わが元結に 霜は置くと

 ふわっと、なにかに包まれるような感覚があった。
 透明で、薄く、それでいて柔らかなものが背中を覆った。凹凸の多い輪郭を埋めて、隙間なくぴったりと貼りついた。
 それがすうっと、身体の中に吸い込まれて行った。まるで日差しを受けた雪が溶け、大地に染み込んでいくようだった。
「ん……」
 浮遊していた意識がそこで途切れ、足元に固く冷たいものを感じた。
 胎児のように丸くなっていた四肢をゆっくり伸ばして、前田藤四郎はぼうっとする頭を上向かせた。
 仰向けになって寝転がり、瞬きを数回繰り返す。
「あれ」
 惚けたまま数秒間停止して、短刀の付喪神は眉を顰めた。
 瞼を開けているはずなのに、目の前が真っ暗だった。濃い墨一色で塗り潰されており、そこが狭いのか、広いのかも咄嗟に把握出来なかった。
「どこ、でしょう」
 腑抜けた声を漏らし、右手で目元を擦った。最後にぺちん、と額を叩いて意識の覚醒を促して、鈍い動きで起き上がった。
 左腕をつっかえ棒にして、冷えた床に座った。敷き布団代わりになっていた丈の短い外套を軽く引っ張り、身なりに異常がないのを確かめた。
 平らな場所で横になっていた影響か、節々が痛いが、出血はどこにも確認出来なかった。腰を捻ればボキッと嫌な音がしたものの、手足は問題なく動いた。
 敵に捕らわれて、牢に閉じ込められているわけではない。
 真っ先にそれを疑った自分を恥じて、彼は照れ臭さに顔を赤くした。
「寝てしまったようです」
 涎の跡が薄く残る口元を擦って、反省して膝を抱いて丸くなる。
 引き寄せた踵が乾いたものを踏みつけて、ガサガサと音を響かせた。
「いけない」
 複数枚重なり合った紙が一斉にずれ動く音だ。
 変なところで折り目がついてしまうのを恐れ、急ぎ足の下から引き抜く。表装に使われている和紙の肌触りに安堵の息を吐いて、前田藤四郎は改めて辺りを見回した。
 ホー、ホー、と梟の声がした。
「夜、ですよね」
 耳を澄ませ、怪訝に眉を顰めた。
 真っ暗闇の空間で、短刀の声は微かに反響していた。
 独り言だから、音量はそこまで大きくない。しかし辺りが静かすぎて、壁に当たって跳ね返っているのがはっきり感じられた。
 明かりを探し、高い位置を仰ぐ。
 書庫の天井付近に設けられた窓は小さく、室内を照らすにはあまりにも貧相だった。
 灯りを用意していたのだが、眠っている間に消えてしまっていた。長時間居座る予定がなかったので、そこまで大量の油を準備しなかったのが災いした。
 まさかこんなことになると、誰が予想出来ただろう。
「参りました」
 文字を追いかけているうちに睡魔に襲われ、抗えなかった。
 情けなさにがっくり項垂れて、前田藤四郎は足元から救出した本を脇に退けた。
 目覚めた直後はなにも見えなかったが、少しずつ闇に慣れて来た。刀剣男士として、人間ではおよそ活動不可能な環境下でも自在に動き回れるのが、こんなところで功を奏した格好だ。
 とはいえ本来は、こんな状況で役立てる能力ではない。
 片付けは、明日だ。今は暗闇から出るのを優先すべく、彼は恐る恐る立ち上がった。
 膝に貼りついていた埃を払い、長く曲げていた所為で固まっていた膝関節を伸ばした。引っ張られた筋が抗議の声を上げたが無視して、左右に設置された木製の棚に片手を預けた。
 棚に並ぶのは、桐製の箱だ。いずれも頑強な造りで、中身が詰まるとひと振りでは抱えられない重さになった。
 収められているのは、書物。本丸建設当初から現在に至るまでの、膨大な戦闘記録を著したものだ。
 ほかにも屋敷の地図や、畑で栽培している植物の記録なども収められていた。近侍の日誌に、馬の体調管理を事細かに記したものも含まれている。
