死ぬとぞただに 言ふべかりける

 雨戸を閉めていても、虫の声は五月蠅かった。
 耳を澄ませば寝息が聞こえて、誰かが寝返りを打つ音が後に続いた。どすん、と威勢よくひっくり返った先には別の誰かがいたようで、蛙の潰れるような声が短く響いた。
 それでも目を覚ます刀はなく、抗議の声は生まれなかった。ううん、と唸り声は聞こえたが、それも十秒と経たずに止んで、誰かの鼾で掻き消された。
 寝る間を惜しんで鳴く虫は、いったい何を必死になっているのだろう。
 是非とも教えてもらいたいところだが、生憎と昆虫どころか、獣の言葉さえ分からない。意志疎通は永遠に果たせそうになかった。
「眠れない」
 もうかれこれ半刻以上、布団に横になったまま悶えている。
 少しも訪れない眠気に愛想を尽かして、前田藤四郎は溜め息を吐いた。
 仰向けの状態で瞼を開ければ、真っ暗い闇の向こうに天井が見えた。灯りはひとつ残らず消されているというのに、波打つ木目まではっきり確認出来た。
 意識が冴えすぎて、感覚が過敏になっていた。睡魔がやってくると同時に低下するはずの機能は、しかしこの時間になっても、昼同様の効力を発揮していた。
「はあ」
 口を開けば、溜め息の連続だ。
 居心地の悪さに身を捩って、彼は右肩を下にして姿勢を作り変えた。
 すぐ隣に敷かれた布団では、平野藤四郎がすやすやと眠っていた。時々鼻がピクリと動くくらいで、瞼は固く閉ざされていた。
 日中は生真面目を絵に描いたような凛々しさながら、就寝中の表情は穏やかだ。若干緩み過ぎているくらいで、口の端から涎が垂れていた。
 拭ってやりたいところだが、触れて起こしてしまうのは可哀想だ。
 悩んだ末に放置することにして、前田藤四郎は良く名前を間違えられる兄弟に目を細めた。
「……駄目ですね」
 彼に倣って目を閉じてみたが、相変わらず頭は冴え冴えとしていた。少しも眠くなくて、欠伸すら出なかった。
 こんなことは、滅多にない。身に馴染んでいるはずの枕の上でゴロゴロして、吉光が短刀のひと振りは両手で顔を覆った。
 二重に視覚を遮断してみたが、闇の濃さが変わっただけで、他に変化は生じなかった。すぐに結果は出ないとしばらく耐えてみたが同じで、腕が疲れただけだった。
「はああ」
 先ほどよりもずっと大きく、長い溜め息を吐いて、肘を伸ばして大の字になる。
 指先が敷き布団からはみ出して、乾いた畳の縁に爪が当たった。
「どうしましょう」
 このまま朝を迎えることになるのかと思うと、憂鬱でならない。かといって今すぐ眠ろうにも、気力でどうにかなるものではなかった。
 悶々としながら打開策を考えるが、妙案はひとつも浮かばない。ただ悪戯に時間が過ぎる一方で、苛々すればするほど、眠気は遠ざかって行った。
 肘を曲げ、掛け布団の上で両手を重ね合わせた。ちょうど臍の真上辺りに置いて、不気味に映る木目を目で追いかけた。
 辺りが暗いのもあって、模様が動いている風に感じられた。顕現したばかりの頃はそれが怖くて、眠る時はいつも俯せだった。
 どの辺りで、仰向けでも平気になったのだったか。
 はっきり覚えていない過去を振り返って、前田藤四郎は瞬きを繰り返した。
「駄目、ですね」
 またどこかで、誰かが寝返りを打った。嫌な夢でも見ているのか、呻き声がする。虫の声は止まない。五月蠅くて、神経に障った。
 眠りたいのに眠れないのが、精神的にきつかった。これ以上グダグダ悩んだところで何の解決にならないと諦めて、彼はガバッと身体を起こした。
 被っていた布団を跳ね飛ばし、二度続けて深呼吸した。ドクドク言っている鼓動を沈め、鼻の下を擦って、健やかな寝顔を披露する兄弟を見比べた。
 幸い、誰も起き出して来なかった。ホッと胸を撫で下ろして、彼は慎重に立ち上がった。
 視線の高さを変えれば、大部屋に敷き詰められた布団の状況が良く分かった。後藤藤四郎に潰されているのは厚藤四郎で、魘されているのは薬研藤四郎だった。
