春の言葉を 聞く心地する

 カタッ、と耳元でなにかが動く音がした。
「……う……?」
 それで意識がぼんやり浮上して、ごろりと寝返りを打った。呼吸は絶え間なく続けていたはずだが、久しぶりに息を吸った気分だった。
 重く、怠さが残る身体の隅々に、血が巡っていくのが分かる。
 瞼を数回痙攣させて、小夜左文字は布団から利き腕を引き抜いた。
 灯りを求めて瞳を彷徨わせるが、室内の光源は途絶えていた。目尻を擦り、額に拳を押し当てて、彼は伸びをすると同時に深く息を吐き出した。
 踵と後頭部で身体を支え、背中を浮かせて、ゆっくり下ろした。
「朝……?」
 目の前は暗く、黒い靄が立ち込めているようだ。
 目覚めのきっかけとなった物音はもう聞こえない。そもそも枕元には、音が鳴るようなものはなにも置いていなかった。
 ではあの音は、どこからやって来たのだろう。
 頭上にやった腕を引っ込め、布団の中でもぞもぞと身じろぐ。夜明けはまだ先と、醒めきらない頭でぼうっと考えて、短刀の付喪神は膝を丸めた。
 左肩を下にして丸くなり、もうひと眠りしようと目を閉じた。
「……ううん……」
 そのまま意識を水底へ沈めてしまえたら、どんなにか良かっただろう。
 だのに機を見計らっていたかの如く、今度は部屋の外から微かな物音がした。
 複数の息遣いを感じた。
 慎重に、抜き足差し足で廊下を歩いて行く気配があった。
「朝餉、……当番……。そっか」
 向こうは向こうで、十二分に気を配っている。眠っている仲間を起こさないよう注意深く、出来る限り静かに通り過ぎようとしていた。
 けれど、小夜左文字は気付いてしまった。
 大人数で暮らしている粟田口の短刀のうち、何振りかが、今日の料理当番に指名されていた。
 支度を開始するには少々早すぎる気がしたが、寝坊して間に合わないよりは良い。二度寝を諦めた彼らの頑張りは、褒めてやるべきだ。
 寝相の悪い兄弟刀の間をすり抜け、寝間着から内番着に着替えるだけでも大変だ。
 それはひと振りだけで寝起きしている身には、縁遠い苦労だ。若干申し訳なく思いながら、小夜左文字は立ち去った数振り分の気配にホッと息を吐いた。
 彼らが出来なかった二度寝に、自分は挑もうとしている。
 なんと贅沢なのかとほくそ笑んで、行方をくらました睡魔を探し、薄い枕に顔を伏した。
「……む、う」
 常ならものの五秒も、十秒もしないうちに、夢の世界へ旅立っている。
 しかし今日は珍しく、眠気が押し寄せて来なかった。
 全身に気怠さが残り、もう少し眠っておきたい、という欲はあった。起床時間まであと半刻もないと承知しているが、だからといってその半刻をだらだら過ごすのも性に合わなかった。
 どうせならもうひと休みしたい。
 それなのに、ちっとも眠くならない。
「苛々する」
 目を瞑って視界を闇に閉ざしても、変化は訪れなかった。
 眠りたいのに寝られないのは、思った以上に腹立たしい。
 過去に何百回と覚えがある経験を、久しぶりに味わった。嫌な感覚を振り払いたくて、小夜左文字は愚痴を零すと同時にがばっと布団を払い除けた。
 上半身を空気に晒し、ゆっくり身を起こした。使い古して、所々擦り切れている木綿の布団覆いをサッと撫でて、深々と溜め息を吐いた。
「仕方ないか」
 寝足りないのが正直な感想だが、これ以上粘ったところで状況が好転するとは思えなかった。
 朝一番で精神的に疲弊させられるくらいなら、いっそ潔く起きた方がいい。
 頭を切り替え、寝床から抜け出した。隣室は今日も無人だろうが、一応遠慮して物音を立てないよう気を配り、手早く身なりを整えた。
 白一色の湯帷子を脱ぎ、雑に折り畳んだ。布団も三つに折り重ねて、部屋の隅に移動させた。
 白衣に袖を通し、黒の直綴を上に羽織って、帯を結ぶ。
 最後に手櫛で髪を整え、癖に従って結い上げた。
「よし」
