月をば見るや さへさみの神

「はい」
 名前を呼ばれた気がして、小夜左文字は顔を上げた。
 返事をし、腰を捻って振り返る。しかし呼び声がしたはずの障子に影はなく、引き手に指を掛けて入ってくるもの自体が存在しなかった。
 誰もいない。
 きょとんと目を丸くして、彼は首を捻り、立ち上がった。
 空耳を疑いつつも、確かめずにはいられなかった。本当に呼ばれたのだと、心のどこかで頑なになっていた。
 しかし障子を開けて覗き込んだ縁側にも、やはり人影は見当たらなかった。
 西日が射して、軒を支える柱の影が長く床に伸びていた。鮮やかな夕焼けが空の半分近くを埋めており、反対側からは静かに夜が迫ろうとしていた。
 塒へと急ぐ烏の鳴き声が空虚に響き、どこからともなく風鈴の音が流れてくる。
 一枚絵として充分成立する美しい景色を眺めて、短刀の付喪神は俯き、目を閉じた。
「そうでした」
 ぽつりと零し、開けたばかりの障子を閉めた。
 パタン、と左右を隙間なく合わせ、四角く区切られた格子にそっと寄り掛かった。
 そもそも彼の名前を呼んだ男は、今現在、屋敷にいない。出陣しているのではなく、遠征任務に出ているのでもなく、ましてや万屋に買い物に行っているわけでもなかった。
 馬小屋を探しても、畑を覗いても、茶室にも、どこにもいない。
 たった一振りで、己の在り様を見定めるべく、過去へと旅立っていた。
「兄様の時も、だけど」
 たかが数日、されど数日。
 じき帰ってくると分かっていても、万が一の可能性を考えると足が竦み、途端に動けなくなった。
 本丸に暮らす刀剣男士にとって、彼の不在はほんの僅かな時間でしかない。しかし過去を巡る修行の旅は、時として数百年に及ぶこともあった。
 小夜左文字はといえば、短くなかったが、長くもなかった。
 とある左文字の短刀に『小夜』という号を与えた男に寄り添い、晩年の喋り相手を務めた程度だ。
 ひとつの時代の終わりを陰で支え、ひと時代の栄枯盛衰を見送り、新たな時代の始まりを予見して、この世を去った男だ。
 なかなかに業深い男だった。戦上手で、教養深く、文化人としての評価もすこぶる高い人物だった。
 色々な話をした。戦場での武勇伝や、和歌に対する心のありようや、茶の道に対する薫陶や。
 所持する刀にまつわる逸話など、など。
 悪い男ではなかった。
 大勢の人間を手に掛け、戦に巻き込みもしたが、それ以上に多くから慕われていた。
 当時としては珍しく、長生きだった。
 戦場ではなく、床の上で死んだ男だった。
 彼を殺したのは、天だ。寿命という形で名付け親を喪った小夜左文字は、彼のための復讐を許されなかった。
 ならば自分は、この復讐に対する渇望を、どこに向けたらいいのだろう。
 考えて、悩んで、選んだのが審神者だった。審神者の目的である、時間遡行軍の討伐と歴史修正主義者の殲滅こそが、復讐を運命づけられた小夜左文字たる短刀の在り方だと、結論付けた。
 そう告げた時、審神者がどんな顔をしていたかは、覚えていない。
 たとえ拒絶されようとも、彼にはそれ以外、出来ることがないのだ。
「歌仙」
 短刀が新たにした決意に、江雪左文字は黙って抱きしめて来た。
 宗三左文字は静かに頷き、淡く微笑んだ。
 そして歌仙兼定は、少し間を置いて「そうか」とだけ口にした。
 あの時の打刀の表情は、言葉に言い表し難いものだった。笑っているような、泣いているような、怒っているような、寂しがっているような、よく分からないものだった。
 思い出すたびに違う感情が湧いてきて、どれが正しいか判断がつかなかった。仕方なく当の刀に問いかけてみたこともあったが、歌仙兼定は「忘れた」と言って、相手にしてくれなかった。