 博多藤四郎が本来の位置から大きく外れ、乱藤四郎の布団にもぐりこんでいた。信濃藤四郎は被るべき布団を抱きしめて、猫のように丸くなっていた。
 包丁藤四郎は枕に右足が乗っていた。秋田藤四郎と五虎退は並んで仰向けに寝転がり、手を繋いで、すよすよ寝息を立てていた。
 穏やかで、和やかな光景だ。長兄の一期一振でなくとも、この短刀たちの寝姿を見たら、頬を緩めるに違いなかった。
 実際、前田藤四郎も口元を綻ばせた。ふふっ、と小さく鼻を鳴らして笑って、乱れていた寝間着の裾を整えた。
「水でも、飲んで来ましょう」
 眠れないのに、無理に眠ろうとするから、余計に眠れなくなるのだ。
 ここは気分を入れ替えて、別のことをしてみよう。そうすれば緊張もほぐれて、自然と眠気がやってくるはずだ。
 前にどこかで聞き齧った情報を頼りに、根拠もないまま実践することにした。両腕を頭上へ伸ばし、凝り固まった身体を柔らかくして、兄弟を踏まないよう注意しつつ、そうっと敷居を跨いだ。
 襖をゆっくり開け、廊下に出て、注意深く閉める。
「ふう」
 たったこれだけのことなのに、終わるとどっと疲れが来た。冷や汗を拭い、息を整えて、室内に比べると格段に僅かに明るい廊下に目を凝らした。
 曲がり角ごとに行燈が設置されて、この時間でも火が入っていた。
 短刀や脇差といった刀は夜目が利くので必要ないのだが、太刀以上は闇を苦手にしている。彼らは夜になると、灯りなしでは屋敷の中でさえ、自由に歩き回れなかった。
 油はひと晩持たない量しか注がれていないので、これらに火が入ったままということは、思ったほど遅い時間ではないらしい。
 日付が変わる頃か、その前後。大雑把に想像して、前田藤四郎は辺りを見回した。
 小夜左文字や不動行光の部屋は静かだった。愛染国俊や今剣は、同じ刀派の刀の部屋で寝起きしている。太鼓鐘貞宗は、伊達所縁の刀たちのところだろう。
 本丸に集う短刀のうち、その大多数が粟田口だ。その事実を改めて意識しつつ、寝静まった空間を見渡し、彼は居住地として使っている大部屋を振り返った。
 短刀部屋五つ分を繋げて作った大部屋は、ちょっとした大座敷だ。兄弟ということで一括りにされて、なにをするにしても、常に誰かの視線に晒された。
 個室が欲しいと、思ったことは何度もある。けれど言い出し難い。仲が良いと評判の粟田口に亀裂を走らせるような行為は、簡単ではなかった。
 だから、というわけではないけれど、過去に所縁を持つ太刀が顕現した時は、嬉しかった。
 彼の世話を焼く、という理屈を盾にして、堂々と大部屋を抜け出し、太刀の部屋に居座れたから。
 そうやって太刀の寝床に潜り込むようになって、兄弟と枕を並べる機会は次第に減って行った。
「大典太さん、戻ってませんよね」
 今宵大部屋で雑魚寝に戻った理由は、単純だ。
 三池の太刀ふた振りは、ほかの何振りかの刀と共に隊を組み、遠征に出かけていた。
 帰還の予定は、深夜。日付を跨ぎ、夜明けの前という話だった。
 寝ずの番を任されている近侍ならまだしも、他の刀はその時間、夢の中だ。間近で物音を立てたら起こしてしまうから、と申し訳なさそうに言われたら、頷くよりほかになかった。
 大典太光世は、前田藤四郎に気を遣ってくれたのだ。それが分かるから、構わないので出迎えさせて欲しいと我が儘を言って、困らせたくなかった。
 聞き分けが良い振りをして、承諾し、兄弟たちと一緒に眠ることにした。
 だというのに、寝付けない。神経が張りつめているらしく、気持ちは昂る一方だった。
「最近は、添い寝ばかりでしたから」
 現身を得ての生活は、三年を越えた。大典太光世が来たのはそれから一年半ほどしてからのことなので、彼と過ごした日々は、本丸で過ごした時間の半分を占めようとしていた。
