月は見るやと 訪ふ人もがな

 ふっ、と吐息を零したところで、はたと我に返った。
 否、眠りの時が終わりを告げた。漆黒の闇に濡れた瞼を持ち上げて、小夜左文字は己の置かれた状況を正しく理解した。
「まだ、……うん」
 目覚めたとはいえ、視界に写るのは暗闇ばかり。未だ夜明けには至っていないのだと瞬時に判断して、か細い息を吐いた。
 咥内に残っていた唾液を飲み干して、胸元にあった右手を頭上に移した。額に散らばる前髪を掻き上げて視野を広くし、傍らから聞こえて来る寝息に耳を澄ませた。
 瞳だけを脇に流して、暗がりにぼんやり浮かぶ輪郭を確かめる。
 良い夢でも見ているのか、枕を共にする男の寝顔は穏やかだ。
「ふふ」
 日の出もまだの時間に起こしてやるのは忍びなく、短刀の付喪神はしばし考え、目を泳がせた。
 もう一度眠るのが最良の選択だと分かっていても、肝心の睡魔がするりと手元から抜け落ちてしまった。ならば、と思考を巡らせて、彼はもぞりと身動いだ。
 健やかな寝息を立てる男に気取られないよう注意を払い、息を殺して身を起こした。刀剣男士として与えられた能力を、こんなところで存分に発揮して、慎重に慎重を期して布団から抜け出した。
「寒い」
 己を守ってくれていた綿入りの温もりを失った途端、冷気が全身に突き刺さった。
 たまらず呟き、肩を抱きしめて、小夜左文字は徐々に明らかとなる室内の様子に目をこらした。
 羽織る物がないかと探したが、生憎と手近なところに見当たらない。
 早々に諦めて両腕をだらりと垂らし、ゆっくりと立ち上がった。寝間着代わりの湯帷子の裾をサッと払って整えて、ひんやり冷たい畳を踏みしめた。
 夜の間に空気は乾き、藺草の匂いが鼻についた。それ以外にも色々と、なんだか分からない匂いが混じっていた。
 中でも最も色濃く感じられるのが、そこで枕を高くしている男の匂い。
「また、兄様に言われそう……」
 それが自身にまで強く染みついてしまっているのを自覚して、小夜左文字は自然頬を赤くした。
 念の為と左腕を掲げ、湯帷子の上から嗅いでみたが、自分では分からない。
 歌仙兼定がどうしても、と離してくれなかったのが悪いのだ。
 部屋へ戻ろうとする短刀の手を掴み、赤子のように駄々を捏ねた男を軽く睨み付けて、見た目は幼い少年は畳の縁に沿って足を動かした。
 雑多に積まれている調度品や、何が入っているかも分からない小さな行李を避けて、次第に強まっていく寒さに抗って障子に手を伸ばした。
 細い桟に指を掛け、右に滑らせようとしたが巧く行かない。
「蝋を塗らないと」
 動きが固く、軽く力を加えた程度では動かなかった。
 滑りが悪くなっている障子に心の中で舌打ちして、彼は二度目の挑戦で無事、すり抜けられるだけの空間を確保した。
 たちまちひやりとした空気が強まって、反射的に首が竦んだ。
 音立てて障子を閉めて、暖かな布団に舞い戻りたい衝動に駆られた。布団だけでなく、すやすや眠る男の体温を直に感じて、内側まで冷え切った身体に熱を取り戻したい欲望にさえ駆られた。
 一瞬のうちに様々な思惑が脳裏を過ぎり、駆け抜けて行った。
 最後まで残ったのは、布団を出る直前に抱いた想いひとつだけだった。
「はー……」
 両手を口元にやって、感覚が薄まった指先に息を吹きかけた。
 今一度後ろを見て、寝具に包まれた打刀の付喪神に変化がないのを確認する。そして思い切って、畳以上に体温を奪う床板に足を伸ばした。
 喉まで出掛かった悲鳴を堪え、脇を締めた。素早く後ろ手に障子を閉めて、胸元を掻き毟って衿を合わせた。
