋に居なければ、歌仙兼定もまた彼のようにとぼとぼと来た道を帰らねばならないところだった。
 しかしこの部屋は、苔生してなどいない。
 得意げに胸を張った男に苦笑を漏らして、小夜左文字は途中だった縫い物を脇へ追いやった。
 縫い糸がついたままの針を針山に預け、他と絡まらないよう注意しながら危なくない場所まで避難させた。その上で膝を起こし、立ち上がろうとした短刀を制して、打刀は素早く敷居を跨いだ。
 後ろ手に戸を閉めて、流れ込む外気を遮断した。もっとも障子戸一枚では、隙間風を防ぎ切れない。じんわり染み込んで来る冷気に身震いして、足早に小夜左文字へと近付いた。
「眠れないんですか?」
「子供じゃないんだ」
 あと一歩半のところまで迫って膝を折り、着ているものの裾を片手で押さえて正座を作る。日頃は胡座の方が多い彼にしては、珍しいことだった。
 それでからかって面白がれば、外見上は立派な成人男子が頬を膨らませた。
 こう見えて、彼は小夜左文字より生まれが遅い。付喪神として未熟極まりなかった頃を知っている短刀にとって、この之定の一振りは、いつまで経っても世話の焼ける子供同然だった。
 数百年の時を経て再会した打刀は、その点が不満でならないらしい。
 ことあるごとに大人ぶり、自分こそが短刀の保護者たらんとする振る舞いは、端から見ていて滑稽だった。
 そんな刀剣男士が、日が暮れて久しい時間帯に訪ねて来た。
 もう少ししたら床に入ろうか考えていた少年は、寝支度を整え終えている男に首を傾げた。
「ああ、いや」
 斜め下からじっと見詰めれば、照れたのか、歌仙兼定は途端に口籠もった。
 なにを躊躇するところがあるのかと、不思議でならない。本当に添い寝を求めに来たのかと勘繰って、小夜左文字は自分の足の裏を擽った。
 冷えて血流が悪くなり、痛いような、痒いような微妙な感覚を抱いている指を抓んで、ぐりぐりと回す。
 もぞもぞ身動いでいる少年をちらりと盗み見て、打刀は覚悟を決めたのか、背筋を伸ばした。両手は緩く握って膝に揃え、緊張した面持ちで短刀に向き直った。
 真剣な眼差しは怖いくらいで、雰囲気は異様だ。
 どんな無理難題を求めてくるか分かったものではなくて、小夜左文字まで無意識に表情を硬くした。
 互いに黙り込み、見つめ合ったまましばらく停止する。
「お小夜、あの」
「はい」
「明日、なんだが」
「はあ」
 そうしてようやく切り出したかと思えば、歯切れが悪く、また黙られた。
 呼吸が巧く出来ないのか、歌仙兼定の唇はひっきりなしに動いていた。ぱくぱくと餌を求める鯉のように開閉を繰り返し、そのうち顎を反らして唾を飲み込んだかと思えば、前のめりになって深く息を吐き出した。
 少しもじっとしておらず、落ち着きが足りない。
 人見知りを発揮されるような間柄ではないはずだ。仲間相手に虚勢を張り、無駄に偉そうな振る舞いを見せる彼を頭の片隅に思い浮かべて、小夜左文字は目の前の男を上から下へと眺めた。
 怪訝にしていたら、気取られた。
 彼は膝にあった手を胸元に持って行き、左右の指を弄りながら、一旦外した視線を戻した。
「朝、時間はあるかい?」
 そうして恐る恐る問われて、短刀は目を丸くした。
「朝?」
 鸚鵡返しに問うて、首を右に傾がせる。
 打刀は一度だけ頷き、行き場を失っていた手を畳に下ろした。
 藺草の目をなぞって弧を描き、脇から膝元へ移動させた手を腿に引き上げた。きゅっと固く握って姿勢を正して、胡乱げな少年に目元を綻ばせた。
 ようやく緊張が解けたらしく、表情は穏やかだ。しっとり露に濡れた花のような淡い笑みを浮かべ、もう一度深く首肯した。
「朝、は……ええと、ああ。駄目です。宗三兄様と不動行光と、万屋に行く約束が」
 見惚れそうになった微笑に照れて顔を背け、鼻の頭から口元を右手で覆い隠す。
