奥なく入りて なほ尋ね見む

 啓蟄を過ぎて、地中に引き籠もっていた虫たちは盛んに活動を開始していた。
 庭先では秋田藤四郎と謙信景光が並んで座り込み、隊列を組んで餌を運ぶ蟻を真剣な眼差しで眺めていた。
 秋田藤四郎の手には鉛筆が握られ、膝の上には万屋で買い求めた帳簿が広げられていた。寝ぼけ眼で巣から出て来た昆虫を調べて回り、逐一そこに書き記しているらしかった。
 そのなにが面白いのか、歌仙兼定には分からない。
 だからといって咎めるつもりも皆目なくて、彼はぽかぽか陽気の中、縁側をそのまま通り過ぎた。
 どこからか後藤藤四郎の叫び声が聞こえて、直後に厚藤四郎らしき笑い声がこだました。視線を上げ、所在を探って左右を確認するけれど、それらしき影は見当たらなかった。
「襖に穴が開いていなければいいんだが」
 いつだったかは覚えていないが、悪ふざけが過ぎた短刀たちに、襖を叩き壊されたことがあった。
 障子紙の破壊率も、彼らが圧倒的に多い。
 一期一振がその都度頭を下げて回っているが、実年齢に反して行動が幼い藤四郎だちからは、さほど反省の色が見られなかった。
 彼らのお陰で風通しが良くなった過去をさらっと振り返り、歌仙兼定は何気なく視線を泳がせた。
 廊下の突き当たりには、竹を加工して作った一輪挿しが吊されていた。しかし長く放置されたままで、花は活けられていなかった。
 その向かいの壁には、誰が描いたのか、買ってきたのか分からない絵が飾られていた。
 具体的な輪郭を描かない、複数の色を塗りたくっただけの抽象画だ。赤や黄色に、橙と、明るい色合いを中心に構成されていた。
 見る時の気分によって印象が大きく変わる、不思議な絵だ。以前小夜左文字と感想を言い合ったら、合致する意見もあれば、まるで正反対の意見も飛び出して来た。
 良い絵とは決して言い切れないけれど、外す理由が思いつかなくて、ずっとそのままになっている。
 そんなあまり大きくない絵の前を通り過ぎて、打刀の付喪神ははたと足を止めた。
 用事を思い出したわけでも、目の前が塞がっていたわけでもない。
 春になり、麗らかな陽気に誘われて、縁側に面した障子はどこも開けっ放しになっていた。
 角を曲がった先の部屋もそう。三分の二ほど開いた障子の向こうに、黒っぽい塊が見えた。
 一瞬、獅子王が連れている鵺が丸まっているのかと思われた。
 しかしよく見てみれば、それはもっと別のものだった。
「火鉢か」
 ずんぐりむっくりした胴体部分に、斜めに陽が当たっていた。表面は艶を帯びて黒光りして、火箸がぶっすり突き刺さっていた。
 五徳が灰に半分近く埋もれて、炭は置かれていない。
 冬場はここに茶瓶を置いて湯を沸かしたり、網を置いて餅を焼いたりしていた。
 火鉢の周囲は常に人だかりで、ぎゅうぎゅう詰めで混雑していた。誰もが暖を求めて手を伸ばし、中には伸ばし過ぎて火傷する刀まであった。
 後から来た刀が無理に割り込もうとして、押し合いが発生した結果、熱した炭ごと火鉢がひっくり返る事態も何度か起きた。
 黒く焦げた跡が多々残る畳に目をやって、彼は右手を腰に当てた。
「そろそろ、お役御免かな?」
 ほんの一ヶ月ほど前まではちやほやされていた火鉢だが、それも昔。
 今や誰ひと振りとして見向きもせず、温もりを求めて詰め寄って来なかった。
 部屋の真ん中に陣取っていたものが、邪魔だからと隅に避けられているのがなによりの証拠だ。
 陽が長くなり、気温が上昇するにつれて脇に追い遣られてしまった。この火鉢には付喪が宿っていないけれど、もし会話できたとしたら、嫌味や恨み言を散々聞かされそうだった。
