夢路をさへに 人はとがめじ

 小刻みに全身を震わせる揺れは、不安定に波立つ心を存分に掻き乱した。
 左右に、上下に、若干の配慮を匂わせつつ、無遠慮に揺すられている。
 まるで赤子をあやす揺り籠のようだ。そんなものに入った記憶などないというのに連想して、平野藤四郎は喉の奥で低く呻いた。
「う……」
 心地良い温もりに包まれているのに、どうしようもなく切なくてたまらない。
 相反する感情を同時に抱え込んで、短刀の付喪神はか細い息を吐いた。
 懐かしく思える匂いがした。どこかで確かに嗅いだことがあるのに、心当たりになかなか行き着かない。ゆらゆらと波間を漂う海月の気分で、当て所なく彷徨っている感覚だった。
 行きたい場所に行けず、ただ潮の流れに寄り添って進むだけ。
 抗わなければ楽なのに、そこで足掻いてしまうのうが生き物としての定めか。
 ならば心を持たぬはずの鋼の身である自分は、いったいいかなる存在なのだろう。
 答えの見い出せない問いに惑って、平野藤四郎は噛み締めていた唇を解いた。
「ふ、はぁ……んっ」
 深く息を吐き、吸い込んだ。
 揺れ続ける身体を立て直そうと身じろいで、目を瞑ったまま伸びあがった。
 首を傾け、背筋を逸らした。爪先を蹴り上げて、あるはずの布団を押し退けようとした。
 だが、そうはならなかった。
「……ん、う?」
 右足はなにもない場所を空振りし、落ちた。踵に当たるものはなく、どこまでも沈んでいきそうな錯覚に陥ったところで、膝裏がなにかに引っかかって止まった。
 いや、膝を支えるつっかえ棒は最初からそこにあった。
 ここは寝床ではない。
 記憶と異なる環境にあると自覚するまでに、若干の時間が必要だった。
「え……え?」
 こうしている間も、一定の間隔で揺れは続いていた。
 下から突き上げられるような衝撃は弱く、ふわりと宙に浮きあがる感覚が連続して襲い掛かってくる。
 雲の上を泳いでいる夢でも見ているのかと疑ったが、夢にしては四肢を見舞う振動があまりにも生々しい。ならばこれは何事か、と騒然となって、平野藤四郎はカッと目を見開いた。
「ひっ」
 ゾクッと悪寒が走り、背筋が一斉に粟立った。
 闇の中に浮き上がる影に竦み上がって、弛緩していた肢体を一気に強張らせた。
 頬が引き攣り、恐怖に悲鳴を上げそうになる。
 全身に鳥肌を立てて萎縮した少年を見下ろし、淡々と歩んでいた男は初めて口を開いた。
「ああ、起きてしまったか」
 緩慢に頷いて、足を止めた。
 もれなく短刀の体躯を支配していた揺れも収まり、静かになった。
 なにがなんだか分からなくて、平野藤四郎は凍り付いた。聞き覚えのある声に唖然と目を見開いて、丸めた両手を胸の前で擦り合わせた。
「え、ええ?」
「起こさずに連れていくというのは、存外難しいのだな。一期一振は凄いな」
「うっ、鶯丸様?」
 寝起きで頭が働かない中、次々と情報が入って来て、理解が追い付かない。
 廊下の真ん中で立ち止まった男の正体を把握して、短刀は驚愕し、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
 途端に笑っていた男が真顔になり、「しぃ」と、窄めた口から息を吐いた。本当は人差し指を唇に当てたかったのだろうが、生憎と彼の腕は両方とも塞がっていた。
 太刀の長くしなやかな腕が抱え持つのは、平野藤四郎に他ならない。寝間着姿の少年を横向きに支えて、頭部がちょうど左胸に当たるように形作っていた。
「静かに、平野」
「す、すみません」
 その状態から身を乗り出した短刀を叱り、鶯丸が目を細める。
 状況が掴めないまま謝罪して、平野藤四郎はそうっと左右を確認した。
 暗い廊下には、所々に灯りが用意されていた。夜に不慣れな刀剣男士たちのために、足元を優しく照らし出していた。