 それらがあまりにも無秩序に、まとめて桐箱に放り込まれていた。だからいざ必要になった時に、探している資料が見付けられない事態が起きた。
 以後、箱ひとつひとつに対して、目録が作られるようになった。
 どこになにがあるか整理して、まとめる仕事が、屋敷に住まう刀剣男士の仕事に追加された。
 前田藤四郎は今回、晴れてその役目を任された。
 張り切って取り組んで、つい熱が入った。
 そして最終的に気が緩み、陽が暮れたとも気付かずに寝こけてしまった。
「お腹、空きましたね」
 このことが知れたら、大勢いる兄弟刀は絶対に笑うに違いない。
 夕食の席に遅くなった理由を説明するのが、今の時点からすでに億劫だ。
 ほぼ確実な未来に陰鬱な顔をして、彼は慎重に足を進め、書庫の出入り口に手を伸ばした。
「……あれ?」
 観音開きの戸を開けるべく、体重をかけた。ぐっと押して、通れるだけの隙間を作ろうとした。
 だが、果たせなかった。
「え?」
 手前に引くのだったかと、記憶違いを疑った。しかし防火対策から木製の板に鉄板を重ね、鋲打ちしてある扉に、掴める場所はなかった。
 やはり押すのが正解と、思い直して再び両手を広げた。肘を伸ばし、肩を突っ張らせて踏ん張ったが、結果は変わらなかった。
 どれだけ押しても、ビクともしない。
「あれえ?」
 ガタガタ揺れることはあっても、扉全体に伝わる振動はごく僅かだ。
 繰り返し挑戦する間に身体が火照って来て、前田藤四郎は唖然としながら顔を扇いだ。
 身体はじわじわ熱を持つのに、内臓の奥の方は異様に冷えていた。
 闇の中で幾度も瞬きを繰り返して、小柄な少年は嫌な予感に背筋を寒くした。
「まさか」
 ゾワッと悪寒が走り、鳥肌が立った。咄嗟に自分で自分を抱きしめて、押し寄せて来た恐怖に奥歯を噛み鳴らした。
 鼻の孔を膨らませ、思い切り息を吸い込んだ。続けて出ようとした悲鳴をすんでのところで封じ込めて、内股になり、左右の膝を擦り合わせた。
 書庫は本丸でも奥の方の、用が無ければ誰も寄りつかない場所にあった。壁には漆喰が塗られ、出入り口はこの扉ひとつきりだった。
 ここにあるのは、この本丸の全ての記録だった。各男士や、敵である時間遡行軍らに関する詳細な記述も、多数保管されていた。
 この蔵が暴かれるということは、本丸が丸裸にされる、ということだ。
 だから万が一を警戒し、鼠一匹潜り込めないようになっていた。
 明かり取りの窓はひとつきりで、とても小さい。更に獣が出入りしないよう、目の細かい金網が取り付けられていた。
 扉を塞ぐ閂は大きく、重い。黒光りする巨大な南京錠も併用されていた。
 押しても、引いても動かないのは、外側から閂が通されているからだ。
「いったい、誰が」
 中に前田藤四郎がいるのに、施錠されてしまった。
 気付いてもらえなかった。短刀自身も、閂が通される音に気付かなかった。
 持ち込んだ行燈の火も、すでに消えていたのだろう。
 奥で動くものの気配がないのに、中を念入りに確認するわけがない。受け入れ難いけれど、施錠をしに来た誰かを責められなかった。
「どうしましょう」
 書庫の扉の鍵は、前田藤四郎の手元にあった。だが南京錠は、鍵無しでも施錠可能だ。
 そうと知らない刀剣男士が、日没前の見回りで、開けっ放しになっている書庫に気が付き、親切心から鍵を閉めた。
 実際の詳細は不明だが、恐らくこういった流れだったに違いない。想像して、軽く絶望して、前田藤四郎は倒れそうになった身体を支えた。
 くらっと来た頭を押さえ、踏み止まった。一瞬遠ざかった意識をしっかり繋ぎ止めて、冷静になるべく深呼吸を繰り返した。
「すう……はあ……」
 左胸に手を当てて、鼓動を数えた。
