葉末に菅の 小笠はづれて

 中庭の小さな池で、秋田藤四郎と毛利藤四郎が水遊びをしていた。
 下穿きだけになって、浅いところでバシャバシャ水を弾いていた。そこに鯰尾藤四郎がそろり、と忍び寄り、隠し持った水鉄砲で一撃を喰らわせた。
 甲高い悲鳴の後に、けたたましい笑い声がこだまする。
 ジジ、と羽を震わせて蝉が飛び、夏の空に吸い込まれていった。
 どこかで風鈴が鳴っていた。簾が作る影は濃く、短い。隙間を通り抜ける風は生温く、涼しさをもたらすどころか、首筋に汗を呼び込んだ。
「暑い」
 溶けてしまいそうだ。
 拭いても、拭いても止まらない汗を諦め、小夜左文字はかぶりを振った。湿気ている髪の毛を両側からぐい、と押し上げて、ただでさえ悪い目つきを一層鋭くさせた。
 睨んだところで、天候が変わるわけではない。
「ふう」
 窄めた口から息を吐き、体内の熱を追い出した。
 焼け石に水だが、なにもしないよりは良い。開き直って、彼は人気の乏しい広縁をてくてく進んだ。
 じっとしていても、動いていても、感じる暑さは同じ。
 賑やかな中庭に背を向けてしばらく行けば、鼻先に癖のある匂いが漂った。
 思わず足を止めて、発生源を探して視線を泳がせる。
 探し回るまでもなかった。左方向に迷わず目を向けて、彼は嗚呼、と肩を竦めた。
 濃い緑色をした蚊遣りの先端に、白い灰が積もっていた。熱源たる赤色は灰色の内側で燻り、じわじわと緑色を侵食していた。
 長時間の使用に耐えるよう、渦巻き型に形成されたそれは、障子を開けたすぐのところに置かれていた。
 蚊の侵入を拒みたければ、隙間風も通らないくらいにぴしっと閉めるべきだ。しかし茹だるような暑さと、蚊に狙われる可能性を天秤にかけて、前者を優先させたらしい。
 風通しを少しでも良くしようとして、開けっ放しだ。
「めずらしい」
 ほぼ全開状態の障子に手を添えて、小夜左文字は薄暗い室内を覗きこんだ。数度の瞬きで目を慣らして、部屋の主を探した。
 巨大な黒い塊は、直射日光を避ける形で丸くなっていた。半分に折り畳んだ座布団を枕にして、上にはなにも被っていなかった。
 右肩を下にして、膝は曲げて腹の近くに。右手は掌を上にして顔の横、左手は胸元に落ちていた。
 藤色の髪を濃い藍色の座布団に散らし、後頭部を縁側に向けている。
 すなわち、小夜左文字の位置からでは表情が見えない。
 ただ反応がないところから、寝ていると思って間違いなかった。
 朝早くに起きて食事の準備を手伝い、いつも通り片付けまで終わらせて、ひと休みといったところだろうか。
 昨日、蜂須賀虎徹らと万屋へ行く約束をしていたはずだが、どうなったのだろう。夕餉の席でたまたま耳にした会話を思い出して、誘われていない短刀は首を傾げた。
 午後からなら良いが、午前中だったら不味くはないか。
 交友関係がさほど広くない打刀を案じて、彼はそろり、敷居を跨いだ。
 風鈴の音がして、僅かに遅れて風が通った。軒下に吊された簾が一斉に揺れて、広縁に散る影が躍った。
 すうっと熱が流れていく。
 細く立ち上っていた蚊遣りの煙が掻き消され、大きく育った灰が受け皿に落ちた。
 その灰の量と、位置で、火が点されてからどれくらい経過しているかの予想がついた。
「牛になっても、知りませんよ」
 そうっと囁き、小夜左文字は打刀の足元に回り込んだ。音を立てないよう細心の注意を払って、慎重に膝を折り、身を屈めた。
 腰を下ろして一旦正座してから、両手を前に出し、四つん這いになった。
 姿勢を低くして、歌仙兼定に顔を近づけた。暗くて見え辛かったけれど、覗き込んだ男はすうすう寝息を立てていた。
 長い睫毛が瞼を縁取り、左右とも同じ方向を向いていた。唇は薄く開かれ、弛緩した表情からは凛々しさが消えていた。
