訪ねて行った部屋は、無人だった。
見事にがらんどうで、誰かが出入りした形跡はない。朝からずっと帰っていないと予想して、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「どこ行ったんだ?」
首を捻って考えるが、心当たりはない。顎に親指を押し当てて唸ったところで、部屋の主が戻ってくるわけがなかった。
廊下の左右を確認して、仕方なく開けた障子を閉じた。真後ろから鳥の囀りが聞こえたが、振り返る直前に飛び去ってしまった。
黒い影がすうっと視界を離れ、跡形もなく消え失せた。
あと少しで掴めそうなのに、みすみす逃した心境に陥って、大柄な太刀は短い髪をぐしゃぐしゃ掻き回した。
「いや、別に用はないんだけど……」
当てが外れたと肩を落とし、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。退屈だったので暇潰しの相手を探していただけと、心の中でうじうじ言い訳を並べ立てて、猫背になって踵を返した。
両手を腰に当て、やや不貞腐れた表情で黙々と廊下を行く。
通りかかった部屋から笑い声がしたが、探している脇差のものではなかった。
「聞いて、……あ、いや。やっぱ、やめとこう」
鯰尾藤四郎たちなら行き先を知っているかと思ったが、わざわざ部屋に踏み込んで問い質すものでもない。
必死になっているとは思われたくなくて、ソハヤノツルキは寸前で踏みとどまった。
ピクリと震えた指で鼻の頭を弾き、後ろ髪を引かれつつ、脇差部屋区画を出た。自室に戻ろうと十字路を右に曲がって、数歩と行かないうちに立ち止まった。
足音がして視線を上げれば、謙信景光が急こう配の階段を駆け下りてくるところだった。
手すりがなく、幅が狭い箱階段だが、身軽な少年は途中で躓くことなく、無事一階へと辿り着いた。
「待てって、謙信。置いてくな」
「あはははは。こりゅうのまけー」
「なっ。勝負なんかしてないだろ」
直後に上から声が飛んで、小竜景光が顔を出した。彼の体格でこの階段はかなり降り辛く、それで手間取っている間に、真ん丸頭の少年は走り去ってしまった。
高らかと笑い声を響かせて、謙信景光が母屋の方へ走っていく。
やんちゃな短刀を身内に持った太刀に同情して、ソハヤノツルキは猫背を正した。
「上じゃなくて、よかったぜ」
天井にぽっかり空いた穴は、彼が顕現した直後にはなかったものだ。
仲間が増える度に増改築を繰り返してきた本丸だが、最近はついに拡張する土地がなくなった。仕方なく上に空間を広げることとなり、居住棟は二階建てになった。
だが後から付け加えた階段は傾斜が酷く、一階部分の通行を極力阻害しないためにと、横幅もひと振り分しか用意されていなかった。
短刀や脇差ならさほど苦にならないが、それ以上の体躯になると、登るのはともかくとして、降りるのには四苦八苦させられた。
それでも太刀までなら、なんとか通れた。しかし薙刀はさすがに無理があって、協議の結果、静形薙刀は獅子王と部屋を交換する形で落ち着いた。
鵺を背負ったあの太刀は、ソハヤノツルキと比べるとかなり小さい。
へし切長谷部いわく、今後は屋外に階段を設置する方向で進めるという話だが、それがいつ実行されるかは不明だった。
少なくともこの二、三日中に工事が始まる気配はない。
恐々階段を下りて来た小竜景光にひらりと手を振って、ソハヤノツルキは溜め息を吐いた。
「どうすっかな~」
内番には任じられておらず、出陣や遠征の予定もない。急ぎの用件は特になく、取り立ててなにかをしたい、という欲もなかった。
部屋でゴロゴロしてもいいが、今眠ってしまうと、夕餉に間に合わなくなる可能性があった。
日が暮れるのがすっかり遅くなった空に思いを馳せて、彼は意味もなく首の後ろを掻いた。
爪を立てて薄く跡を残し、来た方角をちらりと見る。
これだけ多くの刀剣男士が共同生活を送っているのに、小竜景光以降、居住区の廊下を歩く刀と一度も出会わなかった。
「みんな、どうやって過ごしてんのかねえ」
出陣できる刀の数は限られており、そこから外れた刀は基本的に本丸待機。畑仕事や馬当番といった仕事を命じられることもあるが、それだって毎日ではなかった。
料理や掃除も当番制だが、この枠組みから弾かれる日だってままあること。