 今も背中がゾワゾワしていたが、気にしないよう心掛け、沈黙する扉を睨みつけた。
 かといって、それで臆した扉が道を譲ってくれるわけがない。
 眉を寄せ、厳しい顔になって、彼は身体を百八十度回転させた。
 明かり取りの窓に望みを託すが、垂直にそそり立つ壁にも、手掛かりとなる突起はない。
「簡単では、ありませんね」
 書庫を埋める棚によじ登り、そこから飛び移る手も考えた。けれど金網を取り外すための道具がないまま、闇雲に突っ込むのは危険だった。
 下手をすれば転落し、怪我をするだけでは済まなくなる。
 じりじりと焦げ付くような感覚に舌打ちして、彼は両手を握りしめた。
 そのうち兄弟が、前田藤四郎の不在に気付くだろう。いくらなんでも遅すぎると訝しみ、探しに来てくれるに違いなかった。
 ただそれがいつになるかは、見当がつかなかった。
「寒い」
 彼が書庫に引き籠もり、目録作成のための文書整理に取り組んでいると知っているのは、誰と誰だ。
 思い出そうとするが、足元から登って来た冷気が邪魔をした。堪らず爪先立ちで跳ねて、身体のあちこちを撫で擦った。
 摩擦で少しでも温めようと足掻いて、暴れすぎて肩から棚にぶつかった。
「いたっ」
 いくら短刀が闇に強いからといって、日中と全く同じ動きが出来るとは限らない。
 遠近感が僅かに狂い、距離を測り損ねた。じんじんする痛みに臍を噛んで、彼はその場に蹲った。
 膝を抱いて身体の各部位を密着させ、背負った外套を限界まで引っ張った。一部を尻に敷き、座り心地が決して良くない板張りの床から身を守った。
 打った場所の痛みは徐々に引いていくけれど、入れ替わりに不安と、恐怖が押し寄せて来た。
 静かだった。
 梟の声は止んでいた。
 小さな窓から差し込む光は弱く、殆ど無いと言っても良かった。
 昼間でも、照明がなければ足元が覚束ない場所だ。だから書庫に用がある刀は、大抵は必要な文献を見つけると、その場で広げるのではなく、自室に持ち帰っていた。
 ここで作業できるのは、短刀や脇差、頑張って打刀くらいだった。
「はー……」
 蹲ったまま両肩を抱いて、前田藤四郎は窄めた口から息を吐いた。
 外部と触れあった箇所から、体温がどんどん抜け落ちていく。それを遅らせるべく、膝小僧に向かって呼気を吹きかけた。
 少しでも暖を取ろうと試みて、あらゆる場所を撫でた。時に痛みが出るまで荒っぽく擦って、ほかの感覚で寒さを忘れようとした。
「このまま出られなかったら、どうなるんでしょう」
 けれど、悪い方向に頭が向かうのを止められなかった。
 押し迫る不安をうっかり口に出した途端、それが起こり得る未来として彼の心を貫いた。
 物理的な攻撃を受けたわけではないのに、内側を抉られるような衝撃が走った。
「うう」
 たまらず呻き、胸を押さえる。歯を食い縛り、いやな妄想を振り払うべく首を振った。
 そんなことにはならない。絶対に、ならない。
 強く念じて、奮い立たせた。挫けそうになる弱い心を叱咤して、負けてなるかと呼吸を荒くした。
 もう一度立ち上がり、閉ざされた扉に向かった。
 閂がなんだ。鉄製の頑丈な鍵がどうした。
 そんなもの、本気になった刀剣男士の前では紙切れにも等しかった。
「お覚悟!」
 両手の平を合わせ、指を互い違いに絡めた。ぐっと力を込めて握り締め、意を決して振り下ろした。
 勇ましく吠え、自らの力で脱出しようと激しく扉を殴った。
「――ぐあっ」
 相応に鍛えた筋肉と、中核をなす骨の両方に、激しい衝撃が襲い掛かった。
 与えた分の力を、そっくりそのまま跳ね返された。たたらを踏み、仰け反って、前田藤四郎はそのまま尻餅をついた。
 鉄板で補強された扉は、一寸たりとも動いていなかった。
「いっ、た……くう」