 これは短刀や、脇差たちが暮らす一画にはないものだ。
 彼らは闇に強く、暗い場所でも視界が利く。だからここは、平野藤四郎が暮らす短刀部屋区画ではない。
 夜灯りが配置されているのは、太刀以上の刀剣男士が住まう一帯のみ。
 その事実から現在地を推測して、短刀の付喪神は恐る恐る視線を戻した。
 遠くからか細い光を浴びて、闇の中に鶯丸の顔がぼうっと浮き上がっていた。陰影が濃く出ており、些か不気味だった。
 もしこの場ににっかり青江がいたら、妖しい奴、と言って斬り捨てられていた。
 幽霊斬りの逸話を持つ大脇差を思い浮かべて、平野藤四郎は下ろしてくれるよう、さりげなく主張した。
 足を動かし、自身を抱き上げている男の腕を揺らした。しかし鶯丸は気付かなかったのか、それとも分かった上で無視してか、懇願を無言でやり過ごした。
 どこかの部屋から鼾が聞こえる。
 そちらに顔を向けて、鶯丸は小さく頷いた。
「良い子だ」
 言いつけを守り、静かになった。
 優しい笑顔で囁いた男に、平野藤四郎は喉まで出かかっていた質問を飲みこんだ。
 どこへ連れて行かれるのかは、予測が可能だった。あの鼾が大包平のもので間違いなければ、目的地はもう目と鼻の先だ。
 事の次第は、そこに辿り着いてから聞けば良い。
 急く心を宥め、息を吐くことで緊張を緩める。短刀の強張りが解けたのは太刀にも伝わったらしく、鶯丸は休めていた足を前に繰り出した。
 予想した通りの部屋に入っても、彼は短刀をすぐに降ろさなかった。足で開けた襖を足で閉めて、敷いてあった布団の上まで運んで、ようやく膝を折った。
「うわ」
 そうして床の上に寝かせようとしたものの、腕を外す際に失敗した。急に下半身の支えを失って、平野藤四郎は尻餅をついた。
 ドンッ、と骨に衝撃が走ったが、痛み自体はそれほど大きくない。
「不作法ですまないな」
「いえ。大丈夫です」
 詫びの言葉に苦笑で応じて、彼は廊下と違って赤々と明るい室内を見回した。
 鶯丸の部屋は、短刀や脇差たちに与えられる個室より少しだけ広い。床の間も立派で、作り付けの棚が付随していた。
 置かれているのは奇妙な造形の人形や、不思議な形をした石などなど。衣服は表裏が逆になった状態で脱ぎ捨てられており、丸められた靴下が片方だけ、いやに離れた場所に落ちていた。
 障子の桟に埃は積もっていないけれど、整理が行き届いているとは言い難い。
「片付けないといけませんね」
 数日訪ねなかっただけでこの有様かと肩を竦め、平野藤四郎は直後にハッとなった。
 自然と赤くなる頬を叩き、ぺちりと音を響かせた。それでも治まらないと知ると今度は爪を立て、柔らかな肉を引っ掻いた。
「平野」
 それを止めさせ、鶯丸が手を伸ばす。
「あの、鶯丸様。僕は、部屋に」
 手首を掴まれた少年は咄嗟に抵抗し、腕を奪い返して後退した。
 皺だらけの布団に太い溝を掘り、距離を取った。三角に折り曲げた膝で牽制して、いつでも立ち上がれるよう腹に力を込めた。
 彼は刀派を同じくする短刀たちと一緒に、広い座敷で肩を並べて眠っていた。粟田口は数が多いからと大部屋を与えられており、別に私室を持つ一期一振も、時折枕を持って泊まりに来ていた。
 今宵は長兄は不在であったが、部屋の中には前田藤四郎を初めとして、十振り近い短刀が眠っていたはずだ。
 その中から連れ出され、しばらく気付かなかった。抱き上げられた時点で目を覚まさなかったのは不覚だが、残る兄弟刀が誰も起きなかったというのも、かなり無防備だ。
 本丸は結界の中にあり、時間遡行軍は侵入出来ない。限りなく安全な空間で、だからこそ油断していたとしか言いようがなかった。
 こんなことでは、出陣先で簡単に不意打ちを食らってしまう。背後から敵に襲撃される未来を夢想していたら、胡坐を崩し、右膝を抱えて座った太刀が嫣然と微笑んだ。
