遅れ先立つ ためしありけり

 あまりの緊張ぶりに、座敷の柱時計の音さえ聞こえてくるようだった。
 静まり返った空間に、ピンと張りつめた空気が満ちている。ちょっとした動作でさえ許されないような、そんな雰囲気が一面に立ちこめていた。
 たとえ障子に阻まれ、中が見えなくとも分かる。堪らずごくりと息を呑んで、小夜左文字は神経を研ぎ澄ませた。
 左隣には彼と似たような顔をして、太鼓鐘貞宗が息を潜めていた。
 青い羽飾りさえも、微動だにしない。瞬きを忘れて薄い障子紙の向こう側を探り、凄まじい集中力だった。
 室内の話し声は、一切聞こえてこない。
 喧々囂々とした議論が中断して、もうどれくらい経つだろう。
「……どうだ?」
「駄目だな。進展なし」
 右側からひそひそ声が聞こえて来たが、視線は向けなかった。先ほどから数回繰り返されているやり取りは、問いかけも、返答も、ずっと同じだった。
 白衣を着た薬研藤四郎が、難しい顔をして厚藤四郎の肩を叩いた。引き続き偵察を頼む、との合図だが、彼自身もさほど距離を置かない場所に控えているので、あまり意味があるとは思えなかった。
 廊下には他にも、愛染国俊や不動国光らの姿があった。少し離れた場所には粟田口の短刀や脇差が集い、同じく固唾を飲んで状況を見守っていた。
「ふう」
 かれこれ一刻以上、こうしている。
 流石に些か疲れてきたが、それは座敷にいる太刀や打刀らも同じはずだ。
 あまりにも静かすぎて、皆して眠っているのでは、と危惧したくなる。だが直後に、誰かが咳をする声がしたので、心配は杞憂に終わった。
 ホッとしつつ、油断ならない状況に改めて気持ちを引き締めた。
 隣の太鼓鐘貞宗に目配せして、小さく頷く。
 もう少し頑張ろう。心の中で声援を送った彼の意図を汲み、伊達家所縁の刀剣男士は口角を持ち上げた。
 勿論、と言われた気がした。言葉を介さずとも通じ合えたのが嬉しくて、頬が緩みそうになった。
 それを防ぎ、急ぎ引き締めた直後だ。
「あ」
「やばい。隠れろ」
 障子に薄く浮き上がる影が動いた。衣擦れの音が微かに耳朶を打ち、動きを察した厚藤四郎が小声で周囲に警告した。
 小夜左文字も頭を低くしたまま、慌てて身体を反転させた。狭い廊下で器用にくるりと回って、心臓に直に響く足音に背中を向けた。
「やばいやばいやばい」
「逃げろーっ」
 庭先や物陰にいた短刀たちも、一斉に座敷から離れた。身を隠す場所を探して右往左往して、頭隠してなんとやら、という状況になっている少年までいた。
 縁側から素早く飛び降り、小夜左文字は太鼓鐘貞宗と共に軒下へと退避した。
「こら!」
 その瞬間、長く閉じられていた障子が開かれ、一期一振の怒号が辺りにこだました。
 腹の底から響かせた声に、ビリビリと鼓膜が震える。
 咄嗟に耳を塞いでやり過ごした彼は、頭上から来る複数の足音に背筋を震わせた。
「うわあああ、許して。ごめんなさい。いち兄、ごめんって」
「お前たち、いい加減にしなさい」
 どうやら厚藤四郎が逃げ遅れ、捕まったようだ。ジタバタと響いてくる軽い音は、彼が床を蹴るものだった。
 他にも数振り分、比較的重い足音が四方に散らばった。それに連動するかのように、逃げまどう複数の短刀たちの悲鳴が聞こえてきた。
 会議の盗み聞きを咎め、一期一振の説教が続いている。
 軒下に隠れた自分たちは見つからずに済んだ、と安堵していた矢先。
「見つけたよ、貞ちゃん」
「ぎゃあ。みっちゃん」