 なにも無い空間に視線を這わせ、小夜左文字はずり落ちていく手を胸元で握り締めた。
 拳で膝を軽く叩き、ゆるゆる首を振って視線を戻した。
 歌仙兼定は意外にも傷ついた様子なく、平然としていた。
「違うさ、お小夜」
「はい?」
 そうして泰然と言い放ち、なにが面白いのか破顔一笑した。
 一瞬だけ白い前歯を覗かせて、すぐに我に返ったのか、表情を改めた。ゴホン、とわざとらしく咳払いして、顔の前で右手を振った。
「朝餉の前なんだ。そう、出来れば……陽が昇るより早く」
「それは、随分と」
 朝、という言葉が当てはまる範囲は広い。小夜左文字が言われて想像したのは、朝餉を終えてから午後に至るまでだった。
 ところが歌仙兼定が思い浮かべていたのは、それよりもっと早い時間帯だ。
 認識の間違いを指摘し、補足した彼の眼差しに、短刀は当惑を隠せなかった。
 目を眇め、左人差し指で顎を撫でた。心の内を表すかのように左右に何度か往復させて、屈託なく笑いながら返事を待つ男を盗み見た。
 なにを企んでいるかは分からないが、悪事を画策しているとは思えない。
 けれど冬の早朝の、特に冷え込みが激しい頃合いに、いったい何の用があるのだろう。
 考えてみるが、さっぱり見当が付かなかった。お手上げだと降参して白旗を振る構えを作ったところで、歌仙兼定が急に後ろに首を巡らせた。
「歌仙?」
「降ってきたかな」
「ああ。雪ですか」
 突然余所を向かれて驚いていたら、ぽつりと呟かれた。
 独り言同然だったものに相槌を打って、小夜左文字は身体を右に傾けた。
 男の向こう側に意識を向けるが、障子に写るのは自分達の影ばかり。
 比較的大きめの影法師の横に、小さめの影法師が揺らいでいる。長くなったり、短くなったりを繰り返すそれは、眺め続けていると眠気を催しそうだった。
 打刀が言うような雪の気配は感じられないが、夕暮れ前から、空模様はずっと怪しかった。
 夜中に降るのではないかと、夕餉の席でも話題に出ていた。大量に積もられたら雪かきが大変だと、昨年やその前を知る刀たちは苦い顔をしていた。
 特に屋根に積もった分を降ろすのは、身体が大きくて力のある槍や、太刀らの仕事だ。やってもやっても終わらない作業は苦痛でしかなくて、年間通して最も嫌われる仕事のひとつと言えた。
 これなら畑仕事の方が百倍楽だと言っていたのは、日本号だ。
 酔っ払ったまま屋根に上がり、足を滑らせて地面に落ちた回数が片手では足りない彼は、そろそろどの時点で間違っているかに気付くべきだ。
 騒々しいくらいだった今夜の夕餉の記憶に蓋をして、目の前の男に向き直る。
 歌仙兼定は足を崩し、胡座に作り替えて、右肘を立てて頬杖をついた。
「なんですか?」
 てっきり会話が再開されると思いきや、不敵な笑みを浮かべたまま何も喋らない。
 穴が空くほど見詰められて、小夜左文字は困惑に眉を顰めた。
 仰け反り、彼との距離を若干広げて、問いかける。
 露骨な態度を取られて、今度は傷ついたらしい。打刀は窄めた口から息を吐き、頬杖を解いて小さく首を振った。
「いや、なに。お小夜に見せたいものがあって」
「僕に、ですか」
「そう。一緒に見にいかないか」
 ようやく途切れていた会話を再開させて、早朝の予定の有無を訪ねて来た理由を明かした。
 途中からずい、と身体を拳三つ分ほど前に出し、なにを想像してか、興奮気味に頬を赤らめる。
 きらきら輝く双眸で問いかけられて、小夜左文字は返事を一瞬躊躇した。
 朝餉の前の時間になにかするつもりなど、毛頭なかった。起床時間次第で食事当番を手伝いに行くかどうか決めようだとか、その程度しか考えていなかった。
 だからこの誘いに対し、断る理由はひとつもない。
 敢えて挙げるとするなら、寒いから嫌だとか、そういう理屈だけだった。
