繰るとも見えぬ 滝の白糸

 ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音が止んで、小夜左文字は顔を上げた。
 それまでほぼ一定の間隔で続いていた音色が、不意に静かになった。なにかが起きたのは間違い無くて、彼はひっそりと眉を顰めた。
「歌仙?」
 壁から伸びる竹の筒からは、清らかな水がさらさらと流れ落ちていた。横幅が広い洗い台のほぼ真ん中に滝を作り、奥に設けられた穴へと吸い込まれていった。
 本丸の増築時に、一緒に改築された台所は、初期に比べると格段に使いやすくなっていた。隣にあった納戸を取り払って拡張されて、大勢が一度に動き回れるようになっていた。
 竈の数が増え、鍋やなにやらも新調された。小夜左文字が愛用していた足台も、つい最近新しくなった。
 上に立つとガタガタ言って倒れそうになり、危なかったのだが、これでもう心配はいらない。
 作業もずっとやり易くなると喜んで使っている、その台の上で、小柄な短刀は首を捻った。
「どうかしましたか」
 本丸でも際立って背が低い短刀は、他の刀が難なく届く場所に、背伸びしても届かない。
 洗い場で片付けを手伝う時も、三段ある足台がなければ、手で触れるどころか見るのさえ叶わなかった。
 台に上って身長を補って、ようやく皆と並んで作業が出来る。だがその一緒に洗い物を進めていた相方が、急に動きを止めてしまった。
 流れ続ける水が勿体なくて、小夜左文字は腕を伸ばして栓を閉めた。
 ここの水は、無限ではない。外に設置された貯水槽に、槍や薙刀が毎朝水を溜めてくれていた。
 無駄に放水し続けるのは、彼らの努力を、文字通り水に流してしまいかねない。あまり褒められた行為ではなかった。
 竹筒の流れを堰き止めて、短刀は改めて傍らに目を向けた。
「ああ、いや。いたた」
 視線を受け、指先から雫を滴らせた男が首を振った。掴んでいたものを割らないようそっと置いて、奥歯で悲鳴を磨り潰した。
 彼の手元には濯ぎ途中の鍋があり、調理中に使った箸や小皿が脇に積まれていた。表面には細かな泡が付着して、洗い流されるのを待っていた。
 竹を編んで作った水切り籠は半分弱埋まって、ぽたぽた落ちる雫は土間に作られた溝へ集められる。洗い場から出た水もそこを通り、屋外の用水路に合流した。
「怪我ですか」
 ざあざあ五月蠅かった水音が途絶え、台所は一気に静かになった。
 窓の向こうで乾いた風が吹いたが、打刀の声をかき消すには足りなかった。
「いや、そこまでたいしたものではないよ」
 顰め面を覗きこんだ短刀に、歌仙兼定は早口に言った。痛みを誤魔化し、平静を装おうとして、心配させないように振る舞った。
 けれどそれが、却って痛々しく思える時もある。
 小夜左文字は緩く丸められた打刀の手を見て、異様に赤くなった部分に渋面を作った。
「痛みますか」
 平気だと言われても、到底信じられない。
 目にしただけで、痛みが想像出来た。ぶるっと震えが来る傷の具合に、彼は眉間の皺を深くした。
 だというのに、歌仙兼定は尚も問題ない素振りを見せた。意地を張って、にこやかに微笑んで、心配する短刀に頬を緩めた。
「ちょっと沁みただけだよ」
 手首を振って絡みつく水気を払い、掌を裏返しにして患部を隠す。普段ならばなんとも思わないその仕草さえも、今は余計な気遣いをさせないための配慮としか思えなかった。
 我慢することはないのに、どうして平気なふりをするのか。
 彼の心理が分からなくて、小夜左文字は口を尖らせた。
 自分だって多少の傷は平然と無視し、手当ては不要と跳ね除けるのに、こういう時だけ都合よく忘れている。
