憂かりしことは 忘ざらなん

 目覚めた時から、異変は感じていた。
「ん、んんっ、ん」
 喉を撫で、口を閉じたまま数回咳き込む。しかし違和感は拭えず、逆により強く存在を主張した。
 なにかが喉の内側に貼りついて、しかも剥がれない。
 指を突っ込んで掻き回したい衝動を堪えて、歌仙兼定は眉を顰めた。
「なん、んっ、なんだ」
 言葉を発しようとした瞬間に違和感が暴れ出し、音が通り過ぎるのを遮った。不自然なところで詰まってしまって、彼はぽこっと飛び出た喉仏に爪を立てた。
 傍目にも目立つ隆起をなぞり、表面上は異常がないのを確かめる。
 首を傾げても、原因は分からない。
 不機嫌に眉を顰めて、彼は飴色の廊下を急いだ。
 仏頂面を改めもせず母屋に入り、すでに大勢でごった返している食堂に入った。畳の縁を踏まないよう進めば、用意された膳に冷めかけた料理が並んでいた。
 人数が増えるに従って襖を取り払い、三間繋いだ大広間に、大きな座卓は並んでいない。料理はひと振りずつより分けられて、箱型の膳の上に控えていた。
 誰のものか容易に見分けがつくように、用いる食器や膳には、個々に特色が強く出ていた。
 歌仙兼定のものは一見黒を主体とした地味なようで、随所に螺鈿の花が舞っていた。
 間近で見れば、卓越した技術によって細かく細工されているのが分かる、値の張る一品だった。
 料理は当番がまとめて作るものの、彼らがやってくれるのはそこまで。基本的に配膳は刀剣男士自身が行い、台所から食堂に運ぶのが決まりだ。
 しかし歌仙兼定の分は、一切の支度が完了していた。
 誰の気遣いか瞬時に察して、打刀は座敷の中を見渡した。
「おさ……んんっ」
 喉の不調を気にし過ぎて、身支度に時間がかかった。気を利かせてくれた相手に礼を言おうとしたけれど、声を張り上げようとした途端、ザリッとした感覚が口の奥に広がった。
 軽石かなにかで、粘膜を削られた気分だ。
 稀有な不快感に見舞われて、その場で立ち尽くす。
「あー、うまかった。ごっそさん」
 惚けていられたのは、ものの数秒だった。
 突然足元で元気いっぱいな声がして、ビクッとなった。大袈裟に肩を震わせた彼の右隣で、食事を終えた御手杵が畏まって両手を合わせていた。
 今日の食事当番と、美味しく料理された食材と、それらを育てた仲間に感謝して、視線を気取って左目だけを打刀に向けた。
「どうかしたか?」
 じっと見つめられるのを訝しんだ槍に、歌仙兼定はハッとなって背筋を伸ばした。
「いや」
 慌てて首を振り、誤魔化した。なんでもない、とまで言おうとしたが、直前で軽い痛みを覚え、出来なかった。
 急いで胡坐を掻き、畳に座った。左右に広げた膝に手を置いて、用意された朝食に目を通した。
 山盛りの玄米に、赤出汁の味噌汁。法蓮草のお浸し、焼いたししゃも。そして沢庵と高菜の漬物が、同じ皿に並べられていた。
 量は決して多くないが、少なくもない。
 彼が顕現した直後の貧しかった頃に比べれば、充分過ぎるくらい贅沢な膳だった。
「あの頃は、んんっ、大根飯も、当たり前だったしねえ」
 畑の開墾もなかなか進まず、作付けしては芽吹かない、という失敗の繰り返しだった。
 それが今や、どうだろう。季節ごとに種々の野菜が育ち、貧しい食卓に涙を呑まずに済むようになった。
 苦労した甲斐があった。
 過去の自分を褒め称え、感謝して、歌仙兼定はそうっと両手を合わせた。
「いただきます」
 瞑目し、心の中で呟いた。
 当たり前のように毎日食べられる幸福を噛み締めて、箸を取り、真っ先に玄米飯に手を伸ばした。
 少々冷めかけているけれど、大振りの茶碗自体は仄かに熱を残していた。
 今剣や愛染国俊らと並んで食べている短刀に向かい、小さく頭を下げて。
 御手杵が去って空いた右側が瞬時に埋まるのを横目で見つつ、大量に掬い取った米を頬張った矢先だ。
「んぐ、っぶ、んう」
 固い米粒を奥歯で噛み潰し、第一弾を飲みこもうとした直後。
 全身が毛羽立つような悪寒を覚え、歌仙兼定は盛大に噎せた。