 出陣するわけではないので、袈裟は着けなかった。刀剣男士の本体である刀も、床の間に据えたまま動かさなかった。
「ん~」
 ひと通り準備が終わったところで、両手指を絡め、腕を真っ直ぐ上に伸ばす。
 続けて身体を後ろ、前、また後ろ、と数回捻って、眠っている間は沈黙していた筋肉を動かした。
 あらゆる関節が問題なく動き、どこにも痛みが無いのを確かめて、深呼吸をしてから指を解き放った。
 空中に大きな円をひとつ描いて、そうっと襖を開く。
 廊下を包む空気はひやりとして、明かりひとつない空間は清々しいほど不気味だった。
 隣の部屋に宛がわれた短刀は、昔馴染みの薙刀が顕現して以降、ずっとそちらで寝起きしていた。反対側の部屋の主である愛染国俊も、月の大半を蛍丸の部屋で過ごしていた。
 いっそのこと、共同部屋での生活を申請すればいいのに。
 粟田口の短刀たちのように大部屋を使ってくれれば、新しく顕現した刀剣男士が使える部屋が増える。
 何度も増改築を繰り返し、ちょっとした迷路と化している本丸に肩を落として、彼は後ろ手に襖を閉めた。
「さ、て」
 ひんやりした廊下に居場所を移してから、行き先に迷って目を泳がせた。
 髭の生える兆候すらない顎を爪で軽く引っ掻いて、華奢な少年は天井を仰いだ。
 時間が止まったかのような、黒く塗り潰された空間をしばらく眺めるが、特になにも思いつかない。やがて疲れたのと、動かないものを見詰め続けるのに飽きて、ゆるゆる首を振った。
 右手で頸部を撫で、歩き慣れている方の道を選択した。
 私室を出て、本丸の座敷などがある棟へ。目を瞑っていても辿りつける自信がある経路を、陽が登り切らないうちからゆっくりと進んだ。
 気配を殺し、息を潜め、渡り廊に至ったところでホッと安堵の息を吐く。
 この本丸の建物は、近侍が控える部屋や大座敷、台所といった設備を集約させた母屋である南棟と、刀剣男士の居住区である北棟とに大別された。
 両者は中庭を横切る渡り廊で繋がっている。ここまでくれば、就寝中の仲間に遠慮する必要はなかった。
 皆深い眠りの最中らしく、鼾はさほど五月蠅くなかった。
「ああ、そういえば」
 枕を高くしているだろう仲間の顔を順に思い浮かべて、小夜左文字は最後に両手を叩き合わせた。
 一度母屋のある方角を見て、打刀が暮らす区画に視線を転じた。
 本丸にはひと振りだけ、夜闇が支配する時間でも眠るのを許されない刀があるのを思い出したのだ。
 久しぶりの近侍だと、張り切っていた。
「歌仙、ちゃんと起きてるかな」
 時間遡行軍との戦いが始まったばかりの頃は、最初に顕現した刀である歌仙兼定が、近侍の職を独占していた。
 それがいつの間にか、仲間が増え、敵の戦力が増大したのもあり、彼は主力部隊からも外された。
 毎日寝ずの番に任じられていた時は、面倒臭いだの、なんだのと文句ばかり言っていた。ところがいざ近侍から遠ざかった途端、後からやって来た刀たちに向かって偉そうに振る舞い始めた。
 自分ならもっと上手く出来る、しっかり務めを果たせるのにと、尊大な台詞ばかり吐いて、周囲を辟易させていた。
 小夜左文字も説教を受けたうちのひと振りだが、長らく本丸を率いる重責を担った分、彼には彼なりの自負というものがあったのだろう。
 面倒な男を昔馴染みに持ったものだ。苦笑して、短刀の付喪神は明るくなり始めた空に視線を向けた。
 朝餉の準備で忙しい料理当番を手伝いに行くのも悪くないが、歌仙兼定が久方ぶりの近侍を立派に勤め上げているかも、気になるところ。
 どちらを優先させるか、躊躇はなかった。
「日の出がすっかり早くなったね」
 独り言を零し、近侍が控える座敷を目指した。トン、トン、と調子よく足音を響かせて、食事の場として使われている大座敷の前を通り過ぎた。
 雨戸は閉まっており、こちらの廊下も暗い。
 段差に躓かないよう、足元に注意しながらもう少し行けば、前方にぼやっとした明かりが見えた。