 だからなのだろうか。彼が居なかった頃の日々がもう思い出せない。
 彼の居ない暮らしが、上手に心に思い描けなかった。
 ひとつの寝具に並んで横になり、分厚くて逞しい胸に頬を預けて眠るのは、とてつもなく幸せだった。
 太くがっしりした腕が背中に回されて、遠慮がちに抱きしめられるのが心地よかった。
 たった一晩の我慢だ。分かっている。だというのに、胸が締め付けられるように痛んだ。
 大典太光世は不在にしていると知っていても尚、目が彼を探していた。少し低めの体温、物憂げな中に優しさを蓄えた眼差しを、無意識に求めていた。
「落ち着かない」
 昨日まであったものが、忽然と失われた。
 明日には戻ってくると繰り返し自分に言い聞かせるのに、心は受け入れを拒み、頑なだった。
「あれ……」
 そうしているうちに、足指が段差を踏んだ。屋敷を建て増しした際の、建屋の継ぎ目に行き当たったと気付き、彼はハッと顔を上げた。
 台所を目指していたつもりが、うっかり道を間違えた。ぼんやりしていたと耳朶を引っ張って、前田藤四郎は想定外の事態に眉を顰めた。
 転ばなかっただけ、僥倖と言うべきだろう。左に曲がるはずが、どうやら反対に進んでいたらしかった。
 しかも廊下の先に、灯りが見えた。近侍が控える間はここだったか、と薄暗い屋内を見回して、彼はそうっと廊下を進んだ。
 虫の声は遠かった。獣の声も聞こえない。小さな足を前に運ぶ度にギィ、ギィ、と床板が軋んで、不気味な空間に色を添えていた。
「どなたか、いらっしやるんですか」
 灯りの消し忘れだとしたら、問題だ。屋敷の光源は、太陽や星月以外では、蝋燭や油を用いた炎しかない。万が一風で倒れでもしたら、火事は免れなかった。
 屋敷は木と紙で出来ているので、一度火が点けばあっという間に燃え広がる。歴史修正主義者の討伐を目指す刀剣男士が、時間遡行軍と戦うのではなく、火災によって消滅するのは、なんとも情けない末路だった。
 本丸内の規約でも、火の扱いに関しては特に厳しく定められていた。けれど中には、これを忘れ、破る刀も少なからず存在する。
 道を誤った前田藤四郎のように、うっかり失念することは、誰にでもあることだ。
 気付いてしまった以上は見過ごせなくて、確認すべく襖に指を掛け、呼びかけると同時に横に滑らせた。恐る恐る首を伸ばし、中を覗き込めば、夜半の冷たい風が短刀の額を叩いた。
 障子が全開で、月明かりが縁側を照らしていた。行燈は八畳ほどある座敷の隅に置かれ、橙色の輝きが四方に影を作っていた。
「んあ?」
 返事は、かなり遅れて為された。振り返ったのは鼻や頬、額だけを赤く染めた日本号だった。
 黒髪を雑に結い上げ、灰色の繋ぎは上半身脱いで、背や腰に垂らしていた。本体である槍は畳の上に転がして、手にしているのは酒瓶だった。
 窄まった首に荒縄が結ばれて、それを手繰り寄せ、顔の前で傾ける。
 豪快な飲み方で気をよくして、背高の槍は寝間着姿の少年に首を捻った。
「どうした。なんかあったか」
「ああ、いえ。なんでもありません」
 今夜の近侍殿は、真面目に役目を務めるつもりがないらしい。くだを巻きながら問いかけられて、前田藤四郎はこの距離でも感じる酒の匂いに苦笑した。
 右手を横に振り、空気を撹拌させてみるが、あまり効果はない。
 月見酒を楽しんでいた男を邪魔しては悪いと、急ぎ場を辞そうとした。
 一礼し、身体を捻って踵を返す。
「なんだ、相手してくんねえのか。つまんねえ奴だなあ、おい」
「うっ」
 それを見咎められて、夜更かしな短刀は首を竦めた。
 日本号がどれだけ酔っているかは、まるで見当がつかない。厄介な相手に捕まってしまったと苦々しい表情を作って、彼は仕方なく身体をもう半回転させた。
 敷居の手前でくるっと回って、室内に一歩踏み出す。
 夜気を浴びた畳はひんやりして、前田藤四郎の熱を吸い取ってくれた。