 咄嗟に箸を握った右手で口を覆い、唇を引き結んだ。大事な料理を飯粒だらけにするのだけは回避して、襲い掛かって来た反動に冷や汗を流した。
 奥にも、外にも出られなかった米の塊が、咥内で暴れていた。まるで栗鼠のように頬をぱんぱんに膨らませて、彼は自分の身に起きた現象に目をぱちくりさせた。
「大丈夫か?」
 台所から来たばかりなのだろう。自前の膳を畳に降ろす直前だった和泉守兼定が、心配そうに横から覗き込んできた。
 しかし、答えられない。今口を開けると大変なことになるのは、目に見えて明らかだった。
 歌仙兼定はまず箸と茶碗を置いて、入れ替わりに味噌汁を取った。
 いちょう切りにした大根と、短冊に切った油揚げが浮いていた。それを避けて口を付け、ぐーっと一気に傾けた。
 もれなく口の中が赤出汁の味に染まった。固まっていた玄米の隙間に水気が潜り込み、喉への流れを滑らかにした。
 汁物の力を借りながら徐々に米粒の量を減らし、最後のひと粒を送り出すのに成功する。
 時間をかけてホッと息を吐いた彼に、和泉守兼定はようやく安堵して、腰を下ろした。
「がっつきすぎだぜ、之定」
「うる、……さ、げほっ」
 一度に頬張り過ぎたのだと、思われたようだ。ある意味正しいが、他にも理由があると言おうとして、歌仙兼定は顔を顰めた。
 喉の奥に潜んでいた、ざらざらとした違和感が消えたように思えた。周辺はじんわり熱を持ち、凝り固まっていたものが緩んでいる雰囲気だった。
「大事ない、か」
 あの不快さは、玄米や味噌汁によって綺麗に洗い流されたようだ。
 確認の意味も込めてぼそっと呟き、彼は歓喜に顔を綻ばせた。
「いただきます」
 食前の感謝からやり直し、改めて箸を取った。玄米飯で失敗したので違うものにしようと、咥内の味を変えるべく、高菜の漬物を摘んだ。
 細く切られた青菜を口へ運び、噛み潰し、ピリッと来る豊かな味わいに舌鼓を打つ。
「あー、国広。茶ぁくれ、茶ぁ」
「はいはーい」
 横では楽な姿勢を取った和泉守兼定が、近くを通りかかった脇差に手を振って合図を送っていた。
 空の湯飲みを振り回し、薬缶を催促して、自らは動かない。
 偉そうな態度を普段は叱る歌仙兼定だが、今日に限って彼は静かだった。
 高菜を食べたそのままの体勢を保ち、随分と時間をかけて嚥下した。柔らかな葉物野菜をじっくり咀嚼して、充分過ぎるくらいその味を堪能した。
 喉仏が上下する際の表情は、いやに強張っていた。
 緊張感たっぷりで、大袈裟だった。そんなに美味いのかと、和泉守兼定は茶を注ぐ脇差にそれとなく目で問いかけた。
 堀川国広は質問の意味即座に理解して、怪訝そうに首を振った。
 高菜は昨日、本丸の畑で収穫したものだ。確かに新鮮で美味しいけれど、こうまでして仰々しい仕草を取るものではなかった。
 すでに朝餉を終えた少年の返答に、背高の打刀は再度隣を盗み見た。
「之定?」
「…………」
 具合でも悪いのかと案じるが、返答はなかった。歌仙兼定は非常にゆったりとした所作で箸を操り、じれったくなるような速度で食べ物を噛み砕いた。
 飲みこむ間際の顔つきは険しく、今まさに崖の上から飛び降りようとしている、的な覚悟を匂わせた。
 ここまで顰め面をしなければならない理由が、和泉守兼定たちには分からない。
 味にうるさく、食べながら感想を述べることが多い彼がこんな風になったところを、誰も見たことがなかった。
「歌仙さん、お茶、飲みます?」
 異常事態を嗅ぎ取りつつも、当の刀から助けを求められていない以上、勝手な真似をして良いものか。
 どう対処すれば正解かも分からないまま、堀川国広がとりあえず話を振った。
 黙々と、少量ずつ食べていた男は一瞬脇差を見ると、迷うように視線を脇へ流した。
 和泉守兼定を通り越し、その先へ。
 談笑している小さな刀たちを窺った後、彼は小さく頷いた。
「よろ、し……んんっ」
 よろしく頼むと言いかけて、途中で言葉を詰まらせる。
