チャイムが鳴って、憂鬱な午前の授業がようやく終わった解放感に浸っていた。
堪えていた眠気は、欠伸と共にどこかへと消え去った。単に授業が理解出来ず、つまらなかっただけの言い訳を彼方へ追いやって、綱吉は椅子の上でぐーっと伸びをした。
「あー……」
背骨をボキボキ鳴らして、全身に血液が巡る感覚に歓喜の声を漏らす。
学校で唯一と言い切れる楽しみな時間を前にして、彼は緩む頬を押さえた。
「よし、っと」
勉強は嫌いだが、友人と机を寄せ合い、互いの弁当を融通し合うのはとても楽しい。
今日は天気が良いことだし、屋上かどこかで食べるのも悪くなかった。
満面の笑みを浮かべたまま、がやがや五月蠅い教室を見回した。いつも一緒に食事をしている山本と、獄寺の姿を探しつつ、右手は机のフックに伸ばした。
母である奈々手製の弁当は、半月型をした通学鞄の中だ。中身が傾いたり、ひっくり返ったりしないよう、登校中は慎重に水平を保って運んできた。
歯磨きしながらちらりと覗いた中身は、大好物のハンバーグに、唐揚げも含まれていた。昼から御馳走だと胸が弾んで、わくわくが止まらなかった。
しかし。
「あれ?」
見当たらない友人を探して泳ぐ視線に合わせたわけではなかろうが、右手もスカッと空振りした。
確実に指が触れる場所を探ったのに、何も掴めなかった。シンプルな構造の机の、冷たい脚に指の背が掠めたのみだった。
「え?」
当てが外れて、綱吉は顔を下向けた。嫌な予感を覚えて、奥歯をカチリと噛み鳴らした。
教科書類を机の引き出しに移した後の、弁当以外は碌なものが入っていない鞄が、どこにも見当たらなかった。
「ええ?」
訳が分からず、声が裏返る。
朝のホームルーム開始直前に駆け込んで、確かにここに引っ掻けた。午前中に四教科分の授業があったが、その間は一度も動かしたりしなかった。
だというのに、在るべきものが忽然と消え失せた。
「ちょ、ちょっと待って」
動揺のまま、がたっと音立てて椅子から立ち上がった。視線を高くして、改めて教室内部を見渡せば、後方のドア付近にいた女生徒が「きゃっ」と悲鳴を上げて飛び退いた。
その少女は綱吉ではなく、別のところを見ていた。
廊下から教室に入ろうとしていた男子生徒も、下を見ながら吃驚した顔で飛び退いた。
理路整然と机が並ぶ空間では、机上より低い位置にあるものは把握し辛い。
けれどヒョコヒョコと、不自然なものが揺れているのだけは見えた。使い込まれた通学鞄の、フックに引っかけられていた影響でやや尖り気味の持ち手部分が、リズミカルに踊っていた。
それが開けっ放しのドアを抜け、廊下へ出ようとしている。
「あ~っ!」
直後に、こんもりとした黒い塊が見えた。先端が鋭く尖った角らしきものが、そのブロッコリーのような髪の毛から覗いていた。
綱吉の脳裏に、牛柄を愛用するいたずら小僧の顔が浮かんで、弾けた。
「ランボ、なにしてんだ!」
それだけで、何が起きているのかが理解出来た。
沢田家で世話している幼子のひとりが、こっそり学校に忍び込んでいたのだ。
狙いは、間違いなく綱吉の弁当だ。奈々が鼻歌を奏でながら作業している時、あの少年も台所にいた。
朝食では出なかった料理を欲しがり、強請っては、断られていた。これは勉強を頑張る綱吉の分だと繰り返し諭され、我慢するよう言われていた。
しかしあの泣き虫は、諦めていなかった。
まさかの事態に目を白黒させて、綱吉は慌てて駆け出した。自分の椅子に躓いて転びそうになったが、何とか踏みとどまり、血相を変えて廊下から顔を出した。
「待て!」
昼休みの混乱に乗じて掠め取ろうと試みたようだが、そうはいかない。
鞄を頭上に担いで歩く五歳児に皆が怪訝にする中、綱吉は大声で叫んだ。
「ぴゃっ」
途端に、上機嫌に尻尾を揺らしていたランボが飛び上がった。ぴょん、と鞄を弾ませて、そのまま脱兎のごとく逃げ出した。
振り返りもしなかった。
自分がなにをしているのか、充分承知した上での犯行で間違いなかった。