「失礼します」
 そのまま座敷を横断して、縁側へ出た。螺鈿細工がきらびやかな槍を踏まないよう注意して、大回りで日本号の隣に並んだ。
 正座しようか一瞬悩んで、板の間では痛いと思い、軒下に向かって足を垂らすことで妥協する。
 本丸でも一、二を争う酒豪は不敵に笑い、左側に置いていた酒瓶を、右側へ移動させた。
「んで、どうしたよ。こんな時間まで起きてるたぁ、悪い奴だな」
 ちゃぷん、と小さく響いた水音は、中身がまだ残っている証拠だ。このひと瓶で何合の酒が入るのか、大雑把に計算しようとしたが、質問に邪魔され、果たせなかった。
 口角を歪めて不遜に笑われて、前田藤四郎は膝に置いた両手を結びあわせた。かと思えばすぐに解いて、掌をぴったり貼り合わせ、腿の間に捻じ込んだ。
 寝間着に皺を作り、狭苦しい空間で指先を蠢かせる。
 視線は虚空を彷徨い、雑草生い茂る庭先へと落ちた。
 悪い奴と笑われたのを、巧く否定できなかった。
 本来刀剣は、眠りを必要としない。だのに現身を得た途端に一日の三分の一近くを睡眠に消費している。それはとてつもなく無駄な時間で、非効率的といえるものだった。
 敵を警戒し、守りを固めるために夜通し起きているのは、悪いことではないはずだ。
 だのに日本号は、短刀の夜更かしをやんわり咎めた。夜は眠る時間だと、意識の奥に摺り込まれてしまっていた。
「僕は、悪い刀ですから」
「へえ? 一期一振の野郎が聞いたら、泣き出しそうだな」
「いち兄は、関係ありません」
 そこに反発して、絞り出した声はいつになく険しかった。前を見据えたまま呟けば、歴戦の槍は興味を示し、酒瓶を担いで傾けた。
 瓶の首に括りつけた縄を取り、片手で器用に操って、零しもしない。
 どれだけの回数、そうやって繰り返して来たのかと呆れて、前田藤四郎はふっ、と頬を緩めた。
 粟田口の短刀を率いる太刀、一期一振は、見た目の派手さに反し、物腰は穏やかだ。数いる弟たちにも優しいが、規律を乱す行為に対しては、厳しかった。
 前の主の影響を受けているのか、自分が決めた約束事を破られると、烈火の如く怒った。どうして守れないのか、と問い詰めて、説教が長引くことも多かった。
 槍玉に挙げられるのは脇差の鯰尾藤四郎や、厚藤四郎に後藤藤四郎、そして薬研藤四郎が多い。
 前田藤四郎はといえば、平野藤四郎と並んで、行儀が良くて真面目と評判だった。
 その評価に不満を露わにして、短刀は肩を怒らせた。むむむ、と闇の彼方を睨みつけて、やがて飽きて、深く溜め息を吐いた。
「眠れないだけです」
 兄に対しての反発心は、長く続かなかった。
 一期一振への苛立ちは、全くないとは言えないものの、さほど大きなものではなかった。
 あれこれ五月蠅いのも、すべて弟たちを案じてのこと。それが分かるから、どうしても強く出られなかった。
 それに眠れない原因は、長兄ではない。軒下で足を交互に揺らして、前田藤四郎は広げた両手を膝に並べた。
 皺の少ない掌を眺め、片方だけ持ち上げて、月へと伸ばす。
 どれだけ頑張っても届かず、掴めないのは承知の上だ。それなのに指を蠢かせた彼に、日本号はスッと目を細め、ひとつ頷いた。
「そうかい」
 近侍を務めているのだから、遠征で留守にしている部隊を率いているのがどの刀なのかも、当然把握しているだろう。
 訳知り顔を見せられて、前田藤四郎は耳の先だけ赤くした。
「別に、……こんな日は、誰にでもあるでしょう」
「俺は、何も言っちゃあいないぜ?」
「うぐ」
 それが少々癪に障って、言わなくて良いことを口走った。背筋を伸ばし、邪推はやめろと言外に訴えて、自ら墓穴を掘ったと気付かされた。
 口籠もり、耳だけでなく首も赤く染めた。唇をもごもごさせて、彼は猫背になって頭を抱え込んだ。
 完全なひとり相撲だった。羞恥に喘ぎ、目をぐるぐる回して、前田藤四郎は膝の間に顎を埋めた。