 戦場で見せる荒々しさはどこへ行ったのか、幼い子供そのものだ。立派な体格に見合わない素顔を垣間見て、小夜左文字はふっ、と鼻から息を漏らした。
 声を立てて笑いたいのを我慢して、ゆっくり姿勢を戻した。踵の上に尻を置いて座り直し、この後どうしようか迷って、「ん」の字に身体を曲げている男を眺めた。
 苦しそうな姿勢だが、寝顔からして辛いと感じていないらしい。袴の裾は若干乱れており、寝ながら足をバタバタさせたのが窺えた。
「雅じゃないですよ」
 踝だけでなく、脹ら脛まで見えていた。もう少しで膝小僧がちらりと顔を出すところで、短刀は呆れ混じりに呟いた。
 打刀の口癖を真似て、撓んでいる布を引っ張った。肌の露出を極力減らして、小夜左文字は満足そうにうん、と頷いた。
 足が大きく出ているか、そうでないかだけでも、印象は随分と違った。
 こちらの方が彼らしい。普段からなにかと重ね着の男に相好を崩して、短刀自身は内番着の衿を引っ張った。
 胸元を広げて風を通し、首筋を伝った汗を布に吸わせた。静かに、深く息を吐き、吸って、障子越しの日差しの変化を楽しんだ。
 影は一定せず、常に動き回っていた。誰かの笑い声がこだまする。屋敷で飼育している鶏のけたたましい鳴き声が、こんなところまで響いていた。
「誰か、蹴られたかな」
 鶏小屋の掃除をするのは、厩を掃除するよりずっと大変だ。
 攻撃的な雄鶏が多いし、卵を抱く雌鶏も気性が荒い。鋭い嘴で突かれると、三日は痣が消えなかった。
 そこいらの時間遡行軍より、余程強いのではなかろうか。
 傷つけないよう捕まえるのは、存外に大変だ。しかも向こうは、こちらの気遣いなど素知らぬ顔で突進してくるから、尚厄介だった。
 無意識に古傷をなぞり、左手首に指を這わせた。
 つう、とほんのり日焼けした肌をなぞって、肘の手前で引き返した。
「歌仙」
 打刀はすやすやと眠り、目覚める気配がない。起こすのは可哀想かと思ったが、昼餉まであと半刻を切っていた。
 寝すぎると、夜に起きていられなくなる。これから慌ただしくなるというのに、準備が進んでいるとも思えなかった。
 部屋の中は相変わらず散らかって、多くの物で溢れていた。
 書庫から借りた書物が、文机の横で塔になっている。畳の上に荷物を入れる小さな柳行李が転がっているのが、唯一の旅支度だった。
「後で泣くことになりますよ」
 忘れ物をしても、取りに戻るのは叶わない。
 折角の旅路が嫌な思い出で彩られることのないよう、祈らずにはいられなかった。
「歌仙?」
 小声で説教して、様子を窺うけれど、反応は変わらなかった。
「んん……」
 それどころか小言を拒むように唸られて、小夜左文字は力なく肩を落とした。
「あなたまで、千代金丸さんの影響を受けなくとも」
 最近加入した刀剣男士はのんびり屋で、独特の雰囲気を持つ刀だ。戦を嫌っているところが共通していると、江雪左文字は珍しく興味を示していた。
 ようやく理解しあえる刀が現れたと、兄刀は嬉しそうだった。彼らは色合いもどことなく似通っており、並んで座られると、一瞬どちらがどちらなのか、分からなくなることがあった。
 そんな太刀は、あまり時間を守らない。
 刻限が過ぎていようと焦らず、急かされても聞く耳を持だなかった。
 お蔭でへし切長谷部の機嫌が、ずっと悪い。
 そのうち胃に穴が開くのでは、と言っていたのは宗三左文字だ。
 歌仙兼定まで、へし切長谷部の胃を攻撃しなくても良い。
 嘆息し、遠くを見て、小夜左文字は再び右手を前に伸ばした。
 這うように進んで、男に一層近付いた。畳に放り出された打刀の右手は、手首に対して左に傾き、指先は緩く曲がっていた。
 人差し指から小指まで、四本が綺麗に並んでいた。親指は少し離れた場所から、人差し指に寄り掛かっていた。