 このまま部屋に置きっ放しにしていたら、余計に火鉢が臍を曲げそうだ。
 歌仙兼定だって、もとは刀剣に宿った付喪神。用済みだと捨て置かれ、埃まみれになるのは嫌だった。
 何も語らない火鉢に同情して、顔を上げた。腰にやっていた手で首の後ろを掻いて、敷居を跨がずに室内を覗きこんだ。
「僕だけで運べないことは、ないけれど……」
 納戸に片付ける前に、一応許可を取った方が良さそうだ。
 後で『なくなった』と騒がれるのも面倒くさい。先に近侍に報告して、了解を得てからにしようと方針を変えて、歌仙兼定は踵を返した。
 冬の間に溜まった灰と、煤も洗ってしまいたい。
 それだとひと振りだけでは心許なく、協力し合える仲間が欲しかった。
 どこかで手隙の刀がいないものか。
 暇していそうな刀剣男士もついでに探して、彼は近侍が控える座敷に向かった。
「あれ?」
 けれど残念なことに、へし切長谷部は席を外していた。
 出陣の号令は出ておらず、外出した気配はない。わざわざ自室から持ち込んだと思われる文机には、書きかけの書類がそのままの状態で残されていた。
「すぐ戻ってくるだろうか」
 がらんどうの空間を眺め、首を捻る。
 頭の片隅に、先ほど聞いた短刀たちの騒ぐ声が蘇った。もしかしたらその始末に呼ばれたのかと考えて、歌仙兼定は陽だまりの中、腕を組んだ。
 背中に浴びる温かさが心地よく、油断すると眠気が襲ってきた。しかしこんなところで立ったまま眠るわけにいかず、舟を漕ぎそうになるのを堪え、しばらく待った。
 そうしている間に、すぐ後ろの庭を、洗濯物を回収した堀川国広と物吉貞宗が、談笑しつつ通りかかった。
「こんにちは」
「こんにちは、歌仙さん」
「やあ。ご苦労様」
 振り向けば、目が合った。軽く会釈しつつ挨拶して、火鉢の片付けの件を思い出したのは、彼らが立ち去った後だった。
 しまった、と悔やむがもう遅い。
 またとない協力者が得られる好機だったのに、むざむざ逃してしまった。
 なんとも愚かしい失敗にがくりと肩を落として、打刀は障子に寄り掛かった。
 体重をほんの少しだけ預け、額を押さえて項垂れた。口惜しさに臍を噛み、緩く頭を振っていたら、キィ、と微かに足音がした。
「なにをしている、歌仙兼定」
「へし切長谷部。貴様こそどこへ行っていた」
 ハッとすると同時に、ぶっきらぼうな質問が投げかけられた。それで思わず反発してしまい、発言が刺々しくなった。
 仏頂面で問い返せば、久しぶりの近侍に任じられた男は面倒臭そうに頭を掻いた。朝のうちは嬉々として足取りも軽く、鼻の下が伸びていたのが、嘘のような渋面ぶりだった。
「どうして俺が近侍の時に限って、問題が続出するんだ」
 呟きは完全に、独り言だった。
 聞かれても構わないという心境で愚痴を零した彼に驚いて、歌仙兼定は目を丸くした。
「襖の修繕に、いくらかかると思っているんだ」
「はあ……」
 予想は正しかったらしい。悪戯好きの短刀たちがしでかした後始末に追われて、まだ陽も高いというのに、へし切長谷部の顔は既に疲れ切っていた。
 ほかにも何件か、歌仙兼定が把握していない事件が起きたようだ。
 屋敷の破損状況の確認と、対処に必要な費用の捻出。一切合財の報告書の作成が完了するのは、夜半を過ぎてからと思われた。
 生真面目が過ぎる男とはあまり馬が合わないが、これは同情に値する。
 へし切長谷部はそうでなくとも、自ら本丸の帳簿を預かり、出入金のとりまとめを行っていた。