 対する短刀の拳は、無傷とはいかなかった。
 棚で肩を打った時とは比べ物にならない痛みが、患部どころか頭の中にもガンガンと響いていた。
 頑強な扉と骨の間に挟まれた皮膚が裂け、鮮血が滲んでいた。捲れた皮がだらん、と垂れ下がる。それが揺れる度に、辛うじて繋がっている箇所に激痛が走った。
 指先はじんじん痺れ、動かそうとしても動かなかった。痛み以外の感覚が遠退いて、自分の身体ではないようだった。
 どこかの骨が折れたかもしれない。
 しかし暗がりの中、それを確かめるのは難しかった。
「いた、い。いたい……いた、あ……ああ、あああっ!」
 閉じ込められた恐怖から、後先考えずに無謀な真似をした。普段の彼なら実行する前に立ち止まって考え直すのに、箍が外れてしまった。
 愚行の報いを受けて、傷ついた両手を床に落として涙を流す。
 助けを求めて泣きじゃくるが、分厚い壁に阻まれ、声は外に届かなかった。
 今頃兄弟刀たちは美味しい料理に舌鼓を打ち、眠るまでの僅かな時間を楽しんでいるのだろうか。
 仲良く風呂に入って、仲良く枕を並べて。
 そこに前田藤四郎の姿がないことに、なんの疑問も抱かずに。
「いち兄! 平野。信濃兄さん、みんな……」
 微かな希望を抱くが、呼びかけに応じる声は聞こえなかった。
 座り続けるのも億劫になり、ごろんと横になる。陸に打ち上げられた海驢になって、作業途中で放置された桐箱を何気なく見た。
 強すぎる痛みのお陰か、寒さはどこかへ消し飛んでいた。
 不規則な呼吸を繰り返し、時折喉を詰まらせながら、彼はずりずりと這いずるようにそちらに向かった。
 箱から取り出した書物は、床の上に積み上げられていた。低い塔が五つか、六つほどある。それを体当たりで崩して、手当たり次第身体の下に敷いていった。
 皺になろうが、折れ曲がろうが関係ない。
 重さで潰されない程度に足や胴にも被せて、次第に体温に馴染んでいく紙に安堵した。
 即席の布団は、あまり暖かくなかった。
 何もしないよりは良い、という程度だった。
「大典太さん」
 遅くとも明日の朝になれば、誰か訪ねて来てくれる。そう願い、祈って、彼はそっと目を閉じた。
 痛めた両手の痛みは引かず、眠るには心が波立ちすぎていた。しかし動くものがなにもない中、目を開け続けるのは億劫だった。
 刀剣男士が餓死する、という話は聞いたことがないので、それは心配不要だろう。凍死、というのも聞いたことがなかった。
 あるのは唯一、破壊のみ。
 折れて、砕かれ、現身との繋がりが途切れることが、彼らにとっての『死』を意味した。
 もっとも、本当は他にもあるのかもしれない。ただ前例がなく、知られていないだけで。
「第一号は、……嫌ですね」
 記念すべき最初の餓死者には、なりたくなかった。一度覚えてしまうとなかなか消えない空腹感を誤魔化して、咥内の唾を数回に分けて飲み干した。
 唇を舐め、四肢の力を抜いた。
 ぐったり床に横たわって、再び聞こえ始めた梟の声を数えた。
 仲間を呼んでいるのか、それとも縄張りを主張しているのか。
 付喪神とはいえ、獣の言葉を介する能力はない。ホー、ホー、と鳴く梟が何を訴えているのか、見当もつかなかった。
 分かるのは、今の前田藤四郎にとって、この獣だけが唯一の話し相手だということだ。
「あなたも、ひとりなのですか?」
 虚空に向かって訊ねた。
 直後にホホーウ、と少し違う鳴き声がして、まるで言葉が通じ合っているかのようだった。
 そんな訳がないのに嬉しくなって、ほんの少し心が和らいだ。
 裂けてしまった拳の、傷がない箇所をそうっとなぞって、恐々顔の前へと持って行く。
 血の臭いがした。
 吐息が皮膚を掠めて、その一帯にチリッと来る熱が生じた。