 冷たい、というよりも痛いくらいの縁側で数回足踏みし、覚悟を決めて前に出る。
 軒下から覗き込んだ空は濃い藍色をして、月の姿は見当たらなかった。
 星々が淡い光を放っているが、地表を照らすにはかなり弱い。それでも手元を明るくするには充分と、彼はしつこいくらいに両手を擦り合わせ、そこに向かって息を吐いた。
 白く煙る呼気は、繰り返す度に徐々に色を薄くしていった。
 初めのうちはあれだけ寒かったというのに、この身体は順応が早い。とても長居できない、と感じたのが嘘のように、気温の低さを受け入れていた。
「さむ」
 但し温かくなった、というのではなく、寒さに抗うのを諦めた、というのが正しい。
 意図せずして口から零れた不満に苦笑して、小夜左文字は再び頭上を仰ぎ見た。
 星の名前には明るくないので、どれがどう、というのは分からない。秋田藤四郎が図鑑片手に説明してくれたことがあるが、とても覚えきれなかった。
 そもそもこの縁側が面しているのは、そこまで広くない中庭だ。向かいには別の刀剣男士の寝所があり、建物の屋根が視界の邪魔をした。
 他に起き出している刀はいないようで、見える範囲の部屋はどこも真っ暗だ。
 どこからともなく聞こえて来る鼾の主を想像して、小柄な付喪神は首を竦めた。
「ああ、でも」
 空は暗いが、真夜中というわけではない。
 無意識に目が醒めたのは、この時間に起床する習慣が抜けきっていないからだ。
 歴史修正主義者が過去への介入を開始し、既に四年。いつ終わるともしれない闘いに明け暮れる刀剣男士の生活も、同じだけに達していた。
 当初は限られた資源に、数少ない仲間だけで悪戦苦闘する毎日だった。
 そこから徐々に仲間を増やし、本丸は次第に大きく、広くなっていった。付喪神なのに睡眠と食事が必要な状況には閉口させられ、あまりの不便さに、慣れるまで時間が掛かった。
 中でも食事に関しては、一段と苦労させられた。
 ただでさえ人数が少ないというのに、料理が出来る刀は更に限定されていた。食事当番は重労働を強いられ、朝早くから夜遅くまで炊事場に入り浸り。特にそこの短気な打刀は大変だった。
 少しでも手助けをしてやりたくて、小夜左文字も協力した。
 お蔭でついた早起きの癖が、四年が過ぎた今も染みついたままだ。
 最近は包丁を握る刀剣男士が増えたお蔭で、燭台切光忠や堀川国広ら、初期から台所を支えていた刀はお役御免となった。
 そこで眠っている歌仙兼定も、そう。
 ほかの刀たちが起き出すより早く寝所を抜け出して、台所に駆けつけていた日々が懐かしい。
 今日は誰が当番だっただろう。
 目を細め、緩く首を振って、小夜左文字は上腕をさすりながら視線を上げた。
 深い藍色に染まっていたはずの空の色合いが、ほんの少しだけ変わっていた。
 どこがどう、と具体的には説明出来ない。しかし確かに、時間の経過がそこに現れていた。
「あと少し」
 日の出が近付いている。
 独白し、腕を撫でさする指先に力を込めて、彼はもう半歩前に出た。
 これ以上進めば庭に落ちる、というところで立ち止まって、夜闇に研がれた空気を吸い込んだ。肺胞のひとつひとつに突き刺さる冷気を現身に馴染ませて、そっと目を閉じ、ゆっくり五秒数えた。
 それから静かに目を開けて、沈黙を続ける夜空を仰ぐ。
 なにも変わっていない。
 けれど記憶に残る五秒前と、今とでは、空の彩りは微少に異なっていた。
 ほんの僅かな時間、目を離しただけで、こうも景色は変わってしまう。
 復讐を追い求め長い歳月を漂っていた短刀にとって、夜明けはあまり嬉しくないものだった。