 反射的に左手で口を覆った打刀に、茶瓶を傾けた少年は目を丸くした。
 前のめりになった男を避け、盛大に仰け反った。尻餅つく寸前で持ち堪えて、膝立ちになった相棒には心配不要と首を振った。
 行き場をなくした手を持て余し、和泉守兼定が長い黒髪を掻き混ぜた。
「さっきからおかしいぜ、之定。どっか悪いのか?」
 こうも何度も噎せるのは、流石に変だ。
 体調不良を疑って訊ねた彼に、歌仙兼定はまたも返事をしなかった。
 いや、出来なかった。
 喉の奥が焼け焦げるように痛み、待っていても熱が引かない。空気が通り過ぎるだけでもピリピリして、呼吸すらままならなかった。
 無理をして食べ物を飲み込み続けて来たが、そろそろ限界だ。
 度重なる固形物の通過に、柔らかな器官が悲鳴を上げていた。
「喉、が……えふっ」
 したくもない咳が出て、喋るのが辛かった。歯の隙間から食べ滓が飛び出そうになって、急いで袖で覆って醜態を隠した。
 もう二度、三度と咳をして、範囲が広がる一方の痛みに臍を噛む。
 唾を飲み込むだけでも勇気が必要で、液体が喉を通り過ぎる際の感覚が嫌にはっきり感じられた。
 どうしてこんなことになったのか、歌仙兼定自身も思いつかない。
 眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべる彼に困惑し、和泉守兼定は目を泳がせた。
 堀川国広は茶を注ぐべきか否かで迷って、座り込んだまま動けずにいた。
 その脇差の背後でスッと影が動いて、途端に歌仙兼定の肩が跳ね上がった。
「歌仙、どうかしましたか」
 騒ぎを聞きつけ、小夜左文字が様子を見にやって来たのだ。
 食事は終わったのか、両手は空だった。白衣に黒の直綴を重ね、袈裟は身に着けていない。いつものように髪を高い位置で結っており、少しの準備でいつでも出陣できる状態だった。
 遠くを見れば、愛染国俊がふたり分の膳を担いで座敷を出るところだった。今剣の姿はない。付近に陣取っていた短刀たちも、揃っていなくなっていた。
 この後一緒になにかする約束を取り付けていた雰囲気なのに、彼だけ輪から外れてこちらに来た。
 申し訳なさを抱いて、歌仙兼定は首を横に振った。
「いいや、お小夜……ん、んんっ」
 強がって平然を装おうとして、失敗した。
 声は喉に引っかかり、掠れていた。全体的に上擦って、咽喉にまとわりつく不快感を押し退けられなかった。
 追い払おうとして咳き込むが、却って頑強に貼りつき、剥がれない。
 無意識に喉に手が行って、撫でさする動きは荒々しかった。
 そこに違和感があると、態度で語っているに等しかった。
「喉、どうかしましたか」
 小夜左文字がそれを見逃すはずがなく、問いかけは心持ち早口だった。膳を挟んで打刀の向かいに膝を突き、三分の一も減っていない料理に眉を顰めた。
 柔らかい葉物野菜が残り半分ほどで、ししゃもは手付かずだった。玄米は最初に食べた後はひと粒も口にしておらず、空になっているのは味噌汁の椀だけだった。
 歌仙兼定は好き嫌いこそあるが、出されたものはきちんと完食する男だ。
 訝しむ少年にじっと見つめられて、打刀はすぐに根負けして白旗を振った。
「んん、んっ、朝から、んっ、ずっと」
 本当は喋りたくないのだけれど、説明するには他に術がない。
 ピリピリ来る熱を我慢しながら訴えた彼に、小夜左文字はひと呼吸置いて頷いた。右手をすっと持ち上げて、それ以上は良い、とでも言うかのように軽く揺らした。
「食べるの、辛いんですか」
 そうして和泉守兼定たちが見守る前で、淡々とした口調で訊ねた。
 それを認めるのは、負けた気がして癪だった。しかし否定して、痛みを堪えながら食べ続ける気は起きなかった。
 正直なところ、食欲はあまりない。
 美味しそうだった料理が急に色褪せて見えて、歌仙兼定は肩を落として項垂れた。
 力なく頷いた彼に、小夜左文字は一度だけ溜め息を吐いた。
「そうですか」
 囁き声で呟いて、不意に顔を上げた。視線を向けられた和泉守兼定はぎょっとなって、訳もなく緊張して頬を引き攣らせた。