「君だったら安心して、仕事をしてくれると思ってるんじゃないのかい?」
 そういう男だから、大きな問題が起きても、的確に対処してくれる。
 仲間からの信頼があってこそのことだと言おうとしたのだが、言葉の選択を誤った。
「慰めのつもりか、それは」
「さあ……?」
 案の定、へし切長谷部は眉を吊り上げた。不愉快だと顔に出して睨まれて、歌仙兼定は目を逸らした。
 わざとらしく誤魔化して、顎を爪で掻いた。余所を見たまま惚けていたら、溜め息が聞こえた。
「どけ」
 部屋に入れるだけの隙間は充分残しておいたのに、当てつけのように肘で追い払われた。ぶつからなかったが、肩のすぐ手前を攻撃されて、彼は障子から離れた。
 敷居を跨ぎ、へし切長谷部が上着を脱いだ。畳みもせずに投げ捨てて、日当たりのよい場所に置いた文机に向かおうとして、視線だけを上向かせた。
「なんだ」
 振り返ってみれば、最初に投げかけられた質問に答えていなかった。
 近侍の控え室を訪ねたそもそもの理由を思い出して、歌仙兼定は嗚呼、と頷いた。
「いや、たいしたことではないんだが。火鉢、もう片付けた方がいいんじゃないかと思ってね」
 あのまま出しておいては場所を取るし、誰かが不注意で躓いて、転んで怪我をするかもしれない。
 灰が散乱すれば掃除が大変で、なにかが起きる前に納戸に追い遣った方が皆の為だ。
 言って、先ほど火鉢を見かけた部屋の方角を指差す。
 本当に些細な提案だった、という顔をして、へし切長谷部は頬杖をついた。
「言われてみれば、そうかもしれん。分かった。後で人員を手配しよう」
 空いている方の手で筆を小突き、歌仙兼定への興味を失ったのか、すいっと視線を手元に落とした。態度でこの件は終わり、と告げて、中断していた業務に戻るべく、姿勢を正した。
 薄い座布団に正座して、背筋を伸ばし、書面に向かう。
「いや。僕がやっておくから、その報告に来ただけなんだが」
「は?」
「ん?」
 それを制して意見を述べれば、一瞬の間を置いて、へし切長谷部が変な顔をした。
 ぽかんと口を開き、稀に見る間抜け顔を披露された。そんな表情を見せられる覚えはなくて、歌仙兼定はムッと口を尖らせた。
「なんだい。駄目なのかい」
 あまりにも失礼だと抗議して、声を荒らげた。
 部屋中に響く大声に我に返ったらしく、唖然としていた男は取り繕うように二度、三度と咳払いした。
 取りこぼした小筆を拾い、顎に手を添えた状態で数秒間停止する。
 瞼を薄く閉じて考え込んで、心の整理が終わったのか、やがてへし切長谷部はふーっ、と長い息を吐いた。
「いや、すまない。駄目ではない。むしろ助かる」
 拳を解き、その手を横に振った。非礼を詫びて、感謝に置き換え、よろしく頼むとばかりに小さく頭を下げた。
 だが表情はどこか強張っており、動揺が感じられた。自分の発言の、どこが引っかかっているのかと眉を顰め、歌仙兼定は不機嫌に鼻息を荒くした。
 憤然として、今度はなぜか笑いを堪えている男を見下ろす。
「まさか、お前が、な」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ」
 聞こえてきた独り言に反応して声を上げれば、へし切長谷部は足を崩し、胡坐を組み直した。
 口角を持ち上げ、不遜な笑みを浮かべていた。にやにやと、妙に癪に障る顔でこちらを見上げて、手にした小筆をくるくる回した。
「なに。以前の貴様だったら、自ら片付けよう、など言わなかったと思っただけだ」
「……は?」