 朝がやってくるということは、新たな一日がやってくるということ。
 だが小夜左文字には、輝ける未来など存在しない。この刀身に染みついた激しい恩讐だけが、彼の全てだった。
 新たな一日が始まる、ということは、復讐を遂げられないまま一日が過ぎた、ということだ。そして復讐相手を捜し求め、徒労に終わる一日を再び迎える、ということにも繋がった。
 昔は、日の出の瞬間が嫌いだった。
 空が明らみ、地表が明るく照らし出される。それによって黒い澱みは輪郭をいよいよ濃くし、存在を強固なものへと変えていった。
 前に進みたいのに、過去が彼を縛り付ける。太い茨が全身に巻き付いて、鋭い棘が腕に、足に、胸に、腹に、あらゆる箇所に突き刺さった。
 早く終われば良いのにと願いながら、終わらない復讐をひたすら追い求めていた。
 夜明けに気を許す余裕は無かった。日の出の目映さは瞳を焼くだけと、顔を背け、見ないようにしていた。
 だから空がこんなにも繊細に色を変え、移りゆくものだと知らなかった。
 気がついたのは、いつだろう。
 天上を指差し、教えてくれたのは誰だろう。
 目を細め、ふふ、と口角を持ち上げる。
 声もなく笑った彼を知ってか知らずか、静寂を保っていた空間が突如ふたつに割れた。
 滑りの悪い障子がカタカタ音を立て、横に開いた。光の届かない暗い室内から、怠そうな表情で現れたのは歌仙兼定だ。
「お小夜?」
 半分眠ったままなのか、目元はとろんと弛んでいた。寝癖が残り、普段は一本だけの跳ねた毛は、三本に増えていた。
 寝間着も乱れたままで、だらりなく広がった衿元が目に毒だ。
 さすがに腹をボリボリ掻く真似はしなかったが、やりかねない雰囲気に苦笑して、小夜左文字は寝起き顔の男に頷いた。
「まだ眠っていても良いんですよ」
 今日の食事当番は、今頃台所に集合を終え、忙しく支度を開始しているだろう。
 起きたのだから手伝いに行ってもいいが、今しばらくこのまま、陽が昇るのを待ちたい欲が勝った。
 打刀には大人しく布団へ戻るようやんわり促して、室内を掌で示す。
 風流を愛し、雅なものを好む刀は鈍い動きで後方に目をやって、口元に手を添え、欠伸を隠した。
「ふぁ、ああ……んむ、ん。ん。なにしてたんだい?」
 片手では誤魔化せないくらい大きく口を開け、空気を咀嚼して顎をもごもごさせる。
 急に滑舌が良くなったのは、この欠伸で居残っていた眠気を追い払ったからだ。
 ぼんやりしていた頭の中をすっきりさせて、布団に戻る理由を打ち消した。無駄としか思えない意地を発揮されて、小夜左文字は失笑を禁じ得なかった。
 そうまでする意味が分からないが、そうさせたのは紛れもなく短刀の存在だ。
 そこは有り難く受け取ることにして、彼は掌を返し、こちらに来るよう手招いた。
 途端に歌仙兼定はぱあっと目を輝かせ、大股で距離を詰めてきた。二歩もあれば充分なところを、一歩半で済ませて、隣に並ぶと思わせて背後に陣取った。
「冷たいじゃないか」
 当然のように後ろから寄り添い、抱きしめてきた。
 華奢な体躯を二本の腕で引き寄せ、閉じ込めて、許しも得ないまま紅葉のような手を握り締めた。
 掌に親指を押し当て、円を描くように動かす打刀の身勝手さは、今に始まったことではない。
 最初に抵抗しなかった自分が悪い、と諦めて、小夜左文字は冷え切った指で男の小指を引っ張った。
「歌仙は、温かいですね」
「それは、嫌味かい」
 短刀が寒空の下に佇んでいる間、布団の中でぬくぬく眠っていた件を責められている、と受け取ったらしい。
 ふて腐れた声が頭上から降って来たが、否定の言葉は咄嗟に出なかった。