「問題ない。お前の兄弟たちには、あらかじめ了解を得ている」
「は?」
「その様子だと、あいつらはちゃんと約束を守ってくれたようだ」
「……い?」
 何を思い出してかクツリと笑い、悪戯っぽく首を竦めながら囁く。
 不敵な眼差しを向けられた少年は絶句して、行き場のない両手を空中で蠢かせた。
 予想外の事実を知らされて、寒気がした。ぶるっと大袈裟に震えあがって、平野藤四郎は顔を引き攣らせた。
 言われてみれば寝床を整えている時、やけに兄弟刀が構ってきた。眠る場所は特に定まっておらず、その日の気分であちこち入れ替わるが、部屋の奥側から次々埋められて、出遅れた彼は入り口近くに追い遣られた。
 隙間風が入って寒いから嫌だったのだが、頼んでも替わってもらえなかった。
 今思えばあれは、このための布石だったのか。
「なんてことでしょう」
 鶯丸から相談を受けた兄弟刀が、嬉々として悪知恵を出し合う姿が思い浮かんだ。
 知らなかったのは自分だけというのもかなり衝撃的で、穴があったら入りたかった。
「良い兄弟だな」
「まったくです」
 普段は協調性など皆無なのに、こういう時だけ一致団結して事に当たるから、厄介だ。
 敵に回す真似は止めようと密かに決めて、彼は深々と溜め息を吐き、寝間着の裾を整えた。
 布団の上で正座して、鶯丸に向き合った。眠っていたところを連れ出された経緯については詳らかになったが、肝心の、何故連れ出されたかについては、ひとつも答えをもらっていなかった。
 こうなった以上、ジタバタ足掻くのも見苦しい。
 潔く向き合う姿勢を示した彼に、太刀は面映ゆげに目を細めた。
 上半身を前方に傾け、頬杖を着いた。口角を持ち上げて不敵な笑みを浮かべたかと思えば、突然背筋を伸ばし、仰け反りながら深く息を吐いた。
「最近、平野は冷たい」
「いきなり、ですね」
 そうやって天井を向いたまま告げられて、平野藤四郎は面食らった。
 前置きもなにもなかった糾弾にヒクリと頬を引き攣らせ、どう反応して良いか分からず、居心地悪そうに身を捩った。
 それは畑仕事に駆り出された歌仙兼定が、小夜左文字に向かって良く言っている台詞だ。平野藤四郎も畑にいる機会が多いので、彼らのやり取りは頻繁に耳に入っていた。
 嫌だ、やりたくない、これは刀の仕事ではないと言いながら、あの打刀は小夜左文字が働いているところを見かけると、文句を言いながらも手伝っていた。時に恩着せがましい台詞を吐いて、短刀に軽くあしらわれては、冷たいだのなんだのと拗ねていた。
 平野藤四郎には理解が難しいのだが、彼らはあれで仲がいい。
 不思議な関係もあるものだと感心した思い出が、不意に頭に蘇り、消えていった。
「冷たいから、冷たいと言っている」
「えええ……」
 苦笑しつつ黙っていたら、繰り返された。
 責められるようなことをした心当たりが浮かんでこなくて、短刀は重ねた足指をもぞもぞ蠢かせた。
 膝に置いた両手ごと左右に身じろいで、正面に向き直った太刀と目を合わせる。表情は普段の彼と違い、至って真剣だった。
 飄々として捉えどころがない、というのが、鶯丸に対する大多数の評価だ。真面目なように思えて不真面目で、律儀かと思えば存外いい加減なところがあった。
 服の裾がはみ出ているなど、可愛いものだ。
 それでいながら急に悟ったようなことを口にして、落差が凄まじかった。
 平野藤四郎も初めのうちは戸惑った。短刀として、高貴な身分にある人々の守り役を引き受けて来た手前、だらしない格好で過ごす太刀を見過ごせなかった。
 お節介を焼くようになって、鶯丸はそれを許してくれた。
 傍にいるのが当たり前になるまで、さほど時間はかからなかった。