 不敵に言って、きょとんと目を点にした打刀を嘲笑う。
 くく、と喉の奥で笑いを押し殺して、彼は右手をひらひら踊らせた。
「火鉢の片付けは了解した。主には俺から報告しておく。そうそう、ついでに炬燵も片付けるよう、小夜左文字に伝えてくれ」
 今度こそ用件は終いだと、顔を背けて早口に言われた。だが思わぬ名前が飛び出して来たせいで、歌仙兼定は動けなかった。
 惚けたまま凍り付き、時間をかけて開けっ放しだった口を閉じた。
 なかなか去ろうとしない打刀に目を眇めて、へし切長谷部は呵々と笑った。
「前に小夜左文字から、似たようなことを言われたが、忘れていた。自分で片付ける、と言い出すのは、貴様ではなくあいつの方だな」
 大きく肩を揺らし、深く息を吸い、吐いた。
 妙に感慨深く呟かれたが、意味が良く分からない。眉を顰めて怪訝にしていたら、今度こそ話は終わりと、前のめりになったへし切長谷部に障子を閉められてしまった。
 せっかくの明るい日差しが遮られたが、打刀が去ればすぐ開けるつもりなのだろう。
 物理的に壁を作られて、歌仙兼定は肩を落とした。
「適当にやっておくよ」
「ああ、頼む」
 釈然としないが、ここに留まっても良いことはない。
 面倒臭くなって告げたら軽口で応じられて、彼は大人しく引き下がった。
 踵を返し、廊下を進んだ。秋田藤四郎はまだ蟻の観察を継続中だったが、謙信景光はいなくなっていた。
 縁側の日当たりのよい場所に鶯丸が陣取り、鳥の声を聞いていた。鴬色の湯飲みを両手で抱いて、眠っているかのように静かだった。
 瞑想のような時間を邪魔しないよう後ろを抜けて、全開になった襖の向こう、建物の反対側の光景に首を捻る。
 信濃藤四郎と後藤藤四郎、厚藤四郎の三振りが横並びになって廊下に正座していた。首には、なにかを記した札がぶら下がっており、罪人が見せしめとして晒されているような状態だった。
「一期一振か」
 頭ごなしに叱ったところで反省しない弟刀を懲らしめるべく、これまでと異なる手法を取ったらしい。
 固く冷たい床の上に正座は、かなりの苦痛だ。しかも通りかかる仲間からは怪訝な目で見られるので、恥ずかしいことこの上なかった。
 自分なら、四半刻でも耐えられない。
 実際信濃藤四郎は相当嫌がっており、我慢ならない、と呻き声を上げていた。
「彼らにやらせてみるかな」
 恥を晒す罰は、精神的にも堪える。
 一期一振に掛け合って、火鉢と炬燵の片付けを彼らに任せるのも悪くない。貴重な労働力を無駄にするのは惜しく、懲罰としても充分かと思われた。
 我ながら妙案だ。頷き、頬を紅潮させて、早速掛け合うべく大家族の長兄を探しに行こうとして。
「……ん?」
 先ほどのへし切長谷部との会話が、突然頭の中で蘇った。
 彼と喋っている時は、いまいち心に残らなかった。なにを言われているのか分からず、深く考えずに置き去りにした。
 そんな話の内容が、急に鮮やかに再生された。多少ながら時間を置いたことで冷静に振り返れて、初めてあの発言の趣旨を理解した。
 足が止まった。
 畳の縁を跨いだ状態で硬直して、歌仙兼定は震える右手で口元を覆い隠した。
 左足首に日差しが当たり、そこだけ明るく、暖かかった。
 影になった場所に立ち竦んで、彼はへし切長谷部が笑った意味を想像した。
 歌仙兼定は馬当番が嫌いだ。畑当番も大嫌いだった。
 本丸を運営していく上で、刀剣男士に任せられた数ある仕事のうち、彼が得意として喜んだのは料理くらいだ。
