錦の色を あらたむるかな

 小雨が降りそうな天気だった。
 空は薄灰色に濁り、所々で色が濃くなっていた。太陽は見当たらず、どこにあるのかも探さなければ分からない。ゴロゴロと雷は聞こえないが、いつ響いても不思議ではなかった。
「よい、しょ」
 だからと大急ぎで洗濯物を回収し、持ち主別に分類した後、各部屋へ届けに走った。自身と、自身に所縁を持つ刀の分だけを集めたつもりが、あれこれ紛れており、作業は思ったより手間取らされた。
 覚えのない肌着に首を捻り、所有者の名前を探して裏返したり、目を凝らしたり。
 度重なる洗濯で署名はどれも薄くなり、判読が難しくなっていた。
「あとは、ええと」
 そうやって紛れていた分に加え、江雪左文字、宗三左文字の分は配達が終わった。
「歌仙、いいですか」
 それでもまだまだ残る衣服で、両手が塞がっている。
 閉まっている戸を開けてくれるよう頼んで、小夜左文字は声を高くした。
「お小夜かい? どうしたんだい」
 即座に返事があって、間を置いて襖が開いた。すう、と引っかかることなく横滑りした戸の向こう側で、歌仙兼定が不思議そうに首を傾げた。
 草摺りや胴当ては外していたが、いつでも出陣できる格好だ。もっとも裾捌きが良くなるから、と愛用している、肌にぴったり密着する肌着は身に着けていなかった。
 衿元が大きく開いて、鎖骨の隆起がよく見えた。
 下から覗き込むように見上げて、短刀の付喪神は抱えたものを差し出した。
「雨が降りそうだったので」
 言って、天辺にあるものを取るよう促す。
 空色の瞳から短刀の手元に視線を移して、打刀の付喪神は嗚呼、と頷いた。
「取り込んでくれたのか。ありがとう、お小夜」
「どういたしまして」
 感謝を述べて、全部を引き取ろうと手を伸ばした。だが掴み取る直前でスッと逃げられて、歌仙兼定は眉を顰めた。
 半歩後退した小夜左文字は、怪訝にする男に向かって首を振った。横に二回、素早く往復させて、もっと良く見るようにと両手を揺らした。
「ああ。そういえば、そうだったね」
 彼が今日洗って干したものと、短刀が抱えている洗濯物とでは、量が一致しない。
 全てではなく、一部分だけだと言われる前に察して、打刀は控えめに微笑んだ。
 うっかりしていたと苦笑し、積み重ねられているものから何枚かを選んだ。山を崩さないよう細心の注意を払い、自分のものだと思えるものを引き抜いた。
 明らかに寸法が異なり、短刀のものだと分かるものから排除していく。
「おや、これは?」
「それは、篭手切のです」
 だが中には打刀より小さく、それでいて短刀より大きいものが紛れていた。
 手に取ろうとして躊躇した歌仙兼定に、小夜左文字は一瞬悩んでから答えた。
 篭手切江は最近顕現したばかりの脇差で、眼鏡に洋装姿の少年だ。古くは細川幽齋が所持し、稲葉家に移った後、奇縁があって再び細川家に舞い戻ったという来歴がある。
 この場に在るふた振りは過去に面識がある刀だが、三振りが同時に顔を揃えたのは、この本丸が初めてだった。
「そうか。彼の」
 顎を撫で、打刀が複雑な表情を浮かべた。
 仲が悪いわけではないが、どう付き合って行けばいいか決めかねている雰囲気に肩を竦めて、小夜左文字は話題を変えた。
「歌仙は、これで全部ですか」
「そうだね。助かったよ」
 斜めに傾いでいた洗濯物の山は、随分と小さくなった。
 これ以上崩れていかないように抱え直した短刀に、恰幅の良い打刀は相好を崩した。