 だが近頃は、あまり彼の部屋を訪ねていない。最後に掃除しに来たのはいつだったか、それすらも思い出せなかった。
「お前が来てくれないから、見ろ。この有様だ」
 眉を顰めていたら、太刀が右手で空を薙いだ。衣服が散乱している室内を示して、責任は平野藤四郎にあると断言した。
 けれど脱ぎ散らかしているのは、鶯丸自身だ。部屋の片づけも、掃除も、あくまで短刀が善意でやっているだけであり、仕事として任されているわけではなかった。
 そもそもここは、鶯丸の部屋だ。彼の都合で汚すのなら、綺麗にするのは彼の役目だった。
 ところがそういった一切を棚上げして、悪いのは平野藤四郎と言って聞かない。
 思わぬ説教を受けて、当の短刀は愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「そう言われましても……」
 しばらくここを訪れなかったのは事実だが、夜中に寝床から連れ出してまで言うことだろうか。
 この程度のことで叩き起こされたのだとしたら迷惑極まりなく、鶯丸の常識を疑わねばならなかった。
「俺が嫌いになったか?」
「――」
 返す言葉に苦慮していたら、不意に声を潜めて問われた。
 凛と冷えた空気に乗って、小声でありながらはっきりと聞き取れた。
 射抜くような眼差しに、平野藤四郎の右人差し指が、ぴくっと反応した。だがそれ以外は微動だにせず、短刀はすう、と息を吸い、太刀を見詰め返した。
「そのようなことは、ありません」
「では何故避ける」
「避けた覚えもありません」
「誓えるか?」
「……」
 正面に向いていた視線は、やり取りを続けるうちに段々と下がって行った。
 嘘を言っているのではないと宣誓するよう求められたところで、平野藤四郎は拳を作った。膝を覆う寝間着を握りしめ、湧き起こる感情を必死に食い止めた。
 奥歯を噛み、唇を引き結んだ。丹田に力を込めて、細い肩を小刻みに震わせた。
「鶯丸様は、僕と居ても、楽しくはないでしょうから」
 声を絞り出し、喘ぐ。
 大きくかぶりを振った少年に、じっと見守っていた太刀は驚いた顔で目を丸くした。
「唐突だな」
 先ほどと、立場が逆になった。
 呆気に取られた男が言って、交差させた足首に両手を置いた。丸くなった短刀に身を乗り出して、姿勢を低くし、横から覗きこもうと試みた。
 平野藤四郎はふいっと顔を背け、逃げた。目尻に浮いた涙を荒っぽく削り落とし、深呼吸して、取り乱した件を丁寧に詫びた。
「お見苦しいところを、お見せしました」
 膝から布団に両手をおろし、深々と頭を下げた。すぐには顔を上げず、その状態で数秒間停止して、心が落ち着くのを待って居住まいを正した。
 但し彼の瞳は、鶯丸を写さない。なにもない場所を彷徨って、一定しなかった。
 気まずそうな表情で、肌色は翳っていた。後ろめたいことがあるとひと目で分かる態度を見せられ、今度は太刀が心当たりを探す番だった。
「平野は、俺と居るのは楽しくないか」
 しかし、これといって思いつかない。
 そんな風に受け取られかねないことがあったか考えるが、何ひとつピンと来なかった。
 分からなくて、結局訊ねた。
 すると間を置かず、短刀は首を横に振った。
 ふるふると揺れ動く頭部に合わせ、亜麻色の髪が耳元で踊った。現れては消える白い耳朶に意識を絡め取られて、鶯丸は無意識に伸ばそうとした利き手を、左手で押さえこんだ。
「では、どうしてだ?」
 姿勢を崩し、右肩だけが変に突っ張った状態で重ねて問う。
 平野藤四郎は一瞬だけ顔を上げ、すぐに伏し、表情を隠した。
 声ひとつ漏れ聞こえて来ず、これでは彼の考えが分からない。他者の評価など気に留めたこともなかった鶯丸だが、目の前の短刀にだけは、悪い風に受け止められたくなかった。