 何もしていないし、言ってもないのに、怒られる未来を真っ先に想像した。幼い見た目ながら、打刀より圧倒的に付喪神歴が長い短刀の眼光に臆して、寒くもないのに鳥肌を立てた。
 冷や汗を流して青くなった彼に小夜左文字が差し出したのは、ししゃもが載った皿だった。
「え?」
「歌仙が食べられないみたいですし。余らせるのは、よくないので」
 続けて玄米が山盛り盛られた茶碗も、和泉守兼定の膳に移された。手が付けられていなかった沢庵まで追加して、彼は一気に軽くなった打刀の膳を持ち上げた。
 急にふた振り分の食事を渡された方は呆気に取られ、ぽかんとしたまま凍り付いた。恐縮しながら右手を掲げ、すまない、と仕草で謝った歌仙兼定にも唖然として、残された料理に苦笑を漏らした。
 儲けたと思うべきか、責任を押し付けられたと言うべきか。
 朝から腹いっぱいになるよう強要された和泉守兼定を座敷に残し、戦国大名細川家に所縁を持つ刀は揃って台所を目指した。
「おさ、んんっ」
 廊下は食事を終えた刀の他に、内番へ向かう刀などで混雑していた。
 その流れに乗る形で先を行く少年を追い、歌仙兼定が手を伸ばす。
 呼び止めようとした声は案の定途中で詰まり、痛々しい咳に取って代わられた。
「痛いのなら、無理に喋らなくていいです」
 あれだけやっても懲りず、学ばない打刀に呆れて、短刀が足を止めて振り返った。
 渋さと華麗さを同居させた膳を手に、小夜左文字は眉間の皺を深めた。
 低い位置から睨まれて、図体だけは大きい打刀がしゅん、と小さくなる。見た目こそ歌仙兼定の方が年嵩のようだけれど、実際はその逆で、小柄な少年こそが年長者だった。
 なにかと偉ぶりたがり、居丈高に構える傾向にある男だが、この短刀にだけは敵わない。
 ぴしゃりと切って捨てられて、しょんぼりしながら猫背になった。
 露骨なまでに落ち込んで、歩き出した短刀の後をとぼとぼとついていく。
「薬研藤四郎」
 次に彼が顔を上げたのは、小夜左文字が別の刀を呼ぶ声が聞こえた瞬間だった。
 ハッとして、歌仙兼定は背筋を伸ばした。急ぎ焦点を定めて、洗い物の最中だった短刀を探した。
 薬研藤四郎は白色の上着でなく、割烹着を身に着けていた。黒髪を三角巾で覆って、どこからどう見ても今日の料理当番だった。
「おっ、どうした。小夜助」
 両手を泡だらけにして、近付いてくる短刀仲間に首を捻る。
 隣で手伝っていた同田貫正国に断ってから場を離れて、彼は膳を片付けに入った少年に駆け寄った。
 喉が痛くとも、身体は動く。
「お小夜、僕がや――わっ」
 代わりにやろうとした歌仙兼定を遮って、小夜左文字がそのまま打刀の袖を引いた。
 不意打ちを食らった男は呆気なく体勢を崩し、咄嗟の判断で後退した薬研藤四郎の前で膝をついた。食器類を持っていなくて良かったと冷や汗を流して、一気に加速した鼓動に軽く眩暈を覚えた。
 いくら隙を衝かれたからとはいえ、こうも簡単に組み伏せられるのは屈辱だ。
 奥歯を噛んで耐えていたら、大人しくしているように、との合図なのか、頭をぽん、と叩かれた。
「お小夜」
「歌仙が、喉が痛いらしいので。診てもらえませんか」
「喉?」
 抗議しようとしたけれど、眼力で黙らされた。
 最初から勝ち目がなかったと項垂れて、渋々薬研藤四郎に向き直った。
 胡乱げな少年に無言で頷き、この辺り、とずっとチクチクしている箇所を指差す。
 立ったままでは見づらかったらしく、薬事に通じる少年は中腰になり、すぐに膝を伸ばした。
「ちょっと待ってな」
 言って、なにかを探して割烹着の中を漁り始めた。そこにないと悟ると、今度は下に着込んだ灰色の服を探って、短い洋袴から銀色の塊を取り出した。
 長さ三寸足らずの、細長い筒だった。筆の軸部分に似ているが、素材は金属で、尻の部分を捻った途端に反対側がパッと明るくなった。
「わっ」
 突如目の前で眩しく光り出して、小夜左文字が驚いて悲鳴を上げた。歌仙兼定も騒然となり、奇怪な物体を前に凍り付いた。