 もぞもぞ身動ぎして、楽な姿勢を探した。凸凹だらけの不安定な寝床では、どんな体勢を取っても居心地は良くない。それでも僅かな可能性に賭けて、求めずにはいられなかった。
 どこかにあるはずの墨をひっくり返さないように注意して、寝返りを打った。普段ならなんの支障もない動きひとつに深く安堵して、投げ出していた足を集めた。
「みんなは今頃は、お風呂でしょうか」
 時計などあるはずもなく、時間の感覚はまるで掴めない。目覚めてから数刻が経過しているようにも思えたし、まだ四半刻も経っていない気にもなった。
 頭は冴えている。だのに肉体は疲弊しきっていた。
 さほど動いたつもりはないが、自力で対処出来ない状況に身を置くというのは、精神的に来るものがあった。ただでさえ少ない体力をこれ以上浪費するのも、得策とは言えなかった。
 朝まで待てば、きっと助けは来る。
 祈るように頭を垂れて、前田藤四郎は暗く沈もうとする意識を懸命に奮い立たせた。
 迂闊だった自分を恥じ、呪い、恨みそうになった。
 探しに来てくれない兄弟刀や、仲間を憎みたくなった。
 どろっとした嫌な感情が、胸の奥底で渦巻いている。足を掬われればたちまち奈落の底に落ち、二度と抜け出せなくなりそうだった。
 笑っていたかった。
 助け出された時、「遅い」と言って皆を許したかった。
 出来るだろうか。叶うだろうか。
「さむい」
 辺りを埋め尽くす暗闇に押し潰される恐怖に抗い、喉の奥で呻いた。
「いたい」
 忘れかけた時に蘇る両手の痛みを噛み締めて、背後から忍び寄る不可視の気配に背筋を寒くした。
 書庫には彼しかおらず、それ以外の存在は皆無。だというのに書棚の影からなにかが覗いているような錯覚を抱き、心が休まらなかった。
 居ないのに、居るのではないかと、疑心暗鬼が消えない。
 恐怖から来る緊張に、きりきりと胃が痛んだ。冷や汗が止まらず、早く外に出たくてたまらなかった。
「大典太さん、も。ずっと」
 彼の身近には、長年蔵で過ごした太刀が在った。
 強すぎる霊力を敬われつつ、恐れられた刀だ。外に出るのは病人が出た時だけであり、前田藤四郎も容易く対面出来る相手ではなかった。
 大勢から必要とされてきたのに、顕現した大典太光世の性格は卑屈だった。自分に自信がなく、事あるごとに蔵に引き籠もりたがる男だった。
 外の方が面白いことや、楽しいことが沢山あるのに、背を向けて、見ようとしない。
 お節介を焼き、度々理由を作ってあちこちに連れ出してきた短刀は、じくじく痛む指先をじっと見つめた。
「こんな感じ、だったんでしょうか」
 出たいのに、出られない。
 訴えても、声は届かない。
 願いは届かず、見向きすらされない。
 最初に表れた感情は、怒りだった。
 あまりの不条理さに苛立ち、暴れた。横暴に対抗すべく力を振り翳して、悉く跳ね返された。
 そうして次にやって来たのが、哀しみだ。
 何故こんな目に遭わなければならないのかと憂い、不幸な境遇に涙した。恐怖に怯えて、過失はないと懸命に自己を慰めた。
 いつか自由になれる日を夢見た。ところが待ったところで状況は改善せず、むしろどんどん悪化した。
 やがて彼は、諦めを覚えた。
 足掻いたところで無駄と学び、黴臭い蔵に閉じこもることこそが幸いと信じた。そうすることで安心する人間がいるのなら、それに従うべきと考えを改めた。
 心の平穏を保つために、彼は多くを切り捨てた。
 この時の気持ちが今も枷となり、半ば呪いのように身に染みついているから、大典太光世は蔵から出たがらない。
 ずっと疑問に思っていた答えが、こんなところに落ちていた。常に猫背な太刀の気持ちを少しだけ理解して、前田藤四郎は切なさに唇を噛んだ。