「学校には来るなって、言っただろ。ていうか、オレの弁当返せ!」
ただでさえ綱吉は問題児扱いで、各方面から睨まれている。
自発的にトラブルを起こした回数はあまりないのに、気が付けば巻き込まれていて、評価は下がる一方だった。
これ以上騒動を起こしたら、また色々なところから文句を言われてしまう。
特に風紀委員会からの風当たりは厳しく、見付かったらただでは済まなかった。
部外者が校内に侵入したと知れたら、並盛中学校を実質的に取り仕切っている男が黙っていない。
穏便に済ませたいのが本音だが、ランボは優しく語り掛けて応じてくれる子供ではなかった。となればなるべく早く彼を確保し、学校から追い出すしかなかった。
「なんなんだよ、もう」
逃げた牛小僧を追って、綱吉は階段を駆け下りた。曲がり角で愚痴を零し、見失わないよう目を凝らした。
他学年の教室前を突っ走り、ちょこまか逃げ回る弁当、もといランボを捕獲すべく何度も挑戦した。袋小路へ追い込むべく、人気の少ない方へそれとなく誘導した。
本校舎から特別教室棟へ移り、息を切らし、出口のない一本道で勝ち誇った笑みを浮かべる。
「もう逃げられないぞ、ランボ」
非常階段に続くドアは鍵がかかっていた。
「う、うわあん!」
ドアノブをどれだけ回しても、押しても反応しない。罠に嵌められたと気付いてか、ランボは癇癪を爆発させた。
顔を歪め、地団太を踏んだ。ゆっくり近付いてくる綱吉に向けて、頭から引き抜いた積み木の玩具やらなにやらを放り投げるが、狙いは定まっておらず、避けるのは容易かった。
「さ、弁当を返せ」
やんちゃ盛りの五歳児は、何事に対しても自分が一番でなければ気が済まない。
世の中はそんなに甘くないと教えるは、年長者の務めだった。
壁際に詰め寄って、鞄を取り戻すべく腕を伸ばした。
「うわああん! ツナなんかきらいだー!」
「うわ、ちょう。ランボ」
しかし最後の悪足掻きと、ランボは両手両足を振り回した。弁当が入った鞄も容赦なく揺さぶって、咄嗟に身を引いた綱吉の目の前で高く、遠くへと放り投げた。
感情が高ぶった状態だから、コントロール云々以前の問題だ。
見事すっぽ抜けた鞄は、こういう時に限って全開になっている廊下の窓をすり抜けた。支えを失い、重心が傾いて、開けっ放しのファスナーを越えてチェック柄の包みがちらりと頭を出した。
中身がぎっしり詰め込まれた重い弁当箱が、一足先に地上目掛けて落ちていく。
「ああああーっ!」
急いで窓から身を乗り出すが、届くわけがない。
自分まで転落しないよう手すりを掴んで、綱吉はガサッ、と音を立てた緑の木を呆然と見つめた。
生い茂る葉がクッションの役目を果たしたが、地上に叩きつけられた弁当が無事とはとても思えない。
「ふ、ふふ~ん。ランボさん、知らないもんね」
「待て、ランボ。お前なあ、覚えてろよ!」
ショックに打ちひしがれていたら、事の発端となった五歳児が素知らぬ顔で後ろを通り過ぎようとした。
誰が悪いのかは一目瞭然なのに、反省の色は少しも感じられない。むしろ自分を追い詰めた綱吉が悪い、と言いたげな態度に腹が立ったが、彼を叱るのは後回しにせざるを得なかった。
早くしないと、昼休みが終わってしまう。
「母さんにも言うからな」
「ぴぎゃっ」
手すりを頼りに立ち上がり、情けない捨て台詞を残して廊下を駆けた。
後ろで蛙が潰れたような悲鳴を上げたランボを無視し、転ばない程度に急いで階段を下った。あれだけ天地の区別なく振り回された弁当箱でも、蓋が外れて中身が漏れていなければ、食べるのは可能だからだ。
昼食抜きのまま午後の授業に突入するなど、考えたくもない。
それでなくともランボとの鬼ごっこで体力を削られて、空腹は絶頂に達していた。
「なんでオレばっかり」
言っても始まらない愚痴を散々零して、一階に辿り着いた。屋外に出るには一旦正面玄関へ出向き、靴を履きかえてからでなければならないが、その手間が惜しかった。
「ええい」