 そんなふた振りの反応を面白がって、薬研藤四郎が明かりを灯す不可思議な棒を振り回した。
「面白いだろ。大将に頼んで、譲ってもらったんだ。――さて」
 不遜に笑いながら言って、急に真顔になった。歌仙兼定に口を開けるよう促して、おっかなびっくりの打刀の喉に銀の筒を差し向けた。
 暗く、狭い場所も、これなら奥まで光が届く。
 眩しいが熱くはない光にドギマギしていたら、咽喉を観察し終えた薬研藤四郎が踵で床を蹴った。
 照明を消し、大事に懐に戻した。診察結果を待つふた振りを交互に見て、しばらく黙った後、ふっ、と鼻で笑った。
「腫れてるだけだ。大したことねえよ」
「腫れ、て、……つまり?」
「酒飲みの連中も、たまになるんだよ。酒焼けってやつだな。飲み過ぎて、口からこう、腹ん中に続く管がボロボロになっちまうの」
 過剰に心配する必要はないと告げて、訝しむ小夜左文字に向かって説明する。
 両手を広げて肩の位置で揺らした彼は、心当たりがあるかと歌仙兼定に視線を投げた。
「……酒、など。んんっ」
 小夜左文字からも若干冷たい眼差しが飛んできて、慌てて否定に走るが、巧く喋れない。
 痛みを堪えて鼻から息を吐き、口で言う代わりに首を振った。
 酒の飲み過ぎでこうなったのではないと訴え、誤解だと弁解する。昨日は一滴も口にしていないと身振りで主張して、他の原因を考えるよう、薬研藤四郎に懇願した。
 切羽詰まった打刀の仕草に、彼は今度こそ声を立てて笑った。
 酒が原因ではないと、最初から分かっていたのだろう。それなのに偏見を生みかねない解説を先にして、からかった。
「真面目にやってください」
「おっと」
 意地が悪いやり取りに、小夜左文字の目がつり上がった。
 いつにも増して低い声を聞かされて、薬研藤四郎はひとつ咳払いした。
 割烹着姿で格好をつけて、不意に窓の方を振り返った。まだまだ忙しくしている台所の仲間を少しだけ気にして、短刀の中では立派な方の喉仏を指し示した。
「ここんところ、乾燥してるからな。畑でも藁屑とか、燃えやすいだろ。歌仙の旦那は、察するに夜遅くまで、水も飲まずに過ごしてたんじゃねえか、って」
 本丸の照明は、蝋燭などに頼っている。その上暖房として火鉢を使っていたら、ただでさえ空気が乾燥しているのだ、咥内も乾いて然るべきだ。
 唾液だけでは足りず、喉が荒れるのを防ぎ切れなかった。
 こちらには心当たりがあるかと問われて、黙って聞いていた男は恐々短刀を窺った。
「歌仙」
「……弁解のしようもない」
 強い語気で名前を呼ばれ、隠し通す気力が失われた。潔く認めて、彼はしおしおと小さくなった。
 借りた本を書き写すのに熱中して、時間を忘れた。これだけ素晴らしい内容が、書写することで常に身近なところに置いておけると思うと、気分が高揚し、眠れなかった。
 一文字でも先に進めようと躍起になって、丑の刻が過ぎるまで続けてしまった。
 その間、一度も席を離れなかった。喉が渇いていたのは事実だが、些細なことと無視した。
「自業自得、ですか」
「ううう」
 そうやって朝、眠い目を擦って起きた時にはもう、喉は痛みを発していた。
 ぼそっと呟いた小夜左文字に反論出来ず、歌仙兼定は顔を歪めた。声にならない呻き声をあげて、よろめきつつ立ち上がった。
 診察が終わった薬研藤四郎は、お役目御免と言わんばかりに作業に戻ろうとした。
「治せないんですか」
 それを小夜左文字が引き留めて、治療方法を問い質す。
 珍しく声を荒らげた彼に、行きかけた短刀は首から上だけ振り返らせた。
「人間用のならあるが、効くかどうかは保証しない。それでも良いなら、後で来な。あっと、歌仙の旦那は水分多めに摂って、大人しく寝てるこったな」
 刀剣男士は見た目こそ人間に近いが、母胎から生じた存在ではない。
 この肉体はあくまで仮初めのものであり、頑強さなどは人間のそれを遥かに上回っていた。