 臍を曲げて顰め面を酷くして、藍色の髪の短刀は肩を怒らせた。
「残りは、僕がやります」
 肘を突っ張らせ、打刀の脇腹を小突きながら言った。
 語気を荒らげて主張した少年に目尻を下げて、歌仙兼定はゆるゆる首を横に振った。
「心配はいらないよ、お小夜」
「ですが」
「これしきで音を上げていては、主に顔向けできないからね」
 水仕事が連続して、肌が荒れてしまったのだろう。特に出番の多い中指、人差し指の第二関節がぱっくり裂けて、内側から血が滲んでいた。
 表面を覆う皮が破れ、中の肉が覗いていた。冷たい空気に触れるだけでも沁みて、動かせばズキズキする痛みが酷くなった。
 それでも耐えられないほどではないと、細川の打刀は言い張った。
 この程度の傷、戦場に出れば当たり前だ。もっと酷い怪我をしたことだって数えきれないのだから、充分我慢出来る。
 そう信じ、そう願った。先ほどはうっかり擦ってしまって痛みが増したが、今日はずっとこの手で仕事をこなしてきたのだから、最後までやり通せるはずだ。
 やせ我慢ではないのだと教えるべく、彼は傷が悪化した方の手をひらひら振った。実際は依然じくじく疼いていたが、顔には出さなかった。
 優雅に、余裕がある風を装って、小夜左文字が閉めた水道の栓を外した。
 直後にちょろちょろと水が流れ出して、菜箸に残る泡をそこに浸した。
「うっ」
 当然のようにズキッ、と骨まで沁みる痛みが走り、歌仙兼定は歯を食い縛った。
 奥歯を擦り合わせ、喉から出かかった呻き声を防いだ。息を止めて痛覚の遮断を試みて、平常心を保つべく感情を消した。
 無我の境地に至り、能面のまま次々に洗い物を片付けていく。
 カチャカチャと皿や鍋が擦れあう音が続いて、隣で見ていた小夜左文字は呆れた顔で肩を竦めた。
「ここにいてください」
 短刀が手伝っていた仕事まで、意識していないのか、彼は奪っていた。
 洗い終えた皿類を水切り籠に入れるのが、台座に立つ少年の役目だ。だのに男はそれを押し退け、次々と籠を埋めて行った。
 お蔭で小夜左文字はやることがなくなってしまい、手持ち無沙汰だ。
 それもこれも打刀の手の傷が悪いのだと腹を立てて、見目幼い少年はは一尺三寸はある足台から飛び降りた。
「お小夜?」
「薬研藤四郎に、薬をもらってきます」
 瞬時に振り返った男に告げて、言うが早いか駆け出した。呼び止める声は聞かず、土間から板敷きの間へ上がり、そこから更に廊下へ出た。
 お節介が迷惑と思われるかもしれないが、放っておけなかった。
 頭の中で地図を広げ、記憶の通りに道を進んだ。幾度となく増改築を重ねた本丸の屋敷は半ば迷路化しており、景色を確認しながらでないと、簡単に現在地を見失いかねなかった。
 早い時期に顕現した小夜左文字でこうなのだから、最近やって来たばかりの刀は、もっと大変だ。
 先日も祢々切丸が迷子になって、声はするのに姿は見えず、ということがあった。最悪、中庭に面した建物の壁をぶち抜くか、という話になったが、ぎりぎりのところで今剣が大太刀の元に辿り着き、無事帰還を果たしていた。
 ああいう騒動の中心に、自分は立ちたくない。
 道を違えないよう細心の注意を払い、小夜左文字は人通りの絶えた廊下を曲がった。
 突き当たりの床にはぽっかり穴が開いており、暗闇が待ち構えていた。そこには最初から板が張られておらず、覗き込めば急こう配の階段があった。
 奈落まで続きそうな雰囲気があるけれど、実際はそこまで深くない。
 屋敷の中心部にほど近い場所に作られた半地下空間は、医薬品を保管する収蔵庫だった。
「相変わらず、ここは」