 なんと返せば良いか迷っている間に、この話はうやむやになった。打刀も深く追求しては来ず、明け行く空へと投げ捨てた。
 そうやって少しの間、互いに黙ってなにをするでもなく時間を過ごした。
「あ」
 やり場のない手を胸元に集め、緩く編まれた男の指先を弄っていた時。
 はっとなって空に瞳を転じた時にはもう、藍色は緩やかに薄まり、白々としたものが東から広がり初めていた。
 夜の帳が開かれ、太陽が地平に迫ろうとしている。
 今日こそは空が白み始める一瞬を見届けるのだと、密かに決めていた。
 あの時間に目が醒めたのは、なにかしら意味がある思っていた。
 一番鶏の声が聞こえたわけでも、台所へ急ぐ誰かの足音に意識を揺らされたわけでもなく。ごく自然に覚醒した理由を、どこかに求めていた。
 それ故に、空を仰いだ。温かな褥を抜け出して、寒空の下に身を晒した。
 かつて嫌いだったものに向き合い、目を逸らさぬよう働きかけた。
 だというのに、だ。今日もまた、肝心の瞬間を見逃した。思わぬ邪魔が入り、そちらに気を許してしまったばかりに。
 かといって歌仙兼定を責める気は起こらなかった。油断していたのは他ならぬ小夜左文字自身。起き抜けの打刀が事情を知るはずもなく、怒るのは道理から外れていた。
「まあ、いいか」
 機会ならこれから先、いくらでも巡ってくる。
 次の好機を待つことにして、短刀は窄めた口から息を吐いた。
 力を抜き、体重の半分を真後ろに控える男に委ねた。凭れかかり、鼻腔を擽る微かな体臭を吸い込んで、甘えるように分厚い胸に額の左半分を擦りつけた。
「夜が明ける、か」
「はい」
 猫を真似た短刀の仕草に、打刀は笑ったらしかった。
 顔が見えないので気配だけでそう察して、小夜左文字は頭上を仰いでいる男の姿を瞼の裏に思い描いた。
「お小夜の色だね」
「え?」
 そこに不意打ちで囁かれて、彼はぱっと目を見開いた。
 一瞬意味が分からず、前のめりになった。委ねていた体重を取り戻し、二本足で床を踏みしめて、腰を捻って高い場所にある男の貌を覗き込んだ。
 歌仙兼定としても、こんな反応をされると思っていなかったようだ。
 予想外の態度に吃驚して、彼は笑顔を引き攣らせた。
「変なことを、言ったかな?」
 深い意図も、考えもなく口にしたらしい。
 右手で頬を掻きながら問われて、小夜左文字は嗚呼、と目を細めた。
 こうしている間にも、夜空はどんどん色を薄め、西の彼方へ追いやられようとしていた。東から迫り来る目映い光が頂上で混じり合い、深く沈んだ藍色は群青へと変わろうとしていた。
 ほんの一瞬鮮やかに輝いて、同じだけれど違うものへと姿を変える。
 照れ臭そうに微笑む男をじっと見詰めて、小夜左文字は顔を伏した。
「前にも、……そう言いました」
「僕が?」
「はい」
 夜明けを待つのは嫌いだった。
 眠れない夜を過ごし、一晩中膝を抱えて丸まって、容赦なく押し寄せる時の流れにじっと耐えるばかりの日々だった。
 空の色がどんどん移り変わっていくことに、さしたる関心を抱いたことはなかった。どうでも良いものと受け流し、見過ごしてきた。
 あの日、あの時、教えられなければ、今でも興味を示すことはなかった。
 空が白み始める一瞬の変容をこの目に留めたいなどと、奇怪な望みを抱くことだってなかったはずだ。
「覚えてないな」
 驚愕に染まる眼差しを受けて、歌仙兼定は首を捻った。顎に手をやり、眉を顰めて口をへの字に曲げたが、心当たりが浮かんで来た気配はなかった。
 それもそうだろう。彼のこの態度に、心の何処かで納得していた。