 暗がりを覗き込んで、燭台切光忠がにこりと微笑んだ。
 縁側から身を乗り出し、黒髪を逆さまにした男の笑顔は爽やかだった。隻眼を細めて笑窪を作り、いかにも伊達男らしい表情だった。
 ただそれが、却って恐ろしい。
 油断したところを発見され、太鼓鐘貞宗は一瞬で青くなった。もっと奥の、暗く湿った方へ逃げようとして、伸びて来た長い腕に足首を掴まれた。
 無駄な足掻きと鼻で笑って、燭台切光忠が短刀をあっという間に引きずり出した。
「ぎゃー、やめて~。伽羅~、助けて~」
「ははは。貞ちゃんの一本釣り、てやつだね」
 右足を上にし、頭を下にした状態でぶらぶら揺らされて、太鼓鐘貞宗がひっくり返った着衣の裾を懸命に押さえる。最中に昔馴染みの打刀に助けを求めるが、色黒の青年は返事すらしなかった。
 小柄な少年を腕一本で吊り下げて、料理上手なだけではない男が呵々と笑った。
 阿鼻叫喚の状況に騒然となって、小夜左文字は急ぎこの場を離れるべく、狭くかび臭い場所に這い蹲った。
 慎重に周囲を探り、匍匐前進で暗がりを目指す。
「お小夜」
「うっ」
 けれど、無理だった。
 一尺と進まないうちに、背筋の凍るような淡々とした呼び声が耳元で風を起こした。
 奥歯を噛み鳴らし、恐々視線を脇へ流す。
「江雪、兄様」
「どこへ、……行くのです」
 左文字の長兄に当たる太刀が、軒先で屈んでいた。長い髪が地面に擦れるのも構わず、黴臭い場所にいる弟刀を涼やかな目で見つめていた。
 首を大きく傾かせ、身体が倒れないよう左手で縁側を掴んでいた。右手は膝に置いて、問いかけの後は無言だった。
 視線で縛りつけ、これ以上逃げるのを許さない。
 凄まじい圧を感じ、抵抗出来なかった。
 どっと溢れた汗で全身を湿らせて、小夜左文字は降参だと白旗を振った。
 止む無く軒下から出れば、逃亡の甲斐なく捕まった仲間が一堂に集められていた。
 脇差では鯰尾藤四郎に、骨喰藤四郎、浦島虎徹。短刀では真っ先に捕獲された厚藤四郎から、乱藤四郎といった粟田口の面々に、蛍丸の姿もあった。
 どこに潜んでいたのか、縁側には居なかったはずの日向正宗まで、不貞腐れた顔で立っていた。
 帽子を取った頭に蜘蛛の巣が絡まっているので、天井裏にいたのだろうか。そんなことを考えて、小夜左文字は降ってきた長兄の拳に首を竦めた。
「行儀が、なっていませんよ。お小夜」
 あまり力が入っていなかったので、そこまで痛くはない。
 だが江雪左文字が暴力で屈服させようとするのは、珍しいことだ。それだけ腹を立てていると察して、彼は殊勝に頭を垂れた。
「ごめんなさい」
 兄刀に謝って、縁側に並ぶ会議の参加者らにも頭を下げる。
 ずらっと一列になっているのは、大太刀の太郎太刀、薙刀の岩融をはじめとした、この本丸でも特に練度の高い面々だった。
 そのほかには太刀が多く、打刀も幾振り混じっている。
 議論を盗み聞きしていた少年らを見下ろす彼らの表情は、一様に渋い。
「どうして怒られているか、理由は分かりますね」
「はあ~い」
「鯰尾」
「はい!」
 中央に立った一期一振の質問に、鯰尾藤四郎が代表して答える。
 態度の悪さを叱られた彼は直後にびしっと背筋を伸ばし、三秒と経たずに猫背に戻った。
「蜂須賀兄ちゃん。俺たちだって、充分戦えるって」
 その横で畏まっていた浦島虎徹が、左右を見回した後、意を決して声を上げた。
「そうだぜ、いち兄」
「なんで僕たちをのけ者にするのさ」
「どんな奴らが出てこようが、全部ぶちのめしてやるよ」
