靴擦

 並盛町は沢山の家が立ち並ぶ住宅地であるけれど、郊外に出ればそれなりに緑も多い。
 軒を並べる家々も、小さな庭付きのものが多いので、町中にありながら意外に背の高い木もそこかしこに見受けられた。もっともこの炎天下、灼熱の太陽に降参した植物は揃って俯いて深く頭を垂れていた。
 お辞儀をしているというよりは、力尽きて今にも倒れそうなところを寸前で踏ん張っている、そんな感じだ。あの向日葵さえもが葉を垂らし、辛そうな顔で軒下を窺っていた。
「あー、もうっ」
 昨晩に雨が降ったので、気温はそう高くない筈だった。雲も適度に空を覆い、時折気まぐれに太陽を隠してくれる。
 だが、なにぶん湿気が多い。流れ出る汗は乾くを知らず、だらだらと肌を伝って着衣に次々に染み込んでいった。
 まだカラッと空気が乾燥していれば良かったのだが、多量に溢れる汗は体力も容赦なく奪っていく。水気を吸った布はその分重くなり、肌に張り付き、不快感を助長した。
 じりじりと焦げるアスファルトを蹴り、綱吉は握ったハンドルを力込めて押した。緩い坂道とはいえ、巨大な荷物を抱えていると途端にどんな急峻な岩山よりも険しい道程と化す。歯を食いしばって腹から息を吐いた彼は、全身から湯気を放ち、次なる一歩を前に繰り出した。
「もうっ、やだっ。なんでっ、こんなっ、時にっ」
 一言一句を細切れにしながら恨み言を口にし、またもう一歩、坂道の終わりを目指して突き進む。だが登り終えたところで、サドルに跨って一気に駆け下りることも出来ないのだった。
 額から流れた汗が睫を伝い、視界の上三分の一程度が歪んだ。即座に目を閉じて首を振った彼は、犬のようにだらしなく舌を伸ばして体内に篭もった熱を廃棄し、上唇を舐めて引っ込ませた。
 ハンドルを持つ手も汗まみれで、手の甲からシャツの袖まではすっかり真っ黒だ。
 夏休みが終わる頃には、皮が剥けて散々な姿になっているに違いない。今日の風呂は、湯船に浸かるのも難しかろう。シャワーで汗を流す程度でなければ、全身火傷状態なのだから、悲鳴をあげるのは綱吉本人だ。
「てか、今すぐシャワー浴びたい。冷たいお茶が飲みたい。喉渇いたー!」
 アイスクリームでもいい、兎に角身体を冷やすものが欲しい。
 ぜいぜいと苦しげに息継ぎを繰り返し、綱吉はようやく辿り着いた坂道の終着点でホッと胸を撫で下ろした。
 前傾姿勢から背筋を真っ直ぐ伸ばし、湿って重い髪を掻き回す。並盛の町並みは眼下遠く、自宅まではまだ相当の距離が残っていた。
 蝉の声が時に小さく、時に大きく、耳に響く。体感温度を上昇させる喧しい声に舌打ちして、彼は絞れそうなくらいに重くなったシャツの袖で汗を拭った。掲げた腕を庇にして、憎々しげに太陽を睨む。
 あまり見詰めすぎると目がやられてしまうので程ほどにして、彼は足踏みすると、車体を安定させるべくスタンドを足に引っ掛けた。地面に対してほぼ水平になっていたものを、垂直に作りかえる。斜めになった銀色の車体は、綱吉の手を離れても転がり落ちる事はなかった。
 前部に据え付けられた籠には、リュックサックがふたつ、押し込まれていた。大きいものと、小さいものと。片方は綱吉のものとして、もう片方の持ち主はこの場に居合わせていない。
 綱吉はひとりだった。
「つっかれた……」
 七月半ば過ぎから始まった夏休み、大量の宿題と引き換えにしても充分自由な時間を満喫できる、筈だった。
 しかし綱吉の家には現在、綱吉以上に元気が有り余っているちびっこが居る。部屋でのんびりゲームを楽しむ、なんて事は許されず、隙を見つけては遊べ、構え、何処かへ連れて行け、の連呼で五月蝿いことこの上ない。