 平然としているようで、問いかけが僅かに上擦っていたと気付かれただろうか。
 内心の動揺に睫毛を震わせて、鶯丸は大人しく返事を待った。
「平野。言いたくないか」
 十秒を数えた辺りで焦れて、質問を止められなかった。
 押さえつけていた利き手を解放し、胡坐から正座に作り替えても、沈黙は続いた。
「そうか」
 それが彼の答えだと、納得は出来ないが、理解した。
 深く追求して、困らせたいわけではない。胸に渦巻くもやもやしたものを一旦脇へ追いやって、鶯丸は小さく頭を下げた。
「夜中に、すまなかった」
 もう帰って良いと暗に告げて、背筋を伸ばした。立ち上がり、襖を開いて道を作ってやろうとして、顔を伏す少年が歯を食い縛っている事実に気が付いた。
「平野」
「そうやって、……だから。やっぱり、そうなんじゃないですか」
「平野?」
「でもこうやって、鶯丸様を困らせて、いる、自分が。一番……嫌いです!」
「平野!」
 捻っていた腰を戻し、肩を掴もうと腕を伸ばした。
 それより早く顔を上げて、平野藤四郎は鼻声で喚き、続けて自分自身を掻き毟った。
 爪を立て、皮膚に突き刺した。肉を抉るべく力を込めて、止めに入った太刀にぶんぶん首を振った。
 瞳に涙をいっぱいに溜めて、頬に流すまいと鼻を啜った。上唇を噛み、下顎を突き出して、正座を崩して膝の間に突っ伏した。
 背中を丸め、貝になった。小さくなって、膝立ちになった太刀の接触を拒んだ。
「大包平様といらっしゃる鶯丸様は、いつも楽しそうです」
「なに?」
「僕には、あんな風に笑いかけてくださらない」
「平野?」
 顔を覆い、耳も塞いで、幾分早口に捲し立てた。鶯丸に目を向けず、殻の中に閉じこもった。
 視界を閉ざし、目の前を塞いだ短刀の言葉は低くくぐもっていた。
 拒絶されて、声は届かない。
 古備前の太刀は困惑に眉を顰め、その場にストン、と尻を落とした。
 座り直し、頭を掻いた。後頭部にいくつも円を描き、右を見て、左を向き、肩を落とした。
「大包平が、なにか言ったのか」
 隣の部屋で高鼾中の太刀は、鶯丸と古くからの知り合いだ。天下五剣に勝るとも劣らないと評価されながら、そこに加われなかったことに鬱屈した感情を抱いている太刀だった。
 声が大きく、態度もでかい。懐も広いが、意外に細かいところを気にする事もある。
 自身の物差しに絶対の自信を持ち、何事にも一番にならないと気が済まない。熱血漢で責任感もある男だが、真面目であるが故に融通が利かず、度々騒動を引き起こした。
 傍から見ていると、これほど面白い男はない。
 一緒くたにされて、巻き込まれるのは迷惑だが、観察して楽しむ分にはもってこいだった。なにかしら面白い出来事に遭遇した時などは、彼がいたらどうするだろうと想像を膨らませていた。
 悪い奴ではない。
 だが愚直すぎる所為か、言葉を飾ることを知らなかった。当の刀に自覚がないまま、失礼な発言をしている可能性は非常に高かった。
 平野藤四郎を傷つけるようなことを、彼が言ったとは思いたくない。
 親しくしている刀同士が仲違いするのは、哀しかった。
「いいえ。大包平様は、関係ありません」
「だが、今」
「僕が勝手に、そう思っているだけです」
 ところが読みは外れた。肩透かしを食らった気分で唖然として、鶯丸は拾い損ねた短刀の言葉を、急ぎ掻き集めた。
 鼻を啜る音が二度、立て続けに響いた。
 平野藤四郎は今、どんな顔をしているのだろう。無数に散らばる感情の欠片を積み上げて、鳥の名を持つ太刀はキラキラ眩しい無数の宝石を両手に包み込んだ。
「……つまり」
 先が尖ったものは、軽率に触れたら怪我をする。
 だがその尖った部分は、他よりかなり跪くなっていた。
 慎重に手繰り寄せ、大事に抱きしめた。折れてしまわないよう、砕けてしまわないよう注意して、透き通る欠片を覗きこんだ。