 掌は分厚く、少し固い。爪は短く、丸く形作られていた。
「大きいな」
 節くれだった指は長く、しなやかだ。刀だけでなく、筆や、包丁を握って、毎日休むことなく働く指だった。
 昔は、もっと小さかった。
 真ん丸で、触ると柔らかかった。ぷにぷにした弾力が心地よくて、意味もなく弄っては、嫌がられた。
「こんなに、……違うんだね……」
 首を伸ばし、右手を追随させた。左腕で体重を支え、利き手を広げて重ねあわせた。
 中指の先を揃えれば、小夜左文字の手は男の掌中程までしかなかった。
 逆に手首の位置で合わせれば、爪先は男の掌を辛うじてはみ出す程度だった。
 厚みも、太さも、広さも、なにもかもが違う。
 触れ合わせた肌は、しっとり汗ばんでいた。もしかしたら、濡れていたのは小夜左文字の手かもしれない。だが互いの熱が交差するうちに、湿り気は双方に等しく広がって行った。
 目を閉じれば、鼓動が聞こえてくるようだった。
 息遣いをすぐ近くで感じた。大きさがまるで異なる掌を通じて、色々なものが流れ込んできた。
「之定」
 暝目したまま、懐かしい呼び方で彼を呼んだ。
 それに応じるかのように、力の入っていなかった男の手が、前触れもなくきゅっと縮こまった。
「っ!」
 握られた。
 幼い子供の手が、大人の手にすっぽり包まれた。咄嗟に取り返そうと足掻くけれど、僅かに遅く、果たせなかった。
「起きて……」
 ひやりとした汗を背中に流し、見開いた眼に男の蒼い双眸を映し出す。
「んん? ふぁ、ああ~……」
 歌仙兼定は返事の代わりに大きな欠伸をして、瞬きを数回繰り返した。
 最初ぼんやりしていた瞳は、徐々に輝きを取り戻した。睫毛を何度も上下させて、枕にしている座布団の上で緩く頭を振った。
「なんだ、お小夜か。どうしたんだい」
 そこにいるのが誰であるかを確認して、紡がれた言葉は平常通りだった。上擦ったり、焦ったりする様子もない。穏やかで、落ち着いていた。
 寝ぼけてはいなかった。覚醒は一瞬で済まされ、見苦しく取り繕ったりしなかった。
「いえ。ちょっと、様子を見に来ただけです」
 部屋を訪ねたことに、深い理由はない。たまたま通りかかっただけだが、意識しないようにしていただけで、ずっと気にしていたのは嘘ではなかった。
 それらしいことを口にして、捕まったままの利き手を軽く揺らす。
 合図を送ったつもりだったが、歌仙兼定は気付いてくれなかった。
「そう。……進めてはいるつもりなんだが」
「あまり時間、ないですよ」
「分かっている。分かってるさ、それくらい」
 目覚めて早々に説教されるのは、嬉しいことではない。
 口うるさい短刀を制し、打刀は声を荒らげた。苛立ちをひと息で吐き出して、頭を浮かせようとして、すぐに止めて腹から力を抜いた。
 畳に転がり直して、天井を仰ぎ、瞳だけ小夜左文字の方へと移した。
 遠目に様子を窺われて、幼い外見をした刀は頬を緩めた。
「大きくなったんですね」
「うん?」
 何気なく呟いたひと言は、歌仙兼定には要領を得ないものとして響いた。
 何を指してのことか分からず、太くて短めの眉を顰めた。右の瞳を眇めてまじまじと小夜左文字を見詰めて、視線の誘導を受けて自身の右手に意識を向けた。
 今の今まで、手を繋いでいると認識していなかったらしい。
「すまない」
 教えられて初めて知ったと、彼は五本の指を解いた。閉じ込めていた小振りの手を、放り投げるように解放して、後からおずおず近付いてきた。
 指の背でコツン、と甲に触れられて、大胆なのか、臆病なのか分からない態度に目尻を下げる。
「いいえ」
 別に痛かったわけではない。驚いたが、不快ではなかったと告げて、小夜左文字は改めて男の手に手を重ねた。