 今度は小夜左文字が、彼が得た決意を聞く側だ。
 どんな風に出迎えて、なんと言って長旅を労えばいいだろう。
 行き先は、ひとつしか思いつかない。けれど本当に、小夜左文字が思う相手のところへ行ったかどうかは、歌仙兼定が帰ってからでないと分からなかった。
 審神者には、一通目の手紙が届いていた。
 けれど小夜左文字は、それに目を通していなかった。
 彼が旅先で見た光景や、抱いた思いは、無事に帰還した後で直接聞く約束をしていた。
 何時間でも、何日でも、満足するまで語ってくれて構わない。
 だからちゃんと帰ってくるよう、約束した。
 懇願した。
 大きな掌に額を当てて、繰り返し心の中で祈った。
 大袈裟だと彼は笑っていたけれど、旅装束を整えた姿を見ただけで、小夜左文字は胸がいっぱいだった。不安で押し潰されそうで、内心は恐怖で凍り付きそうだった。
 帰って来なかったら、どうしよう。
 もう二度と会えなかったら、どうしよう。
 そういう風に考え易い性質に定められてしまったからなのか、悪い方向にばかり想像した。
 旅先で事故に巻き込まれたら。
 時間遡行軍と鉢合わせしたら。
 不審人物として捕縛されたら。
 意図せずして歴史の改変を行ってしまい、検非違使に追われる事になっていたら。
 旅先で様々な風流に触れ、歴史修正主義者との戦いなどつまらない、と刀剣男士としての役目自体を放棄してしまったら。
 それは小夜左文字が修行の旅に出ている間、本丸に残された仲間が危惧していた内容とほぼ一致した。
 何度経験しても、慣れるものではない。ましてや昔から交流がある刀なら、尚更だ。
 ほかのどの刀よりも歌仙兼定を知っているからこそ、怖くなった。
 彼は歌に傾倒し、文人を気取っている刀だが、前の持ち主の特徴を過分に引き継いでおり、その実戦好きだ。血の気が多く、短気で、気まぐれで、我が儘だった。
 口にすることは稀だが、前の主の奥方も、大切に思っていた。
 もし修行先で、あの女性の臨終の場に立ち会おうものなら、炎をかいくぐっても助けに行くのではなかろうか。
 遠く離れた地に在った前の主に代わって、自分が彼女を助けるのだと、そんなことを言い出しかねなかった。
「大丈夫、です」
 懸案事項だらけだ。彼一振りで修行に行かせるのは、本当は反対だった。
 しかしあの刀は、小夜左文字が出会ったばかりの頃のような、分別のつかない未熟な付喪神ではない。
 なにも心配は要らない。問題ない。時が来ればちゃんと帰ってくる。
 信じてやるよう自分自身に語り掛けて、短刀は読みかけの本に手を伸ばした。
 だが紙面を眺めていても、記されている文字がまるで頭に入って来ない。目が滑って、内容が全く読み取れなかった。
 同じ頁を四半刻近く眺め続けて、諦めて表紙を閉じた。
 障子の外を覗けば、西の地平線は燃えるような茜色に染まっていた。
 部屋の中がすっかり暗くなっていると、今頃認識した。短刀は闇に強く、少々の光があれば事足りる。お蔭で日没間近だというのを、すっかり忘れていた。
「そうだ。夕餉だ」
 今日はほとんど動いていないのに、時間になれば腹が減る。
 戦う道具として、人間に似た器を与えられたまでは理解出来た。しかし斬られれば傷つき、血が流れ、一定時間の睡眠を必要とし、食事を強要する必要はなかったのではと、思わずにいられなかった。
「不便だね」
 誰かと一緒にいる間は意識の外にあったことが、不意に目の前に降って来た。
 ひとり呟き、肩を竦めて、小夜左文字は夜が迫ろうとしている縁側に出た。