 卵のように丸くなった短刀を呵々と笑って、日本号は脇に退けていた丸盆を引き寄せた。
 酒の肴が入っていたであろう皿は、とっくに空だった。煎り豆の殻が小鉢で山を作り、天辺にあった分が衝撃でころん、と転がり落ちた。
 丹塗りの盆にはそれ以外に、薄く焼かれた杯があった。
 高台は低く、ほぼ無いに等しい。綺麗な円形で、窪みは浅かった。
 使われた形跡はなかった。一応持ってきたが、逐一注いで飲むのは面倒と、使わずに捨て置いていたものらしかった。
 それをひょいっと抓んで、前田藤四郎へと差し出す。
「ほれ」
「え? いえ、あの」
 膝元でぽいっと手放されて、短刀は咄嗟に両手で受け止めた。
 放っておいたら割れてしまうと、無意識に守りに動いていた。小判よりも軽い酒杯に目を丸くして、彼は隣でごそごそ動いている槍に絶句した。
 続けて差し出された酒瓶に慌てて、反射的に杯を両手で囲った。注ごうとしていた男を制し、戸惑いを露わにして、おかっぱ頭の少年は奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 幼い外見をしているが、短刀はこれでも千年近く、現世に留まっている。審神者のような、せいぜい百年程度しか生きられない人間とは、完全に別個の存在だった。
 勿論、飲酒も可能だ。甘酒ではあったが、不動行光という前例もある。
 だが一期一振は、弟たちが酒盛りに参加するのに、良い顔をしなかった。
 薬研藤四郎は隠れてこっそりやっているようだが、他の刀は律儀に約束を守っていた。前田藤四郎も顕現してからこの方、酒を飲んだのは数回程度だった。
 酒に対する耐性も、個体ごとに異なっている。日本号や次郎太刀は笊だが、中には舐めた程度で酔ってしまう刀剣男士もいた。
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「ですが、僕は」
「寝酒だよ、寝酒。ちいっとばっかし酔った方が、気持ちよく眠れるってもんだ」
「は、あ……」
 かくいう短刀も、さほど強いとは言えない。
 醜態を晒したくないから、今日まで飲まずに避けて来た。しかし眠気を招く為と誘われたら、なかなかに断り辛かった。
 形だけでも、眠れずに過ごしている短刀を案じてくれているのだから、無碍には出来ない。一杯程度ならば問題ない、という思いも湧き起こって来て、彼はぐらぐらと頭を揺らした。
 まだ飲んでいないのに、もう酔っぱらった気分だ。
「いち兄には」
「黙っててやるよ。俺だって、説教は御免だからよ」
「一蓮托生ですね」
 唯一の懸念材料と言えば、小言が増えている長兄のこと。
 前田藤四郎に飲ませたと知れば、一期一振の怒りの矛先は、日本号へと向かうだろう。槍としても、それは嬉しくなかった。
 この場には、ふた振りしかいない。お互いに黙っていれば、余所に知られる心配はなかった。
 懸案が晴れて、短刀は破顔一笑した。酒杯に被せていた手を外し、水平に構え持てば、慎重に酒瓶を傾がせた日本号が不敵に笑った。
「そいじゃ、乾杯」
「なにに対してですか?」
「んん? そうだな。ここはいっちょ、お前さんの安眠に、て奴だ」
「あはは。ありがとうございます」
 零れない程度に注がれた杯と、大振りの酒瓶とをちょん、と小突き合わせる。
 衝撃で波立ったのを慌てて咥内に引き入れて、前田藤四郎は軽やかに笑った。
 ひと口で飲み干して、すうっと染み込んでいく水分に頬を緩めた。もっと強烈な味わいを想像していたが、意外と喉越しは爽やかで、舌先にびりびり来るような不快感もなかった。
 さらりとしており、鼻から息を吐けば、粘膜に仄かな酸味が広がった。水菓子を思わせる香りが広がって、心地よかった。
「どうだ?」
「おいしい、です」
「そいつは良かった」