 特にランボの構って度が酷くて、家に居る間は四六時中綱吉にべったり張り付いてくる。甘えたいのだろうと最初は許容していたものの、なにせフゥ太のランキングでウザいマフィアのトップに輝いただけのことはある、一日で愛想が尽きた。
 それからは、あれこれ理由をつけて外に出かけるようにしてきた。しかしネタも尽き、金も尽き、一緒に遊ぶ友人との日程も都合つかない日が増えた。彼らにも彼らの用事があるのだから、ランボから逃げたいが為に自分に構えと主張するのは勝手すぎる。これでは綱吉も、ランボと同類だ。
 今日はどうやって過ごそう、悩みながら朝食を食べていた綱吉に救世主の如く現れたのが、リボーンだ。どういう風の吹き回しか、一緒に並盛郊外の川へ釣りに行こうと、そう言い出したのだ。
 水遊びが出来るので大歓迎で、聞いていたランボたちも当然行きたがった。しかしバスも走らない、交通機関に乏しい場所で、移動手段は綱吉の自転車ひとつしかない。それに三人、四人と乗れるわけがなく、物理的な問題で彼らの願いは聞き届けられなかった。
 だが、言いだしっぺはあのリボーンだ。ただの釣りであるわけがない。
 鬼家庭教師の珍しく優しい言葉にすっかり騙された綱吉は、奈々が即席で作ってくれたおにぎりと、倉庫の片隅に眠っていた釣竿を抱え、自転車に颯爽と乗り込んだ。リボーンが良いポイントがあるというので疑いもせず信じ、彼の道案内で山の方へ、山の方へと突き進んで。
 本当に此処か、と初めて疑念を抱いたところで、置き去りにされた。
 小休止として木陰で弁当を食べ、岩場で涼んでいたところ、いきなり自転車ごと放り出された。釣竿は奪われて、タクシーご苦労とだけ言われた。
 何のことだかさっぱり分からなくて混乱する綱吉を他所に、赤ん坊はレオンを肩に載せ、土産を期待しろとだけ言ってちょろちょろと水が流れる小川を上流目指して登っていった。リボーンを後ろの台座に乗せて汗をかきかき此処まで来たのに、なんという無体な扱いだろうか。
 道具を失った以上、釣りなんか出来るわけがない。いつ戻って来るか分からないリボーンを待って、そこに留まり続けるのは正直気が引けた。
 酷い目に遭わされたのだ、帰りの手段を失って途方に暮れてしまえばいい。そういう事で綱吉は、倒された自転車を起こして、折角登った山道を下り始めたわけなのだが。
 あろう事か、自転車がパンクしていた。
 恐らく倒れた際に、落ちていた小石が刺さったのだろう。後輪が見事にぺしゃんこで、タイヤを抓むと熱を帯びたゴムが指に張り付いた。
 試しにサドルに座って平らな路面で走らせてみれば、空気が抜けてしまっているので後輪のフレームに直接衝撃が伝った。がくん、がくん、と尻を突き上げられるようで、とても漕げたものではない。立ち漕ぎをしても、ハンドルを握る手にも衝撃が行くので、意味は無かった。
 リボーンが戻って来たところで、どうにかなる問題でもなかった。まさかレオンに頼んで、自転車のタイヤになってくれともいえない。なにより飼い主が許さないだろう。
 結局綱吉は、なにをしに行ったか分からない郊外の山を、トボトボと役に立たない自転車を押して歩いて下るしかなかった。
 赤ん坊の身勝手さには心底腹が立ったが、彼の甘言に乗ってあっさりと騙されてしまった自分の警戒心の無さにも、ほとほと呆れた。もうちょっと警戒して然るべきだろうと、浅はかだった午前の己を振り返り、彼はがっくり項垂れた。