 左手で障子を閉め、小さな庭を挟んで向かい側の部屋を窺い見る。
 松の枝に邪魔されて半分隠れているその障子は、昨日から一度も開いていなかった。
「歌仙がいないのって、考えてみたら、初めてだな……」
 これまでにも遠征で数日帰らないことはあったが、任務が終わりさえすれば帰ってくると確定していた。
 今回は、そうではない。歌仙兼定の意志ひとつで、どうとでもなるのだ。
 陰鬱な表情を浮かべ、爪先立ちを止めた。踵を下ろし、目線を本来の高さに戻して、食事を受け取るべく台所に向かおうとした。
「ああ、小夜。よかった」
 その途中、眼鏡の脇差と遭遇した。主な設備を揃えた本丸の母屋と、刀剣男士が暮らす居住区を繋ぐ長い渡り廊の入り口で、前を塞ぐ格好で両手を広げられた。
 こちらを見るなりホッとした顔をされて、短刀は思わず眉を顰めた。何が「良かった」なのか分からず怪訝にしていたら、篭手切江は深呼吸して、左胸を撫でた。
「夕飯なので、呼びに行こうかと」
「嗚呼……」
 本丸に集った刀剣男士は、すでに七十振りを越えていた。
 拡張に拡張を重ねた居住区は二階建てとなり、部屋数は初期の倍近くになった。別々の部屋にいても気配は伝わり、日中は雑多な賑わいに満ちる空間は、知らぬうちにひっそり静まり返っていた。
 食事時になり、大半が食堂を兼ねている座敷に移動済みだった。
 そんな中で小夜左文字が姿を現さないので、心配した脇差が迎えに来てくれたのだ。
 実際のところ、短刀は自分で夕餉の存在を思い出した。けれどぼんやり過ごす時間がもう少し長かったら、まだ部屋で悶々としていたかもしれない。
 心遣いに感謝して、彼は小さく頭を下げた。衿元にやった右手をぎゅっと握って、案外平気そうな少年との距離を詰めた。
「歌仙が心配ですか?」
「篭手切は、平気そうです」
「そう見えますか?」
「はい」
 横に並ぶ直前、囁くように問いかけられた。小夜左文字は視線を動かさず、前だけを見て言い返した。
 右足を軸に身体を反転させ、篭手切江が自身を指差しながら尚も質問を繰り出す。
 ここでようやく彼を見上げて、小夜左文字は真っ直ぐ頷いた。
 この脇差は、小夜左文字や歌仙兼定と同様に、戦国大名細川家に所縁を持つ刀だ。歌って踊れる刀剣男士を自称して、日々訓練を欠かさなかった。
 歌に関する解釈が歌仙兼定とは全く合わず、その点で言い争いになることもあるが、なんだかんだで一緒に居る機会は多かった。
 その打刀が旅に出たのに、脇差は普段と変わらないように映った。
「小夜は、歌仙が心配なんですね」
 終わったと思った会話を、ぶり返された。
 回答を保留していたら、篭手切江はなぜか満足そうに頷いた。
「大丈夫ですよ」
 自分はちゃんと分かっている、という雰囲気が読み取れて、不愉快だ。なにを根拠にしてか、太鼓判を押されて、嫌な感情がむくむくと膨らんだ。
 こんなことで黒い澱みを増幅させたくないのに、うまく制御出来ない。
 はっ、と開いた口を次の瞬間には閉じて、小夜左文字は奥歯を強く噛み締めた。
 顎を軋ませ、溢れ出そうな呪詛の数々を堰き止めた。磨り潰し、飲み込んで、表にしないよう心掛けた。
 それでも、全てを押し留めるのは難しかった。
 口を噤んで顰め面を作った少年に、脇差は眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。
「私は、小夜が修行に出ていた時の歌仙を、直接は知りませんが」
 そうして、左手を短刀の肩手前で空振りさせた。頭か、身体のどこかに触れようとしたのを寸前で止めて、行き場をなくした手は腰に押し当てた。