 それなのに即答しなかったのは、どこへ、何を見に連れて行かれるのか、肝心な説明が一切なかったことだ。
 最も重要な部分が省かれている。
 打刀自身はそれに気付いているのか、いないのか。
 怪しむ素振りを見せた短刀に、歌仙兼定はにぃ、と口角を持ち上げた。
「行き先は、秘密だよ」
 右の人差し指を一本だけ立て、唇に沿わせて右目を器用に閉じる。
 どこかの伊達男にも通じる仕草は、顕現した直後の彼なら絶対やりたがらないものだった。
 四年を超える本丸生活の中で、自然と馴染み、身に付いたのだろう。
 偶然か否か、昼間に同じような仕草を本家本元にされた短刀は、堪えきれずに噴き出した。
「どうして笑うんだい、お小夜」
「いえ、なんでも……すみません」
 両者を見比べると、やはり本物の伊達男の方が堂に入っている。
 どことなくぎこちなさが残る打刀に慌てて首を振って、小夜左文字は止まらない笑いを両手で封じ込めた。
 息を止めて三秒数え、肩の震えが収まるのを待った。呼吸を再開させた後も、不意に蘇る衝動を懸命に制して、横隔膜の痙攣を最小限に抑えた。
 そんな短刀に歌仙兼定は口を尖らせ、そのうち拗ねるのに飽きたのか、頭を掻きつつ余所を向いた。
「とまあ、そういうわけだ。どうだろう」
 この期に及んで臆病な振りをして、控えめに問いかけて来た。
 泣き虫の甘えん坊だった時代の彼を不意に思い出して、短刀はまたもや噴き出しそうになったのを堪えた。
「……僕は、構いませんが」
「そうかい!」
 無事哄笑を回避して、小さな声で告げる。
 途端に打刀は嬉しそうに声を上げ、畳を蹴って膝立ちになった。
 満面の笑みを浮かべて握り拳を作ったかと思えば、興奮が収まらないのか何度も膝で畳を叩いた。その度に埃が舞い上がり、振動が壁にまで伝わって、近隣から苦情が来ないか冷や冷やさせられた。
 もっとも小夜左文字の部屋の両隣は大抵、部屋の主は不在にしている。今剣は岩融のところで寝起きしているし、愛染国俊も蛍丸か、明石国行の部屋で過ごす方が多かった。
 怒鳴り込んでくるとすれば更にその向こう側の不動行光か、廊下を挟んで斜向かいの粟田口たちか。
 どれが来ても面倒臭いことになりそうだが、幸いにして足音は聞こえて来なかった。
 代わりに凛とした空気が頬を打つ。
 口から息を吐けば、一瞬だけだが目の前が霞んだ。
「雪は、……大丈夫なんですか?」
 耳を澄ませば、雪降る音がごく微かに耳朶を打った。
 それは皆が寝静まっているこの時間でなければ、きっと耳にすることもなかった音だ。意識を他に向けた途端、己の鼓動や呼吸音に紛れて消えてしまうほどの、本当に儚く淡い音だった。
 歌仙兼定がやってこなければ、小夜左文字も今頃は床に潜り込んでいた。
 昔から彼は、短刀が気に留めてこなかったものを指し示し、気付かせてくれた。季節が変わる度に咲く花の美しさや、彩り、その時期でなければ嗅ぐことの叶わない匂い、等など。
 こうやって雪降る音に耳を澄ませる日が来るなど、復讐に胸を焦がして呪詛を吐いていた当時では考えられなかったことだ。
「雪は、心配ない。むしろ降ってくれないと」
「よく分かりません」
「明日になれば分かるよ」
 大人びた風貌をしておきながら、いたずらっ子の笑みを浮かべてクスクス笑われても、意味が分からない。
 こちらを驚かせたい気持ちは伝わってきたが、影でこそこそ企まれるのは快いものではなかった。
 それでもきっと、彼は直前になるまで目論見を白状しないのだろう。
 変なところで意固地で、我が儘な男の性格にひっそり嘆息して、小夜左文字は羽織っていた褞袍の衿をなぞった。
 様々な端布を縫い合わせて作ってあるので、歌仙兼定の着用しているものと比べると図柄は派手だ。しかし褪せた色合いが落ち着いた趣を醸し出しており、短刀自身も気に入っていた。