 パンクしたものが自然と直るなんて事はなくて、坂の頂上でしゃがみ込んだ綱吉の目の前では、相変わらず後輪タイヤはぶらぶら揺れていた。
「帰れるかなあ」
 購入してからまだ一年と経っていない自転車だ、愛着もあるので捨てて帰るなんて出来ない。これに乗って、獄寺や山本や、京子たちとサイクリングに出向いた。大切な綱吉の相棒なのだ。
 思い出が沢山詰まった自転車を、こんな僻地に置いていけない。絶対に持って帰る。最早ただの意地でしかなく、綱吉は深く長い息を吐いて膝を伸ばし立ち上がった。
 燦々と照りつける太陽に臍を噛み、負けてやるものかと自分を勇気付けてハンドルに両手を置く。右足で勢い良くスタンドを後ろへ蹴り飛ばして、彼は重い荷物を前に押し出した。
 下り坂になれば多少楽か、と思ったが、実際は上り坂よりもきつかった。
 常にブレーキを握り、加減を調整する必要があった。でないと、重力に引っ張られた自転車が綱吉を置いて転がり落ちていってしまうからだ。
 車道と歩道の間には掠れた白いラインが走るだけで、仕切る柵は設けられていない。車がガンガン走っていく中、コントロールを失った自転車が車道に飛び出しでもしたら事だ。
 綱吉は顎から汗を滴らせ、顔を歪めた。
 握力が限界に近付こうとしている、歩き続けた足もまるで棒のようだ。
「いって……」
 まだ数回しか履いていないスニーカーは、踵が擦られて靴ずれを起こしていた。一歩進むたびに、あちこちから痛みが生じ、速度は出発直後に比べると格段に落ちていた。
 自宅までは、まだ遠い。幾らかは町に近付いたものの、車以外に通る人の姿もなかった。
 人が住んでいるわけでもないので、バスは走っていても停留所が無い。手を振って合図を送っても、町へ向かうバスは綱吉と同じ方向に進んでいるので、気付いた時にはもう脇を通り過ぎた後だ。
 タクシーも、通るのは人を乗せたものばかり。もっとも所持金が微細なので、乗れるわけがないのだが。
「誰か乗せてくれないかなー」
 自転車を押し押し進む哀れな中学生に同情して、町まで運んでくれる親切な人はいないものか。期待の眼差しを行き交う車体に向けてみるが、誰も彼も急ぎ足で、綱吉に気を向けてくれる優しい心の持ち主はひとりとしていなかった。
 旅は道連れ、世は情けという言葉は、もうとっくに通用しない時代になってしまったらしい。
「はぁぁ……」
 溜息しか出なくて、綱吉は疲れ果てた身体を休めようと、外側に少し張り出してスペースが広がった歩道に自転車を置き、籠のリュックサックを取り出した。
 中を漁り、水筒を取り出す。冷たいものは冷たいまま、熱い物は熱いまま持ち運びが出来る、保温タイプの魔法瓶だ。これが実にかさばる代物で、挙句重い。恐らくは壊れた自転車に次ぐ、綱吉の足を引っ張る荷物だ。
 コップにもなる蓋を外して、出て来た本体真ん中のボタンを押す。注ぎ口を開き、彼はそそくさとひっくり返した蓋をその下に宛がった。
 だが期待したほどの量は出てこず、彼は首を捻り、左手に持った魔法瓶を上下に揺らした。
「えー」
 昼食時、後のことなど考えずにがぶ飲みしたのが良くなかった。おにぎりを飲み込むのに大量のお茶を消費したので、もう殆ど残っていなかった。
 五十CCにも届かない麦茶を前にがっくり肩を落とし、綱吉は仕方なく残っていた分を一気に飲み干した。しかし渇きを訴えた喉はこれだけでは満足しない。唇を乱暴に拭った彼は、ならば、と魔法瓶を片付けてリボーンのリュックサックを手に取った。
 綱吉のものよりは幾らか小ぶりの、保温機能がついていない半透明の水筒が出て来た。残量は半分近く残っている。見た瞬間、彼は大きく喉を鳴らした。