 肢体を構成する素材そのものが異なっているから、薬草を煎じた薬を飲んでも効果は殆ど得られない。それでもなんとかならないか、薬研藤四郎たちが試行錯誤を繰り返しているが、現時点で進展らしい進展は得られていなかった。
 喉の炎症を抑える薬は、存在する。
 しかしあくまでも人間向けに調合されたものであって、歌仙兼定が飲んだところで安心出来るものではなかった。
 だから今できることと言えば、せいぜいこれ以上悪くならないよう、気を付けて過ごすことのみ。
 幸いにも今日の彼は、特に役目を与えられていない。部屋で寝転がっていようと、文句を言われることはなかった。
 常にぐうたらしている明石国行を思い出して、打刀は陰鬱な表情で肩を落とした。
「わか、……んっ、た」
 忙しく動き回ったところで、治るものでないのは痛感した。
 渋々承諾し、額を押さえて、彼は背中を撫でて来た手に頷いた。
「すまない、お小夜。んんっ。休ませて、もらうよ」
 無言で慰められて、不思議と痛みが和らいだ。救われた気持ちになって、目を細めた。
「部屋、戻っててください」
 こうなった責任は歌仙兼定自身にあるが、彼だってなりたくてなったわけではない。
 外側からでは分からない痛みを想像して顔を顰めた短刀は、いつも通り淡々と言って、打刀を台所から追い出した。
 言われた通り廊下に出て、歌仙兼定は片付けの輪に加わった少年に頭を下げた。
 心の中で感謝を伝えて、自室へ戻る道を進んだ。喉以外はすこぶる健康であり、足取りに迷いはなかった。
 ただ呼吸がし辛いのが難点で、咥内にじんわり滲み出た唾液を飲むのには苦労させられた。
「難儀なものだな」
 喉に二枚、三枚と、異物が貼りついている感じがした。しかし実際にそんなものはなく、むしろ剥がれている状態だった。
 息ひとっ吐くだけでも四苦八苦して、絶え間なく続く痛みに晒された。
 これなら時間遡行軍を相手にしている方が数百倍楽だと、初めての経験に憂鬱になった。
 人間というものは、常にこんな不便さと隣り合わせで生きているのかと驚かされた。かつての主の苦心ぶりに想いを巡らせて、彼は辿り着いた私室の襖を開いた。
 横に滑らせ道を作り、敷居を跨ぐと同時に閉じた。
 ぴしゃっ、と背後から響く音も、気のせいか普段より元気がない。
 慣れ親しんだ空間も、かなり酷い有様だった。
 食事に行くのを優先させて、布団を片付けるのは後回しにしたのだ。脱ぎ捨てたまま放置されている寝間着を見て、歌仙兼定は存外だらしない自身の生活ぶりを反省した。
 夜も遅くまで読み耽っていた本は、文机の上に開いた状態で残されていた。硯に残った墨が乾いて固まっており、行燈の油皿は空になっていた。
 作業途中で灯りが消えてしまい、それで仕方なく寝床に入った。
 ほんの数刻前の行動を振り返り、彼は乱暴に頭を掻いた。
「んっ」
 油断するとすぐに咳が出て、気道を駆けあがる空気に喉が圧迫された。
 頻りに喉仏近辺を触り、撫でるものの、なにひとつ慰めとはならなかった。
 患部がじわじわ熱を持ち、全身へ広がっていくのが分かる。
 書写の続きをやりたいし、散らかっている衣類を整理したい気持ちもあった。しかし肝心のやる気が湧いて来ず、なにをするのも億劫だった。
 何枚か重ねている衣を一枚脱ぎ、袴の下で縛っている紐を少し緩めた。掛け布団の端を一寸だけ捲って足から入り、横になった途端にどっと疲れが押し寄せて来た。
 もう起き上がりたくないし、起き上がれない。
「ずっと、んん、このままは、……困るな」
 全身に鉛の板が巻き付けられている気分だった。
 目を開けているのも辛くて、枕を引き寄せて瞼を下ろした。喉元までしっかり覆われるよう布団を被り、右肩を上にして楽な姿勢を取った。
 視覚を遮断した途端、残りの感覚が研ぎ澄まされた。愛用している墨の微かな匂いが鼻腔を擽り、庭先で遊ぶ小鳥の囀りがひっきりなしに聞こえてきた。
 薄い布団を通し、廊下を行く誰かの振動を感じた。
 話し声がするが、内容までは聞き取れない。やや荒っぽい駆け足が一瞬だけ紛れ込んで、二階部分で動き回る仲間の気配が絶えなかった。