 心配性の兄が沢山用意してくれた綿を詰めているので、冬の寒さもあまり労することなく過ごせていた。
 他に篭手切江が万屋で見かけたから、と買って来てくれた耳当てや、歌仙兼定が色違いで揃えてくれた襟巻きなどがある。
 そこに手製の雪沓を履けば、完璧だ。
 着膨れするのは動き辛いから嫌なのだが、背に腹は代えられない。日暮れ時より格段に下がった気温に身震いして、彼はちょこん、と座り直した男に目を細めた。
「お小夜?」
 優しげな眼差しを向けられて、男が不思議そうに首を捻る。
 夜更けの訪問にも嫌な顔をされず、提案に乗ってくれたのに安堵している雰囲気に相好を崩して、小夜左文字はゆっくり起き上がった。
「そうと決まれば、もう寝ましょう。明日は早いんでしょう」
「そうだね。それじゃあ、僕はお暇しようかな」
「え?」
「え?」
 膝を立て、右から順に足を伸ばした。そのまま布団に向かおうとした彼に、歌仙兼定も続けて立ち上がろうとして、変なところから声を出した。
 ふた振り揃って驚愕に固まって、口をあんぐり開けて凍り付く。
 ここでも両者の考えに齟齬があったと判明して、小夜左文字はひくりと頬を引き攣らせた。
 打刀も額に冷や汗を浮かべ、瞬きを繰り返した後にぶんぶん首を横に振った。頬をぺちりと右手で叩き、肩を数回上下させて、上唇を舐めて障子の向こう側を指差した。
「泊まっていかないんですか?」
 仕草でなにかを伝えようとする彼に、痺れを切らした短刀が問いかける。
 それで疑念を確信に変えて、歌仙兼定は益々勢い良く首を振った。
「そんな、まさか。帰るよ」
「てっきり、そのつもりなのだとばかり」
「そ、そりゃあ願ったり叶ったりだけど!」
 焦って声が上擦り、動揺で音は震えていた。
 寝間着に上着を一枚羽織っただけの格好でやって来たから、小夜左文字は打刀が最初からここに居座るつもりでいたと解釈した。早朝から共に出かけるのであれば、その方がなにかと都合が良いとも思っていた。
 だのに帰ると言い出すから、驚いた。
 正直な感想に引きずられたか、本音がちらりと顔を出した男は、にわかに気まずそうに顔色を悪くした。
 感情の起伏が激しく、表情がころころ入れ替わるのも、この男の特徴だ。
 復讐に縛られ、笑うことを忘れてしまった短刀には、決して真似出来ないことだ。
 それでも最近は表情が豊かになってきた、と周囲が揃って口にする。ならば一番の影響を与えてくれたのは、紛れもなくこの男だろう。
「なら、泊まって行きませんか」
「お小夜」
「それに、外は寒いです」
 雪は降り続けており、世界は白一色に染まりつつある。障子を開閉するだけでも、部屋の気温は一変した。
 更にその中を歩いて部屋まで戻ると、この男は言うのだ。
 短刀は、現状からの変化を望まない。それを叶える一番良い選択肢がなんであるか、答えは自ずと定まった。
「……分かった」
 観念して、歌仙兼定はその場に座り直した。気まずげな表情は崩さないまま、頭を右手で掻き毟り、天井を向いて深く息を吐いた。
 葛藤と向き合っている男に苦笑を漏らし、小夜左文字は部屋の隅に片付けていた布団を抱え上げた。その状態でくるりと反転して、未だ思い悩んでいる男の臑を蹴った。
「邪魔です」
「お小夜」
「狭いでしょうが、我慢してください。あと、明日の朝はくれぐれも、早いので」
「わ、分かっているさ」
 布団を敷く場所を譲るよう急かし、変な気を起こさないように、と釘を刺すのも忘れない。
 指摘を受けた男はちらりとでも邪なことを考えていたらしく、急に声を荒らげた。
「図星を指されると、ひとは怒ると言いますから」
「なんの話だい!?」
 聞こえるように独り言を呟けば、過剰反応した男が地団駄を踏む。