 上機嫌に礼を言って、小さく頭を下げた。まだ配達が残っている少年は会釈を返し、敷居の前から退いた。
 くるりと身体の向きを変え、脇差部屋へ向かって歩を進める。道半ばで振り返れば歌仙兼定は室内に戻ったらしく、襖は閉められていた。
「篭手切、いるかな」
 いくつかの部屋の前を素通りし、少し広めの廊下に出て、角を曲がった。これまであまり訪れる事がなかった区画に足を向け、様子を窺いながら歩を進めた。
 刀剣男士の私室は刀種ごとに大きく、ざっくり分けられていた。
 短刀は短刀ばかりで集められ、脇差は脇差ばかりの区画があった。ただし男士の数が増え、二階部分が増築されて以降、そちらに入る刀は種別で分けられていない。
 脇差部屋は、たまたま空き室がひとつ残っていた。お蔭で篭手切江は急な階段を上り下りする必要がなく、良かった、と安堵していた。
 彼が顕現した直後、本丸内をあちこち案内していた時のことだ。
 その頃は彼と歌仙兼定の間に、奈落よりも深い『歌』に関する解釈の違いがあるなど、気付きもしなかった。
「降って来たかな」
 ぽつぽつと雨音がした気がして、軒下から中庭を見る。
 雨粒は細かいので、はっきりと見えない。ただ地面を覆い尽くしている雑草が、落下の衝撃を受け止め、ゆらゆら踊っていた。
 畑仕事に出ていた刀たちは、今頃大慌てで撤収していることだろう。
 農作物にとっては恵みの雨だ。あまり雨脚が強くならないよう願い、小夜左文字は休めていた足を動かした。
 素足で廊下を進み、目当ての部屋の前で首を伸ばす。
「あれ」
 中庭に面した障子は、一尺弱ほど開いていた。
 留守にしているのかと真っ先に疑ったが、そうではない。隙間から覗きこんだ短刀は、畳に転がる細い腕を見つけて、怪訝に眉を顰めた。
「篭手切?」
 だが呼びかけても返事はなく、次第に強まっていく雨音だけが耳朶を掠めた。
 首を右、左と交互に揺らして、小柄な付喪神は抱えた荷物を握りしめた。
「入ります」
 嫌な予感がしたが、そんなことは起こり得ない。
 時間遡行軍が本丸の結界を突破した事例はなく、忍び込んで悪さを働いたとは思えなかった。
 ならば具合が悪いのかと懸念して、障子を横に押し開いた。言い訳として声を張り上げ、洗濯物は右腕一本で抱きしめた。
 真っ直ぐ肘を伸ばした左手で、楽に通れるだけの隙間を確保した。勢い勇んで敷居を跨ぎ、畳の縁を踏まないよう、二歩、三歩と突き進んだ。
 そして。
「寝てる……?」
 ご丁寧に布団の上で横になっていた少年の傍らに立ち、小夜左文字はがっくりと肩を落とした。
 特に何もしていないのに、どっと疲れが押し寄せて来た。こめかみの辺りに鈍痛が走り、馬鹿な想像をしたものと、数秒前の自分を悔やんだ。
 篭手切江は敷き布団の上で、掛け布団は被らずに眠っていた。
 傍には角形の座卓があり、文字で埋め尽くされた帳面が広げられた状態で置かれていた。硬筆が帳簿の真ん中に転がって、大人しく出番を待っていた。
 歌作に励み、頭を捻り過ぎて疲れたのだろう。隅に置かれた茶碗は空で、菓子の包み紙らしきものが数枚、几帳面に畳んだ上で捨てられていた。
 掛け布団を用いなかったのは、ちょっと仮眠程度に考えていたからだろう。
 けれど短刀がこの距離まで来ても目覚めないところからして、眠りはかなり深そうだった。
「起こすのは、可哀想かな」
 寝息は穏やかで、落ち着いていた。くうくうと一定間隔で響き、表情は健やかだった。
 起きている時より幾ばくか幼く見えるのは、彼の顔に、黒縁の眼鏡がないからだろう。