 彼に呼応する形で、庭に集められた短刀たちが、次々に反論を口にした。太刀や打刀ばかりで決めるなと異議を唱え、自分たちも会議に参加させてくれるよう、頼み込んだ。
 言葉こそ発しなかったものの、小夜左文字も一抹の期待を胸に、隣に佇む兄刀を見た。
 けれど江雪左文字は静かに首を振り、血気盛んな少年の頭を撫でた。
「これは、私たちの、仕事です」
「でも」
 どんなに抗議されようとも、譲れない。
 そういう強い意志を秘めた眼差しに、小夜左文字は言いかけた言葉を飲みこんだ。
 今朝早くやって来た、時の政府の遣いがもたらしたのは、急を要する事案だった。
 出来れば今夜中に、出来るなら今すぐにでも部隊を編成し、出撃するようにとの通達だった。
 歴史修正主義者が突如、特定の時代に介入を開始した。それが不味い事に、政府の方針により、調査対象から外されていた時代なのだ。
 事前の情報がなにも掴めていない状況で、不用意に突入しても返り討ちに遭うだけ。
 けれど悩んでいる猶予はあまりない。せめて索敵部隊だけでも先に出撃させてはどうか、というところで、議論は中断していた。
 誰に行かせるか。
 どの刀種が最適なのか。
 探索中に敵主戦力と衝突する可能性は否定出来ず、かといって空振りに終わるかもしれない中、主力部隊をいきなり投入するのはいかがなものか。
 結論は出ず、堂々巡り。時間だけが過ぎて行き、会議が終わる気配は見られなかった。
 それが小夜左文字たちにはじれったく思えて、不満でならなかった。
 外から漏れ聞こえる会話を聞き拾っていて分かったのは、彼らが短刀や脇差を編成に組み込みたくない、ということだ。
 その短刀や脇差の多くは、修行の旅を終え、本丸に帰って来て久しい。
 いずれもが自らの在り方を見極め、時間遡行軍と戦う道を選択した刀剣男士だ。
 審神者によって顕現させられ、命じられるままに戦っていた頃とは違う。自身の意志で、確固たる信念を有して、戦うと決めたのだ。
 ところが彼らの兄弟刀は、短刀や脇差の出陣にあまり良い顔をしない。いつも不安そうに見送って、帰ってくると諸手を挙げて喜んだ。
 太刀らと比べて膂力が劣るのは事実であり、認めざるを得ない。しかしそれ以外で勝っている部分もあり、外見的な問題で戦場から遠ざけられる謂われはなかった。
 戦える。
 戦いたい。
 自分達は十二分に、役に立つ。
 どうかこの思いが、彼らに伝わってくれますように。
 一縷の望みをかけて、小夜左文字は改めて江雪左文字を見た。
 目は合わなかった。
 彼はすいっと流れるように弟刀から離れ、草履を脱ぎ、縁側に上がって座敷に入って行った。
 一度も振り返らなかった。聞く気はないと、態度で示された。
 江雪左文字に続き、燭台切光忠が敷居を跨いだ。良い子にしているよう弟刀に言い聞かせ、蜂須賀虎徹と長曽根虎徹が続いて鴨居を潜った。
 鶴丸国永が困った顔で頬を掻き、三日月宗近が彼を促す。大典太光世は申し訳なさそうに背中を丸め、太郎太刀が代表して皆に深く頭を下げた。
 会話はなかった。
 谷底よりも深い亀裂が、軒を挟んで広がっていた。
 文句を言いたげな弟たちに一期一振が睨みを利かせ、障子を閉めた。
「ちぇ。なんだよ。つまんねえ」
 ピシャッ、と戸が閉まるのを待ち、我慢出来なかったのだろう、後藤藤四郎が悪態をついた。
 靴底でがりがりと地面を削り、溜め込んでいた不平や不満をぶちまける。
「俺らって、そんなに頼りなく見えるのか? なあ。戦力として数えてもらえてねえのか?」