 どう頑張ったところで、大人と子供の手だった。
「なにをしているんだい」
 大きさを比較する意味が、打刀には見いだせない。
 不思議そうに首を傾げられて、小夜左文字は疲労を訴えていた左腕を前に滑らせた。
 べしゃっとうつ伏せに倒れ込んで、目を丸くした男の綺麗な顔を至近距離から覗き込む。
「昔は、僕の方が大きかったのに、って。思ってただけです」
 その間も、右手は極力男の利き手に被せ続けた。位置がずれた時はすぐさま元通りにして、互いの体温を分け合った。
 寝転がった短刀に言われて、歌仙兼定は一瞬目を大きく見開いた。驚いた顔をして、すぐに頬を緩め、嗚呼、と細く息を吐いた。
「あれから、どれだけ経っていると思ってるんだい?」
 緩慢に頷き、冗談交じりに囁く。
 若干認めがたい事実を突き付けられて、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
「僕は、ほとんど変わってませんが」
「縮んだ?」
「歌仙が伸びたんです!」
「いたた、た、痛い」
 いつになく低い声で文句を言ったつもりだが、茶化された。
 馬鹿にされて、許せない。一旦は引っ込めた怒りを三倍にして、彼は重ねた手の、広々とした指の股を思い切り抓った。
 河童なら水掻きがついている場所を、容赦なく抉った。爪を立て、力任せに捩って、男から悲鳴を引き出した。
 鍛えるには不向きな場所を攻撃されて、歌仙兼定は左手でバンバン畳を叩いた。涙目で短刀を振り解こうと暴れて、解放された後は息も絶え絶えだった。
 くっきり残る半月型の跡に息を吹きかけ、恨めしそうに見つめて来るが、小夜左文字は謝らない。
「八つ当たりは、よくない。お小夜」
 奥歯をカチカチ噛み鳴らして、怒鳴りたいのを堪えて打刀が言った。
「今すぐあの頃の大きさになったら、許してあげます」
「無茶を言わないでくれ」
 直後に不貞腐れた声で言い返されて、苦笑を通り越して呆れるしかなかった。
 肩を竦め、彼はまだジンジン痛む指を撫でた。少しずつ薄くなる爪痕を労わって、臍を曲げてしまった少年を指の股から覗き見た。
 小夜左文字は見られているとすぐに悟って、頬の膨らみを大きくした。陸に揚げられた河豚になり、やがてぷすーっと息を吐いた。
 威嚇し続けるのに、疲れたらしい。気が済んだだろう彼に手を伸ばして、歌仙兼定は餅のように柔らかな頬を軽く抓んだ。
 直前まで膨らんでいたから、驚くほどよく伸びた。
「やめてくらはい」
「仕返しだよ」
「六百年前のことじゃないですか」
 感触を楽しんでいたら、手を打たれた。嫌がって逃げたがる彼を許さず、むにむに揉み続けたら、いやに大きい数字を出してこられた。
 打刀的には、指の股を抓られた分の仕返しだった。
 けれど小夜左文字は、そうでなかったらしい。
「ん?」
 訳が分からなくて、手が止まった。その隙に逃げ遂せた短刀は、素早く身を起こし、尻をぺたんと畳に落とした。
 肩で息をして、物言いたげな眼差しを投げて来た。
 彼が言っているのは、遠い昔、歌仙兼定がまだそう名付けられていなかった頃のことだ。之定のひと振りとして細川の屋敷に入り、使い勝手が良い刀として重宝されて、幾人かの血を吸ううちに付喪神としての力が発露した。
 産まれたばかりの付喪神は未熟で、弱々しく、形もあやふやだった。
 大きな体躯を維持するのは叶わず、人間の子供を真似るのがやっとだった。
「……六百年かかったんだよ」
 屋敷には多くの付喪神が在った。けれど子供の姿をしているものは、さほど多くなかった。
 だから之定のひと振りは、背格好が近く、同じ刀の付喪神だった小夜左文字に付き纏った。構ってもらおうと躍起になって、朝から晩まで後ろを追いかけた。