 視線は交錯しない。小夜左文字はちらりと彼を窺って、続きを期待しつつ、右足を前に繰り出した。
 動きを察し、篭手切江も歩き出した。歩幅を揃え、ゆっくりと、時間をかけて長い渡り廊を潜った。
「歌仙は何度か、誰もいないところで振り返ったり、立ち止まってじっと見たりしていたそうです」
 彼が語る在りし日の歌仙兼定の姿を想像するのは、とても容易かった。
「……それで?」
 美しいものや、とても珍しいものを前にした時など、あの打刀は子供のようにキラキラ目を輝かせた。
 特に面白みのない、むしろ醜悪と切り捨ててしまいたくなるものに対しても、好奇心旺盛だった。
 病葉を前にして、摘み取ってしまうのでなく、そういったものが混じる世の無常さに感嘆していた。
 華やかなものも、いつか朽ち果てる。我が世の春と隆盛を誇ったものも、いずれ滅びる運命にあると、彼は重々理解していた。
 千年の時を越えて受け継がれた刀剣だって、定期的な手入れを怠れば、錆びて使い物にならなくなる。
 三十六人を手打ちにした刀は、己が斬った首から流れる血の温もりを覚えていた。命がぱっと輝き、弾けて消える瞬間を、三十六回も目の当たりにして来たのだ。
 そのことを思い出している時の歌仙兼定は、どこかぼうっとしており、話しかけるのを躊躇させられた。
「小夜は修行中、歌仙を思い出したりしましたか?」
「…………」
 突き付けられた疑問に、短刀の足が止まった。
 二歩行き過ぎてから振り返った篭手切江に、小夜左文字は上手く答えられなかった。
 喉を覆う筋肉が痙攣し、声が出なかった。言いたいことがあったはずなのに音にならなくて、喘いでいる間に、内容自体を忘れてしまった。
 地上に在りながら溺れている錯覚を抱き、苦しくて仕方がない。口をパクパクさせるが、呼吸そのものがままならなかった。
 目に見えない蛇が身体中に絡みつき、ゆっくりと締め付けてくる。
 そんな妄想に取りつかれて、指一本動かせなかった。
 どうしてそんな事を聞くのか。そう問いたかったのだと、数秒後に思い出した。
 だが、言葉に出来ない。
 潰れた蛙のように小さく呻いた短刀に、篭手切江は淡く微笑んだ。
「実は私、さっき、歌仙の声が聞こえた気がしたんです」
「え……」
「それで、思い出したんですけど。歌仙がなにかの時に、言ってました。修業中で不在にしているはずの小夜の声が、確かに聞こえた、って」
 僅かに頬を赤らめて、恥ずかしそうに囁く。
 部屋を出る前に起きた出来事がふっと蘇って、小夜左文字は首を竦めた少年に目を丸くした。
 ぽかんと口を開き、間抜け顔で立ち尽くした。唖然としたまま瞬きを繰り返していたら、なにかを気取った脇差が、顎の輪郭をなぞるように引っ掻いた。
 耳朶を抓んで引っ張り、口角を持ち上げてニッ、と白い歯を見せた。
「おかしいでしょう?」
 それは本来、有り得ないことだ。
 歌仙兼定は審神者の許しを得て、修行に出た。本丸にはいない。彼が時間転移の門を潜り、旅立った姿を、小夜左文字はこの目でしっかり見送った。
 だというのに、障子の向こうから、或いはすぐ耳元で、彼の声がした。
 たった一日しか経っていないのに、もう懐かしくて仕方がない。胸が締め付けられ、今すぐ抱きつきたい衝動に駆られるくらい、あの男が恋しかった。
 部屋で耳にしたのは、そんな短刀の心が産み出した幻。
 事実とは異なる、空想の残骸だった。
「それって」
 ところが似たような現象に遭遇したと、篭手切江は告白した。
 あれは幻聴でなかったと信じさせる材料を提供されて、小夜左文字は驚きを隠せなかった。