 声を上げて泣きたいのを我慢して、息を止めた。
「ぷはっ、あ、は……は……すう……」
 苦しくなるのを待って口を開いて、肺がいっぱいになるまで息を吸い込んだ。
 無味無臭のはずの空気が、不思議と美味しく感じられた。
 こんな些末なことにさえ、幸福を覚えた。
 耐えがたい孤独と恐怖に苛まれ、時折叫び出したい衝動に駆られた。世界に自分だけ置き去りにされた気分で、頭がおかしくなりそうだった。
 無意味に数字を数え、夜明けを告げる鶏の声を待った。早く時間が過ぎるようにひたすら祈って、固く目を閉じた。
 空腹は限界が過ぎたようで、もう感じなかった。
 寂しさを紛らわせようと、数多い兄弟刀の顔を順に思い浮かべた。
「さむ、い」
 屋敷の布団は綿が薄く、さほど暖かくないけれど、書物で作った仮の布団よりはずっと良い。
 随分と贅沢な不満を抱いていたと自嘲して、彼は床を伝う振動に眉を顰めた。
 微かに――本当に微かだけれど、揺れていた。
 じっと息を殺していなければ、確実に見過ごしていた。徐々に近づいているのか、揺れ幅は次第に大きくなった。
「あっ」
 心の奥底に、ぽっと希望の灯が点った。
 冷え切っていた身体がにわかに活気づき、期待と興奮で鼓動が一気に加速した。
 被っていた複数の書物を振り払い、前田藤四郎は身を起こした。支えにすべく床に置いた手が痛んだが、些末なことと意に介さなかった。
「前田、どこー。まえだー?」
「居るなら返事をしろ」
 数振り分の呼び声が、一斉に響いた。ようやく短刀がひと振り姿をくらましたと気付いたらしく、総出で探してくれているのが分かった。
 加州清光に、へし切長谷部だ。ほかにも遠く、小さく、色々な男士の声がした。
 明かり取り用の窓からも、屋敷を囲む雑木林を探しているらしい声があった。
「はっ、あ……は、い。ここ、に」
 きょろきょろと首を巡らせ、暗闇を凝視した。急く心を奮い立たせ、痛む手を胸に押し当てた。
 早く返事をしなければ。
 ここにいると、皆に伝えなければ。
 だのに肝心の、声が出なかった。喉に息が引っかかり、巧く発音出来なかった。
 助かると分かった途端、要らぬところに力が入った。嬉しさに胸の高鳴りが収まらず、その所為で言葉が出て来なかった。
 どくん、どくんと鼓動が五月蠅い。出来ないと余計に焦りが生じて、眩暈がして、倒れそうだった。
「こっちは違うんじゃない?」
「もう一度確認するが、本当に、一期一振たちと遠征に出ているのではないのだな?」
「それ何回目? そうだよ。主にも聞いてきたから、間違いないって」
 そうしている間に、ふた振りが書庫のすぐ手前までやって来た。重い扉越しに会話が聞こえて、前田藤四郎は騒然となった。
 書庫の戸は閉まっている。閂がされ、南京錠が取り付けられた状態は、内部になんら異常がないと語っているようなものだ。
 ここで彼らを呼び止めないと、この先ずっと、見つけてもらえなくなる。
 頼みの綱だった兄刀は、遠征で本丸を留守にしていた。へし切長谷部の口ぶりからして、平野藤四郎が同行している可能性は高かった。
 ようやく掴んだか細い糸を懸命に手繰って、前田藤四郎は床を這った。傷ついたままの手を容赦なく使って、新たな出血や痛みにも怯まなかった。
 辿り着いた扉の、冷たい鉄板に縋りつき、残る力を振り絞った。
「ここ、……です!」
 掠れる小声で訴えて、ひ弱な拳を叩きつけた。
 蚊の鳴くような声と、爆音には程遠い音だった。この程度で気付いてもらえるわけがないと、生じた結果に絶望したくなった。
 卑屈な笑みが漏れた。
「……ひっ、く」
 悲痛な思いが膨らんで、哀しくて仕方がなかった。
 血に染まった手を広げて、顔を覆った。鉄錆びた嫌な臭いがして、切なさが倍増した。