 日中は常に身に着けているものも、さすがに眠る時は外していた。修正だらけの帳面の左下に畳んで置かれていたので、最初から休憩するつもりで横になった証拠だった。
 書き物をしている途中で睡魔に負けたのなら、装着したままになって然るべきだ。
 ぐうたらで、よく座敷で昼寝している明石国行の例を思い出して、小夜左文字は苦笑した。
「ここに、置いて行きます」
 膝を折って屈んで、抱えていた洗濯物のうち、脇差の分を選り分けた。注意しながら寸法を確認し、短刀の着衣とで、山をふたつに増やした。
 今朝自分で洗った枚数は覚えているが、篭手切江のものがこれで全てなのかは、あまり自信がない。起きた後、本人に確認してもらうことにして、彼は書き置きを残そうと目を泳がせた。
 さすがに帳面を破るのは憚られた。ならば、と頭を切り替えて、小夜左文字は座卓横の屑入れに手を伸ばした。
 膝立ちで近付き、天辺に重ねられていた菓子の包み紙を取った。薄い浅黄色の表面をサッと払って、折り目を伸ばした。
 くしやくしやに丸められていたら使い物にならなかったが、この程度なら問題ない。
 再利用できるものは、使わないと損だ。勿体ない、の精神で首肯して、彼は新品同然の座卓ににじり寄った。
 面積の大半を占めている帳面を押し退けて隙間を作り、そこに浅黄色の包み紙を置いた。続けて筆を探し、目を泳がせた。
 篭手切江は毛筆ではなく、墨の補充が必要ない硬筆を愛用していた。
 当然卓上には、墨や硯の類は置かれていない。あるのは細長い硬筆一本だが、小夜左文字はこれを使ったことがなかった。
「お借りします」
 あれば便利なのは、理解している。けれど慣れ親しんだ毛筆に、スッと胸に染み入る墨の匂いも、なかなかに棄て難かった。
 果たして、自分に扱えるだろうか。
 好奇心に負けて手を伸ばし、彼はいつもの調子で筆先を紙面に押し付けた。
「あれ、出ない」
 だが見よう見まねで動かしたところ、洋墨が出なかった。砂に指でなぞったような跡だけが残り、判読は難しかった。
 脇差はいつもこの筆で、すらすらと文字を書いていた。内蔵された洋墨が尽きたのかと思案するが、透明な筆本体の内側には、細長い黒の塊がたっぷり残っていた。
「どうしてだろう」
 上下左右に揺り動かしても、硬筆は反応しなかった。まさか筆先が内部に収納されており、反対側の尻を押さないと出て来ない仕組みだなど、短刀は夢にも思っていなかった。
 首を捻り、不可思議な道具に疑問符を並べ立てる。
 もしやこれには、篭手切江でないと使えない細工が施されているのか。そんな大それたことまで考えて、彼は尊敬の眼差しを傍らに投げた。
「う、ん……うう?」
 そんな情熱的な視線に反応してか、眠っていた脇差が呻いた。
 布団の上で顔を顰め、首を左右に振ったかと思えば、弛緩していた体躯をぴんと伸ばした。仰け反り気味に背中を浮かせ、直後に沈め、畳にはみ出ていた右腕を額に重ねた。
 綺麗な指で黒髪を掻き上げ、窄めた口から息を吐く。
 数秒遅れで瞼がゆっくり押し開かれ、隠れていた瞳が露わになった。
「あ……」
 そのつもりはなかったのに、起こしてしまった。
 申し訳ないことをしたと恐縮し、首を竦めて、小夜左文字はなにも書けていない包み紙を握り潰した。
 証拠隠滅する必要はなかったのだが、無意識にそうしていた。巧く扱えなかった硬筆を帳面に転がして、山盛りだった屑入れを脇へ追いやった。
「あ、あれ。うー……?」