誰も見ていないのを確認して、覚悟を決め、窓枠を跨いだ。銀色のフレームに爪先を置いて、校舎の外に出た。
まるで二階の部屋を直接訪ねてくる誰かのようだ。
玄関の存在を完璧に無視してやって来る某風紀委員長を連想して、綱吉はふふっ、と笑みを零した。
「えっと、弁当は、どこ……だ?」
ささくれ立っていた心が少し和らいだが、落下した鞄と弁当箱を回収するまで安心出来ない。
きょろきょろと辺りを見回し、頭上を仰いで校舎端の窓の位置を確認する。
同じような木が一列に並んで植えられており、該当する木まではいくらか移動が必要だった。
「ど、こ、だ。ど、れ、だ?」
歩調に合わせて言葉を区切り、唄うように足を進めた。
首を竦め、若干猫背になっているのは、上履きのまま外に出た後ろめたさによるものだった。
こんなところを風紀委員に見付かったら、ネチネチと嫌味を言われるに決まっている。だから極力接地面を減らすべく、爪先立ちの忍び足で目的地を目指した。
「あった」
一時は見つからないのでは、と不安に駆られたけれど。
地面に横たわる平らな鞄のその先に、見慣れたチェック柄の包みは転がっていた。
まだ中身の無事が確認出来てはいないが、第一関門クリアだと、思わずガッツポーズが出た。脇を締め、握り拳を上下に振った綱吉は、歓喜の表情で目当ての品に駆け寄った。
「あ……」
だが楽勝に思えた展開は、想像を超える方向に転がった。
ダメツナにはこれくらいがお似合いと、運命の女神は残酷だった。
「誰だい、こんなところにゴミを捨てたのは」
彼が辿り着く直前、校舎の裏側から黒い影が現れた。これ以上はない、という絶妙なタイミングでやって来て、凍り付いた綱吉の前でチェック柄の巾着袋をひょい、と拾い上げた。
臙脂色の腕章が、腕を通していない学生服の袖で揺れていた。
パタパタと羽音がして、黄色い小鳥が黒濡れた髪に着地する。
「ダイナクショウナクナミガイイ~」
そうして軽やかに歌い奏でる姿は、時と場合によってはとても朗らかで、笑顔を呼び込むものだった。
しかし今の綱吉にとっては、緊張を悪化させる要因にしかならない。
ヒク、と頬を引き攣らせた彼を一瞥して、雲雀は不遜に口角を持ち上げた。
「君の?」
傍には空に近い学生鞄も落ちている。
そちらにも視線を向けた風紀委員長に、固まっていた綱吉はハッとなった。
「お、オレの、です。返して……えっと、ください」
惚けている場合でないと叱咤して、途中詰まりながらも訴えた。両手を伸ばし、掌を見せて、返却を求めて唇を引き結んだ。
しかし雲雀はすぐには応じず、綱吉を上から下に眺め、緩慢に頷いた。
「残念。拾ったのは僕だから、僕のものだよ」
赤い紐の巾着袋の中身が何であるか、重さや形状から、ある程度推測は可能だ。
意地悪く笑って言った青年に愕然として、綱吉は言葉を失い立ち尽くした。
「そんなあ」
あまりにも横暴が過ぎる発言だが、彼を糾弾しても痛い思いをするだけだ。
仕込みトンファーで殴られた衝撃を思い出すだけで、ぶるっと全身に震えが来た。骨が砕け、脳みそが飛び出すのではと危惧するくらいの激痛は、可能ならば避けたかった。
悔しいが、相手が悪い。
諦めきれないが、諦めざるを得ない状況に追い遣られて、綱吉は泣きべそをかいて鼻を愚図らせた。
「ううう」
哀しみに浸っていたら、呼応するかのように腹が鳴った。
きゅるるる、と哀愁を漂わせる音色は雲雀の耳にも届いたようで、彼はぶらぶら揺れる巾着袋と、綱吉の顔を交互に見比べた。
折しも、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
教室に戻るよう促す音色は、ただでさえ傷ついている綱吉の心を容赦なく打ち砕いた。
帰りの荷物を入れるのに必要だから、鞄だけは回収した。木の葉と砂埃を払い落とし、ぺたんこの腹に押し当てて、拭いきれない空腹を懸命に誤魔化した。
目尻に浮いた涙もそのままに、とぼとぼと歩きだす。
「待ちなよ」