 呆気に取られた少年に相好を崩し、脇差は改めて短刀の頭を撫でた。五本の指を揃え、丸い輪郭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
「でも、あるみたいです。堀川君も、和泉守さんが修行で不在にしている時に、何度か名前を呼ばれた気がしたって。鯰尾君と骨喰君も、お互いに、似たことがあったって、笑ってましたよ」
 呵々と笑いながら教えられても、にわかには信じられない。
 現実味が湧かないと戸惑っていたら、篭手切江の手が頭上から頬に滑り降りて来た。
 餅のように柔らかな肉を軽く捏ねて、掌全体で包み込んだ。
 微熱の範囲は、歌仙兼定のそれより狭い。宗三左文字や江雪左文字のものよりは、温度が高めだった。
 胸の奥がきゅっと窄まって、錐で衝かれたみたいに痛んだ。
 訳もなく涙が溢れそうになって、小夜左文字は目を瞑って息を止めた。
「大丈夫ですよ」
 旅先で、本丸で待つ仲間に思いを馳せた瞬間、それが本当に届いたかどうかは分からない。
 しかし付喪神が審神者によって顕現させられ、現身に宿って時間を遡るという、おおよそ非現実的な事象が実際に起きているのだ。
 遥か時代を隔てて、虚空に放った思いが天から降り注ぐことだって、絶対ないとは言い切れなかった。
「歌仙は、私たちのことを忘れたりしません」
 くしゃりと笑って、篭手切江は息んで顔を赤くした短刀の頬を軽く抓った。
 むに、と引っ張って伸ばし、パッと放して、眼光鋭く睨まれて素早く後退する。
 攻撃を警戒し、腰を僅かに落として身構えた。だが顕現して一年程度しか経っていない少年は、修行を終えて久しい小夜左文字の敵ではなかった。
「いった!」
 痛烈な蹴りを脛にお見舞いしてやれば、激痛に悲鳴を上げた脇差がその場で飛び跳ねた。
 蹴られた方の足を抱えて一本足になり、勢い余ってずれた眼鏡が落ちないよう、左手で押さえる。
 もれなく彼は体勢を崩して、渡り廊の壁に肩からぶつかっていった。
 二重の痛みに苦悶の表情を浮かべ、鼻を啜って唇を噛み締める。
「なにも蹴ることはないでしょう」
「蹴って欲しいのかと思ったので」
 棒立ちだったらともかく、構えを取ったので、攻撃してくれという意味だと解釈した。
 斜め上を突き破る理屈を捏ねた短刀に、涙を呑んだ脇差はトホホと肩を落とした。
 もとはといえば余計なことをした自分が悪いので、あまり強く言えないのが辛い。本気でなかったとはいえ、弁慶の泣き所を的確に痛打されて、痛みは当分引きそうになかった。
 ズキズキする足を庇って立ち、篭手切江は感情表現が下手な短刀に首を竦めた。
 まだ言っていない話があったはずで、数秒間を作り、瞳を泳がせた。記憶を辿り、手繰り寄せて、気まずそうにしている少年の額を指で小突いた。
 俯かず、前を向くよう無言で促し、母屋までの距離を測った。
「ええと、なにが言いたいかというと。つまり、小夜。あんまり悪い想像ばかりしていると、修行先の歌仙に聞こえてしまうかもしれませんよ?」
 事前にきちんと順序立てず、思いつくまま喋っていたから、結論が行方不明になりかけた。
 暴力沙汰で吹き飛ぶところだった内容を手元に広げて、彼は最後に右目だけをパチン、と閉じた。
 間でぐだぐだになりかけたが、なんどか綺麗にまとめることが出来た。
 あまり暗い顔をして、部屋に閉じこもるのは止めるよう提言した脇差は、しかし思ったほど短刀から反応が返ってこないのに首を傾げた。
「小夜?」
「篭手切は、そういう夢物語を信じるんですか……」
「えええー?」