 襖の隙間から、行燈の光が漏れているのだ。
 細い筋が斜めに走り、その周辺だけが朧げに照らされている。
 篝火に引き寄せられる虫となり、足取りを速めた。そうして小夜左文字は、座敷を目前にして歩調を緩めた。
 もし打刀が居眠りしていたとして、気配を悟られた時点で、彼は目を覚ましてしまう。
 決定的な場面を目撃できなければ、急襲する意味がない。
 気が急いて、取り返しのつかない失敗を犯すところだった。危なかったと近侍部屋を目前にして呼吸を整え、小夜左文字は左胸をサッと撫でた。
 注意深く床から足を引き剥がし、そろり、距離を詰めた。
 壁に背中を預け、油断している敵を襲撃する心づもりで、座敷へと迫る。
 そうして毛の先ほどの僅かな隙間から中の様子を窺ったが、残念ながら角度的に、室内にいるはずの刀の姿は見えなかった。
「もっと、奥?」
 せめてあと少し、隙間が広ければ。
 障子であれば、濡らした指で小さな穴を開けるのは可能だ。後で露見した場合、説教は免れないが、近侍がきちんと役目を果たしているか確認するためだった、との言い訳は可能だった。
 けれど襖は、そうはいかない。
 表面に襖紙が貼られているだけで、実際は木の板だ。これに穴を、物音を一切立てないで開けるのは、余程の技術が無い限り不可能だ。
 どうにか隙間を広げられないか画策し、静まり返っている座敷を前に背伸びをしたり、縮んだり。
 傍から見れば不審者と間違えられそうな動きをして、小夜左文字は親指の爪を噛んだ。
「やっぱり寝てるんじゃ」
 こうしている間も、隙間からはひと影を確認出来ない。
 これは紛うことなき、近侍が居眠りをしている証拠ではないのか。
 推理して、彼はうん、と頷いた。
 ここまで短刀が接近しても反応がないのは、ぐっすり眠っているから。
 確信を深めて、小夜左文字は隙間に差し入れるか迷っていた人差し指を折り畳んだ。
 拳を作って胸に押し当て、鼻息を荒くして興奮に頬を紅潮させる。
 近侍の役目を放棄して、眠りこけるなど言語道断。
 叩き起こすための台詞を吟味し、いざ突撃と襖の引き手に指を引っ掻けて。
「歌仙、起き――」
「なにをやってるんだい、お小夜?」
「ひゃああっ」
 腹の底から轟かせようとした怒号は、背後からの不意打ちにより、一瞬にして悲鳴へと置き換わった。
 頭の天辺から声を響かせ、短刀はその場でぴょん、と跳ねた。空振りした指が引き手の金具と衝突して、関節が変な方向に曲がる錯覚に背筋が寒くなった。
 飛び退き、着地と同時に身体を反転させ、一気に加速した心拍数に全身を熱くする。
 脇から染み出た汗で白衣をしっとり湿らせた少年に、茶盆を手にした歌仙兼定は不思議そうに眉を顰めた。
「入らないのかい?」
「え、えっ……い、いつから?」
「うん?」
 小首を傾げた打刀の付喪神に問われるが、咄嗟に言葉が出ない。
 混乱した頭で絞り出した質問は、正しく相手に伝わらなかった。
 いつから彼は、部屋の外に出ていたのか。
 冷静に考えれば、小夜左文字が訪ねるより前、との回答が、間を置かず手に入っただろう。しかし予期せぬ事態に動揺していたせいで、小夜左文字はこんな単純なことにも気付けなかった。
 慌てふためき、落ち着きなく辺りを見回して、痛む右手を左手で抱きしめた。
 その間に歌仙兼定は襖をスッと開き、無人の座敷に足を踏み入れた。
 行燈の火が煌々と室内を照らしているが、庭に面した障子の向こうはもう明るかった。
 あと四半刻もすれば、照明は必要なくなる。打刀もそれが分かっているようで、運んできた茶盆を文机に置くと、その足で障子を開けに行った。
 流れるような所作で隙間を広げ、東の空から顔を出した太陽を縁側から窺い見る。
「春はあけぼの、とはよく言ったものだね」
 薄日を受けて明るく照らし出される庭を背負い、彼が笑った。
 古典として有名な随筆の一文を囁かれて、小夜左文字はハッと背筋を伸ばした。