 掃除も苦手だった。片付けは致命的に下手だった。風呂の湯沸かしをやらせようものなら、湯船に入った仲間が茹で上がるほどの熱湯にした。
 言い訳は、いつもひとつ。
 これは刀の仕事ではない、だ。
 しかし屋敷に住まうのは、彼と同じ刀剣男士だ。彼が『刀はやらなくて良い』と言い出したら、その他大勢の仲間だってやらなくて良いことになる。
 それで散々揉めて、騒動の一部は今も語り草となっていた。
 新しく顕現した刀剣男士に屋敷での生活を説明する際、内番に真面目に取り組まないとどうなるか。面白おかしく語られる過去の中には、歌仙兼定が引き起こした事件が必ず含まれていた。
 当の刀にしたら不名誉極まりないが、元はといえば自らがしでかしたこと。
 いつの間にか薄れていた記憶がまざまざと蘇って、彼は火照って熱い顔を扇いだ。
 もっとも身体が熱を帯びたのは、惨めな出来事の数々を思い出したからだけではない。
 昔――といっても片手にも足りない年数でしかないのだ――の自分なら、へし切長谷部が言ったように、役目を終えた暖房器具を率先して片付けようとはしなかった。
 邪魔だと思いはしても、退かそうとはしなかった。ましてや汚れを落とし、乾かしてから納戸に収納しようなど、欠片も思わなかったに違いない。
 自分自身のことだから、確信を持って言い切れた。断言できる。天に誓っても良いくらいだ。
 ところが実際のところ、彼は今日、忘れ去られた火鉢を目にし、以前と異なる感想を抱いた。
 誰かが不注意から躓き、転んで怪我をしたら、危ない。
 置きっ放しにされるのは、火鉢だって可哀想。
 顕現直後は自分のことに必死で、他を気遣う余裕などなかった。最初に審神者に呼び出された刀剣男士として、短刀たちを守りながら戦うだけで精一杯だった。
 人見知りの性格も災いして、高飛車に思われたのは否定のしようがない。
「なんてことだ」
 それが今や、どうしたことだ。
 率先して屋敷の手伝いに走ろうとしていた自分に気付かされて、歌仙兼定は騒然となった。
 足元から登って来た寒気にぶるっと身震いして、カタカタ鳴って五月蠅い奥歯を噛み締めた。頬は自然と引き攣り、不格好な笑みを形成した。
「僕としたことが」
 そうと知らないうちに、刀としてのあるべき姿を忘れ去っていた。
 長い時間をかけて息を吐き出して、まだ震えている指先をじっと見る。
 それを固く握りしめて額に押し当て、乱れた心を静めようと躍起になっていた時だ。
「歌仙?」
 訝しみつつ名前を呼ばれた。
 声の主には覚えがあった。振り返れば、陽の当たる縁側にひと振りの短刀が佇んでいた。
 前に出した右足を戻して、小夜左文字が首を捻る。動きに合わせて藍色の髪が左右に踊り、ふたつに割れた毛束は犬か、猫の耳のようだった。
 華奢な体躯と相俟って、彼の仕草はどこか動物じみている。
 だがそんなことを口にしようものなら、復讐に燃え滾る彼の本質がにわかに顔を出し、凶暴な牙が襲い掛かってくるだろう。
 愛らしい、とは間違っても声に出さず、務めて平静を装う。
 信濃藤四郎たちは疲れたのか、懲りたのか、静かになっていた。特になにも無い部屋の真ん中で棒立ちだった打刀は、目に見えて異質だった。
「どうかしたんですか」
 具合が悪いかを真っ先に心配した少年に、歌仙兼定は首を横に振った。
 なんと返答するかで少し迷って、探すつもりでいた相手が向こうから来てくれた状況にハッとなった。
「そうだ、お小夜」
「はい?」
 これこそまさに、天の采配と言わざるを得ない。
 自身の強運ぶりを褒め称えて、彼はいそいそと陽だまりの下へ戻った。