「やめろよ。いち兄だって、考えあってのことなんだから」
 段々言葉が乱暴になる弟を制し、鯰尾藤四郎が落ち着くように諭す。
 とはいえ彼自身も、この結末に納得がいっていない。口ではそう言ったものの、兄刀の考えが理解出来なくて、後は黙るしかなかった。
 困った顔で口を噤んだ脇差に、厚藤四郎が苛々しながら空を殴った。地団太を踏み、ひとり暴れて行き場のない感情を発奮させ、最後に深く肩を落とした。
「なんだか疲れた。寝てくる」
 会議はまだ終わりそうにない。こっそり部屋に近付いても、盗み聞きは許されないとよく分かった。
 もう一度挑戦したところで、同じことの繰り返しだ。そうやって無駄な時間だけが、どんどん積み上がっていく。
 出撃要請は出続けており、時の政府は審神者に決断を強いている。これ以上邪魔をして、審神者への圧力が強まるのは、この本丸を居とする刀剣男士としては避けねばならない事態だった。
 かといって他の事をやろうにも、会議の展開が気になって、集中出来るとは思えない。
 何もやる気が起きない。だったらもう、早い時間ではあるが、眠ってしまった方が得策だった。
 もし出陣の命が下ったら、いつでも出られるように準備だけはして。
 目覚めた頃には、結果が出ていると信じたい。
「俺も、そうしよっかなあ」
 半ば投げやり気味に言った不動行光に同調し、太鼓鐘貞宗が頭の後ろで手を組んだ。逆さまに釣り上げられた影響で髪型が若干崩れており、手櫛で雑に整えながら、大股で一歩を踏み出した。
 途中で振り返った彼に、お前はどうする、と目で問いかけられた。
「僕は、まだ……」
「また怒られっぞ」
「部屋にいても、落ち着かないですし」
 移動を渋っていたら、愛染国俊に呆れられた。蛍丸と並んで屋敷に戻ると決めた彼は、煮え切らない小夜左文字の返答に、ひらひらと手を振って返した。
 応援されたようであり、馬鹿にされたようであり。
 どうせなら良い方に解釈したい。
 遠ざかる背中から視線を剥がして、小夜左文字は右足を左脛に擦りつけた。
 縁側から飛び降りた際、草履を履く余裕などなかった。地面は冷えており、立っているだけでも体温を吸い取られた。
「冷えるね」
 凍えるほどではないけれど、長時間このままだと霜焼けになりそうだ。
 どうしようか迷って視線を上空に流し、彼は兄刀に叩かれた場所を何気なく撫でた。
 江雪左文字が小夜左文字を戦場から遠ざけたい理由は、知っている。彼はそもそも、戦いが嫌いだ。時間遡行軍と争わなくて済む道があるのなら、迷うことなくそちらを選び取るだろう。
 そういう男だから、周囲の刀剣男士が戦場に行くこと自体も嫌がる。繋がりが強い刀が相手だと、特にその傾向が顕著だった。
 大切に思われているのは伝わってくる。
 けれど大事に扱われるのと、武器である刀から戦う場を奪うのは、同じではない。
 小夜左文字のことを想うのなら、戦場に出るのを許して欲しい。彼はそのために戦う力を身につけ、経験を積んできたのだから。
 敵の出方が分からない以上、隠密行動に優れた刀を優先させるべきだ。それが分からないような江雪左文字や、一期一振ではないだろうに。
「なにが駄目なんだろう」
 彼らの考えが、分かるようで分からない。
 何度賽子を振っても振り出しに戻ってしまう迷路に臍を噛み、小夜左文字は乾いた地面を爪先で撫でた。
 嫌がらせに江雪左文字の草履を拝借し、座敷が見える範囲をうろうろした。体格に合っていない履き物はすぐにすっぽ抜けそうになり、実際何度も足が空振りした。