 一方で脇差は何度も瞬きを繰り返し、焦点定まらない瞳を左右に泳がせた。
 膝を折り、ゆっくり上体を起こした。猫背になって後頭部を掻き回し、ぼんやりしたまま動かなかった。
 意識が覚醒しきっていないらしく、双眸は虚ろだ。口は半端に開いて、間抜けも良いところだった。
「篭手切?」
 小夜左文字のすぐ上の兄である宗三左文字も、寝起きはこんな感じだ。しばらくぼうっとして、怠そうだ。放っておくとまた眠ってしまうので、布団から追い出すのが大変だった。
 長兄である江雪左文字は、起床と同時に活動を開始してしまうくらい、目覚めが良い刀だ。小夜左文字もどちらかといえば彼寄りで、半覚醒のままぐずぐずすることはなかった。
 篭手切江の世話は、刀種を同じくする脇差たちが担ってくれていた。朝食前に起こす役目も、物吉貞宗や鯰尾藤四郎たちに任せっきりだった。
 こんな風になるのかと、新鮮な気分だ。
 知らなかったと感嘆の息を吐き、短刀は居住まいを正した。
 畳に正座して、様子を窺い、反応を待つ。
 目覚めたばかりの少年は相変わらずぼんやりして、上半身をぐらぐら揺らしていた。
 安定せず、いつ崩れるか分からない。宗三左文字のようにばたりと倒れ、瞬時に寝息を立てる芸当を披露されるのかと、どきどきだった。
 興味深く観察して、息を呑んだ。
 緊張で固くなっている短刀の気配が伝わったのか、篭手切江が不意に顔を上げた。
「……んん?」
 眉間に浅く皺を寄せて、瞳を真ん中に集めた。目を眇めて睨むように見つめられて、小夜左文字は反射的に竦み上がった。
 許可を得ずに部屋に入った件を責められると危惧し、恐怖を抱いた。開きっ放しだったとはいえ、帳簿をちらりと盗み見てしまったのを詰られるのでは、と懸念した。
 朗らかに笑っていることが多い脇差が、いつになく顰め面でこちらを見ている。
 あまりにも普段と異なる雰囲気に、冷や汗が止まらなかった。
「あ、あの」
 洗濯物を届けに来たが、眠っていたので許しを得る前に入った。
 本当にそれだけで、部屋を荒そうだとか、そんなことは一切考えていない。
 身の潔白を証明すべく、意を決して口を開く。
 その声に右の眉を持ち上げて、篭手切江が渋面を解いた。
「なんだ。小夜でしたか」
 ホッとした様子で呟いて、前傾姿勢で迫っていたのを改め、布団に座り直した。寝ぼけ顔はどこかへ去り、虚ろだった双眸には光が宿っていた。
 にこやかに微笑んで、嬉しそうに白い歯を覗かせる。
 そのあまりの変貌ぶりに唖然として、小夜左文字はぽかんと目を丸くした。
「こて、ぎり?」
「ああ、すみません。眼鏡を取ってもらえますか」
「めがね」
「それがないと、なにも見えなくて」
 絶句していたら、肩を竦めた脇差があらぬ方向を指差した。恐らく座卓を示したつもりなのだろうが、逆とまではいかないものの、大幅に方角がずれていた。
 そうなった原因は、彼の言葉ですぐさま判明した。大いに納得して、短刀は鷹揚に頷いた。
 以前から本丸に住する明石国行や博多藤四郎も、眼鏡を日々着用していた。これが失われると視力が著しく減退し、機能不全に陥るとの話は、頻繁に耳にしていた。
 巴形薙刀はそこまで酷くはないけれど、亀甲貞宗は眼鏡がないとてんで役に立たない。
 篭手切江も彼らの仲間だと思い出して、小夜左文字は言われるまま、眼鏡に手を伸ばした。
「どうぞ」
 特に重要だ、と以前誰かに教えてもらった、硝子部分には触れずに持ち上げる。
 黒縁をそっと挟んで差し出せば、脇差は取りに来ず、ここに置け、とばかりに両手を並べた。