料理好きの刀剣男士は当番でなくても台所に引き籠もっているが、ソハヤノツルキは生憎と、包丁仕事が得意でなかった。
農作業だって、あまり気乗りがしない。
馬の世話は嫌いではないが、暇潰しにするには、少々内容が重過ぎだった。
同じように退屈している刀を探して、無駄話に花を咲かせるのが一番気楽で良い。
しかし出鼻を挫かれたのが影響しているのか、身体が空いている刀に遭遇出来なかった。
「誰か居ねえかな、っと」
再び猫背になって、ぶらぶらと歩き出した。
部屋に戻ってもやることがないからと、太刀部屋区画には入らず、日頃縁のない大太刀部屋区画を訪ねてみた。
けれどここは、脇差部屋区画以上に静かだった。
石切丸や太郎太刀は、日中は本丸内にある小さな社を拠点としていた。次郎太刀の部屋からは鼾が聞こえた。蛍丸の部屋は襖が全開で、中を覗けば誰もいなかった。
あの小さな大太刀は、来派の刀といつも一緒だ。今日も愛染国俊らと居るはずで、当てが外れた太刀は深々と溜め息を吐いた。
兄弟刀が居れば一番良かったが、あの男は可愛がっている短刀を連れ、万屋へ出張中だ。
共にどうかと誘われたが、邪魔するのは悪いと断った。
「ついてっときゃ良かったか」
けれど今は、少し後悔していた。変に遠慮せず、提案に甘えておけばよかった。
「あ~、ああ」
眠くないのに無理矢理欠伸をして、両腕を頭上へ伸ばした。肩の骨をコキコキ鳴らし、首を回して、辿り着いた行き止まりの壁を蹴って百八十度方向転換した。
この辺りまで来たのは、実は初めてかもしれない。
行く必要がない場所にわざわざ足を伸ばすのは、馬鹿のやることだ。
その馬鹿になっている自分を笑って、彼は来た道を黙々と進んだ。
左右の景色には全く変化がなく、好奇心をそそるものは見当たらなかった。
「ふあ、ああ」
今度は本物の欠伸を零して目尻を擦れば、前方遥かを仲良く並んで歩く集団が見えた。
似たり寄ったりの服装をしている刀の背丈は、どれも小さい。
「お出かけかい?」
粟田口の短刀たちが、こぞってどこかへ向かおうとしていた。
横一列に並び、廊下を埋めている。歩く速度はゆっくりで、追い付くのは造作もなかった。
興味を惹かれ、五歩ほど後ろから声をかけた。談笑していた集団が一瞬ざわついて、真っ先に振り返ったのは後藤藤四郎だった。
「うんにゃ。でも天気良いし、その辺ぶらぶらしようって」
頭の後ろで腕を組んでいた彼は、近付いてくる太刀に臆すことなく笑って言った。
隣に立っていた五虎退も同意して頷き、露わになっている左目をきらきら輝かせた。
「あ、あの。ソハヤさん、も。御一緒に。どうですか?」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、爪先立ちでひょこひょこ揺れながら言う。
思わぬ勧誘に驚いていたら、乱藤四郎が柑子色の髪を掻き上げた。
「どうせ暇なんでしょ?」
「ぎくっ」
「ぶは」」
こちらの心を見透かしたかのように、嫣然とした微笑みを浮かべながらの発言だった。
ドキッとしたのは嘘ではなくて、ソハヤノツルキは反射的に胸を押さえた。咄嗟に顔を背けてしらを切ろうとしたが、あまりにも分かり易い反応に、短刀たちは狙ってやっていると思ったようだ。
ドッと笑いが起きて、本当のところを口に出せる雰囲気ではなかった。
もっとも、暇を持て余していたのは間違いない。この際行き先はどこでも良いと腹を括って、彼は粟田口の提案に乗ることにした。
「そうだな。たまには、悪くねえな」
前田藤四郎や信濃藤四郎たちは、兄弟刀である大典太光世と関わり合いが深い。その延長で、ソハヤノツルキとも喋る機会が多かった。
包丁藤四郎とは、前の主が同じだ。けれどそれ以外の粟田口とは、あまり親しくしてこなかった。
屋敷内で度々顔を合わせていても、出陣で一緒になる機会は稀。
賑やかに、和気藹々と過ごしている短刀たちを遠目にすることはあっても、その輪に加わった経験はなかった。
「じゃあ、あそこにしましょうよ」
小さい刀に群がられている大典太光世の姿は、これまで幾度となく目撃している。
あの男の視界はこんな風だったのかと想像して、ソハヤノツルキは手を叩き合わせた秋田藤四郎に首を傾げた。
あそこ、と言われても、さっぱり見当がつかない。