「おお、で、……った、さん」
 一期一振には頼れない。平野藤四郎も屋敷にいない。
「たす、け、て」
 大典太光世のように強く在れなかった。百年を越える孤独に耐え、狂うこともなく凛としている男にはなれなかった。
 鼻を愚図らせて、嗚咽を飲んだ。弱々しく頭を振って、扉の前でへたり込んだ。
 もう一歩も動けない。一刻も早くここから出たいのに、それが叶わない現実を見たくなかった。
「大典太さん」
 会いたかった。
 冷たく凍えたこの身体を、強く、強く、抱きしめて欲しかった。
「僕は、ここです」
 頬をはらりと、涙が伝った。
「え? ちょ、なに。ちょっ、ちょお、あわわわ」
「うわっ、なんだ。なんだ。どうした」
「落ち着け、兄弟。落ち着けって!」
 その直後、急に場が騒がしくなった。
 それまで聞こえなかった声が轟き、荒っぽい足音の後、ドオンッ、と凄まじい圧が書庫の扉を襲った。
 巨大なものが体当たりしたのか、木戸を覆う鉄板がビリビリと細かく振動した。もれなく押し出された空気が波を打ち、すぐ傍に座り込んでいた少年を巻きこんだ。
 衝撃波が鼓膜を貫き、圧倒されて唖然となった。
 さすがに頑強な造りの戸はびくともしなかったが、壁を塗り固める漆喰が一部剥げた。埃を巻き込んでぽろぽろと零れ落ちて、霰が降っているようだった。
「……は?」
 外でなにが起きているのか、前田藤四郎にはさっぱり分からない。
 けれど直前に、ソハヤノツルキの絶叫が聞こえた。彼が『兄弟』と呼ぶ相手はひと振りしかおらず、暴挙に出たのが誰であるか、答えは自ずと導き出された。
「え」
 目を剥いて、遅れてやって来た感慨にぶるっと身震いする。
 惚けたまま凍り付いていたら、扉越しに荒々しい息遣いを感じた。
「居るのか、前田。そこに。そこに!」
 やや上擦り気味の、緊張を伴った声だった。
 耳に深く馴染んだ低音を目の当たりにして、彼はハッと息を呑んだ。
「なんなのさ、ちょっと。どうしたの、急に。ええ?」
「前田が今日、目録整理の仕事するって平野と喋ってたの、信濃の奴が聞いてたらしいんだよ。んで、調べたら、書庫の鍵は戻ってなかった」
「そうなのか?」
 外では加州清光が訝しみ、ソハヤノツルキが大典太光世の行動を早口に説明した。
 初耳の情報にへし切長谷部が声を荒らげ、直後に全員が押し黙った。
 皆が何かを待っている。扉越しに感じる複数の視線に鳥肌を立てて、前田藤四郎は歯を食い縛った。
「……大、典太、さん」
「前田」
「大典太さん!」
 思いの外優しい呼びかけに、長く奥底に溜め込んでいたものが、堰を切ったかのように溢れた。
 後は止め処なかった。見苦しく、情けないと分かっていても、どうしようもなかった。
「います。僕はここです。ここにいます」
 よろよろと腕を伸ばし、扉に抱きついた。大きくしゃくりあげ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして訴えた。
 痛む手で戸を叩き、早く出してと懇願した。やっと手に入れた好機を逃したくなくて、とにかく必死だった。
「誰だ。中に前田がいるのに、鍵を閉めた奴は」
「そういうのは、後でいいから。近侍部屋に鍵、なかったんだよね。どうするのさ。予備の分って、どこかにあったっけ」
 一方のへし切長谷部たちも、どうすれば前田藤四郎を外に出せるか、懸命に頭を捻っていた。
 ここで犯人捜しをしたところで、なんの意味もない。それよりも南京錠を外す鍵を手に入れるのが先決だった。
 そして肝心の鍵は、閉じ込められた短刀が持っている。
「たしか、主がお持ちだったはず」
「俺、行って、借りてくる」