「ちゃんと、指は五本ですね」
「そんなことは、忘れてくれていい」
 上手く人型を保てず、指も四本になったり、六本になったり。
 足が三本あったこともある。古い話を持ち出してこられて、歌仙兼定は真っ赤になった。
 今度は彼がぷんすか煙を噴き、口を尖らせて拗ねた。小夜左文字は声なく笑って、三度、男の手に掌を置いた。
 その華奢な手を、男の手が包み込んだ。丁寧に引き寄せて、自分からも距離を詰めて、肘で支えて上半身を僅かに浮かせた。
 首を前に倒して、目を閉じることなく待ち構える短刀の唇に唇を寄せた。
 睫毛が擦れ合うほどの近さで見詰め合って、口を吸ったまま息を吐いた。
「……っ」
 小夜左文字の舌がびくりと動いたが、外に飛び出しては来なかった。
 歌仙兼定も深追いはしない。頬とは違う柔らかさを確かめて、満足して引き返した。
 少しの間、沈黙が流れた。
 代わりに外で騒ぐ声がして、歌仙兼定の部屋の前を駆け足で通り過ぎて行った。
 畳に寝転がるふた振りの存在に、彼らが気付いた様子はない。直前になにがあったのかも、当然知るわけがなかった。
 遠ざかる足音を拾って、打刀はふっ、と四肢の力を抜いた。掌ではなく、小指で短刀の小指を攫って、折り曲げた関節の間に閉じ込めた。
 しばらくそうやって、ふた振りしてじっと息を殺し続けた。
 蝉の声が複数重なって、簾の向こうでは白い雲が幅を利かせていた。空の青は他の季節より濃く、日差しは眩しかった。
 それらに背を向けて、小夜左文字が一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
 表情の変化に、どのような心理が働いたのか。判断材料の乏しさに唇を噛み、歌仙兼定は目を細めた。
「お小夜」
 腹から絞り出した声に触発されたか、短刀が口を開いた。
「之定はあれから、……どうしてましたか」
 質問の意味を一瞬取りあぐねて、打刀が渋面を作る。
 瞳を上向かせて考え込む素振りに、聞いた方が「あ」と吐息を漏らした。
「その、……」
「買い戻される前の、ということかい」
 言い難そうに口篭もった彼に、心当たりを探り当てた男が呟いた。
 言葉が足りなかったのを素直に反省して、小夜左文字はコクリと頷いた。
 彼らは同じ屋敷で共に過ごしたことがあるが、ずっと一箇所に留まっていたわけではない。先に小夜左文字が売られていき、之定のひと振りも一旦外に出た。
 時代が移り、刀剣を取り巻く環境が大きく変化した時、彼は細川の屋敷に戻った。歌仙兼定という号と、瀟洒な拵えを伴って。
「あまり覚えてないな」
 審神者の力で本丸に顕現してから、恐らく初めての質問に、打刀は短く答えた。
 彼方を見て、口を噤んだ。記憶を手繰ろうとするけれど、引き寄せたものは暗闇に沈んでおり、触れようとしても掴めなかった。
 なにもない場所をひたすら掻き回すだけで、徒労に終わった。ひとつも浮かんで来ない。空っぽだった。
 小夜左文字が屋敷からいなくなり、取り残されたという気持ちでいっぱいだった。多くの付喪神が慰めてくれたけれど、心のよりどころとしていた相手の不在は、思いの外堪えた。
 色鮮やかだった景色が急に褪せて見えて、面白みを感じなかった。
 ただ過ぎていくだけの時間に関心が抱けなくて、引き籠もり、閉じこもった。
「でも、ああ……不幸では、なかった」
 下げ渡された時も、なにも思わなかった。
 愛しい短刀がいない場所に居座っても仕方がない。へし切長谷部のような反発は欠片もなく、持ち主の命令には素直に従った。
 長い、長い眠りに就いていたら、急に辺りが騒がしくなった。
 目を開けたら、かっての主の面影が、ほんの少し感じられる男性の掌中に収まっていた。
 大事にされていたのだろうと、懐かしそうに撫でられた。