「平野は、俺と大包平が一緒にいるのが、気に食わない、と」
「――違います!」
 核心に近いと思われる場所を、小突いた。
 案の定平野藤四郎は大きく反応し、声を荒らげた。
 ガバッと身を起こし、膝で布団を蹴った。勢いよく身を乗り出して、淡々と言葉を紡いだ太刀に詰め寄った。
 唾を飛ばし、吼えた。激しい怒りを内包し、鋭い眼光で鶯丸を責めた。
 物静かで理知的な、普段の姿とは異なる荒々しさだ。
 喉元に切っ先を突き付けられたような錯覚を抱かされて、鶯丸は堪え切れずに噴き出した。
「ははっ」
 平野藤四郎がこうも感情を剥き出しにすることが、過去にあっただろうか。
 思いがけない発見だと両手を叩き合わせた彼に、憤って歯軋りしていた少年は惚けて目を点にした。
「鶯丸、さま」
「平野は嘘が下手だな」
「そのような!」
 唖然として、茶化すように言われたのには激昂した。
 否定したのを嘘と断じられて憤慨したが、その後に続く言葉はなかった。
 行き場をなくした握り拳が膝に落ち、解けた。小さくてか弱い掌を見詰めて、鶯丸は眩しそうに目を眇めた。
「いい。だいたい分かった。嫌な思いをさせた。すまなかった」
 手を伸ばし、真ん丸い頭を撫でた。寝癖ひとつついていない髪を手櫛で梳いて、後頭部を抱き、引き寄せた。
 短刀は抗わなかった。謝罪された瞬間だけ身を固くして、力なく首を横に振った。
「謝らなければならないのは、僕の方です」
「なぜだ?」
「鶯丸様が大包平様と会える日を、ずっと楽しみにされていたのを、僕は知っているのに」
 頻繁に息継ぎを挟み、平野藤四郎が喘ぐ。
 後悔を口にして涙ぐむ少年を優しく抱きしめて、鶯丸は華奢な背に掌を押し当てた。
 心臓の裏側をそうっと包み、撫でた。とんとん、と赤子をあやす仕草で数回叩き、彼が落ち着くのを辛抱強く待った。
「そうだな。そして俺は、大包平がいない時間を誰と過ごしていたか、忘れていたわけだ」
 合間に囁き、反応を窺う。
 顔を上げた短刀はなぜかムッとしており、涙目なのも忘れて小鼻を膨らませた。
「鶯丸様は、それだけ大包平が来られるのを、心待ちにしておられたのです。そうなって当然です」
「――――」」
 己の軽率さを悔やみ、平野藤四郎の心に寄り添ったつもりが、逆に怒られた。続けて詫びようと思っていたのに、言葉を封じられて、鶯丸は対応に苦慮して目を泳がせた。
 彼の心理が読み解けない。
 こういう時はどう語り掛けるのが正解なのか、千年を越えて存在する付喪神でさえ、さっぱり見当がつかなかった。
 仕方なく黙り、短刀の怒りが静まるのを待った。
「僕が許せないのは、僕自身です」
 やがて平野藤四郎はぽつりと言って、太刀の胸元に額を埋めた。
 力を抜いて寄り掛かり、甘える仕草で頬を擦りつけた。ごろん、と斜めに転がって、鶯丸の膝に身体を預けた。
 猫の子を真似て丸くなり、下唇を噛む。
 血の気が失せて白い足首が寒そうで、鶯丸は捲った布団をそこに被せた。
 短刀の身体を中心に、自身の下半身を布で覆った。窓の隙間から忍び込む空気は冷たくて、もしかしたら雪が降っているのかもしれなかった。
 部屋の中にいるのに、吐く息が一瞬だけ白く濁る。
 熱を求めた指が柔らかな耳朶に触れた瞬間、平野藤四郎がひゃっ、と首を竦めた。
「すまん」
「いえ。大丈夫です」
 冷たかったかと慌てて引き剥がし、どくりと跳ねた鼓動に息を呑んだ。
 慌てて謝った太刀に緩く首を振って返し、細身の少年は淡く微笑んだ。
「ふふ」
 ちょっと前まであんなに怒っていたのに、もう機嫌が直っている。
 この変わり身の早さにも驚かされて、鶯丸は眉目を顰めた。
「平野」
 大包平が本丸に顕現して、彼の生活は劇的に変化した――わけではなかった。だが縁側で日向ぼっこをしながら茶を飲む時間は短くなり、ひと振りきりで過ごす機会は著しく減っていた。