「ああ、……うるさいな」
 常にどこかで、誰かが活きていた。
 それが煩わしくもあり、不思議と心地良くもあった。
 顕現した直後の本丸は、今と比べるとずっと狭く、小さかった。しかし彼ひとりが生活するには広く、あまりにも大きかった。
 そこに小夜左文字が顕現して、粟田口の短刀たちが後に続いた。あの頃はこんなにも大所帯になるなど、思ってもみなかった。
 あっという間だったようで、とても長い時間を過ごした。嫌なことや、嫌なことや、嫌なこともあったけれど、良いことも沢山あって、総括すればそこまで悪くなかった。
 寝転がる以外になにも出来ないので、色々なことを考えてしまう。
 すっかり忘れていた約束まで思い出して、歌仙兼定はふっ、と相好を崩した。
 目を閉じたまま微笑んで、顔の前に放り出していた右手指を痙攣させた。気配を感じ、眉を顰めて、息を殺して襖を開けた相手に意識を傾けた。
 入室の許可を求めることなく、勝手に入って来た。だがそれを咎めたりはせず、彼は起き上がるべく肩を突っ張らせた。
「どうですか?」
 のっそり身を起こし、布団に座った。膝を緩く折り曲げて、その隆起に腕を置いた。
 小夜左文字は静かに問いかけて、持って来たものを置く場所を探し、目を泳がせた。
 文机に向かおうとして、一歩と進むことなく動きが止まった。盆のひとつを置く隙間もないくらい、物が散乱している状況を見られてしまい、打刀は恥ずかしさに頬を赤らめた。
「熱心なのは構いませんが、やり過ぎは良くないです」
 多少無理をしてでも、片付けておくべきだった。
 今更過ぎる後悔に襲われた。穴があったら入りたい気分で頷いて、歌仙兼定は短刀を目で追いかけた。
「んん、ん」
 その間も咳は止まらず、静かな空間に無粋な音を撒き散らした。
 尖ったもので喉をがりがり擦られる錯覚を抱いて、鎮まらない痛みに臍を噛んだ。
 頑丈に出来ている現身が、たかが乾燥程度で傷ついてどうするのか。
 だが彼らの足元を支える大地だって、雨が降らずに乾き続ければ、いずれひび割れが生じるのだ。
 己の頑強さに甘えて、軽く見ていた。
 この痛みは図に乗った打刀に反省を強い、褌を締め直させるための警句だ。
「どうぞ」
 結局畳の上に盆を置いて、小夜左文字が運んできたものを掌で示した。
 受け取ろうと手を伸ばした歌仙兼定は、大振りの湯飲みに注がれた中身を見て、掴むのを一瞬躊躇した。
 白湯かと思ったが、違う。ほんのり黄味を帯びており、微かに甘い匂いがした。
「葛湯です」
「ああ……っぇふ」
 どういった飲み物か分からず困惑していたら、戸惑いの理由を悟った短刀が教えてくれた。口調は相変わらず淡々としており、裏に隠れる感情を読み取るのは難しかった。
 試しに咳をしても、反応がなかった。余所を見ていた瞳が一瞬だけ向けられたものの、すぐに外れ、右方向へと流れていった。
 彼が何を気にしているか疑問だったが、ここで振り返るのは不自然だ。
 部屋の間取りや、家具の配置を思い返しつつ、打刀は大人しく湯飲みを取った。
 左手を底に添え、右手で胴を支えた。葛湯と言われたがとろみは少なく、器を傾ければ中身もそれに従った。
「これは、お小夜が?」
「喉には生姜が良いと聞いたので、搾り汁、入れてあります」
 飲み易いよう、葛の量を調整してあるのだ。喉の奥から生じるのとは違う熱が湯飲みから広がって、四肢の強張りが溶けていくようだった。
 ホッとして、自然と頬が緩んだ。
「いただきます」
 小夜左文字が自ら考え、作ってくれたのが嬉しかった。
 助言を与えた存在があるのは確実だが、見ないふりをして、打刀は熱々の液体に息を吹きかけた。
 湯気の柱が大きく揺れて、その一部が鼻を通して歌仙兼定の喉を潜り抜けた。
「火傷には気を付けてください」
 喉だけでなく、舌や咥内まで傷めたら大変だ。
 案じる声に黙って頷いて、彼はそっとひと口、温度を測りながら葛湯を啜った。