 陽の光はあまり届かず、下り切ったところに蝋燭の火が小さく見えるだけ。
 足を滑らせると真っ逆さまに転げ落ちるしかなく、ここを行く時は否応なしに緊張させられた。
 ごくりと喉を鳴らし、恐る恐る足を前に出した。手すりの類は一切なく、頼りにしようと触れた壁はひんやり冷たかった。
 階段はギシギシ言って、こちらも凍えるほどに冷たい。足の指の感覚が徐々に失われていく中、小夜左文字は最後の段差を降り終えたところでホッと息を吐いた。
 到達した先は半畳ほどの広さしかなく、正面は壁で、左右に扉がひとつずつ。
 その右側を軽く叩けば、間髪入れずに返事があった。
「あいてるぜ」
 反対側は、日光に当ててはいけない類の薬草や、貴重な品々が保管されているらしい。
 屋敷には沢山部屋があって、中には古株の短刀でさえ入ったことがない場所がいくつかあった。この重そうな扉の向こう側も、そのひとつだった。
 防火対策の為か、あちらだけは鉄製なのだ。一方これから入ろうとしている扉は木製で、蝶番が錆びかけていた。
 手前に引くとギィィ、と音がして、苦い臭いが鼻腔を刺した。反射的に唾液が溢れ、喉の奥でおえっ、と嘔吐きそうになった。
 薬の匂いだと分かってはいるけれど、なかなか慣れない。
 つーん、と来る刺激に急ぎ口と鼻を塞いで、小夜左文字は三畳半程度の室内に目を瞬いた。
 天井の高い位置に窓があり、薄く日が射しこんでいた。それだけでは足りないからと、この時間から行燈に火が入り、片隅には暖を取る為の手あぶり火鉢が置かれていた。
 ここは年中涼しいので、夏場は重宝がられた。しかし一度に大勢入れる場所でないし、どこを嗅いでも薬草の匂いしかしないので、近付きたがらない刀もそれなりに多かった。
 この中にいて平然としていられるのは、薬研藤四郎か、物吉貞宗くらい。
 その黒髪の方を見付けて、小夜左文字は恐る恐る顔を覆っていた手を下ろした。
「うう」
 苦い臭いにはまだ馴染めないけれど、入った直後よりは呼吸が楽になった。
 ほっと胸を撫で下ろして、彼は小型の火鉢に手を翳す短刀仲間の前で膝を折った。
「どうしたよ、小夜助。急病人か?」
 指先を温め、時々裏返したり、元に戻したり。
 そうやって手全体に熱を送り込んでいた少年は、入ってきた男士を見て楽しそうに声を響かせた。
 だが残念ながら、病人が出たわけではない。そもそも刀剣の付喪神である刀剣男士が罹患するなど、前代未聞だった。
 二日酔いで頭がくらくらする、睡眠不足で倒れる、といったことならあるが、それらは厳密には病気といえない。熱が出て、下痢をして、咳が止まらないといった症状は、誰一人として体感したことがなかった。
 身体が重く、怠いのは、疲労が蓄積しているか、或いは精神的なものが原因。
 薬研藤四郎は日々様々な薬草を採取し、調合していた。しかし彼手製の薬の大半は、この先もずっと薬棚の肥やしとなるだろう。
「いいえ。皮膚が割れて、血が出ているので、その薬を」
 しかし残り半分は、皆から重宝がられていた。
 特に台所仕事が多い刀は、手荒れとの戦いが避けられない。小夜左文字も冬場は皸に苦しめられ、保湿成分を高めた軟膏の世話になっていた。
 今回は、それよりも即効性が高いものがあればと思い、訪ねて来た。
「んん? 水仕事ご苦労さまってやつか」
「僕じゃないです」
 もみじの手を指差しながら言えば、眼鏡を掛けた少年はゆっくり立ち上がった。そうして壁を埋める薬棚でなく、小夜左文字の方に身を乗り出し、傷の具合を確認しようとした。
 それで慌てて言い足して、華奢な少年は両手を背中に隠した。言葉が不十分だったと反省して、目を丸くした短刀に小さく頭を下げた。