 後ろに残された片足分を下に見て、幾度舌打ちしたか分からない。
 気が付けば厩の方まで来ており、屋敷はかなり小さくなっていた。
 黒い澱みに反応したのか、複数の嘶きが聞こえた。
「誰かいるの」
「んー?」
 それ以外にも気配を感じて厩舎を覗きこめば、奥の方から合いの手が返ってきた。
 馬場に馬を出し、空になった内部を掃除していたのだろう。何事かと身を乗り出しだのはソハヤノツルキで、遅れて物吉貞宗がひょっこり顔を出した。
「小夜君」
「どうした。随分と湿気た顔してんな」
 ふた振りとも、身体のあちこちに藁屑が貼りついていた。首に手拭いを巻いて、袖を肘の手前まで捲り上げていた。
 小夜左文字は水に濡れた藁を避け、踏み固められた土の上を渡った。兄刀の草履を汚さないよう注意して進めば、動向を見守っていた太刀が呵々と笑った。
「やれやれ。足だけでっかくなったもんだな」
 いつ脱げ落ちても可笑しくない履物に四苦八苦しているのが、面白かったらしい。近くまで来た短刀の肩を乱暴に叩いて、ソハヤノツルキは持っていた箒を壁に立てかけた。
「あなたは、出なくて良かったんですか」
「ん? ああ、構いやしねえよ。小難しい話は、性に合わねえっていうか」
 本丸に暮らす刀剣男士のうち、太刀の大半は大座敷に集まっている。
 こんなところで馬当番を引き受けている刀がいるとは、予想だにしなかった。
 驚いていたら、ソハヤノツルキは顔の横で手を振った。冗談ではない、と言いたげな態度を見せていたら、飼い葉を運んでいた物吉貞宗がぷっ、と噴き出した。
 今の言葉のどこに、笑う要素があったのだろう。
 分からなくて首を捻ったが、脇差から細かい説明はなかった。
「んで、終わったのか?」
「まだです」
 重そうな桶を抱えた少年を見ていたら、ソハヤノツルキに訊かれた。
 視線を戻し、即答すれば、金髪の太刀は背筋を伸ばして肩を竦めた。
「そんなに揉めることかねえ」
「僕たちには、出陣させたくないみたいです」
「ああ。それで拗ねてんのか」
「拗ねてなんかいません」
「そうやってむきになって否定すんのが、拗ねてる証拠だろ。なあ?」
「そうですね。ソハヤさんもよく、そうやって拗ねてますから」
「ほらな~……――って、俺のことはどうでもいいだろ!」
 話の途中で物吉貞宗に同意を求め、思わぬ言葉にソハヤノツルキが顔を赤くした。
 羞恥を誤魔化して声を張り上げ、微熱を帯びた頬を乱暴に擦る。こうしている間もせっせと働く脇差はクスクス笑っており、とても楽しそうだった。
 仲睦まじい彼らを交互に見やり、小夜左文字は頬の肉を軽く抓った。
 引っ張り、すぐに開放して、他より赤みを強めた箇所を撫でた。
 あまり自覚がなかったが、どうやら自分は拗ねていたらしい。
 泥が跳ねて少々汚れた草履を一瞥し、妙に納得して深く息を吐く。
 戦えるのに、戦いたいのに、戦わせてもらえない状況が気に食わなくて、怒りを覚えた。感情を持て余して、ぶつける先を探していたのだと教えられて、腑に落ちた気分だった。
 特に何かがあったわけではないけれど、胸がスッとした。
 もやもやしたものが薄くなったのを実感して、身体全体が軽くなった。
「別に気にすることねえよ。お前らの実力は、みんな認めてる。あいつらは、意地張ってるだけだって」
「意地?」
 そこに追加で、ソハヤノツルキが嘯いた。腰に手を当て、苦笑を漏らし、きょとんとなった短刀の頭を雑に掻き回した。