 隣に並ぶ刀が変わることで、それまで縁遠かった他の刀剣男士とも接触を持つようになった。
 気が付けば平野藤四郎と過ごす時間が短くなっていた。
 振り返れば笑いかけてくれた少年が、にわかに遠くなった。
「避けていたわけではない。気が付いてやれなくて、悪かった」
「いいえ。いいえ」
 改めて謝罪して、爪跡が薄く残る頬を労った。
 指先で凹んでいる箇所を辿っていたら、平野藤四郎は首を振り、目を閉じた。
「僕は大包平様のように、鶯丸様を笑顔にできなかった。それだけです」
 掠れる小声で呟いて、横になったまま身じろいだ。凸凹して不安定な寝床で寛げる体勢を探し、曲げていた膝を伸ばした。
 赤髪の太刀がなにかしら騒動を起こす度に、鶯丸は馬鹿をやったとからかい、笑った。腹を抱え、声を上げ、時に涙まで流して横隔膜を痙攣させた。
 平野藤四郎が一緒の時には、まず見ない光景だ。
 彼があんな風にも笑えると、平野藤四郎は大包平がやってきてから知った。
 悔しかったし、哀しかった。
 寂しかった。
 辛かった。
 そんな風に感じてしまう自分が、嫌になった。
 勝手に嫉妬して、勝手に疎外感を覚えた。卑屈な感情が受け入れられなくて、見たくないから一方的に距離を取った。
 心が狭い奴だと、自分でも思う。分かっている。だから自分が嫌いだし、許せなかった。
 訥々と音を紡いで、短刀は口角を歪めた。
「御存じなかったでしょう」
 几帳面で義理堅く、面倒見が良くて、責任感が強い。
 そういう評価を得て来た短刀に、こんな醜くてどろどろした一面があった。
 表に出さないよう頑張ったが、もう無理だ。観念して白状し、呟くと同時に顔を伏した少年を見据えて、鶯丸は目尻を下げた。
「そうだな。知らなかった」
「うっ」
 言って、俯せ気味だった短刀の肩を掴んだ。ぐいっと力任せに引っ張って、強引に身体の向きを反転させた。
 乱暴にひっくり返され、平野藤四郎が顔を歪めた。無理を強いられた関節が悲鳴を上げて、やむを得ず流れに従った直後、視界が一気に暗くなった。
「あ、あ!」
 目の前に迫る影に臆して、咄嗟に手が出た。
 掌の真ん中に柔らかいものを感じて、押し返してからその正体に気が付いた。生暖かい呼気を指の股に浴びせられて、少年はサーッと青くなった。
 鼻から口の一帯を潰されて、鶯丸は不満顔だ。指の隙間から覗く眼は、苛立ちに染まっていた。
「し、失礼を……」
 しどろもどろに謝って、たらりと冷や汗を流す。
 くちづけを阻止された男は深々と溜め息を吐き、苦笑いの短刀の額を小突いた。
「あいた」
「傷ついたぞ、少し」
「申し訳ありません」
 拒否するつもりはなかったが、思わず防いでしまった。
 返す言葉もない少年は首を竦めて小さくなり、肩まで被さっていた布団を引き上げた。
 顎まで隠した彼に、鶯丸は口元を綻ばせた。本気で怒っているのではないと告げて、亜麻色の前髪をサラサラと撫でた。
「なあ、平野」
「はい」
 名前を呼ばれ、少年は即座に返事をした。丸い瞳を頭上に投げて、穏やかに微笑む男の顔に見入った。
「思うんだが、俺はどうやら、お前といると気が緩むらしい」
 柔らかな髪を梳りながら、鶯丸が呟く。
 考えながらの発言はゆっくりで、声色は優しかった。すぐに意味を介せなかった少年は何度か瞬きを繰り返し、真上から覗き込む双眸に照れて布団の端を鼻に引っ掻けた。
 段々と上に移動する掛け布団を呵々と笑い、太刀は一瞬余所を見た。
 その方角に大包平の部屋があるのは、平野藤四郎も承知していた。ふっと太刀の表情が和らぐのを見て、彼がなにを思い浮かべているのかも楽に予想出来た。
 それが叶うくらい、鶯丸の事を見て来た。