 ここは「そうですね」と明るい顔をして、同意してくれるものと信じ込んでいた。
 だのに実際に聞こえたのは、些か呆れたような、侮蔑めいたものをごく少量含んだ言葉だった。
 惚けた顔で見つめられて、想定外の態度に頭が追い付かなかった。たまらず抗議めいた声を上げてしまい、短刀からの眼差しは益々冷たくなった。
 良いことを言った気でいたのに、冷や水を浴びせられた。
 そんな風に聞かれると、真面目に考えていた自分が滑稽に思えて、恥ずかしくてならなかった。
 勝手に熱を帯び、火照る顔を手で扇いだ。なにかしら言い返そうとするけれど、残念ながらなにも浮かんでこなかった。
 口笛を吹く要領で口を窄めて一旦余所を向き、みっつ数えてから向き直れば、短刀は先ほどと変わることなく脇差を見上げていた。
 空色の瞳は、太陽が沈んで闇が押し迫っている影響なのか、暗く翳ったままだった。
 平然としているようで、気もそぞろになっているのは皆知っていることだ。無理をしなくて良い、と周囲に気を遣われ、畑仕事から追い返された彼だが、それが却って良くなかったのかもしれなかった。
 忙しくしていた方が、余計なことを考えずに済む。
 だが農作業中にぼうっとして、怪我をされるのを恐れて、周りが先手を打ってしまった。
 もし失敗したとしても、大事になるのは稀だ。起きてもいないことをあれこれ案じて、道を塞いでしまったら、誰も幸せになどなれない。
 歌仙兼定だって、不在中の本丸がどのようだったか、気になるだろう。小夜左文字がどんな風に過ごしていたか、興味を示さないはずがない。
 それを、寂しがって部屋に引き籠もって過ごした、と聞かされて、彼はどう思うか。
 案外喜ぶかもしれないが、責任を感じて暗い顔をするかもしれない。
「私は、歌仙に、頼まれたんだ」
 ひとりぼそっと言って、篭手切江は拳を作った。強く握りしめ、わなわな震わせて、不甲斐ない自分を心の中で責めた。
 打刀は旅立つ前夜、珍しく部屋を訪ねてきた。月が明るく照る中で、彼はひと言、留守を頼むと言って頭を下げた。
 歌仙兼定が任せられている屋敷仕事は、篭手切江ではとても担いきれないものだ。料理は苦手だし、報告書の誤記を修正するのも不慣れなままだ。
 だから、そういう意味ではないと解釈した。あの打刀が常に気にかけ、目に入れても痛くないと感じている短刀のことだと、勝手に自分の中で結論付けた。
 小夜左文字の修行中、歌仙兼定は酷い有様だったという。
 塩と砂糖を間違え、米を墨に下。危うく火事が起きるところだったと、燭台切光忠が喋っているのを聞いた、というのを浦島虎徹から聞かされていた。
 歩けば段差に躓き、壁に正面衝突した。縁側から庭に落ち、風呂に入れば沈んで溺れかけた。
 この期間中に起こった打刀の失敗談は、数え切れない。まるで魂が抜けたような状態だったと、誰かが言っていた。
 そんな時だったという。歌仙兼定が本丸不在中の短刀の声を聞いたのは。
 もっとしっかりするよう、叱られている気分になったらしい。
 酒の席で上機嫌に語っていたこの話が本当かどうか、篭手切江には確かめる術がない。だが真実であったと、信じたかった。
「言霊を、知ってますか。小夜」
「そりゃあ、……はい」
 付喪神である彼らは、古い器物に宿った概念だ。
 刀工や持ち主、置かれた環境や伝来にまつわる逸話などの影響を過分に受けて形成された、象徴的な存在だった。
 本来、付喪神は実態を持たず、人の目に触れる機会もほとんどない。こうして現身を得て現世に降臨するのは、掟破りと言っても過言なかった。