「いいところに」
「はあ」
 小夜左文字としては、歌仙兼定がなにを興奮しているか分からない。鼻息荒く近付いて来られるのは、奇妙というか、少し怖いくらいで、無意識のうちに床を後退していた。
 ほんの半歩ほど距離を稼いで、嬉しそうにしている男を仰ぎ見る。
 首を後ろに傾がせる苦労を察して、打刀は即座に膝を折った。
 左足を僅かに引き、右膝は立てたまま残して、そこに右手を置いた。
 正面から真っ直ぐ見つめて来る眼差しに、小夜左文字は一瞬躊躇してから向き合った。
「なんでしょうか」
 彼が打刀に話しかけたのは、変な場所で、変な姿勢で固まっていたからだ。
 細かく震えていたので、どこか痛めたのか危惧して声を掛けたにすぎなかった。
 大事ないなら立ち去りたいところだが、そうもいかなくなった。用件がある、と向こうから態度に出されたのだから、無視して捨て置くのは失礼だった。
 返事を待ち、じっと男を見詰め返す。
「暖房器具を、片付けたいんだ」
 歌仙兼定は手始めにコホン、と咳払いをして、喉の調子を確認してから言った。
 妙に改まった口調に、小夜左文字はぽかんとなった。右から左に素通りした音を慌てて追いかけて、嗚呼、と緩慢に頷いてからハッとなった。
「炬燵ですか?」
 暖房器具という単語に背筋を伸ばし、語尾を上げた。
「それもある。あと、火鉢もね」
 淡々としていたのが、急に表情豊かになった少年を見下ろして、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。
 片付けたいものは他にもあると告げて、腰を引いて立ち上がった。
 遠くなった男の顔を追いかけ、小夜左文字が踵を浮かせた。なぜかホッとした表情を作って、二回続けて深呼吸した。
「あ、でも」
「へし切長谷部には、了解を取ってあるよ」
「そうだったんですか」
 直後になんかを思い出し、言いかける。
 彼が気にしている内容を的確に言い当てて、打刀は得意げに胸を張った。
 誇るところではないのだけれど、小夜左文字は特になにも言わなかった。許可が出ているならそれで構わないと、二度、三度、首を縦に振った。
「さすがにもう、雪は降らないでしょうし」
 彼が炬燵を片付けようと思い、へし切長谷部に相談した時は、承諾が得られなかった。なにを渋るところがあるのか、と不満に思っていた数日後、急な冷え込みで小雪がちらついた。
 段々暖かくなってきていたから、皆して油断していた。賑わいが薄らいでいた炬燵の近辺がその日は大渋滞で、もしあそこで片付けていたら、非難囂々の嵐だっただろう。
 毎年の暦をきちんと記録し、管理していた打刀には、春先に突然寒さが戻ってくるのが分かっていた。
 なにも言わず、誰にも相談せずに行動を起こさなくて良かった。
 失敗を未然に防いでくれた男に感謝して、短刀の付喪神は縁側の先に目を向けた。
「桜なら降るだろうね」
「そうですね」
 花の蕾は徐々に膨らんで、来月の今頃は満開だろう。
 桜吹雪を例に挙げた男に首肯して、彼はふっ、と微笑んだ。
「……なんだい?」
「いえ、ちょっと思い出していただけで」
「ん? なにを?」
 力の抜けた表情に、歌仙兼定が食いついて来た。興味津々に訊ねられて、その勢いがまた滑稽で、小夜左文字は咄嗟に口を手で覆った。
 炬燵の片付けを却下されたしばらく後、へし切長谷部に言われた言葉があった。
 大勢でごった返す炬燵や、火鉢を遠目に眺めていたら、いつの間にか傍に来ていた彼に言われた。