「ん? あー、んじゃ、歌仙の旦那か」
「はい」
 薬研藤四郎はそれで理解して、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 本丸に集う刀剣男士のうち、小夜左文字と関わり合いが深く、それでいて水仕事に従事している男を絞って、見事正解を導き出した。
 左文字にはほかに太刀と打刀がいるけれど、どちらも浮き世離れしたところがあり、世俗にまみれた家事とは縁遠かった。
 しかも長兄の江雪左文字は菜食主義者で、度々調理当番を悩ませていた。また、次兄の宗三左文字は籠の鳥を自称し、部屋からあまり出て来ない。顕現したての頃と比べれば活動的になったとはいえ、外を駆け回るなどあり得ない話だった。
 そうなると、戦国大名細川家に所縁を持つ刀くらいしか残らない。
 簡単だと苦笑して、彼は真剣な面持ちの短刀に目を細めた。
「酷いのか?」
 柔和な表情がすっと消えて、医療従事者としての顔が現れた。
 声を潜めた少年に首肯して、小夜左文字は背中に回していた手を取り出した。
「ここ、と。ここに。罅割れが」
「ああ、関節のとこだな。小夜助も、去年の冬はよく作ってたな。前に渡したあれじゃ駄目か」
 具体的な場所を指し示して伝え、傷の程度も簡単に説明する。それにふんふん頷いて、薬研藤四郎は薬棚の一画を指差した。
 大きめの瓶に、たっぷり作った軟膏が入っていた。皆が大量に使うので、いちいち調合していたら間に合わないからと、先に多めに準備してあるのだ。
 見覚えのある色艶に目をやって、小夜左文字は一度首を縦に振り、続けて横に二度振った。
 これではどちらの意味か分からなくて、黒髪の少年は戸惑いがちに頬を掻いた。目を泳がせ、ひと呼吸間置いて、首を右に傾がせた。
「もっと、治りが早いものが、あるなら」
 それを見て、左文字の末弟が言葉を補った。
 相変わらず説明が下手だと苦笑して、薬研藤四郎は肩を竦めた。
 小夜左文字に限らず、本丸の皆が冬場使っていた軟膏は、どちらかと言えばこれ以上傷が悪くならない為のものだった。
 乾燥した肌に潤いを与え、水分を逃さない目的が大きい。塗る場所もぱっくり裂けてしまった箇所ではなく、放っておいたら割れてしまうだろう、という位置が中心だった。
 だから傷が悪化してからでは、あまり役に立たない。
「それもそうか」
 指摘された短刀は瞬時に認めて、ならば、と身体を反転させた。
 心当たりを思い出そうとして、視線を左右に躍らせる。左手を腰に据え、右の人差し指で顎を叩きながら、埋もれた記憶を掘り返した。
 自由に動き回るには不便な空間で、床に散らばる様々なものを器用に避けつつ、ぐるぐると円を描く。
 目が回ったりしないのだろうか。少し心配になって、小夜左文字は近付く彼を避けようと、中腰で後退した。
「お小夜」
「歌仙?」
 そこに、不意に声がした。思ってもみなかった刀の登場に、彼は吃驚して仰け反った。
 半端に開いていた扉の隙間が広がって、そこを埋める形で男がひと振り、立っていた。
 それを天地逆に確かめて、短刀は尻餅をつく形で床に座り直した。
 大急ぎで片付けを終え、追いかけて来たのだろう。打刀の肩は上下に揺れて、吐く息は乱れていた。
 場所が場所なら、彼の顔が白く霞んで見えたかもしれない。屋外の寒さを思い返し、小夜左文字は瞬きを繰り返した。
 薬研藤四郎は足を止め、息を整えてから入って来た男を出迎えた。ただでさえ狭い空間が更に窮屈になって、行き場を求めて摺り足で後退を図った。
「旦那のご登場、ってやつか」
 合間に嘯き、意味深に笑った。聞こえた小夜左文字は鋭く睨みつけ、聞こえなかったらしい男にはため息を零した。