「あ、いいね。そうしよっか」
「んじゃま、行くとしますか」
しかし粟田口の短刀たちは、たったこれだけで理解した。乱藤四郎が一番に賛同して、異論なしと後藤藤四郎が右腕を掲げた。
説明はなかったが、ついていけばなんとかなるだろう。
「おっと」
彼に続こうとしたら、くい、と袖を引かれた。
なにかと思って視線を移せば、五虎退が恥ずかしそうに微笑んでいた。
白い肌を紅に染めて、獣じみた犬歯を表に出した。言葉はないが何かを訴える眼差しに、ソハヤノツルキは困惑して眉を顰めた。
こういう状況は初めてなので、短刀が何を求めているか、まるで思いつかなかった。
「どうした?」
「えっと、あの……」
仕方なく説明を求めるが、五虎退は口籠もるばかりではっきりしない。
後藤藤四郎らはずんずん進んでおり、距離が開きつつあった。
「五虎退?」
「あ、あの。やっぱり、僕」
怪訝にしていたら、意を汲んでくれないと悟った短刀が摺り足で後退した。
差し出がましい要望だったと恥じ入り、首を竦める。その傍らで、遠慮を知らない少年が元気よく飛び跳ねた。
「ソハヤさん、手を繋いでも良いですか?」
あるいは、秋田藤四郎は空気を読んだのかもしれない。
右手を高く掲げながら質問されて、ソハヤノツルキは目を丸くした。
「手?」
「はい!」
急な申し出に驚いて、空っぽの己の手を見やる。
鸚鵡返しに訊き返した彼に、桃色頭の少年はお手本のような返事をした。
それでようやく、五虎退がなにをして欲しがっていたかが分かった。
「ああ」
言ってくれればすぐ応じてやれたのに、それが口に出せない性格らしい。
豪快で大雑把な刀が多い中で、見た目相応の幼さを披露した短刀に相好を崩し、ソハヤノツルキは分厚い掌を差し出した。
「ほらよ」
右、左と順に伸ばして、片方ずつ掴むよう促す。
途端にふた振りはぱあっと目を輝かせ、嬉しそうにはにかんだ。
「ソハヤさんの手、いち兄と違って、ごつごつしてますね」
「まあな。お前さんらの兄貴こそ、細っこくて心配になるぜ」
先に秋田藤四郎がしがみついて、僅かに遅れて五虎退が抱きついてきた。引っ張られた肩の筋が変な風に伸びたが我慢して、小柄な刀に合わせて足を繰り出した。
じれったくなるくらいゆっくりと廊下を進み、先行する刀を追いかける。
玄関で待ち構えていた後藤藤四郎には、ニッと歯を見せて笑われた。
「悪いな」
「お前らこそ、大変だな」
大典太光世が軽々とやってのけていたので甘く見ていたが、これは思ったより大変だ。
ちょっと気を緩めると短刀を引きずってしまうし、逆に遅すぎると短刀に引っ張られる。左右で異なる動きをする刀を制御しつつ、真っ直ぐ進むのは至難の業だった。
一期一振は毎日こんなことをしているのかと、感心するしかない。あまり接点がない刀だが、胸の内の評価はうなぎ登りだった。
短刀の中でも年長組の後藤藤四郎や乱藤四郎も、さぞや手を焼いていることだろう。
同情を返せば、彼は「ヘヘっ」と笑っただけだった。
「風が気持ちいいですね」
草履を履いて屋外に出れば、空は見事に晴れ渡っていた。
雲は少なく、風はそこそこ強い。太陽はとっくに南を通り過ぎて、西に向かおうとしていた。
足元をすっと影が駆け抜けて、視線を上げれば猛禽の類が旋回していた。
群れを作らず、単独で狩りを敢行している獣に思いを巡らせているうちに、ドン、と背中を衝かれた。
「こっち、です」
ぼんやりしていたら、また置いて行かれるところだった。
肩を捻って首から上だけを後ろに向ければ、五虎退が腰にしがみつき、右前方を指差していた。
臆病でいつもビクビクしている少年だが、目が合った途端、嬉しそうに破顔一笑した。秋田藤四郎は前に回り込んで勝手に左手を掴み、思い切り引っ張ってきた。
「早く行きましょう」
「お、おう」
元気いっぱいに叫んで、全力で走り出す。
うっかり転びそうになったソハヤノツルキはなんとか失態を回避して、草履の底で地面を蹴った。
踏み潰された青草は、足を外した途端にピンッ、と背筋を伸ばした。よく見ないと分からないくらい小さな花が咲いており、蜜を集める蝶が風に煽られながら飛び回っていた。
楠の幹に蔓草が絡まり、木漏れ日が地表を彩る。
だが、じっくり景色を眺める猶予は与えられない。彼らは枝を伸ばす木々の間を抜けて、大きな岩を抱きこむ木の根を飛び越えた。