「ありがとう」
 受け取ると同時に恭しく頭を下げ、感謝を表明し、慣れた調子で指を動かした。折り畳まれていた蔓を広げ、寸分の狂いもなく、正確に装着した。
 何百回、何千回と繰り返して来たからこそ、出来る芸当だ。
 何も持たないまま、眼鏡を掛ける動きを真似て、小夜左文字は見慣れた顔に戻った脇差に苦笑した。
「本当に、見えないんですか」
 彼も、彼の兄弟も眼鏡を必要としないので、その感覚が分からない。
 しかも小夜左文字は短刀で、闇に強い。ほんの僅かでも光源があれば大丈夫なので、尚更理解し難かった。
 ようやく短刀に真っ直ぐ向き直った少年は、純粋無垢な問いかけに頬を赤らめ、照れた様子で首を掻いた。
「完全にじゃないけど、まあ、そうだね」
「もし戦場で、なにかの拍子に失ったら、どうするんです」
「それは――……その時次第かなあ」
 視力が弱いのは、欠点だ。間違っても、利点にはならない。
 もし彼と同じだけの実力の刀があって、どちらかしか選べないとなれば、この件が判断基準になるかもしれない。万が一乱戦の中で眼鏡を紛失したら、篭手切江はその時点で戦えなくなるのだから。
 現時点では、そこまで厳しい状況に追い込まれていないから、彼は無事でいられる。
 小夜左文字は今初めて気にしたが、脇差自身はずっと前から頭の片隅にあったのだろう。
 厳しい問いかけには曖昧に返して、黒縁眼鏡を引き抜いた。
 数回瞬きをして、伏していた視線を持ち上げた。
 目が合ったのか、そうでないのか判断し辛い。脇差の眼は常に動き回り、なかなか安定しなかった。
 眉間の皺が一気に深くなり、本数も増えた。
 懸命に焦点を合わせようとしているのが伝わってきて、小夜左文字は成る程、と頷いた。
 彼自身、遠くのものを見ようとして、顔が険しくなることがあった。今の脇差は、それと同じ状況なのだ。
 こんなにも近くにいるのに、輪郭が滲み、掠れ、はっきりとした像を抽出できないでいる。全体的に靄がかかって、ぼんやりして、深い霧の中に迷い込んだ気持ちでいることだろう。
 過去に聞き齧った情報を頼りに想像して、一種の憐憫を抱いた。
 眼鏡を本来の位置に戻した篭手切江は、明らかにホッとした顔をしていた。
 見えないことの不便さは、小夜左文字も心得ている。彼は過去、敵の攻撃を受けた際に瞼を切ってしまい、出血で目を開けられなくなったことがあった。
 あの時は片目だけだったが、遠近感が掴めず、苦労した。燭台切光忠はいつもこんな視界で戦っているのかと知って、一緒に出撃することがあれば、それとなく彼の死角を守るよう行動するようになった。
 その不便さが両目ともに現れるとなると、なかなかに厳しい。
「顕現時の、不具合でしょうか」
「どうなんだろうねえ」
 本当は視力に問題などなく、時の政府側の不手際が原因だとしたら、厄介だ。
 けれど篭手切江は、顕現した時点ですでに眼鏡を装備していた。他の刀剣男士もそうだから、これが彼本来の視力なのだろう。
 現に手入れ部屋に入っても、見える世界になんら変化は訪れていない。
 真面目に思案している短刀に肩を竦めて、脇差は部屋に増えていたものに意識を傾けた。
「届けてくれたんですか。すみません」
「雨が、降ってきたので」
「わざわざ、ありがとう。助かりました」
 足元にあった洗濯物の山に気が付き、そちらに上体を倒した。小ぢんまりしている方ではなく、少し大振りな方に手を伸ばして、一番上にあったものを膝に広げた。