 それを冷めた眼差しひとつで黙らせて、短刀の付喪神は広げた布団の端を叩いた。
 凹凸を潰して平らに均し、ひとつしかない枕は歌仙兼定の方へ押しやった。足元が寒いと早速中に潜り込んだ彼に、打刀は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「夜明け前だよ」
「起こしてくれるのを期待します」
「お互い様だ、それは」
 暗に腕枕を所望されたと、言われる前に察したらしい。
 ここは無事意思疎通が叶ったと満足して、小夜左文字は渋る男を急かした。
「失礼するよ」
 押し問答を続けるだけ、時間の無駄だ。潔く決意を固めた打刀はひと言断りを入れて、せんべいよりは厚みがある布団を捲った。
 小柄な短刀の体格に合わせられているそれは、当然彼の背丈からするとかなり小さい。
 足を伸ばせば余裕で臑から先がはみ出るので、着て来た褞袍を脱ぎ、そちらに被せた。上半身側には小夜左文字の褞袍を広げて、少しでも温もりが逃げないよう工夫した。
 けれど矢張り、一番の温もりは傍らで横になる男士の体温に他ならない。
 寒い冬はなかなか寝付けない夜が多いのだが、この時ばかりはすんなり睡魔が降りてきた。
 隣で悶々としている男に気付かない振りをして、目を閉じる。ほっとする匂いを嗅ぎながら数字を数えているうちに、呼吸の間隔は徐々に長くなっていった。
 気がつけば歌仙兼定の左腕を枕に眠っていたようで、覚えている時よりも彼の胸が間近にあった。視線を上げれば長い睫毛がすぐそこに見えて、すぅすぅと淀みない呼気が聞こえてきた。
 あれだけ不満そうにしていたのが嘘のように、穏やかな寝顔で眠っている。
 これが戦場では凛々しくもあり、地獄の鬼よりも恐ろしくある男と同一だとは、俄には信じ難い。
 それは小夜左文字も同様だと言われるが、彼ほど凄まじい変貌を見せているつもりはなかった。
「……朝?」
 部屋には時計がないので、どれくらい眠っていたか、具体的には分からない。
 体感的にはそれほど経っていない気がするが、当てになるものではなかった。
 手っ取り早いのが外の様子を見にいくことで、障子の先を気にして肩を引き、肘を支えに頭を持ち上げる。
 充分注意したつもりだったが、身動ぐ気配を間近に受けて、眠っていた男が眉を顰めた。
「お小夜?」
「すみません、起こしました」
「いや、構わない。夜は……明けてないか」
 目覚めた直後であるが、意識ははっきりしていた。同じ布団に小夜左文字がいる事に驚きもせず、ごく自然と受け止めていた。
 理由を忘れて慌てふためくところも見てみたかったが、そうやって遊んでいる時間も惜しいらしい。彼は短刀が躊躇していたことを造作もなくやってのけ、被っていた布団から抜け出した。
 立ち上がる仕草の途中で乱れていた己の褞袍を引っ掴み、袖を通しながら数歩進んで障子を開けた。
「うっ」
 たちまち冷たい空気が流れ込んできて、小夜左文字も片側に寄っていた褞袍を引き寄せた。急いで身に着けて、両手を擦り合わせながら爪先立ちで畳を進んだ。
 男を風よけにして斜め後ろに立ち、白く濁る息越しに中庭の景色を確かめた。
「積もってる」
 四方を建物に囲まれた庭園は雪化粧が施され、茶色かった地面は白に染め変えられていた。
 軒先に吊された灯篭も雪を被り、向かいの屋根の瓦は本来の色を失っていた。但しもう降ってはおらず、空は濃い藍色だった。
 月は出ていないのにそこまで暗く感じないのは、地表を埋める雪のお蔭だろうか。
「よし。お小夜、出かける準備だ」
 この状況は、打刀にとって好ましいものだったらしい。
 握り拳を作り、嬉しそうに声を弾ませた。眠気など微塵も残っていないようで、肌色は艶々していた。
 寒さをものともせず、短刀よりも元気いっぱいだ。