 語れるような思い出は、さほど多くない。しかし不幸ではなかった。慈しまれ、敬われ、丁寧に手入れされてきたのだから、そこは疑う余地がなかった。
「お小夜は……」
「長くなりますから、今度にしましょう」
 自分のことを語っていたら、相手のことが気になった。
 話を振ろうとしたのだが、やんわりと拒絶された。上手い具合に逃げられて、歌仙兼定はむすっとしながら、短刀の目元を撫でた。
 そこにある傷は、打刀の古い記憶には存在しない。
 手や、足に残された傷の中にも、覚えがないものが含まれていた。
 どうしてそうなったか、小夜左文字は決して語ろうとしない。
 それだけ、苦労があったということだ。艱難辛苦の時代を経て、彼はこの本丸に辿り着いた。
 願わくは、彼の傷が今より増えることのないように。
 密かに祈って、打刀は重い身体を起こした。
「ん~……」
 両腕を真っ直ぐ頭上へ伸ばし、横になっている間に凝り固まった筋肉を解した。肩をぐるっと回して関節を鳴らし、肺の中を一度空にした。
 新鮮な空気で胸を満たし、新たな気持ちで短刀を見る。
「行ってくるよ」
「はい」
 清々しく告げた彼に、小夜左文字は頷いた。膝を揃えて座り直して、急にもじもじし始めた男に首を捻った。
「歌仙?」
 先ほどまでの堂々とした佇まいから一変して、落ち着きがなくなった。
 怪訝に眉を顰めた少年をちらちら盗み見て、打刀は頬を爪で掻いた。ぐーっと後ろに身体を反らした後、勢いつけて前のめりになった。
 どん、と畳に両手を突き立てて。
「お小夜は、その。見送りには」
 口をもごもごさせながら切り出した彼に、小夜左文字はすぐに嗚呼、と頷いた。
 修行に出る際は、ひと振りだけ、門前での見送りが許されていた。
「行きませんが」
「そうか、よかっ……――えええ、どうして!」
 その役を引き受けて欲しそうな男に、さらりと断る。
 当然快諾してもらえると思い込んでいた歌仙兼定は、素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。
 顎が外れそうなくらい口をぽかんと開いて、間抜け面が滑稽だった。思わず吹き出しそうになって、短刀の付喪神は咳払いで誤魔化した。
「僕の時、来なかったじゃないですか」
「行ったさ。決まっているだろう」
「いましたか?」
「木立の陰から、しっかり見守っていたさ」
 小夜左文字も以前、本丸を留守にした。己の在り様を見極めたくて、過去へと跳んだ。
 見送りは、江雪左文字だった。言葉は少なかったが、信じて待つと言われて、嬉しかった。
 出発の日取りが一度延期になったこともあり、他の刀たちよりもどたばたしていた。歌仙兼定は最後まで姿を見せなくて、宗三左文字はそれをかなり怒っていた。
 当時を思い出すと、胃の辺りがむかむかした。
「そういうの、見送りって言いません」
「ふぐう」
 ここに来て新たな事実が判明した。思っていたのよりももっと悪い、と繰り出した鉄拳は、躊躇なく男の頬に食い込んだ。
 本気ではなかったが、それなりに痛かったはずだ。
 旅立ちを目前に控えた打刀の頬が、左側だけ赤くなった。誰もが何があったか邪推して、ひそひそ話を繰り広げる造形だった。
「しょうがないじゃないか。お小夜が、もし……」
 ひりひりする箇所を撫で、歌仙兼定が言葉を濁らせた。
 尻窄みに声が小さくなり、実に男らしくない。挙げ句に途中で言葉を切って、口を噤んで俯いた。
 鼻を啜る音が大きく響いて、小夜左文字は盛大に肩を落とした。
「僕は、帰ってきました」
「分かってるさ」
「でもやっぱり、僕は見送りには立てません」
「どうして」
 あの日の別れが、打刀の中で大きな傷となって残っている。