 その手は綺麗なのかと言いたくなったが、直前で飲みこんだ。多少汚れたところで、小夜左文字はもとより血に汚れた短刀だった。
 今更馬の糞がこびり付こうが、大差ない。そう自嘲して口角を歪めていたら、飼い葉を取り替えていた脇差が、後ろから声を張り上げた。
「駄目ですよー、ソハヤさん。ちゃんと手を洗ってからでないと」
「おっと。そうだった、すまん」
「いえ」
 物吉貞宗は見ていないようで、案外状況を見ている。
 注意された太刀はそれでハッとなり、首を竦めて手を合わせた。
 気にしていないと言って、恐縮する男を改めて仰ぐ。視線を受けたソハヤノツルキは数回瞬きして、物言いたげな少年の前で膝を折った。
 尻は着けず、蹲踞の姿勢で、腿の上に右肘を突き立てた。頬杖を突き、興味深そうに笑って、短刀に向かって顎をしゃくった。
「どうしたよ」
 聞きたいことがあるなら言えと、仕草で促す。
 完全に掃除を中断させた彼だが、物吉貞宗はなにも言わなかった。
 忙しくしている少年を一度だけ盗み見て、小夜左文字はソハヤノツルキに視線を戻した。あまり話したことがない相手だが、不思議と親近感が沸いて、緊張せずに済んだ。
「意地って、……なんですか」
「ああ」
 明るく、笑い声が絶えない男だから、そう思えたのかもしれない。
 髪の色のように眩しい、太陽のような男だ。戦い方は荒々しく、力押しで敵を薙ぎ払う大典太光世に似ているが、性格は正反対だった。
 天下五剣のひと振りの方は、未だに苦手だ。用があって話しかけようとしても、いつもビクッと身構えられて、なにもしていないのに悪いことをした気分にさせられるのが、釈然としなかった。
 座敷に入っていく大きな背中を思い出し、小声で訊ねる。
 ソハヤノツルキは瞬時に反応し、頬杖を解いて手首を膝で交差させた。
「なんだと思う?」
「……」
 そうして、したり顔で聞き返された。
 分からないから、教えて欲しくて質問したのだ。それを質問で返されるのは、礼儀に反しているのではなかろうか。
 思わずムッとして、口を尖らせた。
「ソハヤさん」
「はは」
 物吉貞宗からも批判の声があがって、男は白い歯を見せて笑った。
 二方向からねめつけられて、太刀はあっさり降参した。西方に睨みを利かせ、鎮護の要となるよう祀られた刀とはいえ、修行を終えて己の在り様を見極めた刀ふた振りを相手となると、流石に分が悪すぎだった。
 胸を反らして豪快に笑い、ひと息分の間を置いて、背筋を伸ばした。
 真正面から短刀と向き合い、ソハヤノツルキは緋色の瞳をスッと眇めた。
「男の、……ってよりは、兄貴のだな。意地ってやつだよ」
 語り始めた早々に内容を微修正して、右の口角を持ち上げる。
 不遜な表情にぽかんとして、小夜左文字は小さく頷いた。
「あに」
「そう。ま、俺らんところはどっちが兄貴だ、弟だってのは、あんまり関係ねえんだけどよ」
「嘘ですよ。兄だと色々面倒だから、弟が良いって自分で言ってたじゃないですか」
「もーのーよーし!」
 相槌を打った短刀に合わせ、肩を竦めた太刀を脇差がすかさず茶化す。
 真面目な話の腰を折りに来た少年に怒鳴り返して、真っ赤になった男は飛び出た唾を手の甲で拭った。
 一瞬で荒くなった息を整え、肩を数回上下させた。ぜいぜい言いながらしつこく顎の周辺を擦って、後方を警戒して渋い表情を作った。
 物吉貞宗は淡々と厩の片付けを続け、手を休めない。ソハヤノツルキに眼光鋭く睨まれても意に介さず、目の前の仕事に精を出していた。