 生唾が溢れ出し、咥内を湿らせる。
「う、けど」
 今これを、欲望のままに飲むのは危険だ。ちゃぷん、と揺らして水音を響かせ、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 少しでも生存率をあげる為にも、幾らか残しておく必要がある。けれど、全身が乾いている。関節が悲鳴をあげ、頭の中は熱にやられて真っ白だった。
「ええい、ままよ!」
 飲んでしまえ、と覚悟を決めて、彼は栓を外した。蓋を兼用しているコップは使わず、直接注ぎ口を咥内に突っ込んで水筒を傾ける。
 流れて行く液体を無心で貪り、身体中に染み渡る水分に、彼は歓声をあげた。
「ぷはー」
 こんなに美味しいお茶を飲んだのは、生まれて初めてだ。
 おっさん臭い感想を述べてほぼ全てを飲み干し、綱吉はカンカン照りの空にくらっと眩暈を起こした。
 プラスチックボトルは、外からでも残量が見える。あと一センチ足らずの飲料を顔の前に掲げ、五秒前の愚かな自分を振り返って彼は力なくその場に崩れ落ちた。
 白い車体の車が、唸り声をあげてカーブを曲がって通り過ぎていく。正面衝突を回避させてブレーキを踏み込んだ車体を視界の端に見やり、彼は蜂蜜色の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「俺の馬鹿」
 まだ昼の三時を回ったところだというのに、なにをやっているのか。夏場の太陽は長く地上に居座り、日が暮れた後も雨が降らない限り気温はなかなか下がらない。熱中症の危険性は常に付きまとい、こまめな水分補給が求められるというのに。
 休憩所なんてないから、道中自動販売機も無かった。見える範囲にもそれらしきものは存在せず、どうやっても山を下りきり、町に行く必要があった。
「足、いってぇ」
 絆創膏でもあればよかったのに、それすら持ち合わせていない。つくづく運が悪いと嘆き、彼は首の汗を拭った。
 タオルを取り出して広げ、頭に被せて端を前に回す。ほっかむりで格好悪いが、多少なりとも直射日光を軽減させるには、これしか手段が無いのだ。
 背に腹はかえられぬと、喉元で無理矢理タオルを縛って固定させ、跳ね放題の髪の毛を引っ込めた彼は渋々ハンドルに手をやった。足を庇いながらの移動なので、速度が出ないのは仕方が無い。身体は無情に痛めつけられ、リボーンへの怨み節ばかりが増えていく。
 こんなことなら、家でランボの相手をしている方が万倍良かった。
「もう、誰でもいいから助けて」
 贅沢は言わない、自転車ごと自分を並盛まで運んでくれる天使のような人が現れないだろうか。
 へとへとに疲れ果て、しかし残る道程は終わりが見えない。近付いているようで、逆に遠ざかっている錯覚にさえ陥り、綱吉は朦朧とする意識の片隅で懸命にそんな事を祈った。
 神様も仏様も信じていないが、もしここで奇跡が起こったら、今日ばかりは信じてやっても構わない。
 傲慢な事を心の中で呟き、綱吉は通り過ぎる車列に顔を向け、苦笑した。
「……わけないよなぁ」
 奇跡など、神仏が起こすものではない。人が起こすものだ。
 それに綱吉の願い事はあまりにも身勝手で、都合が良すぎる。叶うわけが無いと皮肉に口元を歪めた彼は、長年乗りこなしているのだろう、おんぼろの年代車が低速で走り去るのを見送り、肩を落とした。
「急ごう」
 これでリボーンの方が帰宅が早かったら、良い笑い者だ。
 今はたとえ一歩でも多く進むのが先決で、休んでいる暇など無い。喋るのも、笑うのも、体力の浪費に直結する。