 そうして彼らのように、実体を伴わず、見ることも触れることも能わないが、間違いなく存在するものがある。
 それが言葉だ。
 太古の昔より、言葉は力を持つものと信じられてきた。迅速かつ正確な意思疎通を可能とする道具は、天から与えられた奇跡の贈り物に等しかった。
 だが言葉は、時として相手を傷つける。
 物理的な威力は皆無なのに、腕力に訴える以上の効果を発揮した。
 勿論、傷ついた相手を癒やす力だってある。慰め、労わり、励まし、鼓舞する。言葉は様々な場面で、様々な役割を担い、八面六臂の如き活躍を見せた。
 篭手切江が好む歌は、平坦なことばに抑揚を付け、心躍る韻律に乗せることで、一度に何十倍もの元気を呼び起こしてくれた。
 ことばには、摩訶不思議な力が宿っている。そう信じるからこそ、歌に情熱を注いでいた。
 目には見えないし、存在を認識するのも難しいけれど、言葉には命がある。
 魂が備わっている。
 発信者の想いが込められたことばは、付喪神の成り立ちと相違なかった。
 では、その付喪神がことばを発したら。
 ただでさえ人々の強い思い、祈り、願い、恨みといったものが集まり、形となった存在だ。排出される言霊の熱量も、さぞかし大きなものとなるだろう。
「だから、ね。小夜。歌仙は、大丈夫なんです」
 言霊の影響を受けた側は、その意思がなくとも、耳にした通りの行動を起こしてしまうかもしれない。思考を捻じ曲げられてしまうかもしれない。
 そうと知らないうちに信念を歪められ、全く違った存在に変化するかもしれない。
 篭手切江は、歌仙兼定は心配は要らない、としか言わなかった。
 自分の発言で、修行先で頑張っているだろう男に悪い影響が及ばないよう、務めて明るく振る舞っていた。
 嫌な想像をして、酷い結末ばかり思い描いていたら、それが現実になりかねない。最悪の事態を想定するのは構わないが、そこにばかり囚われて、正しい在り様を見失うのは本末転倒だ。
 誰だって不幸を求めてはいない。
 幸福な未来を得るために出来る、一番簡単なことは、幸せが来ると信じることだ。
 躓いて転んで、ただ痛みに愚痴を零すだけでは終わるのは勿体ない。低くなった視界で、普段は見過ごしているものを発見して、そういう楽しみ方があると気付く方がずっといい。
 物吉貞宗の受け売りだが、あながち間違っていないと思う。
 自分自身に頷いて、篭手切江は小夜左文字に首を傾げた。
 反応を窺い、様子を探る。
 何度か瞬きを繰り返して、短刀は小突かれた額に手を翳した。
「……そうですね」
 一度は顔を伏し、すぐに背筋を伸ばして口角を持ち上げた。
 控えめな笑顔を向けられて、脇差の少年は渦巻いていた不安を吹き飛ばした。
「そうですよ、小夜」
 興奮を隠し切れないまま、力強く頷いた。握り拳を上下に振って、思いが通じた喜びを体で表現した。
 無駄に揺れている彼を眺め、小夜左文字はちょっと怪訝な顔をしたが、指摘はしなかった。考え過ぎで顰め面になっていた脇差が、満開の笑顔を咲かせたのに安堵して、少しだけ軽くなった胸を叩いた。
 掌で押して、拭いきれない不安を奥に押し込めた。
 屁理屈を捏ねられたが、言いたいことは理解出来た。心配して、気遣ってくれたのは嬉しくて、感謝しかなかった。
「歌仙は、大丈夫」
「はい。帰ってきます」
「そうですね。馬鹿面を引き下げて、土産話を沢山抱えて、帰ってきます」
「手厳しいですね……」
 繰り返し言って、弱気な心を鼓舞し、奮い立たせた。
 些か言葉が下品になったが、叱ってくれる江雪左文字はこの場にいない。苦笑を禁じ得ない脇差をちらりと見て、不幸な星の下に置かれた短刀はふふ、と頬を緩めた。