 惚けて固まっていた肉体に電流を流し、開けっ放しだった口を閉じた。特に意味もなく身体のあちこちを叩くように撫でて、雑に結んだ髪を指で梳いた。
 粗末な身なりは今更どうにかなるものではないのに、急ぎ整え直した。前とどこが違うのか、と訊かれたら答えようがないけれど、兎も角敷居を跨ぐための儀式を終わらせて、誘われるままに近侍部屋に入った。
 音を立てないよう襖を閉めて、縁側から戻ってきた近侍を出迎える。
「寝てなかった」
 てっきり居眠りしているとばかり思っていたのに、予想は外れた。
 賭けていたわけではないが、悔しい。
「どうしたんだい、こんな朝早く。当番じゃなかっただろう?」
 短刀が甚だ失礼なことを考えているとも知らず、打刀は文机の前で膝を折った。
 紫色の座布団に腰を落ち着かせて、台所で調達して来たらしい急須から、湯飲みに茶を注いだ。
 訪問者があると思っていなかったから、小ぶりの湯飲みはひとつしかない。急にやって来たのは小夜左文字なのに、なぜか申し訳なさそうな顔をして、彼は温い煎茶をひと口啜った。
 朝食の支度をしに、今日の当番が台所に入ったと知って、湯をもらいに行ったようだ。
 しっかり寝ずの番を勤め上げた男に胡乱げな眼差しを投げて、短刀は畳に直接腰を下ろした。
「早く、目が覚めてしまったので」
 期待していたような、面白い展開にはならなかった。
 だがそれは、小夜左文字が勝手に思い描いたもの。現実は違ったからといって、歌仙兼定を責めるのは不条理の極みだった。
 だから腹立たしさを押し殺し、乱れる感情を踏み潰した。自分で自分を窘めて、早朝の訪問の理由を述べた。
 揃えた膝に両手を並べ、明るさを増していく外を一瞥する。
 去り行く闇と、勢いを強める光の共演は美しく、鮮やかだった。
 夜の間は濃い陰影に囚われ、曖昧だった木々の境界線がはっきりと現れた。墨一色に塗り潰され、平坦だったものが輪郭を取り戻し、立体感を露わにしていた。
 互いに混じりあい、溶けあい、片方は浮上し、片方は沈む。
 昼と夜は明確に線引きされているようで、実際はそうではない。
 両者が共存する時間帯もあるのだと、己の目で確かめて、小夜左文字はほう、と息を吐いた。
 刻々と移り変わる景色を前にしていると、怒りに苛まれているのが急に馬鹿らしく思えた。
 吐息で波立つ感情を整理し、心を落ち着かせた。改めて歌仙兼定に視線を転じれば、彼は湯飲みを盆に置き、静かに微笑んでいた。
「嫌な夢を見た、というのでは、なさそうだね」
「!」
 安堵を浮かべた眼差しに、短刀は嗚呼、と音にならない声を上げた。
 足元から身体の中心に向かってビリッと来る痺れが走ったのは、その昔、小夜左文字が悪夢を見ては飛び起きる毎日を過ごしていたからだ。
 寝つきが悪く、眠り自体も浅い。
 僅かな物音にも反応して、充分に休める状態ではなかった。
 歌仙兼定も彼が夢に魘されているところを、幾度となく目にしていた。最近はそういう話をあまり聞かなくなっていたが、久しぶりに最悪な目覚めを迎えたのかと、懸念していたようだ。
 違うと分かって、ホッとしている。
 打刀の感情の変化が手に取るように分かって、小夜左文字は勝手に赤くなる頬を擦った。
「包丁藤四郎たちの、足音で」
 自分でもすっかり忘れていた過去を、歌仙兼定は覚えていた。
 照れるところはひとつもないのに、熱を持つ身休をもぞもぞくねらせて、短刀はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 余所を向いて、口を尖らせる。
「そうか。なるほどね」
 合点が行ったと男は膝を打ち、煎茶が注がれた湯飲みを両手で持ち上げた。
 真っ直ぐ口元に運べばいいものを、一旦大外回りにぐるりと円を描いたのは、小夜左文字に飲むかどうか訊ねたかったからのようだ。
 しかし短刀は気付かなかった振りをして、やり過ごした。打刀も声に出すところまではいかず、黙って香り善い茶を飲み干した。