「あっち」
 十二分に時間を使い、慎重に事を進めたつもりだった。
 しかし、万全ではなかった。回避出来なかった熱さに悲鳴を上げて、歌仙兼定は湯飲みを握り直した。
「歌仙」
 座り込んだまま暴れた彼に驚き、小夜左文字が膝立ちになる。
 中途半端なところで右手を躍らせた少年に目を丸くして、打刀はひと呼吸挟んで噴き出した。
「ふはっ……んん、んっ」
 声を上げて笑おうとして、咳に邪魔され、叶わない。
 葛湯を零さないよう、湯飲みを大事に抱きしめて、彼は一気に噴出した疲労感に肩を上下させた。
 ぜいぜい言っていたら、後ろに回った短刀が背中を撫でてくれた。背骨の隆起を避けて右、左、右、と何度も繰り返し、打刀の呼吸が落ち着くのを待った。
「誰も、盗ったりしません」
 これは歌仙兼定のために用意したものだから、最後の一滴まで彼のもの。
 落ち着いて、ゆっくり飲むよう諭された。幼い見た目の、年嵩の昔馴染みに首肯して、打刀は改めて湯飲みに口を付けた。
 不思議なことに、葛湯から吐き出される湯気を吸っている間は、呼吸が楽だった。
 葛の量が少なめとはいえ、とろみが全くないわけではない。乾燥に奪われた粘膜を代わりに補って、喉元を通り過ぎる熱は驚くほど優しかった。
 痛みが皆無だったわけではないが、米や青菜を飲み込んだ時の三分の一以下だ。驚くほどすんなり滑り落ちて行き、なにかに突かれるような刺激はなかった。
 食事にあれだけ苦労したのが、嘘のようだ。
 もしやもう治ったのでは、と気が急いたが、試しに唾液を飲み込んでみれば、ビリッと来る痛みが遅れてやって来た。
「くう……」
 出陣して負った傷だって、ここまで早く直ったりしない。
 少し考えれば分かることなのに、早計だった。あまりにも愚かしい行為だったとひとり恥じて、彼はちびり、ちびりと残りの葛湯を喉に運んだ。
「なんだか、甘いような」
「蜂蜜を入れてあります。歌仙の秘密のところから、少しもらいました」
「あれか。んっ。お小夜なら、構わないよ」
 この本丸で、甘いものは貴重だ。ほかの短刀や、食い意地の張った脇差たちに所在が知れたら、こっそり盗み食いされて、気が付けば空になっている、となりかねない。
 だから隠し場所を知っているのは、台所仕事に通じて、秘密を守れる刀だけ。
 その最たる少年の告白に微笑んで、歌仙兼定は飲み終えた湯飲みを盆に置いた。濡れた唇を拭い、ふーっ、と長い息を吐いた。
 全身の力を抜き、横になるついでに斜め後ろを振り返れば、置かれていたのは彼の本体とも言える打刀だった。
 先ほどの短刀は、現身に起きた異常が、なにかしら刀に影響を与えていないかと、気にしていたらしい。
 思ったよりも心配させていた。
 申し訳なく感じると同時に、嬉しくなって、歌仙兼定は布団の下で笑みを噛み殺した。
「お小夜?」
 暖かな飲み物を得て、内側からぽかぽか暖かい。
 今なら目を閉じて五秒で眠れる、と変な確信を抱いていたら、短刀の手がするり、と打刀の手を取った。
 敷き布団に転がっていた掌を掬って、両手で挟んだ。親指以外の四本の指をまとめて撫でさすって、最後にぎゅっと握りしめた。
「ええと、あの」
 枕元に蹲って、赤く染まった顔を背ける。
 言い渋って、間を多く取り、深呼吸を数回繰り返して。
 重なり合った掌を通じ、熱を伝えて。
「弱ってる、ときは。手を繋いでもらうと、安心するって、その。……聞いたので」
 しどろもどろの説明を経て、小夜左文字は俯き、黙り込んだ。
 寝転がっているせいで、彼の表情がよく見えない。辛うじて鼻の頭と耳朶が視界に入ったが、そのどちらもが、信じられないくらい真っ赤だった。
 誰の入れ知恵かは知らないが、感謝しなくてはいけない。
「ありがとう、お小夜」
 喉の痛みは辛いが、それに勝る褒美をもらった。
 嬉しさを噛み締めて、歌仙兼定は余っていた手を小さな手に重ねた。

2018/3/3 脱稿

ひきかへてうれしかるらん心にも 憂かりしことは忘ざらなん
山家集 雑 1263