 まるで雪にはしゃぐ犬だと内心呆れつつ、頷いて、小夜左文字は足取りも軽く駆けていく男の背中を見送った。
「さて、と」
 陽が昇る気配はなく、朝餉を担当している刀たちが起き出している雰囲気でもない。
 一番鶏が鳴くまで、今しばらく時間が掛かりそうだ。そんな中で彼はどこへ行こうというのだろう。
 これでつまらない場所に連れて行かれたら、無駄になった時間分だけ彼に復讐しなければならない。
 それはそれで楽しそうだと悪い顔をして、小夜左文字は急ぎ身支度を調えた。
 寝間着を脱いで素早く着替え、継ぎ接ぎだらけの褞袍の上から襟巻きを二重に巻き付けた。篭手切江が選んでくれた耳当てを取り、毛玉だらけの手袋と一緒に持って、玄関へ向かった。
 集合場所を取り決めていなかったけれど、迷わなかった。
 どうせ外に出るには、必ず通らなければならない場所だ。そう思って待っていたら、さほどしないうちに歌仙兼定が現れた。
「お待たせ」
「いえ」
 褞袍の上から白色の襟巻きを着け、いつもの行燈袴ではなく、裾を絞った野袴を履いていた。なにかと身なりを気にする彼には珍しい選択だが、雪道でも足捌きが悪くならないように、そしてなにより寒さ対策らしかった。
 奇異な目を向けていたら、照れ笑いを浮かべられた。そこまでする必要がある場所へ行くのだと悟って、些か身軽過ぎたかと、小夜左文字は無言で眉を顰めた。
「山の上まで行くわけじゃないさ」
「でも、登るんですね」
「少しだけだよ」
 不安に表情を曇らせていたら、見抜かれた。
 心配事を口にした彼を呵々と笑って、歌仙兼定は軽く肩を竦めた。問題ないとひらひら手を振り、雑多に並べられた履き物の中から自身のものを見付け、爪先を押し込んだ。
 但しそれは、彼が普段から出陣時に履いているものでなければ、内番の時に愛用しているものでもなかった。
 爪先部分に爪掛という覆いがされた下駄で、下駄の歯も通常の物より幾ばくか高さがあった。防寒機能を高める目的で毛皮が用いられており、片側だけこんもりと膨らんだ外見はどことなく愛嬌があった。
「少し急ごうか」
 もたもたしていたら、夜が明けてしまう。
 日の出を見にいくつもりなのかと想像して、小夜左文字は冷えて固くなった頬を手袋の上から擦った。
「わふっ」
 重い板戸を明けて外に出れば、途端にびゅうっ、と鋭く冷たい風が襲って来た。
 反射的に首を竦めた短刀に、先を急ぎたがる男が苦笑を漏らす。言葉はなく、けれど視線で心配する素振りを示されて、玄関先で立ち竦んでいた少年はムッと口を尖らせた。
 これでは年上としての面目が立たない。
 打刀の付喪神が幼かった頃を知っているだけに、彼に世話される立場に回るのだけは避けたかった。自分こそが保護者だと、表にしないだけで密かに抱いてきた自負で心を奮い立たせて、勢い勇んで足を踏み出した。
 臑まですっぽり覆う雪沓で新雪を踏み、まだ明け切らない夜の庭を突き進む。
 目の前には打刀が作った下駄の跡が連なって、まるで等間隔に苗を植えた後のような景色だった。
 あと半年もしないうちに巡り会える光景だが、遙か先の事に思えてならない。
 俯き、先人が創り上げた道を辿ることだけを考えて、黙々と足を動かした。
 はっとなって気付いた時にはもう、本丸の屋敷はかなり小さくなっていた。
「寒い」
 深く吸い込んだ息を吐き、ぼそりと呟く。
 防寒具をどれだけ重ねようとも防ぎ切れない寒さに耐え、見上げた空は、静かに闇から光へ移り変わろうとしていた。
 深かった藍色が徐々に薄まり、東の地平線が淡く輝き出していた。仄かに朱色を帯びた光が大地と空との境界線を彩り、その中心に煌々と照る光球を掲げようとしていた。
 夜明けが近い。
「お小夜、ほら」
 呆然としながら東に連なる稜線を眺めていたら、緩い斜面の上方に居た男が突然声を高くした。