「くっそー」
 負けてなるものか。挫けてなるものかと歯を食いしばり、右に曲がる道を進んでいた綱吉の前で、エンストでも起こしたのか、先ほどのぼろっちい車が一台、端に寄って止まっていた。
 白線を越えて、歩道にまで入り込んでいる。真っ直ぐ進もうにも道が塞がれてしまって、綱吉は嫌そうに顔を歪めた。
 こんなところで大回りさせられるのは迷惑でしかなく、人の苦労も知らない運転手を、せめてひと睨みしなければ、気がすまない。綱吉はハンドルを僅かに右に捻ると、仕方なく車体を回り込んで車道に足を踏み込んだ。
 暑い。
 疲労はピークを通り過ぎ、もう足の感覚も残っていない。踵が血だらけになっている気がしたが、一度脱ぐともう履けなくなってしまう。
 靴が無いと、熱せられたアスファルトを行くなんて不可能だ。だから脱がない、下も見ない。自転車を前に押し出し、遅れて身体を、まるで自転車に引きずられる形で前方に送って、彼はよろよろと左右に視線を泳がせながら、ろくに洗ってもないだろうおんぼろ車の運転席横を素通りした。
 ウィーン、と微かな電子音を引き連れて窓がドアに吸い込まれていく。
「おい」
 声がした。しかし綱吉は事務的に足を動かし、振り返らなかった。
「おい」
 もうひとつ、呼び声が響く。気に触るくらいの低い、男の声だった。
「おーい」
「うるさい!」
「何やってんだ、坊主」
 誰の所為で余分な体力を消耗していると思っているのか。あれほどに自分を乗せてくれる車を懇願していたくせに、すっかり忘れ、綱吉は怒りのままに頭の火山を噴火させて怒鳴った。
 自転車のブレーキを握り締め、勢い任せに振り返る。
 そうして、運転席から上半身を外に出した男の姿に絶句した。
「シャ……っ」
「あぶねーぞ」
 避けろ、と車外に出した右腕を振ったシャマルが、綱吉に後ろから来る車の存在を教えた。車道に出ていた綱吉は、轢かれてはたまらないと大慌てで歩道に戻る。途中、動きの悪い自転車に足を取られ、膝が折れた。
「うあ!」
「なにやってんだ?」
 危うくもんどりうって倒れるところで、寸前で堪えた綱吉に怪訝な声を発し、シャマルは一旦車の中に引っ込んだ。
 今度はドアが開いて、本人が出て来る。自転車を抱え込んで苦しげに噎せている少年に歩み寄り、己の身体で作った影に取り込んだ。
「おい」
「なんで、シャマルが此処に」
「居ちゃ悪いか。テメーこそ、何やって……パンクか」
 奇跡だ。半ば信じられない気持ちで、胸元を撫でて呼吸を揃えた綱吉は彼を見上げた。
 無精髭を、夏休みで学校に行かなくていいからか、いつもより長く伸ばし、ボサボサの頭によれよれのシャツとスラックスを合わせた男は、トイレ用かと目を疑うようなサンダルで地面を擦り、綱吉の前に立っていた。
 立ち上がるのも困難を極め、疲労困憊甚だしい綱吉を眺め、彼は顎をゆっくりと撫でた。視線をひと往復させただけで大雑把に状況を把握し、小さく頷いて両手を腰に据える。
 その上でひらりと右の手首を揺らし、
「じゃあな」
「ええー!」
 くるりと踵を返して言った。
 途端悲鳴をあげた綱吉の、今にも泣き出す寸前の悲壮感漂わせた姿を振り返り、ニヤリと意地悪く笑う。それで出かかった涙は完全に止まり、丸い目をより丸くした彼は、騙されたと気付いて牙を剥いた。
「酷い。シャマル、酷い!」
「うっせーな。ったく、……立てるか」
 渾身の力を振り絞って叫び、振り上げた手で彼の脛を殴りつける。弁慶の泣き所に当たったからか、彼はその場で飛び跳ねて、いかにも仕方が無いという風情で右手を差し出した。