 濡れた飲み口を指で拭い、茶托に戻してほう、と短く息を吐く。
「平野藤四郎が一緒だから、大丈夫だとは思うが。どうだろうね」
「みんな、起きてましたか」
「皆いたと思うよ。あ、いや……次郎太刀がいなかったかな」
 夜明け前から準備に励む仲間に声援だけ送って、彼は台所を辞した。
 料理当番は総勢五振りか六振りが、日替わりで務めることになっている。そんな少数で毎日、合計六十振りを越える刀剣男士の腹を満たす料理を作らなければならないので、ひと振りでも欠けると大変だった。
 大酒飲みの大太刀は、夜更かしの常習犯でもある。
 あの男が朝早くから活動するなど、出陣を命じられた時でさえ、有り得ない。
「近侍として、起こして来たらどうですか」
 しかも彼の所為で出発が遅れたとしても、反省する気配がなければ、改めようともしなかった。
 初めのうちは口を酸っぱくして言い聞かせていた太郎太刀も、最近は説教しても無駄と諦めたらしく、放任する方向に転換していた。
 そんな大太刀に代わって、近侍である打刀が起こしに行くべきではないか。
 大わらわの台所を想像して言った小夜左文字に、歌仙兼定は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな役目、聞いたことがないよ」
 渋い表情で言って、茶を飲もうとして、湯飲みが空なのを思い出す。
 掴もうとしていたのを途中で断念し、指を空振りさせて、彼は代わりに急須を取った。
 丸みを帯びた愛らしいそれを軽く揺らして、注ぎ口を下に傾けた。
 とぽとぽと流れ出る新緑色の煎茶を眺めて、小夜左文字は口元を手で覆い隠した。
「ここで主張しておかないと、また近侍から外されますよ?」
「いいんだよ、お小夜。あまりやり過ぎると、余計な仕事を増やすなって、文句を言われるんだから」
「あー……」
 零れる笑いを掌で隠して言えば、最後の一滴を湯飲みに落とした男が肩を竦めた。
 屁理屈ではあるが、一理あって、短刀は遠くに視線を投げた。
 近侍の一番の仕事は、時の政府からの連絡を受け取ることだ。審神者からの命令を、本丸全体に伝える役目も重要だ。
 寝ずの番をして、万が一に備える。その日一日の業務報告書を作り、政府へ提出する。
 新たにやって来た刀剣男士を案内し、屋敷で生活する上での注意事項を説明する。
 歌仙兼定が顕現した直後は、近侍がやることといえば、せいぜいこれくらいだった。
 ところが他の刀剣男士が近侍を務めるようになって、業務範囲が一気に拡大した。
 屋敷内での騒動を調停し、備品や食料などを手配する。
 畑の農作物の育成具合を調査し、今後どういった種類の種を蒔くか、どの野菜から収穫するかの裁定を下す。
 家畜の数を管理して、各施設の破損状況を念入りに確認し、必要ならば人員を手配して補修を行う、など等。
 およそ近侍がやるべきことではないものまで押し付けられて、一時は収拾がつかなくなっていた。
 それもこれも、どこかの誰かが張り切り過ぎたからに他ならない。
 これではただの便利屋だ、と爆発したのは和泉守兼定だ。
 脇差の堀川国広に手伝ってもらっても、全てを完璧に終わらせるのは難しかった。すでに各方面から苦情が出ていたこともあり、これがきっかけとなって、近侍の仕事内容は整理されることとなった。
 それでも審神者の覚えを少しでも良くしようと、業務内容を一方的に増大させた張本人は、今現在もあまり反省が見られない。
 なんでも命じてくれ、という態度が仲間内から反感を買っていると、へし切長谷部はいつになれば気付くだろう。
「歌仙は怠け者ですから」
「お小夜には、僕がそう見えているのかい?」
 次郎太刀を起こしに行く気はさらさらない、と主張した打刀に肩を竦めて揶揄すれば、歌仙兼定は両手を広げて大袈裟に身を捩った。