「台所にいるよう、言いました」
 薬をもらって、すぐ戻るつもりだった。
 それなのに、どうしてわざわざ自分から来たのだろう。じっとしていても痛いのだから、動き回ればなおのこと、傷は悪化するというのに。
 愚かとしか言いようがない行為に呆れ、低い位置からねめつける。
 だが歌仙兼定は鷹揚に首を振り、先走った短刀を正面から見つめ返した。
「心配ないと、言っているだろう」
 一面赤く染まっている手を見せて、苛立ち気味に言い切った。どこからどう見ても痛そうとしか思えないものを示して、大事ないとの主張を繰り返した。
 それがやせ我慢に思えたから、小夜左文字はここに来たのだ。
 その配慮を蔑ろにされるのは面白くなくて、短刀は小鼻を膨らませた。
「悪いが、痴話げんかなら外でやってくれ」
「誰が!」
 険悪な空気が漂い、これを嫌った薬研藤四郎が軽口を叩く。
 反射的に怒鳴り返した短刀は、一秒置いてからハッと我に返り、どうにも気まずい雰囲気に首を竦めた。
 歌仙兼定の方も虚を衝かれた顔をして、なんとも言えない表情で目を逸らした。赤く染まった手で口元を隠して、一瞬だけ小夜左文字を窺い、小さな引き出しが並ぶ棚を、何をするでもなく眺めた。
 お互い、頬が赤い。
 鮮やかな朱色に染まっている自覚はあるのかと笑って、薬研藤四郎は抽斗の白い取っ手を引っ張った。
「歌仙の旦那が来たんなら、丁度良いや。新作があるんだ。試してってくれねえか」
 茶でも飲んでいけ、というくらいの気軽さで言って、彼が出したのは白っぽい小瓶だ。外から光が入らないよう密閉されて、大きさは掌にすっぽり収まる大きさだった。
 ちゃぷん、と水音がしたので、中身は軟膏ではないらしい。
 新作、という響きに若干の不安を覚え、小夜左文字は訝しげに短刀を窺った。
 胡乱な眼差しを向けられても、飄々とした短刀は態度を変えなかった。口角を僅かに持ち上げて、小瓶の蓋を右に回した。
「効果は保障するぜ。なあに。ちっと沁みるだけだ」
 疑念を抱かれていると承知して、最終判断は当事者に委ねる。それで安堵の息を吐き、小夜左文字は傍らを窺った。
 二方向から視線を受けた打刀は困った顔をして、遠くを見やり、やがて深く肩を落とした。
「そんなに信用ないのかな、僕は」
「歌仙」
「分かったよ。それでお小夜が安心するのなら」
 ため息混じりに呟いて、彼はゆったりした動作で腰を下ろした。膝を折って屈み、胡坐を組んで、痛みの発生源たる利き手を差し出した。
 ぱっくり割れた皮膚は、台所で小夜左文字が確認した時のままだ。痛々しい様相を呈しており、薬研藤四郎の眉も自然真ん中に寄った。
「こいつは酷えな。よしよし、今すぐ治してやるからな」
 ここまで酷いと、思っていなかったようだ。しかし顰め面はすぐに綻び、どこかウキウキした表情に切り替わった。
 新鮮な実験台を得て、嬉しそうだ。もしや判断を誤ったかと心配になって、小夜左文字は息を潜めた。
「よろしく頼む」
 だが顔に出しては、歌仙兼定の決意を挫くことになりかねない。
 ようやく治療を受ける気になった彼の意思を尊重すべく、短刀は背筋を這う嫌な感覚を振り払った。
 薬研藤四郎は軽く頭を下げられたのに破顔一笑して、瓶の蓋を置き、入れ替わりに取った小筆をそこに差し入れた。
 中の液体でほんの少し湿らせて、余分は瓶の縁でこそぎ落とした。雫が垂れないのを確認して引き抜いて、そうっと、中空に据えられた大きな手へと運んだ。
「沁みると思うが、我慢してくれよ」
 先ほどと同じ警告を繰り返し、赤黒く染まった傷口へ筆の先を落とす。
「ああ。多少の痛みは、覚悟のう――っ?」