「前までの僕なら、ひと言も言わずに片付けてただろうな、と」
 思い切って相談した日、近侍を任せられていたのは彼ではなかった。しかし早い時期から本丸にいた刀であり、屋敷の仔細を理解している男なので、言い易かった。
 恐らく向こうも、同じ気持ちだったのだろう。普段は聞けない本音が漏れたらしく、へし切長谷部は呟いた後、しばらく笑っていた。
 短くも長い歳月を、共に過ごして来た。
 初めの頃は宗三左文字の弟刀ということで変に構えていたが、ほかの短刀たちとそう大差なかった。
 そんな風にも言われた。特別扱いされる謂われはないと反論したら、その通りだと反省の弁を述べられた。
「僕はいつの間にか、誰かと相談し合えるようになっていたみたいです」
 繰り返しのようで繰り返しではない、毎日の積み重ねの中で起きた小さな出来事だった。
 記憶の海に沈んでしまえば、簡単には浮かんでこない。けれどこうやって後から思い出すくらいには、少し特別なやり取りだった。
 深く息を吸い、吐き出しながら囁く。
 万感の思いを込めたひと言を聞いて、歌仙兼定は驚いた顔で凍り付いた。
「歌仙?」
 目を丸くして固まってしまった男が不思議で、小夜左文字は首を捻って袖を引いた。
 白地の布に指を絡めれば、直後に跳ね返され、浮いたところを握りしめられた。
「僕もだよ、お小夜!」
「えええ?」
 そうして猛烈な勢いで、大声で捲し立てられた。
 座敷向こうの廊下で正座中の三振りが、何事かと揃って首を伸ばした。縁側で茶を飲んでいた鶯丸は動かなかったが、隣に座って菓子を抓んでいた平野藤四郎は不思議そうに目を細めた。
 洗濯物の手拭いを被った虎を追いかけ、五虎退と毛利藤四郎が庭を走って行く。
 どこかで、なにかが起きている本丸の中で、歌仙兼定は目をキラキラ輝かせ、両手で短刀の手を包み込んだ。
 膝を折って屈んで、表情はいつになく嬉しげだった。感極まった様子で顔を綻ばせ、握ってくる指の力は凄まじかった。
 骨が折れそうで、振り払おうとするけれど、ビクともしない。
 焦って肩を突っ張らせた小夜左文字を無視して、今度は腕を上下にぶんぶん揺らし始めた。手を繋いだまま離さず、短刀を振り回し、放っておいたら舞い踊り始めそうな雰囲気だった。
「歌仙、歌仙。痛い、です」
 衆目を集めるのは避けたくて、必死の思いで訴えた。
 せめて手を解いてくれるよう切に願えば、苦痛に満ちた声が効果を発揮した。
「ああ、すまない。お小夜」
 自分が何をしていたか、認識出来ていなかったようだ。
 慌てて謝って、打刀は力を緩めた。
 救出された短刀の指は、圧迫された部分だけ見事に赤く染まっていた。明確に線引きされており、藤色の髪の男は衝撃を受けて小さくなった。
 猫背になって俯いて、悔やんでいるのか右手で顔を覆い隠す。
 深い溜め息が聞こえて来て、小夜左文字は手首をひらひら振った。
 どこも異常がないのを確認して、肩を竦めた。そこまで気落ちする必要はないと諭して、途切れてしまった話の続きを強請った。
「それで、なにが同じなんですか?」
 小夜左文字が思うに、歌仙兼定も誰かに相談せず、独断で行動を起こし易い刀だった。
 その傾向は今も続いて、あまり改まった節がない。
 だというのに『同じだ』と言ってくるのは、奇妙な話だった。
 若干混乱しながら視線を投げかければ、打刀は一瞬言葉に詰まり、目を泳がせた。興奮のあまり話の前後を紛失したらしく、宙を泳ぐ手は頻りに開閉を繰り返した。
 動き回る指先に焦点を定め、辛抱強く返答を待つ。