 こんなに頑張っているのに、と態度で主張するが、それのどこが頑張っているのかは分からない。
 少しでも身体を大きく見せて、威圧している風にしか映らず、小夜左文字は目を逸らして聞き流した。
 短刀の反応が鈍いと知り、尻を浮かせていた男は座布団に戻った。座り直し、面白くなさそうに頬杖をついて、壁の染みをじっと見つめてから嗚呼、と小さく頷いた。
「そうだった」
「歌仙?」
 突然の独り言に反応し、振り返る。
 短刀が目を丸くする前で彼は膝を手に置き、悠然とした仕草で立ち上がった。
 文机の前から離れ、近侍部屋の片隅に置かれている棚に向かった。飴色の家具は頻繁に使われる場所だけが艶を帯び、ぴかぴかの金具と、やや草臥れた色合いとで二分されていた。
 抽斗は縦に三段、うち最下段だけ四列あり、上二段は三列だ。短刀でも楽に使える高さで、中に収納されているのは近侍が記す報告書諸々だ。
 報告する内容によって書式が違い、それが各抽斗の使用頻度に変化を生む原因となっていた。
 小夜左文字も何度か近侍を任されたことがあるので、どこになにが入っているか、大雑把に把握していた。
 けれど歌仙兼定が開けたのは、彼には覚えがない場所だった。
 棚本体から離脱するぎりぎりのところまで抽斗を引いて、両手を添えて中身を取り出す。
「それは?」
 現れたのは、紙ではなかった。
 低い位置にいる短刀には、白い皿の中身が見えない。思いがけないものの登場に、小夜左文字は無意識に身を乗り出した。
 顎を引いて上を向く彼を笑い、歌仙兼定は右人差し指を唇に押し当てた。静かに、と合図を送って右目だけを器用に閉ざし、急ぎ左右を確認して、空になった抽斗を肘で押し戻した。
「夜食に、と貰ったものなんだが」
 言って、皿全体を覆っていた透明の包みを引き剥がす。
 使い終えた包みをくしゃくしゃに丸めて、打刀は湯飲みの横に皿を置いた。
 これでようやく、小夜左文字にも棚に隠されていたものの正体が見えた。
「かすていら……」
「時間が経っているから、多少乾いてしまっているが。食べるかい?」
「いいんですか?」
 頭の中で呟いたつもりが、声に出ていた。
 半ば惚けた状態だった少年は、隣からの思わぬ提案に驚き、零れんばかりに目を丸くした。
 吃驚して、背筋をピンと伸ばした。雑に結んだ髪をぶわっと膨らませ、両手を膝に置いて畏まった。
 パチパチと数回瞬きを繰り返して、穏やかに笑う男に疑念を向ける。
 甚だ失礼な眼差しにも拘わらず、歌仙兼定は愉快だと肩を揺らした。
「構わないよ、お小夜。いや、しかし、あれだな。もうじき朝餉か」
 珍しく過剰に反応したのが、面白かったらしい。打刀は鷹揚に頷いて、それから現在時刻を思い出して顎を撫でた。
 全部で三切れあるかすていらの表面には、細かな砂糖の粒が貼りついていた。断面は黄色く、忘れた頃にふわっと甘い香りが漂った。
 思わず溢れた涎を飲み込んで、小夜左文字は平らな腹を撫でた。
「朝餉の献立は、聞いてますか?」
 昨日の夕餉を終えてからだと、眠る前に水を少々飲んだだけ。固形物は口にしていないので、胃は空っぽに近かった。
 そこに見た目も、匂いも美味しそうなものを出された。大人しかった食欲は急速に膨らんで、怪獣のように暴れていた。
 朝餉まで、我慢出来そうにない。
 再び咥内に溢れた唾液を飲み込んで、短刀は気もそぞろに問いかけた。
「いや、残念ながら」
 歌仙兼定は髭を剃ったばかりの顎をなぞり、首を横に振った。
 彼が台所を訪ねた時は、調理当番が準備を開始した直後だった。米を炊く係と、味噌汁の出汁を取る係が忙しくしており、野菜を洗う係が水の冷たさを嘆いていた。
 騒々しいやり取りを振り返るが、並べられていた食材から完成品を想像するのは難しい。
「近侍として、失格かな?」
 どのような料理を作り、提供するかはその日の料理当番の腕に掛かっている。
 近侍が献立に口出しする権利は、現在は与えられていない。