 反面、もしかしたら思い出せるのではと、儚い望みを胸に抱いた。
「そうでしょうね。もうずっと前ですし」
「もしや三斉様のところにいた頃かい?」
「歌仙は僕より小さくて、可愛らしかったです」
「うっ。そんな、ことは……」
 多くは語らず、自ら思い出すよう水を向けた。
 愛らしかったと評された男は途端に苦々しい表情を浮かべて、奥歯を数回噛み鳴らした。
 カチカチ音を響かせ、虚空に視線を彷徨わせる。鼻から吸った息を口から吐いて、落ち着かないのか小夜左文字の肩を意味も無く揉んで、捏ねた。
 凝ってもない場所を解されて、くすぐったかった。逃げようと藻掻いたが許されず、離れようとする動きを制して、却って強く拘束された。
「本当に、僕が?」
 身を屈めた男に耳元で尋ねられ、吐息が耳朶を擽った。
 声を潜めた打刀にクスクス声を漏らして、小夜左文字は鷹揚に頷いた。
 首を傾けて振り向き、意地悪く口角を歪めて目を眇める。
 歌仙兼定は面白くない、と言わんばかりに顔を顰め、短刀の次の言葉を待った。
 食い入るように見詰めて来る眼差しは、記憶にない過去を暴かれる恐怖と、不安と、僅かな期待が入り乱れていた。
 この本丸で出会った他の刀たちには、決して見せない表情だ。
 それがたまらなく愛おしくあり、特別な関係というのを強く意識させられた。
 優越感めいたものを心の片隅に抱いて、小夜左文字は深々と頷いた。
「くう。思い出せない」
 打刀は悔しそうに呻き、左手で額をぺちりと叩いた。そのまま腕を後ろにやって藤色の髪を掻き回し、手櫛で寝癖を整えた。
 跳ねている分は濡らして、櫛を通さなければ直らない。それでも何もしないよりは、と数回繰り返して、観念したのか溜め息を零した。
「お小夜」
 低く掠れた小声で名前を呼んで、もっと詳しく説明するよう求めて来た。
 頭の中を柔く擽る声色は、中毒性のある麻薬かなにかを想起させた。向こうも一定の効果があると確信しての行動であり、始末が悪いことこの上なかった。
 純粋無垢を絵に描いたような幼い付喪神が、どうしてこうなったのだろう。
 半分は自分の所為、と浮かんだ疑問に回答して、小夜左文字はひっそり肩を落とした。
 抱きしめて離そうとしない男の手に手を重ね、ゴツゴツして男らしい指をなぞり、握り締める。
 脳裏に蘇ったのは、この指がまだふくよかで、柔らかかった時代の打刀の姿だ。
 その瞳は宝石の如くきらきら輝き、目にするもの全てが新鮮だと語っていた。毎日が驚きの連続で、逐一大袈裟に騒いでは、感動したと口にしていた。
 いや、その辺りは今もあまり変わっていない。大人しく次を待っている男を盗み見て、小夜左文字は噴き出しそうになったのを堪えた。
「そうですね……」
 その頃の短刀は闇に潜むのを常として、陽の暖かさを嫌っていた。夜明けが来るのを愁い、日が沈んだ後の時間をひたすら嘆いていた。
 暗がりで息を殺す毎日だった短刀を外に連れ出した存在こそ、そこの世間知らずの打刀だった。
 産まれたばかりで世の常識を知らず、あらゆる物に関心を示した。
 申し出たつもりなどないのに世話役を押しつけられて、彼に構われてあちこち連れ回されるようになって、己の無知蒙昧ぶりを思い知った。
 己が持ち合わせてした知識の多くが、単に知ったつもりでいただけのものと気付かされた。
 その点、前知識さえなかった打刀の方が、遙かに物知りだった。
 時間毎に移り変わる空の色も、彼に指摘されるまで気に留めようとすらしなかった。
 ある朝、いつもより早起きだった彼は短刀を訪ねてくるなり、興奮気味にこう語った。
 空がお小夜の色だった、と。