 香料を少量混ぜた水を飲んでいる気分だ。ほう、と息を吐いて歯列の裏側を舐めて、前田藤四郎はまんざらではない様子の槍に相好を崩した。
 前に飲んだ酒は、もっと雑味が強かった。飲み干す時にピリッと来て、喉の奥が焼けるように痛んだ。
 それに比べると、天と地ほどの差があった。日本号はこんなにも美味なものを、毎日飲んでいるのかと感心して、少し羨ましくなった。
 身体の大きさだけで飲酒の是非が決められるのは、やはり納得がいかない。
「お前さん、結構いける口かい?」
「どうでしょう。こちらに来てから、あまり機会がありませんでしたから」
 潔い飲みっぷりに感心した男が、満足げに笑った。二杯目を促されて、短刀は恐縮しながら杯を差し出した。
 今度は香りを存分に楽しみ、ちびちびと飲む。
 舌の先を浸しながら舐めていたら、犬のようだと笑われた。
「構いやしねえよ。ぐいっといっちまえ」
 酒ならまだあると、槍は身を屈めながら言った。軒下に向かって腕を伸ばして、空を撫でるように動かした後、なにかを掴んで引っ張り上げた。
 地上から現れたのは、前田藤四郎がおこぼれに預かったのと同じ酒瓶だった。
 荒縄で首を絞められており、まるで釣り上げられた魚だ。虎目当ての狩人ではなく、漁師となった彼に堪らず噴き出して、短刀は濡れた口元を慌てて拭った。
「なにか、つまむものでもご用意しましょう」
「おっ、嬉しいねえ」
「美味しいお酒の、お礼です」
 酒ばかり飲むのも悪くはないが、少し口寂しい。空腹のままだと酔いが進むのも早いと膝を起こして、前田藤四郎は立ち上がった。
 近侍という退屈な仕事に飽きていた日本号は、飲み交わす相手が出来たのを喜んで、かなりご機嫌だった。
 本丸に顕現して長い短刀は、料理の腕もそれなりだ。難しいものは作れないが、酒の肴のひとつやふたつ、造作もなかった。
「すぐに戻って参ります」
「あいよ。楽しみにしてるぜ」
 酒杯を盆に戻した彼に、手ではなく酒瓶を振って、大柄な槍が小柄な少年を見送った。
 寝入ってしまったかと思われた虫たちは再び歌声を奏で始めて、月の明るい夜はとても賑やかだった。

 足元に苦労しながら辿り着いた玄関は、左右に配置された行燈のお陰もあり、かなり明るかった。
 門から屋敷までの距離は、近くはないが、遠くもない。途中まで石畳が整備されており、とても歩きやすい道のりだった。
 だというのに、二度ばかり転びそうになった。爪先が僅かな段差に引っかかり、つんのめって、前を行く兄弟刀に何度も体当たりを喰らわせた。
 もっともソハヤノツルキも、似たようなものだ。夜目が利かないのはお互いさまだと笑って、糾弾されることはなかった。
 帰還が夜遅くなると分かっていたのに、審神者は何故、こんな編成を用意したのか。
 太刀に大太刀という組み合わせに肩を竦めて、大典太光世は仄明るい空間に安堵の息を吐いた。
「戻ったぞ」
 どうせ応じる声はないと分かっているが、念のためと奥に向かって呼びかけた。横では太郎太刀が無表情で履物を脱ぎ、屋敷に上がろうとしていた。
 ソハヤノツルキも靴を脱ぎ、端の方に寄せていた。もう必要なくなった防具類をこんな場所で解きに掛かって、手も、足も、忙しそうだった。
 隊長に任じられた大典太光世はといえば、部屋に戻る前に、近侍へ報告にいかなければならない。
「行くか」
 面倒だが、規約なのでやむを得ない。靴から爪先を引き抜いて、天下五剣のひと振りは上がり框に親指を置いた。
「お?」
「どうした」
 胴丸を外すのに手間取っていたソハヤノツルキは、まだ玄関先に居た。明るいとはいえ、昼には到底及ばない空間で、結び目を探し、四苦八苦していた時だった。
 視界の隅に動くものを見つけて、彼は手を休めて背筋を伸ばした。
 それで大典太光世も気が付いて、廊下からゆっくり現れた男に目を丸くした。