 倒れた自転車の籠からは、背負う主のいない鞄が零れ落ちていた。そちらにも目を向け、膝を伸ばした途端にまた折れそうになった少年を胸に抱きかかえる。
「ひとりか」
 鞄は二つだが、周囲に人の気配は無い。念のため見回してから問うたシャマルに、綱吉は懸命に唾を飲み込んで頷いた。
 結局立てなくて、綱吉は引きずられるようにして運転席のドアから車内に放り込まれた。
 硬い座席に、あまり効いているとはいえない空調。しかし長らく炎天下を歩き通しだった綱吉には、そこは天国のようだった。
 這々の体で助手席に移動して、どうにか頭に巻きつけたタオルを外し、それで顔を拭う。
 開けっ放しのドアから更に鞄をふたつ投げ入れ、シャマルは外からドアを閉じた。後輪が完全に役立たずと化している自転車を起こして路肩に立てかけ、両手を自由にする。
 そのまま車に戻って来ようとする彼に慌てて、綱吉は窓から頭を出そうとしてガラスにぶつかった。
「いてっ」
 こちらは窓が閉まっていたのだった。そんな単純なことも忘れて苦痛を増やした綱吉は、両手で打った箇所を撫で、運転席に戻って来たシャマルを下から睨みつけた。
「んだよ」
「自転車」
「あんなボロっちいの、要らねえだろ」
「要るよ!」
 確かにちょっと砂埃を被って薄汚れているが、パンクの修理さえすればまだまだ乗れる。簡単に捨てていこうとするなと声高に主張し、綱吉は彼に向かって拳を振り上げた。
 膝に置いていた鞄が滑って、足に落ちる。靴ずれの痛みが誘発されて、彼は振り下ろす前に自分の身体を抱え込んだ
 背中を丸めて激痛に呻く少年に嘆息し、シャマルは脂性の髪を撫でた。溜息を連発させて、乗り込んだばかりの車からまた降りる。
「冷房切るぞ」
「えー?」
「後ろ、閉まんなくなるぞ」
 シャマルの車は、二人乗りのミニサイズ。後ろに座席はなく、荷台になっていた。
 座席シートから後ろを見て、その狭さと低さに驚かされる。しかも既に、何がなんだか分からぬものでごちゃごちゃしており、満杯状態に近かった。
 前に向き直れば外に出たシャマルが、自分で立てかけた自転車を抱えて助手席側、つまり歩道側から後ろに回り込むところだった。ハンドルの真ん中を握って、やや乱暴に、ガコンガコンと壊れた後輪で地面を削りながら。
 もっと丁寧に扱えと頬を膨らませるが、動けない綱吉に代わってやってくれているので、あまり文句は言えない。ともかく、これで一安心と言えた。
「あー……」
 力なく息を吐いて座席にもたれかかり、靴を脱いで足を自由にする。履いていた元は白かったはずの靴下は、黒と赤が入り混じって嫌な色に染め直されていた。
 ドン、と音がして車体が揺れて、首を後ろに向けると丁度真後ろの扉が上に開くところだった。シャマルが腰を低くして中を覗きこみ、置ける場所を作るべく中のものを端に寄せる。
 手伝いたかったが、足の痛みがあるので踏ん張れない。邪魔をするだけだと彼にも言われ、綱吉は大人しく座席で丸くなった。
「いってて」
 靴下を脱ごうと膝を寄せるが、捲れた皮が血で布に張り付いてしまっているようで、引っ張るとじくじく痛んだ。奥歯を噛み締めて堪え、熱を持った箇所に息吹きかけるが、遠くてなかなか呼気は届かない。後ろではシャマルが依然ガサガサやっており、車内にあった冷気はどんどん後ろに流れていった。
 こうなると車内は蒸し風呂に近い。折角安息を得たのに、身体は再び火照り始めた。
「あっつーい」
「おし、入った」
 シャツの襟を抓んで広げた綱吉の声を上書きし、シャマルの満足げな声がひとつ響いた。