 それだけでは何のことだか、さっぱり見当が付かない。よくよく説明を求め、推測から補完した結果、彼は空が白み始める瞬間に遭遇したらしかった。
 天頂を覆っていた藍色が緩み、淡く厳かに輝くのを、目の当たりにしたらしかった。
 知識をどんどん吸収しながらも、語彙が少ない幼い付喪神は、これの彩りの美しさをどう表現すべきか分からなかった。そこで咄嗟に思い浮かんだのが、小夜左文字だったと言うのだ。
 聞いた時は意味が分からなかった。
 なにを馬鹿な事をと一笑に付した。
 けれど妙に心に引っかかり、意識に強く刻まれた。翌朝、眠れない夜をいつも通り過ごし、日の出の直前に外に出たのは気まぐれだった。
 間違っても騒々しいばかりの付喪神に触発されたわけではない。
 あくまで偶然だと自分に言い訳をして見上げた空は、美しかった。
 鈍色が霞み、緩やかに解けていく。昼間は鮮烈な輝きを放つ太陽も、この時はまだまだ穏やかで、勢いに欠けている分、光は柔らかかった。
 夜闇は急かされながらも名残惜しげに、西の空へと去って行く。だがそれも横並びで一気にではなく、一部は居残り、朝の気配に紛れ込んだ。
 溶け合い、混じり合い、時に反発して、変わっていく。
 あれが自分の色だとはとても思えなかった。
 思えなかったからこそ、次こそは確かめてやるとの決意を抱かせた。
「お小夜?」
 懐かしい思い出に浸っていたら、時間だけが過ぎ去った。
 黙りこくった短刀に痺れを切らし、歌仙兼定が細い肩を前後に揺らした。
 上半身から地震に襲われた短刀は内股になって姿勢を維持し、乱暴な男を軽くねめつけた。
 無理矢理意識を引き戻されて、不満げに口を尖らせるものの、文句があるのはあちらも同じ。
 露骨に拗ねた表情を見せられて、小夜左文字は堪えきれなかった。
「ふふっ」
 口を手で押さえたが、すんでの所で間に合わない。
 肩を震わせ笑う少年に目をぱちくりさせて、歌仙兼定は諦め悪く声を絞り出した。
「お小夜、意地悪をしないでくれ」
 その甘えた台詞を、昨夜の彼に聞かせてやりたい。
 意地の悪さではどちらが上かと、結論の出ない論争は一先ず脇に追いやって、短刀は朝に染まり行く空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 相変わらず冷たく冴えているが、胸の奥深くに突き刺さることはなかった。
「あたたかい」
「ええ? なんだって?」
「内緒です」
 独り言に反応し、大袈裟に訊き返して来た男が滑稽だった。
 折角落ち着いていた笑いが蘇り、腹筋が引き攣る。懸命に耐えながら答えて、小夜左文字は肩越しに顔を覗き込もうとする男の額を押し返した。
「さあ、歌仙。着替えて、顔を洗いに行きましょう」
 いつの間にか空は明るさを増していた。どこかあやふやだった物の輪郭は鮮明になり、夢から覚めた刀たちによる生活音がそこかしこから聞こえて来た。
 朝餉の支度は順調だろうか。
 結局手伝いに行けなかったと反省して、夜明けの色に例えられた少年が笑った。
 巧くはぐらかされた打刀は今しばらく不服そうに頬を膨らませ、やがて癖が残る髪を押し潰した。
「承知した」
 深々とため息を吐き、俯いて二秒弱停止した後、顔を上げた。
 恨みがましい感情は足元に捨てて、踏み潰したようだ。妙に晴れ晴れとした表情を見せられて、小夜左文字はもう一度噴き出しそうになったのを、急いで堪えた。

霜さゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな
山家集 冬 521

2019/01/20 脱稿