意気消沈した姿はあまりにも憐れで、鬼と評される風紀委員長であっても、流石に同情せざるを得なかったようだ。
呼び止められて、綱吉は時間をかけて振り返った。
のろのろした動きで、訝しげに雲雀を見る。
彼は顔の横に巾着を掲げ、いかにも仕方なさそうに溜め息を吐いた。
「拾った側の取得権は、本来の持ち主の半分だったかな」
「……はい?」
「昼休み、随分騒々しかったみたいだね」
「うぎっ」
回りくどい台詞に、意味が分からずぽかんとなる。
間抜け顔を晒していたら、近付いてきた雲雀が弁当箱を高くした。重力を無視して逆立っている綱吉の髪を潰しながら巾着を沈めて、輪になっていた赤い紐をパッと手放した。
「うわ」
もれなく右に傾いた弁当箱が、傾斜を滑って落ちてきた。
大急ぎで両手を広げ、胸に抱え込む。代わりに落ちた鞄は、雲雀が拾ってくれた。
「応接室使いなよ。特別に許可してあげる」
「いいんですか?」
「空腹で授業に身が入らないまま教室に追い返しても、仕方がないでしょ」
「あはははは」
思わぬ優しい提案に驚き、夢でも見ている気になった。
手厳しい指摘には引き攣り笑いで返して、風紀委員長の気が変わらないうちにと、恐縮しながら彼に続いた。
正面玄関で上履きの底を払い、通い慣れた応接室までの道を行く。始業のチャイムが鳴った後の学校は静かで、大勢が一堂に集まっているのが嘘のようだった。
本来の用途を外れている応接室には草壁がいて、綱吉の顔を見てびっくりした顔をしたが、特になにも言わなかった。
委員長の気まぐれはいつものことと受け流して、弁当箱を机に置いた綱吉のために、熱いお茶を煎れてくれた。
「哲、僕にも」
雲雀は部屋中央の応接セットではなく、窓辺にある執務机に座った。背凭れを軋ませながら部下に命じて、机上にあった書類を手に取った。
「いただきます」
これ以上ない環境に相好を崩して、綱吉は両手を合わせて目を閉じた。
昼休みは散々だったが、結果オーライだと自分を慰めて、巾着を開き、弁当箱の蓋を外した。
だが。
「うわっちゃあ……」
幸運が続いていたので、うっかり忘れかけていたが、この弁当は実に多難な時間を過ごしていた。
米飯は片側に偏り、ハンバーグのソースが蓋の裏にべったり貼りついている。そのソースが糊代わりになって、卵焼きを掠め取っていた。
ポテトサラダはカップ型の容器からはみ出し、唐揚げと一体化していた。プチトマトとハンバーグが仲良く手を取り合っており、赤い球体は斑色の何かに変貌していた。
蛸の形をしたソーセージは米に埋もれて、窒息寸前だ。
大量の米粒がデコレーションされた蓋を静かに置いて、綱吉は顔を引き攣らせた。
「すごいね。どうしたの」
「三階から落としました」
「ああ、それで」
食べ物そのものは原形をとどめていたが、色々と混ざり合って、なかなかのカオスぶりだ。
湯気を立てる茶を啜った雲雀は成る程と頷いて、傍に控える草壁を手で追い払った。
意図を汲み、リーゼントの男が応接室を出ていく。
パタン、と閉まったドアをちらりと見て、綱吉は半分寄越すよう主張していた青年に首を傾げた。
「食べますか?」
色々な食べ物の匂いが絡み合い、見た目の悪さから食欲は湧かない。
本来の姿なら涎が溢れていただろうが、この有様では王様気質の雲雀も無茶を言ってこなかった。
「遠慮するよ」
「ですよねえ?」
切羽詰まっている綱吉ならまだしも、彼はいくらでも食事を手に入れる方法がある。
草壁に買って来させても良いし、宅配を頼んでもいい。並盛中学校で雲雀に逆らえる人間など、教職員室にだっていないのだ。
あっさり引き下がった彼に苦笑して、綱吉は箸を抓み持った。蓋に張りついている卵焼きをまず救出して、デミグラスソースの海に沈んでいる米飯からソーセージを引き抜いた。
最早どうにもならないと分かっているけれど、ぐちゃぐちゃになっている中身を簡単に整え、改めて瞑目する。
作ってくれた奈々や、ひょんなことから場所を提供してくれた雲雀に心の中で感謝して、意を決して口を開いた。