 脱いでいる最中だった左足の靴が、動揺で激しく震え、あらぬ方角へ吹っ飛んだ。玄関の段差で転びそうになったのを懸命に耐えて、彼は右腕を高く掲げた槍を穴が開くほど見詰めた。
 自分に自信がなく、なんでも悪い方向に受け取りたがる癖がある太刀は、その性格故にあまり他者と目を合わせようとしない。
 ところが今は、その習性が吹き飛んでいた。あんぐり口を開けて、瞬きさえ忘れて凍り付いていた。
 カチコチに硬直している兄弟刀に、ソハヤノツルキも苦笑を禁じ得ない。
「お勤めご苦労、ってな。どうだ、景気づけに一杯やるかい?」
 そんな天下五剣を知ってか知らずか、近侍の槍が右手にぶら下げた酒瓶を揺らした。顔の真横でぶらぶらさせて、ソハヤノツルキに断られた後は、大典太光世に向き直った。
 左腕は胸の前で固定され、抱えたもうひとつの荷物をしっかり支えていた。
「んむ、う~~」
 その重くはないが、軽くもない荷物が小さく呻き、嫌々と首を横に振った。眉間に皺を寄せて険しい表情を作り、日本号の胸に額を擦りつけた。
 頬は火照り、赤みを帯びていた。瞼は半分以上閉ざされて、目の前が見えているのかどうかさえ怪しかった。
 彼が首を振る度に、肩の上で切り揃えられた髪が躍った。ひっく、というしゃっくりが聞こえて、それで大典太光世はハッとなった。
 玄関が一気に酒臭くなったのは、栓をしていない酒瓶の所為だけとは言い切れない。
 どこからどうみても酔っ払いの槍が抱える少年もまた、赤ら顔で夢見心地だった。
「前田に、呑ませたのか」
「んな怖い顔すんなって。ちょっとだよ、ちょっと」
 粟田口の短刀に酒を飲ませるのは、一期一振の教育方針もあり、表立って禁止されていた。
 薬研藤四郎などは自分から破りに行っているが、前田藤四郎は違う。無理矢理飲ませたと疑って、黒髪の太刀は拳を作った。
 その剣幕に怖じ気づいて、日本号が後ろへ下がった。うつらうつらしている短刀を両手で抱え直して、背に添えた手をとんとん、と動かした。
 今まさに眠ろうとしている少年を起こし、顎をしゃくって太刀らを示す。
 だが肝心の短刀は、見えていないらしく、頬を膨らませて駄々を捏ねた。
「ほれ、どうした。お待ちかねの大典太の野郎だぜ」
「……おお、れんた、さんは……まられす」
 日本号の腕を掴み、前田藤四郎がぶすっとした声で唸る。呂律は回っておらず、発音は甚だ怪しく、相当酔っているのが窺えた。
 しかも言い終えると同時に、かくん、と首を落とした。一瞬の早業で意識が途切れたようで、力を失った頭部はぐらぐら揺れて、本当に落ちてしまいそうだった。
 頑張って務めを果たしてきたというのに、顔を見てももらえず、まだ帰還していないという風に言われた。
 大事にしている短刀が、刀種も刀派も、なにも関係ない男に抱えられて現れただけでも衝撃的だっただけに、簡単に立ち直れそうになかった。
 思わず涙目になって、大典太光世は日本号を睨んだ。
 後ろ向き思考とはいえ、天下に名を知られた名刀だ。威圧された槍は苦笑いを浮かべて、事情を説明してもらおうと、必死に前田藤四郎の肩を叩いた。
「いや、帰って来てるって。こらこら、寝るんじゃねえ。頼むから、おい」
 こちらは発音もしっかりしており、酔っている雰囲気は薄い。
 あまり飲んでいないのか、はたまた酒に強いだけか。それともこの冷たい空気が漂う状況に、酔いが吹き飛んでしまったか。
 ともあれ日本号は前田藤四郎の頬をぺちぺち叩いて、眠っていないと言い張る短刀を揺り動かした。
 泣く赤子をあやす要領で全身を使い、酒瓶の中身をちゃぷちゃぷ言わせた。けれど短刀は愚図るばかりで、覚醒には程遠かった。
 尚も悪い事に、彼は揺らされるのを嫌がり、日本号にしがみついた。大典太光世に引けを取らない体躯に安堵しているようで、傍観者のソハヤノツルキでさえ冷や汗を流す密着度だった。
 これは、修羅場になるかもしれない。