こんなところに来た事など、一度もない。
暇があれば大典太光世と碁盤を囲い、たまに書物に目を通し、それ以外だと道場で汗を流す。
何もする気が起きない日は部屋でごろごろ寝転がって過ごし、懐が暖かい日は万屋を冷やかしに行った。
本丸の中を探索しようなど、思いついたことすらなかった。
短刀たちの声が一切聞こえない日がたまにあるのには、気付いていた。毎日喧しいくらいなのに、珍しいこともあると、不思議に思いつつも原因を探ろうとはしなかった。
彼らはソハヤノツルキが知らないところで、こんな風に庭を駆け回っていたのだ。
屋敷の施設を往来する最短経路から外れた道は、とても道と呼べた代物ではなかった。
短刀たちは獣が徘徊する悪路を慣れた調子で突き進み、鬱蒼と茂る木々の隙間を躊躇無く進む。
どれだけの回数を往復しているのか、迷う素振りは一度もなかった。
「ソハヤさん、早く。早く」
「ちょ、ちょっと待てって。どこまで行くんだ?」
昼間だというのに薄ら暗い場所は、闇に弱い太刀にとって恐怖だ。
だが尻込みするのさえ許されない。短刀たちが放つ強烈な活力に、先ほどから圧倒されっ放しだった。
行き先は『あそこ』としか聞いていない。
それがいかなる場所なのか、皆目見当がつかなかった。
興味はあるが、難路が太刀の体力を容赦なく削り取る。
短刀たちなら軽々飛び越せる籔も真正面から突破するしかなく、気が付けば洋袴のあちこちに木の葉が貼り付いていた。
頭に引っかかる枝を払い退け、繋いだ手を頼りに息を切らしてもう幾ばくか。
そろそろ限界だ、と思い始めた矢先、暗かった視界が急に、眩い光に包まれた。
「とうちゃ~っく!」
一緒に森から飛び出した秋田藤四郎が、万歳しながら歓喜の雄叫びを上げた。
勢いを殺し切れず、前のめりに倒れかけた体躯を支えて、ソハヤノツルキは眼前に出現した光景に騒然となった。
「すげえ……」
「ようこそ。僕たちの秘密基地へ」
先に到着していた乱藤四郎が、両手を挙げて太刀を歓迎する。
後藤藤四郎は得意げな顔をして鼻の下を擦り、見事に咲き誇る花々の楽園を掌で示した。
地表を覆う緑に、それを上回る数々の花。赤や黄色、白に紫と、鮮やかな色彩がそこかしこに溢れていた。
そんな花畑を飛び交う蝶は、本丸とは段違いの数だ。ぶうん、と羽音がして、仰け反った先で見たのは鋭い針を持つ蜂だった。
なんの準備もして来なかったので、草履履きの足は細かな傷だらけだ。疲れ果て、立っていられなくて座り込めば、むわっと来る土の臭いの後に、様々に混じりあった花の香りが漂った。
「ソハヤさん、これ、どうぞ」
姿勢を低くして、燦々と日差しを受けて輝く草原を呆然と眺める。
一旦は場を離れた五虎退が戻ってきて、摘みたてと分かる花を五輪ばかり、まとめて差し出した。
訳が分からないまま受け取って、困惑に目を眇めた。まさか頭に飾れ、と言われているのかと思っていたら、見ていた後藤藤四郎が何故か腹を抱えて噴き出した。
「ちげえって。こっちの方な、こうやって蜜が吸えるんだ」
当惑する太刀の心理を読んで、別の花を使って実践してくれた。
相変わらず言葉が足りていない五虎退を見れば、微笑みながら頷かれた。
「美味しい、ですよ」
「へえ……」
後藤藤四郎の言った通りだったと知り、教えられた通り花の根本を毟った。
試しに咥えてみた花は、短刀であれば丁度ぴったりの大きさだったが、太刀がやると若干滑稽だった。
まるで喇叭を吹いている気分だ。しかも吸える蜜はごく僅かであり、喉の渇きを癒やすにはとても足りなかった。
「この辺の花、全部毟っちまいそうだ」
「だ、駄目です。蝶々さんが、お腹空かせちゃいます」
「いや、しねえって」
与えられた分を全て吸い終えて、ソハヤノツルキは立ち上がった。低木にびっしり隙間なく咲いている花に近付けば、冗談を真に受けた五虎退が身体を張って前を塞いだ。
ちょっとした悪ふざけだったのに、こうも真顔で応じられると傷つく。
顔の前で右手を振った彼に、短刀たちはホッとしたり、笑ったり、様々だった。
広々とした空間は、本丸の庭からだと全く見えない。
背筋を伸ばし、遮るもののない青空を仰いでいたら、涼やかな風が頬を撫でていった。
ざああ、と遅れて木々がざわめき、足元を埋める雑草が身体全部を使って踊った。