 湧き起こったもやもやした感情は、どうやっても消せない。悔しさと腹立たしさが半々に混じりあって、どろっと濁り、嫌な臭いを放っていた。
 こんなものが自分の中にあったのが驚きだった。
 こんなものを抱えている自分が恥ずかしくてならず、惨めで、情けなかった。
「鶯丸様」
「大包平は、良い奴だ。見ていて飽きない。面白い。だがな、少し疲れる」
「つかれ、る」
「ああ。お前も思ったことはないか。なにせ暑苦しい男だ。見ている分にはいいが、な」
 池田輝政に見出されたのをなによりの誇りとしている太刀は、相手が短刀であれ、勝負を挑まれたら受けて立たずにはいられない男だ。
 内容は剣を交わらせるに限らず、飯の早食い競争であったり、潜水の持続可能時間であったり。時には紙相撲に真剣に取り組み、紙飛行機の飛距離を伸ばす術を懸命に模索していた。
 どんなことでも馬鹿にせず、精一杯努力する。
 その姿勢が評価されて、彼は短刀たちの遊び相手として重宝されていた。
 鶯丸はそんな彼らを眺めるのが、好きだ。面白いし、楽しい。だが無理矢理引っ張り出され、巻き込まれるのは御免だった。
 傍観者でいたいのに、大包平はそれをよしとしない。
 思いがけず苦労話を聞かされて、平野藤四郎は小さく、ぷっ、と噴き出した。
 丸めた手を口に当て、頬を緩めた。目を眇めて上を覗けば、太刀は一層優しい顔をして、短刀の目元に影を落とした。
 赤みを帯びた肌を擽り、鶯丸が小さな耳朶を軽く捏ねる。
 くすぐったさに首を竦めた少年は、顎の輪郭を伝い、途中で進路を転じた男の指にハッとなった。
 唇をなぞられた。
 弱い力で二往復し、離れて行く。その行く先を追いかけて、彼は見るのではなかったと後悔した。
 微熱を残す人差し指を、鶯丸は自身の唇に重ねあわせた。静かに、という合図に見せかけて右に、左に泳がせて、平野藤四郎が見ている前で不遜に口角を持ち上げた。
「お前と居ると、疲れない」
 詰まることなくすらすらと述べた彼は、正面を向いており、視線は交錯しなかった。
 すらりと整った顎の輪郭を見上げて、短刀は一度だけ頷いた。耳元で髪を梳く指に時折意識を寄せて、猫になってゴロゴロと喉を鳴らした。
 暖かな熱に擦り寄り、瞼を閉じた。大きな掌に自分から頬を埋めて、心を埋めた優しい光に顔を綻ばせた。
「はい」
 平野藤四郎は、大包平にはなれない。
 だが大包平だって、鶯丸にとっての平野藤四郎にはなれない。
 それで充分だった。
 比較して落ち込む必要などなかったと、彼は薄れて行く黒い感情に手を振った。
 これは完全に消えたりしない。しかし今しばらくは、蘇ることもない。
「さて、では寝るか」
「あっ」
 すっきりした顔になった短刀に相好を崩し、鶯丸は突然立ち上がった。膝を枕にしていた平野藤四郎は振り落とされて、直後に周囲が闇に染まり、二度驚いた。
 もそもそと身じろぐ音がして、一度は遠ざかった体温がすぐに戻ってきた。
「やれやれ。すっかり冷えてしまったな」
 部屋の灯りを吹き消して来たと理解して、いつだって唐突な太刀の行動に苦笑を禁じ得ない。
「知ってますか。短刀は、懐に入るのが仕事です」
「そうだったな。では存分に、温めてもらうとするか」
 冗談めかせて囁けば、布団を被り直した男の腕が伸びて来た。背中に回し、緩い力で拘束して、狭い場所に平野藤四郎を閉じ込めた。
 この檻が、殊の外心地良い。
「明日、お掃除しましょう」
「よろしく頼む」
「鶯丸様も、一緒にやるんです」
「それは……つかれるな……」
 散らかり放題の部屋の件を思い出し、目を瞑ったまま囁く。
 前言撤回とばかりに呻いた太刀の腕を枕にして、短刀はこみ上げる笑いを堪えた。

限りなき思ひのままに夜も来む 夢路をさへに人はとがめじ
古今和歌集 恋3 657

2017/12/29 脱稿