「帰ってきたら、美味しいもの、作ってもらいましょう」
「いいですね。小夜は何が食べたいですか?」
 長旅を終えたばかりの男を労うでなく、働かせようという意見に、脇差は反対しなかった。
 それどころか同調して、妙案だと両手を叩き合わせた。嬉々としながら質問しつつ、自分の場合はと考えて、指折り数え始めた。
「鰊の味噌漬けと、鰤大根でしょう。栗きんとんも美味しかったけど、やっぱり苺大福が一番かなあ」
「苺は、もう季節が終わってしまいました」
「そうだった。残念です」
「その代わり、桃の季節です」
「おお!」
 これまでに歌仙兼定が作った料理や菓子の数々を振り返り、特に気に入ったものを声に出す。
 旬の果物を使った甘味はその期間しか食べられず、時期を外せば欲しくても来年まで待たなければならない。代わりに違う果物が旬を迎えていると教えられて、一度は項垂れた脇差は、にわかに元気を取り戻した。
 ちょっと押しただけですぐに傷んでしまうくらい繊細な果物は、滑らかな舌触りと、ねっとりとした甘みが官能的だった。
 果汁をたっぷり含んでおり、絞って濾せばそれだけで魅惑的な飲み物に早変わり。
 冷やしたものをそのまま、がぶりと丸ごと齧るのも悪くないが、卵黄や牛乳に砂糖などを混ぜたものを添えれば、尚のこと美味しかった。
 歌仙兼定なら、あの果物をどう料理してくれるだろう。
 想像するだけで胸がときめき、ワクワクが止まらなかった。
 幸せな時間を思い描き、篭手切江は涎を垂らした。気が早いと己を戒め、眼鏡を意味なく弄り、表情を引き締めて短刀に向き直った。
「小夜は、なにを作ってもらいますか?」
 打刀が修行から帰ってくる前に、希望の品を整理して、一覧にまとめておこう。
 密かに決めた脇差に訊かれ、本丸で二番目の古参刀はふふ、と頬を緩めた。
 背中に回した手を結び、腰をとんとん、と叩きながら歩き出す。夕餉の待つ本丸の母屋は、もう目の前に迫っていた。
 置いて行かれそうになり、篭手切江が声を張り上げる。
「小夜?」
「水が多すぎてべちょべちょのご飯と、出汁の入ってないお味噌汁です」
 焦って背伸びをした彼に相好を崩し、小夜左文字は待ちきれない様子で言った。
 恐ろしく不味そうな献立にきょとんとして、脇差が目を丸くする。その表情が可笑しかったのか、短刀は藍色の髪を揺らし、楽しそうに身体を捻った。
「歌仙が、初めて作ったご飯です」
 まだ彼らふた振り以外、誰もいない本丸で。
 顕現したてで不慣れな身体に四苦八苦しながら作った食事は、お世辞にも美味しいとは言えないものだった。
 米を炊くのに必要な水の分量は手探りで、味噌汁は湯に味噌を溶かしただけのものではない、と知ったのはしばらく後のこと。
 そこから試行錯誤を繰り返し、今の歌仙兼定が生まれた。あの夜、彼が自ら作ったものを黙々と胃に流し込んだのを知っているのは、小夜左文字だけだ。
 屈辱だっただろう。しかしそこで腐ることなく、料理書を紐解きながら技術を磨き、作れるものを増やしていった彼の功績は計り知れない。
 そんな男が、修行に出た。
 旅先で己の在り様を見極め、新たな力を得て帰ってくるだろう。
 しかし歌仙兼定という刀剣男士の起点となった日の事は、どうか忘れないでいて欲しい。
「それは……とても、豪勢ですね」
 小夜左文字が大事に抱きしめている想いの一端に触れて、篭手切江が言った。
 万感の思いが込められた感想に、短刀は照れ臭そうに首を竦めた。

澪淀む天の川岸波立たで 月をば見るやさへさみの神
山家集 雑 968

2018/07/15 脱稿