 予備の鍵の在り処にへし切長谷部が唸り、ソハヤノツルキが言うが早いか駆け出した。慌ただしいやり取りが続いて、前田藤四郎はひくりと頬を引き攣らせた。
 一時は明るくなった目の前が、急に暗くなった。
 今すぐにでも出たいのに、それが叶わないと分かった。
 まだ待たなければならないのかと考えると、気が滅入り、落ち込んだ。
「……いやだ。寒い。寒いです」
 暗闇から得体の知れないものが覗いていた。明らかに人とは異なる形をした黒い影が、俯く短刀を指差して笑っていた。
 聞こえないはずの声が耳元でこだまして、押し寄せる恐怖を抑えられなかった。このまま闇に取り込まれ、飲みこまれたらどうしようと、居る筈のない存在に怯え、震えが止まらなかった。
 弱々しく呟いて、頭を振った。
 それが大典太光世の耳に届いたかどうかは、分からない。
「それでは、遅い」
 朗々と響いた低音に、息が止まった。
 蹲り、俯いていた前田藤四郎は背筋を伸ばし、食い入るように扉を見た。
「おい、大典太。何をする気だ」
「うわああ、あっぶな」
 へし切長谷部の焦った声に続き、加州清光が悲鳴を上げた。そこに被さる格好で、重いものが落ちる音がした。
 一抱えもある閂を外し、放り投げたらしい。「床が、床が」とへし切長谷部が繰り返しているところからして、衝撃で凹んだか、穴が開いたようだった。
 容赦なく屋敷を破壊した大典太光世が、何を目論んでいるのか。
 想像は容易で、しかし実現は困難と思われた。
 太刀の全力の体当たりにも、書庫の扉は耐えきってみせた。何度も回繰り返せば或いは破壊可能かもしれないが、それより先に太刀の身体が壊れる危険があった。
「前田、待っていろ。今助ける」
「大典太さん」
 危ないことはして欲しくない。
 けれど一秒でも早く、ここから連れ出して欲しい。
 不安と期待が入り混じった眼差しで、少しだけ隙間が出来た戸の向こうを覗きこんだ。
「うげ、まじで……?」
 近くで加州清光が信じられないと言った通り、大典太光世は驚くべき行動に出ていた。
 固く塞がれた南京錠を、力技で引き千切ろうとしていた。
「待て、大典太。大人しくソハヤの到着を待て」
「うるさいぞ!」
 いくらなんでも無理があると、へし切長谷部が止めに入った。だがそれを跳ね除けて、天下五剣に連なる太刀は声を荒らげた。
 戦場以外では大人しく、物静かな彼には珍しいことだった。
 怒鳴られた打刀は堪らず怯み、後ろへ数歩よろめいた。無粋な手を跳ね除けた太刀は細い隙間から様子を窺う短刀に気付くと、安心させようとしてか、ふっ、と控えめに微笑んだ。
「大典太さん……」
 たったそれだけのことに、胸が締め付けられた。
 うっかり涙が溢れて、前田藤四郎はぎこちない笑顔を返した。
 かくして無事、とは言い難い状況ではあったが、書庫の扉は開かれた。
「馬鹿力め」
 怒りを通り越してあきれ果て、へし切長谷部が捨て去られた南京錠に手を伸ばす。
 接合部分を強引にねじ切ったのだから、大典太光世の指も、無傷とはいかなかった。
 有り得ない方向に曲がった利き手の人差し指と中指を無視して、血が滴っているにも関わらず、太刀は潰れるくらいに短刀を抱きしめて離さない。
「遅くなってすまない、前田」
「いえ。いいえ。いいえ……!」
 感極まっているふた振りの熱い抱擁に苦笑して、加州清光は肩を竦めた。
「手入れ部屋、空いてるよ」
 再び狭い場所に閉じ込められることになるが、構わないか。
 そんな意味合いで問いかけた彼に、前田藤四郎は一瞬きょとんとした後、大典太光世と見詰め合い、そして。
「大典太さんと一緒なら、大丈夫です」
 満面の笑みで頷いた。

2018/02/25脱稿

君来ずは閨へも入らじ濃紫 わが元結に霜は置くとも
古今和歌集 恋四 693