 生真面目に返事した男は、最後まで言い切ることなく悶絶した。
 この状態で水仕事を難なく、とは言えないまでも、ひと通りやり遂げた男が、だ。
 それがたった一度、軽く表面を撫でられただけで絶叫した。声にならない声を響かせ、肘から床に倒れ込んだ。
 仰け反って起き上がろうと試みるけれど、立てず、崩れ落ちたまま。そのまま右肩を下にして転がって、背中を丸め、右手首を左手で押さえ付けた。
「く、うっ……うあ、あが、はっ」
「歌仙!」
 口からは苦悶の声が多数漏れ、聞いているだけで背筋が粟立った。
 いったい何が起きているのか分からなくて、小夜左文字は蒼白になり、足元で悶える男に詰め寄った。
「歌仙、どうしたんですか。しっかりしてください」
 新たな痛みに耐えてか、歌仙兼定の表情は険しい。額には大量の汗が滲んで、言葉を発するのさえ容易でない様子だった。
 奥歯を強く噛み締めて、前歯から漏れるのは呻き声ばかり。呼吸の間隔は平時の半分ほどまで狭まって、吐き出される熱は火傷しそうなほどだった。
 この反応は、尋常ではない。
 ろくに返事も出来ない打刀に騒然となって、小夜左文字は元凶を探ってハッとなった。
「薬研!」
 薬だと言ったのに、毒を盛られたのではないか。
 おおよそ有り得ない苦しみ方を目の当たりにして、頭に血が上り、冷静さは失われていた。
 激情のまま怒鳴りつけ、薬研藤四郎に掴みかかる。
「おっと。心配すんなって」
 それをひょい、と躱して、白衣の少年は呵々と笑った。
 この状況でどうしてそんな顔が出来るのか、小夜左文字には分からない。
 仲間だと信じていた相手に裏切られて、己の軽率さが憎らしかった。
「おさ、よ……」
「歌仙。歌仙、大丈夫ですか」
 このままだとその辺にある小刀を手に、薬研藤四郎に斬りかかりかねない。
 その雰囲気を嗅ぎ取って、歌仙兼定は掠れる声で名を呼んで、懸命に自身を奮い立たせた。
 生々しい色を露わにした傷口に、謎の液体が染み込んだ瞬間、猛烈な熱さに襲われた。
 痛い、というよりは、熱い。傷ついた箇所どころか身体全体が痺れて、骨から、肉から、どろどろに溶けてしまいそうだった。
 指先は麻痺して動かず、飲みこんだ唾は極端なほどに苦い。肺が圧迫されて呼吸がままならず、脂汗が止まらなかった。
「この、程度……どう、と。いう、ことは」
 それでも強がって、虚勢を張った。時間遡行軍に串刺し寸前に追い込まれた時よりはまだ楽と、過去に負った怪我の数々を引き合いに出した。
 あの時も、痛みより先に熱が来た。実際は炎などどこにもなかったのに、内側から焼かれるような感覚に襲われた。
 それを思えば、指の一本や二本で喘ぐのは情けない。
 武人としての矜持を焚きつけて吠えた彼に、短刀たちはそれぞれ別の表情を浮かべた。
「おっ、やるねえ。んじゃ残りの傷にも」
「薬研。それ、本当に薬なんですか」
 片方は遣り甲斐を感じて興奮し、片方は不安と恐怖に呑まれて真っ青だった。
 小夜左文字の早口の問いかけに、薬研藤四郎は自信満々に頷いた。まだ沢山残っている小瓶を揺らして、得意げに胸を張った。
「言ったろ。ちいっと沁みるが、効果は保証するってよ」
「ちょっと、どころではないです」
 身じろぐが起き上がれない打刀を庇い、小夜左文字は捲し立てた。背中に歌仙兼定を隠して、薬研藤四郎の接近を妨害した。
 怒りを露わにして、眼光は鋭い。もし視線だけで相手を射殺せるなら、眼鏡の少年はとっくに極楽へと旅立っているだろう。
 それくらい強い眼差しを浴びてもなお、薬研藤四郎は平然としていた。捕まえた蛙にいたずらするくらいの面持ちで、薬剤を染み込ませた筆を短刀に突き付けた。