柔らかくてふかふかな緑の絨毯は、少々青臭いのを我慢すれば、寝床として申し分なかった。
天気のいい日に昼寝をするには、もってこいだ。
「いいのか? 秘密の場所を俺に教えちまって」
蜜を吸うのは諦め、今一度場所を選んで膝を折った。地面に直接腰を下ろせば、すかさず秋田藤四郎が背中に抱きついて来た。
近くでもじもじしている五虎退を手招けば、嬉しそうに膝に潜り込んできた。足を揃えて畏まり、満面の笑顔で振り返った。
「秘密、じゃ、……ないです」
「大典太さんも知ってますよー」
「んだよ、それ。俺だけ蚊帳の外ってか?」
「もう、外じゃない、です。えヘヘ」
思いがけず兄弟刀の名前が飛び出して、拗ねていたら慰められた。
首を竦めて目を細めた短刀の頭を撫でてやって、ソハヤノツルキは流れる雲に意識を傾けた。
「兄弟以外に、知ってるやつは?」
その雲のひとつが、探したけれど結局見つからなかった脇差の横顔に似ていた。
ほかの刀に言わせたら、どこが、と首を傾げたくなる形だったが、そう感じてしまったのだから仕方がない。
走っているうちは忘れていたことを思い出した彼に、五虎退と秋田藤四郎は小さく唸り、指を折った。
「えっと。謙信君となら、一緒に来たことあります」
「薬研兄さんは、宗三さんと不動君を連れて来たって、前に言ってました」
「へえ」
名前は出なかったが、一期一振は勿論連れて来られたことがあるだろう。鯰尾藤四郎や、骨喰藤四郎も、恐らくは。
ソハヤノツルキが知らなかっただけで、案外多くの刀が此処を訪れているらしい。前田藤四郎に手を引かれる大典太光世の姿も楽に想像出来て、なんだかおかしかった。
「物吉は?」
「物吉さんですか? どうでしょう。後藤兄さ~ん」
気が付けば、訊ねていた。
ぽろっと零れ落ちた音を拾って、秋田藤四郎が遠くに向かって手を振った。
後藤藤四郎は尾張徳川家に伝わった短刀で、物吉貞宗との付き合いも長い。ソハヤノツルキが顕現した後も、彼らは特に仲が良かった。
「えっ、あ、いい。やっぱいい」
太刀の分からない話で盛り上がっている彼らを見ていると、訳もなく不安になった。もやもやしたものが胸の奥深くに絡まって、あまり良い気がしなかった。
そういった経験が引っかかって、つい声を荒らげた。
しかし時すでに遅し。弟刀の呼びかけに応じて、後藤藤四郎はこちらに走って来ていた。
「ん? なんだ?」
まずは秋田藤四郎に話しかけて、気まずそうにしている太刀に視線を移す。
首を捻る少年は無邪気で、大人げない感情を抱いている自分が恥ずかしかった。
目を合わせられず、ソハヤノツルキは明後日の方向を向いたまま黙り込んだ。それで再び弟刀に意識を戻した少年は、両手を腰に当て、右膝を軽く折り曲げた。
爪先で地面を穿った彼に、五虎退が僅かに身を乗り出した。
「後藤兄さんは、物吉さん、連れて来たことありますか?」
「え? なんで物吉?」
口籠もる太刀に代わって質問して、間髪入れず返された疑問に眉を顰める。
この場に居ない刀の名前がどうして出てくるのか、一連のやり取りを聞いていなかった短刀に分かるわけがない。だが五虎退だって、ソハヤノツルキの口から強運の脇差の号が出た理由を知らないのだ。
きょとんとして、振り返る。
複数の視線を一度に浴びて、ソハヤノツルキは深々と溜め息を吐いた。
「別に、なんとなく」
観念し、白旗を振った。
うっかり口が滑っただけで、深い考えがあったわけではない。
ただこの花畑が、あの少年に似合うような気がしただけだ。短刀たちとも仲がいい脇差だから、きっともう連れて来られていると思って、それを知らなかった自分が悔しかっただけだ。
頭皮に爪を立て、金髪をがりがり掻き毟った。
狭隘な心の持ち主と呆れられるのを覚悟して、侮辱に満ちた眼差しを受け止めるべく背筋を伸ばした。
「ふうん。てか、連れて来てねえけど。あいつ、なんだかんだで忙しいし。それがどうかした?」
歯を食いしばり、打ち首の刑に処される心持ちで構えていた矢先。
変に力むソハヤノツルキに気付くことなく、後藤藤四郎はあっさり言い放った。
逆に聞き返されて、見事に空回った太刀はあんぐりと口を開けた。目を点にして後藤藤四郎を見上げていたら、トスン、と肩から背中に向かって衝撃が走った。
「よかったですね、ソハヤさん」