「ええと、えーっと、なんだったか……ちょっと待ってくれ、お小夜。えっと、あー……ああ、それであの男、あんなに笑っていたのか?」
 歌仙兼定も待たせている自覚はあるらしく、懸命に思い出そうとして、独り言の末に首を捻った。
 天井付近を眺めながら、小夜左文字には分からないことを言う。
 ひとり勝手に納得されても、こちらには何ひとつ伝わってこない。意識が逸れ、存在を忘れ去られたのも癪だった。
「歌仙」
 やや語気を強くして、呼びかける。
「あっ、ああ。僕もね、言われたのさ。昔の僕なら、自分から片付けようだなんて言わなかっただろう、とね」
 それでハッと我に返って、歌仙兼定は両手を叩き合わせた。
 誤魔化すように早口に告げて、人差し指で円を描いた。聞きようによっては非常に失礼千万な評価だったが、打刀自身は気にしていない様子だった。
 むしろその通りだと納得している表情だ。
 誰から贈られた言葉か推し量って、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。
「同じですね」
 お互いに、へし切長谷部から似たようなことを言われた。
 但し中身については、正反対も良いところ。小夜左文字は黙って行動しがちだったのが改まったと評され、歌仙兼定は利己的な思考が利他的なものに育ったと評された。
 たった数年で大きく変わるものなどないと思っていたが、違った。
 こんなにも自分たちは変わったのだと、教えられて初めて気が付いた。
「お小夜の影響かな」
「僕、ですか」
「そう。お小夜だよ」
 顔を見合わせ、相好を崩した。合間に囁かれたひと言が意外で、驚いていたら、念を押すように繰り返された。
 ついでに額をちょん、と小突かれた。
 頭を前後に揺らした短刀に、打刀はなにが可笑しかったのか、呵々と笑った。
「なら、僕は……歌仙の影響でしょうか」
「え?」
 それが変に悔しくて、言い返した。すると男はちょっと嬉しそうにして、鼻の孔を膨らませた。
「思ってるだけじゃ伝わりませんし」
 興奮に頬が赤らんでいくのが分かる。彼の変化をつぶさに読み解いて、小夜左文字は小さな声で呟いた。
 歌仙兼定は思ったことをすぐ言葉にする。歌にする。内に溜め込まない。全部吐き出して、時にはそれが原因で周囲に軋轢を生んだ。
 沈黙は、美ではない。言葉は万能ではないが、手段としてこれほど有用なものは存在しなかった。
 伝えたいこと、伝えなければならないことは、ちゃんと声に出す。
 なにかと騒動を引き起こす男から学んだのは、そういう基本的なことだった。
「なんだか、素直に喜べないのはどうしてだろう」
「褒めてないからです」
「やっぱり」
 思ったことを正直に述べるのは良いことだが、喋り過ぎは宜しくない。
 時として言葉がきつくなる男をやんわり窘めて、短刀の付喪神は彼の背中を押した。
「炬燵の片付け、するんでしょう」
「火鉢もだよ」
「だったら尚更、急がないと」
 立ち止まっている暇はないと諭し、急かした。
 腰を押された打刀はたたらを踏んで、やがて自身の歩幅で歩き出した。
「篭手切も呼んで来ましようか」
「そうだね。覚えておいてもらった方がいい」
 思いつきの提案に乗って、歌仙兼定が深く頷く。
 そうやってまたどこかで、誰かの影響を受け、変わっていくのだろう。
 それは決して不快ではなく、不安を覚えることでもないのだと、小夜左文字は頬を緩めた。

2018/3/7 脱稿

常磐なる花もやあると吉野山 奥なく入りてなほ尋ね見む
聞書集 186