「良薬は口に苦し、って言うだろ?」
 そこを退くよう促して、不遜に言い放つ。
「それは、飲み薬じゃないです」
 対抗して言い返した小夜左文字は、後ろから肩を掴まれてビクッとなった。
 ぐっと潰すように力を加えられて、心臓が口から出そうになった。前にばかり意識が行って、肝心の打刀への注意が疎かになっていた。
 油断していたので、驚いた。
 悶え苦しむ男が起き上がれるわけがないと、心のどこかで慢心していた。それを痛感して、少年は土気色になっている歌仙兼定に総毛立った。
「歌仙、休んでいてください。今、洗い流す水を」
「大事ないよ、お小夜。本当に。これくらいのこと」
 どうにか座り直したものの、そこから動けずにいる姿に涙が出そうになった。
 鼻を啜り、口から息を吐いて、外へ駆け出そうとした短刀を、打刀が噛み締めるように言って引き留めた。
 声を出すだけでも辛いだろうに、気丈に振る舞うのを止めようとしない。意地になっているのが傍目にも明らかで、小夜左文字は嫌々と首を振った。
「かせん」
 だがどれだけ言っても、打刀に声は届かない。
 覚悟を決めた男の顔に頷いて、薬研藤四郎は忘れていたと薬効を述べた。
「説明が遅れたが、これは体細胞を活性化させる効果がある。簡単に言えば、旦那の傷のところだけ、手入れ部屋に入ったみたいに時間が早送りになってんだ。んで、細胞が分裂するときには熱が生じる。運動したら身体が温まるのと、似たようなもんだな」
 小夜左文字にはぴんと来なかったが、歌仙兼定には思い当たる節があった。今も止まない汗を左手首で拭って、深く息を吐き、引き千切られそうな痛みに歯を食い縛った。
「まったく。手荒い治療、痛み入るよ」
「助かったぜ。弟たちで試すわけにはいかないからな」
 丹田に力を籠め、指先の感覚を意識から切り離した。
 己の身体の一部でありながら、別世界の別の存在だと認識させて、苦痛から逃れようと足掻いた。
 こんなに沁みるもの、泣き虫な短刀たちには使えない。今後これが実用化されるとしたら、もっと刺激が弱くなっているだろう。
 その分、効きが悪くなっているかもしれない。
 自分は幸運だったのか、不運だったのかと考えて、歌仙兼定は意味がないと首を振った。
「お小夜でなくて良かった」
 薬研藤四郎は薬効だけを追い求め、他は後回しにした。これを最初に試されるのが、他ならぬ自分で良かった。
 なにかと怪我が多いそこの短刀が、この凶悪な熱を体感せずに済んだのは、僥倖だ。そう思うことで己を慰めて、打刀は中指に圧し掛かった激痛に鼻息を荒くした。
 首を竦めて丸くなり、ぴくりとも動かない。
「歌仙?」
 まさか気を失ったのかと急いた短刀は、台所で見たよりも色が鮮明になった彼の傷口に眉を顰めた。
 本丸の医療担当の解説は、半分も理解出来なかった。
 あそこまで自信満々に豪語したのだから、明日の朝に傷が治っていなかったら、どうしてくれよう。
 その時は必ず復讐すると決めて、自信ありげな短刀を睨みつける。
「つうっ、く……ああ。これも、痛みに、耐える訓練だと、思えば」
 肘が擦れ合う近さにいた打刀は殺意を剥き出しにする昔馴染みに苦笑して、大粒の汗を顎に垂らし、負け惜しみを言って笑った。
 最後は気合いと根性で、耐え抜くつもりでいるらしい。精神論を持ち出された短刀は呆れかえり、ぴくぴくとひきつけを起こしている男の手に手を重ねた。
 患部には直接触れず、甲から手首までの一帯を撫でた。
 ゆっくり、優しく、慎重に。
 男が感じている痛みの一部でも引き受けようと、何十回となく繰り返した。