首から上だけで振り向けば、秋田藤四郎が満面の笑みを浮かべていた。
にこにこと屈託なく笑いかけられて、独り相撲に興じていたのを自覚した男はカアっ、と赤くなった。
「べっ、別に良かったとか、そういうんじゃ。な、ん……なんでもいいだろ!」
仰け反り避けて、短刀を引き剥がす。
膝に乗っていた五虎退を危うく潰しそうになったが、身軽な少年は危機を察し、一足先に脱出していた。
火照って熱い顔を手で扇ぐが、熱はなかなか引いてくれない。短刀たちに不思議そうに見つめられて、居心地が悪いことこの上なかった。
「物吉さん、連れて来てあげたら、喜んでくれると思いますよ」
「ああ、いいんじゃね? そうしてやれよ」
「……覚えてねえよ、道順」
一方で少年らは好き勝手言って、羞恥に喘ぐ太刀に涼しい風を送りつける。
悪気が一切ない発言に小鼻を膨らませて、ソハヤノツルキは起こした右膝に頬杖をついた。
先ほどからずっと、彼らに振り回されっ放しだった。
大典太光世も、こんな気持ちになることがあるのだろうか。意外に短刀たちと行動を共にする機会が多い兄弟刀を思い出して、彼は下手なことを言わないよう、口に蓋をした。
右掌で顔の下半分を覆い隠し、鬼ごっこを開始した三振りをぼんやりと眺める。
あれこれ無駄に考え過ぎていたのを反省していたら、甘く漂う花の香りがふわっ、と大きく膨らんだ。
「どうしたの? 元気ないけど」
「なんだ、これ」
軽いものが頭の上に落ちて来て、視線を上げれば乱藤四郎が背後に立っていた。
彼が被せたのだろう、頭上にあったのは花冠だ。白く、手毬のように丸い花を使って、緑の茎を絡めて輪を作っていた。
太刀の頭には少々小さいが、あまり大きくすると花の重みで形が崩れてしまいそうだ。なかなか上手く出来ていると感心して、ソハヤノツルキはしゃがみ込んだ短刀の頭に花冠を返却した。
「似合う?」
「ああ、可愛い。かわいい」
「んもう。心が籠もってない!」
その状態で小首を傾げられて、正直に感想を述べた。だのに信じてもらえなくて、緩く握った拳が一発、肩に落ちて来た。
殴られたが、痛くない。一応避ける仕草だけして、ソハヤノツルキは破顔一笑した。
乱藤四郎の柑子色の髪に、白と緑で作った花冠はとても良く似合っていた。色味が引き立ち、ただでさえ少女じみた姿が一層際立っていた。
これで市中に佇んで、彼が男だと気付ける輩がどれほどいるだろう。
試してみたい気もするが、乱藤四郎にとっては迷惑な話だ。大人しく言わずに済ませて、彼は足元近くに咲いていた小さい花を一輪、摘み取った。
「ほれ」
「ありがと」
薄紫色の花だけ残し、葉は毟って短刀の耳元に挿してやる。
一挙手一投足を見守っていた少年は満足そうに微笑んで、ソハヤノツルキが選んだ花飾りの位置を調整した。
彼が動く度に、花冠が落ちそうで、落ちない程度に揺れ動いた。
遠くから後藤藤四郎らのはしゃぐ声がした。五虎退が転んだのだろうか、緑の葉が一斉に宙を舞い、甲高い笑い声がこだました。
ソハヤノツルキは彼らのように、野を走り回ったりしない。出来ない。
次にここに来る機会があったとして、その時自分はなにをして過ごすのか。
「ソハヤさん?」
「っ」
思いを馳せていたら、耳元で名前を呼ばれた。
一瞬違う刀を想像してしまい、ビクッと身体が震え、反応は大袈裟だった。
視線を向けた先にいたのは、乱藤四郎だ。けれど真ん丸い瞳が、探したが会えなかった脇差を想起させて、落ち着かなかった。
「あ、いや」
似ても似つかないのに、重ねてしまった。
一緒に居るのがあの刀であればと、僅かなりとも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
苦虫を噛み潰したような顔をして、勝手に赤くなる顔を掌で覆い隠す。
乱藤四郎はそれを黙って見守って、しばらくしてからふふん、と鼻を鳴らした。
「物吉さんじゃなくて、残念?」
「ちっげえよ!」
「あはは。図星だ~」
「ぐ、う」
藪から棒に言われて、声が上擦った。
遠くにいた秋田藤四郎が立ち止まるくらいの大声に、乱藤四郎は腹を抱えて笑い転げた。
もっとしっかり否定したいところだけれど、これ以上は墓穴を掘るだけだ。そもそも見透かされて悔しいやら、照れ臭いやらで、言葉はなかなか出て来なかった。