 足元に広がる景色を指し示し、目を凝らして良く見るように促す。
 考え事に没入して周囲を見る余裕など、持ち合わせていなかった。言われて初めて自分の居場所を思い出して、小夜左文字は慌てて左右を見回した。
 雪で覆われてはいるものの、そこに元から在ったものは消えていない。
 おぼろげに残っている記憶を頼りに現在地を把握して、彼はこの場に広がる本来の景色に、今の状況を重ね合わせた。
 なにもかもが、白かった。
 それ故に際立つものが、確かに存在していた。
「……さくら……」
 覚えている限りの情報を引きずり出し、この季節にはあり得ないものをこの場に見出す。
 もっとも完全に合致したりはしない。最大の相違点は色彩だった。
 彼が知っているのは、淡い紅色の花吹雪。ほんのり色づいた花弁が風に踊り、空へと消えていく光景だった。
 けれど今、短刀の足元に広がっているのは、穢れを知らない純白の花々。
 全ての葉を落とし、来る季節に備えて寒さに耐え忍ぶ桜だった。
「これは」
 何が起きているのか、一瞬理解が出来ない。
 己の知識を総動員して状況を整理すべく試みる短刀に苦笑して、歌仙兼定は得意げに胸を張った。
「どうだい、素晴らしいだろう?」
 それは一見枯れたようにも見える木々に降り積もった、雪の結晶だった。
 枝の上に層を重ね、次第に隣の枝との隙間を埋めていく。限られた空間で居場所を確保し、己の存在を際立たせていく姿は、春の到来を告げて香しく咲き乱れる花をも連想させた。
 枯れ色一色だった山肌は、昨夜の降雪に濡れて銀白に染められていた。
 その中でも凛と背筋を伸ばす木々は一際艶やかに、美しく白の衣を纏って輝いていた。
「夜明けだ」
 東の稜線をすり抜けて、太陽がじわり、じわりと顔を出す。
 その目映く、神々しい光を受けて、冷たく凍えた木々に積もる雪が白々と瞬いた。
 桃源郷の幻を見た。
 隣まで降りてきた男の気配に身動ぐ事も忘れて、小夜左文字は眼前で繰り広げられる奇跡のような光景に見入った。
 夜明け前までは白く霞むだけだった世界が、日の出と共に一斉に活力を取り戻した。重く沈んでいたものが浮き上がり、空へと消化していく。地表にあったものは光を受けてきらきらと乱反射を繰り返し、立ち竦む少年の瞳を容赦なく焦がした。
 昨日までは色を失い、つまらなく、見る価値もないと無視され続けていた場所が、たった一晩の間に激変した。
 細い枝に積もった雪は日の出を受けて益々白さを際立たせ、その色を緩やかに透明へと変えて行った。
 日の出と共に生じる気温の変化など、ほんの僅かな差でしかない。けれど短刀が思うよりも、言葉を持たない植物たちはずっと繊細だった。
 ほんの僅かな時間のうちに、春の訪れより一足先に咲き誇った白い花々が散っていく。
 まるでここで見たもの全てが幻であったかのように、雪は溶け、水となって枯れ色の枝を伝っていった。
 なぜ歌仙兼定がああも夜明け前に拘ったのか、ようやく分かった。
 空が明るくなってからでは、到底間に合わない。夜のうちに雪が降り、日の出より早く止む風の弱い天候でなければ、巡り会えない景色だった。
 寝入る直前に、もしくは床に入った直後に条件が揃いそうだと気付いて、急いで小夜左文字の部屋を訪ねたに違いない。
 彼の慌てぶりを想像するのは容易かった。
 思わずふっ、と口元を綻ばせて、着膨れしてもこもこの短刀は緩む表情を襟巻きで隠した。
「気に入ってくれたかな?」
「はい。とても」
 これもまた、誰かに教わらなければ気がつくことなく過ぎ去っていた光景だ。
 知らなかった世界の扉をまたひとつ押し開けて、小夜左文字は明るく照りつける太陽に目を細めた。

2019/02/16 脱稿
山ざくら思ひよそへてながむれば 木ごとの花は雪まさりけり
山家集 冬 567