 真新しく、どこも擦り切れていない肌着を確認して、裏側に小さく書きこんだ名前に相違がないかを確かめる。
 やがて彼はうん、と頷き、広げたものを雑に片付けた。
「全部、ありましたか」
「一枚足りない気がするけれど、いいよ。あとで、自分で探します」
 彼が今日、どれだけの洗濯物を出したのか、短刀には分からない。
 きちんと揃っているか問い質した小夜左文字に答えて、脇差の少年は皺が寄っている肌着を撫でた。
 干し方が甘かったのだろう、あまり綺麗に乾いていない。そのうち堀川国広辺りに教えを請おうと決めて、行李に片付けようと立ち上がった。
「小夜?」
 用件は済んだのに、短刀は座ったまま動かなかった。
 まだ何かあるのか首を傾げれば、藍色の髪を左右に揺らして、小夜左文字が背筋を伸ばした。
「そんな硝子板一枚なのに、不思議です」
「あはは」
 神妙な顔をしているからどうしたのかと思えば、眼鏡の構造が気になっていたらしい。
 真剣に言われて、思わず苦笑が漏れた。肩を小刻みに揺らして、篭手切江は伸ばしたばかりの膝を折った。
 片付けは後回しにして、短刀の前に座り直した。抱えていたものを布団に放り出し、空にした手で眼鏡を外して、興味津々な少年の顔へと近づけた。
「なんだか、……ぐにゃぐにゃして見えます」
「あんまりじっと見ると、頭が痛くなるよ」
「篭手切は、それで平気なんですか」
「うん。どうやら僕の身体は、自力で焦点を結べないみたいなんだ」
 短刀なら難なく出来ることも、脇差には難しい。だから道具に頼るしかなく、手放せなかった。
 確かに戦闘では不利益を被るけれど、これがある限り、他の刀に後れを取ることはない。
 自信を持って断言した彼に一瞬ぽかんとして、小夜左文字は直後に破顔一笑した。
「では、あなたと出陣した時は、第一にあなたの眼鏡を守るようにします」
「あー……それは、ありがとう」
 身体が傷つくより、眼鏡を失う方が困る、と思われてしまった。冗談なのか、本気なのかよく分からないひと言に顔を引き攣らせ、篭手切江はひとまず、感謝を述べた。
 できるなら守られる事がないようにしたいが、今の実力差では難しい。
 修行を終えて久しい短刀と、顕現したばかりの脇差とでは、実戦経験の差は大きかった。
 どう考えても、庇われるのは自分だ。
 頼もしい限りの短刀に鼻の頭を掻いて、彼はまだなにか言いたげな少年に首を捻った。
「なに?」
「完全に見えない、というわけでは、ないんですよね」
「うん。一応ね」
 ただ単に視力が弱いだけで、盲目なのではない。眼鏡に頼らなくても、色や形は判別が可能だ。ある程度距離を詰めれば、裸眼でも輪郭を描き出せた。
 寝起きで小夜左文字を睨んでいたのも、見えないなりに見ようとしていただけ。
 決して機嫌が悪かったわけではない。教えられてホッとして、短刀の付喪神は新たな好奇心に胸を高鳴らせた。
「だったら、どれくらいでなら、見えるんですか?」
 他の刀が相手だったら、興味を抱いても、実際口にすることはなかっただろう。
 過去に一時期とはいえ、同じ主の下にあった刀だからこそ、訊けた。
 わくわくするのを止められずにいる短刀に呆気にとられ、篭手切江は間を置いて苦笑した。
「そうですねえ」
 質問された以上、答えてやらなければならない。一瞬遠くに視線を投げて、彼は眼鏡の蔓に指を掛けた。
 ゆっくり引き抜き、左から順に折り畳んだ。硝子の表面を汚さないよう注意しつつ持って、座って待つ少年に向かって上半身を傾がせた。