中途半端なところで握り拳を揺らし、行き場のないそれを最終的に膝へ叩きつける。
歯軋りしながら骨と骨をゴリゴリ擦り合わせていたら、一頻り笑って満足したのか、乱藤四郎が深呼吸して目尻を拭った。
「ねえ。良い事教えてあげよっか」
白い歯を見せて、悪戯っぽく笑った。この時だけ、彼の顔が年相応の少年に見えた。
屋敷に帰り着いたのは、夕焼けが西の空いっぱいに広がった後だった。
あと半刻もすれば、太陽は地平線の下に沈むだろう。夕餉の開始まで、もう間もなくといったところだった。
「疲れた」
出かけたと言っても、本丸の敷地から出ていない。だのに戦場で、時間遡行軍相手に大立ち回りを演じた後よりも疲弊していた。
身体中から青臭さが漂い、食事よりも先に風呂に入りたかった。爪の先は薄ら緑に染まって、鼻に近付ければ、ぷわん、と酸っぱい香りが嗅覚を刺激した。
たまらず仰け反り、涙目になって首を振る。
「あいつら、なんであんなに元気なんだ?」
玄関を入ったところで別れた短刀たちは、腹が減ったと喚きながら台所に突進していった。帰り道も、どこで覚えてきたか分からない歌を大声で歌って、ほぼ休みなしだった。
体力はある方だと自負していたが、自信を無くしそうだ。
道中で作った細かな擦り傷の痛みを堪えて、ソハヤノツルキはギシギシと床板を踏み鳴らした。
本丸の本棟と、刀剣男士の居住区画である北棟は、屋根を持つ長い渡り廊で繋がっていた。
そこを行く刀の大半は、夕餉を求めて南側の母屋を目指している。ソハヤノツルキのように北に進む刀は少数派だった。
そういった多くの刀に見られないよう、手にしたものを背中に隠し、慎重に左右を窺いながら道を行く。
「ソハヤ、どうした。もう飯だぞ?」
「知ってる。着替えてくるから」
途中で兄弟刀である大典太光世と遭遇して、短いやり取りを交わした。
ひらりと手を振った後で、大柄な太刀に隠れる形で短刀が一緒だったと知り、その仲の良さが羨ましくなった。
ぺこりと頭を下げて会釈した前田藤四郎は、当たり前のように大典太光世と手を繋いでいた。
「今の俺、臭ぇな」
太い指に白く細い指が絡む様など、これまで意識したことがなかった。
果たして自分は、どうだっただろう。過去にどれだけ物吉貞宗と手を繋いで来たか、思い出そうとしても、これといって浮かんで来なかった。
全く関係ないことを呟いて気持ちを誤魔化し、人気が乏しくなった廊下の先に目を凝らした。乱藤四郎の口車に乗せられた自身の軽率さに肩を落として、さっさと部屋に戻ろうと足を動かした。
苦心の末にどうにか完成させたけれど、これを手渡すのは、冷静になってみるとかなり恥ずかしかった。
短刀たちは絶対喜んでくれる、と太鼓判を押してくれたが、いまいち信じられない。
手先はあまり器用でないと自負しており、実際出来上がったものはかなり不格好だった。
手本とした乱藤四郎の作品とは、天と地ほどの差がある。
「どうすっかなあ」
今なら無かった事に出来ると、弱腰な自分が耳元で囁いていた。
だいたい、柄ではない。ソハヤノツルキという太刀はもっと凛々しく、男らしく、豪胆で、豪快であるべきではないか。
臆病風に吹かれて、悶々として捗らない。足取りは徐々に緩み、気が付けば廊下が十字に交差する一歩手前で停止していた。
「ソハヤさん?」
「うおっ」
惚けていたところに、不意打ちで声がかかる。
完全に油断していた。肉体から抜け出ていた精神が駆け足で舞い戻って、頭を金づちで殴られたような衝撃に背筋が粟立った。
単に名前を呼んだだけなのに、こうも驚かれると、向こうは思っていなかったに違いない。
慌てて身体を半分ずらして、ソハヤノツルキは背中に隠し持ったものを握りしめた。
「どうしたんですか? うわ、磨り傷だらけじゃないですか」
肘を鋭角に曲げて、前方から見るとかなり不自然な姿勢だ。しかしゆっくり近付いてきた少年は別のことに気を取られ、そこまで注意が向かなかった。
琥珀色の瞳を眇めて、物吉貞宗が白い靴下で床を擦った。
太刀の手足に残る傷は、大半が塞がった後だ。血が滲んでいた箇所もあるけれど、どれもすっかり乾き、瘡蓋が出来ていた。
ただし身にまとう衣服はそうはいかず、細い枝に引っ掻けた箇所が解れ、小さく穴が開いていた。
「大丈夫だ。たいして痛くない」