 振り向けば丁度ドアが閉まるところで、勢い任せのバンッ、という音と衝撃に、彼は反射的に首を引っ込めた。
「あれ……」
 不思議なことに、ちゃんと閉まっているではないか。フレームが斜めを向いて、ハンドルが天井に突き刺さってはいるが。
 後輪はドアの内側ぎりぎりのところに留まっている。元々あまり大きいものではなかったので、なんとか入ったといったところだ。後部ドアを開けっ放しでの運転は、荷物がわらわら落ちて行きそうで怖いから、無理矢理詰め込んだのだろう。
 お陰で元から窮屈だった荷台が余計狭さを増し、運転席まで圧迫されていたが。
「ったく」
 不満顔でシャマルが座席に戻り、乱暴にドアを閉めた。窓も閉まって、出て行く一方だった冷気がまた少しずつ車内を冷やし始めた。
 汗がスッと引いて、綱吉は安堵の表情を浮かべた。
「生き返る……」
「でっけー荷物、拾っちまったぜ」
「えへへ、有難う」
 嫌味を笑顔で受け流し、綱吉は手で顔を扇いだ。滴る汗をタオルに吸わせ、シャマルの髭に絡んでいる分も拭ってやる。
 いきなり横からタオルで撫でられて、ハンドルブレーキを解除しようとしていた彼は面食らった。
「アブねーな」
 運転している時には絶対にするなと言われ、良かれと思ってやった綱吉はしょんぼりと項垂れた。耳を垂らした犬のように大人しくなった彼に嘆息し、大きな左手を広げて伸ばす。頭を掻き回され、綱吉は肩を竦めた。
 助手席に戻り、シートベルトをしっかり腰に回して留めて居住まいを正す。下ろすと痛いので、脚を伸ばし、爪先は宙に浮かせた。
 暗い場所で見えづらいものの、綱吉の傷の具合に眉を潜め、シャマルは壊れた自転車と、ナビに表示されている現在位置に呆れ顔を作った。
「んで、なんだって」
「リボーンが、酷いんだよ」
「……ああ、そうかい」
 理由を問おうとすれば、先を競って綱吉が声を張り上げる。鼓膜を突き破る大音響に、シャマルは渋い顔をして一方的に終わらせた。
 だが綱吉は気が済まなくて、握り拳で膝を交互に叩き、顔を真っ赤にしてリボーンのリュックサックを握りつぶした。
 そのまま胸に抱え込んで、頬を膨らませる。リスかなにかを思わせる表情に苦笑して、シャマルは後部のハザードランプを消して、右にウィンカーを出した。
 車列に合流を果たし、緩やかに波に乗る。
 締め切った車内は、煙草の臭いが染み付いていた。だが、綱吉がいるからだろう、彼は胸ポケットの膨らみに手を伸ばさない。
 暫くじっと真面目な横顔を眺め、綱吉は鞄の中から半透明の水筒を抜き出した。まだ少し残っている、かなり温くなったお茶を飲み干して人心地つく。
 車がカーブに差し掛かるたびに、後ろからはギシギシと、詰め込まれたものが嫌な音を立てた。乱雑に積み上げられた箱や、紙袋の類になにが入っているのかは、シャマルという人物の特性上、あまり考えたくない。
「またろくでもないもの買い込んで」
「んだとー」
 ちらりと見えた紙袋の中身、際どい水着の女性の写真が表紙を飾っていた。これ全てがその類かと思うと、憂鬱な気分が舞い降りてくる。
 呟きに片手運転で拳を振り上げたシャマルだったが、直ぐ後ろから猛スピードで来た車に焦り、慌ててハンドルを左に切った。素早く避けて、荒っぽい運転に愚痴を零す。
 綱吉は感覚が鈍い足を揺らめかせ、窓の外を流れて行く景色に見入った。
 自力で歩くより何十倍も、何百倍も早い。
「ってか、ボンゴレ。他にもっと言うことがあんだろ」
「なに?」
「……叩き落すぞ」