 目に映る世界は輪郭がぼやけ、色が滲んでいた。大雑把な形は捉えられるけれど、しっかり見ようとすればするほど、境界線がぐにゃりと歪んだ。
 そんな中で躍起になって、眉間に皺が寄った。ぐいぐい迫る脇差の顔が稀に見る険しさなのに臆して、小夜左文字は自然と逃げ腰になった。
「ううん……」
「篭手切」
 お蔭で距離が広がって、折角見えそうだったものが遠退いた。
 喉の奥で唸った彼に短刀はハッとして、尻に力を込め、両手を膝に集めた。
 これ以上は下がらないと決意を表明し、瞼をぴくぴく痙攣させている脇差に向き直った。
「だいたい、これくらい……なら、なんとか」
 互いの前髪が交錯し、吐く息が肌を掠めた。
 額が擦れる近さまで迫られて、短刀は囁き声に騒然となった。
「こんなに、ですか」
「そう。だから眼鏡が曇る風呂場は、大変なんだ」
 ここまで近付かなければはっきり見えないとは、思いもしなかった。なんと不便なのかと驚いて、風呂場での苦労を聞いて笑いたいのを懸命に耐えた。
 眼鏡がないと視界を確保できないのに、肝心の眼鏡が曇ってなにも見えないというのは、滑稽極まりなかった。
 湯気で溢れかえる浴室では、小夜左文字でさえ視界がぼやけることがあった。
 眼鏡をしても、していなくても、なにも見えない。
 刀剣男士ごとにこうも個体差があると教わって、新鮮だった。
「手を繋いであげましょうか」
「それは助かるな」
 誘導が必要なら、手伝おう。馬鹿にするでもなく、真顔で言った短刀に、脇差は嬉しそうに相好を崩した。
 至近距離で見つめ合ったまま、どちらからともなくクスクス笑う。
 よもやその光景を第三者が眺めているとも知らず、暢気に時を過ごした。
 数百年ぶりの再会を楽しんで、昔に戻った気分で額を小突き合わせた。
 直後だった。
「うわっ」
 突然、篭手切江の視界が白いもので覆われた。側頭部にぶつかって、ぱっと広がり、黒髪に降り注いだ。
「い、た」
 弾みで頭突きを喰らって、小夜左文字が仰け反った。ごちん、と骨越しに響いた衝撃に脳を揺らし、咄嗟に右目を瞑り、左目を見開いた。
 がちゃん、と鳴ったのは、脇差の眼鏡が落ちた音だろう。割れていなければいいが、と頭の片隅で考えて、短刀は膝先に沈んだ真っ白い肌着に眉を顰めた。
 なにが起こったのか、すぐに理解出来ない。
 左右に揺れ動く視界を何とか安定させて、彼は荒い息を吐く男に視線を向けた。
 脇差部屋を前にして、打刀が仁王立ちしていた。その額に角の幻が見えて、小夜左文字は驚き、目をぱちくりと見開いた。
「歌仙」
「歌仙ですって?」
 ぶつけられた布自体は痛くなかったが、その後が少々痛かった。蹲って額を押さえた脇差は、膝から落ちた眼鏡を探し、右手を彷徨わせた。
 あれがないと、碌に見えない。配色が鮮やかな男の姿も、ぼんやり滲んで、判然としなかった。
「なにをしているんだ、君たちは」
 苦虫を噛み潰したような顔をしていたら、怒号が部屋中に轟いた。床を踏み鳴らす音が喧しく続いて、ドスン、と激しい振動が足元から襲ってきた。
 他ならぬ打刀が、畳敷きの部屋に入った証拠だった。そのままずんずん近付いて来る。殴られる未来を予見して、篭手切江は身を竦ませた。
 しかし。
「お小夜、お小夜。ああ、なんてことだ。君がこんな男に誑かされるなんて。僕のお小夜が、ああ、なんてことだ。お小夜が穢れてしまった」
 彼は派手な身振りを交え、大袈裟に嘆いた。濡れてもいない目尻を袖で拭って、よよよ、とよろめき、膝を折って崩れ落ちた。