「……あの」
 せっせと働く少年をちらりと見て、小夜左文字は太刀に焦点を戻した。恐る恐る続きを急かせば、よそ見していた男は頭の後ろを掻き、若干面倒臭そうに吐き捨てた。
「だから、まあ。つまり、俺んとこは良いんだよ。俺んところは。要はお前らの兄貴の話だろ」
「はあ」
 人差し指を突き付けられて、刺さりそうだったので慌てて逃げた。
 首を後ろに傾がせて距離を稼げば、再び首の後ろに爪を立てた男が、草臥れたのか、膝を伸ばして立ちあがった。
 大きな欠伸をひとつ零し、釈然としないでいる短刀を見下ろす。
「お前らんところは、兄貴だけ、でかいだろ」
「え、……と。ああ」
 彼の呟きの意味が、一瞬理解出来なかった。
 江雪左文字より宗三左文字の方が僅かに背が高い、と言いかけて、止めた。そういう意味ではないと直前になって気が付いて、喉元まで出かかっていた言葉を飲みこんだ。
 その代わりになるほど、と頷く。
 粟田口も、左文字も、長兄と呼ばれるものはいずれも太刀だった。
 来派の蛍丸は大太刀だけれど、背丈だけなら短刀並みだ。あそこで保護者を名乗っているのは、太刀の明石国行だった。
「けど、実力だけで言やあ、今となってはお前らのが強い」
 審神者なるものが刀剣男士を集め、歴史修正主義者に対抗し始めたばかりの頃は、短刀より太刀の方が遥かに強かった。
 体力があり、持久戦にも強い。夜戦や屋内戦に不利とはいえ、同時に多数を相手にしなければならない時などは、やはり打刀以上の刀が圧倒的に有利だった。
 腕力で劣り、耐久力に乏しい短刀は、いつも置いて行かれる側だった。
 だから、旅に出た。己の在り様を見極めたくて、許しを得て過去に向かい、そして戻ってきた。
 修行を終えた短刀たちは、目に見えて強くなった。瞬発力の高さを利用して敵の動きを封じ、自分たちが不利になる長期戦を回避する能力を得た。
 これでやっと、戦力になる。太刀らと肩を並べて戦場に立てると、彼らは無邪気に喜んだ。
 けれどそれが、それまで主力となって本丸を支えていた刀剣男士らに暗雲をもたらした。
「そういうのを、受け入れられない連中も、いる」
 ソハヤノツルキは太刀だけれど、本丸に来たのは江雪左文字たちよりずっと後だ。大典太光世と時を前後してやって来たので、兄弟刀を待ち焦がれる、という経験もなかった。
 彼らが顕現する少し前に、短刀が修行に旅立って、戦力分布はがらっと入れ替わった。太刀や大太刀が主力を担っていた頃の本丸は、ソハヤノツルキたちにとって、酒の席で聞く昔話だった。
 しかし中には、自分たちが最も輝いていた時代に固執する刀があった。
 現実を認めたがらず、いつまでも弟たちを守り、庇い続ける存在であろうと振る舞う刀があった。
「兄様が、そうだと」
「連中も、分かってんだよ。それでも格好つけなきゃなんねえ時、ってのがある。意地張って、見栄張って、お前らより上なんだって、主導権握っておきてえのさ」
「兄様は、どんなことになっても、兄様なのに」
「そうだな。だから面倒臭いんだよ、兄貴ってのは」
 納得がいかなくて膨れ面を作った小夜左文字に、ソハヤノツルキはため息混じりに言った。物吉貞宗に叱られたのも忘れ、大きな手で小さな頭をわしわし撫でて、藍色の髪の毛をくしゃくしゃに乱した。
 その手が汚いとは、もう思わなかった。
 上からの圧力をじっと耐えて、華奢な短刀は聞こえてきた誰かの歓声に顔を上げた。
「終わったみたいだな」