 今後の展開を想像し、金髪の太刀が引き攣り笑いを浮かべる。
 どんどん不味い方向に進んでいるのを察して、日本号の顔色は青くなる一方だった。
「馬鹿、寝るんじゃねえ。ずっと待ってたんだろうが」
 繰り返し訴えて、貼り付いている短刀を引き剥がしにかかった。しかし安易に振り落とせば、そこの太刀に殴り飛ばされかねなかった。
 遠慮がちに、慎重に。
 だが、それでどうにかなるわけがない。
 一進一退の状況に焦れて、堪忍袋の緒が切れたのか。
「おい、貴様。前田を離せ」
 小夜左文字に勝るとも劣らない黒い澱みを噴出させて、大典太光世が凄味を利かせて腕を伸ばした。
 直後だった。
「寝れましぇん。ぼくは、いま、びょーきなんれす!」
 たどたどしい口調で、前田藤四郎が大声で吼えた。
 甲高い音が夜闇を斬り裂き、天井に吸い込まれて行った。想像だにしなかった発言に呆気にとられて、ソハヤノツルキも、大典太光世も、言葉を失い停止した。
 事情を知っている日本号だけが、苦笑と共に額を覆った。一気に老け込んだ顔をして、ぷんすか煙を噴いている短刀の背を撫で、宥めた。
「あー、はいはい。そうだな、病気だな」
「そうれす。ぼくは、寝て、なんか、ないれす。らって、ぼく」
 酔いが手伝い、感情の制御が出来ていないらしい。喋っているうちに鼻声になって、前田藤四郎は大きくしゃくりあげた。
 涙を堪え、愚図り、唇を噛み締める。喘ぎ、俯いて、槍の胸板に顔を埋めて拳を作った。
 病と聞いて顔色を変えた太刀に向き直って、日本号は肩を竦めた。
「お前さんが居ないと、眠れない病気だってよ」
「……なに?」
 刀剣男士は、外見こそ人を模しているけれど、現実には全く相いれない存在だ。
 その膂力は見た目に比例せず、脚力、瞬発力も並大抵のものではない。更には怪我への耐性が強く、どれだけ深手を負おうとも、手入れ部屋を経れば瞬く間に治癒出来た。
 病気とは無縁であり、罹患することはない――寝不足による疲労や、飲み過ぎから来る頭痛、胸やけ以外は、であるが。
 つまり前田藤四郎が言い張る病は、病の定義の外にある。
 唖然としながら瞬きを繰り返して、大典太光世は苦笑混じりの男に歩み寄った。
「変な心配させて、悪かったな。眠れねえって言うから、ちょっくら付き合ってもらっただけだ」
 黙って腕を差し出せば、意図を察した日本号が短刀を抱え直した。受け渡す準備をすべく、酒瓶はソハヤノツルキに託した。
 大典太光世が日付を跨ぐ遠征に出るのは、これが初めてだった。
 顕現してからこの方、前田藤四郎はずっと太刀の傍にいた。眠る時も、起きる時も一緒で、まさに寝食を共にする仲だった。
「こちらこそ、前田が、その。迷惑をかけた」
 日本号と短刀の間になにかあったわけではないと悟り、幾分冷静さが戻ってきた。
 勝手に赤くなる耳をぼさぼさの髪で隠して、大典太光世は殊勝に頭を下げた。今度こそ眠ってしまったらしく、うにゃうにゃ言っている少年を慎重に引き受けた。
 居場所が変わった途端、険しかった短刀の表情が緩んだ。しどけなく微笑んで、涎を垂らし、心地よさそうに寝息を立てた。
 そんな彼を大事に抱きしめれば、遠征の疲れなど容易く吹き飛んだ。
 汗臭くないかだけを気にして身を捩った太刀に、ソハヤノツルキが苦笑する。身軽になった日本号も歯を見せて笑い、取り戻した酒を軽く呷った。
「迷惑なんて、かかっちゃいねえぜ。いやあ、あんたののろけ話、面白かったぜ」
「なっ!」
「ぶふっ」
「んじゃなー」
 ぷは、と息を吐き、酔いが戻ってきた槍が言う。
 聞いていたソハヤノツルキが噴き出す中、呵々と笑って手を振られた。
 後を追う事も出来なくて、大典太光世はすやすや眠る短刀を、若干恨みがましい目で見つめた。

2018/05/02 脱稿

恋しとはたが名づけけむ言ならむ 死ぬとぞただに言ふべかりける
深養父 
古今和歌集 恋四 698