 勝手に哀しみながら身を捩って、呆気にとられて凍り付く短刀にしがみついた。縋りつき、長い袂を引き寄せて、絶句する小夜左文字の顔をごしごし擦り始めた。
 柔らかな絹布なので肌触りは抜群だが、なにせ打刀は力が強い。
「い、たい。痛いです、歌仙。止めてください」
 摩擦に負けた皮膚が悲鳴を上げた。唇が裂ける予感に首を振って、短刀は無体を働く男を押し返した。
 ピリピリする箇所を庇い、踏み潰された白い肌着にも視線を送った。比べたわけではないのではっきりとはしないが、歌仙兼定が投げつけてきたそれは、打刀には少々小さかった。
 届けられた洗濯物をしっかり吟味した結果、脇差の分が混じっていた。
 それで届けに来たのだと察して、小夜左文字は顔面蒼白の男に眉を顰めた。
「そもそも、穢れたって、なんですか。失礼ですよ、歌仙。撤回してください」
 暴力を受ける危険が去ったと知り、篭手切江も気勢を上げた。左胸を叩いて捲し立て、乱入して来た打刀を責めた。
 だが直後、彼はビクッと身を竦ませた。振り返った男の気配があまりにも禍々しくて、圧倒されて息を呑んだ。
「な、……なんですか」
「君、たちは」
 辛うじて残った勇気を振り絞って問えば、憤怒に彩られていた歌仙兼定の表情が急に歪んだ。
 今にも泣き出しそうな姿に、脇差は短刀と顔を見合わせた。いったいぜんたい、どういうことかと首を捻って、百面相が忙しい男に肩を落とした。
「酷いよ。あんまりだ、お小夜。君まであんな低俗な、大衆向けに落ちてしまうつもりかい。僕と一緒に、雅やかな和歌の世界を広めようと、約束したじゃあないか。僕を置いていかないでくれ。君だけが僕に理解を示してくれた。君までいなくなってしまったら、僕はどうすればいいんだ」
 その歌仙兼定は、今度は両手で顔を覆い、わっと喚いた。涙こそ流していないけれど、心の中で泣きじゃくり、鼻を啜って唇を噛み締めた。
 なにやら言い始めた彼に、篭手切江は「は?」と目を丸くした。打刀がいる辺りを指差しながら短刀を見れば、小夜左文字は間髪おかずに手を横に振った。
 そんな約束、した覚えがない。
 眼差しと仕草で返事をし、脇差には見えていないと気が付いて、落ちていた眼鏡を拾ってやる。
 受け取った篭手切江は素早く装着して、大きな体を小さく丸めた打刀に頬を引き攣らせた。
「前々から思っていたんですが。歌仙と小夜って、どういう関係ですか」
「まだ分かっていなかったのか。僕とお小夜は、共に雅さを極めようと誓った、唯一無二の存在だ。貴様のような下賤な風俗に染められた奴が、口を利いて良い相手ではないぞ」
「違います」
「お小夜おお?」
 途端に打刀がガバッと身を起こし、一方的に吠え散らす。けれど最後の最後で冷たく突き放され、否定され、信じ難いと言いたげな形相で四肢を戦慄かせた。
 絶叫が部屋中に轟き、開けっ放しの障子から外へ飛び出していった。
「冗談はよすんだ、お小夜。あんなにも、あんなにも情熱的に、夜通し語り合ったじゃないか。忘れたのかい。忘れてしまったのかい。あの燃え上がるような、白熱した議論を。歌を介して想いをぶつけ合った、あの素晴らしい日々を!」
「なんのことを言っているのか、分かりません」
「そんなあああ」
 脇差が追及する、歌と踊りを組み合わせた歌唱を散々貶されたが、反論する気が失せた。
 少し可哀想になってきた短刀と打刀のやり取りに失笑して、篭手切江は肩を竦めた。

2017/11/1 脱稿