ポテトサラダがトッピングされた唐揚げにかぶりつき、トマトにまとわりつくソースはハンバーグの断面に擦りつけた。腹の中に入ってしまえば同じと、いつもと微妙に違う味付けを我慢して、がむしゃらに頬張った。
ゆっくり食べていると考えてしまうから、咀嚼もそこそこに飲み込んだ。
食べているうちに、ランボはちゃんと家に帰ったか、心配になった。
休憩時間になったら家に電話して聞いてみることにして、綱吉は口の端に付いたソースを指で拭った。
雲雀はといえば、机に向かって真面目に仕事をしていた。複数の書類と向き合って、なにやら難しい顔をしていた。
「なに?」
じろじろ見ていたら、気付かれた。
「いえ、なんでもないです」
彼はちゃんと、昼食を食べたのだろうか。
人の弁当を奪おうとした男だから、まだ食べていない可能性は高いが、空腹で死にそうな雰囲気でもなかった。
なにを考えているのか、今でもよく分からない。
白い箸の先をぺろっと舐めた綱吉に、雲雀は緩慢に頷いて返した。
「美味しい?」
「まあ、程ほどには」
質問されて、微妙な顔で答える。
ぐちゃっと混ざり合っていなければ間髪入れずに首肯出来だのだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
曖昧な返答で誤魔化して、残り少なくなった弁当を掻き込んだ。喉に詰まりそうになった時は、適度に温くなった茶の力を借りて、窒息だけは回避した。
「けほっ」
喉の真下を数回叩き、危なかったと冷や汗を流す。
火照った顔を手で扇いでいたら、ギシ、と金属が軋む音がした。
座っていた雲雀が、背凭れを手に立ち上がっていた。窓の外で待っていた小鳥のために鍵を開けてやり、そのまま机には戻らず、応接セットへ足を向けた。
綱吉は弁当を食べ終えたばかりで、彼の意図は不明だ。手早く片付けをしていたら、幅広のソファの真後ろに回り込まれた。
「やっぱりおこぼれ、もらおうかな」
「ええ?」
胸ほどの高さしかないソファの背凭れに寄り掛かり、声を潜ませて囁く。
弁当箱は、綺麗にとはいかなかったが空っぽで、今から雲雀が食べる分など残っていなかった。
ハンバーグのソースを舐めるくらいしか出来ないのに、いったい何を言い出すのか。
彼の気まぐれは初めてではないが、これほど意味不明な要求はなかった。
「おこぼれって、ヒバリさん」
蓋をした弁当箱を握りしめ、困惑に眉を顰める。
戸惑いに琥珀色の瞳を揺らめかせた綱吉を笑って、雲雀は小さく首を振った。
違う、という意味だろうが、何を指しているのかは分からない。
当惑する綱吉の表情をじっくり堪能して、雲の守護者は身を乗り出した。
背筋を伸ばし、ソファに座る未来のボンゴレ十代目に顔を近づけた。鼻息が肌を掠め、咄嗟に仰け反って逃げようとする小動物を追いかけて、凶暴な男は舌を伸ばした。
れろ、と生暖かい感触が唇の右端を通り過ぎる。
「――へ?」
なにが起きたのか、すぐに理解出来なかった。
一瞬で過ぎ去った微熱の正体にクエスチョンマークを生やして、綱吉は僅かに残る湿り気に指先を重ねた。
呆然と顔を上げれば、ふふん、と鼻を鳴らした青年が一度は閉じた口を開けた。
ベー、と伸ばされた赤い舌の先端には、小さな楕円の塊が横たわっていた。
拡大鏡を使わなくても、それがなんであるか、綱吉は知っている。
「ごちそうさま」
たったひと粒の米を舌先で包み、咥内に戻した雲雀が囁く。
満足そうに目を眇めた彼に見下ろされて、ハッと我に返った綱吉はみるみるうちに赤くなった。
「ぬあ、あっ、あ、あ~~~!」
彼が口にしたものがどこにあったのか。
それをどうやって掠め取ったのか。
ふたつのことを同時に悟って、綱吉は唇の際に置いていた指を勢いよく上下に動かした。
未だ残る感触を拭い去ろうとしたが、摩擦熱で余計に意識させられた。
擦り過ぎてヒリヒリ痛んで、必要以上に赤く染まった肌は簡単に元に戻りそうになかった。
2018/05/13 脱稿