 数百年が経とうと、こうして毎日顔を合わせて言葉を交わそうと、それが癒える日はやってこない。
 不毛なやり取りを続けるのは疲れるだけで、短刀は話題を戻した。しつこく食い下がる男の手を両手で挟み持って、膝に置き、顔を伏した。
「僕だって、……苦手なんです」
「お小夜?」
「どうせなら、行ってらっしゃいより、お帰りなさい、の方が。僕は、好きです」
 歌仙兼定なら旅路を楽しみ、満喫して帰ってくる。全てを投げ出し、出奔するなどあり得ない。
 信じている。疑っていない。土産話を沢山抱えて、にこやかな笑顔を浮かべて暢気に笑ってくれるはずだ。
 それでも、門を出て行く背中を見送るのは苦手だ。
 万が一、億が一を懸念して、追い縋りたくなる。行かないで、と叫んでしまいそうで、それが一番嫌だった。
 復讐とは即ち、執着だ。彼の逸話がもたらす感情は、憎悪だけとは限らない。
 それは確実に、歌仙兼定に良い結果をもたらさない。不幸を呼ぶのが分かり切っている。だから見送りに出ないのが、最善の策だった。
 胸の奥底で渦巻く感情の一部を吐き出して、多少なりともすっきりした。
 左胸をとん、と軽く叩いて顔を上げた短刀は、些か驚いた風に目を点にしている男を見詰め、首を竦めた。
「ここで、待ってます」
 小さく舌を出し、それで許してもらえるよう懇願した。
 広い敷地を持つ本丸の、無数に部屋がある屋敷の、ただひとつの部屋で。
 帰ると信じる男を、ひとり待つ。
 その健気さに、歌仙兼定はぞわっと鳥肌を立てた。僅かに遅れて震えが来て、彼は咄嗟に自分の右手を押さえ付けた。
 意図せぬ動きをしないよう、枷を嵌め、急激に速まった鼓動に脂汗を流した。乾いた咥内に唾液を招き、ごくりと音立てて飲み込んだ。
 下唇を舐め、肩で息をして、食い入るように短刀を見る。
「……分かった」
 それだけ言うのが精一杯の男に、小夜左文字は苦笑を漏らした。
 雅でないと言われている、歯を見せる笑顔を浮かべ、照れ臭そうに頬を赤らめた。
「お小夜、今宵は――」
 あまりの愛らしさに、打刀の理性がぶちっと千切れる。
 ついに箍が外れて声を張り上げたところで、広縁側でガサゴソ音がした。
「あ~、ごほん」
 非常にわざとらしい咳払いまでして、宙に浮いた男の手が凍り付いた。
 首をギギギ、と回して、身構えた短刀から視線を移した。興奮で赤らんでいた肌を一気に白くして、歌仙兼定は申し訳なさそうにしている蜂須賀虎徹を涙目で睨んだ。
「すまない。取り込み中だったな」
 万屋で買ったと分かる荷物をぶら下げて、虎徹の真作が頬を引き攣らせた。
 恐縮し過ぎて、腰が引けていた。笑顔は引き攣り、不格好だった。
「長旅で役に立ちそうなものを、適当に見繕っておいた。お代は要らない。それじゃあ、歌仙。失礼するよ」
 早口に用件を言って、袋を障子のすぐ前に置いた。蚊遣りの灰がぼとっと落ちて、揺らいだ煙が真っ直ぐになるより早く、蜂須賀虎徹は去って行った。
 バタバタと遠ざかる足音を追いかけ、歌仙兼定の首が動いた。
 ちょっと不気味な姿に冷や汗を流して、小夜左文字は惚けている男の頬を、手の甲で軽く叩いた。
「まずは、旅支度です。歌仙」
 片付けと、整理と、選別で嫌になって、昼寝に逃げている場合ではない。
 持って行ける荷物は限られている。経験者として厳しい眼差しを投げかけて、短刀は放り出されていた柳行李を引き寄せた。
「無茶を言わないでくれ、お小夜」
 そんな小さな箱に、どうやって収まり切ると言うのだろう。
 苦言を呈した打刀だが、無視された。いっそ荷車を引いて行きたい、との意見も却下されて、歌仙兼定はがっくり肩を落とした。

旅人の分くる夏野の草茂み 葉末に菅の小笠はづれて
山家集 夏 237

2018/07/14 脱稿