「でも、消毒しないと」
「平気だって」
覚悟が定まっていない時に限って、どうして前触れもなく現れるのだろう。
内心の動揺を必死に抑えて、ソハヤノツルキは距離を詰めてくる脇差を制した。
語気を荒らげ、半分怒鳴るように訴えた。
太刀を案じてお節介を口にした少年は吃驚して目を丸くして、数秒黙り、控えめに微笑んだ。
「すみません」
差し出がましい真似をしたと、自責の念に囚われている表情だった。
要らぬ世話を焼いて嫌がられたのだと勘繰り、後悔している雰囲気だった。
そんなつもりはないのに、哀しい顔をさせた。脇差は俯き加減で、遠慮がちに腰を引いており、このままそそくさと立ち去られる未来しか想像出来なかった。
「じゃあ」
「物吉、待て!」
現実に、彼はぺこりと頭を下げ、ソハヤノツルキから目を逸らした。
下を向き、爪先立ちで小走りに駆け出そうとする気配を察して、咄嗟に引き留めていた。
言ってからハッとして、本当はどうしたいのかと自分自身に問いかける。
恐る恐る振り返った物吉貞宗の、寂しさと哀しさが入り混じった眼差しが胸を締め付けた。
「えっと、その。……帽子、取れ」
「帽子ですか?」
戸惑いつつ向き直った脇差が、ぶっきらぼうな命令に眉を顰めた。
不審に思いつつも彼の手は頭上を泳ぎ、言われた通り、白い帽子の鍔を掴んだ。髪型を崩さないようそっと外して、これでいいかと言わんばかりに太刀を仰ぎ見た。
夕暮れ時だからか、琥珀の瞳がほんのり朱を帯びていた。
なにも聞かずに応じてくれた彼の素直さに感謝して、ソハヤノツルキは意を決し、腹に力を込めた。
「お前に、やる」
「え?」
ずっと握り締めていたものを、躊躇を振り払って高く持ち上げた。
素っ気なく言って、ふわふわ頭の上に掲げた。正直言って見栄えの悪い、不格好な花冠を真下に落とした。
重みをさほど感じなかったらしく、物吉貞宗がぽかんと目を丸くする。
一瞬迷ってから頭上に手をやった彼は、指に触れるものの正体がすぐに分からなかったようだ。しつこく撫で回した後、指に引っかけて取り外した。
帽子は脇に挟んで持ち、現れた色鮮やかな冠に息を飲む。華奢な肩が大きく跳ねて、翳っていた肌色は一気に輝きを取り戻した。
「これ……え? ボクに、ですか?」
「他に誰がいるんだよ。つか、要らないなら捨ててくれ」
「ソハヤさんが作ってくれたんですか?」
踵を浮かせ、身体ごと花冠を上下に揺らした。声色は歓喜に彩られ、兎のようにぴょんぴょん跳ね飛びそうな勢いだった。
こちらの台詞をさらっと無視して、一方的に捲し立て、詰め寄って来る。
ぶつかる寸前まで迫られて、距離感を無視した物吉貞宗に呆気に取られた。
「悪かったな。下手糞で」
「いえ。いいえ。うわあ、うわあ。すごい。すごいです、ソハヤさん。嬉しいです。ありがとうございます」
短刀たちの言った通りになったけれど、素直に全部を受け止めきれない。こんなにも喜ばれるとは想像しておらず、鼻の奥がむず痒くて仕方がなかった。
照れ臭くて、言葉はつっけんどんになる。けれど脇差は特に気にする様子もなく、少々歪んでいる花冠を大事に抱きしめた。
白詰草だけだと、色味が乏しい。桜色の物吉貞宗の髪色に紛れてしまって、あまり目立たないのではと懸念された。
だから土台を作った後で、違う花を隙間に織り込んだ。赤、薄紫、橙、黄色と、野に咲く名前も知らない花を多数、紛れ込ませた。
出来るだけ派手に、と取り組んでいるうちに、些かやり過ぎたのはご愛嬌だ。
これも、と秋田藤四郎が摘んできた蛇苺の実は表面が凸凹しており、艶々した表面は赤い宝石を思わせた。
「えヘヘ。嬉しいな。嬉しいなあ」
十二月の末にある西洋の祭りでは、蔓を輪にして色々なものをぶら下げた飾りがお目見えする。
雰囲気としてそれを目指してしまった為に、冠としては少々喧しいものになってしまった。
けれど物吉貞宗は満面の笑みを浮かべ、ソハヤノツルキの前でくるっと一回転した。
踊るように跳ねて、帽子の代わりに花冠を頭上に戴いた。
ふかっと柔らかな髪に被せ、両手を放し、目を細めた。
「似合いますか?」
そうして首を傾げながらの問いかけられて、ソハヤノツルキは。
2018/05/12 脱稿
山桜霞の間よりほのかにも 見てし人こそ恋しかりけれ
紀貫之 古今和歌集 恋一 479