 太刀も気付き、ぼそりと言った。若干馬臭い手で小夜左文字の肩を、背中を順番に叩いて、行って来いとばかりに軽く押した。
「あっ、と、と」
 その力が思いの外強くて、転びそうになった。
 大きすぎる草履の鼻緒を足指でしっかり捕まえて、彼は前にふらつく身体を懸命に引き留めた。
 両手で空を掻き回し、口から飛び出そうになった心臓を飲みこんだ。ドッと噴き出た汗で腋を濡らして、呼吸を乱し、折れそうになった膝を叱咤した。
 どきどき五月蠅い胸を押さえ、振り返る。
 物憂げに佇む物吉貞宗の姿が気になった。じっと見ていたら気取られて、少し困った風に微笑みかけられた。
「貴方も、なんですか」
 ソハヤノツルキとの問答は、短刀を弟に持つ刀の話だった。
 彼もまたそのひと振りだと思い出した小夜左文字に、色白の脇差は緩く首を振った。
「太鼓鐘に背中を示すのは、伊達のみなさんにお任せしています。僕はあの子が、怪我をして帰って来た時、ゆっくり休める場所を用意するだけです」
 空になった飼い葉桶を胸に抱き、照れ臭そうに呟く。
 そういう考え方もあるのかと首肯して、短刀はふた振りに向けて頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どうなったか、後で教えてくれや」
「分かりました」
 礼を言い、約束をして、踵を返した。慣れない大きな草履に四苦八苦しながら、これが兄刀としての苦労なのかと、そんなことを考えた。
 厩舎を出れば、日差しが心地よかった。
 思わず深呼吸して、屋敷の方を見る。
 会議が終わったらしく、座敷の障子は開いていた。参加していた刀剣男士が三々五々に散らばって、話を聞こうとして、小さな刀がこれを追いかけていた。
 一期一振の傍では厚藤四郎が嬉しそうにして、後藤藤四郎は腕組みをして唸っていた。愛染国俊と蛍丸が明石国行によじ登り、太鼓鐘貞宗は鶴丸国永に肩車されていた。
 表情はそれぞれだ。喜んだり、悔しがったり、複雑そうだったり、色々だった。
「兄としての、意地」
 ソハヤノツルキとの会話を経て、最初は分からなかったものが、今なら少しだけ理解出来る気がした。
 兄刀として顕現しておきながら、弟刀にどんどん追い抜かれて、仕方がないと思いつつも、立つ瀬がない。だから簡単には出陣させず、不要な時間を用いることで、辛うじて尊厳を保っている。
「確かに、面倒臭いね」
 この無駄でしかないやり取りは、言うなれば彼らの最後の砦だ。
 兄としての面目を保ち、誇示するためには、こうするしか術がなかったのだろう。決定権は自分たちにある風に装って、居丈高に構えることで、彼らは自身の矜持を守り抜いたのだ。
 結果的に、短刀たちも出陣すると決まったようだ。細かい話は分からないけれど、一気に和んだ空気から状況が伝わって来た。
 頬を緩め、目を細める。身体を左右に揺らめかせ、彼は続々と縁側を行く男たちを見送った。
 江雪左文字はなかなか姿を見せなかった。最後ではないか、という頃に現れて、真っ先に縁側から軒下を見下ろし、そこに草履がないと知って、不思議そうに首を傾げた。
 おっとりとした仕草がいかにも彼らしく、可笑しくて、噴き出しそうになった。
 弟刀には無縁の、兄刀だからこその苦労が垣間見えた。
 たまには労ってやることにして、小夜左文字は似合わない草履を脱ぎ、右手に持って駆け出した。

2018/02/10 脱稿

散ると見ればまた咲く花のにほひにも 遅れ先立つためしありけり
山家集 772