 きょとんとしたまま振り向けば、シャマルが物騒な事を口にした。
 むっとして、一秒考えて、綱吉が足を交互に揺らす。並盛の町に入った車は、頻繁に信号に引っかかるようになった。経路を見る限り、綱吉の家に向かっていると思われた。
 右足を跳ね上げ、ボードの底を蹴り飛ばす。
「ありがと、シャマル。愛してる」
 神様と仏様にも心の中で感謝を表明し、今日ばかりは信じてみようと舌を出す。だが棒読みに近い台詞にシャマルは顔を顰め、青から赤に変わった途端、アクセルを乱暴に踏み込んだ。
 ぶぉん、とエンジンが唸り、急な加速で綱吉の身体が座席に沈んだ。重なり合っていた箱がずれて、それを土台にしていた自転車が引きずられて軋む。天井から埃が降ってきて、綱吉は機嫌を悪くしたシャマルの大人気ない態度に苦笑した。
 もう充分良い歳なのに、時々綱吉よりも子供っぽい。そのギャップがまた面白くて、声を殺して笑った綱吉は、人の事を言えない乱暴な運転を町中で繰り返す彼に舌を出し、遠くに見え始めた覚えのある景色に目を細めた。
 この道を真っ直ぐ行って、二つ目の角を左に曲がれば家に着く。もう少しだと身を乗り出し、綱吉はシートベルトに手を伸ばした。
 赤いボタンを押して拘束を解除し、しゅるっと引っ込んでいくその下を潜り抜けて右の運転席に手を伸ばす。
 通行人を避けて徐行運転に切り替えたシャマルの肘を取り、彼がちらりと横に目を向けた刹那。
「だいすき」
 耳元で囁いた綱吉が、目を閉じて髭面の頬にくちづけた。
 自転車の男性が、気付かぬまま通り過ぎる。綱吉はシートに背中を戻し、減速する車の外に視線を戻した。
「う、わっ!」
 ところがシャマルの車は、予定の角に到達するより早く、いきなり速度をあげた。アクセルを踏み込み、一旦停止のラインも無視して並盛の町を勢い良く駆け抜ける。
 折角近付いた家がまた遠くなって、綱吉は窓に額を押し付け、急変した運転手に怒鳴った。
「シャマル!」
「うっせぇ。どうせオメーん家じゃ、ろくな治療も出来ねーだろうが」
 医療器具が揃わず、包帯すらまともに備わっていない沢田の家では、靴ずれの領域を越えた綱吉の怪我の治療は難しい。張り付いてしまっている靴下を切る鋏ひとつにしたって、ちゃんとしたものを使わないと悪化させるだけだ。
 大声で言い訳を並べ立て、シャマルはハンドルを今度は右に切った。シートの上で飛び跳ねた綱吉は、戻って来た痛みに顔を顰め、慌ててシートベルトを締めなおした。
 僅かに赤くなっている男の、決してこちらを見ようとしない態度に笑みを零し、後部の荷台に目を向ける。
「じゃ、ついでにパンクも修理してね」
「図々しいな」
「ダメ?」
「高いぞ」
 綱吉の怪我と一緒に、自転車の怪我の治療も任せてしまえ。
 ついでとばかりに言い放った彼に、シャマルはブレーキを踏みながら言った。流石に信号無視は事故の引き金になりかねず、交通ルールを遵守して停車させる。
 商店街の向こうに聳える高層マンションをフロントガラス越しに見上げ、綱吉は折角留めたばかりのシートベルトを外した。但し今度は、全部がポケットに吸い込まれる前にベルトを掴んで確保する。
 横断歩道の青信号が点滅を開始する。シャマルは前を見据えたまま、動かない。
 綱吉が笑った。
「じゃあ、これで」
 肘を小突いてこちらを向かせ、無防備な顔目掛けて背を伸ばす。
 足の痛みを堪えて伸び上がった綱吉に唇を塞がれたシャマルは、ハンドルに置いていた手を滑らせて、盛大にクラクションを鳴り響かせた。

2009/8/3 初稿
2018/03/25 脱稿