 出来れば代わってやりたいと願うが、叶わないのは最初から分かっている。こんなことをされても嬉しくないだろうと思いつつも、じっとしていられなかった。
 これくらいしかしてやれないのが悔しくて、やっているうちに虚しくなった。
「お小夜」
 それでも必死に我慢していたら、頭上から感極まった声が降って来た。
「歌仙、どうですか。具合は」
 名前を呼ばれ、間髪入れずに顔を上げた。
 土気色だった肌は、僅かながら血の気が戻っていた。流れる汗は相変わらずだけれど、険しかった表情は幾分緩んでいた。
 呼吸も僅かながら落ち着いており、それを証拠に、歌仙兼定はホッとした様子で微笑んだ。
「大事ないよ」
 本音を言えば傷だらけの手を握り締めてやりたかったけれど、怪我の悪化を懸念して、できなかった。
 薬研藤四郎お手製の薬に触れるのも、正直なところ、避けたかった。
 歌仙兼定にはやらせておいて、自分は臆病だ。戦うのは怖くない、傷つけられようとも気にしないと常から言っておきながら、目の前でのた打ち回られるのを見ると、心が竦んだ。
 打刀を実験台に使われて腹を立てているのに、それが自分でなかったのにほっとしている。
 なんと卑怯なのかと打ちのめされていた時に、優しく言われた。
「ありがとう。随分、楽になった」
「僕は、なにも」
 瞬時に否定して、小夜左文字はかぶりを振った。
 撫でる手の動きが止まった。その手の甲に左手を重ねて、歌仙兼定は表面を愛おしげになぞった。
 骨の隆起を擽り、窪みを爪で軽く削って、小指の爪を弄った。本物かと疑いたくなるような大きさしかないそれを包んで、自身の指を隣に並べ、比較して笑った。
「いいや。充分だよ」
 一時期に比べ、薬剤に起因する痛みは弱まっていた。
 罅割れの痛みを遥かに上回ってくれたので、元の痛みは恐ろしく軽く感じられた。ちょっとでも曲げようとしたらズキン、と電流が全身を駆け巡るが、骨と肉がどろどろに溶けていく幻はもう見えなかった。
 痛む部位を意識から切り離そうとしたが、無駄だった。傷ついているとしても己の一部分だ、否定出来るわけがなかった。
 そこに救いの手が差し伸べられた。
 ただ痛い、という認識しかなかった場所を何度も、何度も撫でられた。一極集中していた激痛がこれにより拡散して、体内だけでなく、空気中に流れていった。
 ひとりでじっと耐えているより、ずっと楽になれた。
 薬が与えてくる刺激に慣れた、という面は否定しないが、それが全てとは思えなかった。
 汗ばんだ肌には、髪が絡みついていた。それを払い除けてやって、小夜左文字は訝しげに打刀を見詰め返した。
「どんな感じだ?」
「出陣時に携帯しないことをおすすめするね」
 薬研藤四郎に感想を求められ、軽口で応じるだけの気力も復活した。
 真剣な面持ちで告げられた少年は一瞬惚けた後、成る程と頷いて腹を抱え込んだ。
 役目を終えた小瓶に蓋をして、聞き取った情報を書き記した紙を貼り付けた。改良すべき点がまだまだ多すぎると反省して、感謝を込めて頭を下げた。
「治らなかったら、復讐します」
「その必要はないって、信じてるぜ」
 ただし薬効についてだけは、彼は最後まで自信を失わなかった。
 きっぱり断言して、傷口に息を吹きかけている打刀を見る。その直後に睨んでくる短刀に視線を移して、相好を崩した。
「なんてったって、一番の特効薬がそこにあるわけだしな」
「……?」
 白い歯を見せながら告げて、薬研藤四郎は今一度、歌仙兼定を見た。
 小夜左文字が不思議そうにする中で、藤色の髪の打刀は顔を赤くして余所を向いた。

水上に水や氷や結ぶらん 繰るとも見えぬ滝の白糸
山家集 冬 555
2018/12/24 脱稿