 そんなことまで押し付けられていた当時を揶揄した彼の言葉に、小夜左文字は首を竦めた。
「いつもとそんなに、変わらないでしょう」
「だろうね。味噌汁は、平野藤四郎が見張っていたから、心配ないと思うよ」
「それは安心です」
 この本丸の朝食は、玄米飯に味噌汁、ししゃもなどの小魚を焼いたものが一般的だ。そこになにを足すか、削るかは、各自の自由だった。
 卵が好きな刀なら、朝一番に鶏小屋で集めて来た卵を用いるし、野菜が好きな刀が当番になれば、朝露に濡れる野菜を収穫して、それを使う。
 味付けも顕現して日が浅い刀は大味で、現身での経験を多く積んでいる刀ほど繊細になる傾向があった。
 その点、平野藤四郎は本丸での生活が長い。包丁藤四郎にやらせるより、失敗する確率は低いはずだ。
 膳に並べられた料理を想像していたら、空腹に拍車がかかった。
 ぐう、といつ鳴っても可笑しくない腹を帯の上から軽く叩いて、小夜左文字は目の前の甘味に視線を向けた。
「これくらいなら、問題ないと思います」
 かすていらは結構な厚みがあり、三切れを合わせると一寸を越えそうだ。
 ただ見た目ほど中身は詰っておらず、しっとり濡れた生地は、そこまで重くない。表面に塗られた粗目糖が気になるが、朝餉が食べられなくなるまで腹が膨れる量ではなかった。
「おや。食いしん坊」
「出されたものは、すべて平らげるのが礼儀です」
「生意気を言うのは、この口かな」
「止めてください」
 食べる気満々なのを茶化され、頬をつんつん、と小突かれた。
 放っておくと延々突かれそうで、三度目を前にして払い除けた。懲りずに戻ってこようとした指を威嚇して、目尻を吊り上げれば、歌仙兼定はようやく諦めて手を引っ込めた。
 美味しい菓子を前に、気分を台無しにされたくない。
 眼力を強めた彼に苦笑して、歌仙兼定は皿の上で待つかすていらを指差した。
「僕が一切れ、お小夜がふた切れかな」
「逆じゃないですか?」
「譲られているんだ、素直に受け取ってくれると嬉しい」
「……ありがとうございます」
 三切れをふた振りで、等分にするのは難しい。
 年下のくせに大人ぶった男の気遣いにムッとしたのは確かだが、食欲が勝り、次の瞬間には掻き消えていた。
 礼を述べ、遠慮なく皿へと手を伸ばす。
「しかし、朝餉前にこうやって食べるのは、妙に罪悪感があるというか、なんというか」
 差し入れてくれた蜂須賀虎徹も、まさか東から太陽が顔を出してから出番が来るとは、思ってもみなかったに違いない。
 空腹を満たすと眠気に負けそうだったので、我慢しているうちに忘れていた。放ったままにして黴だらけにしなくて良かったと安堵して、歌仙兼定はあれこれ言いつつ、ぱくりと齧り付いた。
 小夜左文字も大きく切り分けられたひと切れを頬張り、ふわふわの触感と、口の中いっぱいに広がる甘い香りに目を細めた。
「たまには悪くないです」
「内緒だよ」
「もちろんです」
 食事の前に甘いものを啄むのは、打刀の言う通り、背徳感があった。
 頑張って朝餉の準備をしている仲間への裏切り行為にも等しくて、いけないことだと思うが、止められなかった。
 理屈っぽい刀に知られたら説教確実だが、部屋の中には彼らしかいない。お互い今日のことを他者に語らず、秘密を貫けば、身の安全は保障された。
 証拠を残さないために、小夜左文字は膝に落ちた砂粒ほどの欠片を指に貼りつけ、素早く口に入れた。
 行儀が悪いが、歌仙兼定は見なかった振りをして、指摘するような無粋な真似はしなかった。
「三文の徳ならぬ、三切れの得、だね」
「早起きした甲斐がありました」
 代わりに思いつきで口遊み、それに短刀が相槌を打った。
 向かい合い、ひそひそ話の距離でかすていらを頬張る彼ら横顔を、登ったばかりの朝日が穏やかに照らしていた。

2018/04/08 脱稿

白川の春の梢の鶯は 春の言葉を聞く心地する
山家集 70 春